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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

主が共にいて下さる交わり

  「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、 わたしもその中にいるのである。」 (マタイ18:20)

様々な集会を巡り、そこに地上的な組織や団体しか見いだせず、離れることになったとしても、それでも、そこに全く信仰がないわけではない、ということを常に知らされて来た。

たとえ人間のリーダーにつき従っており、さまざまな誤った教えを導入していたとしても、その団体の中にいる信者に、100%信仰がない、というわけではないのだ。

信仰がある限り、そこには主の御業も起きる。だから、そのような集会や交わりを通過する中で、筆者が学んだことは多く、そこで確かに主の御業だと思われることを、信者の交わりを通して見て来たこともあった。

だが、人間の作った組織に束縛されればされるほど、霊的搾取の原則が働いて、信仰の現れは制限を受けるだろうと筆者は考えている。

これまでに筆者に最も有益だと感じられた交わりは、礼拝という枠組みの中でなく、賛美を歌うでもなく、聖書を朗読するでもなく、ただ信者と共に神について語り合いながら、各地を散策し、楽しんだ思い出である。

日曜礼拝に出席するのではなく、偉い先生の説教を聞くでもなく、動物園に行ったり、山を歩いたり、美味しいものを食べたりしながら、休日を、のんびり楽しんだ。

だが、そこに神が共におられた。私たちは休日を楽しむことだけを目的に集ったのではなく、誰よりも神を中心として、我々は交わり、語らったのである。だから、何を見ても、何をするに当たっても、ひたすら神の素晴らしさについて語り合いながら、神の御業に驚嘆し、神を誉めたたえていた。その喜びや感嘆はまことに自然に生まれて来るものであった。

そうした自然な交わり以上のものは、決してどんな集会でも得られたことがない。人工的な計画のもとに開かれる集会、祈祷会、聖書の朗読会、などは数知れず見て来たが、そのような場所で、上記のような自然な交わりに溢れる喜びと恵みに類するものを見たことはない。

交わりというものは、本来、極めて個人的な、秘められたものであるべきと思う。

親しい恋人との念願の邂逅を、一体誰が、赤の他人と分かち合おうと思うだろうか? 自慢話として人に語ることさえしないであろう。

そこにある愛と交わりが特別なものだからこそ、それは一般公開し、誰とでも分かち合えるようなものではないのだ。

それは神が相手であっても同じなのではないかと思う。いや、神が相手であればこそ、なおのことそうなのではないか。神を中心とする、二、三人の信徒の交わり、これは、決して一般に公開して参加者を募るような種類のものではないように思う。

大規模集会を開いて、たくさんの回心者を出すために、未信者を招き、集団で祈り、集団で説教に耳を傾け、集団で聖書を朗読し…、みなが同じような椅子に座って、同じ言葉を唱え、同じ行動をし…。そういうものは、礼拝でもなければ、交わりでもない。

むろん、舞台装置による演出はあるので、何がしかの感動はあるかも知れない。だが、それは信仰によるものではないのだ。だから、結局、そういう場所へは、行けば行くほどに、最後には不自然で場違いな印象だけが残るのである。

主イエスがサマリヤの女に出会って、真の礼拝について語られた時、その場所には、主イエスとサマリヤの女しかいなかった。そして、その場所は、この世において居場所を見いだせなかった女が、人目を避けて、水汲みにやって来た井戸であった。そこには、先祖たちが神を礼拝した山があり、他方、エルサレムはいつも参拝客に事欠かなかった。それでも、主イエスは「この山でも、エルサレムでもなく…」と言われたのである。

真の礼拝、真の交わり、それは神に知られていさえすれば、それで良い。神さえそれを知っていて下さり、その只中にいて下さるならば、人に対して、世に対して開かれている必要は全くないと思わずにいられない。
 
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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