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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

宮中クーデターを狙う安倍政権の危険な思惑が垣間見えるような天皇の生前譲位説というデマ

・現政権は、壊憲クーデターだけでなく、宮中クーデターも狙っている? 天皇の生前譲位説という虚偽報道に見る「男系男性天皇」(のみ)を誕生させたい人々の危険な思惑

天皇の生前譲位という、降って湧いたようなニュースが突然、参院選が終了した直後から各メディアを騒がせているが、以下に示すように、それには本当に根拠があるのかどうか、極めて怪しい。むしろ、安倍政権側の人々が、自らの政治イデオロギーにとって好ましくない今上天皇が、自らの悲願である改憲の妨げになっては不都合だとばかりに、御用メディアに命じて譲位を既成事実であるかのように流布したデマの可能性が否定できないように思う。

それに加えて、あいば達也氏が、以下で引用する通り、このニュースには秋篠宮家と深い関わりがありそうだと推察している。筆者もこの点については同じ違和感を覚えている。

安倍政権を動かしているのはクーデターの精神である。彼らは必ず全ての行動において下剋上・秩序転覆を行うし、実際にそうして来た。まず、彼らは最高法規である憲法を尊重しないことによって、憲法遵守義務違反を犯し、自分たちがどんな規定にも縛られることなく、最上位の存在であるかのように振る舞って来た。そして解釈改憲を行って憲法の意味を骨抜きにし、今や、後付けで憲法の都合の悪い部分は全て排除して、これを自分好みに変えてしまおうと画策している。

解釈改憲は、その時点で、すでにクーデターだと言われて来た。こうして彼らは最高法規の意味を徐々に骨抜きにすることによって、憲法に対する自らの度重なる違反を正当化し、国家神道や軍国主義の復活を目指して来たのである。すでに文民統制を覆し、制服組の優位を確立しようとしている。他にも、彼らの秩序の転覆、法律の文言の毀損、意味や説明の捏造、歪曲、「裏口入学」の手口は枚挙に暇がないが、これらすべては戦前回帰のためになされていることであり、歴史を逆行させて、敗戦によってすでに決定的に敗れたはずの勢力を再び復権させて「名誉回復」させようと狙う動きなのである。

こうして、現政権が常に公の秩序・規定を骨抜きにし、ないがしろにして、黒を白とし、白を黒としながら行動して来たのは、ただ単に戦前の財閥の復興などといった目先の目標を超えて、その背後に、グノーシス主義的な反逆の霊に由来する危険な宗教思想があるためである。

グノーシス主義とは秩序転覆の霊であり、その起源は、聖書の御言葉に反して悪魔が人類に吹き込んだ偽りの思想にあるが、この思想の最終目的は、まことの神を追放して、人間を神の座に据えることにあり、それこそが、神に対する人類の究極のクーデターであり、すべての異端思想が共通して目指す最終目的なのである。

すなわち、人類を一致させて神への反逆に駆り立てることにより、天まで届く塔を建設し、自ら神に至ろうというのが、人類の神に対する反逆の思想の本髄なのであり、KFCの分析でも示したように、今やキリスト教でさえすでにこうした反逆の思想の牙城となってしまっている実態がある。ましてや統一教会のようなキリスト教の異端は何をかいわんやである。

いずれにしても、このグノーシス主義という思想は、有史始まって以来、絶え間ないクーデターを引き起こして来た。もともと独自の神話を持つ宗教ではない哲学的思想なので、どんな宗教にでも形を変えて入りこみ、キリスト教にも公然と入りこんで聖書の御言葉を毀損・歪曲し、骨抜きにしながら、聖書の秩序を転倒させてこれを真逆にする悪魔的な秩序をもたらそうと画策して来た。

安倍政権は、創価学会のみならず、統一教会とも深い関わりがあると言われているが、日本会議の支持団体には、キリストの幕屋などを含む、キリスト教の異端団体も数多く名を連ねている。そうである以上、こうした人々がグノーシス主義のクーデターの霊に憑りつかれているというのは、単なる憶測や、杞憂のレベルだとばかりは言えないだろう。

たとえば、『日本会議の研究』で知られる菅野完氏の記述がある。
  

日本会議に集まる宗教団体の面々――シリーズ【草の根保守の蠢動 第3回】
HARBOR BUSINESS Online
2015年03月11日 から抜粋

日本会議本部の役員に名を連ねる宗教団体関係者たち


 日本会議側も宗教団体との関係を特段否定するわけでもない(※1)。WEBに公開されている日本会議の役員名簿(http://www.nipponkaigi.org/about/yakuin)をみてみよう。表1は、この役員名簿を元に、筆者が作成したものだ。

⇒【画像】はこちら http://hbol.jp/?attachment_id=28321


表1:日本会議役員名簿(宗教関係者を筆者が編みかけした)

 この名簿をみると、顧問から事務局長まで、役員総数62名のうち24名が宗教関係者によって占められていることがわかる。役員の三分の一以上が宗教関係者という計算だ。日本会議は極めて宗教色の強い団体であると言えるだろう。

<中略>

日本会議に集まる宗教団体の多様性


 ここで改めて、どのような宗教団体が日本会議に参加しているかを、団体名ベースで見てみよう。表2は日本会議本部の役員名簿や日本会議の地域組織の役員名簿からよみとれる宗教団体を一覧にしたものだ。

⇒【画像】はこちら http://hbol.jp/?attachment_id=28322


表2:日本会議への参加および日本会議内での活動が確認されている宗教団体一覧


 この表でとりわけ目に付くのは、仏所護念会や霊友会など、明治以降に生まれた、いわゆる「新宗教」とよばれる宗教団体の比率の高さだ(※3)。また、神社神道系 教派神道系 新教神道系 仏教系 諸教系と、実にさまざまな宗派にまたがるという点も特徴的といえるだろう。

(以下略)


菅野完氏は、一見バラバラのように見えるこれらの宗教団体の結びつきの原点が、生長の家原理主義にあることを調べ上げている。生長の家原理主義とは、もともとは「生長の家」の谷口雅春の教えを出発点としながら、70年安保で左翼に対抗した右翼民族派・生長の家学生運動の出身者を指す。
 
上記のリストには統一教会は含まれていないようであるが、安倍首相と深い関わりのある統一教会が日本会議と無縁であるはずがなく、さらに生長の家原理主義の学生運動は、思想的には、統一教会の組織する国際勝共連合とも重なるものがあり、ここにリストアップされていないのは、無関係だからではなく、かえって統一教会がこれらの宗教団体の上に立つ指導的存在だからではないかと思われてならない。

こうした宗教団体は、ただ「共産主義の脅威に対抗する右派」という軸によって結び合わされているだけでなく、キリスト教に対抗するグノーシス主義に由来する(多くが新興の)宗教である。グノーシス主義的特徴とは何かと言えば、生長の家がそうであるように、生まれながらの人間を「神」(神の子)に祀り上げ、人間を神聖な存在、すなわち、現人神であるとみなす思想である。つまり、これらの宗教団体はみな「現人神」を信じる信仰という接点を持っていることが挙げられる。

筆者は菅野氏の著書に目を通していないが、苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳の記事に、日本会議に関わる宗教団体の概略が記されているので、そこから引用する。
 

記事「菅野完『日本会議の研究』・・・生長の家原理主義者たちがその中核
2016-05-17 より抜粋

 日本会議なるものの中核が、生長の家原理主義者たちだという事実を克明に世に示したこの本は出版取りやめになるのでしょうか?微妙なところだと思います。とにかく、この実態が知られることは、日本会議にとってはとても不都合なことのようです。
 本書で紹介される中心人物たちが、こちらに紹介されています。

http://joe3taro.com/?p=1327

2.日本会議の組織力・動員力・・・諸宗教団体

 組織ということでいうと、日本会議の組織力・動員力の源泉として、筆者は、通常教えの違いからまとめにくいはずの、もろもろの宗教団体をまとめていることを指摘していました。日本会議が彼らをまとめるキーワードは、<皇室中心、改憲、靖国参拝、愛国教育、自衛隊海外派遣>といったものです。

 日本会議にかかわっている宗教団体のリストには以下の名があります。

神社本庁、伊勢神宮、熱田神宮、靖国神社、明治神宮、岩津天満宮、黒住教、オイスカインターナショナル、大和教団、天台宗、延暦寺、念法真教、仏所護念会教団、霊友会、国柱会、新生儒教教団、キリストの幕屋、崇教真光、解脱会、モラロジー、倫理研究所。・・・おそらく、これらの諸団体の信者たちは、自分たちがこんなにいろんな宗教といっしょに巻き込まれて運動しているのだということを知らないのではないかと思われます。


さて、本題に戻れば、以上のような宗教思想の信者らで8割以上が占められているという現政権とそれを支える宗教勢力が、皇室についても、必ず、自らの統制下に置くことを目指していないはずがない。何しろ、彼らにとっての皇室とは、彼らの政治・宗教的イデオロギーをまさに体現する最も重要な象徴なのである。

だが、その思想的特徴から察するに、彼らは決して現在の皇太子を尊重しないはずである。

おそらく、現政権、特に安倍首相には、皇太子(徳仁親王)を飛び越して、この先、第二皇子である秋篠宮文仁親王にスポットライトを当てようとするプランがあって、今上天皇から直接、第二皇子に皇位継承権を渡すか、もしくは、ゆくゆくは秋篠宮家の男児悠仁親王を天皇の座に据えるという計画を準備しているのではないかという推測さえも生まれる。

仮にその推測を脇に置いたとしても、少なくとも、今上天皇の憲法擁護の姿勢と、平和主義が国民の心に深く訴えかけるので、このような人物が天皇であり続けることは、現政権にとって好ましくなく、改憲(壊憲)の妨げになる可能性があるため、国民投票までには退いてもらいたいという思惑があるのではないかということが容易に推測できる。

そのような思惑があってこそ、天皇の生前譲位説というものがまるで既成事実のように報道されているのではないか。従って、早合点は禁物である。宮内庁がこの報道を全面否定している様子からは、肝心の今上天皇のことばが、何者かによって捏造されて伝えられている可能性をが高い様子が伺える。

しかも、天皇の生前譲位説を報じた第一報がNHKであったというから、ますますその信憑性は怪しまれる。公共放送でありながら、NHKが今回の参院選でも、ほとんど選挙に関する報道を控えていたことはすでに多くの場所で公に指摘され、非難されている(たとえば、ハフィントンポストの記事「参議院選挙への無関心はテレビのせい!?と言えるワケ」投稿日: 2016年07月11日 16時14分 JST   更新: 2016年07月11日 16時45分 JST を参照。)

こうした報道の自粛が誰を利するのかを考えれば、事の次第は一目瞭然であり、投票率が低くなれば助かるのは政権与党であるから、NHKが政権与党の側に利益となるよう便宜を図らって報道を自粛したという推測は免れることができない。そのようなNHKが第一報であるから、天皇の生前譲位というのは、余計に信用できないニュース、いや、ニュースというよりも、誘導記事ではないのかと受け止められる。

以下、宮内庁は新聞雑誌の報道を全面否定しているという朝日新聞のニュース。
 

宮内庁次長は全面否定「報道の事実一切ない」 生前退位

2016年7月13日21時50分

宮内庁の山本信一郎次長は13日夜、NHKが最初に生前退位について報じた後に宮内庁内で報道陣の取材に応じ、「報道されたような事実は一切ない」と述べた。宮内庁として生前退位の検討をしているかについては「その大前提となる(天皇陛下の)お気持ちがないわけだから、検討していません」と語った。さらに「(天皇陛下は)制度的なことについては憲法上のお立場からお話をこれまで差し控えてこられた」とも話した。


さらに時事ドットコムの以下のニュースは、さらに踏み込んで、天皇自身は憲法上の立場から、自分がいつ公務を退くかと言ったことを自分で決断できる権利を有していないのだから、従って、そのような発言を行う理由が存在しないと述べている。今上天皇はいかなる場合も、憲法を尊重し、その規定を超えるような私的解釈に基づく行動を取ってこなかったわけであるから、これは非常に説得力のある説明である。

「そうした事実一切ない」=宮内庁幹部は報道否定-生前退位
時事ドットコムニュース (2016/07/14-02:26)

天皇陛下が天皇の地位を生前に皇太子さまに譲る意向を宮内庁関係者に伝えられたとの報道を受け、同庁の山本信一郎次長は13日夜、報道各社の取材に応じ、「そうした事実は一切ない。陛下は憲法上のお立場から、皇室典範や皇室の制度に関する発言は差し控えてこられた」と否定した。

天皇陛下が生前退位の意向=数年内、周囲に伝える

 午後8時半ごろ庁内で各社の取材に応じた山本次長は、「陛下が生前退位の意向を宮内庁関係者に示されたという報道があったが、そうした事実は一切ない」と繰り返し強調。「長官や侍従長を含め、宮内庁全体でそのようなお話はこれまでなかった」と話した。
 記者からは皇室典範改正の可能性についても質問が飛んだが、「皇室典範や制度にわたる問題については内閣や国会で対応するものだ」とコメントを避けた。静養のため葉山御用邸(神奈川県葉山町)に滞在中の陛下の体調については「お変わりなくお過ごしだ」と説明した。
 深夜に取材に応じた同庁の風岡典之長官も、同様に報道内容を否定。「(皇室の)制度については国会の判断にゆだねられている。陛下がどうすべきだとおっしゃったことは一度もなく、あり得ない話だ」と述べた。


そこで、今上天皇が語らなかった「ことば」が、あたかも天皇のことばのように公に流布されている背景には、今上天皇をできるだけ早く譲位させたいとする人々の思惑が強く働いていることを感じさせられるため、非常に空恐ろしい物騒なものが感じられてならないのである。

さらに、その人々は、今後、一体、誰に皇位継承権を与えようと願っているのか? 

筆者には、それは皇太子ではないように思われてならない。あいば氏が、報道内容が秋篠宮をクローズアップするものであることに注意を払っているのと、全く同じ危惧を筆者も感じている。

すでに述べた通り、安倍政権を動かしているのはクーデターの霊である。従って、彼らは皇位継承手続きをも都合の良いように乗っ取ってしまい、決してしかるべき秩序に基づいて行う気はないのではないかという予感が筆者にある。

特に、これまで敬宮愛子内親王を無視する形で繰り広げられて来た”佳子さまブーム”なるものの奇怪なども合わせると、その予感は強まる。今回の「誤報」もまた、秋篠宮家にスポットライトを当てるための一環ではないかという予測が生まれるのである。
 
つまり、ある人々が、皇太子一家を無視するか、これを飛び越えて、秋篠宮家に国民の注意を向けようとしているのである。何よりも、そこにある意図は、男系男子の皇位継承しか認めたくない人々が、何が何でも女性天皇の誕生を阻止するために、そのような目的での皇室典範の見直しを退けて、敬宮愛子内親王を退けて、悠仁親王を将来的な天皇に担ぎ出したいという決意を以前から固めており、そのために、皇太子を退けて秋篠宮家に国民の関心を移していこうと徐々に画策しているのではないかと見られてならない。悠仁親王はまだ幼く、思想的な立場が固まっておらず、特定の政治勢力が自分に都合よく傀儡に育てようと考えるなら、格好のタイミングであると言えよう。

筆者の考えでは、現政権に関わる人々は、皇室尊重と言いながら、実際には、全く皇室を尊重などしておらず、天皇をただ自らの政治的野望をかなえる手段としか見ていない。

歴史を振り返っても、都合よく操り人形にできそうな人物や、あるいは子供(少年・青年)を形式上だけ国家元首としての天皇の座につけておいて、あとは政治勢力が好き放題、やりたい放題に国を牛耳ろうという考えは、今に始まったものではない。
 
皇太子と秋篠宮との間には、以前から、それなりの確執があったとの報道もあり、また、雅子妃に対する執拗なバッシング報道がずっと続いて来たことを考えても、そこには、将来的な皇位継承権を、敬宮愛子内親王には渡したくないという思惑が、強く働いているのではないか、できる限り、皇位継承権を皇太子一家から遠ざけたいという思惑が実際に存在するのではないかという推測が成立するのである。

それにしても、もし天皇陛下のことばさえも捏造されて報道されているのだとすれば、もはや我が国は乱世のようなものである。一体、現政権は何なのであろうか。安倍氏の「立法府の長」発言もそうであるが、彼は全能の神になり代わったつもりなのであろうか。選挙前には「参院選の争点はアベノミクス」と言って、すでに世界的に破綻が明白となっているアベノミクスを「道半ば」とうそぶいて掲げ、選挙が終わると、「改憲勢力3分の2を得た」と突然、口調を変えて、改憲に突き進む意欲を見せるというのも、現政権ならではの極めて姑息なやり方である。さらに、ここに来て、突然のように、今上天皇の生前譲位説が飛び出して来たのも、彼らがやがて天皇を「神」として国家神道を復活させることへの並々ならぬ決意を、もはや隠し立てなく表明し、皇室さえも牛耳り、自分たち好みの天皇を立てるつもりだという決意を表明したものでなくて何であろうか。ちなみに、今回の選挙も、おそらくは、ムサシという特定の会社が牛耳る開票マシーンによる不正操作の結果であり、まるで民意を反映していないという推測は、随分前から、ネットではほぼ定説となっている。

選挙結果の操作は時代を超えて権力者の常套手段であり、現代にだけは、それが行われないなどと考えるのは、あまりにも子供じみた楽観的な発想である。
 
こうして、参院選でも勝利を得たことにしてしまい、それに勢いを得て、現政権は、自分好みの「国家元首」立ててそれを「神」に祀り上げ、全国民に跪拝を要求するという「悲願」に向けて、道を整え始め、いや、暴走を始めたように見える。それが安倍首相の言う「この道」の意味するところである。

彼の言う「この道」とは、結局、人間に過ぎない者を現人神に祀り上げて、全人類に跪拝を要求しようとする偽りの宗教に他ならない。経済政策などは、ペンテコステ運動の「繁栄の神学」と同じく、人々の関心を掴むためのきっかけに過ぎず、その思想の本質ではない。現政権のイデオロギーの本質は、「救国」すなわち、人間のあらゆる弱点につけこみ、「救済者」に名を借りた人心の完全な掌握と支配を行うこと、すなわち、独裁を打ち立てることにある。
 

 世相を斬る あいば達也 記事天皇の譲位意向報道 籾井NHKの特ダネ“陰謀”の臭いも?から抜粋

●天皇の譲位意向報道 籾井NHKの特ダネ“陰謀”の臭いも?

