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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(25)―人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。

「人の子よ、ティルスの君主に向かって言いなさい。

主なる神はこう言われる。お前の心は高慢になり、そして言った。『わたしは神だ。わたしは海の真ん中にある神々の住みかに住まう』と。しかし、お前は人であって神ではない。ただ、自分の心が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ。

お前はダニエルよりも賢く、いかなる奥義もお前には隠されていない。お前は知恵と悟りによって富を積み、金銀を宝庫に蓄えた。お前は取り引きに知恵を大いに働かせて富を増し加え、お前の心は富のゆえに高慢になった。

それゆえ、主なる神はこう言われる。お前は自分の心が神の心のようだと思い込んでいる。

それゆえ、わたしはお前に対して諸国の中でも最も暴虐な外国人を立ち向かわせる。彼らはお前の知恵の誇りに向かって剣を抜き、お前の栄華を汚し、 お前を陰府に突き落とす。お前は海の真ん中で切り倒されて死ぬ。

お前は自分を殺す者の前でもなお、『わたしは神だ』と言い張るのか。お前は人であって、神ではなく、切り倒す者の手にある。

お前は割礼のない者として、外国人の手にかかって死ぬ。まことにわたしがこのことを語った」と主なる神は言われる。

主の言葉がわたしに臨んだ。 「人の子よ、ティルスの王に対して嘆きの歌をうたい、彼に言いなさい。主なる神はこう言われる。

お前はあるべき姿を印章としたものであり
知恵に満ち、美しさの極みである。

お前は神の園であるエデンにいた。
あらゆる宝石がお前を包んでいた。
ルビー、黄玉、紫水晶
かんらん石、縞めのう、碧玉
サファイア、ざくろ石、エメラルド。
それらは金で作られた留め金で
お前に着けられていた。
それらはお前が創造された日に整えられた。

わたしはお前を
翼を広げて覆うケルブとして造った。
お前は神の聖なる山にいて
火の石の間を歩いていた。

お前が創造された日から
お前の歩みは無垢であったが
ついに不正がお前の中に
見いだされるようになった。

お前の取り引きが盛んになると
お前の中に不法が満ち
罪を犯すようになった。
そこで、わたしはお前を神の山から追い出し
翼で覆うケルブであるお前を
火の石の間から滅ぼした。

お前の心は美しさのゆえに高慢となり
栄華のゆえに知恵を堕落させた。
わたしはお前を地の上に投げ落とし
王たちの前で見せ物とした。

お前は悪行を重ね、不正な取り引きを行って
自分の聖所を汚した。
それゆえ、わたしはお前の中から火を出させ
お前を焼き尽くさせた。
わたしは見ている者すべての前で
お前を地上の灰にした。

諸国の民のなかで、お前を知っていた者は皆
お前のゆえにぼう然とする。お前は人々に恐怖を引き起こし
とこしえに消えうせる。」 (エゼキエル28:1-19)
 
ティルスの王に対するこの宣告は、サタン(ルシファー)に対するものであると言われている。

聖書は、神が人間に向けて与えられた約束の書であるから、神が人類を創造される前に、神と被造物である御使いたちとの間で何が起きたのかはほとんど記されていない。

しかし、以上のくだりは、人類の創造前もしくは創造後に、神と悪魔との間で起きた出来事――サタンの堕落という出来事の一端を明らかにするものであるから興味深い。

ちなみに、人類が創造される前の時期(プレ・アダミック・エイジ)については、ほとんど明らかになっていない。

たとえば、サタンは、聖書で最初に姿を現すときには、すでに神に背いて堕落した存在となっていたが、なぜ人類をそそのかすに当たり、悪魔は蛇の姿を取って現れたのか。これは大きな疑問だろう。この時点で、悪魔は体を持たなかったことが分かる。

だが、創造された当初から、サタンに体はなかったのだろうか?

「お前はあるべき姿を印章としたものであり

知恵に満ち、美しさの極みである。」と言われていることを見れば、サタンには創造当初、美しい容姿があったのではないかと思われる。

そして、この表現は、神が人をご自分に似せて造られたというくだりに似ている。サタンは創造当初、神への従順を表す完璧な被造物であった。

しかし、サタンは高慢になり、神に背いて堕落したため、

「それゆえ、わたしはお前の中から火を出させ

 お前を焼き尽くさせた。
わたしは見ている者すべての前で
 お前を地上の灰にした。」とされる。

神に背いて堕落したがゆえに、サタンは自分の体を焼き尽くされ、美しかった容貌を失った、という風に理解できる。

こうして、サタンの体は灰燼と化した。それだからこそ、自分の体を持たないサタンは、人類を唆すに当たって、地上の生き物を利用せざるを得なかったのではないか? 

