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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラテヤ2:19-21)

さて、判決を思うと言い知れない喜びが込みあげてくる。あまりにも嬉しくて、同じ言葉しか書けない。おそらく、判決を受け取った後も、生涯に渡り、この喜びは続き、忘れ得ぬ出来事として心に刻まれるであろう。予め関係者に幾度も深く感謝を述べておきたい。

このようにすがすがしい気持ちで、決着を迎えられることは、本当に神の恵みである。

筆者はこの戦いを立派に戦い抜いて、すべての責務を果たした。必要な努力はすべて払った。協力してくれたある人は、「そんな素敵な裁判があるんだね」と、顛末を聞いて感心していた。

だが、今回の戦いにおいて真に問われたのは、当ブログが標題に掲げている通り、筆者が「私」に立つのか、それとも「キリスト」に立つのか、という事実であった。

当ブログは2008年に始まり、2009年に暗闇の勢力から激しい争いをしかけられ、それ以来、ずっと戦いの最中にある。その間、暗闇の勢力は、筆者の名誉を傷つけ、筆者の様々な個人的権利を侵害し、かつ、侵害すると脅すことで、筆者が自分自身を惜しみ、「私」の利益を守るために、この信仰の戦いを途中で投げ出して退却するよう、再三に渡り促して来た。

もしもこのブログがただ筆者の趣味の披露が目的で開設されたものであれば、筆者が「私」を擁護して立ったところで、それは罪にはならなかったであろうし、このような迫害に立ち向かってまで続行する意味もなかったはずだ。

だが、当ブログは聖書の御言葉の正しさを公然と世に証しし、神の国の権益を擁護するために存在しているわけであるから、人の生まれながらの肉なる要素に頼るわけにはいかない。

自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:25-26)

もしも筆者が自分の命を愛するのであれば、様々な脅しや権利侵害に立ち向かって、信仰の証しを続けることなど、到底、不可能であり、困難や、迫害が起きれば、早々に退却するしかない。だが、そうして途中で退却して、神を捨てるくらいならば、初めから何もしない方が良いと筆者は確信している。

今、筆者がどんなことよりも望むことは、父なる神のおられる聖所で、主と共に過ごし、神を礼拝する幸いな人生を送ることである。この世の人々からの頼りなくはかない賞賛や栄誉と引き換えにそれを捨てることなど、断じてできない。

そこで、筆者は肉を頼みとすることを徹底的に拒み、バアルの預言者の前に立ったエリヤと同じく、今でも祭壇に何度も水をかけ、「あえて事を難しく」している。

筆者は人前に、聖人のような人間としてではなく、罪人の代表格として立ち、かつ、神の御前にも、敗れ口に立って執り成す者として進み出たいのだ。

そして、イエスが門の外で辱めを受けられたように、今日の背信の教会が向けられるべき非難と蔑みの言葉を身に背負い、営所の外で苦しみを受けつつ、見えない都へ向かって進んでいく。

これは義人ヨブが神の御前で、「私は塵灰の中で悔い改めます」と述べたのと同じ姿勢である。ヨブに悔い改めねばならない罪があったわけではない。だが、神はヨブに人類の代表として、信仰者の代表として、神の御前にへりくだり、全被造物が塵に過ぎないことをあえて告白し、ただ神にのみ栄光が帰されるよう、己の義を完全に投げ捨てるよう求められた。

アブラハムとサラが百歳になってからようやく与えられた約束の子イサクも、一度、燔祭の犠牲として、霊的に屠られ、死をくぐらなければならなかった。

信仰の先人たちはみなこの十字架の死と復活という同じ過程を辿ったのである。

だから、筆者も、祭壇に自分を横たえ、通常人が誇りとし、頼みとするすべてのものが無価値とされ、死に渡されることに同意し、「私」にまつわるすべての利益を、完全に主と共なる十字架で投げ捨てる。

その結果として、そこに死と復活の原則が働き、失われた「私」の代わりに、「キリスト」が生きて下さる。この方は義なる方であって、決して罪に定められることがない。

神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられた良い香りです。

滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。

わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」(Ⅱコリント2:14-17)

神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に加えて下さり、私たちを通じて、至るところに、キリストを知る知識の香りを漂わせて下さる――この霊的事実は、今回の争いの決着にも現れるだろう。