今夜も、時間がないと云うのに、NHKのすっぱ抜き“特ダネ”のような形で、天皇が生前退位に関して、ご希望を述べられた云々と云う、情報源を「関係者によると」と曖昧にした状態で、日本中、否、世界中を驚かせた。この天皇の地位継承問題は、様々な問題を含んでいるので、ひと口に理解しきれない。今夜は、時間の都合上、嫌に、天皇の生前退位問題に前向きな報道をしているのが、籾井のNHKと産経新聞、日経新聞だと云う事実と、その報道している内容を羅列するにとどめる。


上述の報道機関が、前のめりで報道していると云う点を、先ずは「重視」すべきだ。このNHK、産経新聞、日本経済新聞の三社が酷く積極だ。このことは、酷く重要であり、警戒すべき点だ。安倍政権及び日本会議勢力に取って極めて親和的報道各社であることを、我々は、大前提として、考えるとか、感じる前に、念頭に置くべきである。改憲勢力が、衆参両院の2/3議席を制し、今後は「憲法審査会での議論だ。叩き台は、自民党の壊憲草案だ」と平然と抜かした安倍首相の「改憲願望」と非常に深くリンクしている。そのメカニズムと云うか、陰謀的手順表は,官邸の誰かの胸の内にあるに違いない。

秋篠宮がクローズアツプされている点も注意が必要だ。“佳子さま報道”含め、どこか臭う。現皇太子が存在しないような書きっぷり、秋篠宮へのズームイン、現皇太子の影薄くと云う印象を与える記事になっている。秋篠宮のイデオロギーがどのようなものか、寡聞にして知らないが、今上天皇と現皇太子が、護憲的発言が多く、安倍日本会議勢力にとって、有り難いとか、親和的だとか、到底言えない。以上の素地が、今回のNHKのフライング報道に臭うわけである。朝日新聞だけが、宮内庁がNHK報道を事実無根と否定している件を明確に報じている。

(以下省略)


これから注意が必要なのは、今上天皇を何としても生前に譲位させようというより一層強制的な動きが出て来ないかという点と、皇位継承権を巡るクーデターが起きないかどうか、という点である。
  
現行憲法では、天皇は国民の象徴であって、政治家が自分の傀儡として動かせる駒ではない。しかし、自民党は憲法改正の草案において、天皇を「国家元首」にしようとたくらんでいるわけであり、それが意味するところは、彼らが天皇を自分たちの手先とし、傀儡として操り人形にすることによって、自分たち政治勢力の意のままに、天皇の命令によって戦争を起こし、戒厳令を敷き、多くの国民の生殺与奪の権を握れるような世界を目指しているということである。

そのようなことを目論む人々が、自分たちのプライドを満たし、なおかつ、思い通りにできる傀儡としての天皇を立てようと考えないはずがない。彼らが願っているのは、天皇崇拝という形式を通して、国民から権利を奪い、自分たちが「神」になって指揮権を握ることであり、欲しいものは絶対的な権力、それだけなのである。

さらに彼らにはその宗教思想に基づいてどうしても、自分たちが「神」になるために、血統を転換させてくれる人物が、すなわち、生まれ持った「万世一系」なる幻想の血統が必要なのである。そのために、できるだけ都合の良い人物を天皇に据えたいと願っているだけなのである。

このような「聖なる血統」という幻想は、すでに述べた通り、統一教会(を含む異端思想)に共通するものである。これまで述べて来たように、異端思想には、堕落した人類の「血統」を「神の血統」に転換し、それによって地上天国を成就するための共通する家族モデルがあり、それが、宗教・政治指導者夫妻を「聖なる真の霊的父母」として崇め奉り、これに人々が「子」として連なることによって、全人類を「一つの神聖な霊の家」に帰属させ、一つの家にまとめようというプランなのである。

そのような、生まれながらの人間を現人神とみなして、全人類を一家族とみなしてこれに統合することを最終目的とする忌むべき異端思想の家族モデルは、国家神道に限らず、キリスト教の異端のほぼすべてに共通する特徴である。

それが統一教会では「全人類一家族理想」と呼ばれ、国家神道では「八紘一宇」または「一大家族国家」の理想などと呼ばれ、ペンテコステ・カリスマ運動では「リバイバル」として提唱されているのである。生長の家も、おそらくはこうした概念と無縁ではあるまい。

従って、こうした宗教思想の持ち主は、天皇をただ単に「国家元首」として担ぎ上げ、最高軍事司令官としたいと願っているだけではなく、何よりも、「神の血統」を有する「現人神」として天皇を担ぎ出し、そこにすべての日本国民及び全人類を「子」として帰依させることによって「八紘一宇」を実現することを願っているのである。自分たちが「神々」になるために、「万世一系」などという虚偽を持ち出して、「神の血統」を利用しようとしているのである。

 このような偽りの地上天国の理想は、時代が悪くなればなるほど、より一層、強力に打ち出される。アベノミクスによって日本の国力が落ち、経済がより一層、疲弊・衰退し、国の未来に何一つ明るい材料が見えなくなればなるほど、そのようなまがまがしい幻想の「ユートピア」の理想によって人々を眩惑して、手っ取り早く権力を拡大しようと目論む独裁的政治指導者が現れるのである。

現実が悲惨になればなるほど、大衆は、悪夢のように閉塞した現実から目をそらさせてくれる偽りの「理想」を求め、そこへ麻薬のように逃避しようとする強力な惑わしの力が働く。すでに我が国は滅亡の淵にまで来ているのであるが、それではまだ飽き足りず、その混乱・衰退・弱体化を利用して、独裁を確立し、国民全体を一掃するところまで導かないと気が済まない勢力が存在するのである。その奈落が、「一大家族国家理想」や「八紘一宇」という偽りの幻想の名前で呼ばれているのであって、この地獄をユートピアのごとく夢見る人々は、この先も、自らの幻想(誇大妄想)を達成するための手段として、天皇という存在を、最大限、利用しようとするであろう。

そのようなことを企んでいる勢力に手段を与えてはならない。聖書によれば、人が神に至るための道はただ一つしかなく、それがキリストの十字架なのであり、この方を介さずに、罪深い人間が自力で神の血統に至れるような道は存在しない。人が救われるための唯一の道を否定すると、残るは行き止まりだけなのであり、生まれながらの人間が自己を神とすると、その先に待っているものは破滅以外にはないのである。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

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「私は貴人たちと争った」―ネヘミヤの例から―キリストの御業の完全性と、キリストが御父にとって完全な満足である真理を回復する終末の運動

 さて、Dr.LukeのKFCの異端思想の分析がひとつの山を越えたので、少しほっとしている。

 むろん、これで終わりではないが、一つの山場を越えただろうと感じている。KFCの理念の異端化を明確に分析することにより、この悪しき団体と霊的な訣別宣をしたことが、今後、筆者の人生に必ずや有益な効果をもたらすであろうと確信している。

 ずっと以前に「牧師制度の危険〜偶像崇拝が大衆にもたらす偶像との一体化願望〜」という記事を書いたが、そこに記されている警告のほぼすべてがまさにKFCにぴったり当てはまっていると感じられるため、多少、追記しておいた。
 
 KFCは、キリスト教界に属さず、牧師制度を持たなくとも、教会に「御言葉を取り継ぐ」ための人間のリーダーを置けば、必ず、その人間が神格化され、どの団体でも最後には同じ腐敗に落ち込むということを証明する格好の生きた実例であると言える。
 
 キリスト教界の牧師制度を批判していたDr.Lukeが、牧師制度と同じ罠に落ちたことは、まさにカルトとアンチカルトが同一であることをよく示している。御言葉に立脚して生きないならば、他者への批判はむなしい。むしろ、御言葉に立脚せずに、人間的な観点から、政敵を批判することは、危険でさえある。Dr.Lukeもまた、村上密牧師と同じように、魔物を見つめているうちに、魔物と一体化したのである。

 神と人との仲保者はキリスト以外にはない。信者にはキリスト以外のどんな目に見える「霊的指導者」も要らない。にも関わらず、御霊以外に「みことばを取り継ぐ教師」を置き、それを介して神を理解しようとする制度を打ち立てると、必ず、それが人の心の偶像となり、神の御怒りを買う様々な呪われた事象を引き起こす源となることをKFCはよく証明している。

 確かに、Dr.Lukeの言った通り、エクレシアとは人間が造った組織ではないのである。しかしながら、Dr.Lukeはそのことを重々知りながら、自分自身が組織のリーダーとなる栄光にしがみつき、これを捨てられなかったのだから、キリスト教界よりももっと罪が深いと言えよう。
 
 ペンテコステ・カリスマ運動は、特定の霊的指導者に信徒を従わせるという共通したスタイルを持っており、KFCはこの運動と手を切らなかったのであるから、以上のような結果に至るのも偶然ではない。

 牧師制度を非難しながら、自分が牧師同然の存在となって、信徒の心を盗み(しかも現役のキリスト教界に身を置いて、他の指導者に従っている信者たちの心を盗み)、自らを「神」として、栄光を受けているDr.Lukeには、もはやニッポンキリスト教界を非難することのできる資格がない。

 にも関わらず、相変わらず同氏は、キリスト教界だけに非があるかのように非難して、自分自身をかえりみようともしないのだから、そんな同氏に降りかかる報いは、おそらくキリスト教界の牧師以上に厳しいものとなるであろう。

 Dr.Lukeは現在、自分の活動を批判する人間は、みな同氏に「嫉妬している」のだと公言している。筆者のように、あからさまにKFCの異端性を指摘している人間も、同氏から見れば、まさに「Dr.Lukeに嫉妬している筆頭格の人間」ということになるのであろう。

 だが、実際には、そんな馬鹿げた理屈は、同氏の頭の中だけで作り上げられた被害妄想に過ぎない。何しろ、筆者にはこの老境にあって自分を「神だ」と宣言しているおじさんに嫉妬しなければならない理由が何も存在しない。

 筆者は自分の人生に満足しており、主がこれから何をして下さるのか、将来どんなみわざを見せて下さるのかに霊的飢え渇きと期待を寄せている。

 普通に人間的な要素だけから考えても、筆者には、Dr.Lukeに嫉妬する理由がない。筆者はDr.Lukeよりも長生きするし、Dr.Lukeはピアノを弾けるのだろうか、楽譜を読めるのだろうか、白鍵と黒鍵の区別が分かるのであろうか、キリル文字が読めるのだろうか、それから、女性ならではのたくさんの特権を、全く味わうことができないではないか。

 一体、なぜ、筆者がそれらを全部脇に置いて、Dr.Lukeに嫉妬しなければならない理由があるのか、あるいは、Dr.Lukeを目当てに群がっている信者たちに筆者が嫉妬している、という理屈になるのであろうか。

 だが、KFCに集まっている全ての人々よりも、筆者は年少であり、さらに、KFCにいる女性たちの多くが、家庭的に不幸である。結婚していても、夫の愚痴を外で触れ回るような人たちがおり、あるいは、夫憎しという気持ちから、もしくは家庭内の孤独から、Dr.LukeとKFCに希望を託し、現実逃避しているように見えてならない。自分の抱える人生の諸問題から逃げるために、KFCを利用しているのである。

 しかも、彼らはKFCの中で、Dr.Lukeという偶像を巡って、絶えざる内紛を経験して、互いに妬み合い、押しのけ合っており、そして、いつも最も有能な人々から順番に排斥されて今日に至っている。

 そういう恐るべき様子を実際に見ていながら、誰がそんな集団を妬むのであろうか。
 すぐに考えれば分かることだが、すべてはさかさまであり、逆なのである。Dr.Lukeこそ、キリスト教界と、彼に理解できない真理を知っている信者たちに、嫉妬して来た人間である。

 まず、Dr.Lukeがとりわけ憎しみを向けているキリスト教界の牧師には、自分の教会と信徒の群れがおり、彼らはDr.Lukeよりもはるかに商売上手でしたたかであるから、礼拝堂さえ持たないKFCとDr.Lukeを妬まなければならない理由は存在しないであろう。

 さらに、キリスト教界には、真理がそれほど開けていなくとも、Dr.Lukeには逆立ちしてもできないような、神に対する貞潔な生き方をする信者たちが存在している。多くの富はなくとも、主だけを愛する人々が存在している。そのような人々は、たとえ組織の中にいたとしても、エクレシアの一員なのである。

 そして何よりも、我々には、御言葉なるお方への確かな信仰が存在している。我々はキリストのうちにあって「神の子」とされる特権にあずかっているので、Dr.Lukeのようにキリストを否定して、「私は神である」などと決して宣言する必要がない。そのように言うことによって、Dr.Lukeは自らまことの神、唯一の神を否定して、自らを救いの対象外としているのである。

 大体、ペットが飼い主になり代わろうとは願わないのと同じように、我々は神の地位を乗っ取ろうと願う必要がない。ペットは慈しまれ、可愛がられ、育てられてこそ、幸せなのであり、我々は、神になるためではなく、神を賛美するために造られたのである。

 ペットは飼い主と共に泣き、喜び、楽しんでこそ、幸せである。ペットがパソコンに向かって複雑な作業をする必要もないし、生活のことで思い煩い、月曜から金曜まで満員電車に乗って通勤して働かなくとも良い。学術論文も書かなくて良いし、偉業を成し遂げることも期待されていない。そんなことは彼らに最初から求められていない。ペットを養うのは飼い主の責任であり、飼い主がペットの命を支えるために偉業を成し遂げるのである。

 我々は動物以上の存在であり、ペット以上の存在であり、神に愛され、育まれ、訓練される神の子供である。しかし、子供であり、僕でありながら、同時に、キリストは我々を友と呼んで下さり、花婿の愛を持って接して下さり、もし私たちが切に願い求めるならば、ご自身を現し、御心を分かち合って下さる。果てしなく偉大である方が、我々人間に過ぎない者を心に留めて、愛し、慈しみ、ご自身を分かち合って下さるのである。

 そのように愛され、キリストを通して、父なる神の子供として受け入れられているのに、一体、何の不満があって、我々が、神の地位を乗っ取る必要があるのか。神の子らは、時が来れば相続者として、父の財産をすべて受け継ぐのである。主イエスの御名によって、彼のものはすでに私たちのものとされている。御霊が、約束のものを受け継ぐ保証として与えられている。なのに、一体、何のために、我々が神の子の特権を捨てて、「神」ご自身になり代わろうとする必要があるのか。

 神から疎外されていればこそ、彼らはそのように企てるのである。相続者でないからこそ、家長を押しのけて、家の財産を乗っ取り、盗もうとするのである。

 現在のDr.Lukeの姿は、まるで一杯のレンズ豆のあつもののために、長子の特権を売り払ったエサウのようである。己の肉欲のために、子としての特権を売り払ってしまったので、もう「神の子である」と言えなくなってしまったのであろう。だからこそ、家全体を乗っ取ることによって、不法に相続にあずかろうと、家長を否定してまで、「私が神である」と主張しているわけである。まだ時も来ていないのに、自分が家長になろうとしているのである。

 腐敗した富や特権が彼らをそこまで盲目にさせたのであろうか。救いは、神の恩寵であって、人間の覚醒によっては決して手に入らないことを彼らは忘れたのである。エサウは泣いて懇願したが、長子の特権はもう戻って来なかった。

 これまでにもそうであったが、自分がいかに愛されているかではなく、いかに妬まれているかということばかり強調するDr.Lukeは、自ら悪しき言葉を振りまくことによって、自分で自分を貶め、自分で自分を呪い、自ら全世界の信者の憎まれ者・嫌われ者となり、悪霊の攻撃を自ら呼び起こしているのである。

 日本には言霊信仰というものがあるが、ましてクリスチャンは御言葉なるお方を信じているわけであるから、自分の述べる言葉の大切さを理解しなければならない。我々は自分の言葉によって、自分の歩みを規定しているのである。

 悪い言葉を自分に対して吐けば、悪霊がそれに乗じてやって来る。Dr.Lukeのように、絶えず「私はキリスト教界から標的にされ、大勢の信者たちから憎まれ、嫉妬され、歯ぎしりされる対象となっているのだ」などと豪語する人間が、無傷で済まされるはずがない。

 そういう自虐的な言葉は、悪霊たちの大好物であり、そういう台詞を吐き続けて自分で自分を傷つけている人間を、悪霊どもが放っておくことはなく、喜んで人間関係のもつれと混乱の中に投げ込み、彼を自分で述べた通りの結末へと導くであろう。

 いい加減に気づかなければならない。日本キリスト教界がDr.Lukeを攻撃しているのではなく、彼が自分で自分を貶めているだけである。 Dr.Lukeのことばを聞けば分かるが、同氏は自分で悪しき汚れた言葉を連発しては、自ら暗闇の勢力の敵対感情を煽り、自分で破滅と呪いを招き続けているのである。

 Dr.Lukeはこれまでニッポンキリスト教界に破滅の宣告を下し続けたが、かえってその報いは、KFCに降りかかり、キリスト教界の手先が送り込まれてKFCは会堂を失うということも起きた。
 
 また、KFCでは、絶え間なく、信者たちの妬みによる足の引っ張り合いが起きて来たが、それもまたすべてDr.Lukeが自らを神格化したことによって引き起こした現象である。

 KFCにはこれまで絶え間なく不幸な事件が起きて来たが、そうした事件は、全てDr.Lukeのことばによって招かれたものであった。今や、同氏は、自分や自分たちの団体が、全世界から憎まれ、とりわけキリスト教界から激しい憎しみの対象とされ、絶えず攻撃されているかのように主張しているが、そのように主張することによって、自ら悪霊につけ入るすきを与え、霊的に敵を呼び込んでいることに全く気づいていないのである。

 そんな自作自演劇によって自ら滅んで行こうとしているのだから、全く取り合う価値もないほど馬鹿馬鹿しいことである。しかも、自分たちを「神だ」と言いながら滅びゆくのだから、何とも形容しがたいほどに愚かしいパラドックスである。

 だが、約70年ちょっと前に、そういう人々が我が国には大量に存在していた。その人たちは、全身全霊で「神になる」ことを求めながら、異常かつ悲劇的な死に方で、死んで行ったのである。いつの時代にも、恵みによって救われるのでなく、自分から神になろうとする人々の行き着く先は、同じなのである。

さて、今回の本題は、T. オースチン-スパークスの「ネヘミヤ 今日への生けるメッセージ」を示すことにあった。これを読んで気づかされたことがある。

 筆者はこちらに来た当初、こちらには、エクレシアに属する民が大勢いるのだろうと想像していた。そこで、そのような信者たちと出会い、今までと違ったより充実した交わりを育めるだろうと期待していた。

 ところが、現実はまるで逆であった。筆者がここに来るまでは、高みに存在するかのように見えていた輝ける信者たちのほとんどが、筆者の仲間でないどころか、聖書の御言葉に反する憎むべきものを手放そうとしないアンシャン・レジームの代表者であることが判明したのである。

 彼らは、自分たちは組織を持たない、と言いながら、組織を作り、指導者を置かない、と言いながら、指導者を崇拝し、自分たちはキリスト教界の信者とは違う、と豪語しながら、キリスト教界よりももっと悪い霊的姦淫に落ちていた。そして、地上の富を誇り、肉欲を誇り、十字架を語りながら、自己を決して十字架の死に決して渡すことなく、神の御言葉を曲げて、高慢に、忌むべきものを宝として歩んでいたのである。

 筆者は当初、人間的な未熟さから、そのような人々を説得可能であるかのように思っていた。彼らを公然と辱めることがためらわれ、何より、彼らの存在が惜しまれたのである。だが、それが、不必要な同情であることに気づき、また、すべての説得は意味がなく、それはミイラ取りがミイラになる道でしかなく、この人々はもともと仲間ではなく、むしろ、公然と対峙せねばならない敵同然の裏切り者の相手だったのだ、という事実に気づき、彼らを説得しようという考えを捨てて、ただ主に向かって行ったのである。
  
 だが、しばらくの間、こうした事態は筆者の目に異常すぎるように映ったので、一体、これは何だろうと思いめぐらしていた。一体、筆者が期待していたエクレシアはどこへ行ってしまったのか。こんな有様が主の御心なのか? 何のために筆者はここに置かれたのであろうか? なぜにこれほど主に忠実な民がいないのか?

