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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑪

⑤ペンテコステ・カリスマ運動に基づき、キリストの十字架の贖いを否定するDr.LukeのKFC(Kingdom Fellowship Church)の異端性

少し本題から逸れるが、ここで、KFC(Dr.Luke's kingdom fellowship church)のメッセージに顕著に表れているペンテコステ・カリスマ運動の異端性について見てみたい。十字架を抜きにしたグノーシス主義的手法によって彼らがどのように神との合一に達しようとしているかを振り返りたい。

次の2015年8月16日の動画には、KFCの理念の異端性が余すところなく表れている。わざわざ他の動画を見て分析する必要もなく、この動画だけで、KFCの現時点でのほぼ全ての主張をカバーできるのではないかと思われるほど、盛りだくさんの内容である。
このメッセージを少し聞いただけでも、聖霊と異言の価値を強調するこの団体がペンテコステ・カリスマ運動の深い影響を受けていること、そして、この団体がすでにキリストの十字架を完全に見失い、聖書とは「異なる福音」を宣べ伝えており、自分たちを「神々だ」と自称するまでに至っている様子が誰にでもすぐに見て取れるからだ。

視聴は全く勧めないが、KFCがすでに異端化していることを示す明白な証拠としてここに挙げておく。



 



・原罪とキリストの十字架の贖いの否定

Dr.Lukeはこの動画において、人間の罪という問題を完全に否定して、生まれながらの人間が神の中に生きていると述べている。魚が水の中に生まれ、暮らしているように、人はみな神の中に生まれ、生きているのだと。

人にとっての神とは、魚にとっての水のようなもので、たとえ人がどんなに神を否定しても、その人が神の中に生まれ、生きている事実は変わらないというのである。
 

「魚ってたぶん水の中にいる意識ないんですよ。でしょ?ないですよ。そこがもう全てですから。ぼくらは空中にいて水の中っていう区別がるから、あ、今、水の中だって分かるんだけど。生まれた時から水の中にいる人にとっては水の中だってことが分からないんですよ。そうでしょ? でも感じることはできますよね。こうやってやると、水、抵抗もあるし。

神も同じです。使徒行伝の、あれ、パウロが、エペソでしたっけ、パウロがあのしじ、しじ、詩人の詩を聞いてさ、「人はみな神の中に生きている」って言っているわけ。
我々は神の中に生まれていたんです。人ってのは、ぜんぶ神の中に生まれているんです。だから神の存在が分かんないんですよ。

世の中の人もね、信じてない人も、神の中にいるんです。パウロもそういっているもの。あの「名前も知らざる神のために」っていう詩人のあれを引いてさ、あなたがたはこういう感受性がおありだと。

我々は神の中に生きている。人はみな神の中に生きている。我々は神の中に生きている。神の中に生まれていた。世の中に「神はいない」と言ってる人も、ほんとは、神の中にいるんです。
魚も同じです。」(2:16:48-2:18:27)


むろん、これは神と人との断絶という聖書の真理の事実上の否定であり、人の原罪の否定、同時に、キリストの十字架の贖いの否定である。

パウロが引き合いに出した「知られない神に。」と刻まれた祭壇(使徒17:23)は当然ながら異教の神々を奉じるギリシア人の汎神論的な考えを引き合いに出しただけであり、彼らの考える神の概念を肯定したものではない。また、「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」(使徒17:28)というパウロの言葉も、確かに人は神に創造され、神の栄光を表す被造物に囲まれて生きているという点では、自分で自覚せずとも、被造物を通して神の栄光を見ているわけだが、だからと言って、その言葉を拡大解釈して、被造物全体の堕落という聖書の事実を無視して、物質世界に生きている全ての人間が、キリストの十字架での罪の贖いを信じることなくして、神の子孫になりうるかと言えば、そのようなことは決してない。

パウロはギリシア人の神についての熱心さを利用して、まことの神に注意を向けさせようと語ったのであって、異教の神々を信じるギリシア人が、キリストを知らなくとも、知らずに拝んでいる神によって救われているとか、すべての人が信仰なくして「神の中に生きている」と言ったわけではない。

別の個所でパウロははっきりと述べている、「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:3)

「罪過の中に死んでいたこの私たち」(エペソ2:5)
という言葉が示すように、聖書によれば、キリストの贖いを信じない人間は、みな「罪過の中に死んでい」るのであって、「神の中に生まれて」もいないし、「神の中」にもいない。それどころか、「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない」、神に対しては無価値で死んだ、神との交わりを全く持たない「生まれながらに(神の)御怒りを受けるべき子ら」なのである。人はいかに神の創造としての物質世界に生まれ、生きていたとしても、罪によって神と断絶しており、己の罪を悔い改めて、十字架の贖いを信じて受け入れることによってしか、神に立ち返る道はない。

ところが、Dr.Lukeはこのような聖書の基本とクリスチャンの初歩的な認識さえも失って、人間の原罪を否定する。そうすると、当然ながら、人類の罪を認めないのだから、人類の罪を贖うためのキリストの十字架の意味も否定されることになる。このメッセージ全体を通して聞いても分かることであるが、Dr.Lukeはすでにキリストの十字架には全く言及していないのである。彼の「キリスト」からは十字架の贖いが完全に消し去られているのである。

このことから、Dr.Lukeはもはや人が罪によって神と断絶しているという聖書の事実を認めない立場に立っていることが分かるのである。もし十字架が語られていたとしても、そこにはもはや罪の贖いとしての意味はない。そして、人は神を認めようが認めまいが、キリストの救いを信じようが信じまいが、みな「神の中に生きている」と言うのである。これは、人がキリストの十字架の贖いを通さずとも、自力で神に回帰する道があり、人は本来的に神と同一であるとするグノーシス主義の教えである。



・汎神論的かつ東洋的な「慈愛の神」の概念


さらに、Dr.Lukeは、「神」の概念を、「魚にとっての水」にたとえる。同氏の言う「神」とは、人格を持ったお方というよりも、人間を包み込む環境全体、もしくは人間を浸すプールの水のようなものに近い。そうなるのは、Dr.Lukeがこの「神」を人格を持った父なる神、子なるキリストとしてではなく、むしろ「聖霊」としてとらえているからである。明らかに、KFCはペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けて、「聖霊のバプテスマ」を重視し、「聖霊に浸される」という経験を、「神の中に生きている」ことと同一視しているのである。
 

「魚も、生まれつき水の中ですから、自分が水の中にいるなんて意識はないんです。だけど水がないないって言ったって、水の中にいるだろうと。同じ。神がいないいないと言ったって、あなたは神の中にいるでしょう。そう、神の中にいるのが、感じられると言ったわけ。

神がここに満ちている。神は遍在されるお方でしょ。<中略>ダビデは「あなたの霊、どこへ行けば、あなたの霊から逃れることができましょうか。どこへ行っても、あなたの霊の中にわたしはいます」と。もう我々は神の霊の中にいるんですよ。」(2:18:18-2:19:13)


 そのように、人が水の中に浸されるように、どこへ行っても、神は満ちておられ、人は神の霊の中に包み込まれ、神の慈愛の中に浸されて生きている、という認識は、聖書の神ではなく、むしろ、東洋的な神の概念に合致するものである。Dr.Lukeは続ける、
 

「神はそれくらいに近いんです。主は近い。ぼくらはこの神の中にいて、神のいつも慈愛を感じるんです。神のfavourを感じている。あなたのことをいつも見ている、あなたのことをいつも思いはからっている、あなたの人生をすべてわたしが導いている、わたしはあなたの主である、あなたの父であると。この感覚がこっから伝わってくるわけよ。危ないねえ。」(2:19:47-2:20:25)


