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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(3)

3.善と悪の弁証法と、サタンの受けるべき刑罰の否定

前回では、サンダー・シングが福音を唯物論化して、「地獄」や「天界」を神の定められた絶対的なものとしてとらえず、むしろ、この世や人の心の状態に応じて作り出される相対的なものであるとみなしていることを説明しました。さらに、サンダー・シングはそれにとどまらず、善悪の概念をも同じように相対化し、悪は永久不変のものではなく、神の御前で動かせない絶対的なものではないと主張するのです。

悪はすべて、何かを得ようとの目的をもって行われるものであって、悪を悪として行なう者は誰もいない。どんな悪者も邪な者も、判断力というものがあれば、自分を傷つけたりはしないものだ。悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではないのである。人を殺し他を滅ぼす悪の有毒な作用が、自らをも永遠に滅ぼす。

永久不変とは、永遠の神の属性[善]についていえることである。悪が永遠なる実在の属性である場合に限り、それは永遠たりうる。「悪」がサタンの属性であるというのも間違いであるサタンもまた無垢な状態に造られたのであり、今のような邪悪な状態は自由意志の乱用によって起こったものだからだ。

このように、悪は永遠ではない――始まりあるところ終わりがある――のであるから、悪は終わりを迎えると結論しなければならない。悪は自らを滅ぼすという点で、特にそれがいえるのである。」(p.285)


この文章は決して注意せずに通りすぎてはならないものです。まず、サンダー・シングが善悪の概念を相対化することにより、善悪の概念そのものを骨抜きにしていることに注意を払いましょう。彼は言います、永遠の神の属性である善だけが永久不変なのであり、「悪は永遠ではない」と。つまり、動かせない絶対的な悪というものはこの世に何ひとつ存在せず、どんな悪にも必ず終わりが来るのだと、あるものが今、悪であるように見えたとしても、その悪はやがて必ず悪であることを終えて、善に還元されるときが来るのだと、そう言っているのです。そして、すべての悪は最終的には善に還元され、善だけが永遠に残ると言っているのです。

これは善悪の切り分けそのものの否定です。このような考えに立つと、神の御前で、永遠に動かせない絶対的な悪というものは何ひとつ存在しないことになります。

さらに注目すべきは、サンダー・シングが「悪には用途(目的)がある」と主張している点です。彼は言います、「悪はすべて、何かを得ようとの目的をもって行われるもの」であると。つまり、彼は言うのです、全ての悪は何らかの合理的な目的があって生まれて来るものであり、必要に迫られて生まれて来るもの(=必要悪)だと。そうである限り、その用途、つまり、悪の悪たる役割を終えるならば、悪はもはや悪ではなくなって、善に還元されるのだと。

だからこそ、サンダー・シングは言うのです、「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではない」と。彼は神の創造した全てのものは、本来的に善であるはずであり(=性善説)、それが悪のように見えるのは一時的に何らかの役割を果たすためにそうなっているに過ぎず、役割を終えれば、すべての悪がいずれ善となる、そこですべてのものは本来的に善であって、永久不変の悪などというものは何ひとつとして存在しないと主張しているのです。

このような性善説が聖書に反していることは明らかです。アダムの堕落により、生まれながらの人類は神と断絶し、キリストの十字架の死を経ずには、人は神に受け入れられない存在となりました。聖書は言います、人類は生まれながらにして一人の例外もなく「自分の罪過と罪との中に死んで」おり、「不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない」「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」であると(エペソ2:1-3)。ところが、サンダー・シングは善悪の概念を相対化することにより、「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではない」として、事実上、原罪を否定し、生まれながらの人類をそのままで罪なき者、善なる存在とみなそうとしているのです。

ところで、私は以前に記事の中で、キリスト教を政治的弱者の社会的救済のために利用しようとする解放神学の偽りに触れました。学者たちは、この解放神学が、神学を装っただけの偽りのイデオロギー宗教であると述べています。大石昭夫氏は「解放神学の基本構造」の中で次のように言います、「解放神学の基本的主張を調べれば蚕の中のさなぎのようにイデオロギーが内部にあることを否定することはできない。」(『解放神学 虚と実』、勝田吉太郎他著、荒竹出版、p.32)

これと全く同じことがサンダー・シングの教え、そして、全てのグノーシス主義に影響を受けた擬似キリスト教にもあてはまるのです。サンダー・シングの教えを調べていくと、これがキリスト教に寄生しただけのイデオロギーであることが分かります。本来、キリスト教では決してありえない異質な思想が、キリスト教を宿主としてその内側に寄生し、巣食っていることが分かるのです。