 だが、T. オースチン-スパークスの「ネヘミヤ」を読むと、そんな疑問も氷解する。
 
「終末の状況」、これは主イエスが地上に来られた当時の様子と重なる。

・・・ネヘミヤ記は一貫して主の来臨と関係しているということです。ルカはただちに主イエスを示します。彼は宮の中で少数のレムナントに囲まれています。これらのレムナントは旧経綸から来た人々であり、新経綸の証しを担います(なぜなら、主イエスが来られた時、証しを担っている人はごく僅かしかいなかったからです。シメオン、アンナ、他の少数の人々だけが、イスラエルの慰め、主のキリストを求めていました)。

主イエスは確かにこう言われたのである、「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(ルカ18:8)

これは主の来臨に向けて、エクレシアが地上で大規模に拡大して行くというある人々の予測とは全く逆である。彼らは、神の家を建設するという名目で、絶えず人間の方ばかりを向いて、普通に考えても、到底、満足できない水準にある人々、しばしば堕落した人々を助けようと、活動にいそしんでいる。その結果、ほとんどの場合は、ミイラ取りがミイラに、盲人による盲人の手引きになって終わるのである。

キリスト者は、弱さや問題によって連帯することはできない。十字架を経て、エクレシアの戸口で自己に死んで、キリストの復活の成分によって結びつかなければ、エクレシアとは呼べない。キリスト以外のものによって連帯する時、決して持ち込んではならないものが神の家に持ち込まれ、交わりが損なわれることになるのを私たちは理解しなければならない。

おそらく、エクレシアの発展とは、規模の増し加わりではなく、質の深まりなのであろう。キリストが増し加えられる度合いが、エクレシアの拡大であり、それは明らかに規模の問題ではなく質の問題なのである。

そこで、終末の時代に、主に忠実な民がほんの少ししか残っていないように見えたとしても、落胆すべきではないことが分かる。

さて、ここからは解説を省くことにする。筆者の言いたいことは、もはや解説しなくても明らかだからだ。ネヘミヤの物語のどれほど多くの部分が、実際に、筆者自身の経験して来たことと重なるであろうか。

ネヘミヤは神の家の腐敗に直面した。大祭司や、神の家にいて高い地位に着いている指導者や信者たちの堕落を見た。信者が自分の兄弟を貶め、踏みにじり、兄弟を搾取することによって利益を得ているのを見た。また、信者が分不相応な贅沢を享受した結果、負債から抜け出られなくなっている様子を見た。信者と呼ばれている人々の多くは、大会、指導者のメッセージ、先人たちの書物など、外からの教えの助けにすがり、自分自身の信仰によって立っていなかった。また、多くの信者が、神によらない汚れた教えを大目に見て、異端が公然と神の家に入りこんでいた。ネヘミヤはこうしたものを見逃さず、「貴人たちと争った」――、すなわち、主イエスが商人たちを宮から追い出したように、妥協することなく、混合を退け、十字架に敵対する人の自己からのものを神の家から断ち切ったのである。そして、神の満足は、ただキリストだけであることを示し、キリストだけを土台として据えるよう、神の民に促した。神の家の回復はただそのようにしてしかなされ得ない。



当時の状況

さて、この本に戻ってそれを読み通し、ネヘミヤの時代の状況を示すものに注目するなら、とても嘆かわしい状況が示されていることがわかります。第一に、神の家の明確な証しは崩れ去っています。エズラが反対した問題が舞い戻り、よみがえっています。エズラ記が示すあの麗しい運動、神の家に関するあの真理の回復、この証しや神の家に反する事柄の放棄は、すべて台無しになっています。そして、昔の悪がふたたび台頭しています。証しは弱く、効果のない状況にあります。

エズラ記を背景として、エズラ記とその内容をすべて生き生きと心に留めながらネヘミヤ記を読み通すなら、ネヘミヤの時代、誰もそれらに気づいていなかったこと、そして、ネヘミヤが登場して神の御心にかなうことを行った時、初めてそれらが白日の下にさらされたことに、私たちはびっくり仰天するでしょう。

これは常にそうです。心から神のために出て行かない限り、そこにいかなる邪悪なものや神に反するものがあるのか、あなたは決してわからないのです。しかし、そうする時、以前なら存在するとは信じられなかったものを、あなたは見いだします。それらはひっそりしており、隠されています。ひっそりと進行しつつあり、人々の生活をとらえ、主の証しを破壊しつつあります。神のための積極的な何かが到来する時、初めてそれらの生命や活動が明らかになるのです。



抑圧

そのいくつかを見て下さい。主の民の多く(歴史的に言ってユダヤ人のこと)は、自分の兄弟たちの間で奴隷として売り飛ばされていました。主の民はお互いを売買しあい、自分の兄弟を犠牲にして、自分の権益や利益を求めていました。自分の兄弟を辱め、貶めることで、自分の地位を維持していたのです。

「今日の霊的状況はこれとは異なる」と言う自信は、私には到底ありません。自分の支配下に置ける人々がいなかったなら、また神の民をも自分の食い物にすることができなかったなら、一部の人々はどうするのでしょう?私にはわかりません。これは単純な形から極端な形に至るまで、様々な形で現れます。これは、あの聖くない不快な批判という単純な形で、主の民の間に現れるかもしれません。そうした批判は結局のところ、「自分たちは彼らよりも優れている」と言っているにすぎず、相手を犠牲にして自分たちを正当化しているにすぎません。

私たちの相互批判のうち、これが隠れた動機ではないものがどれくらいあるでしょう。ああ、あの永遠の恒久的な「しかし」、留保が常にあるのです!「ご存じのように、彼らは主を愛しています。しかし……」「彼らは主のためにとても熱心です。しかし……」「彼らには長所がたくさんあります。しかし……」。この「しかし」が、長所全体よりも大きく浮かび上がって、長所をすべて傷つけるのです。

この「しかし」を用いる私たちの多くは、「自分はすぐれている」という思い込みや自分のプライドのために、そうするよう駆り立てられているにすぎません。つまり、他の人を貶めることによって優位に立つことが、私たちにはあまりにも多いのです。そして、神の子供たちを損なう高ぶりのこの形態により、私たちは自分の優位性、地位、影響力を得ますし、また得ようとしているのです。これはそれを霊的に示す単純な例なのかもしれません。

新約聖書の勧めはすべて、これとは別の方向を強調しています。それが強調しているのは、他の人を自分よりも上に置くこと、他の人を自分よりも優れていると常に思うことです。これは反対の方向です。これをするのは肉にとってとても辛いことです。天的なものの証しを神の家の中で十分明確に維持するには、十字架が最初に到来して、この高ぶり、この傲慢、この狡猾な自己充足、自己評価、この「謙遜な」(?)批判――これは結局のところ、高慢の本質そのものです――の根元に直ちに至らなければなりません。

この事実を強調しなければならない理由はおわかりでしょう。高慢は他の多くの方法で現れるかもしれませんし、実際に現れています。たとえば、神の民を支配すること、地位を得ること、奉仕の特権や機会を自分が地位を得るための機会とすることです。新約聖書風の別の言い方をすると、次のようになります。

弟子たちは聖霊でバプテスマされる前、自分の兄弟たちよりも上に立つ機会、互いに優位を競いあう機会、首位の座を占める機会ばかり求めていました。主イエスは彼らに強い言葉を述べなければなりませんでした、「私はあなたたちの間で仕える者のようです」「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためです」。これが十字架の精神です。

さて、ネヘミヤ記に記されている状況に相当する霊的状況がまぎれもなく存在していることを、あなたは理解できると思います。他の人々が私たちの利益の手段とされており、霊的な意味で私たちは自分の益のために自分の兄弟たちを奴隷として売り払っているのです。もしよければ、あなたはこれをもっと詳しく追うことができます。



破産

この本に出てくるもう一つの点は、主の民であるユダヤ人の多くが破産した生活を送っていたことです。その理由の一部は質入れによるものであり、自分の息子や娘を奴隷として売り飛ばしたことによるものでした。つまり、彼らは自分の権利にしたがって生活していなかったのです。彼らは困窮に陥り、資産もありませんでした。それゆえ、威厳も誉れもなく、負債を負った民だったのです。

この状況も今日霊的にあてはまります。愛する人たち、私たちや主の民の多くは、今日、自分の身分にふさわしく生きているとは到底言えません。残高を調べるなら、破産していることが明らかになるでしょう。もっと簡単な言い方をすると、私たちのうちどれくらいの人がキリストの富を自分で知っているのでしょう?また、私たちのうちどれくらいの人が、他の人々の富に頼って生きなければならない誤った立場にあるのでしょう?

つまり、霊的助けになる外側のものをすべて剥ぎ取られるなら、集会や交わりやそうしたものをすべて取り去られるなら、私たちのうちどれくらいの人が、「私は自分の身分にふさわしく生きています。徹底的分析によると、そうしたあらゆるものから私は完全に独立しています」と言えるでしょう?

私たちはそれらを享受し、それらから益を受け、それらのゆえに神に感謝します。しかし、私たちの命を構成するものは外側のものではなく、主の尊さを知る自分自身の知識なのです。たとえ外側のものをすべて剥ぎ取られたとしても、私たちには決済する能力があり、立ち上がって言うことができます、「あなたは私自身の嗣業を奪うことはできません。私はキリストの内に嗣業を持っています。

それは集会、大会、メッセージ、外側のいかなるものにもよりません。それは主と共にある私自身の内なるいのちです。私は彼を知っているのです」。主はご自分の民の多くを召して、このような状況に直面させられるでしょう。それは、彼らが自分で発見して、見い出すためです。

愛する人たち、終末はまさにこのような状況かもしれません。私は確信していますが、「神の子供たちはみな、個人的な内なる方法でキリストを知り、キリストにあって充足と満足に至らなければなりません」「外側のものが取り除かれ、崩壊し、失望を与えたとしても、自分のためにキリストの内に豊かさを見いださなければなりません」と、終末の時に主は要求されるでしょう。

あなたには決済する能力があるでしょうか?あなたは抵当に入れられているのではないでしょうか?あなたは他の人々がくれるものにすがって生きているのではないでしょうか?それがあなたの支えなのではないでしょうか?

それとも、あなたは自分が主から得るものによって生きておられるのでしょうか?もしそうなら、もしあなたが自分のものを持っているなら、あなたは与えるものを持っており、この人々が陥っていたような物乞いや困窮の状態にはありません。

喜ばしいことに、ネヘミヤは奴隷として売り飛ばされていた人々を贖い、買い戻して、正当な権利を得させました。喜ばしいことに、ネヘミヤは生計を維持するための質入れや子供の売買の仕事をやめさせて、すべての人が自分の足で神の御前に立って自分の道を歩めるようにしました。これは主の民にとって重要な霊的思想であり、終末における運動を示しています。なぜなら、私たちはあまりにも長いあいだ恵みの外的手段にすぎないものに基づいて生活してきたからであり、主ご自身が自分にとっていかなる御方であるかに基づいてあまりにも少ししか生活してこなかったからです。




汚された神の家

次に、宮が異教徒によって汚され、世俗的な用途に用いられました。これを適用する必要はほとんどないと思います。この二つは共に進みます。天から直接生まれた純血の者ではない人々、新生した神の子供ではない異教徒が神の家の中に入り込み、主の民の間に場所を得る時、主の家はただちに主の御心とは正反対の関心や用途の方向にそらされてしまいます。地に引きずり降ろされてしまいます。神の家は地的なものにされ、あるべき場所から引き出されてしまいます。

敵は常にこれをしようとしています。真に再生されているわけではない人々や、再生されたと思い込んでいる人々を、主の民の間にこっそり入り込ませることが、敵の常套手段です。彼らは主の民に属する者としてやって来ますが、主の民ではありません。彼らの存在によって、この世的判断、この世的方法、人の方法、人の考えが、神の家の中に入り込み、それを肉の水準の低い生活にまで引き下げてしまいます。これは悪魔の主要な働きの一つであり、悪魔は絶えずこれを試みています。そして、この試みは成功することがあまりにも多いのです。

確かに、私たちはこれを今日見ることができます。なぜなら、これは大いに広まっているからです。これについて教えてもらう必要はほとんどありません。私たちは至る所でこれに気づきます。しかし、ネヘミヤは終末の神の動きを代表する者として、それに終止符を打ちます。彼は神の家から異教徒を一掃し、神の家が神の御思いにしたがって維持されるように、そして人の考えや人の方法が排除されるようにしました。

もちろん、私が物質的な神の家のことや、人々の集まる諸教会や場所のことを述べていると思う人は誰もいないでしょう。それもこの一つの適用になりうるかもしれませんが、私の念頭にあるのは、神のために天的な民になるよう召された神の民です。

この民の中に肉的な原則、天然的な活動や力を持ち込もうと、敵は絶えず試みています。それは、この証しを天上から引きずり降ろして、人によって運営される地的なものをそれから造り出すためです。ネヘミヤはそれを許しません。彼はそれに抵抗します。こういうわけで、彼は終末に神がなさることを示しているのです。




破られた安息日

次にまた、安息日が無視されていました。安息日がそのあるべき地位から転落し、軽視され、脇にやられ、見過ごされ、無視されていたとは、エズラからこのかた、とんでもないことではないでしょうか。

ここでただちに言いますが、私たちが今考えているのは、これに相当する新約聖書的な霊的意味であり、日のことではありません。ここの時としての安息日のゆえに私たちは依然として神に感謝していますし、それに固執して容易に手放しはしません。しかし、安息日に関する私たちの理解は遙かに高い水準に引き上げられていて、私たちは次のことを見るに至っています。

すなわち、安息日は、神が主イエスによって安息に入られる時の、神の働きの完了の歴史的な型なのです。また、安息日は御子のパースンによって神の働きがすべて完全に成就されたことを物語っているのです。

キリストによる神の働きの完成を脇にやり、見過ごし、無視するなら、あなたには安息も平安もありません。あなたは依然として荒野の中をぐるぐるとさまよっています。あなたは依然として、成就されていない不完全な働きの領域の中にいます。「成就した」という言葉を宣言する立場の上に、あなたはいまだ落ち着くには至っていません。

完成されたキリストの御業を霊的に真に理解している魂は、安息している魂です。神の安息の中に入って、悪魔の圧制から解放されています。完成されたキリストの御業は「もはや罪定めはない」と言っているのに、この事実にもかかわらず、悪魔は常に訴えや罪定めをもたらそうとしています。このせわしなさ、熱っぽい内省、自己分析、ひきこもりはすべて、安息日を見過ごしているせいです。決して安息することも、落ち着くことも、確信を持つこともなく、確かなものが何もないのは、すべてそのせいです。


私たちにとって安息日とは一人の御方であって、日のことではありません。したがって、毎日が私たちにとって安息日でなければなりません。私たちはみな、聖書の一節、テキストとして、「主の喜びはあなたたちの力です」という御言葉を引用しますが、これがこの素晴らしい御言葉の最も深い意味に違いありません。主の喜びとは何でしょう?「神はすべてのわざを休まれた」「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それははなはだよかった」。

主の喜びとはもっぱら、十字架によって完全に御業を成就されたキリストなのです。神はキリストにある新創造を見て、「よし」と言われました。「主の喜びはあなたたちの力です」。神はキリストによって完全に満足しておられます。これを見過ごしたり、見逃したりするなら、あなたは安息日の休みを失い、心の安息を失います。これがこの状況の原因でした。

しかし、ネヘミヤはそれを回復しました。終末時の運動は、キリストの御業の完全性と、キリストが御父にとって完全な満足であることを回復するものであり、神の民をその中にもたらすものです。

ああ、愛する人たち、この重要性はどんなに評価してもしすぎることはありません。なぜなら、敵は必死になってこれに反対するからです。二つの運動が終末を特徴づけることになると私は見ています。一方において、敵は神の民の足下から確信の根拠を断ち切るために、彼らから安息、確証、平安、確かさ、確信を奪い去ろうとしており、彼らを疑い、恐れ、心配で取り囲んでいます――兄弟たちを訴える者は、終末にこのような方法で、強烈な姿でやって来ます。

神はそれに対抗して、キリストによるご自分の御業の十全性と完全性を回復されます。そして、ご自分の民を安息日の休みの中に置き、その民の心をキリストの方に向かわせて、「これは私の愛する子、私は彼を喜ぶ」「あなたは彼にあって受け入れられており、私は満足しています」と仰せられます。これはみなキリストによります。

主イエスのこの証しを終末に回復すること、これは大いなる対抗要素です。「ネヘミヤ」は終末における回復のための一人の人かもしれませんし、あるいは一つの団体的な器かもしれません。いずれにせよ、「ネヘミヤ」は自分の務めの重要な一部分として、このような意味で安息日を確立しなければならないのです。




十分の一を納めることを怠る

状況の一部分として、もう一つのことがこの本の中に出てきます。それは、主の民が自分の持ち物の十分の一を納めるのを怠っていたということです。私たちが十分の一について述べる時、「十分の一だけが主に属しており、残りの十分の九は自分に属している」とは誰も思わないで下さい。これはまったく間違った聖書理解です。十分の一は全体を表すものであり、「一切を主のために所持する」という事実を示すものとして献げられたのです。

十分の一は「すべては主のものであること」の印であり、証しでした。十分の一が献げられた時、「この収穫全体の十分の一は、すべては主のものであることの印であり、あらゆるものを主からの賜物として主のために所持する印です」という精神で献げられました。

さて、生活がこの域に達する時、神の祝福があります。十分の一を献げることをあなたが始めておられるかどうか、私にはわかりません。それは始まりにすぎません。これが十分に確立される時、主はそれを遙かに超えることを可能にされることがわかるでしょう。そして、この道に沿って到来する主の祝福に、あなたは驚くでしょう。

主の民の多くは、収入や現世の所有物のことで苦しみ、心配し、悩んでいます。この領域での彼らの生活は苦しいものです。これは主に正当な地位を与えていないからです。「あなたの持ち物をもって、あなたの収穫の初なりをもって、主をあがめよ」「私を尊ぶ者を私は尊ぶ」。主のために所有するという主の法則を悟り、真っ先に十分の一をもって主をあがめるようにしさえするなら、現世の困窮から大いに解放されるでしょう。

この言葉を忍んで下さい。これをもう一度強調しても構わないでしょう。神はあらゆるものに対して権利を持っておられます。私たちの十分の一は、すべては主のものであること、そして、すべては主に属するものとして保たれ、用いられねばならないことの、初歩の証しにすぎないのです。

さて、ネヘミヤは民の所有や収入に関して主を正当な地位に置き、これを正常化しました。これは霊的繁栄と現世の安寧に寄与します。さしあたって、これはこれで良いことにします。




混合と区別の喪失

また次に、主の民の多くが外国の妻と結婚していたこと、そうして彼らの区別が失われていたことが、ここでわかります。ネヘミヤはそれらの婚姻関係を断ち、違反者たちに妻を郷里や祖国に送り返させて、そうして神聖な原則を確立しました。

さて、これに対応する霊的意味は、「回心していない夫や妻を持つ人は、彼らから離れ、彼らを無視しなさい」ということではありません。しかし、遺憾ながら多くの人がそうしています。回心していない夫や妻は、主のことも主の権益も心にかけません。そのため、彼らの伴侶たちは多くの集会に出かけて、彼らを独りぼっちにしてしまいます。この罠にかかってはいけません。

これに相当する霊的意味は、「旧約聖書の中のこれらの妻たちは、常に原則を表す」ということです。ご存じのように、女性は聖書全体を通して数々の原則の型です。ここで型として示されているのは、神に完全に属しているものとは異なる数々の原則との同盟、関係、関わりです。こうした原則のいずれかと自発的に関わるなら、主の民を常に特徴づけているべき、あの霊的区別は破られてしまいます。

これはとても広範な領域を網羅しており、数え切れないほど多くのことを含んでいます。しかし、これがその包括的適用です。ここに記されているのは、啓示された神の御旨に反する要素、特徴、原則、法則であり、主の御心、神の御言葉、御霊の道とは別の相容れないものです。ここに示されているのは、それと自発的に関わりを持つこと、それが自分と関係を持つのを許すことです。そのような道の結果、混合という子孫が生じます。これは、神に属するものと敵に属するものとの混合です。神の御言葉に啓示されているように、神が最も忌み嫌われるものは混合です。至る所で神は混合に反対されます。神は物事を全く完全かつ絶対的にはっきりと規定して、完全にご自分に属するものとされます。

ネヘミヤ記のこの城壁は、神に完全に属するものと神に属さないものとを分ける印です。神から出ていないものの割合や程度の問題ではなく、神からではないものが少しでもあってはならないのです。内側にあるものは隅々まで神に属していなければなりません。神に属していないもののための余地は、そこにはありません。ですから、これらの妻たちはその領域から追放されて、送り返されなければなりません。これが示されている霊的原則です。神は混合に反対されます。主の民の間には、恐ろしいほどたくさんの混合があります。




郊外のクリスチャンたち

述べるべきことが、おそらく他に二つあります。ここに見られる民の大部分は、エルサレムの外の郊外に住んでいました。そのため、エルサレムには手仕事に十分な人がおらず、ネヘミヤは彼らに、出て来て他の人々を中に連れてくるよう訴え、励まし、勧めなければなりませんでした。この霊的解釈はとても単純ですが重要です。

霊的郊外に住んでいる主の民が大勢います。彼らは主の証しの中にいません。ほんの少しだけ外にいるのかもしれませんし――ほんの少しとはいえ、外にいることに変わりはありません――あるいはかなり離れているのかもしれません。彼らはあらゆる種類の理由をあげることができるでしょう。「変人になりたくありません」「バランスを欠いていると思われたくありません」「バランスを取りたいのです」と言う人もいるでしょう。あらゆる種類の理由(?)が挙がるでしょう。偏見や疑いのためかもしれません。安全な道を進み続けたいからかもしれません。代価への恐れや、価を払いたくないからかもしれません。中に入ってネヘミヤに協力するなら、サヌバラテやトビヤが好意的でない目で自分たちのことを見るようになるためかもしれません。

これに関して全く確信がないからかもしれません。事がどう運ぶのか見ることを彼らは願っています。事がうまく運ぶなら、そして事が堅固な土台の上に据えられていることがわかるなら、彼らは危険を冒すでしょう!事が堅固なら何の危険もなく、したがって何の英雄的行為も栄誉もありません。

私が何を言っているのか、おわかりでしょう。主が新しいことをなさる時、また、全くご自分と天――そこには天然的な肉の人のための余地はまったくありません――に属するものに対する完全な証し、全く主に属するものに対する完全な証しを得ようとされる時、それは代価を払うこと、好意を失うこと、友人をなくすことを伴います。誤解や誤報を伴います。批判や、「あまりにも極端で変わっており、他のすべての人たちと異なっている」という非難を伴います。そのようなあらゆることを伴うのです!そうではないでしょうか?

