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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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真の伴侶たるキリストとの交わりの中で休む

一応、以前に書いた以下の文章を記録として残しておこう。

「毎日、くたくたになるまで働いています。試用期間を名目にして、クライアント側からの終わりなき試験が延々と続き、厳しい営業実績が求められています。日曜出勤のできない私は、保険にも入れず、2ヶ月経っても、採用されている実感というものが全くありません。しかし、疲労感の中にも、言い知れない満足感があ ります。勉強になることが多く、同僚も良い人たちで、金銭的な事柄については、主にお委ねしています。

目まぐるしい毎日の中、ブログを書き続ける気力は、なくなってしまいそうです。けれども、あえて文章をつづらなくとも、心の奥底に、平安があります。先日、「あなたはもっと主の中で安息した方が良いと思う」、と、ある兄弟に勧められました。今、私にとって、主を証する記事を書けることも幸いですが、記事 を書かない時も、主と二人きりの時間を過ごす安らぎの時です。主と共に生きる日々には、言葉には言い表せない恵みが伴います。

昨夜、ある遠方の姉妹と電話でお交わりをしました。病床にある姉妹を通して与えられた、私の貴重な友です。受話器ごしに彼女の声を聞けることが、私にとってどれほどの喜びでしょう。主は困難な時にあっても、私に休む場所を備えて下さいました。これまで、兄弟姉妹との交わりの中で、抱えていた荷を下ろし、心 が軽くされる経験を、幾度、味わったでしょう。彼らと言葉を交わしたいと、いつも、どれほど願うでしょう。あいにく、思うように時間が取れないハードな毎 日が続きますが、たとえ会うことができなくとも、私の心は、いつも兄弟姉妹のもとにあります。

私は、主を愛するのと同じように、兄弟姉妹に心を向けます。出会った兄弟姉妹一人ひとりが大切なのです。交わりに出かけて行って、彼らから供給を受けることで、私自身が生かされています。これは、社交への期待でも、人への依存でもありません。キリストの命だけが、私たちを本当に一つに結びつけ、魂を潤すの です。ですが、ここに脈々と流れている命について、どうにも、表現する言葉を持ちません…。」
 
この当時、筆者が関東に来てから初めて志願して就いたこの世の職業は、誰から見ても、最底辺に近いものと考えられていた。「毎日クタクタになるまで働き」、「クライアントからの試験が続き」、「保険にも入れず」、「採用されている実感がない」…などと書いている通りだ。

その後、筆者は、このような仕事はあまりにも異常なのだ、と理解して、もう少しましな条件の仕事を探すために職業を変え、人から尊ばれているような職務にも就いた。

そのような模索の果てに、この国で最高と思われている場所、政府にさえ行った。そこへ行きさえすれば、きっと次なる展望も見えて来るに違いない、と思っていたのであった。

だが、どこを見ても、結局、状況は似たり寄ったりなのであった。それぞれの職務に違いはあったが、結局、筆者はこの世の職業にはいかなる希望も見いだせなかったのである。

それは、この世の経済には、嘘と虐げと不正以外のものを見いだせなかったためである。

専門外の職業に就くから悪いのだとか、雇用形態がましになれば状況は変わる、といった小手先のごまかしでは手の打ちようがなかった。この世の経済そのものが、とことん病んでおり、腐敗しており、絶望しかもたらさない、人を生かす力のないものであり、そういうものにすがっていてはこの先、生きてはいけないであろう、という結論だけが残らざるを得なかったのである。

そのような気づきは、一見、絶望的な結論のように聞こえるかもしれないが、おそらく、この事実に気づくのは、早ければ早いほど有益なのではないかと筆者は思う。なぜなら、見込みがないものにすがり続けているほど、無益な時間の浪費はないからだ。

そして、地上の経済ではなく、天の経済に生きるために、筆者は一年ほど前から、明確な実験を続けているのである。

また、この世の経済の絶望性が分かると同時に、上記の文章で筆者が美化して賞賛していたような「信者の交わり」というものも存在しない、ということが分かった。

仮に「信徒の交わり」なるものが存在するとしても、それは筆者がかつて模索していたのとは全く異なる形で発見されるのではないかと予想する。

当時、筆者は心から兄弟姉妹への愛を持っていたので、上記のような文章も、誇張によって書かれたものではなかったが、それにも関わらず、そうした交わりからは、筆者の期待に合致するようなものは生まれて来るものはなかったのである。

それは、命を供給する方は、キリスト以外にはいないからである。信者がどんなに互いに交わりを尊重しても、一人一人が、キリストに固く結びつき、従い抜くという孤独な行程を抜きに生まれて来るものは何もない。

さらに、当時、筆者が「兄弟姉妹」だと考えていたほとんどの人たちは、兄弟姉妹ではなかったか、あるいは、途中から道を踏み外し、全く違った方面へ向かって行くことになってしまった。それゆえ、筆者は彼らと手を携えて歩むことが完全に不可能となったのである。

そのようにして、当時、筆者が喜んで享受し、命の供給を受けられると考えていた「交わり」なるものは、期待したような効果や発展へ結びつかなかった。

もちろん、祈りや、交わりの中から、信仰によって、生まれて来たものが何もなかったとまでは言わない。確かに、多くの場合、兄弟姉妹の間に、信仰は見られたのである。そして、筆者自身も、その交わりの中で、幾度か光を受け、進むべき道を明確につかんだりもした。
 
だが、それでも、筆者が期待をかけていたようなものは、それらの交わりからは、生まれなかった。多くの場合、筆者の愛した兄弟姉妹は、やがて敵のような存在へと変わり、その交わりを絶つのが遅れたために、害をこうむることさえあった。

筆者自身が、キリストだけに頼るために、人間への期待を全て捨てて、これらの交わりを離れなければならなかった。

以前には、筆者が「孤独な」信仰生活を送ることに反対し、何とかして筆者を交わりへと誘い出そうとする「兄弟姉妹」が数多くいたのだが、今や、筆者はそうした誘いには乗らなくなった。たとえ彼らから変人、偏屈、といった汚名をこうむったとしても、筆者はますます目に見える信者との交わりからは遠ざかって行っている。信者だけではない。地上の人間の集団からも、遠ざかって行っている。

本当にこれで良いのだろうか、これは筆者の人間不信や厭世観がもたらしただけの無意味な孤独ではないのか、と疑いが生じることもないわけではない。

しかし、それでも、ケリテ川のほとりに避難したエリヤのように、神の助けは、筆者に対して十分なのである。主の御業を日々、見る。だから、やはりこれで良いのだ、と思わずにいられない。

反キリストの王国が出来上がる時には、人々は、獣の刻印がなければ、売ることも買うこともできなくなる、と言われている。信者は、その獣の刻印を受けてしまえば、終わりである。そのような試練の時が、近づいて来ているのかも知れないと感じずにいられない。
 
<2016年>
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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