 こうした「慈愛に満ちた神」の概念には、人間を罪定めしたり、罰したり、懲らしめ、訓戒したりする厳格な父なる神の性質、裁き主、贖い主としての神の側面はない。そこで、これは聖書の神の概念というよりも、むしろ、「東洋的な神」のイメージであり、ちょうど国家神道における「神と人との和」、「人と自然との和」で語られている「神」の概念に驚くほど酷似している。
 
『国体の本義』の「神と人との和」における東洋の神の定義をもう一度読んでみよう。
 

更に我が国に於ては、神と人との和が見られる。これを西洋諸国の神人関係と比較する時は、そこに大なる差異を見出す。西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのてあつて、こゝに我が国の神と人との関係と、西洋諸国のそれとの間に大なる差異のあることを知る。<中略>

我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である又この和は、人と自然との間の最も親しい関係にも見られる。我が国は<中略>、他国には見られない美しい自然をなしてゐる。この美しい自然は、神々と共に天ッ神の生み給うたところのものであつて、親しむべきものでこそあれ、恐るべきものではない。そこに自然を愛する国民性が生まれ、人と自然との和が成り立つ。」


 要するに、これは万物には神が満ちているという汎神論的な考えであって、すべてのものはみな同じ神から生まれ、神の中に調和しており、世界は神の中に一つであり、人もその中に一つとなって調和して生きているという考えである。

これが東洋思想における「神」の概念であるが、Dr.Lukeもこれと同じように、聖書にはっきり記されている人間の罪を語らず、神と人との断絶を語らず、キリストの十字架を語らず、神の裁きを語らず、神をただ人間にとって優しく親しみ深い、常に慈愛を垂れ、感謝される、人間にとって恐ろしくもなければ、脅威ともならない存在へ変えてしまう。そして、そのような慈愛の神があらゆるところに満ちて偏在している、と言うのである。そして、聖霊を通して、人はそのような神の愛に浸され、神の御言葉の実体にあずかれると言うのである。

サンダー・シングも全く同じような形で、汎神論的な概念で神の遍在性を主張している。
 

「神が存在するところには、天国あるいは神の国がある。だが、神はどこにも存在するので、天国はすべての場所にあるこのことを知っている真の信仰者はどこにあっても、どのような状態いあっても、苦しみや困難に見舞われているときも、友の中にいるときも敵の中にいるときも、現世にあっても来世にあっても幸せである。彼らは神の中に住み、神もまた彼らの中に永遠に住まわれる。これこそ神の国である。」(『聖なる導き インド永遠の書』、林陽訳、徳間書店、p.304-305)


 



・キリストの贖いと、キリストの完全な神性と人性の否定

だが、そんな考えでは、キリストは一体何のために地上に来られたことになるのか? Dr.Lukeは言う、父の独り子が「わたしたちと共有点を持つために人となった。」と。

「イエスは本質的にももちろん、神の独り子です。ですよね。ロゴス。初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。ですから、永遠の初め、あの初めっていうのは、創世記の初めとは違うよ。創世記の初めは時間の始まり。だからこういう、立ってる端っこです、時間の端っこ。だけど、ヨハネの言う初めは、時間とか空間がなかった初めです。
永遠に。その時からもうロゴスはすでに父の懐の中にいた。父の独り子だった。だから、この点においてイエスはユニークです。

だけど、わたしたちと共有点を持つために人となった。幕屋を張った。書いてあるよね、あの「人となられた。肉体となった」というのは原文では、「幕屋を張った」です。幕屋を張って、
その幕屋は私たちと全く同じ、人間。そして、その中におられた聖霊は、人間生活を経験して下さった霊なんです。だからただ単なる旧約における神の霊としてではなく、人間、イエスの中にいて、人間性を知っておられる霊なんですよ。」(2:29:17-2:30:17)


 だが、当然のことであるが、聖書は、キリストが「人間であるわたしたちと共有点を持つために人となった」とは全く言っていない。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。 これが時至ってなされたあかしなのです。」(Ⅰテモテ2:5-6)

神がその独り子を世に遣わされた目的は、人類の罪の贖いのためである。イエスは神の御前に永遠の贖いとして供えられた小羊である。ところが、Dr.Lukeはキリストの受肉から、十字架の贖いという目的を取り去って、全く別の説明をはめ込む。

つまり、キリストが人となられたのは、人間と共有点を持つため、つまり人間に近しい存在となるため、だというのである。このような考えは、以下のサンダー・シングの主張にぴったり重なる。
 

わたし(筆者注:イエスのこと)は、人のために人となった。彼らが神を知るようになるためである。恐ろしい異質な者としてではなく、愛に満ちた、人に似たものとして世に現れた。人は神に似て、神の姿に象られたからである。

人はまた、自分の信じている神、自分を愛してくださっている神に会いたいという、自然な願いをもっている。だが、父を見ることはできない。父のご性質は人の理解を超えているからである、父を理解するには父と同じ性質をもたねばならないからである。一方、人は理解できる被造物であり、それがため神をみることはできない。だが、神は愛であり、その同じ愛の力を人にお与えになっているため、愛の渇きを満たすために、神は人に理解できる存在の形をとられたのである。こうして、神は人となった。(『聖なる導き インド永遠の書』、p.200)


サンダー・シングのこの記述は、「西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのてあつて、<中略>我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である。」という国家神道が述べる東洋的な神の概念にも合致するものである。

こうして、Dr.Lukeは、聖書の神の概念を東洋的な慈愛に満ちた神へとすり替えることによって、キリストの受肉の意味をも、人間にとって極めて都合の良い概念へと変えてしまったのである。すなわち、キリストの受肉の目的は、ただ神が人間に近しい存在となって人間と共有点を持つことにあったとすることによって、キリストがその十字架の死において、父なる神から人類に対する刑罰を身代わりに受けられることによって、その贖いを信じる者を永遠の滅びと裁きから救われたのだという事実を覆い隠し、人類の罪を否定し、その罪に対する神の刑罰としての十字架を否定し、信じない者に定められている永遠の滅びも否定する。そして、聖書の神から、このような「恐ろしい側面」を全て除き去って、人間にとってひたすら心地よく、都合の良い、人間を脅かさない「慈愛に満ちた神」の概念を作り出すのである。

Dr.Lukeは言う、キリストが人となられた肉体(幕屋)は「私たちと全く同じ、人間」であると。しかし、この言説も、誤りである。カルケドン信条には、キリストの人性について、「人間性においてわれわれと同一本質のものである。「罪のほかはすべてにおいてわれわれと同じである」」と定義されており、ここに「罪の他は」という、決して見落としてはならない極めて重大な相違点がある。

カルケドン信条のこの箇所は、聖書の次の御言葉を基本としている。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)

このように、人間にはキリストにはない「罪」が存在する以上、キリストは「私たちと全く同じ人間」であるとは言えないのである。にも関わらず、Dr.Lukeが言うように、キリストが「私たちと全く同じ、人間」になられたとするならば、キリストは罪人となられたということになってしまう。

サンダー・シングはこの点でもっと大胆に、「キリストは、われわれのために罪人となり、罪人の死をお通りになった。」(『聖なる導き インド永遠の書』、p.292)と明言する。これはキリストの神性を否定し、キリストを罪人の一人へと貶める記述である。前にも述べた通り、サンダー・シングはここでキリストの十字架を、冤罪によって殺された無実の人間の死と同じように解釈し、キリストは罪人たちへの愛のゆえにすすんで罪人と同化しようと、喜んで濡れ衣を着せられて処刑されることに同意したのだ、と主張する。
 