表向きには、司法の争いは、すべて個人の人権を擁護するために起こされるものであるが、筆者は己の命を擁護するために、この争いを起こしたわけではなく、神の御前に己を完全に投げ捨てることによって、逆説的に、再び命を得て、勝利を勝ち取ろうとしている。

今回、こうした信仰的な議論を深く理解できる裁判官が、この事件を担当してくれたことにも、神の大きな采配が働いている。以前にも書いたように、市民は訴えを出すに当たり、裁判官を選ぶことはできない。だが、神は、人の知恵や思惑を超えたところで、この事件に最もふさわしい人を采配して下さったと信じている。

これまで当ブログには、裁判官の書いたものとして、被告からの移送申立が却下された書面を掲載しているが、それを読んでも、この裁判官が、この世の人でありながら、いかにこの事件の核心部分を的確にとらえているかが読者にもよく分かるはずだ。

筆者はこの文章を読み、そして、口頭弁論の進め方などを見て、この裁判官ならば、間違いなくこの紛争を正しい結論に導くことができるという確信を、かなり早い段階で心に得ていた。その確信があればこそ、あらゆる困難に立ち向かい、また、反訴や控訴の脅しに屈さず、不本意な和解を退けて、判決にたどり着くまで、根気強く戦い通すことができたのである。

ただし、掲示板に対する捜査や、その他の刑事事件は今回の裁判結果には反映していないため、こうした事件の解決はまだまだこれからである。
 
読者も知っている通り、元来、当ブログでは、信仰に関する議論を、信仰のない人々の前に持ち出すことには反対であったので、それにも関わらず、このような争いを起こさねばならなくなったことは、それ自体が極めて不本意であると言う他ない。

だが、今回の裁判では、筆者は予想だにしていなかった大きな喜びに満ちた収穫を得ることができた。この紛争は、繰り返し述べて来たように、最初から最後まで、すべてが信仰の証しに満ちており、関わる人々の心に、神が直接、働きかけて、ご自分の偉大さを現して下さったからである。

そこでは、筆者の生まれながらの人としての誇りではなく、ただ神の栄光だけが証しされた。このことに筆者は本当に満足している。

なぜなら、私たちは、自分自身を証ししているのではないからだ。この方だけが――この見えないお方だけが、我々の希望であって、栄光を受けられるべき唯一の方であり、私たちはこの方の栄光、この方の利益のために、世から召し出され、贖い出された民なのである。

だから、筆者はキリストと共に喜んで十字架で自分を死に渡し、もはや生きているのは私ではない、と宣言する――。

こうして、世の人々の前で、聖書の御言葉の正しさを証明し、そして、神が筆者を愛して下さった、その愛の大きさを、証明することができたことは、他のどんなことにも代えられない恵みである。

今、筆者はこの訴えを出したがために、以前にもまして様々な権利侵害と中傷をこうむっているが、そのことに一切、筆者は落胆しておらず、読者もまた落胆などする必要がないことを述べておきたい。

神はすべての事柄を見ておられ、ご自分の子供たちを擁護するために必要な措置をなして下さる。神は間もなく、ヨブのために失われたすべてを回復して下さったと同様に、筆者の失われた利益をも余すところなく回復し、花嫁の帯の飾りのように、以前にもまして多くの宝で飾って下さるであろう。

従って、筆者を蔑んだ人々は、裁判結果もさることながら、そうした事態の成り行きを見て、唖然とすることであろうと予想する。それによって、また改めて私たちの主イエス・キリストの偉大さと、愛の深さが証明されることになる。

この紛争を通して、もう一つ明らかにされたことは、今日の目に見える教会というところが、いかに信仰を持たない人々の危険な運動によって占拠され、聖書の正しい信仰に立脚しなくなり、この世の人々から見ても、近寄ることが危険な場所になりつつあるかということである。

筆者はキリスト教徒であり、聖書の教えが正しいことを、揺るぎない確信と共に、公然と証しており、これからもその証を続けるつもりであるが、読者には、当ブログに降りかかった数々の出来事をよく見て、目に見える教会や、目に見える宗教指導者には、これからも決して近づかないように改めて警告したい。

そして、改めて、目に見えるものでなく、見えないお方に目を注いで歩むよう読者に勧める。また、私たちがこうむっている艱難を見て、落胆などしないでもらいたい。それは非常に一時的で軽いものでしかなく、私たちには、これを耐え忍んだことの報いとして、比べものにならない重い永遠の栄光がすでに用意されているからである。

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Ⅱコリント4:16-18)

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