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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

「死の陰の谷」を「命の泉」の湧くところとする秘訣

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、 鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、 主と同じかたちに姿を変えられて行きます。 これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:18)

神は、神以外に信頼する者を持たない、地上では寄る辺ない者を決してお見捨てになることなく、最後まで共にいて、すべての悪からかくまい、助けて下さる。

以前に、筆者はこれまで「死の陰の谷」ばかりを歩いて来て、「緑の牧場」と「憩いの水際」を経験することが非常に少なかったように思う、という趣旨の話を記事に書いた。そして、この先は、出来るならば信仰によって「死の陰の谷」を短縮する方法を見つけたいものだと。

しかし、今、再び、それを少しばかり訂正し、「死の陰の谷」を歩く時も、そこを「緑の牧場」に変え、「憩いの水際」をわき出させることは可能なのだという確信を述べたい。いや、実のところ、「緑の牧場」と「憩いの水際」はまさに「死の陰の谷」を歩くときにこそ、発見される、と言っても良い。

ペテロが水の上を歩いていた時、自分自身を見て溺れそうになり、主イエスに助けられたように、最初は誰でも失敗するだろう。しかし、「水の上を歩く」ことは必ず可能となるのだ。だから、「死の陰の谷」の只中で、「緑の牧場」と「憩いの水際」を見つけることも、必ず可能となるのである。

こんな内容になって来ると、「ヴィオロンの書いていることは分からない」とさじを投げてしまう人もいるかも知れない。

さて、今週一週間は、ずっと雨の予報で、今も外は雨だ。

今日は休日だから良いのだが、平日は毎日、筆者が通勤している最中、雨はやんでいた。少しパラパラとすることはあったが、ずぶ濡れになったりするようなことは全くない。

それでも、家を出るほんの数十分前には土砂降りの雨が降ったりしていた。神の守りを感じる瞬間であった。

これまで、こういうことがあると(こういうことは無数にあったのだが)、今までは「主が共にいて、守って下さったんだ!」と喜んでいたものだ。何かとても珍しい幸運に見舞われたように。

だが、最近は、それは「幸運」によるものなどでは断じてなく(神は気まぐれな方ではない)、信仰によるものであって、雨くらいのことで騒いでいる場合ではなく、天候のみならず、山をも動かすほどの信仰があれば、本当に山の方が信者に従うのだ、だから、信者はそういう信仰を持ちたいと願うべきなのだ、と思われてならない。

むろん、それは主の御心の只中を信者が歩いている時に限る。己の勝手な欲望を叶えるために、自然界の事象に向かって命じても、それは無駄なことである。だが、本当に信者が神の御心と一体となってこの地上を歩み、その上で、御名の権威を行使するならば、海も割れるのであろうし、嵐も静まり、山も動くのである。

キリスト者の人生は、超自然的な領域における、この世の法則を超えた、キリストと共なる霊による支配である、ということをこれまで書いて来た。霊的領域において主イエスの御名の権威を行使し、この世の事象を御名の権威に従わせ、すべてをキリストにあって管理し、統治する秘訣を学ばない限り、クリスチャンの人生は、決してあるべき姿にはならないであろうという気が筆者はしてならない。

「あなたは何を言っているんでしょうか? しるし・不思議・奇跡を追い求め、超人になることを目指しているんですか? 神になりたいんですか? それは悪魔的誘惑ではありませんか?」

と疑いの眼差しで見る人もあろう。これだから、ペンテコステの出身の人間は駄目なのだ、と言う人もあろう。奇跡や、超自然的な霊的領域のことを全く認めない人々も信者には多い。

むろん、悪魔も反キリストも奇跡を起こす。そのことは聖書に警告されている。そして、筆者は魂の力による偽物の奇跡が存在することを否定しないし、ペンテコステの教義をも認めておらず、奇跡を第一として追い求めているわけではない。むろん、自分は神だなどと言っている人たちの仲間に加わりたい願いは全くない。

だが、信者がキリストとの固い結合を追い求めることと、「神になろうとする」ことは全く別である。そして、もしこの世に「模造品」が溢れているのだとすれば、それは必ず別のどこかに「本物」が存在するためなのである。たとえば、偽物の「聖霊」を語る人たちが現れるのは、本物の「聖霊」が存在するからであり、またその本物を隠すことが目的なのである。もしペンテコステ運動が巨大な贋作なのだとすれば、必ず、霊的統治の本物が存在するはずなのである。

