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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

さて、キリストとの合一というテーマがいかに重要なものであるかを示すために、オースチンスパークスの論説を改めて引用しておく。

キリストとの合一」第二章 彼の地位――御父の愛によって(7)

 この合一は役職的なものではありませんし、法的・形式的なものでもありません。それは愛情によります。ここで支配的なのは強制ではありません。強制しても愛は決して止まることはなく、常に進み続けて究極的可能性に至ります。

 キリストとの合一はこのような性格のものです。なぜなら、それは神の愛の中心だからです。もちろん、あなたはこれらすべてに関して静かな黙想を大いにしなければなりませんし、私たちがキリストに関して述べていることをすべてクリスチャン生活と関係づけなければなりません。

 「彼が愛する御子の王国の中に移して下さいました」(コロ一・一三)。この側面――「彼の愛する御子」――だけでも驚くほど素晴らしいですし豊かです。キリストとの合一は私たちをこの立場に、この領域の中にもたらします。

 ああ、まるで神の愛は彼が見い出される善の程度や悪の程度によって等級が分かれているかのように、この愛を等級付けして考えないようにしましょう。あなたや私に対する彼の愛は、彼が御子に対して抱いておられる愛です。これがその啓示です。キリストに結ばれることは、御父の愛する御子として彼が持っておられる御父との関係の完全な寸法の中に包まれることです。「まさに神として彼が持っておられる御父との関係の完全な寸法の中に」と私は述べていません。人として、御子イエス・キリストとしての彼について述べているのです。


   さて、牧師を介さずにキリストとの霊的合一に達するというテーマは、暗闇の勢力にとって、よほど致命的なウィークポイントのようである。

 なぜなら、この話題になると、とりわけ激しく入念な誹謗中傷が当ブログに向けられて来るからだ。かえってそのことにより、このテーマが神と悪魔との両方から見て、極めて見逃せない重要性を帯びた喫急の課題となっていることが分かる。

 しかし、それも当然である。なぜなら、神の眼差しは、キリストとエクレシアとの結婚、小羊の婚礼にこそ、注がれているからだ。だから、神の御思いの中心にあるテーマが、暗闇の勢力にとって衝撃とならないはずがない。

 ちなみに、当ブログに誹謗中傷を繰り返している人々(犯罪行為のため捜査中)の様子を見れば、どんなにキリスト教のことを知らない世間の人々でも、教会に所属している信者が、教団教派に属さない信者を、これほどまでに徹底的に攻撃・中傷している様子を見て、プロテスタントがいかに危機的状況に陥っているかを察知し、絶対にこのような人々が集まっている教会になど足を向けたくないと考えるようになるものと思う。

 この人々は、当ブログの内容に同意できないならば、読まずに放置していれば良いだけなのであるが、同じ教会に属している訳でもなく、顔を合わせたこともない人間の執筆するこのブログに対して、これほど執拗に権利侵害を繰り返さざるを得ないのは、彼らがどうしても、キリスト教信者を、牧師や司祭といった目に見える宗教指導者に隷従させて自由を与えず、そこから出ようとする人間に徹底的な妨害を加えずにはおかないカルトと化しているためである。
 
 筆者は訴訟を通して、今日のプロテスンタントの諸教会が、いかにカルト被害者救済活動の側から多数の訴訟をしかけられて、制圧され、陥落されて行ったかという過程に詳しく触れた。もはや公然と抵抗しているのは、当ブログだけとなりつつあることも述べた。その後、実際に、プロテスタントは恫喝されて完全に陥落されたも同然の陥っている。

 しかし、こうして当ブログが最後まで信仰の証しを持ち続けている以上、カルト被害者救済活動という反キリスト的勢力が、どのような方法を用いて、プロテスタントの諸教会や信者を恫喝し、彼らの証しを地上から取り去り、自らの支配下に置いて制圧して来たかという証拠は、公然と記録として残され、白日の下に晒されることになる。

 掲示板においても、当ブログに関する中傷を広めているのは、間違いなく、この勢力である。彼らはまさに黙示録に登場する「獣」の霊に導かれた人々であると言えよう。彼らは、本質的に人殺しである。今までにも、多くの人々を助けると見せかけながら、精神的殺人を繰り返し、死へ追いやって来たのであろうが、何とかして当ブログに対しても、信仰の証しを取り去るきっかけ掴みたいと欲望と執念を燃やし、執拗な言いがかりを繰り返しているのである。

 だが、神は竜に追いかけられた女を荒野へ逃がされたように、汚れた霊の持ち主どもによる迫害から、筆者を助け出されるであろう。

 さて、キリスト教以外の宗教にも、巫女などを含め、神に仕えることだけを職業とする人々が存在する。また、昔の仏教では、多くの僧侶に妻帯が禁じられていた。もちろん、キリスト教でも、昔の宣教師の多くは、神に身を捧げて奉仕に専念して生きるために、あえて伴侶をもうけず、自分の家庭を持たなかった。
 