たとえば、善悪に関するサンダー・シングの主張がマルクス主義者のものとほぼ完全に一致していることにご注意下さい。マルクス主義者は言います、ある時代に悪(不合理)とされた概念でも、時代が交替し、その用途を果たし終えれば、悪(不合理)であることを終えて、むしろ善(合理的なもの)に転換すると。そして、歴史の中で、合理的なものも全て時とともに不合理となり、不合理なものも合理的となるというのです。

「…さきには現実的であったものが、すべて発展の過程のなかで非現実的になり、その必然性、その存在権、その合理性をうしなっていく。死んでいく現実的なものに代わって、新しい、生活力のある現実性が現れてくる、――古いものが反抗せずに死んでいくほど賢明な場合には平和的に、古いものがこの必然性にさからう場合には暴力的に<…>。すなわち、人類の歴史の領域で現実的であるものは、すべて時とともに不合理になるのであり、<…>人間の頭脳のなかで合理的であるものは、どんなに現存する見せかけだけの現実性と矛盾していようと、すべて現実的になるようにさだめられているのである。」(『フォイエルバッハ論』、p.11より)

このような主張は、善悪というものが本来、神の御前に絶対に動かせないものであることを否定し、善悪の区別を消し去ってうやむやにしてしまいます。

「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではない」というサンダー・シングの考え方に立つならば、創造の初めから、神の善と全く相容れないものは何ひとつこの地上に存在せず、今、仮に神と人との断絶があるとしても、それも一時的状態に過ぎないので、すべての被造物が究極的には神に回帰し、神の善の中にいずれ吸収されていくということになってしまいます。つまり、このような主張に立てば、御子の十字架の死によらなければ絶対に解消され得ない神と人との断絶というものは存在せず、神の御前に永久に罪定めされる悪は存在しないことになります。

覚えていらっしゃる方もおられると思いますが、以前、私はグノーシス主義文献の『ユダの福音書』においては、イスカリオテのユダの裏切りが「善」とみなされて正当化されていることに触れました。そこでは、ユダこそが主イエスの最高の弟子であったとみなされています。グノーシス主義者がそう考える根拠として挙げているのは、ユダの裏切りが、神のご計画の成就のために必要不可欠な一部をなしていること、その点で彼の行為は必要悪として役目を果たしたということです。つまり、サンダー・シングと同じように、グノーシス主義者も、「悪はすべて、何かを得ようとの目的をもって行なわれる」と考え、その文脈で、ユダの悪は、神のご計画の成就(グノーシス主義者は神のご計画というものもきわめて独自に歪めて解釈するわけですが)を助けるという特別な「目的」を果たしたのだから、ユダの行為はもはや悪ではありえず、最高の「善」と言って差し支えないと主張するわけです。

(「…不条理な物質世界から退場できるのだから、死を恐れたり怖がったりすることはないのだ。死は悲しいものではない。イエスが肉体から解放され、天上の家に戻る手段である。そしてユダは、敬愛するイエスを裏切ることで、彼が肉体を捨て去り、内なる神聖な本質を自由にすることを手助けしている。」 『原典 ユダの福音書』、日経ナショナルジオグラフィック社、p.8、マービン・マイヤー氏による解説)

このような詭弁は、目的が手段を正当化するという恐ろしい考えを生みます。このような考えに立つと、地上における全ての善悪の概念はうやむやにされ、何らかの崇高な目的さえあれば、それを達成する手段として人はどのような悪事を犯しても構わないという結論になります。むしろ、全ての悪は善に通じるので、合理的な目的のためならば人類はためらいなく悪事を犯せばよいという話になるのです。

作家ドストエフスキーは『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフという人物に、「目的は手段を正当化する」というこの思想を体現させたわけですが、このような思想は、すべてのテロリズムに共通する思想であり、どんな倫理・道徳をも骨抜きにしてしまう非常に恐ろしい考えです。たとえば、共産主義建設のため、人類のユートピア建設のためという口実で、歴史を通じてどれほど血塗られた方法が用いられてきたことでしょうか。そのようなものを正当化するのがこの思想なのです。人類の幸福社会の建設という「合理的な目的」を口実にすれば、どんな悪事を犯しても、それは「善」として正当化され、容認されうるというのがこの思想なのです。

私たちが人間の弱さを弁護するために、悪を悪とせず、罪を罪として見なくなる時、神の御前に善悪が動かせない絶対的なものであることを認めず、むしろ、人間に都合の良い観点から善悪を判断しようとして、善悪の線引きを巧妙にずらしていくとき、すなわち、聖書に沿って、神がご覧になるように善悪を判断することをやめてしまうとき、それは一種の「悪の解禁」のような状態を招くのです。そこでは、最も恐ろしい悪でさえ、最も麗しい善のように咲き誇り、古くからあった善良なものが、かえって時代遅れな無用の長物として批判され、退けられるのです。目的の見せかけだけの崇高さがあらゆる悪事の忌まわしさを覆い隠し、どんなに多くの人間が苦しみに遭っても、その犠牲はかえりみられません。私たちは断じて、このような価値観の到来を許してはいけないのです。