他方、カリスマ運動の指導者である手束正昭氏も、養子論的キリスト論に基づいて独自の主張を展開し、キリストは元来、単なる人間に過ぎなかったが、聖霊を受けることによって、神性を帯びたのだ、としている。
  

「養子論的キリスト論は『霊のキリスト論』とも呼ばれ、それは聖霊論的キリスト論です。つまり、人間なるイエスがある時を境にして、聖霊の圧倒的な注ぎを受けて神の養子として引き上げられたというのが、“養子論”の一般的な理解である。 このいわゆる養子論の系譜にありつつも、その生涯の発端から聖霊の圧倒的な注ぎを受けて神の養子として引き上げられていたというのが『霊のキリスト論』であり、養子論的でありつつ、いわゆる養子論とは異なる使徒教父たちに強く見られるキリスト論である。
そして“受肉論”が神とキリストの連続性を見ているのに比べて“養子論”の場合はむしろキリストと私達の連続性、しかも聖霊の役割の大きさということが注目される。
(『続 キリスト教の第三の波―カリスマ運動とは何か―』、手束正昭著、キリスト新聞社、1989年、p.17)

 

ペンテコステ・カリスマ運動の影響を強く受けたDr.Lukeの言説も、今や、手束氏と同様の意味を持つものであると言える。まず、罪の問題を曖昧にしたまま、キリストが「私たちと全く同じ、人間」になられた、と主張することは、事実上、キリストを罪人の一人に貶めることに等しい。もしそうだとすれば、我々と全く同じ人間として生まれたキリストに、後天的に神性を付与したのは誰なのか、という問題が生じる。それが手束氏が言うように、ペンテコステ・カリスマ運動では、聖霊の役割だとみなされるのである。



・神の戒めを守ることよりも、正体不明の「霊」に浸される恍惚体験を「礼拝」にすり替える

Dr.Lukeは、以上のように、ペンテコステ・カリスマ運動がしきりに強調する異言を特徴とするいわゆる聖霊のバプテスマと同様の体験を通して、信者が水の中に浸されるように、「霊」の中に浸され、「神のfavour」(愛顧)を感じながら、フワフワした恍惚体験の中に自己放棄し、自分でも理解できない言葉をしゃべり続けながら、一種の神がかり状態に陥って悦楽に浸ることが、神との交わりであり、礼拝である、と言う。

Dr.Lukeは自分自身の「神」観が、以前とは全く違うものに変わったことを、自ら告白している。

以前には、明らかに、同氏の信仰はまだ、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」(コロサイ1:27)という認識にとどまっていたが、いつの間にか、それが汎神論的な意味において「どこにでも偏在しておられる神」という概念にすり替わり、「魚が水の中に生きるように、私たちは神の霊の中に浸け込まれている」という感覚的なものに変わって行ったのである。

そして、「神はここにおられる。ここに。ほら」と、自分たちは神のうちにいて賛美しているのだと言うのである。
 

「最近ね、ぼく変なんですよ。前はほら、内側に主がいてね、平安とか安息とかは内側で満たして下さるって。今はここなんですよ。とにかくね、ぼくね、おかしいって言われるほど 見えるわけよ。神が見てくれてる。父が、ほら、感じるわけよ、ここに。もう父が迫るわけ。」(2:16:10-2:16:48) 
神はここにおられる、ここに。もう、ほら、こう近寄って来られる。我々が賛美している時には、神は喜んで下さっている。これが、ここで感じられるわけ。私たちは、神のうちにいるんです。そして、神の愛顧、favourにあずかっている。神の愛が、みなさんの中に絶えず注がれている。これがあまりにも当たり前になっちゃってると、感じられなくなっちゃうんですよ。水の中にいる魚は感じないでしょ。

だけどある時ふってこう主のところへ向くわけですよ。水の中で手を動かしてみると、あ、水の中にいる。神の中にいる。だから、手を挙げるってことはものすごく大事。前回も言ったけど、これはsurrenderです。

そうすると、神がふってこう近寄って来るわけ。ふわってこう触れてくれる。そういう神との経験、これを我々、味わえば味わうほど、クリスチャンはjuicyになります。freshになります。パサパサじゃなくて、筋々じゃなくて、juicyなクリスチャンになるんですよ。ハレルヤ。それが人に何か潤いを与えるわけ。juicyなステーキ。Amen? 神が食べたいのは、juicyなステーキです。

そのために、浸けてくれるわけ、ご自分の霊の中に。みなさんを浸け込んでくれてるんですよ。
だから、worshipでsurrenderしてパ~っと委ねちゃうとき、チューニングして、自然と祈りも出る、声も出る、異言も出る。自然と内側が満たされる。そういう経験をそれぞれが味わってるわけ。これが、礼拝なんです。

こんなもんじゃないですよ。祝祷とか言ってね。ああいう儀式じゃないんです。ハレルヤ。生ける神との関係ですから、生ける神が皆さんを満たすことですから、そのお方に感謝と賛美を捧げることが、celebrationです。」(2:20:25- 2:22:54)


こうなってはもう完全に荒唐無稽な主張である。Dr.Lukeがやたら多用しているカタカナ英語にも注意が必要なのは、そこには大抵、聞きなれない用語で人の思考を煙に巻こうとするがごとくに、概念のすり替えが満ちているためである。

たとえば、上記のメッセージでは、「明け渡す、委ねる、服従する」(surrender)という言葉の意味は、御言葉への従順を通して父なる神の御旨に従うことではなく、ただ単に「手を挙げる」という、ほとんど何の意味を持たないアクションにすり替えられており、信者が手を挙げさえすれば、神の方から近寄って下さる、と言う。

多くの場合、Dr.Lukeはこのように人の行動とその背景にある動機や意味をバラバラに切り離して、ほとんど何の意味も持たない表面的な現象や行動の重要性だけを強調することによって、人が自ら御言葉に基づいて自分の行動を決め、一貫性をもって行動することの重要性を覆い隠してしまう。

つまり、現象と行動の重要性ばかりをひたすら強調し、その意味を軽んじることによって、信者が深い意味の裏づけなしにただ行動することを促すのである。異言の重視も、後述するように、その一環であり、意味不明の言葉を語り続ける重要性をひたすら強調することによって、言葉というものが、本来、意味と一体である事実を見失わせる。聖書の御言葉は神の命令であり、当然、一定の目的と意味を帯びている。意味を持たない御言葉というものは一つもない。だが、誰にも理解も解釈もできない異言という、意味を持たない音声の羅列を「神の言葉」として弄ぶことによって、言葉と意味を切り離し、何の目的も思考の裏づけもない、歌詞もなければ旋律もない歌のような無目的で空虚な音声作りに時間を費すのである。

礼拝についても、Dr.Lukeは神への崇敬の意味を強く持つ「礼拝」(worship)という言葉を意図的に避けながら、「祝賀、祭典」と言ったお祭り的な意味合いの濃い”celebration"を多用する。早い話が、感覚的高揚感ばかりを強調して、非日常的なお祭り体験、神がかり的な自己陶酔に、信者が理性を眠らせて身を委ねることが、神への礼拝であり、神との交わりだというのである。

こうして、人に自分で物事をきちんと考え、吟味することをやめさせ、信者の思考や知性を意図的に眠らせて、信者が疑うことや、警戒心を持つこと、識別力をもって自分で物事を考察し、行動を注意深く律する努力を自ら放棄させて、幼子のように無防備・無分別の状態になって、自分を開放して何者か分からない「霊」の導きに受動的に身を委ねるようにさせるというのは、礼拝というよりも、原始宗教レベルの「祭り」と呼んだ方がふさわしいと思うが、こうした神がかり状態を作り出すことは、ペンテコステ・カリスマ運動には極めて特徴的であって、それがこの運動では「聖霊のバプテスマ」と呼ばれ、聖霊が降臨した状態だとされるのである。

Dr.Lukeの言う「霊の中に浸け込む」というのも、「聖霊の(中に)バプテスマ(する)」という意味である。つまり、「聖霊のバプテスマ」を通して(彼らが)「神のことば」(とみなしている)異言を語りながら、恍惚状態となり、現実逃避のように自己放棄した一種のトランス状態に陥ることを通して「生ける神との関係」を持つことができ、神との合一体験を味わい、神に「感謝と賛美を捧げる」ことができる、というのである。

だが、次に述べるように、ペンテコステ・カリスマ運動の「聖霊のバプテスマ」のように、人の理性的思考を眠らせて、感覚的高揚感、陶酔感、恍惚体験に受動的に身を委ねさせる教えは、まさに人の主権を放棄させてそこに入りこもうとする悪霊の欺きのテクニックなのである。

神の聖霊は決して人が理性や知性を眠らせて、自分の主権を放棄し、全ての現象の源を御言葉に照らし合わせて吟味・識別することなく、正体不明の霊のもたらす感動体験にただ受け身に身を任せるよう促すことはない。なぜなら、聖書は、「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」(Ⅰヨハネ4:1)とあるように、信者が目を覚まして、自分の理性を働かせ、すべての霊が本当に神から来たものであるかどうか、自ら吟味し、識別するよう教えているからである。

悪霊も奇跡を行うことができる。人に好ましい感覚体験をもたらすからと言って、それが神から来た霊なのかどうかは調べてみなければ分からない。玄関のドアを無施錠で開放しておけば、泥棒も詐欺師も自由に入って来るであろう。そんな無防備な状態が信者にとって理想のはずがない。



・羊を「juicyでfreshなステーキ」にして味わうことを欲する貪欲な狼

しかし、Dr.Lukeのメッセージでは、常にキリスト教界に対する嫌悪と共に、プロテスタントの礼拝に顕著に見られる、信者が御言葉を朗読しながら、自分の知性によって御言葉の意味を理解する過程は脇に追いやられ、キリスト教界の礼拝儀式は真の礼拝ではないとして否定され、特にキリスト教神学は強い嫌悪をもって退けられる。上記のメッセージでも、Dr.Lukeは、キリスト教の神学理論にことさらに強い嫌悪感を示し、「肉汁の抜けて乾燥した筋だらけの肉」にたとえ、無価値なものとして一蹴している。

同氏は、神学及びキリスト教界のクリスチャンは「肉汁の抜けたステーキ」のように「筋だらけでパサパサで、美味しくない!」のだと揶揄する。そして、クリスチャンの人生は「juicyで美味しい」ものでなければならない、と言う。
 

「クリスチャンの人生は、美味しい人生です。これね、最近、いいたとえを思いついたの。ステーキで、ほら、肉汁が抜けちゃったステーキってあるじゃないですか。パサパサの、筋だらけのやつ。ね? 神学だとか、ね、何とかだとか、筋だけなんですよ。あんな何とか神学だとさ、バルトとか、ブルトマンだとかさ、あんなの読んでみなさん、内側が潤されますか? 筋です。美味しくない! 

ステーキが美味しいのは、肉汁が、juicyなステーキが、美味しいんでしょ。そのjuicyさを生み出すのは、聖霊です。聖霊が流れるとき、我々の内側に流れるとき、それが甘さであったり、平安であったり、喜びであったり、私の内側に、神の愛の実体、神の愛のサブスタンスを私の経験にして下さっているわけですよ。それがjuicyなんです。美味しいんです。

美味しいクリスチャンになりましょう! 筋のクリスチャンはもういいから。筋ばっかり…。美味しくない! 我々はjuicyにね、流すんです。美味しく、juicyなオーラを醸すんです。Amen? 」(2:11:43-2:13-27)


 

そういう神との経験、これを我々、味わえば味わうほど、クリスチャンはjuicyになります。freshになります。パサパサじゃなくて、筋々じゃなくて、juicyなクリスチャンになるんですよ。ハレルヤ。それが人に何か潤いを与えるわけ。juicyなステーキ。Amen? 神が食べたいのは、juicyなステーキです。」(2:21:12-2:21:58)


 果たして、このような主張にどんな聖書的裏づけがあるのだろうか?
美味しい」という表現は、当然、食べる主体がいてこそ成り立つものであるため、この文脈では、クリスチャンは誰かに「食べられる対象」だという事になる。

では、信者を「食らう」のは誰なのか。信者を「美味」だとか「不味い」とか判断するのは誰なのか? 信者は誰のために「美味しいクリスチャン」になるべきだと言うのか? Dr.Lukeは、「神が食べたいのは、juicyなステーキです」と言う。しかし、聖書の神はそんなことを信者に一度も要求してはおられない。

聖書が一貫して信者に教えるのは、御言葉に従うことによって、信者が父なる神の戒めを守ることである。キリストの愛の中にとどまることは、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが言うような「霊のバプテスマ」の中で自己陶酔に陥ることによるのではなく、ただキリストのいましめを守ることによってのみ可能である。

「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)
 
主イエスは、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:1)と言われる方であり、ご自分の羊を食い物にされることはない。聖霊もそのようなことを信者に求めない。にも関わらず、Dr.Lukeは、こうした御言葉を全て無視して、神が願っておられるのは、信者が神にとって「juicyなクリスチャンになる」ことだと言う。だとすれば、同氏の言う「羊を食する『神』」とは、一体、何者なのか?
 
そこで、真っ先に思い浮かぶのは、次の御言葉である。

「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い気は悪い実を結びます。」(マタイ7:15-17)

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを 買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」(Ⅱペテロ2:1-3)
  
つまり、羊を食らい、なおかつ、羊が「肉汁の抜けた筋だらけのパサパサの肉では不味いから嫌だ」と不平を言い、羊は「肉汁たっぷりのjuicyでfreshなステーキでなければならない」と注文をつける者は誰かと言えば、むろん、羊を食い物にするためにやって来た貪欲な狼以外にはない。つまり、偽預言者である。

従って、Dr.Lukeが、「神」という言葉で指しているのは、自分自身なのである。次稿でも確認するように、Dr.Luke及びKFCは自己を神としているのであって、つまり、自分を満足させる餌食となるために、信者は「美味しいクリスチャンになれ」と言っているわけである。

そんな偽預言者としてのDr.Lukeが、キリスト教神学に嫌悪を催すのは当然であろう。なぜなら、たとえ昨日クリスチャンになったばかりの信者であっても、キリスト教の教義の初歩の初歩に目を通しただけで、人間の罪も認めず、キリストの十字架の贖いも否定し、信者を食い物とみなすDr.Lukeの言説が「滅びをもたらす異端」であり、「自分たちを買い取ってくださった主を否定する」ものだということは、火を見るよりも明らかだからだ。
 
そこで、Dr.Lukeのキリスト教神学に対する憎しみの動機となっているのは、聖書の正統な教義そのものへの憎しみなのだと言える。正統な教義に照らせば、自分の言説がことごとく異端であることがすぐに暴かれると分かっていればこそ、同氏はキリスト教とその教義全体に強い嫌悪と拒否感を示さずにいられないのである。

