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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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家庭は主からの贈り物(2)

ミュラーはこの時、自分は神に仕えることにおいては熱心であったけれども、彼の熱心は、あたかも自分ひとりだけ、神の御前で点数を稼ごうとするような、偏っ た、冷たい熱心であったことに気づいたのです。神が喜ばれるのは、神の御前で自分を高く掲げ、自分ひとりが義とされようとするような奉仕ではなく、むしろ 身の回りにいる最も弱い者たちのために、喜んで自分を低くし、ささげることのできる奉仕であると理解したのです。

ミュラーは幸いなことに、自分の誤りを主によって照らされた時、それをはっきりと認めて悔い改めることのできる柔軟な人でした。そこで、この不幸な出来事 は、彼にとって損失に終わりませんでした。彼は自分が心の中では、まだ親となるに十分な準備ができていなかったこと、子供を受け入れる心が足りなかったこ とや、妻の重荷に対して無関心でありすぎたことなどを悟り、その心の冷たさを、神を悲しませるものとして、深く反省し、悔い改めを通して、親となることへ と整えられていったのです。伝記の著者ピアソンの次の言葉に耳を傾けたいと思います。

聖別された家族関係というものは神から与えられた特権であるということを深く考えてみない人が、なんと多いことであろうか。妻や子は、祈りの答えとして受ける時に、神からの最良の贈り物と感ぜられるのである。妻子は妨げでないばかりか、実によき内助となり、キリストへの奉仕のある分野においては妻子こそ最適任者であって、ほかの人にはできないことがある。

妻や子は夫あるいは父が多くの貴重な教訓を学ぶのに役だち、彼の人格をますます円満なものにし、彼をみごとに均整のとれた美しい有用な器にする。また妻をめとることにより、互いに助け合って聖潔に進み、更に有用な器となるために力を合わせ、また何にもまして、敬けんな子孫があとを継ぐようにその基礎を築くことができるのだということを深く考え合わせるならば、神聖な結婚生活あるいはその実である子供を、軽々しく扱ったり軽べつしたりすることが、どんなに悪いことであるかがはっきりとわかるはずである。

また、この約束を忘れてはならない、『もしあなたがたのうちふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう』(マタイ一八・一九)。この『心を合わせる』という言葉は、ギリシア語では調和させるという意味で、楽器の幾つかの弦が一つの手によって、同じ調子に調和されてかなでられるような、音楽的な調和を暗示する言葉である。

夫と妻が主にあって結び合うことは、このような祈りのふだんの調和を得るための一つのすばらしい準備なのだ。御霊が、夫と妻が『いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として』心を一つにしてともに住むようにと命じ『それは、あなたがたの祈が妨げられないためである』と付け加えておられるのは、このようなことを言われたのではないだろうか(第一ペテロ三・七)

 神はジョージ・ミュラーに対して、このきびしい教訓を永久的な祝福に変えて下さった。彼の心が利己心や肉的性質の巧妙な勢力に対していかに開放的である か、またこうした懲らしめによって結婚生活と親の責任の神聖なことを学ぶことがどんなに必要なことであるかを示して下さったのである。それ以来、彼は主に さばかれることがないために、自分をよくわきまえた(自分をさばいた)(第一コリント一一・三一)。」(p.65-66)


 神に仕え、教会を建て上げたいという私たちのビジョンが、日常から遊離した大言壮語にならないように気をつけたいものです。主にあって、キリスト者がエ クレシアを建て上げるという偉大な仕事は、日常生活において、私たちが家庭を建て上げるという、知られざる、地道で、平凡な一歩、一歩を通して、学ぶこと ができるのです。だから、次の御言葉の重みを忘れないようにしましょう、「自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。」(Ⅰテモテ3:5)

(追記:誤解のないように改めて断っておきますが、この記事は、家庭が信仰の賜物であるなどと言って賛美したり、信者が信仰生活よりも家庭を優先するようにという意図を込めて書かれたものではありません。

 パウロは、もし信者が独身であれるなら、その方が良いと述べています。なぜなら、その方が主に捧げられる時間が多くなるからです。しかしながら、夫婦が一つとして結ばれることに、神の采配があることも否定しません。

 しかし、この記事で筆者が意図しようとしていたのは、神にあって結ばれる夫婦の素晴らしさではなく、現実にすでに神に与えられて家庭を持っている信者が、信仰を理由に家庭を放棄することは許されないということです。


 この記事を書いた当初、筆者の周囲にいる信者の兄弟姉妹の中には、異端の教えを奉じる団体に長い間、とりこまれていたために、その間に、家庭が崩壊に瀕し、夫婦仲は断絶し、子供は自殺に至り、あるいは重い病に陥っているにも関わらず、それでも、自分自身がかつての教えの誤りをきちんと認めないまま、家庭からは半ば別居状態で離れては、信者の家々を巡り歩き、宗教活動に逃避していると見られる例がありました。
 
 この記事はそれに対する警告として書いたものですが、その後も、未成年者の子供を働かせながら、自分だけは宗教活動に没頭している親の例や、我が子と完全な断絶状態にありながら、信仰生活のみに没頭している親の例などを数知れず見て来ました。

 そうした人々は、家庭を放棄して、特に我が子や伴侶を放棄して、宗教活動に邁進していることを自慢げに話すのですが、そして、時折、その我が子や伴侶との断絶さえ、信仰の試練であるかのように誇らしげに語るのですが、筆者にはそのような考えに同意することはできません。

 信者がいかに高邁な真理を述べていたとしても、もしその人に家庭があるならば、それをかえりみる義務までが、信仰のためになくなるわけではないのです。まして弱い立場にある子供たちを犠牲にしてまで、神に奉仕するようなことを、まことの神は決して信者に要求なさいません。子供たちが信仰に理解を示さないことを理由に、親が子供たちへの世話を放棄し、彼らを見捨てたり、断罪することも誤っています。

 
 もしある人が信仰を理由として、子育てや、伴侶をかえりみることを放棄しているならば、そのようなものが果たして真実な信仰と言えるのかどうか、神に喜ばれる生き方なのかどうか、もう一度、考え直した方が良いという意味で、この記事は書かれています。)

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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