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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

信仰(1)

信仰とは、理屈をも状況をも超えたものであることを、私は感じさせられている。人の持っているものの中で、唯一、主イエスが手放しで誉められたのは、信仰であった。

信仰とは、永遠の中にお住まいになる御父と私とをつなぐ直通の119番である。信仰とは、この時空間のあらゆる制限を受けて追い詰められている無力な存在 に過ぎない私が、瞬時に、無条件に、永遠にありてある方へとアクセスするために与えられている、御父と私とをつなぐ直通のラインである。信仰とは、天の父 なる神と地上にいるキリスト者とを結ぶはしごであり、そのはしごは、主イエスの十字架によって成り立っている。信仰を通してのみ、私たちは、父なる御神の 存在の只中へと引き寄せられ、信仰を通してのみ、私たちは、御心が何であるかを知り、達成する…。信仰を通してのみ、私たちはまだ見ていないもの、聞いて いないものを得ることができる…。

昨年の秋、関東へ来て、私が初めて、あるキリスト者に、交わりのために呼び出された場所が新宿であった。どうしてその時、兄弟が新宿を選んだのか、今もっ て不明であるし、その兄弟にも、今は会うこともなくなってしまったのだが、そこにはどうやら、不思議な主の配剤があったようである。その時、都庁付近のそ びえ立つ立派なビル群を眺めながら、私は自分がこんな場所で働くことはまずあるまいと思い巡らしていた。あるビルの入り口を二人で通り過ぎた時、藍色と緑 色のアルファベットで、会社のロゴマークの刻まれたプレートを何気なく指差して、私は兄弟に言った、「これは私が関西にいた頃に勤めていた会社なんです よ…」

思い返せば、関西でその会社に勤めていた頃、私はまるで人生の最盛期にあるかのようだった。若かったし、友人にも恵まれており、主の御心に沿って生きてい ないという点を除けば、全てが充実していた。職場の同僚たちも、かけがえのない人たちであった。その職場を離れる時、同僚たちには、再びその職場に戻るつ もりだと告げていた。にも関わらず、私はそこへは戻らなかった。論文という重荷を背負っていたためである。だが、その時以来、必ず乗るはずであった列車 を、ハプニングで乗り過ごしてしまった人のように、私は、何か大切なものを、人生の途上に置き忘れてしまったような気がしている…。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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