さて、これはどうなのでしょう?問題は、神と共に完全に中に入るのか、それとも郊外にとどまり続けるのか、ということです。ネヘミヤは促し、勧め、嘆願し、励まし、手を差し伸べ、招き入れようとします。神はほむべきかな!必要を満たすのに十分な応答がありました。周辺にとどまるのか、それとも中に居てそのような立場の結果を受け入れるのか、私たちは決心しなければなりません。私たちは徹底的にこの問題に決着をつけなければなりません。私たちの中にはそうしなければならない人がいます。

これが何を伴うのか、どれだけ代価が必要なのか、私たちはわかっています。少なくとも、神と共にこの道を取ることによって実際に生じる必然的結果について、私たちはかなりよく見てきました。そうです、しかし、「これは主の道だったのでしょうか?もし主の道なら、長い目で見て、その外側にいても仕方がないのではないでしょうか。一時のあいだ何かを得たとしても、遅かれ早かれ、それは失われてしまうにちがいありません」ということこそ、まさに問題なのです。確かに、私たちは低い水準――損得――で物事を見るべきではありません。結局のところ、「私たちは何のためにここにいるのでしょうか――主のためでしょうか、それとも自分のためでしょうか?」という問題なのです。

主のためでしょうか、それとも自分のためでしょうか?肝心なのは、「主は何を欲しておられるのか?」ということです。それには代価が必要かもしれません。それは多くのことを意味するかもしれません。多くの方面で交わりを失い、好意を失うかもしれません。敵の恐ろしい悪意に巻き込まれるかもしれません。しかし、私たちに何ができるというのでしょう?私たちは神と共に進み続けなければならないのです。私たちはみな、この場所にいるでしょうか?この問題により、様々な思いが私たちの心に迫っているのではないでしょうか?




公の妨害

次に、締めくくるに当たって、これまで誤謬や悪について述べてきましたが、それらのものにネヘミヤはことごとく遭遇しました。それらの誤謬や悪が存在していたにもかかわらず、彼が登場するまで何の注意も払われていませんでした。有力な、影響力のある、公の階級、祭司たちや貴人たちが、それらの誤謬や悪を支持していました。大祭司ですらそれらにくみしていたのです。ネヘミヤはこれに反対しました。

主と共に進むことを決意する時、公的要素が妨害します。これはまさに真実です。私たちは影響力を持つ勢力に出会い、地位や身分のある人々から反対されます。大祭司のように神の最高の権益を公に代表し、人からもそのように受け入れられている人々ですら、神のご計画や神の御旨に対して好意的ではなく、神の完全な証しに全く反するものを大目に見ていることに、私たちは何度も気づきます。これはまさに真実です。

あなたたちの中にはこれを証明した人もいます。主と共に進むことを決意するなら、あなたにもこれがわかるでしょう。ネヘミヤはそれにことごとく出会いました。勇気をもって出会いました。「私は貴人たちと争った」と彼は言いました。影響力を持つ階級を前にして、彼は屈しませんでした。彼は公人たちに屈服しませんでした。彼は貴人たちと争いました。自分が神の委託を受けていることを彼は知っていました。これが人々の間で、天然的権威だけでなく霊的権威をも彼に与えたのです。なぜなら、神から与えられた立場に立って、神から与えられた務めを果たす時、神が自分の傍らに立って下さることを彼は知っていたからです。 彼をこのような人にした他の数々の要素が背景にあったことを、私たちは理解しなければなりません。しかし、これが彼の態度でした。

自分が神の御旨の中にあることがわかるのは素晴らしいことです。自分が神の働きの中にあることを知る時、あなたは大きな確信を持ちます。あなたがその中にあるものは、あなたが始めたものではなく、天から来たのです。そして、あなたはその中に天から霊的に入ったのです。それは神に属しています。これはあなたを道徳的にも霊的にも優った地位に置きます。そして、形式的なものにすぎない非霊的な威厳を上回る威厳をあなたに与えます。


<略>私たちは主の来臨にかかわる終末の時にいるのであり、終末における働きは際立った証しを起こすものなのです。その証しは復活のいのちと力によるものであり、まったく神から出ており、その中に人からのものは何もありません。この証しは、自らに反する多くのものを対処して取り除くことを要求します。」




最後にもう一度だけ繰り返しておこう、

「主の喜びとはもっぱら、十字架によって完全に御業を成就されたキリストなのです。神はキリストにある新創造を見て、「よし」と言われました。「主の喜びはあなたたちの力です」。神はキリストによって完全に満足しておられます。」

Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑯

⑤ Dr.LukeのKFC(Kingdom fellowship church)の理念の異端性(続-5)

・キリストの十字架によらず、神秘主義体験を通して、自力で神に到達したと豪語するDr.LukeとKFC

さて、これまで、偽りの教えの特徴が、人を聖書の神の御言葉に従って歩ませるのではなく、自己の感情や感覚に従って歩ませようとするものであり、そのためならば、悪霊は魂の領域に偽物の霊的経験を作り出すことも行い、偽りの神秘体験をあたかも神や聖霊から来るものであるかのように思い込ませて信者を欺く、ということを見て来た。

さらに、ペンテコステ・カリスマ運動が、そのように信者が自ら味わう神秘体験を「神との交わり」だと思い込むことによって、信者が聖霊によらず、「異なる霊」の導きに従い、キリストの十字架を介さずに、あたかも自力で神との合一に達し得たかのように思い込む偽りの「疑似霊的運動」である、ということを見て来た。

グノーシス主義とは、もともとは悪魔が人類を欺いて、人間が神の御言葉に背き、自己の感覚に従って、事の是非を勝手に判断し、自分の欲望に従って生きることを通して、「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」と、人類が神以上の存在になれるかのように教えた欺きから始まっている。

そこで、悪魔に由来する偽りの教えはすべて例外なく、人間が「神のようにな」ることを最終目的としていると言って良い。

むろん、聖書は、人間が神に至る道はただ一つ、十字架を経られたキリストにしかなく、この方を介さずに神に受け入れられる者は誰一人としていないことを教えている。しかし、偽りの教えはすべて、キリストを介さずに(たとえキリストの名を掲げていたとしても、キリストの概念を歪曲することによって、人を救う力のない偽りのキリストを作り出し)、人が生まれ持った自己の能力を刺激・啓発することによって、自力で神に至ることができるかのように教える。

Dr.Lukeは、すでに確認したように、霊界との交信によって、正体不明の「霊の波動」に耳を傾け、無意味な音声の羅列に過ぎない偽物の「異言」を「神のことば」とみなし、これを授かったことにより、自分たち(Dr.Luke及びKFC)は「神である」と主張する。

ちょうど筆者がこの記事を書いている最中にも、自己の神格化という恐るべき罪を正当化するために、Dr.Lukeは新たなブログ記事で次のように述べている。(エロヒムとは「神々」の意。)
 

あなたがたはエロヒムだ!(Dr.Lukeの2016年07月04日の記事から抜粋)

今週のメッセはいわゆるキリスト教(特にニッポンキリスト教)の神学オツムにはかなり刺激的だと思う。あるいは挑発的か。われわれの真のアイデンティティーに覚醒せよ! われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである! WOW!

ニッポンキリスト教や英語圏キリスト教のマトリックスから解かれよ!エロヒム・ヤハヴェはエロヒムの会議で裁定するのだから。知ろうとせず、闇の中を行き来する、ことのないように!

【賛歌。アサフの詩。】神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。
 「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ
弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」
彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。
わたしは言った/「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と。
しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。
神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。-Ps 82:1-8


以上のDr.Lukeの告白は、同氏が受けたのがまさに人類をそそのかした悪魔から来る反キリストの偽りの霊、人間の堕落した自己を神格化する自己栄化の霊であることを何よりもよく物語っている。

信じがたいことに、以上の記事には一言も、キリストの御名が登場しておらず、贖いの十字架もない。そして、Dr.Luke及びKFCが、自分たちが「新創造」とされたとする根拠は、旧約聖書に求められているのである。

以下の信者の誰もになじみ深い御言葉は、彼らの思考の中で、どこへ消え去ったのであろうか。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

キリスト者が新創造とされる根拠は、この御言葉の通り、十字架の死と復活を経られたキリスト以外にはない。

だが、Dr.Lukeの言説からは最も肝心なキリストが消え失せている。そして、「御霊はわたし(=イエス)の栄光を現します。わたし(=イエス)のものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」(ヨハネ16:14)と聖書が述べているのに、同氏は主イエス・キリストの御名にすら言及せず、その告白は、イエスの栄光を全く現していない。

そうしたことからも、「われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである!」とDr.Lukeが述べる根拠が、キリストにはないこと、同氏を導いている霊が、反キリストの霊であることが明白である。

キリストの十字架以外のものによって、人が新創造に達しうるかのような教えは、ことごとく偽りだからである。

むろん、このような恐るべき自己の神格化は、長い時間の積み重ねの中で起きることであって、サンダー・シングだけが原因で生じたものではない。

空中にどれほど病原菌があっても、健康な人がそれに感染しないのと同様、異端の教えも、それを受け入れる素地が心にない人にとっては脅威とはならない。異端の教えに感染するのは、本人の心の中にそれを培養できる一定の条件が整っている人だけである。そして、その土壌は一夜にして形成されるものではない。

サンダー・シングも、ペンテコステ運動も、おそらく、Dr.Lukeがこれまでに受け入れて来た偽りの一端でしかなく、自己の神格化という同氏の発想の基礎は、ローカルチャーチの時代か、あるいはもっと以前から存在していたものと考えられる。

さて、話を戻せば、すでに述べた通り、Dr.Lukeが自己の神格化を正当化するために引用している詩編も、文脈が歪曲されており、Dr.LukeやKFCが自分たちを「神々である」とみなす根拠とは全くならない。それどころか、それはむしろ、彼らのように、自らを神々とみなして高慢になっている者たちを辱める文脈で書かれたものなのである。

この詩編は、それが書かれた当時のイスラエルで、賄賂を取って正義と真実を曲げて、貧しい者たちを不利に陥れる不正な裁きを行いながら、自分たちは「神々である」と誇っていた不義なる裁判官らを罪に定める文脈で書かれたものである。そして、主イエスも同じように、地上におられた当時、自分たちは律法を完全に守っている立派な教師なので、通常の信者たちの及ばない高みに達している神聖な存在であると考えて自己義認し、救い主を否定して、人々に自分への尊敬を要求していたユダヤ教の聖職者らを辱めるために、この詩編を引用されたのである。

エロヒム・ヤハヴェはエロヒムの会議で裁定する」(=「神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。」)というくだりは、「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。」(Ⅰペテロ4:17)との御言葉とあまり意味が変わらない。

つまり、いつの時代にも、神の裁きは、「我々は神の家にいて、最も神に近い存在であり、神と一つであるから、従って神々のようなものだ」と、自分を誇り、他の信者を見下している者たちを筆頭として行われるのである。自分こそ最も神に近く、他の信者とは別格だと考えて高慢に陥っている者たちを先頭に、神の裁きの御前に立たされることになり、そこで自らの不正な行いの数々を咎められるのである。

なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」(Ⅰペテロ4:17)

自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。
『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18:9-14)

そこで、神聖な会議の只中で、神の裁きの対象となっている者たちとは、まさに「われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである!」などと叫び、自分たちを「神々」であるとみなし、他の信者を押しのけて、まことの神ご自身とその御言葉までも退けながら、自己を神と同一視している者たちなのである。

「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ
弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」


この文面も、KFCにそのままそっくり当てはまる。Dr.Lukeは自らの罪を覆い隠すためならば、不正な裁判を起こすことも厭わず、自分に有利な裁きをさせて、真実と正義を曲げた。そのような行動は、自分に逆らう者たちに対しては容赦なく濡れ衣を着せ、恫喝裁判を起こし、教会や信者を敵に回しながら、無差別に迫害して来た村上密氏率いるカルト被害者救済活動のような、神に逆らう者たちの活動と一体、何の違いがあろうか。

ところが、彼らよりももっと悪いことには、Dr.Lukeは表向きには、カルト被害者救済活動や、キリスト教界と一線を画し、自分は彼らとは全く異なる信仰的立場に立って、彼らよりも優れて真理を知っているかのように振る舞いながら、水面下ではカルト被害者救済活動の支持者や、現役のキリスト教界の信者らと公然と手を結び、彼らと結託して、無実の信者を陥れる計画を練って来たのである。カルト被害者救済活動が弱者を食い物にして成立しているように、KFCもまた、寄る辺ない者たちを見下し、踏みつけにして、自分たちの栄光を築き上げる道具として利用して来たのである。そうでありながら、一体、どんな理屈で、彼らがキリスト教界を非難できるのだろうか?

いつまでこうした連中は不法と搾取に頼り、己の栄光のみを求め続けて神に逆らうのであろうか。神は彼らの不正をすべて覚えておられ、必ず彼らに報復される。そして残忍な彼らの手から、苦しむ者を救い出される。

そこで、「彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。」という非難も、ニッポンキリスト教界ではなく、まさに霊的盲目に陥った高慢な人々(ここではDr.LukeとKFC)に当てはまる。

さらに、「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と。しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。」という御言葉も、Dr.LukeやKFCのように、己を神以上に高く掲げる高慢な罪人らに対する文字通りの死の宣告なのである。

君侯のように、いっせいに没落する」という訳は、「君主たちのひとりのように倒れよう」という新改訳よりもより厳しい響きである。御言葉を否定して、闇の中を歩いている者たちに、滅びは、盗人のように突如として襲いかかるのである。

「人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。」(Ⅰテサロニケ5:3)

従って、Dr.Lukeがどんなに聖書の文脈をさかさまにしてその意味を歪曲しようと試みたとしても、この詩編は彼らを「神々」として持ち上げる根拠とはならず、また、そこにある滅びの宣告も、ニッポンキリスト教界ではなく、彼ら自身に向けられるものなのである。

このような御言葉を引用した以上、その報いは、必ず彼ら自身に実際に及ぶことになるだろう。それは霊的法則性であるから、変えようがない。ただ一つこの報いを逃れる道は、悔い改めてまことの神に立ち返ることだけであるが、ニッポンキリスト教界への憎しみを放棄することが、果たしてDr.Lukeにできるだろうか。病もここまで進行すると、後戻りは不可能に思われてならない。すでに述べた通り、彼らをここまで霊的盲目に陥れられたのは、神ご自身であると考えられ、それは真理を喜ばず、悪を喜んでいた者たちが悔い改めて癒されることなく、裁かれるためなのである。

「この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、
 その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見、自分の耳で聞き、
 自分の心で悟り、
 立ち返って、いやされることのないために。」(イザヤ6:10)

なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」(Ⅱテサロニケ2:10-12)



・キリスト教界に対する憎しみと被害者意識による連帯 KFCとアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の同化と、彼らの「東洋的な福音への回帰」

それにしても、Dr.Lukeのニッポンキリスト教界に対する絶え間ない侮蔑・嘲笑・憎しみが、ついに時至って、聖書の御言葉と、キリスト教そのもの、神ご自身に対する挑戦・敵対へと変わりつつあるのは恐ろしいことである。

ニッポンキリスト教や英語圏キリスト教のマトリックスから解かれよ!」というDr.Lukeの言葉は、西欧キリスト教に幻滅し、靴の塵を払い落としてアジアの国々へ向かったサンダー・シングの姿とほぼ重なる。サンダー・シングは西欧キリスト教を拒んだだけでなく、それを機に、御言葉の二分性を否定して、「東洋的な愛と赦しの母性的受容の福音」を捏造したのであるが、Dr.LukeとKFCが「英語圏キリスト教」から離脱して向かう先も、サンダー・シングと同じように、「東洋的な福音へ回帰する」ことだと思われてならない。

(カタカナ英語を振りかざすことで、先駆的なイメージを演出しようとして来たDr.Lukeが、「英語圏キリスト教のマトリックスから解かれよ!」と主張するのは、正直に言って、可笑しいほどの自己矛盾であり、そのように主張するならば、まずは不自然なカタカナ英語を捨てて、聖書の引用も、英語以外の言語にすれば良いだろう。

思い出されるのは、筆者が初めてDr.Lukeと面会した際に、同氏がキリスト教徒というよりも、禅寺の住職に極めて近いという印象を受けたことである。"Pastor"よりも、むしろ「坊主」と呼んだ方がしっくりくるような風貌ゆえであったが、これも一種の予感だったのであろうか。)

だが、むろん、当然のことであるが、「東洋的な福音」などというものは、実際には存在しない。福音には西も東もなく、英語圏も非英語圏もなく、ただ一つ同じ聖書が存在するだけである。もしあえて東洋的な福音というものがあると仮定するならば、それは、ペンテコステ運動や、サンダー・シングの教えのように、東洋的神秘主義とキリスト教の混合としてのバビロン宗教だけなのである。

だが、Dr.Lukeにとっては、ニッポンキリスト教界を踏みつけにし、これに対して勝ち誇ることさえできれば、何を利用しても構わないのであろう。同氏にとっては、伝統的なキリスト教徒よりも優位に立つことだけが、すべての目的となってしまっているのである。

このようにキリスト教界をどこまでも敵とみなす考え方は、キリスト教界の不祥事を次々と探し出しては、これを告発することを生業として来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、カルト被害者救済活動の支持者と根本的な共通性・親和性を持つものである。

