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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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Emi姉妹のこと(3)

その当時、きっと誰もが、私は故郷を発って後、すぐに兄弟姉妹のもとへ飛んで行くと想像したことでしょう。そして、私自身もそう願っていました。どれほどこの交わりが私にとって輝いて見え、心のよりどころとなったことでしょう。

しかし、実際には、交わりに私が足を踏み入れるまで、それから半年間の空白期間を要したのです。この空白期間については、今ここで語る心の準備がありません。私はこのことについて、もっと深い反省と学びが必要であると感じています。

しかし、いずれにせよ、多くの時を経て、Emi姉妹が願われたことがついに実現しました。Emiさんとさっちゃんと私は、それから約半年後に、初めて、3 人で顔を合わせたのです。それは、Emiさんが死を迎えられた病院での出会いでした。しかし、その時が、主が私のために定められた時でした。限られた条件 の中、主の憐れみにより、最大の祝福を、私は受け取らせていただいたと確信しています。

その時、私たちは互いに語りたいことを語って満足するために会ったのではありませんでした。また、団体のメンバーとして出会ったわけでもありません。私た ちは、ただ主をあがめるために、主によって、そこに集められたのです。神は、私の失敗さえも見越した上で、私たちのために最善の時を備えられたと信じま す。時に、私たちの目の前で起こっていることは、最善からはほど遠いように感じられますが、しかし、主の観点から見て、何より大切なのはただ一つ、そこに 本当に主イエスの十字架が刻印されているのかどうかなのです。

Emi姉妹が十字架を負って、自分の力をますます手放して無力となっていかれた時、そこに彼女ではなくキリストが生きられたのです。最も無力を味わった人 だけが、弱い人をおびやかさず、臆病な人に恐れを与えずにいられます。私は姉妹の弱さの中に働かれたキリストによって、姉妹に近づくことができたのだと 思っています。ついに、彼女の地上での見える姿は取り去られました。しかし、主にあってとこしえの朽ちない命を生きる限り、私たちは一つであり、引き離さ れることはないと私は信じます。私が地上で多くの時をロスしたにも関わらず、それでも、キリスト者の「一つ」は、それによって破られることはなかったので す。ですから、私はいつまでも悲しむことはありません。

キリスト者には、地上のいかなる絆をも超えるほどの、絶大な特権的な絆が与えられています。地上では、どんなに愛し合っている家族も、夫婦も、引き離され たり、別れたりしますが、天においては、キリスト者は神のものとされており、永遠に一つなのであり、十字架で死をも打ち破ったキリストによって結び合わさ れている私たちは、どんな力によっても、二度と引き離されないのです。

どうかEmi姉妹のご家族に、慰め主であられる神の慈しみと、憐れみが、豊かに注がれますように。姉妹のご家族が、私たちに地上で姉妹に別れを告げる機会を備えてくださったその労に感謝いたします。

「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことは できないのです。 」(ローマの信徒への手紙 第八章38-39節)

「ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。 パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、 あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」 (コリントの信徒への手紙一 第三章21-23節)


(2016年追記:

もうこの姉妹の死から随分な月日が経って、あえて沈黙している必要もないと感じるので、率直に、当時のことについて追記しておきたい。

他の記事でも書いたが、Emi姉妹は、様々な能力のある人で、英語力などを活かして、長らくKFCで「奉仕」に当たっていたが、病床にあって最後のひと時に、KFCを離れ、この団体と霊的に完全に訣別したものと筆者は理解している。

そう理解するのは、この死の前の最後のひと時に姉妹を訪れたKFCの「兄弟姉妹」が、挨拶もそこそこに不愛想に追い返されるも同然に帰って来た、という話を聞いたからである。そして、もしそれが本当ならば、それは大変、良いことであったと筆者は考えている。

この姉妹から筆者が初めて手紙をもらったのは、筆者がまだ横浜に来る直前のことであり、その当時、筆者はKFCの内情を全く知らなかったが、その手紙をもらったことを機に、KFCという団体に深刻な疑念を持ち、姉妹に会うことにも、一種の躊躇を感じたのは事実であった。

何しろ、横浜に来ようとしている計画を、筆者は誰にも具体的に打ち明けていなかったにも関わらず、見知らぬ姉妹から、筆者がKFCに関わろうとしていることを確信するような内容の連絡をもらったのである。そのような手紙をあえて姉妹が書いた動機を、筆者は非常にいぶかしく思った。

筆者特有の直観で、「これは行状偵察だ」ということを感じたのである。つまり、KFCの縄張りに新たに足を踏み入れようとしている人間、特に、Dr.Lukeに近づいて来ようとしている人間に対する一種の身体検査である、と感じられた。
 
その手紙の存在から、Dr.Lukeを中心として、まるでファンクラブのような信者のサークルが存在し、何かしら「縄張り」のようなものがあり、同時に、争いもあることを筆者は確信した。そして、そのようなものに巻き込まれることを筆者は嫌ったため、KFCには足を向けないことを決めたのである。

この姉妹は、その手紙を筆者に向けて書いた当時はまだ元気で、KFCでの奉仕活動も出来る状態だったので、おそらくはこの団体の中で一定の力を持っていたのではないかと思われる。