 ところが、今日、キリスト教の目に見える教団教派では、教会は牧師一家(妻だけでなく子供や孫に至るまで!)を金銭的に支えるための手段と化し、信者らは牧師一家を養うために重い献金を課されてあえいでいる。

 そして、当ブログのような場所で、既存の教団教派に属さず、宗教指導者に頼らず、ただ見えない神にのみ仕えて生きると宣言すると、正体不明の信者らが、そんな考えは絶対に許せない、トラウマの産物だ、精神病だと叫び、憎しみに燃えて、既存の教団教派とその指導者を擁護すべく、引きずりおろそうと押し寄せて来るのである。

 こういう現象が起きているのは、キリスト教の既存の教団教派が、目に見える宗教指導者に信者を縛りつける危険なカルトと化しているためで、これまでは、思想面から、そのことを詳しく論じて来たが、現実に起きている出来事を見れば、それ以上に説得力のある材料はないことであろう。
 
 それはかつて天皇皇后を現人神とみなし、これを拝まない人々を、国民同士で攻撃し合って排除していたのと構図は同じである。庶民はその当時、天皇など見たこともなく、全く関わりのないところで暮らしていたにも関わらず、「天皇は神である」と思い込むことによって、自分自身も「神々の子孫」であると己惚れ、己を誇ることができたのである。

 そこで、天皇崇拝に陥った人々は、高慢になって、天皇を拝まない人を見ると、自分が否定されているかのように怒りを燃やし、密告したり、特高警察に売ったりして、率先して集団的に弾圧・排除した。その直接の動機は、「神国日本」のルーツを否定する者は、神聖なる臣民の一人である「俺様」を否定しているのだから許せない、という、自分が面子を潰され、プライドを否定されたことへの憎しみと怒りであったろう。

 これと同じように、今日のプロテスタントおよびカトリックでは、聖職者(司祭や牧師)が、信者のルーツを神聖に見せかけるための偶像と化している現状がある。かねてより、「牧師先生と呼ばれないと怒り出す牧師がいる」と言って呆れていた人がいたが、今やインターネットが普及して、牧師を拝まない「不届きな信者」は、牧師の下手人である無数の信者たちが、掲示板で匿名で集団リンチして葬り去ってくれる便利な時代となった。牧師はこうして気に入らない信徒を自分の手を汚さずに葬り去れるのだから、何と楽な時代だろうか。

 こういうわけで、宗教指導者という偶像に頼らず、真に聖書を自分で紐解いて理解し、なおかつ、キリストとの真実な霊的な交わりに入れられ、神を知りたいと熱心に願い、そのために、自分の身をフルタイムで捧げ、生涯を投じようとする信者が現れると、サタンにとっては耐えられない脅威となるようで、猛攻撃をせねば居ても立っても居られなくなるようなのだ。

 おそらく、筆者が神学校に行くと宣言しても、誰一人バッシングするものはないであろうが、宗教指導者に頼らずに信仰に生きようと宣言すると、それによって傷つけられる人間など、誰一人いないのに、何の利害関係にもない人々から、考えられないようなバッシングが起きて来るわけなのである。

 それはなぜかと言えば、まず第一に、一人一人の信者が、直接、キリストに連なり、真理を知るようになると、聖職者だけが真理を知って、これを信者に正しく伝えることができるという彼らが築いて来た幻想が崩れてしまうからだ。さらに、この指導者たちが、実は神を知らないのに、知っているかのように偽って、信仰に生きていないのに、篤い信仰を持っているかのように見せかけて来た実態が明らかになってしまう。
 
 もちろん、信者が誰でも直接、御霊に教えられて、神の御言葉を学ぶようになると、当然ながら、聖職者と呼ばれる人々は、献金を払ってくれる信者たちに去られて、失業することも免れられない。何よりも、彼らの権威が否定される。

 だが、指導者たちが失業すること以上に、悪魔にとって脅威なのは、目に見える人間を拝むことは、人類が、霊的割礼を受けたことのない、自分の生まれながらの肉的なパワーを拝んでいるのと同じなのだということを、多くの信者たちが知ってしまうことである。

 今日のプロテスタントのほとんどの教会では、十字架はただ人類の罪の悔い改めのためとしか教えられず、人間の生まれながらの肉の堕落については、語られることもない。肉に対する十字架の死の必要性などまず教えられない。

 数多くの異教では、人類の堕落した生まれながらの肉的な力を、子孫繁栄をもたらす力だと言って、美化し、誉め讃えている。しかし、他方では、この力が、制御できない粗野で荒々しい自己保存・自己拡大の欲望として、終わりなき戦争、殺戮、暴力、虐待に利用され、弱い者たちが踏みにじられて、言い知れない苦悩をこうむっている。

 聖書の神は、人類が堕落した肉的な生まれながらのパワーに生きているままでは、罪と死の法則に支配されているだけで、決して神に受け入れられ、神に喜ばれる聖なる子供たちとはなれないことを知っておられた。

