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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(27)―わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
 わたしの道はあなたたちの道と異なると
 主は言われる。 
   
  
天が地を高く超えているように
 わたしの道は、あなたたちの道を
 わたしの思いは
 あなたたちの思いを、高く超えている。

  
雨も雪も、ひとたび天から降れば
 むなしく天に戻ることはない。
 それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
 種蒔く人には種を与え
 食べる人には糧を与える。

  
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
 むなしくは、わたしのもとに戻らない。
 それはわたしの望むことを成し遂げ
 わたしが与えた使命を必ず果たす。

   
あなたたちは喜び祝いながら出で立ち
 平和のうちに導かれて行く。
 山と丘はあなたたちを迎え
 歓声をあげて喜び歌い
 野の木々も、手をたたく。

 茨に代わって糸杉が
 おどろに代わってミルトスが生える。
 これは、主に対する記念となり、しるしとなる。
 それはとこしえに消し去られることがない。 」(イザヤ55:8-13)

以上の聖句は、筆者の最も好きなものの一つで、ジョージ・ミュラーの椅子の話を思い起こさせる。神の御言葉は一つとしてむなしく地に落ちることはない。言葉は、約束であり、実体と一つなのだ。

筆者は、自分のための約束を握りしめ、それが空手形ではないことを確信している。そして、その確信が、欺きと嘲りだけによって報いられることなど、決してありはしないと確信している。

もしも地上の判決が、守らなくても良いものであるとすれば、法には意味がないことになる。法などあってもなくても、やりたい放題のことを行った者が勝ち、責任追及されても、責任が取れない者が、最も得をすることになる。

もしもこの地上で、そのようなことが当然視されるならば、まして神の御言葉になど、世人は誰も耳を傾けないだろう。それは単に絵に描いた餅でしかなく、法がむなしいなら、言葉もむなしく、あらゆる掟を破って、己が欲望のままに行動し、他者を思う存分蹂躙し、人間性を辱めた者が勝つことになる。
 
まさかそんな結論が正しいわけがあるまい。そして、それこそ、人類が創造された当初から、悪魔と暗闇の勢力が絶え間なく行って来た悪事なのである。彼らは神の御言葉に背き、これを踏みにじって、自分たちには責任の取れない行為に及び、その結果として、地獄の火の池に投げ込まれる運命が定められた。

だが、神はキリストの十字架において、人類が悪魔と連帯責任で負わされたすべての債務を帳消しにして下さった。だとすれば、債務を抱えているのは、キリスト者ではなく、悪魔と暗闇の勢力の側である。従って、我々は彼らから債務を取り立て、彼らが我々に与えた損失を取り返さなければならない。

「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:14-16)

以上の御言葉の前半はすでに成就している。残るは後半である。暗闇の勢力のもろもろの支配と権威の恐怖と脅しによる武装を解除し、彼らを縛り上げて、キリストの凱旋の行進に加えて、公然とさらしものとして引いて行かねばならない。

* * *

さて、先日、杉本からは、職場を特定して取立を行うのは頼むから勘弁してもらいたい、という内容のメールが来たため、筆者は改めて今週中の供託を依頼しておいた。

裁判所への供託手続きは、手続きが完了してから、受け取るまでに1ヶ月近く(場合によってはもっと)時間がかかる。判決からすでに2ヶ月が経とうとしている。十分にリミットである。

筆者は、これが最後の温情措置であり、猶予であることを断った上で、杉本に宛てて、供託手続きの流れと、供託書および事情届の記入見本を送付しておいた。もしも彼が筆者の温情をこれ以上、悪用、あるいは無視するならば、この先、杉本にはもはや社会人としてやり直しができるチャンスは決してなくなるだろうことを断っておかねばならない。

筆者はこれ以上、侮られたいがためにこうした措置に及んでいるわけではないためである。

さらに、筆者は杉本に無意味な控訴も取り下げるよう呼びかけている。控訴審はもはや筆者と杉本との対決がメインになるのではない。そこで主要な争点は、村上による権利侵害である。筆者はこれ以上、杉本の怪文書のような泣き言の書面に煩わされて時間を失いたいとは願っていない。従って、杉本の口を封じることも、控訴理由書の主張の一つにせねばならない。

