忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

神の御前に富む者となるために…

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。

そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないために身に着けるように、白い衣を買 いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心 になって悔い改めなさい。」(黙示録3:17-19)

 
ある時点まで筆者は、自分は貧しく、弱い、と考えていたが、実際はキリストにあって、豊かで、強い、ということを信じる必要に迫られている。

そんなことは信じられない、という思いでいてさえ、それが事実であることが、だんだん分かって来るのである。
 
寄る辺がないという思いは、今でも、度々去来することがある。たとえば、人の大勢集まる場所に行く時は、大勢の家族、たくさんの子供たち、猛々しいボディーガードのような伴侶などに囲まれていないことで、心細さを感じることもあれば、そういう人たちがあまりに我が物顔に幅を利かせて通り過ぎて行く時には、ある種のやるせなさを覚えることもある。

だが、そういったことはすべて表面的な事柄に過ぎないのである。本当は、キリストがついておられるということは、世界最強のボディガードと共に歩いていることなのだから、何も気にする必要はないし、引け目に思うこともない。

それどころか、これまで、筆者は色々な人たちと関わり合って、筆者が自分よりも強く、豊かであると確信していた人たちが、実は考えられないほどに貧しく、弱く、脆い、ということがだんだん分かって来た。

筆者の人生にはいくつもの嵐のような出来事が起きて来た。その波乱の出来事が起きている最中には、筆者を見て、まるで自業自得だと言わんばかりに、あざ笑っていた人たちが、いざ自分が同じような出来事に見舞われると、全く立ち向かう術を持たずに、たちまち退却して行くのである。

そのような光景を見せられる時、彼らの心の脆さ、折れやすさ、彼らがそれまで張っていた虚勢、自己過信、臆病さなどがすべて明るみに出る。

もし彼らが筆者をあざ笑うにふさわしいほど強かったなら、そんなにも些細な試練に、あっさり負けて退却してしまうはずがなかったであろう。だから、彼らの「強さ」はほんの見かけ倒しのものでしかなかったことが分かるのである。

コンピューター・ゲームで強力な戦士と対戦している時などには、ゲームの中にいる敵の首領は、命が尽きる最後の瞬間まで、猛々しい姿のままで、ちっとも弱さを見せない。こちらがどれだけ敵を激しく攻撃して、追い込んでいても、敵にわずかでも命が残っている限り、敵はまるで不死身のような姿のままなのである。

敵がどうと血しぶきをあげて倒れた時に、ようやく、命が尽きたのだと分かって、ほっと肩の荷を下ろす。だが、その瞬間が来るまで、自分の命が尽きるのが先か、敵の命の尽きるのが先か、全く予想できず、心理戦が続く。

悪魔とその率いる暗闇の勢力と、信者との戦いもそれに似ていて、自分に終わりが来る最期の最期の瞬間まで、悪魔と暗闇の勢力は、自分こそが勝利者だと勝ち誇っていることであろう。

引き換え、まじめな光の子らである信者は、自分の弱さをよく知っており、神の御前で、虚勢を張って勝ち誇るということはせず、しばしば、人前でも自分の弱さを隠しはしない。むろん、虚勢を張らないからこそ、素直に神に助けを求め、命の補給をしていただくことができるのだが、敵の前では、信者も虚勢を張らなければならない、と筆者は思う。
 
筆者も今より数年ほど前までは、自分は未熟者だと考えて、いかなることについても、謙虚に引き下がって、自分よりも先輩の人の助けを乞うたり、憐れみを乞うたり、助言を乞うたりしており、そうすることが、自分にふさわしい行動だと考えていた。

特に、筆者は女性だったので、信仰面においても、自分が若ければ若いほど、つつましく謙虚に、年長者から好感を持たれるように振る舞い、彼らの顔を立てることが、まるで良いことであるかのように思っていた時期もあった。

だが、それは世のならわしであって、キリスト者にあっては全くそうではない、ということがよく分かって来たのである。

どんなに若輩者であっても、キリストにあって立てられた人間は、油注がれてゴリアテの前に出て来たダビデのように、勇敢でなくてはならない。

それは、神の知恵が人間の未熟さと限界をはるかに超えるからである。もし神が信者を選び、立てられたなら、その信者には、年齢も外見も性別も、関係ない。神に油注がれるとは、それだけの意味を持ち、神がその信者に関して、すべてにおいて責任を取って下さり、絶対的な証印を与えるということなのだ。

「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選び、そして立てた。それはあなたがたが行って実を結び、その実が豊かに残るためである」

主イエスは確かにそう言われた。そのように、もし神が「あなたを選んだ」と言われたのであれば、それが御霊の証印なのである。年齢も外見も聖別も、神の召しの前では何の意味もない。

確かに、ある日、主イエスが「私について来なさい」と言われ、信者がすべてを捨ててそれに従ったなら、その旅立ちの時から、信仰による天への旅路が始まっているのである。

さて、筆者はどうにも、そろそろ、この世における世人としてのお勤めを終えなければならないのではないかという気がしてならなくなって来た。

筆者にもこの世の出自があり、自分の専門があり、知識があり、経験があった。ある時点まで、筆者も他の人たちと全く同じように、家庭を築き、子孫を残し、働いて、何かを築き、そして死んで行くのだと思っていた。そのように全くごく普通の人生を送るつもりでいたのである。

だが、どうにもそういった願望が、まるで役に立たない局面に近づいて来たことを思う。

これまで多くの信者たちが、筆者が、自分の経験や、知識を活かして働くことができるようにと祈ってくれた。そうして、実際に、その都度、活路が開かれて来たのだが、それにも関わらず、筆者はそこに解決を見いださなかったのである。

