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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

私ではなくキリスト―事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。(3)

最後に、これまで当ブログでは、掲示板とは、グノーシス主義の「鏡」に当たるものだと主張して来た。この「鏡」とは、本質的に「虚無の深淵」であり、本体の像を盗み、これを歪んだ形で映し出し、出来損ないの贋作を大量に作り出すことによって、本体の尊厳を奪おうとする、悪意ある鏡である。

この贋作は、言い換えるならば、「なりすまし」である。グノーシス主義における神々の誕生は、「存在の流出」という概念に基づくものであって、これは被造物が神になりすますものであることも述べた。

聖書には次のくだりがある。

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14-18)


この御言葉を読む限り、鏡とは、被造物である私たちであり、私たち自身が鏡のように主の栄光を反映する存在であることが分かる。

しかし、グノーシス主義はこれとは反対に、創造主である神を「鏡」と規定する。そうすると、本体(造物主)と影(被造物)との関係が逆転し、神は虚無となり、その鏡には、もろもろの被造物の姿が映し出されることになる。

結局、それは、被造物が、自分の姿を鏡に映し出し、それを指して「これが神だ!(私が神だ!)」と言っている状態を意味するのであって、それは虚無に過ぎない被造物が神になりすました世界であるため、その世界をどこまで旅しても、虚無以外のものは見いだせない。

匿名掲示板、おびただしい数のミラーサイトなどは、どこまで行っても、鏡に映った映像以外の何物でもなく、決して「本体」に巡り合うことのない世界である。しかも、その映像は、本体の性質を盗み取って出来た質の悪い模造品であり、自分では何も創造する力がなく、他人のエネルギーを吸い取り、奪い取ってしか生きられない人々の作り出した虚無の世界である。

 * * *

今ちょうどディプログラミングの問題性について書いているところです。(掲示板でおそらくカルト被害者救済活動の支持者と見られる人々の行っている)著作権侵害も、強制脱会活動の一環とみなすことができるかも知れません。

ディプログラミングというのは、米国では70~80年代に行われ、数々の民事・刑事訴追により信教の自由の侵害及び人権侵害の犯罪行為と認定されて、とうに違法となって廃れた強制脱会活動のことですが、日本ではこれが2016年になるまで、プロテスタントのキリスト教会の複数の牧師たちによって続けられて来ました。

要するに、これは「カルト問題の専門家」を自称する人々が、「カルトのマインドコントロールの被害を受けている」と勝手に決めつけた信者の「誤った宗教洗脳」を「解除」しようと、彼らを拉致したり、監禁しながら、彼らが自らの誤りを認めて「棄教」して、脱会カウンセラーにとって都合の良い考えを「正しいもの」として受け入れるまで、無理やり人権侵害を繰り返し続けながら、棄教を強要することなのです。


日本では、統一教会の信者を対象に、ディプログラミングに基づく拉致・監禁を伴う信者の強制脱会・棄教運動が行われて来たことは、すでに述べました。拉致や監禁といった人権侵害を繰り返すことで、「その考えを捨てねば、おまえをもっと苦しめてやるぞ」と圧迫を加え、ディプログラマーが自己に都合の良い「再プログラミング(再洗脳)」をその人に施すのです。

まあ、平たく言えば、拷問で自白を強要して罪を認めさせるようなものです。拷問を受け続ければ、誤った考えを持っていない人でも、いつかは降参して自分の考えを誤ったものとして捨てることになるでしょう。


米国のディプログラミングも、専門家でない人々によって行なわれていたようですが、日本はもっとそうです。たとえば、「脱会・救出カウンセラー」を名乗る村上密、ジャン・ドウゲン、パスカル・ズィヴィー、ウィリアム・ウッド、これらの人々はみな専門的なカウンセラーでも臨床心理士でもない。カウンセリングは、通信教育などで学んだ程度で、大学教育で専門的に学んだわけでなく、実践的な訓練を受けていない。そうして専門家の資格を持たないまま、牧師や宣教師の立場から、カルト問題に関わるようになり、「脱会・救出カウンセラー」を名乗るようになった。いわば、自称専門家であって、真の専門家とは言い難い人たちが中心に、カルト問題を扱って来たのが日本なのです。

さらに、被害者の代理人などという立場は、もっと何者であるか、よく分かりません。私から見れば、ドッペルゲンガーとでも呼ぶべき不気味な存在で、他人の分身になることによって、その人をマインコドントロールするのに非常に都合の良い立場です。