杉本は、本来ならば、一審で筆者に敗れた時点で、キリストが筆者を共に加えて下さった凱旋の行列に捕虜とされているはずである。それにも関わらず、杉本は未だべったりと村上の影に隠れることで、あたかも筆者に勝利したかのように自分に言い聞かせている。

そのような行為を続けるのであれば、筆者はまず村上に対する今後の見せしめの意味も込めて、杉本に対しては、徹底的に容赦のない法的手段に出ざるを得なくなるだろう。

今回、杉本の側から筆者の要求に応答もなく、支払いもないならば、この先は、今まで以上に情け容赦のない取立に及ぶことになるだけだ。勤務先の特定も、ほぼ不可避となるばかりか、採算度外視の動産差押の手続きなども、念頭に入れて動くことになろう。

時効になるまでには、まだ取立期間が十分に残されていることから、筆者はその間に、杉本が心を休める暇もないほど、ありとあらゆる手段を駆使して、徹底的な取立を日々、続行することになる。

いかに合法的な取立の範囲を超えないといえども、次は何が起きるのだろうかと、毎日、考えをめぐらしては、恐怖を感じざるを得ないほど、情け容赦のない取立を、絶え間なく続行することになる。今はそのようなことが起きる前の最後のチャンスである。
 
そのチャンスを杉本が棒に振るならば、もはや彼のために残された温情はない。むろん、二審でも、筆者は杉本の無責任な行為を強く非難し、賠償金を踏み倒そうとする杉本のメールもすべて書証として提出し、全面対決の姿勢を取りながら、掲示板の投稿等も含めて、厳しい責任追及を行って行くことになる。

さらに、刑事事件でも、有罪判決を勝ち取るために入念に主張を展開することとなるだろう。

筆者は、杉本がこの先ただちに供託の手続きをしたとしても、それが刑事事件の行く末に大きな影響を与えることはないだろうと考えている。刑事事件は、未来に向かって行くものではなく、すでに起きた事件について裁くものだからだ。杉本の書いた記事は、あまりにも分量が多い上、繰り返し、悪質な権利侵害が行われている。村上が不起訴になった事件とは、重さが違いすぎる。

そこで、筆者はこれが不起訴に終わるだろうなどとは全く考えていなが、さらに、杉本が賠償金を踏み倒したままの状態でいるならば、不起訴になる可能性など、さらに低くとどまり、このように社会的責任を負えない人間に対しては、処罰が残るのみとなるであろう。

おそらく、刑事事件については、筆者がどう考えるかではなく、行われた行為の重さに応じて、的確な判断が下されるであろうと思う。そして、事件はすでに筆者の手から離れつつあるのだ・・・。

だが、筆者がこのような記事を連続して投稿したことによって、今、ほんの少しずつだが、杉本のメールの調子の中に、そろそろ逃げおおせない地点に来たという自覚が見え隠れするようになった。

ヤギの会は、相変わらず、非常に丁寧に返信をしてくれている。本来、そのヤギの会の世話人をつとめていたくらいだから、杉本は、供託の手続きなどについては、すべて自力で調べ上げて、他人に教えてやれるくらいでなくてはならない。今、その作業を筆者が代行していることは、杉本にはやはり、世話人としての能力がないことをはっきりと物語っていると思う。

他人が自分に代わって苦労してくれるなら、それにすがって自分はどこまでも楽をしようとする杉本の性格は、およそ世話人という仕事には向かないと、筆者は考えている。おそらく、自己顕示と自己満足のためだけに、そうした仕事を求めたのであろう。

村上にも、唐沢にも、杉本にも、分かっていないのであろうが、リーダーとして人の上に立つためには、本来、他人のやらない仕事、避けて通りたい大変な作業を、人の何倍も引き受ける覚悟と能力がなければならない。晴れがましい舞台に立って、自分一人、注目を浴びることが、リーダーの役目ではない。他の人たちの負担を軽減するために、人の何倍も隠れた仕事を引き受け、自分よりも弱い者たちの心や生活の状態に気を配り、彼らを陰ながら支える能力が必要となる。それがないのでは、人の上に立つ資格が初めからないと言っても過言ではない。

