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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

不義を離れる(1)

「またあなたがたのうちに、毒草や、にがよもぎを生ずる根があってはならない。そのような人はこの誓いの言葉を聞いても、心に自分を祝福して、『心をかたくなにして歩んでもわたしには平安がある』と言うであろう。そうすれば潤った者も、かわいた者もひとしく滅びるであろう。

主はそのような人をゆるすことを好まれない。かえって主はその人に怒りとねたみを発し、この書物にしるされたすべての のろいを彼の上に加え、主はついにその人の名を天の下から消し去られるであろう。主はイスラエルのすべての部族のうちからその人を区別して災いをくだし、 この律法の書にしるされた契約の中のもろもろののろいのようにされるであろう。」(申命記29:18-21)


 旧約聖書の中には、イスラエルの民の中に、神の戒めに背く者が現れたせいで、ここ一番という勝負時に、民全体が、戦いにおいて敗北してしまった、という記述がいくつか見られます。たとえ少数の人々であっても、誰かが心を頑なにして、神の戒めに背くなら、民全体に甚だ悪い影響が及んだのです。神が選ばれた民が勝利する秘訣は、民全体が神の戒めを守り、そのうちにどとまることでした。

 新約になり、恵みの時代になったからといって、私たちは十字架を自分に都合よく悪用して、いつまでも罪を犯し続けることの正当化のために用いることはで きません。私たちが人生の行程において、本当に神に先導していただいて、平らかな道を歩み、困難な時に神に守っていただき、勝利を得たいと願うならば、自 分はもちろんのこと、私たちの愛する兄弟姉妹の一人ひとりに至るまで、罪なる生活の中を日常的に歩んでいないかどうか、キリストの聖潔にならう者となって いるかを、今一度考えて、不義を愛する者たちと訣別する必要があります。

 特に、終わりの時代には、悪しき人々が現れることを聖書は警告しています。文脈に注目するならば、それは信仰とは無縁の世人のことを指しているのではなく、まさに、神を信ずると告白する信者のうちに、そのような者たちが現れると予告されているのです。

「終わりの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢 な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、 乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。」(Ⅱテモテ 3:1-5 )

 私は言います、自分の肉眼を通してでさえ、兄弟姉妹を名乗っている人たちの中に、このような甚だしい悪事があるのを私は見ます。私は自分が戦いに臨む時、断じて、上記の御言葉に挙げられたような人を守るために前線に赴いたり、このような人を兵士として、戦友として、隊列に加えて共に戦うことはできません。なぜならば、そのような人が軍隊にとどまっていれば、その軍隊は敗北するより他はないことは明白だからです。焼き尽くす火のように全てを清められる御 霊は、そのような悪がご自身の選ばれた聖なるエクレシアの内にとどまることを決して許されないでしょう。

 もちろん、私たちのうちの誰かが、知らず知らずのうちに誤って罪を犯している場合には、私たちは喜んでその人のためにとりなしの祈りを捧げ、一人ひとり の弱さを共に担い、補い合うべきです。ヨブが、自分の息子たちがもしや罪を犯していないかどうかと考えて、息子たちのためにも、神に犠牲を捧げたように、 私たちも、寛容な心を持ち、兄弟姉妹たちのために積極的にとりなして祈り、互いに赦し合うべきです。しかし、それと、神と人に対して、故意に罪を犯し続 け、指摘されても罪を離れようとせず、不義を愛し続ける人を擁護し、その人と親しく交流を保ち続けることは断じてわけが違います。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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