たとえば、誰かの後見人になれば、その人の法的権利まで取り上げられますから、後見人制度を悪用する人たちもいるわけですが、代理人には権利は取り上げられないが、誰かの意思を代弁することはできるのです。


しかも、代理人が、本当にしかるべき代弁をしているならまだしも、鳴尾教会に対する裁判の時のように、代理人が信者を敗訴に導いているのであれば、いかに敗訴は、提訴した信者の責任であると言っても、信者を裁判へ焚き付けた代理人にも、「道義的責任」が生じることは、免れられないでしょう。

なぜ代理人に関する話と、主任牧師引退の話が結びついているのか、すごく分かりにくい不思議な記事ですね。代理人が、信者に訴訟を勧めても、訴訟の途中で、約束した和解を蹴って、加害者が逃亡する例もある。そういう加害者にも、真に「応分の酬い」を受けさせているのであれば、代理人には、道義的責任など生じるはずもないことですが、勝てると思った訴訟で、加害者に逃げられてしまった被害者たちは、無念を噛みしめざるを得ないでしょう。

さらに、代理人が訴訟を勧めても、信者が敗訴した場合、敗訴という不名誉な事実を覆い隠すために、加害者とみなした人間にいつまでもブログで誹謗中傷を重ねることは、不法行為でしかなく、加害者に対する「応分の報い」とは全く呼べないことは言うまでもないですね。


掲示板も、それ自体が、ドッペルゲンガー(グノーシス主義の悪意ある鏡)であり、本体を凌駕して滅ぼすための「分身」なのです。

私に対して悪意を持つ者(おそらくカルト被害者救済活動の支持者)が、ディプログラミングの手法に基づき、このブログを私が更新し続ける限り、嫌がらせをやめないぞという意思表示をしているわけなんです。

被告Aは私が異端者であるとブログにも準備書面にもあからさまに書いていましたが、掲示板の著作権侵害も、私の考えが「異端的教説」であるとみなし続ける人間が、「俺たちを批判するおまえの口を封じるまで、権利侵害に及ぶぞ」と言って加えている懲罰だと私は受け取っていますよ。


被告Bのブログが引用されて締めくくられるところを見ても、こうした権利侵害を繰り返す人間が、カルト被害者救済活動を擁護したいがためにやっているという目的は明らかではないですか? 常に被告Bに更新をリードさせておきたいから、私のブログを引きずりおろし、かつ、被告Bの記事を見せつけるために、コピペを繰り返しているのではないでしょうか。

被告Bは自らのブログで、法的措置が難しい場合には、社会的制裁として、自らのブログでカルトの疑いのある人物や団体を批判する、と書いていませんでしたか? これと同じように、もしくは、これにならって、掲示板で、カルト被害者救済活動の敵対者とみなした人物に「社会的制裁」を加えたい人たちがいるということだと私は思っています。


日本のプロテスタントの牧師らが行って来た強制脱会活動については、まだ全体が裁かれたことがなく、統一教会からは多数の批判と裁判例があり、さらに書籍も出てますが、まだまだ世間にこの問題が一般に周知されたとは言い難い状況にあります。

そこで、今回、このような運びになっていることには、運命的な巡り合わせを感じます。これまで強制脱会活動の違法性を訴えて来たのは、主に統一教会の信者でした。しかし、カルト被害者救済活動が違法であることを、キリスト教の中からも、誰かがはっきりと証明し、キリスト教徒の側からも、この運動を真に終わらせることが必要な時期に来ているのだと私は思っています。


掲示板の権利侵害は、毎回、これまで、裁判の判決などが近づくとやたら激化して来ました。この度、控訴審が始まろうとしていることが、よほど怖いのではありませんか。まあ、私としては、ネット上の嫌がらせを行っている人物を特定する材料が提供されて手がかりが増えるのは、ありがたい限りなんですが・・・。

それにしても、「応分の報いを受けている」。これはすごく怖い言葉だと思います。こういう言葉をさらっと言える人って、人間としてどうなのかと思います。私は勝訴した人物からも、賠償金を払われてないですから、加害者は応分の報いを受けていません。でも、それがかえって今の私にとっては良き効果を生んでいると思うんですよ。