その背景にあるのは、聖書の御言葉そのものへの憎しみである。同氏は御言葉の意味を可能な限り、歪曲するか、除き去りたいのである。神学は、人が解釈したものとはいえ、聖書本体の形を多少はとどめている。Dr.Lukeは自分自身が本当は偽クリスチャンであればこそ、神学、礼拝、キリスト教全体に向かって、絶えず嫌悪と呪いの言葉を吐かずにいられないのである。



己の欲に従って生きるために聖書の御言葉の二分性を否定する

Dr.Lukeの神学蔑視・軽視の姿勢はサンダー・シングにも合致する。サンダー・シングもまた、聖霊から力を付与されて神の実在との交わりを個人的に楽しむことこそが、信者に最も必要なことであり、それがキリストの証人になる秘訣であって、この単純な生き方を複雑な哲学的教えに変えてしまうような者は、不信仰であり、病にかかって死ぬ、と述べる。サンダー・シングは聖書学者たちを批判して次のように述べる。
 

「彼らの地上的知恵と哲学そのものが、霊感を受けた聖書記者たちの深い霊的意味を知るのを難しくしているのである。彼らは、文体や年代、記者の特徴といった外側の殻ばかりをつつき、「実在」という核は調べずにいる。

 これに対して、真の実在の探求者は、聖書にまったく異なる取り組みをする。彼は実在との交わりのみを願い、いつ、誰の手によって福音書その他が書かれたかというような、ささいなことにはとらわれない。使徒たちが聖霊に動かされて書いた神の言を手にしていること、その真理たる証拠は歴史や論理に拠るものではないことを、彼らは知っている。<略>彼が求めるのは実在のみである。神との交わりの中に彼は真の生命を見出し、神における永遠の満ち足りをみる。
(『聖なる導き インド永遠の書』、p.426-427)

「<略>単純な信仰を持つ人は単純な心の糧を食べて、神の言葉、聖霊から力をいただく。彼らは人を助け起こすことに人生を費やし、完全な健康と幸せ、平和の中に生き続ける。しかし、このような単純かつ普遍的な心理と実在を、複雑な哲学的教えに変えてしまう者は、疑惑や不信仰といった消化不良にかかりやすい。どれほど魅力的にみえようと、このような哲学は栄養過多で心の糧とはならない、それを食べる者は、実在と交わる体験を楽しむこともなく病にかかり、ついには死ぬことになる。」(同上、p.427-428)


確かに、神学の中には無駄なものもあろう。キリスト教界の儀式的礼拝にも無駄はあろう。
 
しかしながら、そうしたキリスト教界の不備を指摘するという意味合いをはるかに超えて、Dr.Lukeやサンダー・シングの言説が持つ重大な危険性は、「実在と交わる体験を楽しむ」とか、「神との経験、これを我々、味わえば味わうほど、クリスチャンはjuicyになります。freshになります。」などと、信者が自分にとって都合の良い、感覚的に好ましい非日常的恍惚体験ばかりを強調することによって、そうした体験の出所を吟味し、それが本当に神から来たものなのか、悪魔に由来するものではないのか、御言葉に照らし合わせて識別する作業まで退けてしまうことにある。

これまでにも、鈴木大拙や、『国体の本義』などを例に挙げて指摘して来た通り、もともと東洋文化の中には、西洋のように分析的・知的に深く考えることを厭い、直観的・行的にものごとをとらえようとする性質がある。

東洋には、知的な分析や、深い考察を「難しい」という一言で退け、全く受けつけようとしない風潮さえある。もっと言うならば、鈴木大拙が述べているように、そのような知性による把握は人間の本性に反するという考えがある。そのため、知的分析や考察に無意識のうちに嫌悪を示す精神性が受け継がれて来たのである。
 

これを要するに、西洋の学問や思想の長所が分析的・知的であるに対して、東洋の学問・思想は、直観的・行的なることを特色とする。それは民族と歴史との相違から起る必然的傾向であるが、これを我が国の精神・思想並びに生活と比較する時は、尚そこに大なる根本的の差異を認めざるを得ない。」「国体の本義」、結語、新日本文化の創造、より抜粋

人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を再先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。」(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、p.195)


 そこで、Dr.Lukeやサンダー・シングやペンテコステ理論のように、聖書の御言葉を知性によって分析し、深く考察することなく、ただ「神との交わり」を感覚的・直観的にとらえて楽しむことこそ信仰生活の要であるとする主張は、もともと東洋人の以上のような感性に合致しているため、非常に好ましく響くのである。特に、常日頃から深く物事を考えることを嫌っている人たちには、このような主張は、自己弁明、自己正当化の意味も合わせて、まことに都合が良いのである。

そのような人々は、ペンテコステ理論のような話を聞くと諸手を挙げて賛成し、ほとんど思考停止と言って良い受動性に陥り、今までよりも一層、自分の感覚を中心に全てをとらえるようになり、御言葉に従ってすべての物事を吟味、識別するために、「目を覚ましている」ことをやめてしまう。

その結果、何が起きるかと言えば、「理性的、知性的、分析的」なものを嫌い、「情性的・意欲的、直観的、行的」なものばかりを重視するようになり、常に自分の情と感覚を頼りに物事を把握しようとして、自分にとって感覚的に好ましいものだけを「良い(=正しい)」ものとして受け入れ、自分の感性にとって不快と感じられるものを「悪い(=誤っている)」と決めつけて退けて行くことになる。そうなると当然、物事の判断が極めて主観的、短絡的、幼児的、自己中心的にならざるを得ず、受け入れる物事の範囲も極端に偏り、狭まって行く。判断力も著しく低下して、自分の感性を喜ばせてくれないものにはすげなくそっぽを向きつつ、情と感覚に訴えるしかけさえあれば、安っぽいメロドラマのような作り事の筋書きにも、疑うことなく飛びついては欺かれるということの連続になる。どんな物事をも疑いをもって慎重に吟味し、識別することをやめて、自分の感覚の奴隷となるので、理性・知性のブレーキが全く効かなくなる。

次の御言葉は、そのように自分の感性を満足させてくれる教えばかりを求めて、聖書の真理から空想話へ逸れて行く人々について警告している。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ4:3-4)

ペンテコステ・カリスマ運動の言う「聖霊のバプテスマ」や、サンダー・シングの語る様々な英雄譚のような逸話などは、まさに「空想話」の筆頭格に該当する。それは人の五感には心地よく響き、何らかの高揚感や、感動、恍惚感を実際にもたらすかも知れない。だが、最も重要なのは、果たして、それが神から来た真理なのか、それとも悪魔から来た偽りの影響力なのか、という区別である。

東洋思想は、「人間の本質は、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。」として、聖書の御言葉の二分性に基づく知的な分析や考察が、あたかも人間の本質にかなわないものであるかのように主張する。だが、本当にそうであろうか?

聖書はむしろ、最初から最後まで、人間の情や思いや感覚の方が、よほど欺きに満ちていることを教える。人類に対する悪魔の最初の誘惑は、人間の感覚的欲望に訴えかけることを通してもたらされたのである。

「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」


そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。

そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかったそれで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」(創世記3:1-6)

エバが蛇にそそのかされて取った、食べてはならないとされた木の実は、他の木の実に比べても、とりわけ"juicy”かつ"fresh"で、「美味しそう」に見えなかったろうか?

人類が自分の感覚にとって好ましいものを「是」とした時点で、神のロゴスから感覚への転換が人に起きたのである。人は神の御言葉によって生まれ、神に離反するその決定的瞬間が来るまでは、神の御言葉の戒めを守ることによって命を得て生きていた。人を生かしていた命の源は、自分の感覚的満足ではなく、神の御言葉を守り、そのうちにとどまることにあった。しかし、悪魔の誘惑は、人が生きる命の根源を、神の戒めを守ることにではなく、自分にとって何が好ましく感じられるかという感覚的満足(欲)にすりかえたのである。

そうして自分の欲におびき出されて御言葉の外に誘い出された瞬間から、人は神から切り離されて、命の源を失い、自分の欲に従って罪の中を迷いながら生きるしかなくなった。サンダー・シングが言うように、難解な神学や哲学が病と死をもたらしたのではない。人間の感覚に基づく欲望こそが、人に命を与えることなく、かえって罪と死に至らせる原因となったのである。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。
すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。」(ヤコブ1:14-18)

御言葉は人の命の源であり、御言葉はすべてを二分する。神が「光あれ」と言われたことによって光が造られたように、人は神の御言葉によって創造された。その御言葉の切り分けの区別を退けて、人が自分の感覚(欲望)に従って世界を一元化し、自分にとって好ましいものを全て良いものだと判断しようとしたときに、堕落が起きたのである。しかも、悪魔はそのように人が己の欲に従って、神に代わって勝手な判断を下すことを、「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」と言って人類をそそのかしたのである。

<続く>

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国家神道の地上天国建設のための異端的家族モデルーキリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑩

④ 国家神道における地上天国建設のための異端的家族モデル 続き

・神と人との断絶を認めない「和の大精神」とグノーシス主義的原初回帰の類似性

国家神道は、なぜ個人を家や社会や国家や自然環境と切り離せないものとみなし、それを離れての個人というものは「所詮本源を失った抽象論」に過ぎないとして、個人の概念そのものを退けて、個人をより強い存在の一部であるかのようにみなしたのか。

その理由としては、東洋思想においては、神と人との断絶が否定され、「神と人との和」という独特の思想が存在していたことが挙げられる。

キリスト教では、生まれながらの人間は、罪によって堕落しているがゆえに、神から切り離され、キリストの十字架における贖いを信じて受け入れることなくして、神と人との和解は不可能である。従って、信仰のないところでは、神と人とは敵対関係にあり、神と人とのいかなる「和」も存在しない。

しかし、国家神道は、東洋思想を基礎として神というものをとらえるため、キリスト教における「神と人との断絶」という概念そのものを否定する。

「国体の本義」は、東洋思想の「神」とは、キリスト教の神のように、人類を罪に定めたり、(残酷な)処罰によって脅かすような「恐ろしきものではなく」、「西洋の神話」に現れたような、「神による追放」、「処罰」、「厳酷なる制裁」のような、神の側から人類に対する一切の脅かしは存在しないのだと言って胸を張る。

そして、東洋思想においては、西洋思想と異なり、「神と人との間は極めて親密である」から、神と人との間には「一致」や「和合」があり、いかなる断絶も敵意も存在しないと誇らしげに言うのである。

このように、人間を罪に定めたり、脅かすことのない、愛と慈悲に満ちた「神」の概念は、人の耳にはまことに心地よく、都合よく響くであろうが、実際には、以下に示す通り、キリストの贖いの十字架を抜きにして主張される「神と人との和」ほど恐ろしいものはなく、それこそが、最も人間性にも反する様々な歪んだ概念を生み出す源となるのである。
 
 国家神道は、キリスト教における「神と人との断絶」という概念を否定したがゆえに、これを基礎として、天皇と臣民、人と自然、人と家、人と国家、などがすべて「一つの源」から生まれて互いに和合するものであると考え、それを根拠として、人が生まれ落ちた家や国から離脱することを許さず、「子」が「親」に仕え、弱い者が強い者に仕えて、その利益のために自分を犠牲として捧げて生きることを一生の義務とみなし、個人を家や社会や国家といった全体の一部分か、あるいは所有物のようにみなし、それを離れた個人という概念すらも否定するに至ったのである。

そして、このような「和合」を無理やり実現するために、国家神道は、残酷な異論の排除のための装置を生み出さないわけにいかなかったのである。

以下に、以前にも引用した「国体の本義」の「神と人との和」の抜粋をもう一度、挙げておく。そこでは、諸外国と比べて、いかに日本の思想の優れているかということが、嫌になるほど強調されており、その点で、これは自惚れと優越感と競争意識に満ちた醜悪な文章なのであるが、少なくとも、この引用を通して、明らかになるのは、東洋思想が「神と人との断絶はなく、神と人とは和合している」とみなしたことから、その「和」なるものが、人と全ての対象物との関係に無限に適用・拡大されて、「全世界は一つである」という思想を生んだ様子である。

国家神道は、東洋思想を基礎として、「神と人とは和合している」という主張から始まって、これを人と自然、人と人、人とすべての対象物との関係に当てはめ、万物は一つに調和しているという「和の大精神」を説くのである。
  
これはキリスト教の裏返しである。つまり、そこでは、鈴木大拙や、リューサーのような解放神学者が徹底して非難した聖書の「二分性」が完全に否定されて、すべてのものが「一体」であるとみなされ、世界を一元化しようとする試みがなされているのである。
  
東洋思想においては、神は「恐ろしい存在ではない」とされるのと同様、自然も人間にとっては脅威にならない、人間と調和した愛すべきものであるとされる。同様に、親子の関係、個人と家の関係、企業と社員の関係、国民と国家、臣民と天皇との関係といった、すべての関係性にはいかなる断絶もなく、すべてが一つに調和し、溶け合い、和合しているのが我が国の風景である、ということにされてしまうのである。
 
このように、神と人との関係をどうとらえるかによって、人と自然、人と人、人と世界の関係などのがすべてが規定されるのである。国家神道の言う「和の大精神」なるものは、「神と人との断絶」という聖書の二分性を否定したところから生まれて来る、全人類の一致、全世界の一致の思想であると言えよう。
 

国体の本義 
四、和と「まこと」
神と人との和 より抜粋

「更に我が国に於ては、神と人との和が見られる。これを西洋諸国の神人関係と比較する時は、そこに大なる差異を見出す。西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのてあつて、こゝに我が国の神と人との関係と、西洋諸国のそれとの間に大なる差異のあることを知る。このことは我が国の祭祀・祝詞等の中にも明らかに見えてゐるところであつて、我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である

  又この和は、人と自然との間の最も親しい関係にも見られる。我が国は海に囲まれ、山秀で水清く、春夏秋冬の季節の変化もあつて、他国には見られない美しい自然をなしてゐる。この美しい自然は、神々と共に天ッ神の生み給うたところのものであつて、親しむべきものでこそあれ、恐るべきものではない。そこに自然を愛する国民性が生まれ、人と自然との和が成り立つ。印度の如きは自然に威圧せられてをり、西洋に於ては人が自然を征服してゐる観があつて、我が国の如き人と自然との深い和は見られない。これに対して、我が国民は常に自然と相和してゐる。文芸にもこの自然との和の心を謳つた歌が多く、自然への深い愛は我が詩歌の最も主なる題材である。それは独り文芸の世界に限らず、日常生活に於ても、よく自然と人生とが調和してゐる。公事根源等に見える季節々々による年中行事を見ても、古くから人生と自然との微妙な調和が現れてゐる。年の始の行事はいふに及ばず、三月の雛の節供は自然の春にふさはしい行事であり、重陽の菊の節供も秋を迎へるにふさはしいものである。季節の推移の著しい我が国に於ては、この自然と人生との和は殊に美しく生きてゐる。その外、家紋には多く自然の動植物が用ゐられてをり、服装その他建築・庭園等もよく自然の芙を生かしてゐる。かゝる自然と人との親しい一体の関係も、亦人と自然とが同胞として相親しむ我が国本来の思想から生まれたのである。

