忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

この世からのエクソダス(2)

主イエスが十字架でこの世に対して取られた勝利を信じるならば、この十字架の中にこそ、私たちは、この世と私たちとの間に今ある相克だけでなく、世的な教会と私たちとの間に今ある相克の問題の解決も全て含まれている、ということを見いだします。この事実に、信仰によって、はっきりと立っているならば、この 先、神の子供たちに迫り来るであろう暗闇の力がどれほど大きくなろうとも、私たちはそこから救い出されるでしょう。

すでに世から救い出されている者が、もう一度、世の襲来を食い止めるために、後ろを振り向いて、自分の力で世と対決する必要があるのでしょうか? ですか ら、言葉の争いや、力の行使により、世の影響力と取っ組み合って、世的な教会を是正することが、クリスチャンに求められている課題ではありません。もしも そのような考えを持つならば、生きている限り、世的な教会の欺瞞を糾弾する仕事が、私たちの職業になってしまうでしょう。そして私たちは、善悪の路線での 議論に熱中し、命なるお方との生きた接触を忘れてしまうでしょう。

世的な教会の欺瞞を非難するという作業は、まるで、大海からスプーンで水をすくってかき出そうとするのと同じように、ますます膨らんでいく欺瞞を食い止め る力にならないだけでなく、善悪の路線における議論は、常に先鋭化して、行き過ぎた罪定めと、多重分裂的な争いへと発展していきます。もしも私たちがその ような議論に落ち込むならば、私たちはいつか兄弟姉妹と自分を分け隔てし、自分だけが正しいと思い込むようになるでしょう。憐れみ深い神は、罪定めのため でなく、和解のために、また、死ではなく、新しい命のために、御子の十字架を備えて下さいました。

ですから、似て非なるものを非難する作業に注意を奪われて、まことの命なるお方に目を注ぐことを忘れないよう気をつけましょう。この世の万物を死に至らしめた御子の十字架を経由することのみが、絶え間なく私たちに闘いを挑んでくるこの世からのエクソダスの方法なのです。

ハレルヤ。私たちはそのエクソダスを経た者、すなわち、世から召し出された者です。バプテスマにより、御子の十字架を信じる信仰により、私たちは、すでに 世から救い出されて、御子の支配下へと移されました。ですから、もはや後ろを振り向く必要はありません。この世や、世的な教会におけるさまざまな対立や、 言葉による争いも、私たちに対して死んだのです。十字架によって、この世は私たちに対してはりつけにされ、私たちも、この世に対してはりつけにされまし た。ですから、私たちが十字架の死を真に経由しているなら、世的な教会におけるあらゆる争い事からも、すでに完全に救い出されていることを見いだすでしょう。

<2016年追記>

地上における諸々の利害の対立をめぐって生じる相克や争いを原因とするすべての地的な思い煩いから信者が全く距離を置くことは重要である。それはただ単に心の距離であるだけでなく、キリストと共なる十字架によって、信者がこの世に対して死んだことから来る霊的な隔たりである。

これは他人の痛み苦しみに対して無関心になることとは違う。地上で起きているすべての悪意ある現象に対して無関心になることも違う。ただ、そういったことに対して、霊的な死が適用されているがゆえに、「一切、責任を負わない」という姿勢を貫くことである。

暗闇の勢力は終わりが近いためか、年々、その陰謀工作に悪意と激しさを増しており、今や人々にひと時の休息も与えたくない様子である。ニュースを見ても、呆れ果てるような事件ばかりが起き、汚職がはびこり、国全体がまるで無法地帯と化したような印象を受ける。

我が国の自殺未遂者の数は、公式発表によると、年間53万人に達していると言われる。そうなるのも無理もないという実感を筆者は抱いている。日常生活においても、日本人の美徳が失われているのを見る。礼節、誠実さ、思いやりといったものは姿を消している。不法がはびこり、感性の鋭い人であれば、耐えきれないだろうと思うような劣悪な事象によく遭遇する。

このところ、筆者は、日常のあらゆる好ましくない問題が、特に、週末や連休を迎える前の日々に集中して起きていることに気づいた。それはやはり人々に片時も休息を与えまいという悪意のもとに引き起こされているものと考えられる。

暗闇の勢力は、月曜日から金曜日まで数多くの人々を馬車馬のように働かせて自由を奪い、疲弊させた上、土曜日、日曜日になっても、まだ生活の不安から抜け出せないように、がんじがらめに縛るために、ことさらに金曜日に悪しき事件を引き起こしたりしているものと見られる。

あるいは、筆者が、何かのことで思い煩っていたとしても、ふと思い煩うことの無益に気づいて、その地上の出来事への思いを振り切って、気分を変えようと、外出したりすると、早速、望ましくない連絡が入って来たりする。