他人にかしづかれ、もてはやされ、仕えられ、栄光を受け、注目される立場がリーダーなのではなく、最後まで契約の箱を担いでヨルダン川に立ち続ける人間が、指導者に最もふさわしいのだ。

さて、前から書いている通り、有罪となれば、間違いなく、杉本の社会福祉士の資格は剥奪されることとなる。今、杉本は勤務先の特定は嫌だと叫んでいるくらいだから、将来的にそうなる可能性の重さをまだ自覚していないのであろう。

しかし、筆者は、この先、杉本の自覚は少しずつ増して来るだろうと思う。

筆者という人間が、杉本の目に、以前のように不倶戴天の敵とは見えなくなり、自分と同じような人間の一人であることが分かるようになるに連れて、杉本は、これまで自分の行った行為の重さを自覚し、それを嫌悪するようになるのではないだろうかと思う。

筆者から怒りと憎しみと嫌悪ではなく、人としての健全な反応、健全な感情が返って来るのを見せられる度に、つまり、杉本が筆者に対して何をしようとも、筆者はそれによって心を汚染されないし、動かされることもないということが分かるに連れて、おそらく、杉本は自ら行って来た悪事に対して、向き合うことができないほどの自己嫌悪を感じるのではないかと思う。そういう瞬間がこの先、どこかの時点で来るのではないだろうか、と予想する。

* * *

さて、筆者はこの道で間違いないことを痛感している。ここまでやるかと呆れている人もいるであろうが、正しいことはきちんと主張して、最後まで貫き通さなくてはならない。どれほどの困難が伴おうとも、目的は貫徹するまであきらめてはならないのだ。

そして、目的を達するための方法論は、あくまで主張し続けることにこそある。

なぜ筆者がこのブログを書き続けているか、紛争を通して何を得ようとしているのか、その目的も、ここにあるのだ。判決文は、単なる紙切れでもなければ、空文句でもない。それと同じように、神の御言葉も、私たちの述べている証の言葉も、空文句ではない。

私たちは、神の姿を見ることはできないし、その声を聞くことも、その御体に手を触れることもできない。だが、たとえその存在を感覚によって確かめることができずとも、私たちは神からの紛れもない真実な約束を与えられている。

聖書66巻が、神が私たちのために与えられた判決文である。これは私たちが生まれるよりも前に、私たちの代わりに、キリストが人類の代表者として、原告となって悪魔を訴え、神の法廷において、悪魔と対峙して、悪魔を打ち破って、神の御手から直接受け取った勝訴判決であると言える。

私たちはその判決文から、日々、自分の糧を得て生きているのである。

御言葉は、物事を切り分ける剣であり、かつ、実体の伴う約束である。人間の言葉は、嘘が混じり、実体からかけ離れているとはいえ、本当は、あらゆる言葉には、必ず実体が伴うべきなのであり、それが言葉の本質なのである。
 
言葉と実体との関係は、キリスト(本体)とエクレシア(影)と同じだ。

私たち自身も、神の御言葉によって造られた被造物に過ぎず、影なる存在として、不確かさ、脆さ、儚さを負っている。しかし、どれほど私たちが不真実な存在であるとしても、私たちは、自分を生かす、永遠に変わらない、神の確かな約束に対して、「アーメン(その通りです)」と述べて、これに賛同・承認する民である。そこに、私たちの存在の確かさがある。

だから、与えられた命の約束を、決して手放してはならないし、あきらめてもならないのである。
 
そこで、一見、回り道のように見えるかも知れないが、これが最短コースであることを、筆者は疑わない。私たちは、キリストの復活の証し人であり、御言葉には、すべての障壁を打ち破って、約束されたことを実体化する力があることを知っている。

この御言葉を盾に、私たちは、何が正しいことであるか、何が神の喜ばれることであるか、何が正義であり、真実であるかを、公然と世に示し、聖なるものと俗なるものとの違いを世に示し、嘘偽りを憎み、暴虐や搾取を憎み、神の喜ばれない全ての事柄を退け、神の約束を、地上に実現するまで、あきらめずに戦い抜くのである。