  この和の精神は、広く国民生活の上にも実現せられる。我が国に於ては、特有の家族制度の下に親子・夫婦が相倚り相扶けて生活を共にしてゐる。「教育ニ関スル勅語」には「夫婦相和シ」と仰せられてある。而してこの夫婦の和は、やがて「父母ニ孝ニ」と一体に融け合はねばならぬ。即ち家は、親子関係による縦の和と、夫婦兄弟による横の和と相合したる、渾然たる一如一体の和の栄えるところである。

  更に進んで、この和は、如何なる集団生活の間にも実現せられねばならない。役所に勤めるもの、会社に働くもの、皆共々に和の道に従はねばならぬ。夫々の集団には、上に立つものがをり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによつて集団の和は得られる。分を守ることは、夫々の有する位置に於て、定まつた職分を最も忠実につとめることであつて、それによつて上は下に扶けられ、下は上に愛せられ、又同業互に相和して、そこに美しき和が現れ、創造が行はれる。

  このことは、又郷党に於ても国家に於ても同様である。国の和が実現せられるためには、国民各々がその分を竭くし、分を発揚するより外はない。身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの、朝野・公私その他農工商等、相互に自己に執著して対立をこととせず、一に和を以て本とすべきである。

  要するに我が国に於ては、夫々の立場による意見の対立、利害の相違も、大本を同じうするところより出づる特有の大和によつてよく一となる。すべて葛藤が終局ではなく、和が終局であり、破壊を以て終らず、成就によつて結ばれる。ここに我が国の大精神がある。而して我が国に現れるすべての進歩発展は、皆かくして成される。聖徳太子が憲法十七条に、
  和を以て貴しとなし、忤ふることなきを宗と為す。人皆党有り、亦達れる者少し。是を以て或は君父に順はずして、乍隣里に違ふ。然れども上和ぎ下睦びて、事を論はむに諧ひぬるときには、則ち事理自らに通ず。何等か成らざらむ。
と示し給うたのも、我が国のこの和の大精神を説かせられたものである。」


 当然のことであるが、こうして国家神道が美化し、謳い上げる「和の大精神」は、聖書に照らし合わせれば、事実に反する考えであり、これは何よりも、分離によって人類に死が入りこんだためにすべての二分性を克服して原初的統合を回復せねばならないとするグノーシス主義を思い起こさせる。

実際に、「和の大精神」なる考えの根底にあるのは、神と人との断絶を否定して、すべての関係における分裂を超えて、全世界を一元化したいという欲求である。

そこで、実際、そこで言う「和」なるものは、結局、グノーシス主義の目指す「原初的統合」の呼びかえに過ぎないと言うこともできよう。

しかしながら、このように聖書の「二分性」を一切否定したところに成り立つ「和の大精神」なる一元的世界は、実際には、自然の摂理にも反し、人間性にも反する完全な幻想に過ぎないのである。

こうした美辞麗句が虚偽に過ぎない幻想であったことは、この「和の大精神」のもとでの麗しい一致や和合が、実際には、暴力による弾圧や、強制的な異論の排除によらなければ、到底、実現不可能であったことからも分かるのである。
 



・聖書の二分性に逆らって世界を一元化しようとする試みは必ず異論を排除する暴力装置を生む
 
「国体の本義」がそのように自然で美しいものとして謳い上げる「和を持って貴しとなす」という精神が、具体的に、どのような方法で実現が試みられたのか、今日、我々は誰でも歴史を通して知っている。

国家神道の完成期に定められた悪名高い治安維持法は、この「和」を強制的に成し遂げるために欠かせない暴力装置の一環であった。治安維持法は、「国体の変革」を試みた人間に対する容赦のない弾圧を定めていたが、大正から昭和に変わるとさらに厳罰化が進み、「国体の変革」を試みた者に対しては死刑さえも導入されることになった。
 

治安維持法(旧法)(大正14年法律第46号)
 第一条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁固ニ処ス
 2 前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

治安維持法(昭和16年法律第54号)
 第一条 国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ七年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ三年以上ノ有期懲役ニ処ス
 第七条 国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スべキ事項ヲ流布スル事ヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ無期又ハ四年以上ノ懲役ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ一年以上ノ有期懲役ニ処ス


国家神道が、このような弾圧を通してしか、「和の大精神」を実現できなかった様子を見ても、 そこで唱えられている「神と人との和」から始まって「人とすべてのものとの和」が、しょせん、神話であり、虚偽に過ぎなかったことがよく分かるのである。

国家神道は、神を人間を脅かす恐ろしい存在ではないととらえることによって、我が国は、西洋諸国の陥った二分性の行き詰まりを避けて通れるかのように主張していたわけであるが、実際には、西洋諸国の人間と違って、我が国の人間だけがそうしたことを自然になしうる特別な人間性を備えていたなどということはまずありえない話であった。
 
「国体の本義」が高らかに謳い上げる「神と人との和」、あらゆるものの調和は、実際には、暴力によってしか成立し得ず、維持することもできない、人間性に反する幻の概念に過ぎなかったのである。
 
だが、この「神話」をリアリティと見せかけ、国民を天皇の傘下に一致団結させて、「一家族国家」の理想を成し遂げ、なおかつ、これを全世界にまで押し広げるために、当時の日本政府は、国家神道の理念を否定する者たちをことごとく暴力的に弾圧、排除し、殺したり、処罰したりすることによって、強制的に自ら理想とする「和」を作り出そうとしたのである。

こうして、神というものを、人間を罪に定めたり、処罰したり、追放したり、脅かしたりすることのない「愛と慈悲の神」と定義すると、逆にその「神」の概念を保つために、人間を容赦なく弾圧し、罪に定め、処罰し、追放せざるを得ないというパラドックスが発生するのである。
 
こうした矛盾はすべての異端思想につきものなのであり、だからこそ、「神と人との断絶」を否定する思想は恐ろしいのだと言える。国家神道と全く同じことが、ペンテコステ・カリスマ運動や、共産主義の唱える地上天国の理想にもあてはまった。共産主義思想においては、共産主義ユートピアを実現するためには、階級的を抑圧して滅ぼし、人類を一元化するための抑圧機関としての秘密警察がなくてはならないものとして、理論上、認められていたが、ソ連時代の秘密警察はまさにその理論に忠実に従って作り上げられたものであった。

また、ペンテコステ・カリスマ運動を推進するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、「リバイバル」という地上天国による一致を唱える一方で、カルト監視機構や、カルト被害者救済活動といった、キリスト教界を力によって制圧し、強制力によって一致を作り出すための抑圧機関を提唱せざるを得なかった。
 
つまり、異端思想が目指す全人類の一致という全世界が一元化された地上天国の理想と、これを実現するための暴力・強制力による排除の装置は、コインの両面のように表裏一体なのであり、目に見える地上天国を唱えるすべての運動には、必ず、その半面として、世界を一元管理するための暴力装置、抑圧機関が欠かせないものとして伴うのである。

なぜそうならざるを得ないかと言えば、そのような全人類の調和や一致は、もともと人間性に反する達成不可能な幻想であり、強制力によって異論を排除し、恫喝して反対者を黙らせる以外には、決してあるように見せかけることもできない虚偽だからである。
 
このような偽りの思想、しかも、聖書の神に悪質に敵対するバベルの塔としての全人類の一致を唱える思想という点において、実際には、国家神道も、共産主義思想も、統一教会も、ペンテコステ・カリスマ運動も、基本構造は全て同じだと言えるのである。