このようなことも、信者に休息や自由を与えず、絶え間なく思い煩いの中に沈ませようとする暗闇の勢力からの妨害なのだと気づかされる。

そうしたことに気づいてから、筆者は、ことさらに、煩わしい事件について、一切、その悪印象を事後に引きずらないことに決めた。特に、休日をつまらない地上的な出来事に対する思い煩いで浪費したりしないよう、十分に気をつけている。

むろん、地上で何も起こらないがゆえに呑気でいるというわけではない。考えられもしないような、呆れ果てる出来事が、数多く、予想もできないタイミングで、起きて来るのである。

だが、筆者はそれがいかに存外のものであっても、軽く受け流し、人として自然な反応を返し、しかるべき最小限度の対処をするほかは、全く気に留めないことに決意した。

たとえそれが筆者自身とその生活を直撃するような威力を持つ可能性のある事件であっても、気にしないことに決めたのである。なぜなら、神が「思い煩うな」と命じておられるからである。

明日のことは思い煩うなと。明日自身が思い煩うであろうと。

だから、随分前から、筆者はそういう心配を投げ捨ててしまった。
 
たとえヨブのように、突如として数多くの方面から、あり得ないような災いの報告を聞かされたとしても、筆者は、思い煩わないことに決めたのである。

ヨブの態度はまことに潔かった。

「主が与え、主が取りたもう。主の御名は誉むべきかな」

そして、それ以上、地上のものに全く執着しなかったのである。

筆者の場合、神は筆者に関わる多くのものを守って下さっているため、ヨブのような試練には達してはいないし、同じことは起きないであろう。だが、そうは言いつつも、筆者の歩みも、ちょっと大袈裟かも知れないが、だんだん、砲弾の炸裂する只中を歩くのにも、似て来ている。

ある日には、主の深い憐れみを見たかと思えば、次の日には、悪魔の激しい憎悪と歯ぎしりの音を聞くといった具合に、何も事件が起こらない日がないのだ。
 
だが、筆者は悪魔の歯ぎしりには耳を傾けないことに決めた。

悪魔は、このところ、人間が正常な理性では到底、耐えられないようなナンセンスな事件を連続して引き起こしては、人々を絶え間なく消耗し、悩ませるようになってきている。人々に思い煩いの果てに、死へ向かわせることが狙いなのである。だから、そういうものにもし信者が真面目に取り合っていれば、理性が持たなくなるだけだと早く気づかねばならない。

世が引き起こす歪んだ事件には注意を払わないことである。何よりも、そういったことに責任を負わないことだ。何のせいで起きたのかもなど問わないことである。地獄から来た事柄は、地獄の責任なのであるから、地獄へお帰りいただくのがふさわしい。

それよりも、神の憐れみ、神の慈しみ、神の愛に目を向けることだ。神の完全さがあなたの信仰を通じて、この世にどのような解放的な影響を及ぼし、あなたの願いを神がどれほどきめ細やかに知って下さり、満たして下さろうとしているか、そこにのみ目を向け、期待することである。
 
悪意ある事件は、世には毎日、起き続けている。だが、それが自分に関わろうと関わるまいと、可能な限り、そこへ思いを向けないことである。
 
それよりも、神の憐れみをまっすぐに見つめ続けることだ。たとえ悪魔が目の前から光となるものをすべて取り去ったとしても、神の愛、神の憐れみ、神の最善だけをひたすら見つめ続けることだ。

そうしていれば、本当に恵みが雨のように降って来るのを見ることができる。どんなに不安に囲まれているように思われてもだ。

だから、信者は自分自身の存在そのものを、完全に、神の御手に委ねてしまうのが早ければ早いほど良い。たとえ自分自身を振り返って数々の失敗や落ち度があったとしても、それさえもすべて丸ごと神に委ねてしまい、神に全幅の信頼を置くことである。

そうするのが早ければ早いほど、信者には消耗が少ない。
 
信者が責任を負っていることがもしあるとすれば、それは悪魔の引き起こす事件の後始末に対してではない。信仰によって天を地に引き下ろすこと、神の御旨を成就することだけなのである。

だから、思いを天に向け、心を軽くし、天の高度を生きることである。すべての思い煩いを捨て、悩みや苦しみを神に打ち明けて荷を下ろし、すべてを主に委ねて、心を軽くすることである。そうして、自分の霊を飛翔させ、天的な高度を生きること。信者が自分の霊と心とを、自由が利く軽やかな状態に保っておくこと、これは信者の信仰生活における霊的統治にとって重要なことである。
 
PR

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー