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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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この世から解放される(4) 勝ち得て余りがある

「…キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。」(ヘブル10:12-14)
 
  「『主が言われる。
 わたしの律法を彼らの心に与え、
 彼らの思いのうちに書きつけよう』…
 『もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない』…
 これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない」(ヘブル10:16-18)

 
<2016年>

神はすべてに間に合う。
その信仰を、今、実践で試しているのだが、人に過ぎない筆者自身は、未だについ不安を口にしたり、動揺を見せたりする。

自分の弱点をあからさまに人前で見せるというのは、攻撃されたくない人間が取る防衛手段でもある。出る釘は叩かれる、という我が国の風潮のもと、周囲の人間の妬みをかったり、敵意を買わないために、あえて自信がなく、弱いふりをして、人の陰に隠れ、何もできないかのように装うという方法がある。

だが、そういうやり方で、人の同情を乞うたり、仲間とみなしてもらおうとしたり、人の妬みや敵意を交わすというやり方は、クリスチャンにとってまことに好ましくないのだ。

信者には、アダムにあっての威厳は要らないが、キリストにあっての威厳は必要なものであり、過度の卑屈さと、地上の人々におもねることは、御名の権威を傷つける。

そうは言っても、なかなかキリストにあっての威厳というものを、人が身に着けるのは並大抵のことではない。なぜなら、そのためには、地的な思考をまるごと変えなければならないからだ。ただ卑屈な人間だけが努力せねばならないわけではない。アダム来の思考はすべて変えられなければならないからだ。

アダムの命に生きているうちは、人は悪魔の支配する世にあって、出来る限り、その悪なる支配から受ける損失を最小限度に抑える、という方法でしか自己を守れない。アダムは絶えず、欠乏や恐怖に脅かされ、世から攻撃されまいと防衛姿勢を取って、世に自分を合わせることでしか、生存を保つ方法がないのである。

だが、そのような恐れに支配される地的な人間の思考から、信者は、すべてにおいて満ち足りており、戦いはカルバリですでに神の勝利によって終結しているので、世に助けを求める必要が全くないという、キリストの天的な思考へと、自分を変えて行かねばならない。

さて、会社はそれぞれ給与の締日と支払日が違う。

筆者の人生においては、最近、締日の関係で、仕事を始めてから最初に支払われる給与が、思ったほどの額に達していないことに気づく、という問題が起きた。

この「誤算」に気づいた時、筆者はしばし考え込んだ。

筆者は、家計簿をつけておらず、決して自分の財産を数えない主義である。もともと家計簿など見るのも嫌なのだが、すべてを天の采配のままに任せて生きているので、お金の心配をして、自分の資産を列挙し、残りの額を数える、ということは、あえてしない。ダビデがイスラエルの人口を数えようとしたことが神の御前に罪であるように、人が自分が持っている財産をことごとく数え上げるというのは、要するに、「本当にこれで十分なのだろうか」という不安に対する自己安堵のために取る行動である。

だが、今回は、つい人間的な思いが働いて、気づくとすでに頭の中で電卓をはじき、その誤差をどうやって埋めるか方法を思いめぐらし、あれやこれやの対策を考え、周囲の人にもついそれを「問題」であるかのように語ろうとしていた。

しかし、同時に、そのようなことは、不信仰であり、神を信じるだけで良いのだと、よく分かっていた。「足りなくなるかも知れない」といった恐れを口にすることだけでも、神の満ち足りた豊かさを曇らせる不信仰な言葉である。
 
神こそ、信者の抱える必要をすべてご存知で、それを満たすことのできるお方である。だから、信者は黙ってこの方を信頼すべきなのだ。神は信者のすべてを知っておられ、信者のすべての問題を解決できるただお一人のお方である。信者が神に何も申し上げる前から、神にはすでに対策がある。

だから、本当は、このようなときこそ、「さあ、ここからが主の出番だぞ」と、信者はゆっくり構えておけば良いのである。

それは本当によく分かっているのだが、だが、まだ、筆者は完全な実践に至っていない部分があり、筆者の思考にはまだ「アダム来」の部分が残っており、つい自分の感じている不安や疑問を簡単に口にしてしまう癖をやめられなかった。こうした習慣を、信者は一つ一つ、取り払って行かねばならないのだが。

しかし、そんな信者の未熟さがあったとしても、それでも、神は神なのである。神にとっては、信者の遅い進歩さえ、全く問題にならない。

だから、筆者の「誤差」の部分も、神は予めすべて知っておられ、初めからそれを満たすための方法論を備えていて下さった。

筆者は仕事を始める前に、会社から別件で在宅の翻訳の任務を仰せつかっていた。

そして、考えられないことであるが、会社は締日が来る前に筆者を呼んで、「その仕事にいくらお支払いしたらいいですか」と尋ねて来たのである。

このようなことは、はっきり言って、常識では起こり得ないことである。

筆者は、あまりの驚きにとっさに答える言葉がなく、言わなくて良い「誤差」の問題まで口走り、これをどうすれば良いかと尋ねてしまうほどであった。

何しろ、世間で翻訳に支払われる金額などたかが知れている。

筆者が携わった多くの翻訳会社は、翻訳者に仕事を依頼する前に、初めから「大したお金は払えませんけど、覚悟して下さいね」などと断ってくるほどであった。

できるなら、ボランティアでやってもらいたい、と言わんばかりの勢いである。

それを、仕事が終わった後で、「いくら支払えば良いか」などと会社が尋ねるというのは、よほどの信頼関係がなければできないことであり、いや、たとえ信頼関係があったとしても、そのようなことは常識的に考えてあり得ない。

筆者の知っている日本の99%の会社は、面接に行っても、交通費を支払うことはなく、通勤しても、交通費をピンハネするか、支給せず、仕事をしても、それに支払うべき金額を最大限にケチり、あるいは踏み倒し、なおかつ、功績を他人の手柄に変えてしまうということさえあった。むろん、途中から契約内容が一方的に変更されたり、突如契約が打ち切られたり、自宅待機を命じられたり、残業代が払われないなどのことは日常茶飯事である。

とにかくすべてにおいて嘘と搾取が横行し、労働者に払うものは値切りに値切って最大限に踏み倒し、最大限、無賃労働をさせようと試み、まして労働者が困ったときには、指一本、助けてやるものか、という態度だったのである。それが現代日本企業の標準的な姿である。
 
だから、筆者は世の常識と神の采配のあまりの違いに愕然としてしまった。
 
筆者が自分の頭で「どうしようか」と計算を試みていた時、神は確かに人の心を動かして、何一つ不足なく、不自由なくいられるように、すでにすべての対策を整えていて下さったのである。

そして、不信仰な筆者が、不安を口走ってしまったことにさえ、神は対策を準備しておいて下さった。それを聞いて、筆者を見下げたり、突き放したりするような人はおらず、かえって、「会社としてできないことについては、個人的にも助力を検討しますので、相談して下さい」という返答がかえって来たのである。

こんな会社はこれまでに見たことがない。
特に、日本企業には、このようなことは一度もなかった。
(この会社は日本企業ではない。)
 
だが、多分、世界のどの場所でも、そのようことはそうそうあることではないであろう。

何よりも、筆者は、そこに主の采配があることを見ずにいられない。

とにかく、神はすべてに間に合う方なのである。

だから、信者はどこでどんな思いがけない「誤差」が生じようと、誰にも「窮状」を訴えたり、「支援」を乞うたり、「相談」を持ちかける必要がないのだ。信者にはそもそも「窮状」なるものは存在しないが、まして信者が自分の「窮状」を解決するために、あれやこれやの対策を考えて走り回り、人に支援を乞うて回る必要はない。

どんな時にも、我々がなすべきことは、ただ落ち着いて、神を信頼することである。

そのことを改めて心から確信させられた瞬間であった。また、世の情勢がどうあれ、思考から行動パターンから、すべてをキリストにふさわしく変えて行くことの必要性を改めて感じさせる出来事であった。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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