これは賠償金を払わないことを正当化したり、免罪するために言うわけではありません。ただし、勝訴したからと言って、相手を完全に叩き潰すがごとく、執拗に追い続けて「応分の報い」を受けさせるなどということは、私には到底、許されてもいないことを言っているのです。


たとえば、家や土地があれば、わずかな賠償金で家を追われる事態にもなりかねないわけで。職が分かっていれば、仕事もクビになる可能性があるわけで。やろうと思えば、債務名義を片手に徹底的に相手を追い詰めることが可能なわけですし、それができるなら、そうなっていたかも知れませんが、そういう運びになっていないこと、そうなる前に各種の制止があり、かつ、控訴審も始まり、あくまで裁判所が許可した範囲でしか動かないよう道が限定されていることも、私にとっては極めて幸運であって、私が神に愛されていることの一つの証明なのです。

「応分の報い」を受けさせるって、とても怖いことです。加害者を追うのも、あくまで法的に許容された範囲で、判決に基づく強制執行くらいでとどめておかないと。鳴尾教会に対する裁判のように、敗訴した人間が、法的措置も及ばないはずの領域で、自ら相手に「社会的制裁」を加えるなどということは、絶対にやめた方がよろしい。

報復される方は神ですからね。勝っても負けても、自分自身で相手に報復した場合、その人も、悪魔と同じ報いを受けることになりかねません。


ですから、私は当ブログを巡る裁判では、一度で全部勝たなかったことも、争いが控訴審に持ち込まれて長引いていることも、私自身は何の栄光も受けていないことも、すべて神の采配と思いますよ。私には慢心するまで勝利を喜ぶ暇すらも与えられておらず、踏みつけられ、苦難が続いているだけなのですが、そのこと自体が、最大の防御であり、神の恵みと憐れみの証拠なのです。

そういう現状があればこそ、なおさら、一審判決は、私にとって価値ある尊いものなのですへブル人への手紙のごとく、。「まだ見ぬ約束」であればこそ、私は約束のものをはるかに仰ぎ見て、信仰によってこれを喜びを持って迎え、自分がこの地上では寄留者であって、目に見える都ではなく、見えない都を目指して歩んでいることを、尽きせぬ憧れと、誇りと、感謝を持って言い表すのです。

私たちの「応分の報い」は天にあるのです。そのことを考えれば、仮に約束のものに到達せずに死ぬことがあっても、決して恥とは思いませんね。なぜならば、天にはもっと大きな報いが待ち受けているからです。


しかも、神はいつでも私たちに必要なものを、別のルートで、すべて必要なタイミングで供給して下さいますので、苦難があれば、豊かな慰めも伴うのです。このように、判決を得ることには多くの犠牲が伴うものの、それだからこそ、なお一層、判決は尊く価値あるものと私には見えるのです。

* * *


名誉毀損により刑事告訴されたカルト被害者救済活動を率いる牧師が、ブログ記事を非開示にしたと言いながら、一部、閲覧可能なまま放置している。判決で削除を命じられた記事についてもそうだが、ブログが削除されたのか、非開示にされたのか、閲覧者が限定されただけなのかは、実に大きな違いである。

さらに記事の一部が残っていた場合、削除したことになるのか。こうした問題については、慎重な見極めが必要である。

掲示板の著作権侵害は、犯人が特定されるまで、続行された方がむしろありがたいかも知れない。終わったと思ってもまたぞろ出て来るのは、やはり特定せよという天の声とみるべきかも知れない。
 
 筆者は大々的な権利侵害のネットワークを何としても徹底追及しようとは考えていないのだが、これだけ執拗に繰り返されるのは、やはり追及せねばならない理由が存在するからではないのかと思わずにいられない。

筆者は、賠償金の回収を自分の責任として負わないこととしている。この問題には、裁判所が何らかの応答をするであろうし、それは筆者にとって、決してマイナス要因としては働かないだろう。

払おうとしなければ、払わない人間の信用が下がるだけである。一審判決を重んじない人が、何を目的として控訴するのか。二審でも自分に不利な判決が下った場合、それも無視するのかと、問われることは間違いがない。


カルト被害者救済活動を率いる牧師も、他人には謝罪と償いを要求しながら、自分自身が責められる段になると、賠償を払わないダブルスタンダードを容認するのでは、これから先、社会的信用は得られないだろう。

当ブログを巡る今回の裁判によって、カルト被害者救済活動の本質がとことん明らかになった、と筆者は考えている。この運動を今になっても正義の活動のように考えている人は、世間ではほぼ見当たらなくなったのではないか?