このような現象が起きるのは、彼らの心に巣くう闇であるキリスト教に対する憎しみと被害者意識赦せない思いに悪霊がつけ込んだことにより、それがキリスト教そのものへの敵意と憎しみに発展し、最終的には、聖書の神ご自身に対する反逆へと発展しつつあるからに他ならない。

つまり、Dr.Lukeや、カルト被害者救済活動の支持者らを、キリスト教界に対する敵対行動に駆り立てているものは、キリスト教そのものに対する彼らの被害者意識なのであり、こうした人々に共通する被害者意識の一端を、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信者のcandy氏の記事にも見ることができる。

すでに記事でも書いたように、2010年の時点で、candy氏は未信者の夫と自分自身を、迫害されているイエスになぞらえて、キリストと同一視する記述をブログに記している。すなわち、主イエスが彼女に向かって(彼女の夫を指して)「私のために祈っていただけませんか」と懇願されたと述べて、彼女は夫とキリストを同一視し、それによって信者と不信者の区別、神と人との区別をうやむやにし、かつ、キリストを自分自身よりも下に置くのである。
 

主と一つ (candy氏のブログ「十字架の恵みが溢れて」から抜粋)
 2010.11.18 Thursday  から抜粋

 サウロは主の弟子たちを脅迫し、迫害し、男も女も縛り上げ、エルサレムに引いてくるためにダマスコに向かっていた。
 その途中の出来事だった。
 このときはすでにイエスご自身はこの地上にはおられなかった。でも主がサウロに現れておっしゃったことは、
「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と語られた
「なぜわたしを信じる者たちを迫害するのか」とは言われなかった。
「なぜわ・た・し・を迫害するのか」と仰せられたのです。

 この箇所を読むたびに、思い出すことがある。
 それは主人の闘病中に語ってくださった主の言葉を忘れることができない。
 初めて外来での抗がん剤を投与する日、主人を送ったあと、病院の駐車場に向かっているその時だった。

 主の御名を呼び求めながら歩いていると
 「私のために祈っていただけませんか」
 という御声を感じた。
 
 私はその御声を聞くと同時に、それが主人のことであることがわかった主は、主人のことを祈るように言われたのではなく、
 私のために祈って欲しい・・と語られたのだ。

 私は・・・胸がいっぱいになって言葉を失い、驚きと共に涙がどっと溢れ出た。
 それほどに、主はご自身と、信じる者とを一つとしてくださっている。主の中で区別などないほどに
 ひとつとしてくださっているのだ。
 あなたがたはキリストのからだであって、
 ひとりひとりは各器官なのです。
 第一コリント12:27
 
主の深い愛を褒め称えます。
詩篇の歌を持って褒め称えます(以下略)


ここに、「主の中で区別などないほどにひとつとしてくださっているのだ。」と書かれているように、ここでは、神の聖なるものと、汚れたものとの区別が事実上、なくなっており、人間がキリストと同一視されて、神と人との区別までが消え失せている。

こうした考えは、ちょうどサンダー・シングとウォッチマン・ニーの鉄と火のたとえ話のように、神と人間とが親密に「混じり合う」のみならず、もはや「区別などないほどに一つ」となって、神と人との境界線まで消え失せて、信仰がなくともまるで人がそのまま神であるかのように神格化されて行くのである。

また、そこでは、「御声を感じた」とあるように、五感に訴えかける感覚体験が強調されるが、このように、第三者による客観的に立証が全く不可能な個人的な幻や神秘体験を信仰の証であるかのように強調することは、ペンテコステ運動の大きな特徴である。

さらに、この記事に限らず、ペンテコステ運動に関わる信者たちの告白には、不自然で大げさすぎる感情表現が目立つ。以上で挙げたDr.Lukeの記事もそうなのであるが、その不自然な抑揚から、彼らを突き動かしているものが、冷静な思考ではなく、自分を熱狂させてくれる感情と感覚の刺激であることが、どの記事を読んでも、すぐに分かるのである。

このように大袈裟な感情表現を用いて、絶えざる熱狂と不自然な感動の涙に明け暮れ、絶えず自分の気分と感情を高揚させてくれる魂的・肉体的な刺激を求めずにいられない中毒患者のような症状も、ペンテコステ運動に関わる信者に特徴的である。

こうした大袈裟な感情表現は一見、「神」を口実にして、信仰の証のような形式を取ってはいるが、実際にはすべて自己の満足のためになされるものであり、流される涙も、熱狂も、全て自己のためである。Dr.Lukeは自分たちが「神々である」と言って、神以上に自分自身を高く掲げて熱狂し、candy氏はキリストが彼女に現れて、彼女の前でひざをかがめて(夫を指して自分のために祈って欲しいと)懇願されたとして、自分(と夫)を神に等しい者として掲げながら、自分のために感動の涙を流すのである。

こうした自己陶酔的な告白には、常にある種の自作自演的・作為的な印象がつきもので、不自然な印象が拭い去れない。何よりも、こうした自己陶酔的な感動や熱狂は、彼らの実年齢に照らし合わせて、あり得ないほどに子供じみているという印象を受けざるを得ない。10代の少年少女ではなく、それなりの年齢に達しようとしている壮年の大人が、これほど子供じみた一方的な熱狂に周りもわきまえずに没頭し、自画自賛しながら、一方的な涙に明け暮れたり、あるいは熱狂の雄叫びをあげる様子は、極めて奇妙かつ不自然、そして不気味な印象を与える。なぜペンテコステ運動の信者らには、年齢相応の落ち着きが全く見られず、絶えず自己を中心とした軽薄な浮かれ話しか話す話題がなく、自分がいかに満たされたかという体験だけで、年がら年中自画自賛にふけっていられるのであろうか。その幼児化と言っても差し支えない自分への熱中こそが、彼らを突き動かしている衝動が誤っていることの一つの明白な証拠だと言えるのではないか。

ペンテコステ・カリスマ運動が信者を感情と感覚の刺激にばかり駆り立て、落ち着いてものを考えさせないせいで、この運動に関わった信者らの知的成長が遅れるということは、十分にあり得る。人は他者の言葉の受け売りばかりをどれほど繰り返し、あるいは、刺激的な体験を受け続けても、そんなことでは、人格が成長することはない。人は自らものを考え、自らの判断で試行錯誤しながら、逆境を切り抜けて前進して行ったその度合いによって成長する。それは信仰によるキリストとの歩みも同様で、誰にも知られないところで、どれくらい静まって、主と共に一人で問題に立ち向かって来たか、どれくらい密室での知られざる祈りと信仰による知られざる行動を積み重ねて来たかがものを言うのである。

だが、自分を喜ばせてくれる感覚刺激や神秘体験にばかり明け暮れているペンテコステ・カリスマ運動の信者らは、まるでひっきりなしにジェットコースターに乗り続けている乗客のように、一切自分の考えを放棄して感覚刺激に身を委ねているだけなので、彼らがどれほど数多くの「恵まれた」体験談を披露しても、それは人を成長させる力のない、あまりにも自己中心で薄っぺらい感動でしかなく、そのような「感動」には、周囲の人々を突き動かす力もない。しかもその喜びはすべて外界からの刺激に依存したものであって、本人の信仰によって困難を粘り強く耐え抜いて得られた勝利ではないので、説得力もなく、そんな浅はかな熱狂からは、全く本人の人格的生長が見えず、そうした「喜ばしい」体験談を聞けば聞くほど、作り事のようなわざとらしさと不自然な誇張に対する胡散臭さだけが印象に残るのである。

自分を喜ばせてくれる超自然的な神秘体験ばかりを追い求める人々は、自分ではその不自然さが分からないのであろうが、早い話が、彼らの人格的成長は著しく止まってしまうのである。止まってしまうくらいならばまだ良いが、何かしら退行現象のようなものが起きて、次第に、物事の考え方・受け止め方の範囲が著しく狭まり、思考が幼児化して行くのである。そして、最後には、自分にとって何が「快」であり、「不快」であるかという、赤ん坊のように単純な基準を通してしか物事を判断できなくなってしまう。

そういった現象は、サンダー・シングのように、「福音というミルクは飲むものであり、分析すべきものではない。分析しているうちにミルクは腐ってしまう。」などと言って、知的考察を退けたことの結果として起きるのであり、何を信じるのも本人の勝手とはいえ、筋力も使わなければ衰えるのと同様、人間の思考力も、使用しなければ無いも同然に退化するのだということを覚えておかなければならない。

自分に二本の足があって自由に動けるのに、わざわざ車いすに乗って移動する人がどこにあるだろうか? 同じように、神は人間に健全な思考力や判断力や、自ら考察する力を確かにお与えになったのであり、しかも、一人一人の人間には、他のどんな動物と比べても、はるかに優れた思考力が豊かに与えられているのである。にも関わらず、なぜ人間がわざわざ自らの存在を「全一的」にとらえず、自分自身の一部である知的な思考能力だけを悪いものであるかのようにみなし、これを退けて、己の情と感覚に従って生きようとする必要があるのだろうか? そのようなことは人間の自主的な後退以外の何物でもない。

さらに、福音をミルクにたとえるにしても、神は人間をいつまでも哺乳瓶にしゃぶりついている赤ん坊のように弱い存在として造られたわけではない。福音にも、信者の成長段階に応じて種類があり、ミルクだけでなく、堅い食物も存在することは、聖書が示している通りである。にも関わらず、いつまでもミルクばかりを飲んで生長しようとしない信者を叱責して、パウロは次のように述べた。

あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。

まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ヘブル5:12-14)

サンダー・シングのように、信者が自分の頭を使って自ら考えることを嫌い、ただ受動的に「ミルクを飲む」ことだけを勧める偽りの教えに聞き従っていたのでは、信者は永久に霊的幼児のままこの世を去ることになろう。信者が自ら思考を働かせ、識別し、考察しようとしなければ、その信者には「良い物と悪い物とを見分ける感覚」が訓練されることは永久にない。自ら思考を放棄していながら、「考え方においてはおとなにな」る(Ⅰコリント14:20)ことは誰にもできない相談である。

だから、ペンテコステ運動や、サンダー・シングのような思考停止の教えを受け入れた信者の人格的成長が完全に止まってしまうのは当然であると言える。

どんなに「幻を見た」とか「主イエスの御姿を見た」「御声を聞いた」と誇ってみても、キリストの御言葉に従わない人たちに、信者としての成長などあるはずもなく、肉の思いで幻を見たことを誇るだけで、キリストに結びつかない根無し草のような信者たちについては、聖書は次のように警告している通りである。

「あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。」(コロサイ2:18-19)

さらに、もう一つ重要なこととして、candy氏が「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という主イエスの御言葉に、キリストご自身を追い出す形で人間に過ぎない自分自身を投影し、まるで迫害されているのが、主イエスではなく、自分たち人間であるかのように表現していることにも注意が必要である。

ここで「なぜわたしを迫害するのか」という聖書のフレーズが登場するのは決して偶然ではない。ペンテコステ運動(中でもとりわけアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団)は、病者、障害者、元ヤクザ、元統一教会員、等々、社会や教会から打ち捨てられて来た弱者を積極的に伝道対象として来たが、そのように弱さを抱えた人々の心には、往々にして、自分たちは社会から冷遇され、打ち捨てられ、疎外されて来た弱者だという被害者意識と、深い厭世観が横たわっている。

カルト宗教が様々な弱点を抱えた人々を積極的に勧誘するのは知られていることであるが、こうした人間的な弱点が、ペンテコステ運動と結びつくと、それまで彼らが持って来た厭世観や疎外感が、彼らを見捨てて来た伝統的なキリスト教と、神ご自身への恨みとして向けられることになる。

もちろん、彼ら自身は、自分たちは正しい神を信じている正統なキリスト教徒だと思い込んでいるので、キリスト教を敵視しているという意識は必ずしもないかも知れない。

だが、実際には、統一教会やエホバの証人やものみの塔の信者も、自分たちを「クリスチャン」であると名乗っているのと同様、自らクリスチャンを名乗っているからと言って、その人々がどんな教義を信じているのかは、調べてみなければ分からないのである。

ペンテコステ運動は、これまで見て来たように、その教義自体が聖書から逸脱しており、異端としか言いようのない構造を持っている以上、どんなにこの運動に関わる人々が、自分たちは敬虔なキリスト教徒だと自称したとしても、この運動自体が、伝統的なキリスト教に対する対抗・挑戦となることは避けられない。

こうした運動に関わる人々の心の根底には、従来のキリスト教界に対する敵意と反発が無意識のうちに根を張っており、それが異端の教義と合わさって、自己の弱さを神格化することで、キリスト教全体の上に立ち、これを見返すというところにまで至るのである。

マザー・テレサが「貧しい人たちの内にはキリストがおられる」と述べて、信仰のない貧しい人々をそのまま神格化しようとしたのと同じように、弱者救済の運動として始まったペンテコステ運動も、人の弱さそのものをあたかも「神聖なもの」であるかのように祀り上げ、もてはやす。さらに、そこに御言葉を深く考察・吟味しようとせず、人間の五感に心地よく訴えかけて来る偽りの神秘体験に飛びつくことによって、信者が手っ取り早く神に近づけるかのような誤謬が合わさって、この運動の影響を受けた人々は、地道な信仰の歩みの積み重ねなしに、自分の弱さと神秘体験を通して、あたかも「一足飛びに他の信者を超越して神に近い存在になった」かのように思い込むのである。

ペンテコステ・カリスマ運動のような偽りの教えは、人の弱さをありのままで肯定しながら、なおかつ、それを恥ではなく、「神聖な要素」にまで高め、さらに、弱さを抱える人々を一足飛びに、通常の人々の及ばない高みにまで引き上げ、栄光化してくれる点で、生まれながらの人間、特に様々な問題や弱さから抜け出せずに、コンプレックスや恥の意識を心深くに抱えて来た人々にとっては極めて都合が良いのである。

上記の記事で、candy氏が信仰を持たない夫をキリストと同一視する理由も、「弱さ」にこそあると考えられる。自分たちは、様々な弱さによって社会的に追い詰められ、苦難をくぐり抜けて来た弱者であるからこそ、迫害されているキリストに近い存在なのだ、という思想が無意識に影響しているのではないかと考えられる。

「多くの苦難を通り、追い詰められて来た弱者であるからこそ、神聖である」――そういう自覚が、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」というくだりに自分たちを重ね合わせ、迫害されているキリストに自分たちをなぞらえるという発想を生んでいると考えられるのである。そのようにして、病や、障害や、苦難を美化し、自分たちの弱さをあたかも神聖なものであるかのように祀り上げて美化し、追い詰められている自分たちをキリストと同一視して、自分たちのために自己憐憫の涙を流すのである。

こうした記述の背後に隠れているのは、ペンテコステ運動が、弱者救済の名の下にしきりに助長・肯定して来た人間の弱さ(もしくは罪や、被害者意識)そのものの美化、神格化である。

聖書に目を向けるならば、使徒行伝において、主イエスを迫害したのはあくまで信仰を持たない人間(サウロ)の側であった。だが、以上の記述では、人間が迫害されているキリストに置き換えられることによって、聖書の文脈が全く覆い隠され、真の被害者は神であるという事実が、隠されている。

たとえサウロが迫害した対象が教会であっても、結局、そこで迫害されているのは、個々の信者ではなく、キリストご自身なのである。そして、生まれながらの信仰を持たない人間は、今日もサウロと同じく、神に対して迫害者なのであり、悔い改めて立ち返らなければならない立場にある。

ところが、candy氏のような記述では、迫害されているのは、神ではなく人間、しかも、彼ら自身であるかのように立場が置き換えられ、人間が神に対して犯した罪というものが、全く言及されない。不信者は、神の御前に悔い改めねば受け入れられない罪人であるという事実は否定され、むしろ、不信者が「神」の立場に置かれ、神はただ人間の苦難に寄り添い、あるいは人間の本来的に神聖なることを追認するための存在でしかなくなり、聖書の文脈がまるで完全にさかさまにされているのである。このような聖書の文脈の歪曲は、まさにグノーシス主義の特徴である。

だが、では一体、彼らは自分たちが何によって迫害されていると言うのか? 

そこで言外に示されているのは、「自分たちは聖書の神と御言葉とキリスト教とクリスチャンによって不当に迫害されて来た弱者だ」という主張である。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、Dr.Lukeのような人々が、なぜキリスト教界そのものを敵とみなすかのような活動を繰り広げて来たのか、その理由を考えてみたい。彼らがクリスチャンを名乗っているからと言って、信者はそれに惑わされるべきではない。彼らが最も「敵」とみなして戦っている相手は、伝統的なキリスト教、伝統的なクリスチャンたち、聖書の御言葉、ひいては聖書の神ご自身なのである。

サウロは信仰を持たない時代に、ユダヤ教徒の観点から、救い主なるイエス・キリストを否定して教会を迫害していたのであるが、グノーシス主義者らは、今日、聖書の文脈をさかさまにして、聖書の御言葉を曲げる自分たちこそ、神であって、彼らは(残酷な)キリスト教徒たちによって、不当に迫害されている弱者であり、迫害されている神である、と言う。

従って、Dr.Lukeの文章にも、candy氏の文章にも、彼らのキリスト教に対する被害者意識が、言外に表れているのだと言えよう。candy氏は「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という主イエスの言葉を自分たちに当てはめて自己憐憫の涙を流し、Dr.Lukeは以下の御言葉が、自分たちの不正に向けられた非難ではなく、ニッポンキリスト教界が彼らに対してなしてきた悪事に対する非難であるとして文脈をすり替える。

 「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ
弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」

こうして彼らは、自ら聖書の御言葉を曲げ、その信用を毀損しておきながら、自分たちこそ、キリスト教によって虐げられた被害者である、と言うのである。

こうした文脈のすり替えは、偽りの霊だけがなしうることであり、偽りの霊は、人間の持つ何らかの被害者意識を足がかりとして人の自己の内に侵入し、それを増幅させて、「自分たちは不当に追い詰められている弱者である、ゆえに最も神に近い神聖な人々である」という自負を作り出す。そして、聖書の文脈を乗っ取って、御言葉からまことの神を追い出して、人間に過ぎない自分自身を神の座に据え、他の愚かな信者たちには、無知ゆえに、自分たちが神であることが分からないため、自分たちを不当に迫害するのだ、と言うのである。

だが、こうして「迫害されている」被害者の立場に自分を置こうとするところに、すでに書いた通り、悪霊たちの将来に対する動かせない予感が込められていると言えよう。悪魔と悪霊は、自分たちを待ち受けている神の裁きが否定できないものであることを確実に知っており、キリストの贖いの十字架を退けた人間が、どんなに自分は神だと叫んでも、彼らに待ち受けている末路が恐ろしいものとなる事実を知っている。

特に、悪霊たちは、自分たちの嘘偽りを知っている神ご自身と、彼らを罪に定める聖書の御言葉と、クリスチャンの信仰告白に対する本能的な恐怖を持っているのである。

その恐怖は、マタイによる福音書で、イエスと出会った悪霊たちが、まだイエスが何も言わない先から、自分たちが罰せられることに怯え、「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめるために来られたのですか。」(マタイ8:29)と叫んだことにも見て取れる。

だから、キリスト教界に対するDr.Lukeや村上密のような人々の憎しみと攻撃にも、同じことが見て取れるのである。彼らのキリスト教界に対する被害者意識は、個人的にはどんな出来後が原因となって生じたにせよ、その根底にあるのは、彼らを導く悪霊どもが、自分たちが反キリストの霊の持ち主であることを暴かれたくないという本能的な恐怖に由来する。自分たちが羊に偽装して群れの中に入り込んだ狼であることがいつか必ず暴かれて、自分たちがキリスト教徒の真の「敵」として攻撃され、排斥されることへの本能的な恐怖があればこそ、彼らは自分が訴えられないために、先手を打って、キリスト教そのものを「悪者」として告発し、クリスチャンに濡れ衣を着せようとしているのである。

