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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

夕暮れの富士山を眺めながら…

先日、初めてお会いしたある姉妹と共に、病の床に臥せっている姉妹を訪ねました。病気のために、自由な身動きや、言葉を奪われた方の前に出る時以上に、私が 自分の無力や利己主義を感じさせられる瞬間は他にありません。普段、信仰の証を語っているつもりでいながら、私の言葉には、今まさに苦しみに耐えておられ る方を前にして、その心に届くような真実さがあるでしょうか。いいえ、むしろ、お見舞いそのものが、きっと私の一方的な自己満足によって成し遂げられてい るのに違いありません。

にも関わらず、主はその姉妹との交わりを通して、大きな祝福と恵みに私をあずからせてくださいました。救いはただこの一点にあります、私たちは自己の努力 によって互いに結び合わされたのでなく、キリストの頭首権に服し、十字架を信じる信仰を通して、共に一つの御身体とされているのです。自分を見つめて、恐 れおののく瞬間にも、ただキリストに私たちの心を明け渡し、交わりを支配していただき、私たちの全てとなって下さるよう祈り求めることができるのです。

姉妹の容態が悪化しているという情報を受け取る中で、果たして、今回、面会は許されるのだろうか、という不安がありました。しかし、感謝なことに、今回、 私は前回よりももっと良い状態で姉妹と交わることができたのです。病室において、三人は、それぞれはっきりした意識を保ちながら、共に、神に讃美と、祈り と、礼拝をささげることができました。伴奏もなく、練習もほとんどできませんでしたが、「十字架のかげに」、「みつばさのかげに」を歌いました。おそらく は、渾身の力を尽くしてでしょう、病にある姉妹は、礼拝の間、自らの力で、床の上に起き上がられました。主の御前にどんな努力を払ってでも、居ずまいを正 したいという姉妹の心からの敬虔さを見せられたような気がしました。

どんなにか苦しい体調の中だったか分かりませんが、姉妹は会話に応じてくださり、時にうなずかれ、時に驚かれ、笑顔をも見せられました。私が就職の報告を すると、笑顔で祝福してくれました。こんな時になって、初めて、私は姉妹と和やかな雰囲気のうちに、交わることができたのです。誰がこのような恵みが与え られると想像できたでしょうか。姉妹の細くなった体は、彼女が今、耐えておられる苦しみの深さを物語っていましたが、それにも関わらず、姉妹が主だけを見 上げ、主と共に歩んでおられることを確かめることができ、姉妹の喜びに私も共にあずかることができたのです。

さらに、お見舞いを終えた後、富士山の見下ろせる病院の喫茶店で、その日、共にお見舞いした姉妹と多くのことを語りました。残念ながら、私が不慣れな手つ きで携帯で撮った写真の全ては操作ミスのために消えてしまいました。けれども、その夕暮れ時の風景の美しさは、その日の礼拝のうるわしさと共に、消えるこ となく私の心に残っています。会話の中で、回りくどい説明の言葉は何一つとして必要ありませんでした。主が生きて働いておられるがゆえに、私たちは今の状 況の中で、出会うことができたのだと思わされました。私たちが健康な時も、病にある時も、どんな状況においても、神は私たちの内に、十字架にかかられ栄光 を受けられたキリストの御霊を働かせ、私たちの内にキリストを実際に形作ることができるのです。

私たちがキリストのあがないを通して、罪赦されて、信仰によって義とされ、神の命によって生かされる神の子とされた以上、まことに全てのことにおいて主が 時を備えて、私たちのために働いて下さり、口にしていない願いをさえ含めて、生きるに必要な全てを満たして下さるばかりか、喜びだけでなく、悲しみも、苦 しみも、全てのことを、私たちがキリストに似た者へと変えられるために有益な経験として働かせて下さるのです。主のなさることは時にかなって美しい。どん な時も、この真実なるお方を信じることができるとは、何という恵みなのでしょうか。

ローマの信徒への手紙8章28節-33節(新共同訳)
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって 知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。

神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。では、これらのことについて何と 言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死 に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださ るのは神なのです。」


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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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