警察でさえ、牧師が信徒を名指しで非難するなどあり得ないと発言していた。まして告訴するなど言語道断な所業と言って差し支えない。宗教を知らない一般人から見ても、こうした牧師のしていることは異常と映っているのだ。

こうして、2009年から筆者の指摘した通りの過程を、カルト被害者救済活動は辿っている。めくらめっぽうの異端狩り、無実のキリスト教徒の粛清、魔女狩り裁判・・・。

当時から、被害者意識などに溺れていては、何も始まらないと、筆者は何度も警告している。自分には甘く、他人には厳しく、自己の責任は何も負おうとしないで、ただ他者だけを延々と責め続けるなどのことをしていれば、とんでもなく甘えた人間になって行くだけである。他人を責めるなら、なおさらのこと、自分自身も責められたとき、潔く責任を取らなくてはならない。

被害者意識、特に、神と教会に対する被害者意識は、人間を狂わせる。教会が教会に戦いをしかけ、互いに潰し合うなど、悪魔の所業としか言いようがない。

* * *

昔、学校では風紀員会などというものがあり、校則に違反したり、掃除をさぼっている生徒がいたら、先生に報告する「チクリ屋」の生徒がいましたが、カルト被害者救済活動に従事している人たちは、どこかしらそれに似ていると思いませんか。

当初から予想していたことですが、この運動は、初めは「カルト化した教会」だけを取り締まるなどと言いながら、いつの間にか、役所や、安倍政権批判をする人たちまでも「取り締まる」ようになっているようです。

自分たちは、過去の罪を反省して、清く正しく美しい生き方を目指してリハビリを重ねているという自負(実は束縛されているだけ)が、自由に生きている他者へのバッシングに向かうのでしょか。

掲示板は、役所への批判には過敏に反応しますね。(カルト被害者救済活動の支持者たちは)、自分たちは権力に勇敢に立ち向かっているかのように見せかけながら、いつの間にか、権力に迎合し、弱者や、権力になびかない変わり者をバッシングするようになったのです。私は当初からそうなるとずっと予告して来ました。

政権は自分になびかない国民を攻撃するために掲示板を都合よく利用しているともっぱらの噂です。こうした状態が続けば、いずれ宗教の枠組みを超えて、秘密警察か、隣組のような自警団だって出来かねないと思います。ディプログラミングの手法を使って、自警団のごとく集まった人々が、何の資格も知識もないのに、政権に不都合な人たちを「カルト」や「狂人」に仕立て上げるといったことも、起きかねないのです。

皇帝ネロが今風にキリスト教徒を迫害するとしたら持ち出しそうな理屈ですね。本当は何がカルトかなんて問題はどうでもよく、現政権に都合の悪い人物を迫害したいだけだとすればどうでしょう?

ところで、なぜこの時期に主任牧師引退の話など持ち出して来たと思いますか? 自分は引退なんてしていないぞと、アピールせずにいられない動機があるからでしょう。いつも権力を振りかざし、地位を誇りに思い、いつでも自分が相手よりも優位に立っていることを確認しないと気が済まないからではないでしょうか? 

こういうタイプの人は潔く引退しません。引退を求められても、しぶりにしぶり、引退したように見せかけて、陰の実権になったりして、あとを濁すのですね。どこかの教会ですでにそういう事件が起きました。そんな風に地位にしがみつくのは、自分が他人から権力を持たない無力な人間、人々の支持を失っていると見られることを何より嫌うからです。地位を誇示していないと自信が保てないのです。

すでに書いた通り、ディプログラミングに基づく強制脱会活動に携わっていた人々には、ほとんど専門家としての資格がありませんでした。無資格か、もしくは、通信教育などで学んだ程度のにわか知識で、カウンセラーを名乗っていたのです。真に専門家としての教育を受けていないからこそ、肩書や地位にこだわるのではないですか?