「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。」(創世記3:1)と書かれているのを見れば、悪魔が蛇の姿を取って現れたのは、堕落した知恵(狡猾さ)と大きな関係があったことが分かる。

蛇が狡猾な生き物と言われてもなかなかピンと来ないが、世界の実に多くの古代宗教が、蛇信仰と結びついており、ここで言う「狡猾さ」には、シンボル的な意味があると考えると分かりやすい。

たとえば、グノーシス主義では、蛇が脱皮することから、蛇は終わりがないという概念を指すものとして、聖書の言う「永遠」とは全く異なる意味で、「誕生」と「死」とを一つに結びつける循環のサイクルを表すシンボルとして利用された。そういう意味で、蛇そのものが「堕落した知恵(詭弁)」の象徴だとみなせないこともない。
 
ティルスの王への宣告を読む限り、サタンが創造当初、備えていた2つの特徴とは「美」と「知恵」であったことが分かる。

「お前はあるべき姿を印章としたものであり
知恵に満ち、美しさの極みである。」

「お前の心は美しさのゆえに高慢となり
栄華のゆえに知恵を堕落させた。」

美しさ、知恵に、富と成功が加わったとき、高慢さが生まれ、サタンの知恵は堕落した知恵となった。堕落した知恵とは、一言で言えば、不正を行っても、これを不正と認めず、神の目に自分をごまかそうとする欺きのことである。

従って、サタンの知恵(狡猾さ)とは、欺きのテクニックそのものであると言えよう。

それは自己の不正を覆い隠し、正当化するために作り出される終わりなき詭弁なのである。

その詭弁とは、「嘘」と「まこと」の融合、つまり、対極にあるものの融合であり、蛇とはその象徴である。本来は融合できるはずのないものを、いかに融合できるかに見せかけるかが、サタンの堕落した知恵の基本である。
 
そのようニ詭弁を駆使して悪事に悪事を重ねたサタンは、誰もが見ている前で、神の裁きを受けて、体を焼き尽くされて消失した。見ているすべての者たちが、それに恐怖を感じたという。その終わりはバビロンの終わりに重なる。

* * *

さて、村上密が書いている、

悪い想定は呪いの一種」だと。

「悪い想定を何度も他人に語るのは呪いか。呪いの一種である。心配性の人には悪影響が出ることもある。なぜなら、普段でも心配事に向き合っているからだ。自分からではなく、他人から悪い想定を何度も聞かされたら、たまったものではない。毎日心配して生きているのに、他人がつらい重荷を意図的に負わせるからである。あなたは不幸な目に遭う。あなたは早く死ぬ。あなたは必ずひどい病気になる。あなたは交通事故に遭う。何度も悪い想定を個人に向かって言い続けると、言っている人から人が去る。聞きたくないからである。いつかその呪いが自分に向けられるかもしれないと人は恐れる。そのような言葉を語る人と誰が一緒に居ようと思うだろうか。このような呪いを語り続ける人は、自分の上の災いを招くことになる。聖書の神は人を呪ってはならないと教えておられるからである。自称預言者の悪い想定にも気を付けよう。恐れてはならない。恐れると保たれていた平安が崩れる。恐れを持って精神的に人を上においてはならない。支配されることになるからである。」

絶え間なく自分のブログに他者を罵る「悪い想定」を書き連ねて来た人物が、よくも呆れるような自己矛盾に満ちた台詞を吐いているものだと思う。

村上密はこれまで他人をおびただしい回数、呪って来た。攻撃的な言葉をブログに書き続けて来た。たとえば、鳴尾教会の牧師たちに対する非難を取り上げてみよう。

記録(2017年3月3日)では、村上が鳴尾キリスト福音教会の牧師について、その牧師が統一教会に入信した経歴もなく、小島武に傾倒した事実もないのに、勝手な推測でそれを断定的に書き記し、牧師夫妻が教会を乗っ取ったと言いふらし、牧師から、それが名誉毀損に当たるので、記事を削除して欲しいと、依頼があったが、その依頼を断ったことが記されている。

村上はこの記事の中で、自分が牧師について書いた内容が「攻撃的である」ことを十分に認めらながらも、証明されてもいない第三者の「被害」を理由に、自分はその第三者の被害の回復のために、「攻撃的」な記事を削除しないことが認められるかのように自己正当化をはかっている。

攻撃的であることは、誹謗中傷には当たらない。むしろ、攻撃された側の方が精神的ダメージを受けて長年苦しまれた。この方への心からの謝罪があれば、この方に関する文は削除に応じてよいと思っている。」

ちなみに、村上がこの記事であえて牧師の名前を出していないのは、自分が訴えられることを回避するための狡猾な予防策だろう。だが、名が記されておらずとも、この件は、鳴尾教会側がブログ記事で反論している次の事件を指すことは明白だ。
 

アッセンブリー京都教会 村上密氏の「デマによるマインド・コントロール」に注意!(2)
2017年03月15日

「また村上密氏がデマ文章を書いた。(3月3日付け「遍歴」である)

 誹謗中傷も甚だしい。
 そして、書かれた本人が「削除」を要求すると、その日のうちに「記録」と題し「今回の記事が相当嫌なようだ」と “的外れ” な推論を書いている。

 私(山田博)の妻(晃美)は「統一教会」で洗礼を受けていない(献身していない)し、信者でもない。また、「小島武」氏にも、傾倒していたことは全くない。どこから聞きつけ「推測による断定と断罪」をして、デマ文章にしたのか知らないが、誹謗中傷であり非常に迷惑である。まして「統一教会」のことについて言えば、村上密氏が妻に向って「(統一教会には)入ったことにはならないですね。」と語ったことを忘れているとは、誠実さを欠いていると言わざるを得ない。(この発言に当然、証拠は無い。1995年の阪神大震災で、当時、神学生であった妻が、その救援にと関西に派遣されたときに、村上密氏に身の上を話した時の会話だからである。)
 そして、今回も「根拠無し」のデマ文章である。 また、妻からの電話を受けて「誹謗中傷とのことであるが、事実無根とは言っていない。」という。「誹謗中傷」から、何で「事実無根とは言っていない」という結論に至るのか? この言葉(文章)の中に、村上密氏の悪い癖である「推測による断定と断罪」が出ていると言ってよい。 そして、こういうところに「村上密氏の “デマによるマインド・コントロール” 」が隠されているのだと、「村上密ブログ」 並びに 「現代の風景 - 随想 吉祥寺の森から」の読者に注意を促したい。(後略)