つまり、キリストにあっての霊の統治の本物が必ず存在し、そこに至らせないために、暗闇の勢力が前もって歪められた偽物を大量に流布しているだけなのである。だから、イミテーションがイミテーションだと分かったからと言って、その幻滅のために、本物を探す努力までやめてしまうことが、一番、信者にとって無意味な結論である。

たとえば、「聖書に忠実であるために」、婦人たちは集会でベールをかぶるべきだと主張する信徒の群れがある。それほど、聖書に忠実であるために、努力したい熱心さがあるならば、「病の癒しは現代では起こらない」などと決めつけずに、主イエスが福音書でどれほど数多くの奇跡をおこなわれたかにもきちんと注目すべきである。

こまごまとした形式にばかりはこだわっておきながら、キリストの復活の命の本当の解放の力には注目しない、というのでは、正しい聖書の読み方とは言えない。

福音書を見てもらいたい。使徒行伝を見てもらいたい。主イエスや弟子たちによるどれほど数多くの奇跡が記されているか。また、「山をも動かす信仰」や、ペテロが主イエスに従って水の上を歩こうとした記述などは、一体何のために書かれているか? これは単なる教訓のために作られた大袈裟なたとえ話なのであろうか?

決してそうではないと筆者は考えている。初代教会の当時は、そういう奇跡は至極当たり前だったのだろうと想像する。

だが、その後、キリスト教が世俗化されて行くに連れて、これは単なる死んだ教義や、道徳律や、処世訓のようなものになってしまい、そこから命が失われたのである。

今日、悪魔に支配されるこの世において、絶えず理不尽に苦しめられている信者たちは数多く存在する。しかし、キリストはすでに悪魔に対してカルバリで勝利を取られたのである。

だから、キリストの勝利を実際として信者がこの地上で掴み、これを信仰によって行使するためには、どうしても、この世の法則を超えた力が必要となるのであって、それこそが、キリストの復活の命の力なのである。

悪魔が偉大な奇跡を起こして自己顕示しようとするのとは違って、キリスト者は、自己顕示のために奇跡を求めているのではない。信者は絶えず、カルバリの死に立ち戻る。復活の命は、十字架の死と共にしか働かない。

それが、「死の陰の谷」の意味するところでもある。

もし信者の人生に「死の陰の谷」が全くなければ、人生は相当に楽になるであろう。人間存在としての我々は、自分にとって苦しいことは何も経験したくない、と思う。自分の人生に「緑の牧場」と「憩いの水際」だけが目の前に連綿と続いていてくれたら、どんなに良いかと思うであろう。

だが、キリスト者の人生の不思議は、たとえ目の前に「死の陰の谷」にしか見えない風景が広がっていたとしても、信仰がありさえするならば、そこに「緑の牧場」と「憩いの水際」を見つけることは可能だ、ということなのである。可能であるばかりか、たやすい、と言っても良いかも知れない。

たとえ40年間荒野をさまよったイスラエルの民のように、この世の荒野で訓練されることがあっても、もし信仰さえあるならば、神は信者に豊かに命をお与え下さる方であって、決して信者を飢えさせたり、危険な目に遭わせたいと望んでおられるために、そこへ導いて来られたわけではない、ということが分かって来るであろう。

そうなれば、たとえ目の前に迫りくる敵の大群衆を見る時にさえ、そこに神の勝利を見ることができるようになるであろう。

このような視点を、信者は養わなければならない。それは決してポジティブ・シンキングやら、見たくないものにすべて蓋をするとか、ありもしない空想や超能力や奇跡に期待して、現実的な責任を放棄するといった自分勝手な生き方のことではない。

ただこの世の法則においては、全く何もないどころか、すべてが荒廃し、死んだような有様に見える時にも、すべてを信仰の観点から見て、神が望んでおられるように世界を見て、そこに神の望んでおられる統治を、御名によって、天から地に引き下ろすことである。それが信者の役目なのである。