東洋思想のはびこるこの国で、物事を中途半端に曖昧なまま残しておこうとする人たちは多いであろう。手間暇をかけて何かを論証すること自体を、無駄な苦労だと考える人も、忌み嫌う人も多いであろう。しかし、筆者は、約束を中途であきらめて、空文句に終わらせたくはない。

だから、物事を極みまで証明し、正しい約束の言葉を成就する努力が、決して徒労には終わらないことを、筆者はきちんと世に示したいと考えている。それは自分自身のためだけではなく、多くの人々を失意と絶望に終わらせないためにも、貫徹せねばならない仕事である。

そういうわけで、物事をあるべき秩序に戻すためには、この紛争を最後まで戦い抜くことは、避けては通れない課題だと、筆者は確信している。本当ならば、自分と相性の良い裁判官のもとで、早期に判決を書いてもらい、払う労力を最小限度におさえて事件を終えるのが、一番、本人にとっては楽に見えるものと思う。

しかし、まだ光を当てなければならないものが残っているならば、事件を終えることはできないのだ。研究者が顕微鏡をのぞきながら、細胞の隅々にまで光を当てて、研究対象を検証して行くように、物事の細部に至るまで、光によって検証する作業が必要なのである。光が当てられたとき、初めて、物事の真の有様が明らかになり、闇が払われる。

筆者は、この戦いを貫徹することで、暗闇の勢力の要塞を打ち壊し、彼らが脅しと恐怖によって、人心を支配してきたその手法を粉砕し、無効化せねばならないと考えている。彼らが教会に対して用いて来た脅しには、もはや力がないこと、彼らは、すでに打ち破られて、キリストの凱旋の行列において、捕虜とされてさらしものにされていることを、はっきりと世に示さねばならないと思っている。

悪魔と暗闇の勢力こそ、御名の権威に従わなければならない存在であり、御名の権威は、すべての名にまさるものとして高く掲げられねばならないのだ。

地上の判決は、この世の裁判官の名において言い渡されるが、私たちはそれ以上の権威者であるキリストの御名において、暗闇の勢力に対峙し、その手下どもに向かって命令している。そこで、彼らは我々の命令に従わねばならない。

それは筆者が被告とした杉本にしても同様である。
 
そして、この原則は、来るべき判決においても、同様に適用されねばならない。もしも筆者が今から、すでに手にした判決を空文句に終わらせるなら、この先、この戦いを戦い続ける意味はどこにもなくなる。
 
だから、筆者は、杉本を判決に従わせねばならないのである。もしもそれでも、従わないというならば、徹底的な恐怖によって、否が応にも従わざるを得ない状況を作り出すしかない(むろん、筆者は合法的な手段しか用いないとはいえ)。

だが、できるなら、そうなる前に、自主的に判決に従ってもらいたいものである。そこで最後の猶予を与え、呼びかけをしている。

このようにして、私たちは、暗闇の勢力がこれまで恐怖によってキリスト者を脅しつけ、支配して来た手段を無効化して、彼らの武装を解除し、今度は、それを裏返しにして、彼らこそ、私たち(の証しする神の御言葉)によって罰せられる恐怖のために、キリスト者に従わざるを得ない状況を作り出さねばならないのである。

しかし、我々は人を恐怖によって死に至らしめる判決を握りしめているのではなく、人を命と平安によって生かす神の御言葉を掲げているのであるから、聖なる神殿を破壊する者がいれば、その者は死に至らしめられるであろうが、神殿を清め、支え、維持するために仕えるならば、その人も、宮と共に生きるだろうと告げておく。

だから、悪を捨てて立ち帰りなさい。筆者は、杉本の今後に注目している。彼が予想通り、自分で吐いた呪いの言葉の跳ね返りを全身に浴びて、ただ自滅するだけに終わるのか、それとも、違った道を見つけ、選ぶのか。