このように、記事に書かれた当人が、はっきりと村上密による指摘は、事実無根であると主張しているにも関わらず、村上密は、その主張を認めず、連絡を受けたことを機に、かえって得意げに、牧師に対するさらなる非難記事を投稿した上、削除の依頼がなされたのが電話の会話であったのを良いことに、抗議を受けた内容まですり替え、事実無根とは言われた覚えがないなどとうそぶき、自分に都合よく会話を捏造しながら、自己正当化を続けたのである。

こうしたやり方は、杉本徳久とそっくりである。杉本も筆者からコメントの削除の依頼を受けたのを機に、筆者が書き送ったメールの内容を自分に都合よく捏造し、さらに、筆者が、誰とも分からないカルト被害者を「冒涜している」などという口実をもうけて、筆者に対するバッシング記事の掲載に及んだ。

こうして、名前も分からない「被害者」の存在を口実に、自分が政敵とみなした人物を長年に渡り、執拗にバッシングするやり口は、村上と杉本では非常に酷似しており、さらに、彼らが敵とみなした人物に対する攻撃的で挑発的な言動を繰り返し、それに抗議を受けて、接触を受ける度ごとに、事態をさらに悪化させる報復措置に及び、泥沼の紛争へと人を導き入れて来た様子も酷似している。

話を戻せば、村上が記事の削除を逃れようと作り出す詭弁は、まさにトートロジーとしか言えないもので、いわば、蛇の理屈である。村上は、誰か人物も分からない人間が、村上のもとに、鳴尾教会の牧師のことで「被害相談」に訪れ、加害行為が行われたかのように報告したことをきっかけに、村上が、その名前も分からない人物に代わって、「加害者」とされた人物に「謝罪」を求めたり、「攻撃的」な文面を書いて非難断罪しても赦され、事実でないことを書き記しても、それは何ら「名誉毀損」に該当しないかのようにうそぶく。
 
そんな理屈が成り立つはずもなく、問題は、村上の書いた記事が、事実に基づく内容であるかどうかであって、第三者の問題は関係ない。

しかし、村上は、この点についても、次のような屁理屈を並べる。

「もしも、名誉棄損であると訴えてきたら、何が名誉を棄損しているのかを私は知ることができる。さんざん、人を傷つけてきていながら、自分が「傷つけられている」と思うのは自分勝手である。私には裁判の勝ち負けはなんでもない。私は事実を書きたいだけである。事実を知った人が関係をどうするかを判断してほしいからである。時に、人は自らが作った虚像と付き合うことがある。」

本当に呆れるほどの屁理屈だ。そこからはまず、「名誉毀損だと言うなら、訴えてくればいいのだ」という思いが読み取れる。さらに、「自分が人を傷つけた人間には、訴える資格などない」という思いも透けて見える。

さらに、「たとえ私が負けたとしても、裁判の勝ち負けなど何でもない。判決で私の書いた内容が否定されても、私は事実を書いたものと確信している。なぜなら、たとえ嘘であっても、大勢の間に、まことしやかに事実として広まれば、結果的に、嘘も事実になるからだ。私の目的は、何が真実であるかを追求することにはなく、多くの人に、私の書いた内容が事実であると信じ込ませ、影響を与えることにこそある。時に、虚像であっても、多くの人が信じれば、本人以上のリアリティを持つことがある」という思いさえも読み取れる。

このような詭弁を弄する相手に向き合うことは、骨の折れることである。こういう人間は、「あなたの記事は名誉棄損に該当します。」と言われると、「いや、あなたこそ、先にAさんに名誉棄損に及ばれたのではないですか。」と主張をすり替え、「そちらの事件を反省してからものを言ったらどうです?」といった具合に、子供のような幼稚な水掛け論に終始することで、時間を稼ぎ、自分の攻撃的な言動を正当化して済ませようとする。

そうして、ごちゃまぜにできない別の問題を一緒くたに論じ、「被害者」の存在を錦の御旗に、自己の無責任な行動の責任を全てうやむやにして終わりにしようとするのである。

だが、かく言う村上自身が、「悪質」と題する2014年の記事で、「嘘の物語を作り、知らない人に、先入観を与えることは、信用棄損である。」と書いて、yahoo!知恵袋に投稿されていた内容が、自分への「信用棄損である」と主張していた。

村上はこの投稿を何とか削除させた模様だが、投稿内容は、「十字架の死と復活の原則―神の教会とクリスチャンを冒涜し、呪う偽預言者らを待ち受ける地獄の永遠の厳しい裁き―」に転載してある。非常に興味深い投稿内容であって、筆者には、これは信用棄損どころか、村上という人物の本質を突いた指摘だと未だに感じられてならない。

いずれにせよ、このように、村上自身が、嘘の物語を作って他人の信用を傷つけることは許されないとしているのだから、それでは、村上が他の牧師に関する「嘘の物語」を作って記事を書くことが、「信用棄損」に該当しないはずがないではないか? なぜその理屈が、他人には当てはまって、村上自身には適用されないのか。まさに村上のご都合主義的な使い分け、詭弁、二枚舌と言う他ない。

さらに、村上は「田中信夫 その光と闇」の中で、自分がブログで牧師を批判する理由を説明して、「私は解任できる立場ではない。解任できるのは教会である。だから、私にできること、ブログを書くことをしている。これまで多くの情報提供があった。教会もおそらく知っている。しかし、現状は何もできていない。さて、どんな問題でも、ブログでは事実だけを掲載する方法がある。あえて私は、事実だけではなく、直接書けない人々の悲しみを読者に知っていただくために、批判を加えている。などとしている。
 
この文章を通して分かるのは、村上自身が、自分のブログ記事は、決して「事実だけ」を書いたものではない、と認めていることだ。そこには、事実プラスアルファとして、「被害者の感情」に基づく村上流の「批判」が付加されている。
 
こうして村上自身が、彼の記事は、事実に基づくものではなく、事実に巧妙に被害者感情というパン種を混ぜ込んで、事実を膨らませた自己流の「批判」であり、さらには「攻撃的」な内容であることも認めているのだ。

つまり、村上は、自分の書いた記事は、村上が当事者でもない第三者に過ぎない人間の被害者意識に流されて、誇張・歪曲・拡大・飛躍した論理によって成り立つものであり、決して事実だけに依拠するものではないことを、自分で認めていることになる。

村上は、杉本と同じように、「被害者の思い」という大義名分がありさえすれば、どれほど事実から逸れて飛躍した「嘘の物語」をブログに書き記しても、その行為が正当化されるかのように思い込んでいるのである。

こうした村上のブログは、古代宗教のシャーマンのようなレベルで執筆されていると考えれば分かりやすい。つまり、宗教トラブル相談センターの一部として運営されている村上のブログは、「呪いの祈祷」を捧げるためのシャーマンの祈祷室のようなものである。

誰かがシャーマンである村上のもとに、「被害」を訴えて、次のように駆け込んで来る。

「先生、私はあの人にひどいことをされました。許せません。報復してもらいたいです。」
「よし、分かった。それはひどい事件だ。加害者はぜひとも社会的制裁を受けねばならない。」
「どうやって制裁を加えればいいでしょう?」
「まずは裁判を起こすことだ。警察に訴えてもいい。悪人らは弁護士や警察を恐れる。もしも裁判の起こし方が分からないなら、私が代理人となって、色々教えてあげてもいい。むろん、私の働きは、ボランティアなので、報酬をもらう必要はないが、ただ裁判となれば色々と・・・」
「ええ、その辺のことは十分に分かっておりますから、おっしゃらなくて結構です。私共としても、立派な先生にただ働きなどさせてはと思っておりますので、謝礼金で駄目ならば、教会への献金という形でお役に立てればと思っています。で、裁判の他に報復の方法がありますか?」
「私の書いているブログがある。これは当センターが行った調査結果に基づき、不正があったと判断されれば、加害者に精神的な罰を与えるために用いているものだ。あなたが自分で書いてもいいのだが、私が書いた方が社会的影響力が大きい。公の誰にでも見られる場所に、加害者の行った悪事について、その人を非難断罪する言葉を書き連ねておくのだ。どんなにひどいことをされたか。どんなに悲しく、つらい思いをしたか。人の心を揺さぶる話を書いておけば、悪評が立つ。そうすれば、加害者に社会的制裁を受けさせることになる。」
「でも、先生、裁判は合法的に決着が着くし、向こうにも反論の機会があるからいいとしても、ブログは個人的見解を一方的に書くだけだから、名誉毀損に問われたりしませんか。しかも、聖書には自分で報復してはいけませんと書いてありませんでしたっけ?」
「本当に名誉毀損と思うなら、向こうから訴えてくればいいだけだ。第一、そんな裁判を起こす人は少数だし、第二に、裁判が決着するころまでには、大きなダメージを与えることができる。悪評が広まれば、味方の数も減る。精神的にもダメージになるから、裁判など起こせなくなるかも知れない。」
「分かりました。じゃあ、この事件について、ぜひ加害者を先生のブログで断罪してもらいたいです。」

むろん、こうしたやり取りは架空の想定とはいえ、当たらずとも遠からずだろう。村上ブログが、シャーマンの祈祷室よりも悪いのは、シャーマンならば、密室で呪いの祈祷を捧げるから、どれほどひどい呪詛の言葉を用いても、その祈祷内容が外へ知れることはないであろうが、村上の書いているブログは、不特定多数の読者の閲覧可能な媒体のため、そこに村上が事実無根の「嘘の物語」を書けば、当然ながら、書かれた人物は、著しい信用毀損を受けることだ。

村上はそれをあえて分かった上で、あえて「社会的制裁」を加える意図で、推測に過ぎない事柄を「怒りをこめて」断定調で書いたり、法的な制裁が不可能な事件について、情報提供として記事を書いていることがあると、2013年の記事「村上密ブログ 」で認めている。

「私は、ブログを通して、宗教問題の情報提供をしている。情報は、キリスト教の異端、カルト、カルト化教会、牧師や教会の問題である。時時、記事には私自身と読者のために、聖書の教えを加えている。情報は、資料或いは証言に基づいて書いている。推測の場合は、だろう、思われる、考えられる、と書き添えるようにしている。この記事は断定調ではないか、と思われる記事は、怒りが込められている。できるだけ、冷静に、理性的に書くようにしている。被害者が多くて、問題が深刻でも、問題によっては詳しく書けない場合がある。また、法的な制裁ができにくい場合は、情報提供として、社会的制裁を加えることがある。このようなブログを読んで、他者への紹介もあるので、自然、いろいろな情報が集まることになる。私は私の責任において記事を提供している。必要ではあるが、このような情報をキリスト教系のメディアが提供するとは考えられない。方針が違うからである。私は出来事を伝えるだけでは無く、出来事の問題性を書いている。例えば、ムーブメントを紹介しているのではなく、ムーブメントに含まれる問題性を書いている。このような視点は、スポンサーを必要としない個人のブログだからこそできる。反発、批判は当然あるだろう。しかし、これこそ、神学や解釈学を学んだ者ができる情報提供である。
 
神学や解釈学を学んだと言いつつも、村上のブログにはほとんど聖書の御言葉が出て来ず、専門家と言えるだけの論理もないのは言うまでもないが、そのことよりも、村上が「法的な制裁」によっては裁きを求められない非常に判断の困難なケースについて、「社会的制裁」いや、より正確に言えば、「私的制裁」を加えるための「情報提供」をブログで行っているとしていることは非常に注目される。ここではっきりと、ブログで公表するのは、制裁を加えることが目的であると、本人が認めているのである。

実際に、過去に沖縄リバイバル教会を巡って起きた問題についても、村上は「裁判だけが戦いの場ではありません。インターネットでも沖縄リバイバル教会の事が書き立てられ、大きな痛手を受ける事になりました。」(2009年「沖縄リバイバル教会裁判のその後 」)とインターネット上の情報戦を展開したことを認めている。これは結果的に被害者側が敗訴に終わり、法的制裁を加えられなかったので、その代わりに、インターネットで制裁を加えることで、穴埋めをした、と強調したものと見られる。

このように、村上が自らのブログを、法的制裁の及ばない問題について、私的制裁を加える手段として利用していることは、村上密の宗教トラブル相談センターが、村上がかつて設立しようとしていた「カルト監視機構」の構想を受け継いだものであることをはっきりと表している。

筆者が「「カルト監視機構」という名の秘密警察の設立について」でも記した通り、当初、村上は「カルト監視機構」を次のような組織にしようと構想していた。

「村上密(アッセンブリー京都教会牧師)とウィリアム・ウッドは、『カルト監視機構』の設立に向けて、具体的に動き始めました。この機構の目的は、カルトと疑問視されている団体を調査し、適正な判定を下し、発表することです。」
 
カルト監視機構の機能の中には、調査、判定、発表の三つが含まれていたのである。筆者はこの記事を発表した当時から、一体、誰がどうやって団体のカルト度について適正な調査・判定・発表など行えるのかという疑問を投げかけ、カルト監視機構は設立されれば牧師たちの権力闘争に悪用され、恐るべき異端審問機関となって魔女狩り裁判を生み、カルト以上に暴走するだけだと警鐘を鳴らした。

村上はこのカルト監視機構の構想をそのまま宗教トラブル相談センターに置き換え、相談者から、「カルトと疑問視されている」団体の情報を聞き出し、自前の「調査・判定」を行った挙句、自らのブログで、その結果を「発表」することで、疑惑を受けた団体や信者に報復を加えているものと見られる。

そして、2009年から危惧していた通り、筆者もそれから今日までこのセンターの「魔女狩り」の対象とされているのである。

だが、もともと法の裁きが及ばないような複雑な問題に対して、キリスト教の牧師という以外には、何の公的資格も持たない個人に過ぎない村上密が、ただ被害者の言い分だけを一方的に鵜呑みにして、加害者とされる人間に制裁を加えるために、ブログに事件の情報を発表するなど、越権行為の極みとしか言いようがないが、それを置いても、まさしくそれは私的制裁でしかないわけで、そのようなことを続けていれば、伝聞や臆測だけに基づく証拠もない行き過ぎた感情的な報復措置(私刑)が行われるようになるのは仕方がない。
 
だが、村上は、そのような問題が起きた場合、行き過ぎた行動によって誰かに与えてしまった損害は、謝罪や記事の削除だけで済まされず、弁済が必要としている。2016年の記事「特集 赦しなさい 4」にはこうある。

精神的な被害であれ、物質的な被害であれ、被害を与えている場合、弁償を十分考慮すべきである。損害は、損害分で済まない。だから、損害額+αである。謝罪があり、弁償がある。そうしたら赦すか赦さないかは被害者の問題となる。このような経過を踏まれたら、今度は加害者の問題ではなく、被害者の問題となる。問題の公平な判断は、手続きが正しく踏まれているかであって、高飛車な「赦しなさい」で片付くものではない。」

つまり、与えた被害については、損害額プラスアルファのものを償わなくてはいけないのだと言う。それだけ償ってもまだ赦すも赦さないも被害者側の自由だという。

このような理屈に則れば、村上密は、鳴尾キリスト福音教会の牧師に対して、どれほどの償いをせねばならないことであろうか。また、筆者に対しても・・・。

もちろん、村上が直接的に行ったことでなくとも、村上は、杉本徳久が筆者に対して行ったことについて、杉本がきちんと判決に基づいて弁済を行うよう勧めるのが、当然の筋ではないか。

ところが、冒頭の記事に戻れば、村上は、自分たちは常に他人に向かって被害を強調し、弁済させる側に立っても、自分たちが加害者となり、弁済する側に立つ可能性を全く想定していないのだ。自分たちは常に正しく、裁きを行う側であり、しかも、法的根拠すら欠いていても、私的制裁を加えることができ、そこに暴走も行き過ぎも誤謬も生じず、自分たちの判断にはいかなる誤算も間違いが生じることもないという前提に立っている。

いや、仮に間違いがあっても、当ブログを巡る裁判でも村上らが主張したように、せいぜい記事の削除に応じてやれば良いだけであって、弁済などする必要は全くないかのように考えているのだ。恐ろしいほどのダブルスタンダードとしか言いようがない。

だからこそ、筆者は、神が贖われた信者から成る教会に君臨し、自ら裁き主になって、聖徒らを公に断罪するなど、まさに悪魔的な高慢に基づく活動に他ならず、そのような反聖書的な活動に手を染める者は、正常な精神ではいられず、また、その活動は暗闇の勢力の牙城として利用され、人権侵害の温床となるだけだから容認してはならないと、繰り返し、強調しているのであり、事実、その通りになっているのだと言えよう。

* * *

さて、筆者は、杉本や村上や唐沢から受けた「呪い」をすべて解除して打ち破るために、今回の訴訟に臨んだ。まだすべての訴えが提起されたわけでなく、判決も完全に実現されていないとはいえ、筆者は、まず最初に杉本の書いた記事を削除に追い込むことで、その精神的・霊的呪縛を打ち破ったと言える。

そして、今、杉本が、取立が「怖い」とか「病気になる」などと、幼稚な不満をメールに書き記していたところを見ると、筆者が跳ね返した「呪い」は、杉本自身に跳ね返りつつあるように見受けられてならない。

杉本は筆者に向かって「精神異常」とか「まともな職につけない」だとか「社会的受容を受けられない」だとか、司法や警察から見捨てられているかのような様々な言葉を並べていたが、それらの一つ一つが、今や杉本自身の身の上に成就しているのである。

霊的刈り取りである。

筆者は2010年からそうなることを告げて来た。筆者は杉本をラスコーリニコフになぞらえ、悔い改めるよう勧めたが、杉本は悔い改めを拒否し、すでに以上の予告が成就しつつある。それでも、今回、杉本が判決に従い、ブログ記事を速やかに削除し、賠償金を速やかに支払えば、筆者もそれ以上、杉本に対して何らの措置に出る必要もなく、杉本の職場にこの事件が知れるといった事態が持ち上がる恐れもなく、事件は終わっていたことであろう。

自分で自分の仕事が危うくなるよう仕向け、とことん制裁を受ける道を自ら選んでいるのは杉本自身なのだ。筆者は債務弁済契約書も送ったので、杉本は支払いを行う意思を示そうと思えばすぐに出来たのに、それもせず、彼は昨日もサッカーに興じる道を選んでいる。

このように、まともな選択肢がどんなに用意されても、常にそれを踏みにじって退けては、自分で破滅へ至る道を選んで来たのは、杉本自身なのであるが、筆者はこのような状況となっているのは、やはり、杉本は自分の述べた言葉の厳しい刈り取りをせざるを得ないためだと思わずにいられない。

筆者は、この事件が不起訴になって終わるとは考えていない。警察は、自分たちが関わるのは捜査だけなので、その後のことは分からないとしているが、村上が五次元スクールから訴えられて不起訴になった事件と、この事件では重さが違いすぎる。

杉本が悔い改めない限り、彼に処罰が下されることは避けられず、それによって、唐沢に祝福を受けた社会福祉士の資格もいずれ剥奪されて終わるだけであろうと、筆者は1年以上前から、警告して来た。社会福祉士の仕事とは、精神を病んだ者、追い詰められた状況にある者、病気のゆえに就労できない者たちなどに対して、社会的支援の手を差し伸べることにあり、杉本がしたように、彼らを人前で愚弄し、その生活状況を徹底的に嘲笑するような行為が、この国家資格にふさわしくないのは言うまでもない。

同様に、村上も、唐沢も、自分のしたことの報いを受けるだろうと筆者は予測している。

前回の記事で、筆者は、村上の記事「そっとしておこう 」を読み、村上はこの記事に限らず、常に自分だけは決して孤独になることはないという根思い込みに立って、にぎやかで日の当たる場所から、孤独な人、不遇の状況にある人たちを高みから見下ろし、彼らが気づかれたくないであろう弱点を心の中で握って、その弱みを幾度も思い返しては、自分の優位を確かめて悦に入るような内容を書いていると指摘した。

そして、そういうことを繰り返していれば、いずれ村上自身が、自分が他者に対してしたのと同じように、孤独と不遇に追いやられ、他者にその弱みを憐れまれる立場になると書いた。

村上が前掲記事の青年に対して取った態度は、村上が筆者に対して「交流の少ない所で生活」しているなどと決めつけて非難した態度と同じであり、また、村上が拉致・監禁という手法を用いて、カルト宗教から強制脱会させて、密室のアパートに閉じ込めて説得を行った無数の信者たちに対する態度と同じである。

つまり、村上は、自分は常に「世間」を代表する無数の人たちに囲まれて、圧倒的な数の力を味方につけて誇りながら、密室に隔離されるがごとくに、孤独な環境に追い込まれた不遇の人々に対峙し、彼らに上からのしかかるように優位を誇り、また、その傷口をいついつまでもほじくり返すような態度を取りながら、ブログ記事を書いているのである。