だが、筆者が横浜へ来て後、姉妹の手紙がきっかけとなって、KFCには近寄りもしなかった間に、KFCを離れた兄弟姉妹たちから、KFCの内情を赤裸々に聞かされることになった。そして、どれだけ多くの信者たちが、Dr.Lukeの虜にされて信仰の自由を失い、この団体がいかに危険であるかを説得されたのだが、同時に、この姉妹もまた、Dr.Lukeとその取り巻き連からさんざんな苦労を味わわされ、そこから離れるよう忠告されていたことを知ったのである。

Dr.Lukeとの霊的癒着が生じることを危惧した兄弟姉妹たちは、以前から、この姉妹に、Dr.Lukeとの関わりを断つように助言していた。だが、KFCの中にいた信者も、同じように助言していた。それは、能力のある一人の姉妹を、KFCから追い払って、彼女の占めていたKFC内の地位を奪うためである。

全くKFCという団体のどうしようもない性質がそこによく表れていると筆者は思うが、KFCの兄弟姉妹たちは、Dr.Lukeにどれほど近づけるかを競うために、いかにもこの姉妹のためであるかのように装って、Dr.Lukeから離れるよう彼女に助言していたのである。

だが、姉妹もまた、その必要性を感じていたようであり、同時に、病の進行と共に、以前のように生活が出来なくなっていく中、その心の深刻な悩みを受け止めることのできるような兄弟姉妹はKFCには誰一人いなかったので、結局、彼らの無理解のゆえにも、当然のなりゆきとして、この団体を離れざるを得なかったのである。

そのような二重性のある不誠実なKFCの兄弟姉妹のうちのある人が、姉妹がもう死の床についてから、見舞いに行ったが、半ば追い返されるも同然に帰って来たという話を、筆者は最近になって、当時を知る人から聞かされた。

筆者は、この姉妹が死の床に着いた話をネット上で知ってから、彼女に会いに行かねばと思い立ってKFCを訪れた。本当は、KFCを訪れるべきではなかったのかも知れないが、しかし、少なくとも、この姉妹に会ったことを後悔する気持ちは筆者にはない。
 
姉妹の存命中に、二度ほど面会した際に、筆者は、自分で姉妹の気持ちを確かめるために、あえてKFCとDr.Lukeの話を彼女に向けてみたことがあった。KFCが、毎回、毎回、礼拝で彼女の癒しのために祈り続けていることや、彼女の行っていた奉仕を引き継がないかという提案を、Dr.Lukeから筆者が受けた話も向けてみたのである。

だが、姉妹は全くその話には関心がないようで、自分がKFCでそんな奉仕をしていたということさえ忘れているのではないかと思うほど無関心であった。KFCに何かしらの未練を持っていると感じられるようなそぶりは一切見られなかった。

だから、今考えても、姉妹は、死の床で、KFCという団体の本性をはっきりと理解して、このようなものとは完全に訣別して、キリストご自身に直結しながら、天へ召されたのだと考えずにはいられないのである。

姉妹は有能な人であったが、それにも関わらず、姉妹の奉仕は、まるで「肉による善行」であるかのように、KFCの中で、全くありがたがられてはおらず、KFCに関わったことのある兄弟姉妹に何かしら話を聞いても、良好な反応がかえって来ることはほとんどなかった。

それは不思議ではない。何しろ、KFCという団体は、信者がDr.Lukeの周りの地位を巡って、絶えず張り合っていたからである。脚光を浴びる奉仕をすればするほど、憎まれるという結果になるのは避けられないのだった。ある例では、KFCの入っていた建物の玄関や階段を掃き掃除しただけで、「そんなことは必要ない!」と、罵倒されるも同然に、古参信者から叱られたという人もいたほどである。(本人が呆れ果てて筆者にその話を打ち明けた。)

筆者は姉妹の死後、この姉妹がKFCで行っていた奉仕を引き継ぐべきかどうか、KFCにいた「兄弟姉妹」に尋ねてみたが、まるで「そんな奉仕には何の価値もない」とでも言いたげな、否定的で冷たい反応が返って来たため、やはりそうであったのかと内情を理解し、Dr.Lukeに向かって直接、「あなたが私に提案された奉仕には、兄弟姉妹の誰一人賛成する者もなく、その奉仕が続行されるよう願っている人もいないようですので、兄弟姉妹の理解がないのに、私があえてそれを引き継ぐことは必要ないと判断します」と告げて断ったのであった。

Dr.Lukeは心外な様子ではあったが、ただ「そうですか」としか言わなかった。こうして同氏が信者に何かしらの奉仕を役割分担のように割り振ろうとしたのも、彼が理性でそれなりに計算して、信者がKFC内で手持無沙汰にならず、できるだけKFCから離れられないように仕向けていく方法であった、としか筆者には感じられない。同氏が悪意を込めて計算していたとまでは言わないが、だが、それは御霊の導きではなかったのである。だからこそ、そのような「奉仕」を引き受けると、それが結局、信者がこの団体に依存して行くきっかけになるのである。

筆者は、エクレシアにリーダーや、教師は要らないと確信しているが、エクレシアの建造のために、そんな風に、人工的な奉仕を信者に割り振る必要も全くない。御霊の働きはもっと自由で、人の思惑によって規定されず、制限もされないものである。
 
おそらく、上記の姉妹は、KFCを離れてから、そのようなKFCとは似ても似つかない、本当のエクレシアの姿を、人生の終わりの日には、仮におぼろげであったとしても、見ていたのではないかと想像する。)


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