もしも杉本が筆者に投げつけた呪いの言葉を、自分で背負う道を選ぶなら、遅かれ早かれ、死しか彼には待っているものはないだろう。十字架がなければ、それは決して誰にも背負うことのできない途轍もない呪いだからである。筆者の温情になど期待しても無駄なことであり、提案が反故にされれば、筆者は最も厳しい措置を取るだけのことである。猶予も今週いっぱいと告げてある。

だが、筆者は、杉本(およびその他の被告となる人々)が、ただ単に、これまでにも明白に予測できたように、「破滅」という当然の結末に自ら落ち込んで終わるだけなのかどうかを、見極めようとしている。それ以外に、結論はないのかどうかを。

そもそもこれほどまでに長年に渡り、彼らが筆者に執拗に絡んで来た理由はどこにあるのか。彼らが掴もうとしていたものは何なのか。神が贖われたキリスト者である筆者に接近して来た彼らが、ただ筆者の信仰につまずき、同時に、キリストにつまずき、御言葉につまずき、教会につまずき、これらを恨んで、エクレシア殺し(教会の破壊)という恐るべき所業に手を染め、その霊的刈り取りとして、当然の自滅を刈り取るだけに終わるのか、それとも、我々キリスト者の生き様を通して、何か違うものを掴むのか――筆者は知りたいと考えているのだ。

彼らがあくまでエクレシアに対抗する道を選ぶなら、粉みじんに粉砕されて、跡形もなく消し去られて終わるだけである。

前回の記事で、我々キリスト者は地上のすべての事柄を裁く者、御使いたちをさえ裁く者であると述べた。記事末尾に挙げる詩編は、そのような権威を持つ神の子らが、「自分たちは神々だ」と思い上がって、不正な裁きを繰り広げた結果、サタンが焼き尽くされたように、没落して惨めな死を遂げるという宣告を告げたものと筆者は理解している。

そこで、我々は以下の御言葉を、思い出さなければならない。

愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。

あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。

今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。
「正しい人がやっと救われるのなら、
不信心な人や罪深い人はどうなるのか」
と言われている通りです。だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」(Ⅰペテロ4:12-19)

裁きは、神の家から始まる――今は神の教会が試されている時である。カルト被害者救済活動を支持する暴徒のような荒くれ者たちが登場して来て、諸教会を脅かすようになったことにも、それがよく表れている。それも、神の教会に対する裁きの一環なのである。だが、教会はそのような暴虐からも解放されて、あるべき状態が取り戻されねばならない。そのための方法は一つである。

悔い改めて、御言葉に立ち帰り、不正をやめ、嘘偽りを捨て、真実を尊び、虐げをやめ、苦しむ人、貧しい人を蔑むのをやめて、彼らを助け、神に逆らう人々の手から、正しい人を救い出し、神の正しい真実な裁きに立ち帰ることである。それがなければ、クリスチャンの名で呼ばれる人々にさえ、厳しい末路が待ち受けているだけである。そして、その裁きはすでに始まっている。我々は世人の前に自分たちが教訓とされないために、自分たちの姿を主の御前にかえりみなければならない。反カルト運動の終焉は、神の家に対する裁きの始まりに過ぎないためである。
  
「神は神聖な会議の中に立ち
 神々の間で裁きを行われる。

 「いつまであなたたちは不正に裁き
 神に逆らう者の味方をするのか。
 弱者や孤児のために裁きを行い
 苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
 弱い人、貧しい人を救い
 神に逆らう者の手から助け出せ。」

 彼らは知ろうとせず、理解せず
 闇の中を行き来する。
 地の基はことごとく揺らぐ。
 わたしは言った
 「あなたたちは神々なのか
 皆、いと高き方の子らなのか」と。
 しかし、あなたたちも人間として死ぬ。
 君侯のように、いっせいに没落する。

 神よ、立ち上がり、地を裁いてください。
 あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。」(詩編第82編)
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

メールの提供、写真、個人情報の提供を大いに歓迎します。特に、直近になされているコメントについても、投稿者の個人情報(所属教会、氏名、勤務先情報、連絡先)をご存じの方は、ぜひ詳細にお伝えくださいますよう。情報源を明かすことはありませんのでご安心下さい。県警ではなく、神奈川署ですのでお間違いなく。045-441-0110

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