それどころか、地上の経済は、地上の組織、団体、国などと同じように、年々、悪魔化して行っているという印象を否めない。

たとえば、どんなに良い企業に行っても、そこでは人々が、自分を犠牲にして、あるまじき働き方をしているのを見せられる。どんなに善良な人たちが揃っていて、どんなに親切に筆者を迎え入れてくれたとしても、しばらくすると、地上における信者の教会や集会とほとんど同じように、そこにも、たくさんのあってはならない様々な風習、歪められた秩序、弱い者たちの犠牲が見えて来て、そのような生き方は、人として全うなものではないし、これに助長・加担することもできない、と思わずにいられないのだ。

だから、筆者は結局、その世界の一員になれないのである。むしろ、そのような世界には定着してはならないし、これに染まってもいけない、という実感だけが募って行くのである。

そのような場合、地上の教会ならば、そこを黙って離れるだけで良かろう。しかし、地上の経済を離れて、生存を維持するとなると、カラスによって養われた預言者エリヤのように、全く常識からかけ離れた展望が必要となる。

それでも、その日が近づいているのを筆者は感じざるを得ない。

地上で富む者になろうとして、この世の法則に従って生きると、ただ貧しさだけが募って行く、という結果を避けられないからである。しかも、どういうパラドックスなのか、筆者よりもはるかに富んでおり、安定的な生活を送っていたはずの人たちが、筆者よりも早く貧しさに襲われて倒れる、という現象を目にする。だから、それを見るにつけても、彼らのやり方にならってはいけない、ということが明確に分かるのである。

常識的に考えても、すぐに分かることなのだが、終身雇用制は崩れて久しく、二度と復活することはなかろう。さらに、フクシマ以降、我が国は天文学的借金を抱えることになった。この世の経済は、もはやすべての局面から判断して、絶望的な貧しさに直面しているのであり、あとは反キリストの経済圏に吸収されるのを待っているだけであって、再生の見込みはない。地上の経済によって、養われることができる期間はもう過ぎたのである。「不信者とつりあわないくびきを一緒につけてはならない」、との御言葉の通り、これ以上、地上の経済によって己が生存を支える試みを続けることは、自分を危険にさらすだけである。
 
キリスト者が真に富む者になるためには、地上の法則とは異なる天の法則に生きる必要がある。

主イエスは、地上で公生涯を送っておられた間、職業を持たなかった。当然、定収入もなかったことになる。それどころか、毎日、どこに泊まるのか、その予定さえ決まっていなかった。枕するところも、決まっていなかった。食事や生活の世話をしてくれる使用人がいるはずもなかった。弟子たちも、生計を立てるために仕事に従事していたわけではないのである。

それなのに、彼の生活はどのような方法によって支えられたのか具体的には分からないが、全く不自由なく満たされたのである。主イエスは、ご自分を寄る辺ないとも、貧しいとも思っておられなかったし、地上で財産を持たないことに、いかなる引け目も持ってはおられなかった。むろん、人としての様々な苦しみは通られたものと思うが、主は常に権威を持って命じる側に立っておられた。

主イエスは、ご自分の生存を支えるために必要なすべてを知っておられた。だが、それは彼の生存のためではなく、むしろ、人々のためだったのである。主は誰の家に泊まるべきかも知っておられた。荒野にいても、どうやって命をつなぐのかを知っておられた。御父への祈りを通して、群衆が食べ飽きるほどパンを増やすこともできたし、魚の口にレプタ金貨があることも知っておられた。

これは何を意味するのか? 主イエスは、この地上の法則とは全く異なる天の経済法則によって生きておられたという事実である。そして、その生き様そのものが、地上における人々の糧となって行ったという事実である。

主イエスに召された弟子たちもまた、その当初は全く自分の召しを理解していなかったとはいえ、漁のための網を捨てて主イエスに従ったその瞬間から、地上における職業を離れ、天の法則によって生かされるようになった。

彼らは「人間を取る漁師」になったのである。

このことを思いめぐらしている時、筆者もまた、天の経済によって生きねばならない、と分かる。それは人知による法則に基づいた生き様とは全く異なる、常識を超えた世界である。だが、そうせねばならないという実感が、年々、強まって来るのである。

これまで、筆者には自分の職業がそれなりにあって、地の人々に仕えるために、自分の仕事に従事して来たのである。だが、それもそろそろ終わりに来ているように思われてならない。それは、筆者の人生は、悪魔のこの世の肥しとなるために存在しているわけではなく、この世の職業とは異なる、天の職業というものが存在するためである。世人はこれを全く理解することができないであろう。

キリスト教界にいた頃、牧師たちが、貧しいにも関わらず「献身」して「神学校」に入学することが、どんなに大きなチャレンジであったかを語っていたのを思い出す。筆者は神学校になど行くことはなく、牧師になって信徒の献金によって生活することも絶対にないが、彼らとは全く異なる意味において、絶対的な「献身」により、この世の生活を離れる必要があるように感じられてならない。

それは、この世の常識と法則に従って生きることをやめる、ということを意味する。自分で自分を養うためのこの世へのいかなる働きかけもしない、という生き方である。

なぜなら、信者のための備えは常に天にあるからだ。

何もかも、すべてを主に明け渡し、委ねしまえば、神が信者の魂を受け止め、引き上げて下さるであろう。そこから、多分、信者の「公生涯」が始まるのだろうと思う。
PR

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー