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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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家庭は主からの贈り物(1)

物心ついたばかりの頃、筆者の家庭は決して穏やかな環境にはなく、子供時代は、自分が将来に持つかも知れない家庭像について、全く幸せなイメージを抱くこと ができなかったし、特に、子供に関しては恐れさえ感じていたものである。
 
しかし、私が人生において神の取り扱いを受けてから、明確に変わったものの一つが家庭観である。

主が私の心を癒して下さり、私の生まれ育った家庭に平和を与えて下さったことをきっかけにして、自分の育った家庭、将来に築くかも知れない家庭を問わず、キリスト者にとって、家庭を平和に治めることがいかに(不可能でなく、当たり前のこととして)重要であるかを感じるようになった。
 
一人のキリスト者が実際にどのような人間であるかを判断するに際して、明確な基準となるものの一つが、その人の家庭であると言って差し支えない。私たちは、他人に対してならば、自分をよく見せかけることができるかも知れないが、家庭において、偽ることのできる部分は知れている。しかも、自分よりも弱い者でへの態度には、私たちのありのままの欠点が隠しようなく現れる。

もし信者が、口では大きなことを語りながら、自分の身近にいる弱い他者を踏みつけたり、軽んじたりしていれば、それは家庭に必ず現れる。私たちが人生を共にしている人々が、私たちと共に生 きることを心から幸せに感じているかどうか、その点に、私たちの他者への愛と憐れみが本物であるかどうかが明確に表れるのだと言えよう。

家庭についての偏った考え方は、何も、平和な家庭に育たなかった子供だけの専売特許ではないし、新興宗教だけに見られる特異な現象でもありませ ん。神のために奉仕したい、と熱心に願っている信者が、誤った熱意から、しばしば、自分の家庭をかえりみず、家庭を半ば捨て去るような形で、自分だけ奉仕 に専念し、それを神が喜ばれる「信仰」であると思い込んでいる場合がある。

だが、「神のために」という名目で、妻や子への義務をおざなりにし、当たり前の家庭生活を犠牲にすることは、正当化できることではない。家庭をおざなりにしながら、それを「神のために、この世を捨てる」ことと同一視し、自分の心の冷たさと、支配欲と、周囲の人々の悲しみを、なおかえりみないことは重大な罪であると筆者は考えている。

不公平な引用の仕方であると言われてしまうかもしれないが、今、ジョージ・ミュラーの伝記から引用したい。我々は、ミュラーを信仰の偉人であると考えているが、それでも、この伝記には、著者がミュラーを誉めたたえるような記述は全くと言っていいほど存在しない。

むしろ、ミュラーという人の弱さや欠点も隠すことなく書かれており、この伝記を読むと、ジョージ・ミュラーでさえ、当初は家庭について、子供について、いささか冷たい考えを持っていた時期があったことが分かる。

「一八三一年八月九日、ミュラー夫人は死産し、続いて六週間、非常に危険な状態にあった。この間彼女の夫は、自分の心が冷たく肉的であったこと、祈りがし ばしばためらいがちで形式的であったことを嘆いている。また、神に対して熱心である反面、最も霊的でないものがあることを知った。彼は特に、出産というも のの非常な危険をもっと真剣に考え、妻のためにもっと熱心に祈るべきであったという点について、自分を叱責している。また、自分は今まで、生まれてくる幼 児をかかえて親となることを心から喜ばず、むしろ主の仕事をする者にとって子供は新しい重荷であると考えていたということも、はっきりと知った。」
(A.T.ピアソン著、『信仰に生き抜いた人 ジョージ・ミュラー その生涯と事業』、いのちのことば社、p.65)
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