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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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世の光として(2)

ブログのような場所で、信仰告白を記し、御言葉の正しさを証し、十字架を語る際に、私の脳裏を、次のような疑問がよぎることがある。

「私がこの文章を発表することにより、誰に栄光が帰されるのだろうか? これを発表することは、本当に、人ではなく、神に栄光を帰するだろうか?」
 
 確かに、私の心にある欺きの深さは、私自身にも、はかり知れない。人の寵愛を失いたくないばかりに、もしくは、人から非難されることへの恐れや、孤立していると見られて侮られないために、必要以上に、人間を美化し、兄弟姉妹を誉めたたえたりするということが、起きないわけではない。

 さらに、本当のエクレシアを見たい、という気持ちが強ければ強いほど、それが神ご自身への期待ではなく、目に見える人間への期待にすり変わって行く危険性が存在するのである。

 そういう欺きの力に打ち勝つための訓練もあってか、筆者が当初は、とても美しいものと考え、これから建造されていくと期待していた兄弟姉妹の交わりなるものは、絶望的なまでに、悲惨な状態に陥って行ったのである。

 だから、今となっては、「兄弟姉妹の交わり」を誉めたたえ、美化しようという気持ちは、筆者にはない。もっと正直に言えば、「兄弟姉妹の交わり」を求めてあちらこちらを移動しようという気さえ起きない。

 必要なのは、神だけを誉めたたえ、神だけに栄光を帰することである。多分、その過程で、もし出会うことが必要な兄弟姉妹がいれば、ごく自然に、出会うのに違いない。だが、出会ったところで、いつまで一緒に歩いて行けるかは、全く保証の限りではない。

 我々は、数少ない信者たちが発見する狭い道を通っている限りにおいてしか、出会うことのできない人々なのである。もしそこを一歩でも逸れたら、どんなに人間的な感情においては、未練を感じたとしても、もう一緒に歩いて行くことはできない。

 従って、神だけを神として歩むことの重要性に比べれば、人に対して、多少、ぶっきらぼうで、不愛想で、失敬であったとしても、そんなことは何ということはない。

 人間には注意を払いすぎないが良い。賛辞もほどほどにしておくが良い。人間は、自分に「十分な」敬意が払われていないと感じると、立腹し、猪のように憤って向かって来るかも知れない。だが、そんなものを恐れず、それに構うな。

 信者の心は、隅々まで、ただ神だけに捧げられるべきである。神に十分な注意と敬意を払ってさえいれば、後の事はどうとでもなるのである。神ご自身が整えて下さるであろう。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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