 そこで、神はご自分の選ばれた人々に、堕落した人間の肉なるパワーに対する霊的死の宣告として、割礼を命じられたのである。それは、人類が、己の誇り、頼みとしている力が、汚れた悪しき力であって、彼らがその堕落した生まれながらの力に死んで、神によって上から与えられた清い力によって生かされることにより、神の民とされるためであった。

 主イエスが地上に来られて、十字架にかかられて死なれたことにより、肉に対する霊的死は完成に達した。そこで、もはやキリスト教信者は今日、割礼を受ける必要はないが、その代わりに、絶えず主と共なる十字架の死に自分を同形化し、自分自身の古き肉の情欲を十字架で死に渡す必要がある。その霊的死を帯びた時、初めて十字架の復活の命が、その信者の中に働くのである。

 このように、聖書の原則は、まずは信者が己が肉的な力に対して、霊的死を帯びるところから始まる。男であれ、女であれ、自分の生まれながらのセルフに対して死なねば、復活の命にあずかることはできない。

 しかし、目に見える指導者を立てている教会は、信者に見えないキリストを礼拝しているように見せかけながら、こっそりと目に見えるものを拝ませることで、本質的には、キリストの十字架を否定して、生まれながらの肉的な力、十字架の霊的死を経ていない、滅びゆく目に見える被造物の堕落したパワーを、あたかもそのまま神聖なものであるかのように、誉め讃えさせ、拝ませているのである。

 プロテスタントの諸教会が、カルト被害者救済活動に屈してしまったのは、結局、諸教会の目に見える指導者が、この運動の支持者らと同じように、堕落したアダムの命から来る自己保存願望を究極の目的とし、十字架の死を経由しておらず、霊的割礼を受けておらず、目に見える生来の自己の力により頼んで、神の聖に達しようとしていたからなのである。

 このように、今日、目に見える指導者に信者を依存させ、それに緊縛するプロテスタントの制度(牧師制度、教会籍)は、見えないキリストの支配に悪質に敵対するものとなってしまった。当ブログは十年ほど前からそのことを指摘しているが、この十年間の間に、これらの制度にしがみつく人々の堕落は、あまりにも目に余るものとなっていることが誰の目にも明白である。
 
 だが、新約聖書の原則は、一人一人の信者が直接、キリストに連なり、御霊から教わるというものであるから、信者が宗教指導者に属さないで信仰生活を送ることは、奇妙でないどころか、むしろ、当然である。

 そこで、読者には、カトリックであろうと、プロテスタントであろうと、目に見える指導者のいる教会に、これから先、決して所属しないことを勧める。当ブログに起きていることを、目を開いてよく見てみることだ。そうすれば、当ブログにバッシングを加えている人々が、絶対に敬虔な信仰を持つ主の民ではあり得ないことが分かり、このような人々が占めている目に見える建物の中で、まことの神を礼拝できるなどという考えは消え去るであろう。

 彼らが拝んでいるものは、聖書の神ではなく、むしろ、悪魔であり、彼らの指導者は、先生というより、獣と呼ばれる方がふさわしい。そこで、もちろんのこと、カルト問題を扱っている様々な「専門家」を名乗る宗教指導者にも、悩み相談など、絶対にしないことを勧める。なぜなら、そこであなたが話した内容は、あなたがその団体を去ろうとする時に、当ブログが受けたのと同じような形で、陰湿なバッシングのために徹底利用されるからだ。

 ちょうど派遣会社が外国人技能実習生を劣悪な環境と考えられないほどの低賃金で働かせるために、パスポートをあずかって逃げられないようにするのと同じく、情報は信者を人質にするための手段なのである。

 さて、もう話してしまったという人もいるかも知れない。すでに所属している信者はどうすれば良いのかという問いもあろう。これに対する聖書の答えは、後ろを振り返るな、上着を取りに戻ろうとするな、というものだ。

 もしも、イエスの次の御言葉を、現代にも通じるものとして受け取るならば、「荒らす憎むべき者が聖なる場所に立っている」今、このように汚れた者どもに占領された神殿に、自分の荷物を取りに戻ろうとすることは、百害あって一利ない。

 彼らの元から出て行き、一切の関わりを断つことである。その上で、主だけを仰いで生きることである。

 すなわち、反キリストに属する不法の子らが占領した目に見える礼拝堂になど、いかなる未練も持たず、エジプトに置いて来た宝になど一切目もくれず、一目散に、前へ向かって走ることだ。ひたすら、上にあるものを求め、目に見える都ではなく、天の都を目指して走ることである。

 キリストに受け入れられるための方法は、主と共なる十字架を経て、心に割礼を受け、この世と自分自身と悪魔に対して死んで、らくだが針の穴を通るように、御言葉への信仰以外には何も持たずに、貧しいやもめのように、主の辱めを身に負って、宿所の外に出て、彼のみもとへ行くことである。この世に未練を持てば、待っているのは、ロトの妻の運命だけである。

わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19-20)

「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っていおいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:16-25)

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

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☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

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