さて、話を戻せば、サンダー・シングは、先に引用した文章の中で、サタンの悪でさえ永遠ではないと、さらに恐るべきことを述べています。もう一度引用しましょう、「永久不変とは、永遠の神の属性[善]についていえることである。悪が永遠なる実在の属性である場合に限り、それは永遠たりうる。「悪」がサタンの属性であるというのも間違いであるサタンもまた無垢な状態に造られたのであり、今のような邪悪な状態は自由意志の乱用によって起こったものだからだ。」

これも決して注意せずに通りすぎてはならない文章です、彼は「悪はサタンの永久不変の属性ではない」と述べているのです。彼は言います、サタンも本来は無垢な存在に造られたのであり、彼はただ自由意志を乱用したという点で間違っただけであって、全ての「悪は永遠ではない」以上、「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではな」く、従って、神に創造されたものとして、サタンの「悪」でさえ永久不変の属性ではあり得ないのだと。

サンダー・シングはここでクリスチャンをはばかってか、あえて言葉を濁して最後まで言い切っていませんが、このことは結局、サタンの悪にもいずれ終わりが来て、サタンは善なる存在に転換すると言っているのと同じなのです。

サンダー・シングはサタンの「悪」を、「行動面」にのみ絞り込むことによって、サタンの「行動面」の悪と、彼の「性質」とを分離しようとします。すなわち、サタンは「自由意志の乱用」という行いによって、「今のような邪悪な状態(注意して下さい、彼はここで悪を「状態」とみなしているのです)に陥ったが、それによって、本来は「無垢な状態に造られた」はずのサタンの性質そのものまでが変わってしまったわけではないと言うのです。なぜなら――彼の主張からは必然的にこのような結論が出ざるを得ないのですが――、サタンが邪悪であるように見えるのは、彼の悪が悪たる役目を終えるまでの間(サタンが神のご計画を助けて一定の目的を成就させるまでの間)の一時的な状態に過ぎず、「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではない」以上、必ず、サタンの「悪は終わりを迎える」時が来ると。その後、サタンは神に創造された当初からの生得の性質であった善に戻るのだと。もっと極言すれば、サンダー・シングはサタンの性質は今も造られた当初と変わらず、無垢なままであると言っているのです(サタンが邪悪であるかのように見えるのは一時的な状態に過ぎないのであって、悪はサタンの永久不変の属性ではないというのですから)。

こんな詭弁にごまかされることなく、きちんと聖書に戻りましょう。聖書はサタンの最終的な末路についてどう告げているでしょうか。「…彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(黙示20:10)

このように、聖書はサタンには一切の名誉回復の余地が残されていないことをはっきりと告げています。確かにサタンは造られた当初は無垢な存在であったのです。それどころか、最も美しい完全な被造物でありさえしたのです。エゼキエル書は言います、「神である主はこう仰せられる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。…あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。」(エゼキエル28:12,15)。 

しかし、サタンは自分の美と栄光に心高ぶり、「神のようになろう」として神に反逆し、失敗して堕落したのです。「あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した。…あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。」(エゼキエル28:16,17) 「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』 しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」(イザヤ14:12-15)

そうです、サタンには「よみに落とされ、穴の底に落とされる」ことが確定しているのです。サタンは人類を堕落させた罪のために神によって呪われ(創世記3:14)「女の子孫」である御子キリストが十字架で彼の頭を打ち砕きました。キリストはご自分の「死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださ」ったのです(ヘブル2:14-15)。そして、「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」(コロサイ2:15)

サタンは永久に打ち破られました! 彼には永遠の敗北が決定しています! 同じように堕落した被造物であっても、悔い改めの機会が残されている人間とは異なり、サタンにはいかなる悔い改めの余地も残されていません。サタンには神の善に立ち帰る道が永久に閉ざされているのです。そればかりか、燃える火と硫黄の池での永遠の刑罰が確定しているのです。ですから、サタンには永遠の罪定めと滅びがあるのみで、名誉回復など永久にあるはずがないことは明らかです。

にも関わらず、聖書が永遠の刑罰を宣告しているサタンでさえいずれ善なる存在に立ち戻るかのように語るサンダー・シングの教えが、どんなに危険なものであるかは、これでお分かりいただけると思います。サンダー・シングに限らず、全てのグノーシス主義の教えに共通することですが、どんなに神の御名を利用して、敬虔なキリスト教のように装っていたとしても、神の御前での善悪の絶対性を否定し、サタンの悪を相対化し、サタンでさえ神に立ち帰る可能性があるかのように見せかけ、サタンに定められている永遠の刑罰を否定するような教えは、全てまことの神から来た思想でなく、むしろサタンに由来する思想であることが明らかなのです。

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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