さらに、専門的な資格がなくても、教育訓練を受けておらずとも、代理人という立場を使えば、いくらでも他者の紛争に介入することができる。これはとても恐ろしいことです。無報酬で働いているから、非弁行為ではないというのは、表向きの弁明ではないでしょうか。弁護士のような報酬を受け取らずとも、「献金」ならば、受け取り可能だからです。謝礼金に等しいものを受け取っても、それを他の名目で献金扱いし、無報酬で働いているように見せかけることは、いくらでもできます。被害者が裁判に勝訴してから、報酬という形ではなく、「献金」を受け取れば、それは表向きには成功報酬とはなりません。

しかし、そんな問題は放っておきましょう。私はこういう生き方とは真逆の道を行きます。常にダビデの石つぶて以外には何も持たない無名の市民として、徒党を組まず、権力にすがらず、地位をふりかざさず、富をひけらかさず、自分の手で敵に報復せず、困難な道を行き、裁きは神に委ねます。「応分の報い」を自分から要求しますまい。でも、そうしていれば、必ず、神はその人を高く上げて下さる時が来るのですよ。これは本当のことです。自分で自分を高める人は低くされ、自分を低くする者が高くされる。これが聖書の原則です。

私が神に愛されていると信じられるのは、慢心するよりも前にしたたかに打たれるからです。ひっきりなしの苦難が降りかかり、勝利さえ束の間にしか喜べないのは何のためでしょう? 訓練のためです。そうして十字架を絶え間なく負わなければ、人間というものは、必ず自己過信に陥るのです。それは誰しも同じです。次から次へと好ましい事件だけが起きて、何もかもが順風の時は、人間は必ず慢心します。勝訴も人を高ぶらせるきっかけになります。そういうことが許されない環境を、自分自身が作らなければならないと同時に、主が采配されるのです。

だから、私には勝訴しても、手柄も無ければ報いもなく、誰かがそれを共に喜ぶわけでなく、喜んでくれるはずだった友までも離反し、もう一方の被告からは敗訴だとさんざん踏みつけられ、賠償金は支払われず、取立もむなしく非難されるばかりで、相も変わらず、疑われ、讒言され、迫害を受け続けているのですが、それは、私が打ち立てる勝利は、私のためではなく、主に栄光が帰されるものでなくてはならないからです。そうなった時に、初めて勝利が確立するからなのです。

ダビデが、勇士の部下たちが敵陣で彼のために取って来た水を、自分では飲まず、神に捧げたのと同じですね。その域に達すれば、戦いは完全に終わります。

神は私が自分のための利益と栄光を求めているのか、それとも、主の栄光を求めているのか、どちらなのかをご覧になっておられます。そこで、私が誤った道へ迷い込む前に、適宜、警告や制止や軌道修正がなされることは、私は恵みであると思っています。一番怖いのは、人前に徹底的に踏みにじられて、自己の栄光や誇りを傷つけられることではないのです。むしろ、高ぶりと自己過信に陥り、自分を誇大に見せかけて、嘘に嘘を重ねる生き方から後戻りできなくなることなのです。

ですから、そのような誤りに陥るよりは、恥をこうむっていた方がまだましでしょう。人には何が自己から来るもので、何がそうでないのか、自分で見分けることはできず、神だけがその違いをご存じで、神はこれを切り分けることができます。だから、人は、御言葉の剣に身を委ね、その手術を甘んじて受けねばならないのです。そうして人は、神の力強い御手の下でへりくだらされ、自分自身を練られ、訓練されることが必要なのです。

でも、ふさわしい時が来ればすべてが成就し、嘘は跡形もなく消し去られ、自由と解放が訪れます。栄光ですら与えられます。今、確かめられているのは動機なのです。 


 * * *

さて、これを書いた後、筆者は実際に、書いた通りの出来事に遭遇した。神は大いなる方であり、約束を違わない方であり、へりくだる者を尊ばれる方である。

筆者は新しい目的を見つけたと書いた。船の右に網を降ろせば、いっぱいに収穫があると書いた。本当にそうなったのである。


正しい道を行けば、豊かな報いがある。神の国とその義とを第一として生きるならば、異邦人たちが切に願い求めているようなものは、何一つ苦労することなく与えられる。問題は世の情勢にあるのではない。我が国の情勢や、世界の情勢がどうあろうと、神は私たちの心を直接、ご覧になり、私たちの信仰による確信と願い求めに応じて働かれる。

筆者の第二の人生の始まりである。筆者のみならず、多くの人々が恩恵にあずかることを目指して、自分のためだけでない、新たな生き方の始まりである。この生き方は今後、変わらない。10年くらいのスパンで、筆者はなすべき仕事を果たすであろう。その後、真の大きな挑戦が待っている。その計画が開始したのである。
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当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

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