それは律法学者やパリサイ人たちが、自分たちの不義が暴かれないために、主イエスを十字架にかけて殺したのと同じ敵意・憎しみ・殺意である。すべては罪人らが神の刑罰としての十字架を退けて、自己義認、自己正当化するために行なわれていることである。しかも、救い主を拒みながら、なおかつ、自分たちは被害者だと居直っているのである。結局、彼らの言いたいことは、「自分たちは聖書の神の被害者だ、十字架という人類に対する刑罰は不当だ」ということに尽きる。彼らが告発している相手は、ニッポンキリスト教界や、個々のクリスチャンや教会ではなく、まことの神ご自身なのである。



・コンプレックスと復讐心の裏返しとしての「エリート主義の福音」

さて、グノーシス主義は、「エリートの福音」である(以下注参照)。グノーシス主義者は、自分たちが(キリストの贖いのゆえにではなく)自己の弱さのゆえに、あるいは罪のゆえに、生まれながらに本来的に聖なる存在とみなし、そのように考える自分たちが、聖書から逸脱しているのではなく、むしろ、一般信者には知り得ない「隠された教え」にあずかったのであり、他方、一般会衆は愚劣で盲目であるがゆえに、それを知覚できないだけだと考えて、他の信者を見下しながら、自己の高慢をどこまでも正当化して行く。

エリート主義というのは、そもそも見下し、踏みつけにする相手がいなくては成立しない。グノーシス主義が踏みつけにする相手とは、キリスト教である。グノーシス主義はそれ自体が旧約聖書の神に対する敵対・挑戦として生まれて来たのであるが、その教えは東洋思想を経由して今日までも連綿と受け継がれ、あたかもキリスト教であるかのように偽装して、神の教会に入りこみ、神の御手から聖徒らを奪い、教会の建造を押しとどめようと狙っている。

だが、エリート主義とは、決して真に優れた人々から生まれて来るものではなく、むしろ、人間の弱さと劣等感の裏返しとして生まれるものであり、人が自らの罪や弱点から目を背け、弱さを持ったままで一足飛びに他者を超越して高みに達し、そこから自分よりも強い者を見返そうという復讐願望から生まれた心理的トリックである。
 

(注:荒井献氏は、グノーシス主義ナハシュ派(ナハシュとはアラム語で「蛇」の意)の文献である『トマスの福音書』の解説の中で、次のように記している。

「以下に収録されたイエスの言葉の意味は、一般会衆には「隠され」ている。それは、イエスによって「覚知(グノーシス)」を得る用意のある宗教的エリートにのみ保留されている。これがグノーシス主義の根本的立場といえよう。「隠された言葉」は、ここではコプト語で言い表されているが、これをギリシア語で表現すると「アポクリュフォン(その複数形が「アポクリュファ」)となる。そしてこの表現は、グノーシス文書の標題に多用されている(例えば『ヨハネのアポクリュフォン』『ヤコブのアポクリュフォン』など)。そしてこれが、一般的には「秘書」あるいは「秘教」と訳されるように、われわれのトマス福音書のイエスの教えも、トマスによれば、「秘教」そのものなのである。」
『トマスによる福音書』、荒井献著、講談社学術文庫、1994年、p.120.


真に優れた人間は、自己の優れた能力をもって他者の欠点を補い、他者を生かそうとするものであり、決してそれを自己の手柄として誇示したりしない。自分の強さによって他者を貶めたり、他者の弱点につけ込んで救済者になろうとはせず、他者に君臨することを目指さない。そういうことをするのは、常に、弱さと劣等感を抱える人間だけである。

キリスト教界を告発することにより、神と教会と信者に復讐を果たそうとするカルト被害者救済活動も、ニッポンキリスト教界を踏みつけにして勝ち誇ろうとするDr.Lukeも、同じように、キリストご自身につまづき、神と聖書の御言葉につまづき、これに被害者意識を持った人々である。

こうした人々がしきりにキリスト教界に悪罵を投げつけているのは、それによって、彼らのありもしない「エリート性」を誇ると同時に、彼らが聖徒らから正体を見抜かれ、排斥されることを避けるためでもある。

この人々は、本能的にキリスト教を恐れているのである。それは、自分の時が短いことを知って怒り狂う悪魔の焦りにも似て、自分の終わりを予感していればこそ、その前に、可能な限り、聖書の御言葉を毀損して、できるだけ多くの信者を欺きに巻き込んで苦しめ、神の栄光を傷つけようと、暗闇の軍勢が彼らの存在を通して、絶えず神とキリスト教とクリスチャン全般に対して霊的攻撃を続けているのである。このような偽装信者に対する裁きは昔から滞りなく行なわれており、彼らが相応の報いを受けずに済むことは決してない。

にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。」(マタイ7:15-16) 

人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ24:4-5)

「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

「イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。」(ルカ17:20-23)

「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」(Ⅱテサロニケ2:9-12)

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ4:3-4)

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを 買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」(Ⅱペテロ2:1-3)

 「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:18)

義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。」(Ⅱペテロ2:21)

Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑮

⑤ Dr.LukeのKFC(Kingdom fellowship church)の理念の異端性(続-4)

・悪霊が人の魂(思いと感覚)の領域に作り出す「偽物の霊的体験」としてのペンテコステ運動や、サンダー・シングの教えに欺かれたDr.LukeとKFC
 

Dr.Lukeはメッセージの中であからさまにサンダー・シングに言及してはいないが、それでも、両者の言い分を比較すれば、実に多くの共通点があることがすぐに分かる。

たとえば、サンダー・シングの著書には、「祈りと波動」という項目もあり、その付近には次のような記述が存在する。
 

「<略>神は無限であり、人は有限である。人は無限なる神を十分に理解することはできないが、神は人の中に神を味わうことのできる感覚をお造りになった。」(『聖なる導き インド永遠の書』、p.151)

「<略>脳は多くの繊細な感覚を備えた実に敏感な器官で、瞑想中にみえざる世界からの情報を受けとり、普通の人間をはるかに超えたアイデアを刺激する。脳がこのようなアイデアを生むのではなく、上にあるみえざる霊界からこれを受け、人間にわかりやすい言語に変換するのである。夢の中でこうしたメッセージを受ける人もいれば、異象の中で受ける人もおり、また瞑想中の覚めた時間に受ける人もいる。

 祈りは、こうして得られた情報の中から有用なものと無用なものとをふるい分ける。真の祈りの中で神からの光が解き放たれ、良心、倫理観の座である霊魂の最奥部、一番敏感な部分を照らすからである。色鮮やかな色彩、心地よい音楽その他、見えざる世界からの素晴らしい光景や音色が、脳の内部で反射される。画家や詩人は、その本当の源を理解することもなく、彼らを打つこうした見えざる実在を詩や絵に写そうと試みるが、瞑想する人はこうした実在のいわば核心部分に触れて無上の歓びを味わうのである。それらの出所である霊界と本人の霊魂とが密になっているからである。」(同上、p.150)


瞑想中にみえざる世界からの情報を受けと」るとか、「実在のいわば核心部分に触れて無上の歓びを味わう」とかいった個人的な神秘体験を強調するサンダー・シングの記述は、Dr.Lukeの「霊界からの振動・波動を聞く」といった主張や、KFCやペンテコステ・カリスマ運動が常に強調する(偽物の)「聖霊のバプテスマ」や「異言」といった恍惚体験にほぼ重なる。

ここで、サンダー・シングは、「神は人の中に神を味わうことのできる感覚をお造りになった。」と、人間があたかも己の感覚を通して神に至ることができるかのように教える。そして、「実在(=神)との交わり」の甘美さを強調するために、人の五感を刺激する巧みな描写を用いて、彼の言う「霊界」の魅力的な世界を描き出そうとつとめる。

サンダー・シングが聖書に則って「神を知る」という表現を用いずに(たとえばヘブル8:11では主を「知る」と表現される。ここでの「知る」という言葉には人格を持った者同士の親密な交わりの意味がある)、あえて「神を味わう」と、まるで神を食べ物(対象物)であるかのように表現していることにも注意が必要である。

このように、人間の味覚を使って神との合一の甘美さを表そうとする特徴は、Dr.Lukeの「神との交わりは甘い」という言葉や、鈴木大拙の「二度目の林檎を食べぬといけない」という表現にも表れており、さらに、以前にも記事で紹介した通り、それは何よりグノーシス主義に見られた特徴なのである。

たとえば、ヴァレンティノス派のグノーシス文献、『真理の福音書』では、キリストの十字架そのものが、人間を喜ばせるための甘く喜ばしい「果実」へと変えられる。その十字架は、聖書の教えるような、人類の罪のための贖いの犠牲ではなく、「人が内なる神的自己を発見する機会」に歪曲された十字架である。
 

「……木に釘づけにされた。彼は父の知識(グノーシス)の実になった。しかし、それは食べ[られ]ることによって破滅を与えるものになるのではないそうではなくて、それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えたのであるなぜなら、彼は彼らを自らのなかに見いだし、彼らは彼を自らのなかに見いだしたからである。……」

……いつくしみ深い忠実なイエスが、苦難を身にひき受けて耐え忍んだ、……なぜなら彼は、彼のこの死が、多くの人々にとって命であることを知っていたからである。……彼は木に釘づけにされた。……彼は自らを死に至らせるが、彼は永遠の命を身につける。滅びの衣を脱ぎ捨てて、不滅をまとうのである。……」。(『ナグ・ハマディ写本』、エレーヌ・ペイゲルス著、白水社、p.169-170)


このように、異端の教えは、神だけでなく、キリストの十字架の概念も歪曲し、十字架を人間にとって都合よく、人間を喜び楽しませるための「甘く麗しい果実」へと変えてしまう。 

(筆者がcandy氏のブログタイトル「十字架の恵みが溢れて」という標題そのものに深刻な違和感を覚えるのもそのためである。)

そこでは、十字架はもはや人類の罪のための身代わりの刑罰ではなく、むしろ、人間の生まれながらの自己を高めるための道徳的感化や、新たな知識やインスピレーションの源へと歪曲される。そして、イエスの十字架の死が、しばしば、苦しみに満ちた出来事ではなく、まるで喜ばしい出来事であったかのように描写されるのである。

偽りの霊が、このように十字架の概念を歪曲するのは、そこに何とかして十字架から人類の罪に対する神の刑罰としての側面を除き去り、人間に下された神の刑罰を否定して、人間を無罪放免したいという欲求が働いているからである。

そのために、偽りの霊は、十字架を甘い砂糖菓子のように人間に都合よく味つけし、花輪で飾り立て、十字架を人間にとって罪や恥辱や刑罰の象徴ではなく、むしろ、人の生まれながらの自己を飾り立て、高めるための、喜ばしく楽しいツールへと変えてしまう。そうすることによって、彼らは、「神が罪人と自分を同化するために死んで下さったのだから、罪人はもはや罪人ではなく、神なのである」と主張して、十字架さえも、人が堕落した自分自身の内にありもしない「神的自己」を見いだす手段へと変えて行くのである。

グノーシス主義とは、その名が示す通り、人が本来的な自己に目覚めさえすれば、その知識によって「神のようになれる」とする神秘主義の教えであり、もともとは悪魔に由来する偽りであるが、この思想は、自らの主張を正当化するためならば、聖書のあらゆる概念を歪曲し、捏造する。

サンダー・シングの言葉も、一見、聖書に似ているようであるが、御言葉と対照しながら読んでみると、すべての概念が歪曲だらけ、捏造だらけで、結局、その言わんとしているところは、聖書の御言葉とは真逆であることが分かる。

例を挙げれば、Dr.Lukeは記事「
サンダー・シングのことば」(2008年1月17日)で、サンダー・シングの文章を無批判に大量に引用しているので、いくつかその中から例を挙げてみよう。
  

「神との交わりとは、私たちの中に神があり、神の中にわたしたちがいるということである。とはいえ、これによってわれわれの個別性が失われるわけではない。鉄が火の中に置かれれば、鉄の中に火がおこる。だからといって鉄が火になるわけでも、火が鉄になるわけでもない。」

キリスト者は塩のようなものでなければならぬ。塩は溶けてはじめて効き目をあらわす。自己犠牲にこそ、訴える力はある。」

「福音というミルクは飲むものであり、分析すべきものではない。分析しているうちにミルクは腐ってしまう。」

今われわれは、富も地位も名誉も望まない。いや、天国さえも望まない。ただ、自分の心を天に変えしめた主のみを必要とする。主の無限の御愛は、それ以外のすべてのものに向けられる愛を一掃した。クリスチャンと呼ばれる人々の中に、主の尊い、生命を与える臨在感を実感できない人々が多いのは、キリストが彼らの頭や聖書の中に生きているだけで、心の中に生きていないからである。人は心を明け渡す時のみ、主を見出す。心[ハート]はキリストの王座である。王たるキリストの支配する心(ハート)こそ、天の都である。」

「神の化肉について

かつて、ヒマラヤ山中にいた時、わたしはサトレジュ河を渡ろうとしたが、橋がなかった。とても泳いで渡れるところではなかった。どうしたものかと考えていた時、一人の男を見つけたので、彼に声をかけた。

「向こう岸に行きたいのだが、橋もなければ船もないのです。」すると彼は、「心配ない。空気が向こう岸につれてってくれるさ」と答えたので、私はびっくりした。空気を吸うことは出来るが、吸った空気で体が持ち上がり、対岸にいけるわけでもない。すると相手は獣皮をとりだして、空気をそこに吹き込み、ゴムボートにしてそれに乗れと命じたのである。こうして私は安全に向こう岸に辿りつけた。空気は皮の中に閉じ込められることによってのみ、私を運ぶことができた。

同じく、神もまた、人を救うために受肉されなければならなかったのである。いのちは言葉となった。その方はこの世の河を渡りたいと願う人々を安全に天国へ運んでくださる。

「わたしを見たものは、すなわち父をみたのである。」われわれは、イエス・キリストの化肉の中に、生ける父を見ることができる。

世を救うために、全能の神自らが化肉されたのは、まさにその愛のためなのです。」


こうした文章がどれほどもっともらしく聞こえ、説得力のあるたとえ話を用いていたとしても、実際には、聖書が何を言っているのかに逐一照らし合わせて検証せねばならない。

たとえば、「神もまた、人を救うために受肉されなければならなかったのである。いのちは言葉となった。その方はこの世の河を渡りたいと願う人々を安全に天国へ運んでくださる。」といったサンダー・シングの文章も、キリストを単に人間のために天国への橋渡し役をつとめるボランティア船頭に過ぎないかのように描いて、キリストの十字架が人類の罪の贖いのためである、という聖書の真理を全く覆い隠している。
 
驚くべきことに、ここには十字架という言葉さえも登場してはいない。「神もまた、人を救うために受肉されなければならなかったのである」とは言っても、一体、人類を何から救うために、神は受肉されたのか? 全く文脈が定かではないのである。

また、「
キリスト者は塩のようなものでなければならぬ。塩は溶けてはじめて効き目をあらわす。自己犠牲にこそ、訴える力はある。」という文章も、一見、もっともらしく聞こえるが、聖書を著しく歪曲していることが分かる。聖書は次のように述べる。

「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13)

この聖書のたとえには、「塩は溶けてはじめて効き目をあらわす。」などという事は一言も書かれていない。そもそもこれはサンダー・シングの述べているような自己犠牲による道徳的感化の価値を示すための話ではないのである。

この御言葉は、その直後に
「あなたがたは世界の光です。」、「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14,16)とあるように、「地の塩」、「世の光」という両方のたとえが指しているのは、同じように、「あなたがたクリスチャンは、神によってこの世から召し出されたのだから、この世と迎合して同化したりせず、むしろ、御言葉に従って、何が神に喜ばれることであり、何がそうでないのか、その区別を公然と世に示し、天におられる父が栄光を受けられるようにしなさい」ということに尽きる。

つまり、「地の塩」や「世の光」といった表現を用いたたとえ話は、神の子らである信者たちと、この世との明確な区別を示しているのであって、神に聖別された者たちが、その区別を自ら失ってはいけないという戒めなのである。

ところが、サンダー・シングは、「
塩は溶けてはじめて効き目をあらわす。」と話をすり替えることにより、御言葉の意味を真逆にして、信者とこの世の区別をうやむやにする。塩(クリスチャン)が水(この世)に溶けてしまえば、この世と信者との区別は失われる。にも関わらず、そのようにして自分を取り巻く環境(この世)と調和して自らの信仰を主張することをやめることが、信者のあるべき自己犠牲であるかのように、文脈をすり替えるのである。

さらに、上記の引用で、サンダー・シングは、「
福音というミルクは飲むものであり、分析すべきものではない。分析しているうちにミルクは腐ってしまう。」などとも述べており、ここでも、またもや「味覚によって味わう」表現が登場すると同時に、聖書の御言葉の二分性に基づく知的分析が否定されている。

だが、考えればすぐに分かることであるが、ミルクはこの世の有限な物質からなるので時間の経過と共に腐敗もしようが
、「聖書は廃棄されるものではない」(ヨハネ10:35)のであり、聖書の御言葉は、人の短い一生を超えて永遠に変わらずに残るものであり、その御言葉が、人間の束の間の分析にも耐えられないようなことがどうしてあり得ようか。

むしろ、
のみことばは混じりけのないことば。主の炉で七回もためされて、純化された銀。」(詩編12:6)

とあるように、聖書の御言葉はあらゆる検証に耐えうる永遠の不変性を持ち、人間の知性による分析や考察を排除するものではないのである。

しかしながら、すでに書いたように、東洋思想は、聖書の二分性に基づく知性による分析や考察を嫌い、感情と感覚に基づいて直観的に行動することこそ、人間の本質であるかのように主張する。

すでに幾度も引用して来たように、鈴木大拙は、以下の文章で、エデンにいた時、人間は「行」のみの世界に生きていたが、善悪知識の木の実を食べたことによって、「知」が発生したのであり、それこそが失楽園の原因だとなったと述べて、知性による分析を悪しきものとみなし、これが消滅するか、もしくは「行」と一致して、悟りによって新たな世界が出現しなくてはならないと述べる(それが同氏の言う「二度目の林檎を食べる」とい言葉の意味である)。
 

人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を最先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。

アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。一旦、知が出ると、失楽園となったのである。入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。二度目の林檎を食べぬといけない。」(『東洋的な見方』、p.195-196)


このように知性による考察や分析を「悪しきもの」として退け、物事を自らの知性によって深く考えることを厭う傾向は、鈴木大拙・サンダー・シングに全く共通しており、東洋思想そのものの特徴なのであるが、これもまさに聖書をさかさまにした偽りなのである。

すでに見て来た通り、聖書における人類の失楽園のくだりは、人間が知性によって神の御言葉を理解し、これに聞き従うことを捨てて、己の情と欲に誘われて、己の欲することを後先考えずに行動した結果として起きた堕落であり、鈴木氏の言うように、聖書の二分性に基づく知性が人類の堕落の原因となったのではないのである。

すなわち、人間の堕落は、神が何を是とし、何を非として戒めているのか、御言葉による区別(二分性)を己の知性で吟味・理解し、それをわきまえて行動することをやめて、むしろ、「人間は行為を最先にして、それから反省が出る」と鈴木氏が言うように、知性による考察自体を放棄して、自分の行動の意味やその後先を全く考えることなく、ただ己が欲に誘われるままに、己の欲するところを行ったことによって起きたのである。

言い換えれば、人間の行動が意味と切り離されて、ただ情と感覚だけに基づいて、己の感覚的欲求を満たすことだけを究極目的とするようになった時、人類の堕落が起きたのである。

その堕落とは、人間が神に対して、神を喜ばせるために生きることをやめて、ただ己の満足だけを念頭に置いて、自己のためだけに生きるようになったという価値観・人生観の一大転換を意味する。その瞬間から、人間の全ての行動は自己の満足しか念頭に置かないものとなった。御言葉の二分性に基づく知性を放棄して、何が真に是であり非であるかをわきまえることなく、自分にとって好ましいものだけを全て「良い」ものと判断し、何もかもを自己の感覚を通して判断するという「全一的」存在になろうとしたことによって、人間は自己を客観視する能力までも失ったのである。
 
従って、そのような浅はかで衝動的で考えなしの自己満足的行動こそが、「薄っぺらだ」と非難されるべきであって、そのように知性と結びつかない短絡的衝動が人間の本能であるというのは、大変、嘆かわしい事実でしかなく、それもただ単に人間から知性を切り離して、堕落した動物的本能だけを指して本能だと言っているに過ぎない。

軍隊であっても、指揮命令を下すのは司令部であって、前線の兵士ではない。前線の兵士が受けた命令をどうして「薄っぺらだ」と言って拒めよう。同様に、人間が真に「全一的」であるためには、人が知性によって自らの行動の全てを律することが必要なのであって、その逆は決してあり得ない。「行」が「知」より優先されたり、「行」が「知」を支配することで両者の一体化を目指す世界は、反逆の世界でしかない。
 
だが、人間による知性の放棄と、動物的衝動への邁進と、その結果としての神への離反を後づけで正当化するために、鈴木大拙氏は「人間は行為を最先にして、それから反省が出る」生き物だ、と言うのであるが、このように東洋思想は、「行」の方が人間の本質であって、「知性」は本質ではない、と言うのである。

このような主張こそ、人間が自らの行為の罪深さを覆い隠すために作り上げた自己弁明のための詭弁なのである。しかも、鈴木氏がそこで悪者にしようとしている「知性」とは、聖書の御言葉の二分性のことではなく、むしろ、人類が善悪知識の木の実を取って食べたことにより、悪魔が人類に吹き込んだ偽りの思想、偽りの知性を指している。

従って、もし「知性」による分析や考察が悪者にされるのだとすれば、その非難は、聖書の神の御言葉に基づく知性に対してではなく、悪魔が吹き込んだ偽りの思想に対してこそ向けられねばならない。ところが、東洋思想はこれを全てさかさまにしてしまい、悪魔に由来する偽りの「知性」に対する非難を、聖書の神の御言葉に向けようとするのである。

このように聖書を転倒させた詭弁は、まさにグノーシス主義に見られた特徴であり、東洋思想とは、すでに述べて来た通り、グノーシス主義を保存する入れ物の一つに過ぎないのであるが、こうしたものは、聖書の御言葉の二分性に基づく知性を捨てて、己の情と欲に走った人間が、己の堕落を神に責任転嫁して、聖書の御言葉を悪者にするために、聖書をさかさまにして作り上げた詭弁なのである。

そこで、今日も、東洋思想の中には、人間とはもともと「理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである」という考え方が根強く生き残っている。それは結局、生まれながらの人間が自己の罪と堕落を正当化するために作り出した考えなのであり、こうした主張を繰り広げる人々は、人類の堕落の瞬間から今に至るまでずっと、神に離反した人類の罪を正当化するために連綿と偽りを作り出しているのであり、それによって延々と「善悪知識の木の実」を食べ続けているのだと言える。このサタンに由来する「善悪知識」は、人間にとって都合が良いように、聖書のすべての概念を歪曲し、さかさまに変えてしまうのである。

従って、クリスチャンは、東洋思想の言うように、人間を直感的・動物的・衝動的な生き物とみなす考え方の恐ろしさを理解して、そのように知性による考察を侮蔑する考えがどれほど危険なものであり、聖書の御言葉に従うことの妨げになるかに気づかなければならない。

大体、人にじっくりと時間をかけて自分自身で物事を深く考える暇を与えようとせず、人がただ己の欲求に基づいて感情的・衝動的に行動することばかりを促すのは、詐欺師の手法である。
 
そこで、一体、サンダー・シングが何のために、「福音というミルクは飲むものであり、分析すべきものではない。分析しているうちにミルクは腐ってしまう。」などと言って、聖書の御言葉を知性によって考察する作業を軽んじて、信者の吟味や疑いを退けながら、可能な限り、信者が自分では何もものを考えずに。ただ己の直感だけに基づいて、自分にとって心地よいと感じられる行動に出る方向へと誘導しようとしているのか、気づかなければならない。何のために、彼は知性による考察を退けているのか、そこにどんな危険を隠そうとする意図が込められているのか、よくよく考えてみる必要がある。

結局、そこにあるのは、人間の思考を眠らせることによって、嘘を暴かれまいとする意図である。一見、もっともらしく、良さそうに聞こえるサンダー・シングの言葉が、少しでも聖書の御言葉に照らし合わせれば、どれほど著しく矛盾しているか、誰にでもすぐに分かってしまう。そこで、自らの述べている思想の虚偽を暴かれないために、予め読者の思考を眠らせておこうと、サンダー・シングは以上のような論法を使っているのであって、そこにトリックがあることに信者は気づかなければならないのである。

だが、Dr.Lukeはそのような「しかけ」には全く気づこうともせずに、サンダー・シングの文章を手放しで賞賛している。

「クリスチャンと呼ばれる人々の中に、主の尊い、生命を与える臨在感を実感できない人々が多いのは、キリストが彼らの頭や聖書の中に生きているだけで、心の中に生きていないからである。人は心を明け渡す時のみ、主を見出す。心[ハート]はキリストの王座である。王たるキリストの支配する心(ハート)こそ、天の都である。

というサンダー・シングの言葉にも、西欧キリスト教に見られるような、伝統的なクリスチャンに対する嫌悪と侮蔑の感情が込められている。自分は「神の臨在を直接味わっている」のであって、西欧のキリスト教徒のような、神の臨在を全く実感できないでいる「頭でっかちな」可哀想な連中とは違うのだという自惚れが満ちている。

サンダー・シングの伝統的なキリスト教徒に対するこのような上から目線の批判と侮蔑は、ニッポンキリスト教界を見下し、侮蔑するDr.Lukeの心境にはさぞかしよく合致したことであろう。

「神との交わりとは、私たちの中に神があり、神の中にわたしたちがいるということである。とはいえ、これによってわれわれの個別性が失われるわけではない。鉄が火の中に置かれれば、鉄の中に火がおこる。だからといって鉄が火になるわけでも、火が鉄になるわけでもない。」

というサンダー・シングの「鉄と火のたとえ話」も、以前にも記事で引用したように、不思議なことであるが、「神と人とが混ざり合う」と教えているローカルチャーチから出されたウォッチマン・ニーの著書とされている全集の中の記述にぴったりと合致する。
  

「さらに完全な結合

神はすでにわたしたちをキリストの中に包含されました。わたしたちは今どのようにしてキリストがわたしたちの中へと造り込まれるのかを見なければなりませ ん。キリストが わたしたちの中におられる時だけ、わたしたちの結合は実際であり、完全であり得ます。そして、その時はじめて、キリストが持っておられた あらゆるものが、わたしたちの中へと造り込まれます。このキリストとの関係こそ、その究極的で最高の意味での結合です。

ある日、わたしは鍛冶師が作業しているのをじっと見ていました。彼が大きな一塊の鉄を火の中に投じ、炎を燃え立たせてから、その赤くなった金属を鉄槌で打 ち始めました。脇に立っていた一人の弟子が火を得ようとしていました。彼は一枚の紙を巻き、それを火に突っ込むことをしないで、その端を赤くなった鉄に触 れました。たちまちその紙に火がつきました。わたしは火が鉄から出て来たのを見て非常に驚きました。この一塊の鉄は、今は他のすべての鉄とは違っていまし た。あなたはそれを鉄であったと言うかもしれません。しかし、またそれを一つの火の球と考えることもできます。火は鉄の中に、また鉄は火の中にあったので す。それは鉄の性質と鉄の様相とを持っていました。あなたがそれに一枚の紙を置くと、その紙は燃え上がりました。

神はわたしたちとキリストとの結合がその鉄と火の結合のように親密なものであることを願われます。神はわたしたちのすべての罪を赦されました。そして、わ たしたちの古い人をキリストの中で終わらせました。しかし、神はそこで終わりにされませんでした。鉄と火が一つであったように、神はわたしたちがキリスト と完全に一つであることを欲しておられます。鉄のあらゆる分子は火と混ざり合い、その火のあらゆる性質は鉄の中で現されました。神はこの程度にまでキリス トをわたしたちの中に造り込むことを欲しておられるのです。」(ウォッチマン・ニー全集(第二期 第二七巻、正常なキリスト者の信仰、日本福音書房、 1997、p.200-201)


上記のような教えを信じる人々は、鉄と火が混じり合うように、「神と人とがほとんど区別がないほどまでに一体になれる」と教えるのである。しかしながら、問題は、このたとえ話によって、一体、キリストと信者との結合は何によって保障されるのか、という最も肝心な点が、覆い隠されている点である。聖書は言う、

「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」(ヨハネ14:20-21)

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14:23)

「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

鉄と火のたとえ話を何万回繰り返しても、聖書の御言葉を守らない信者は、キリストとの合一にあずかることは決してできない。キリストとの合一に達したいならば、最も肝心な点は、信者が御言葉を守り、従うかどうかということである。だが、サンダー・シングや上記のウォッチマン・ニーの著書(福音書房)は、たとえ話のもっともらしさばかりを強調することによって、信者が「聖書の御言葉を守る」ことなしにキリストとの合一には絶対に達し得ない、という事実を教えないのである。

心[ハート]はキリストの王座である。」というサンダー・シングの言葉にも注意が必要なのは、ここにもまた聖書の歪曲が潜んでいるからである。「神は霊です。神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23)という御言葉に表れている通り、神と交わることができるのは、人の霊のみであって、魂ではない。信者はむろん、霊においても、心においても、自分のすべてを尽くして神を愛し、神に従うのであるが、だからと言って、人は己の情や感覚を通して神を知ることはできないのである。人の魂と肉体の感覚の領域には、神との霊の交わりは存在しない。

だが、サンダー・シングが「心(ハート)」を強調するのと同じように、Dr.Lukeもしきりに「マインド(思い)」を強調する。(メッセージの主題を見るだけでもそのことは分かる。「マインドのゲートキーパー」(2016年4月3日)「祝福のマインドフルネス」(2016年5月29))

このように、しきりに信者の「心(魂)」における活動を強調し、あたかも、天国(神の国)が人の魂の領域に存在するかのように主張する教えが危険なのは、ペン-ルイスが指摘するように、悪霊が信者を霊に従ってではなく、堕落した魂の思いや感覚に従って歩ませるために、人の思いや感覚を刺激して、甘美な体験を味わわせることによって、信者の魂の領域に、「偽物の霊的世界」を作り出し、偽物の霊の感覚を、聖霊の働きと取り違えて歩ませようとすることがあり得るからである。

ペンテコステ・カリスマ運動もそうであるが、信者は自分が個人的に受けた体験が非常に甘美で心地よく、自分のニーズに合致しているために、それが聖書の御言葉と矛盾していても、注意を払うことなく、「自分は聖霊に導かれて、霊的な体験を受けているのだ」と思い込みながら、自ら感覚体験の虜とされて行くのである。この種類の欺きに対して、ペン-ルイスは次のように警告している。

  

サタンの欺く霊どもは、真の霊のいのちの偽物を魂の領域に造り上げて、信者を欺こうとします。信者はこの偽物に気がつきません。彼らの狙いは、信者をおびき寄せて、無意識の内にふたたび魂の領域の中を歩ませることだからです。

霊を魂から解放されて「切り離された」霊の人は、魂や体によってではなく、によって歩み、によって支配されている人です。しかしこれは、霊の人は二度と魂のいのちに巻き込まれることはありえない、ということではありません。

霊の人でも、霊の法則を知らず、霊に治めさせることに失敗するなら、ふたたび魂のいのちに巻き込まれるでしょう。何がからであるのかを識別する方法、霊を自由に保ち、神の霊に開き続ける方法、絶えず聖霊と協力するのに必要な条件を、霊の人は学ばなければなりません。

霊の人は、悪霊どもの攻撃を見抜いて、対処することができなくてはなりません。悪霊どもは、霊の人の霊を攻撃して、神との交わりを妨げようとします。あるいは、霊の機能を麻痺させ、受動的にさせて、霊を魂に追いやろうとします。これに失敗すると、悪霊どもは霊の人の霊を過度の活動に駆り立てようとします。その狙いは、自分たちの攻撃に対する絶え間ない抵抗を阻止して、妨害することです。
(『魂と霊』、ジェシー・ペン-ルイス著、第5章 「霊的な」(プネウマチコス)クリスチャン、霊のいのちの法則、より抜粋)


以上のような警告を読むと、なぜペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けた信者らが、頻繁に不自然で大袈裟な感動の涙を流し、芝居じみているとしか思えないほどに誇張された行動や感情表現を繰り返しながら、絶えず過度の熱狂に陥っているのかも理解できる。それは悪霊によって過度に活発化された魂の活動であり、絶えず信者の霊を圧迫し、静穏な思考を妨げ、信者を霊の平安の静けさの中から、自分自身の騒がしい思いと感覚という魂の領域へと誘い出し、その領域にとどめおいて、霊ではなく魂の感覚に従って歩ませるために行われる欺きのための「疑似霊的活動」なのである。

むろん、有害で不快な感覚体験を通しても、悪霊は信者が霊に従って歩むことを妨げることができるが、同時に、心地よい体験を通しても、信者を欺くことができ、そのようにして、信者を御言葉ではなく、自分自身の感覚体験の虜として行こうと狙っているのである。この種の偽りを見抜くために信者に必要なのは、信者が自分にもたらされる全ての感覚体験を疑うことなく受け入れるのをやめて、それが自分にとって心地よいかどうかという基準に従って是非を判断するのではなく、御言葉に合致しているかどうかという基準によって是非を判断し、御言葉に合致しない体験は、どんなに好ましく感じられたとしてもこれを否み、そこから遠ざかることだけである。

特に、信者の静穏な思考そのものを妨げるほどに強烈で受け身の絶え間ない感覚的刺激を求めさせる教え、過度な熱狂、不自然な感動、絶えず流される滂沱の涙、恍惚体験、行き過ぎた歓喜などを伴う感覚体験ばかりを強調する教えは、とことん警戒して退けることである。

サンダー・シングやペンテコステ・カリスマ運動のように、信者が聖書の御言葉に従うことの重要性よりも、「神との甘美な交わりを味わう」という個人体験ばかりを強調することによって、こうした体験が信仰生活の本質であるかのように主張する教えは、例外なく、信者を霊ではなく魂の領域で己の感覚に従って歩ませるために作り出された偽りであり、そこで強調されている「霊的体験」とは、結局、魂の領域に作り出された偽物なのである。
 

 サタンの欺く霊どもは、人の霊の偽物を魂の領域に造り上げることができます霊的な信者はこのことを理解しなければなりません。これは重要です。欺く霊どもは、策略を用いて外なる人に接触することにより、次に霊からではない動きをその人の中に生じさせることにより、これを行います。このような動きは霊的に見えるかもしれませんが、いったん主導権を握ると、真の霊の動きを封じ、圧倒するほど強くなります。もし信者がこのような敵の戦略を知らないなら、たやすく真の霊の動きを棄ててしまうでしょう。彼は、「霊にしたがって歩んでいる」つもりなのですが、霊的な感覚の偽物にしたがっているのです

 真の霊の動きがやむ時、「神は今、新しくされた思いを通して導いています」と悪霊どもはほのめかすかもしれません。これは、彼らの偽りの働きと、人が霊を用いていないことを隠すためのたくらみです。それと同時に偽りの光が思いを照らし、続いて偽りの推論や判断などが生じます。その人は、「自分は神からの光を持っている」と思います。なぜなら彼は、自分が「霊にしたがって歩く」ことをやめてしまったこと、そして今、天然的な思いにしたがって歩んでいることに、気づいていないからです。

 霊の人が直面するもう一つの危険は、彼を肉(体)にしたがって歩ませようとする、サタンの欺く霊どもの巧妙なたくらみにあります。欺く霊どもは、人が「霊的」だと思う感覚を体の中に生じさせることにより、「自分はなおも霊にしたがって歩んでいる」という確信の下で、人を肉にしたがって歩ませようとします

これらの策略を打ち破るには、超自然的事柄を知覚するすべての肉体感覚だけでなく、通常の事柄を知覚する過度の肉体感覚をも拒まなければならないことを、信者は理解しなければなりません。なぜなら両方とも、思いを「霊にしたがって歩むこと」から逸らし、肉体的な感覚に向かわせるからです。 (同上)
 

<続く>

Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑭

⑤ Dr.LukeのKFC(Kingdom fellowship church)の理念の異端性(続-3)

・魂の力によって人が自力で神に至ろうとする自己高揚の教え 東洋的神秘主義とキリスト教の混合としてのペンテコステ・カリスマ運動

先人の文献を辿って行くと、ペンテコステ・カリスマ運動がしきりに強調しているような「偽物の聖霊のバプテスマ」や「偽物の異言」、つまり、人間が正体不明の「霊」を受けて、これと親しく交わることによって、生来の自己の命を刺激して、超自然的な力を帯び、何かしら高次の存在(「神のような存在」)に高められるかのような偽りの教えは、かなり昔からキリスト教界に偽装して敬虔なクリスチャンたちの中に侵入を試みていた様子が分かる。

これまでにも書いて来たことであるが、人がキリストの十字架の贖いを信じて受け入れることなく、自己の生まれ持った力を用いて神と合一できるという考えは、神秘主義思想であり、これは根本的にはグノーシス主義と同一で、もともとは蛇(サタン)が人間に吹き込んだ偽りの思想を原点としている。

そうした神秘主義思想は、西欧諸国ではキリスト教によって封じ込められていたので、主に東洋世界で発展して来た。インドの修行僧や、異教の霊的指導者などは、人の内に眠っている生来の潜在的な力を引き出すために、祈りに加えて、断食や、修行、瞑想などに励み、その結果として、彼らが「神との合一」と呼んでいる神秘体験にあずかるだけでなく、空間や、自分の肉体の限界を超えて、世界の多くの人々や事象に霊的影響力を行使する秘訣を会得するのである。

暗闇の勢力は、人が特別な修行や瞑想や祈祷などを経験することによって、生まれながらの人間の自己の中に眠っている潜在的な能力を引き出し、人間が通常の人間の及ばない超自然的な力を手にするのを助ける。

そのような超自然的な悪魔的な力を帯びた「霊的指導者」が、インドやアジアの国々の中で影響力を行使するだけでなく、キリスト教世界にも影響を及ぼそうと試みていることについて、すでに一世紀近く前に、ジェシー・ペン-ルイス (1861–1927)などが著書において鋭い警告を発していた。

聖書は、主イエスが悪霊にとらわれていた人々を解放されたように、神の聖霊に超自然的な働きをすることができると同様、悪魔とその率いる堕落した諸霊も、偽りの奇跡を行うことができることを示している。

特に、偽預言者、偽キリストなどの、聖書の教えを曲げ、神に反逆する異端者は、自分たちがあたかも神の使いであるかのように見せかけるため、様々な超自然的な惑わしの力を魔法のように駆使して、人々を欺くと警告する。

不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」(Ⅱテサロニケ2:9-12)

にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。だから、気をつけていなさい。」(マルコ13:22-23)

ペン-ルイスは、このように、御言葉に背く人々が神の聖霊によらずに、人間の中にもともと存在している堕落した魂の力を発揮して行う超自然現象を、聖霊に由来する「霊の力」と区別して、「魂の力」と呼んだ。(ここで言う「魂」とは、人の生まれ持ったアダムの命のこと。)
 
「魂の力」とは何でしょう?それは「生まれながらの人」が用いる生来の潜在的な力であり、神の霊からではない力です。それでは、「霊の力」とは何でしょう?それは「霊」なる神ご自身の力であり、霊の人を通して働く力です。霊の人は御霊から生まれ、御霊によって歩み、カルバリの血の根拠に立って神に祈ります(たとえば、黙示録八章三~五節参照)。」
(『「魂の力」対「霊の力」』、ペンールイス著、「第一章 終わりの時代の危険に関する洞察


こうした「魂の力」を発揮する秘訣を会得した神秘主義者たちは、今日も、独自の「祈祷」を通して、魂の力を動員し、彼らの願いを現実にすべく、日々祈願を重ねている。従って、こうした人々の行使する「祈り」とは、ただ単に存在しない神に捧げられる無意味な所業というよりは、悪霊の力を動員して、その影響力を標的に向かって行使するための呪術的な要素を帯びたものと言えるのである。
 

「『魂の力』という言葉の魅力や魔力は、東洋でだけ知られています。東洋では、マハトマのような聖人はこの力を行使することができると信じられています。彼らは過去数世紀にわたってインドの霊的指導者でした。そして、昔と同じように今も、超自然的な力を持つと信じられています。彼らは人を強める力を持つだけでなく、人の意志をコントロールする力も持つと言われています

インド人の宗教生活は、まぎれもなく、これらの魂の力を発達させています。キリストの福音を知らない数十万の人々が、ある特定の対象に向けて強烈な「祈り」を放つ効果は、いかばかりでしょう。彼らはこの世の神に導かれて、自分の望む対象に魂の力を「投影」しているのです。」

私たちの周りでも、意識的・無意識的に、この魂の力が発達・行使されつつあるのです。目に見えない悪の軍勢は、この「魂の力」を利用することができます。」


「イスラム教徒はみな、世界を動かす力の秘訣は祈りにあると信じています。そして、彼らは信じることを実行します。彼らは『祈り』、ヨーロッパ諸国の議会が覆されることを信じます。これはキリスト教国に対する何という教訓でしょうか!」


「ヒンズー教徒とイスラム教徒は、祈り――瞑想行為――によって結ばれて、共に『魂の力』を生み出す働きに従事しています。彼らは、東洋における西洋諸国の権力や威信を失墜させるために、『魂の力』を西洋諸国の上に投影しているのです。これは歴史上最大の反乱です!……」(同上)


ここではヒンズー教やイスラム教のことしか触れられていないが、禅、仏教、国家神道の礼拝なども、全てここに含まれる。たとえば、なぜ安倍首相が公務の合間に、政教分離の原則に反して、神社参拝を繰り返しているのかも、そこから理解できよう。政治指導者が己の支配を強化するために、オカルト的な力に頼ることは、東洋諸国では珍しいことではないのである。

悪霊に由来する呪術的・超自然的な力は、瞑想、断食、祈祷と言った特別な修行を通して引き出され、そうした方法で、導師と呼ばれる霊的指導者は、己の肉体を超越して多くの人々に影響力を行使する秘訣を会得する。
 

「この『魂の力』は、祈りや、断食や、宗教的な瞑想によって開拓されると信じられています。」

「ペンバーの「地球の幼年期」の中に、これに光を当てる節があります。彼は次のように記しています。「『魂の力』を生み出すためには、肉体を魂の支配下に置かなければならない。そうすることによって、自分の魂と霊を投影し、地上に生きていながら、あたかも肉体を持たない霊のように行動することができるようになる」

この力を会得した人は『導師』と呼ばれており……意識的に他人の心の中を覗くことができる。彼は自分の『魂の力』によって、外界の諸霊に働きかけることができる。……彼は凶暴な野生の獣をおとなしくさせ、自分の魂を遠方に送ることができる」

「彼は遠くにいる友人に、肉の体と同じ様で自分の霊の体を見せることができる」

「長期間の訓練によってのみ、これらの能力を会得することができる。訓練の目的は、体を完全に服従させて、一切の喜び、痛み、地的情動に対して無感覚にならせることである」(同上)


このように、人が生まれ持った自己、すなわち、「魂の力」を高揚させ、啓発することによって、超自然的な力を帯びるという、「偽りの霊性」は、主に東洋世界で受け継がれて来たが、ペン-ルイスは、こうした悪霊に由来する力が、あたかも神の聖霊の働きを装って、キリスト教界に公然と流入しようとしている危険性に気づき、警告を発していたのである。

ペン-ルイスは、今日、キリスト教界で流行し、あたかも聖霊の賜物であるかのように誇示されている「聖霊のバプテスマ」や「異言」の多くが、上記のような堕落した「魂の力」であると指摘する。

 

「ですから、今日流行している「魂」の力は「霊」ではありません。なぜなら、それはまったく、人の堕落した性質に属しているからです「魂の能力」を発達させることは、「生まれながらの人」の中に眠っている能力を引き出して、働かせることです。」

魂の力を完全に発達させるには、超自然的力が必要なようです。そして、堕落以降、魂の力は神の力によってではなく、サタンの力によって発達させられています。こう考えると、これまで説明できなかった多くのこと――ここ数年の間に神の子供たちの多くが経験した、悪魔の超自然的働きの台頭――を説明することができます

これはまた、神からのものであると思われた「力のバプテスマ」が、どうして、深い謙遜、砕かれた霊、人々に対する優しい愛情、自己放棄を生み出さずに、個人的な力を誇示する「利己主義」という結果になりえたのかをも説明します。
(同上、第五章 魂的なものを「霊的」と呼ぶ危険性」)


以上のような警告を踏まえると、なぜ今日、Dr.LukeのKFCなどを含む、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが、自分たちは聖書の神を信じていると言って、「聖霊のバプテスマ」をしきりに主張しながら、他方では、公然と己の肉欲に邁進して、特権的で贅沢な生活を人前に見せびらかしたり、誰にも理解できない「異言」を人前で滔々と披露したり、他の人々を床に倒れさせたりするような、圧倒的な超自然的力を誇示することにより、自分たちが他のクリスチャンに比べていかに優れた存在であるかを誇示して自己満悦に浸り、自分よりも弱い信者を攻撃し、踏みつけにしては、隅に追いやろうとしているのかが理解できる。

それは彼らが受けた「霊」が、神の聖霊ではなく、人の内にもともと眠っている堕落した力に由来する自己高揚を目的とする偽りの霊だからである。

神の聖霊は必ず、人の自己をカルバリの十字架の死へもたらす。そこにあるのは悪魔的な高慢や、自惚れや、自己宣伝とは対極にある、キリストと共なる自己の死という究極の謙遜である。十字架は人の生まれ持った自己の欲望、自惚れ、自己義認、プライドなどに対する死の判決であり、これを経由した人にのみ御霊は注がれる。

主イエスが「御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」(ヨハネ16:14)と言われた通り、御霊はただキリストを証し、キリストに栄光を帰するのであって、人間の栄光を求めることは決してない。

このように、真に神の聖霊を受けた人々が、ただキリストだけが栄光を受けられるようにと願い、決して自己を証せず、自分自身の栄光を求めないのに対し、神の聖霊ではなく、悪魔に由来する「この世の霊」を受けた人々は、自分を高く掲げ、己の賢さ、裕福さ、他の人々にはない優れた賜物や、恵まれた特権的な地位などを誇って、自分がいかに他の信者に比べて別格の存在であるかを強調する。
 
それは自己高揚、自己栄化、自己義認、自己満悦などにより、人の自己を肥大化させて、神と人への反逆に至らせる高慢の霊である。
 
そのような偽りの霊を信じて受け入れた人々は、他者を押しのけて肉欲に邁進するだけでなく、必ず、やがて自分を神以上に優れた者とするという高慢に至る。彼らは、聖書の教義を歪曲し、贖い主であるキリストを否定して、自ら救いから除外されて行くだけでなく、やがて最終的には、「自分は神である(私はキリストである)!」と名乗ることによって、神の地位を乗っ取り、人々にまことの神ではなく自分自身を拝ませて、滅びの道連れにして行くのである。

こうした人々が神の裁きを免れて滅ぼされないで済むことは決してない。

人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ24:4-5)

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを 買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。

また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。
」(Ⅱペテロ2:1-3)

「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、
多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:18)



「東洋的な偽りの霊性」の危険 インドの行者サンダー・シングの霊に自己を乗っ取られたDr.Lukeとcandy氏

これまでにも述べて来たことであるが、聖書に登場する終末の背教の象徴であるバビロンとは、キリスト教と東洋的神秘主義思想の混合を指しているように筆者には思われてならない。

終わりの時代の背教においては、インドやアジアの「霊的指導者」たちの間で開拓されて来たような、人の生まれながらの「魂の力」に由来する偽りの「霊性」が、あたかも神の聖霊の働きであるかのように偽装して、キリスト教界に潜り込み、キリスト教との一大混合物を形成することが、大きな特徴をなすものと考えられる。

そのようにして「西洋キリスト教と東洋神秘主義思想とを合体」させようとする試みの一つが、「キリスト教には父性原理の排他性ばかりが強すぎて、受容する母性が足りない」などと主張して、あたかもキリスト教そのものに欠陥があるかのように述べて、これに東洋的な母性原理をつけ加えることによって、聖書の御言葉を骨抜きにしようとする運動である。

(ここで言う「母性的要素」というのは要するに「造られたもの(被造物)」としての人類(男から造られた者が女であるのと同様に、神から造られたものとしての人類)を象徴的に指しており、従って、これは堕落した被造物としての人類を神に「つけ加えよう」とする思想なのだと言える。)
 
すでに確認した通り、ペンテコステ・カリスマ運動はその一つであり、カリスマ運動の指導者である手束正昭牧師は、養子論的キリスト論を唱えてイエスの定義を歪曲し、聖霊を「母なる霊」とみなし、「聖霊のバプテスマ」を受けることによって、信者が高次元の存在に引き上げられ、「ナザレのイエスのように質の高い人生を生きることができる」かのように教える。

このような教えは、聖書の三位一体の概念や、イエスの概念を歪曲し、神の聖霊ではない
「異なる霊」との交わりを通じて、信者が神との合一に達しうると教える偽りの教えであり、もとは東洋的神秘主義に由来する「偽りの霊性」に信者を駆り立てる教えである。
 
(「神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。」(箴言40:6)
と聖書にあるにも関わらず、聖書や、聖書の神ご自身に不備や欠陥があるかのように主張して、何かを「つけ加えよう」とする者たちの精神の何と高慢で御言葉に逆らっていることか。)

さて、同様の危険が、サンダー・シングの教えにある。聖書の御言葉の知的学びを軽視し、「神(実在)との交わり」という個人体験を何よりも重視するサンダー・シングの教えは、ペンテコステ・カリスマ運動と基礎を同じくするものだと言える。

Dr.Lukeとサンダー・シングとの接触は、2008年頃に始まったものと見られ、同氏は「ニッポンキリスト教vs.サンダー・シング」(2008年1月12日)、「サンダー・シングの霊性」(2008年1月14日)、「サンダー・シングのことば」(2008年1月17日)などの一連のブログ記事で、愛知家のさっちゃん(名古屋のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信徒、現在は「十字架の恵みが溢れて2」を執筆するcandy氏)の紹介を通じてサンダー・シングの教えに傾倒して行った様子を自ら記している。

Dr.Lukeはサンダー・シングの教えを「東洋的霊性」として高く評価し、これを聖書に照らし合わせて検証・批判することなく、無批判にその教えを取り入れ、さらに標題からも分かるように、サンダー・シングの教えを霊的な潤いを失ったニッポンキリスト教界に対比させて、キリスト教界を非難する格好の材料として利用した。
  

「インドを愛したシング師は、西欧流のキリスト教ではなく、東洋の霊性に通じるイエスを再発見し、自分の生活と伝道のスタイルに、インドの行者サドゥーの形式を採り入れました。」

「西洋キリスト教ではなく、東洋的な霊性をキリストに見出したというあたりは、ウォッチマン・ニーとも通じる感じがしますし、私的には大いに惹かれるところです。」サンダー・シングの霊性」より抜粋


このように、Dr.Lukeがサンダー・シングの教えに無批判に傾倒して行った最大の原因の一つは、それが人の五感に巧みに訴えかける魅力的で「良さそうな教え」だったことに加え、サンダー・シングの教えの根底に、伝統的なキリスト教に対する敵意と侮蔑があって、個人的な神秘体験を通して、通常のクリスチャンにはかなわない霊的高みに到達し、それによって伝統的キリスト教を超越することができるかのような偽りが述べられていたことであったと見られる。

つまり、伝統的なキリスト教に対するサンダー・シングの容赦のない蔑みと非難の感情が、ニッポンキリスト教界に対するDr.Lukeの嘲笑と非難にぴったり重なったのである。

サンダー・シングは、インドの裕福なヒンドゥー教徒の領主の家に生まれ、幼い頃からサードゥーを目指してインドの古典的哲学やコーラン等の教えに通じ、また、ミッションスクールで教育を受けるなど、恵まれた英才教育を受けた。しかし、キリスト教に回心して後に、すでに書いたように、同氏は西欧キリスト教の「傲慢さ」や「排他性」に幻滅し、それ以後、東洋諸国の人々を対象に、「神は愛だから誰をも裁いたりなさらない」という、聖書とは全く異なる「愛と受容の(母性的)福音」を宣べ伝えた。

幼い頃よりヨーガやサマーディ(瞑想)などを習得していたサンダー・シングは、キリスト教徒を名乗るようになった後も、瞑想を通じて霊界と交信し、「神(実在)との交わりを楽しむ」ことを強調して、多くの神秘体験を経たことを著書に記している。同氏の著書『聖なる導き インド永遠の書』の約半分は、霊界における死霊との交流というオカルト的な話題に割かれており、こうしたサンダー・シングの教えは、明らかに、キリスト教と、東洋神秘主義が合体した混合の教えである。

Dr.Lukeは(candy氏もそうであるが)、その時期、時期によって複数の霊的先人の教えを積極的に取り入れては、その受け売りを繰り返しており、もともとそれらの引用のすべてが本人の内なる信仰と結びつかない、表面的な借り物に過ぎなかった可能性が高い。

場合によっては、それらのアイテムは、偽りの霊が自分自身を敬虔なキリスト教徒に偽装するために寄せ集めた飾りのようなものであった可能性も考えられる。
 
偽りの教えを信じる人々は、初めから自分たちが神やキリストであると名乗って反キリストとしての正体を現したりはしない。こうした運動の支持者たちは、信者たちの信用を得るために、自分たちが宣べ伝えている教えが、あたかも聖書に合致するキリスト教であるかのように見せかけるために、敬虔な信者たちの告白など、様々なツールを駆使する。

だが、彼らには一つの特徴があって、そのようにして、一方では、自分はクリスチャンの仲間であり、とりわけ熱心に聖書の真理を探究しているかのように振る舞いながらも、他方では、従来の伝統的なキリスト教全体に対する嫌悪や侮蔑を示して、自分たちは凡庸な信者たちの決して知ることのない霊的高みを実際に知っている別格の存在なのだと自分を誇示するのである。

すでに書いたように、筆者もcandy氏からサンダー・シングの教えを紹介されたが、この著書の危険性に気づいたため、candy氏とLuke氏の両氏に、このような聖書に反する偽りの教えを言い広めることは重大な罪に当たり、それを奉ずれば、自身の救いをも失う危険があるため、この偽りの教えを公に撤回して放棄することを強く勧めた。放置しておけば、必ずや、異端者の霊に人格全体を乗っ取られるであろうと判断したのである。

だが、時すでに遅く、同氏らはあまりにも深くサンダー・シングの教えに魅了されていたので、筆者の忠告を真に受けることなく、むしろサンダー・シングを擁護して筆者に異端者の濡れ衣を着せ、この危険な教えと公に手を切ることをしなかった。

その結果、何が起きたのかと言えば、両者ともに、聖書から公然と逸脱して、自分自身をキリスト(神)と同一視し始め、自己の神格化という現象が起きたのである。

以下にも述べるように、Dr.Lukeのメッセージには実に多くの点で、今日もサンダー・シングとの共通性が見られる。明らかに、サンダー・シングの霊に人格が乗っ取られて行く様子が、Dr.Lukeのメッセージ内容の変化から見て取れるのである。

Dr.Lukeがウォッチマン・ニーの教えに熱中していた頃には、同氏はまだ人類の罪や、キリストの十字架の贖いを公然と否定するまでには至っていなかった。しかし、同氏がサンダー・シングの教えを受け入れた後には、同氏の中からは、人類の罪や、贖いとしてのキリストの十字架と言った、生まれながらの人間にとって都合の悪い概念が消え失せ、サンダー・シングと同じように、自らを罪人と一体化するために死んだという、人間の罪を指摘しない、人間にとって都合よく歪曲された「異なるイエス」像と、「感覚世界において神の臨在を味わい、神との交わりを楽しむことによって、人は神と合一できる」という、サンダー・シングとペンテコステ運動に共通する神秘主義思想だけが残ったのである。

今日、サンダー・シングはすでに死んでいないが、その著書を通して、悪霊に由来する力を未だ読者に行使することが可能であるため、信者は注意しなければならない。以前にも書いた通り、サンダー・シングの文体には、東洋人の感性に巧みに訴えかける強力な影響力があり、その影響力は、ただ単に同氏の巧みな文章力から来るものではなく、サンダー・シングが生前に開拓した悪霊に由来するオカルト的な霊的影響力であるため、注意が必要である。
 
今日、悪霊どもは、サンダー・シングの文章を通して、サンダー・シングに見せたのと同じような、「偽りの霊界の幻」を、読者たちにリアリティであると信じさせようと狙っている。それと知らずに、信者が彼の著書をキリスト教の書物だと考えて手に取り、そこに描かれている魅力的で「良さそうな」幻想の世界に没入して行くと、サンダー・シングを導いていたのと同じ高慢の霊を、自分の中に取り入れてしまうことになりかねない。

サンダー・シングに限らず、鈴木大拙もそうであるが、東洋思想家の著書を引用するときは、特に注意が必要である。もし、その文章を聖書に照らし合わせて、その偽りを論破して、影響力を封じ込めることをせず、無批判に引用すれば、信者はその影響力を肯定して自分の内に取り入れてしまうことになる。
 
そのようなことが起きると、信者の内側に入りこんだ偽りの霊は、聖霊に偽装しながら、長い時間をかけて、宿主を欺き、徐々に宿主の人格と一体化して行く。悪霊は、時間の経過と共にその影響力を増し加え、やがて、時が来ると、宿主の人格を完全に乗っ取り、これを食い破る形で、聖書に反する自らの主張を公然と示し、可能な限り大勢の関係者を欺きに巻き込みながら、本人もろともに、神に対する反逆へと駆り立てて、破滅に至らせるのである。

そのようなことが起きないためには、信者は常日頃から自分の行う信仰告白の内容や、他者から聞いた教えを、良さそうだからといってすべて無批判に肯定することなく、常に聖書に照らし合わせて、御言葉との矛盾がないかどうかを点検・吟味し、聖書にそぐわない教えを拒み、これと訣別を宣言する必要がある。その作業をやめた場合には、たとえ信者であっても、次のようになることは避けられない。

「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住み着くのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」(マタイ12:43-44)

義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る。」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる。」とかいう、ことわざどおりです。」(Ⅱペテロ2:21)

<続く>

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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