村上の活動は、うわべは、被害者のためにと言って、あたかも可哀想な境遇にある人たちを助け、憐れむように見えるものの、実際には、村上は、自分がブログで仮想敵とした人々であれ、被害者としている人々に対してであれ、誰に対しても同じように上から目線で高慢に接しているということなのである。

村上は、人の弱点に関する情報を集めては、ブログで繰り返し、繰り返し、人の弱いところを攻撃し、自己の優位を誇示しようとしている。法的根拠などあろうがなかろうが、自分たちが被害者意識を発揮できるチャンスを得たと思うと、怒りの感情に任せて、好きなだけ報復措置を加えることが許されるかのように思い込んでいる。決して人を赦す必要はないと説き、人々の報復感情を煽り立てている。

こうして、自分よりも弱い他人に向かって、弱みを突いて、上からのしかかるように非難の言葉を書き連ね、その上、被害者意識を刺激された支持者たちがそれに煽られて、集団で獲物に襲いかかるように、村上がターゲットとした人物に中傷をまき散らし、正義漢ぶって袋叩きにする。そのような仕打ちを受ければ、普通の人は耐えられず死へ追いやられるだろう。

だから、そのような仕打ちを他者に対して行った人間には、いつか必ず、その報いが跳ね返ることになると、筆者は書いたのである。

だが、筆者があえてこのように書かずとも、すでに村上の人生には「刈り取り」が起きている。村上の子供たちには次々と不幸な事件が起きているが、なぜそのようなことが起きたのか、立ち止まって、考えてみれば良いのだ。村上の義理の息子が自死したのはなぜなのか。

筆者は、村上の宗教トラブル相談センターを訪れていた際、両夫婦からの冷淡な言葉に、何か月間も打ちのめされていたことを思い出す。特に夫人は、心傷ついた人に対して、生傷にナイフを突き立てるように話し、当時、無防備であった筆者は、自分の心を守る術も知らず、大きな痛手を受けた。

だが、それでも、筆者は少しの間しかこの教会に滞在しなかったので、受けた損失は軽かったかも知れないが、こうした対応に日常的に接している人間は、自殺に至らない方がおかしいくらいだと筆者は感じている。

別の息子も、自立して教会を離れたはずなのに、大けがに見舞われ、後遺症を負って村上のもとに戻らざるを得なくなったというのはなぜなのか。

唯一、教会で奉職している伝道師の息子がいるが、京都教会はすでに信徒数の減少に見舞われて、存続の危機に立たされていると見られる。村上が、長年、自分を助け、教会を支え、後継者とみなされた長澤氏を追放することで、教会が自滅に至る道を自分で選んだためだ。

これも村上が鳴尾教会に裁判をしかけ、信徒数の減少を見て嘲笑ったことの報いである。裁判で敗訴しても、なお、村上はこの教会の消滅を願うがごとく、非難断罪の記事を発表し続け、牧師夫妻を中傷し続けた。そうした残酷な仕打ちがなければ、村上ももう少し合理的な判断が出来、自分の所属している教会の存続が危うくなるような事態は避けられたかも知れない。

つまり、冒頭に挙げた村上の記事は、何から何まで村上自身に当てはまるのだ。村上のそばにいる信者たちは、いつか村上のブログで「社会的制裁」として自分も名指しの非難を受け、言葉尻をとらえられて、刑事告訴されるかも知れないと怯え、村上を提訴しても、賠償金を踏み倒されるかも知れない、村上の支持者たちからネットで集団リンチを受け、家族にまで被害が及ぶかも知れない、と考えて、このように残酷な呪いと制裁を信者に向かって発し続ける牧師とは決して一緒にいられないと、逃げ出す準備を整えている最中ではないだろうかと思われる。

村上とその家族の身の上には、すでに各種の災いが成就している点でも、呪いが我が身に跳ね返っているのは、まさに村上自身である。自称預言者というのも、一牧師に過ぎないのに、職権を濫用して、諸教会と全宗教を取り締まることができる裁き主であるかのように振る舞い、牧師の職務にはもともと含まれていない仕事をしている村上自身のことである。村上のしていることは何らの法的根拠も持たない「私的制裁」に過ぎない。

こうした悪事には必ず厳しい報いが伴う。村上は筆者の指摘を「呪い」であると感じているのかも知れないが、筆者から見れば、これは当然のごとく導き出される未来予測でしかなく、ただ霊的「刈り取り」が起きていることを示すだけの事実である。
 
村上が仮にこの指摘を呪いであると解釈したとしても、それを解く鍵は一つしかない。十字架である。

キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された”霊”を信仰によって受けるためでした。」(ガラテヤ3:13-14)

呪いは、恐れないことによって解くことができるわけではない。また、恐れないことができるのは、神への全き愛の中にとどまるからこそである。神への全き愛がなければ、人には罪赦される根拠もないので、刑罰を免れる根拠がない。

私たちのために身代わりに呪いとなられて木にかかられた方、ただこの方しか、呪いを解除する方法はない。筆者が杉本の書いた数多くの記事でかけられた呪縛を打ち破ったのも、掲示板における嵐のような中傷の前に立ちおおせたのも、村上や唐沢による中傷に影響を受けずにいるのも、ただキリストの十字架だけが根拠である。

唐沢はおそらく、ニュッサ氏が贖いに立っていないため、唐沢の呪いに抵抗する術を持たないことを知っていたものと見られる。それを分かった上で、ニュッサ氏を悪者として断罪し、刑事告訴し、ニュッサ氏の精神を徹底的に追い詰める策を講じることによって、彼を「自己崩壊」へ導いたのであり、それを鬼の首でも取ったように成果として誇っている。もちろん、こうした残酷な仕打ちにも、厳しい刈り取りがあるだろう。

筆者は、これら3名に対し、彼らが筆者に対して発したすべての呪いの言葉を、そっくりそのまま彼らにお返しすると、ここで宣言しておく。

筆者から見れば、杉本も村上も唐沢も、キリストの十字架の贖いを退けているので、十字架によって呪いを解除することはできず、恐怖に対抗する術を持たない。だから、自分が他者に向かって吐いた呪詛の言葉が、刈り取りとなって自分に跳ね返って来るとき、防御の方法を持たないであろう。いつかそれらがすべて自分の身の上に成就して人生を終えるだけである。

いつまでも自分だけは、安全なところに立って、孤独とは無縁の生活を送り、弱い人たちの恥を暴き、彼らの精神をとことん追い詰め、死へ追いやるような残酷な仕打ちを加えることが許されるとは思わない方が良いであろう。いつまでも自分が神のような裁き主となって、神が贖われたクリスチャンに罪を着せて断罪することが可能だなどと思わない方が良い。

弱い者、心ひしがれている者、追い詰められている者、疲れ切っている者を、愚弄の対象として踏みにじり、自分が神でもないのに、神のごとく思い上がって、正しい者を罪に定め、悪者を弁護し、自ら裁きを曲げながら、裁き主のように振る舞う高慢な人間たちの末路は、聖書にちゃんと記されている通りである。

お前は自分の心が神の心のようだと思い込んでいる。

それゆえ、わたしはお前に対して諸国の中でも最も暴虐な外国人を立ち向かわせる。彼らはお前の知恵の誇りに向かって剣を抜き、お前の栄華を汚し、 お前を陰府に突き落とす。お前は海の真ん中で切り倒されて死ぬ。

お前は自分を殺す者の前でもなお、『わたしは神だ』と言い張るのか。お前は人であって、神ではなく、切り倒す者の手にある。

お前は割礼のない者として、外国人の手にかかって死ぬ。

彼女は心の中でこう言っているからである。

『わたしは、女王の座に着いており、
 やもめなどではない。
 決して悲しい目に遭いはしない。』

 それゆえ、一日のうちに、さまざまな災いが、
 死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。
 また、彼女は火で焼かれる。
 彼女を裁く神は、
 力ある主だからである。」(黙示18:7-8)


「わたしは永遠に女王だ、とお前は言い
 何事も心に留めず、終わりの事を思わなかった。
 今、これを聞くがよい
 快楽に浸り、安んじて座る女よ。
 わたしだけ わたしのほかにはだれもいない、と言い
 わたしはやもめになることなく
 子を失うこともない、と心に言う者よ。

 その二つのことが
 一日のうちに、瞬く間にお前に起こり
 子を失いやもめとなる苦しみが
 すべてお前に臨む。どれほど呪文を唱え
 どれほど強いまじないをしても無駄だ。

  お前は平然と悪事をし
 「見ている者はない」と言っていた。
 お前の知恵と知識がお前を誤らせ
 お前は心に言っていた
 わたしだけ
 わたしのほかにはだれもいない、と。

 だが、災いがお前を襲うと
 それに対するまじないを知らず
 災難がふりかかっても、払いのけられない。
 思いもかけない時、突然、破滅がお前を襲う。

 まじないと呪文の数々をもって立ち向かえ。
 若い時から労して身につけたものが
 あるいは役に立ち
 それを追い払うことができるかもしれない。

 助言が多すぎて、お前は弱ってしまった。
 天にしるしを見る者、星によって占う者
 新月によってお前の運命を告げる者などを
 立ち向かわせ、お前を救わせてみよ。

 見よ、彼らはわらにすぎず、火が彼らを焼き尽くし
 炎の力から自分の命を救い出しえない。
 この火は体を温める炭火でも
 傍らに座るための火でもない。

 呪文を若い時から労して身につけ
 売り物としてきた者すら、この様だ。
 彼らはおのおの勝手に迷って行き
 お前を救う者はひとりもいない。 」(イザヤ47:7-15)

これは聖書に記されている動かせない霊的法則性である。高ぶって、自分を神のように思い、神に代わって裁き主となり、教会や聖徒らの恥を暴き、キリストが十字架において命を捨てて贖われた聖徒らを再び罪に定めようとする者には、悪魔と同じ裁きが下るのは当然である。

自分は決して孤独をも貧しさをも知ることはないと豪語していたバビロンが、夫と子供を一日で失って寡婦となり、恥辱のどん底に突き落とされ、焼き払われる。聖書の真理に逆らっては、誰も立ちおおせない。ただそのことが記されているに過ぎない

十字架の贖いを退けるならば、呪いは誰も解除できないのだ。

神は全ての物事を見ておられる、バビロンへの裁きの時は近づいている。弱い人を容赦なく踏みにじって死へ追いやろうとした人間たちは、自分たちが弱くなった時に、踏みにじられて終わる。

人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(ヤコブ2:13)

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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