モーセが荒野にいて民を導いていた時、彼が杖で岩を打てば、岩から水が湧き出たように、荒野に水をわき出させ、緑の牧場を生やすことは、信者の仕事なのである。

それができるようになった時、初めて、「栄光から栄光へ」、「主の似姿に変えられて行く」ということの意味も分かるようになるであろう。

肉眼では「死の陰の谷」から「死の陰の谷」へ向かって歩いているようにしか見えない時にも、そこに神の栄光を見ることができるだろう。そして、栄光から栄光へ向かって歩いて行くのである。

この世の法則を超えた霊による統治能力、これは日々実験し、試して行かなければ、一体、それが何を意味するのか、理解できる人はいないものと筆者は思う。特に、これは現代のクリスチャンの認識からはほぼ失われてしまった領域である。

だが、どうしても、それを開拓して行かねばならないのだと筆者は感じる。

また、天的な教会の姿を見いだす、ということも、それがなければ無理なのである。

信者は自分自身のためだけに、神と共に信仰によって生きているのではなく、団体として生きている。これはキリストの御身体としての教会という団体のことである。

だが、教会とは、この世のあれやこれやの団体のことではなく、それぞれに信者が名前をつけては集っているてんでんバラバラのサークルのことでもない。

教会はこの世を超え、時代を超え、空間を超える。この天的なエクレシアの真の姿を知らなければ、その一部としての自分の機能を知らなければ、信者は自分が一体、この地上で何を担っているのか、その使命を明確に理解することもないであろうという気がしてならない。

オースチンースパークスが書いていたように記憶しているが、教会は「これから建て上げる」ものではないし、人間の努力によって「造り上げる」ものでもない。

たくさんの有望そうな信者をスカウトして来て、地上の集会を増やせば、エクレシアが成長する、ということもない。

エクレシアは初めから完全なのである。エクレシアを成長させようとする努力は必要ない。

キリストはすでに成人に達しているのである。我々の努力がキリストの御身体を成長させるわけではないのだ。

この点を間違えば、信者の生き方は全く本末転倒になってしまうであろう。

今日、あまりにも大勢の信者たちが、「教会を成長させよう、教会を建て上げよう」などと言って努力しているが、それはベクトルが完全に間違っているものと筆者は考えている。

聖書は、「キリストの満ち満ちた身丈にまで成長しなさい」、と信者に対して言うが、「キリストの御身体を成長させなさい」、とは言っていない。

なぜなら、キリストの御身体はすでに完全だからである。御身体とは教会のことである。教会は完全である。神は初めから完全な教会の姿を見ておられる。しみも、しわもない花嫁としての栄光の教会、それはまるであたかも最初から罪を犯したことが一度もなかったかのように、完全な教会の姿である。

だから、成長しなければならないのは、教会ではなく、信者自身なのであり、信者の内なる信仰の増し加わりが必要なのである。地上における集会の規模拡大、信者の人数の拡大などが、教会を成長させるということは、決してないであろうと筆者は確信している。

信者の信仰の増し加わり、信者の内面におけるキリストの増し加わり、それが信者をより一層、完全な教会のリアリティへと導き入れ、組み込むのだと考えるべきであろう。それは極めて個人的な内面の過程である。

「顔の覆いが取り払われて」――つまり、この世の荒廃した有様を見るのではなく、そこに信仰によって、神の御心を一心に見つめ、キリストの命の豊かさを見つめ、それを実際に地に引き下ろす人となること、主イエスがなされたように、地上で囚われている人々を解放し、命を与える役割を果たすこと、「死の陰の谷」に命の泉をわき出させる人となること、それが、「鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、 主と同じかたちに姿を変えられて行」くことの意味なのだ。

まさにキリストご自身のように、キリストご自身と固く結びついて、まことの命そのものに近づいて行くことである。

その完成体が栄光の教会の姿なのである。信者は、信仰によって主に接ぎ木されたように、信仰によって、このエクレシアの実際に入りこむのである。そして、そこから、キリストの命の豊かさ、神の多種多様な知恵をこの世に向かって現すのである。

そして、その教会とは、おそらく、今の時代だけに限定されるようなものではない。キリストが地上に来られ、天に昇られてから、連綿と今に至るまで時代を超えて続いている霊的な存在なのである。

教会とは、断じてこの地上で「教会」という名で呼ばれているてんでんばらばらの組織や団体のことではない。だから、天的な教会の真の一体性と、そこにおける信者の個別の役割を筆者はよりはっきりと知りたい、と思わずにいられない。  

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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