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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

この世から解放される(1)

  どこであれわたしたちが虚栄に出くわす時、わたしたちはこの世に出くわします。そして、わたしたちと神との交わりには直ちに漏れが生じます。おお、どうか 神がわたしたちの目を開いてくださり、この世が何であるかをわたしたちにはっきりと見せてくださいますように! 邪悪な事柄だけでなく、わたしたちを徐々 に神から引き離すすべての事柄が、神に敵対するあの体系の一部なのです。

わたしたちの中に引き起こされるのが人生の高ぶりであって、神に対する賛美でなければ、わたしたちはこの世に触れたということを、はっきりと知ることがで きます。ですから、もしわたしたちが神との交わりを汚されることなく維持したいのでしたら、わたしたちは絶えず目を覚まして祈る必要があります。

 それでは、どのようにすれば、悪魔が神の民を捕らえるために設けたわなから逃れることができるのでしょうか? まず、わたしは強調して言いたいのですが、救い出される道は、わたしたちが逃れることによるのではありません。多くの人は、この世の事柄を控えることによってこの世から逃れることができると考えます。それは愚かなことです。わたしたちはどうしてこの世的な方法を用いて、この世の体系から逃れることができるでしょうか? マタイによる福音書第十一章十八節と十九節にあるイエスの言葉を思い起こしてみましょう、<…>

キリストは来られて、食べることも飲むこともされました。それがクリスチャンの信仰です! 使徒パウロは「この世の初歩的な教え」について語っています。そして、彼はこれらのものを、「手に取るな、味わうな、触れるな」というものであると説明しています(コロサイニ・ニ〇、ニ一)。 ですから、禁欲主義はこの世的な方法にすぎないものであり、わたしたちがこの世的なさまざまな享楽を放棄して、これによってこの世の体系から逃れることな ど、望むことができるでしょうか? しかしながら、この世から救い出されることを望んでいる熱心なクリスチャンが、どれだけいるでしょうか!

あなたは人里はなれた場所に隠れ小屋を建てて、そこに隠居して、この世から逃れようと考えるかもしれません。しかし、この世はあなたの行く所に、どこまでもついてきます。あなたがどこに隠れようとも、この世はあなたに着いていき、あなたを捜し出します。

 わたしたちがこの世から救い出されることは、わたしたちがあれやこれやを捨て去ることによって始まるのではなく、わたしたちが神の光を持って、この世がすでに死の判決の下にあることを見ることによって始まるのです。本章の最初で引用したしるしは、「倒れた! 大いなるバビロンは倒れた!」(啓十八・二)ということをわたしたちに見せています。死刑は、生きている人に対して宣告されるものであり、死人に対して宣告されるものではありません。
(ウォッチマン・ニー全集 第二期 第三九巻、「座す、歩む、立つ この世を愛してはならない」、p.133-139より)

<引用つづく>
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