これらの思想は、どんなに「神と人との和」や「和の大精神」などの言葉で、「全人類は一つの家族」などといった人類一致の理想を唱えていたとしても、本質的にそれはキリスト教への敵対意識、聖書の神への敵対意識から生まれて来た悪魔的思想なのであり、その幻想に過ぎない全人類の一致という偽りの理想を実現するために、最も反人間的で容赦のない暴力的な弾圧を人間に強いることになるという点でも、実に悪魔的な特徴を持つ思想であり、基本構造が全く同じなのだと言えるのである。



・西洋思想と東洋思想との混合物を作り出すことによってキリスト教を凌駕することを使命とする国家神道

「国体の本義」の提唱する、世界の一元化を目指す「和の大精神」の理想は、キリスト教の二分性にそぐわず、聖書に敵対する思想であることは明白であるが、そうであるがゆえに、「国体の本義」は、自ら唱えている理想は、西洋思想とは根本的に全く異なるものであることを幾度も強調せざるを得なかった。

結局、国家神道とは、まさに鈴木大拙氏が非難したようなキリスト教の「二分性」そのものに対抗するために生まれて来た、聖書に敵対する思想なのである。

以下の抜粋を読めば、国家神道の主張が、鈴木大拙氏の主張とほぼ変わらないものであり、その根底には、西洋思想に対する敵意が流れていることがよく分かるであろう。

「国体の本義」もまた、鈴木大拙氏と同じように、キリスト教の二分性こそが、西洋諸国に個人主義の弊害を生み、世界を行き詰まりに追い込んでいる元凶であるとみなしていた様子が分かる。そして、結局、このようなキリスト教の二分性に基づく西洋的な行き詰まりを打開するためには、西洋思想の欠点を補うことのできる東洋的発想を持ち込んで、西洋思想と東洋思想の混合物である「新日本文化を創造する」ことがぜひとも必要であり、それによって世界文化に貢献することこそ、我が国の使命であると考えていたことが分かるのである。

国家神道は、あからさまに西洋思想を全否定した上で、東洋思想を高く掲げることによって、西洋思想の「行き詰まり」を打開できるとするのではない。むしろ、西洋文化の長所はあくまで長所として学び、取り入れながら、そこに東洋的(日本的)エッセンスを加えることにより、両者を合体した新たな文化を打ち立てようとするのである。

ここに西洋と東洋との思想的混合物を作ることを悲願とする終末のバビロン宗教の一つとしての国家神道のミッションが見えて来る。
 

「国体の本義」、結語、新日本文化の創造、より抜粋

 これを要するに、西洋の学問や思想の長所が分析的・知的であるに対して、東洋の学問・思想は、直観的・行的なることを特色とする。それは民族と歴史との相違から起る必然的傾向であるが、これを我が国の精神・思想並びに生活と比較する時は、尚そこに大なる根本的の差異を認めざるを得ない。

結語、諸般の刷新、より抜粋

 明治以来の我が国の傾向を見るに、或は伝統精神を棄てて全く西洋思想に没入したものがあり、或は歴史的な信念を維持しながら、而も西洋の学術理論に関して十分な批判を加へず、そのまゝこれを踏襲して二元的な思想に陥り、而もこれを意識せざるものがある。

<中略>

 かくの如く、教育・学問・政治・経済等の諸分野に亙つて浸潤してゐる西洋近代思想の帰するところは、結局個人主義である。而して個人主義文化が個人の価値を自覚せしめ、個人能力の発揚を促したことは、その功績といはねばならぬ。併しながら西洋の現実が示す如く、個人主義は、畢竟個人と個人、乃至は階級間の対立を惹起せしめ、国家生活・社会生活の中に幾多の問題と動揺とを醸成せしめる。

 今や西洋に於ても、個人主義を是正するため幾多の運動が現れてゐる。所謂市民的個人主義に対する階級的個人主義たる社会主義・共産主義もこれであり、又国家主養・民族主義たる最近の所謂ファッショ・ナチス等の思想・運動もこれである。

  併し我が国に於て真に個人主義の齎した欠陥を是正し、その行詰りを打開するには、西洋の社会主義乃至抽象的全体主義等をそのまゝ輸入して、その思想・企画等を模倣せんとしたり、或は機械的に西洋文化を排除することを以てしては全く不可能である。


結語、我らの使命、より抜粋

 今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展とをなし遂げた。これ正に我が国体の深遠宏大の致すところであつて、これを承け継ぐ国民の歴史的使命はまことに重大である。

現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。

世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。


こうして、「国体の本義」によると、西洋文明の舞台に遅れてやって来た日本が、西洋キリスト教国の行き詰まりを見抜いた上で、これを打開する有効な策を提示することによって世界をリードし、西洋思想と文化の欠点を巧みに補いながら、世界文化に貢献することができるということになり、なおかつ、それが我が国の使命であるとされるのである。

このように、比較的「後進国」である国が、「先進国」の誤りや行き詰まりを飛び越えて、一足飛びに世界の救済者になれるという発想は、ロシアの革命以前の初期の社会主義思想を彷彿とさせるものである。当時、ゲルツェン等の初期の社会主義者らは、帝政ロシアが資本主義においては比較的後進国であるがゆえに、先進諸国の腐敗や堕落を踏襲することなく、これを避けて通りながら、ロシアの農村共同体を神聖な核として一足飛びにユートピアに至りつけるとみなしていたのであった。

国家神道もそれと同じように、日本は西洋文明の優れたところを取り入れ、これに学ばなければならないとしながらも、同時に、キリスト教の二分性を根源とする西洋思想の弊害としての個人主義の行き詰まりを糾弾し、言外に、我が国は東洋思想を基礎としているがゆえに、そのような西洋的行き詰まりを避けて通りながら、一足飛びに、独自の発展形態を辿り、世界をリードすることができると主張して、西洋思想に対する東洋思想の優位を誇るのである。優位性を誇るのみならず、その思想を核として世界を西洋的な行き詰まりから救うという世界救済が可能であるという結論にまで行き着くのである。

しかしながら、このようなメシアニズムの思想は、西洋文明に対する劣等感の裏返しとしての歪んだ選民意識に基づく実現不可能かつお節介で厚かましい一種の誇大妄想のようなものでしかないことに加え、そのように西洋思想と東洋思想との折衷案を作り出すことは、キリスト教の側から見れば、到底、容認できない異端のレシピに他ならない。

なぜなら、それは単に文化や技術だけでなく、「西洋的な神」と「東洋的な神」を混ぜ合わせることによって、思想的・宗教的混合物を作ろうとするのは、明らかにまた新たな異端の発生を意味するからである。

どう考えても、キリスト教の父なる神と、天照大神を互いになじませようというのは、無理な相談である。だから、そのようなことを企てれば、どちらかが排斥されることになるのは間違いない。東洋思想を高く掲げている国家神道が、キリスト教の神に十分な注意を払うことはあり得ない。従って、国家神道が述べている西洋思想の長所を取り入れた上での「新たな日本文化の創造」なるものは、結局、キリスト教の否定に他ならないのであって、それはキリスト教の側から見れば、実現不可能な幻想であるばかりか、キリスト教にまた新たな異端を作り出そうとする冒涜的思想に過ぎないのである。

そして、国家神道の提示する異端作りためのレシピも、何ら新しいものでなく、古くからグノーシス主義によって温められて来た思想の焼き増しに過ぎない。

そこにあるのは、西洋思想と東洋思想を混ぜ合わせることによって、キリスト教の父性原理の二分性に母性原理の受容性を補い、それによって、世界をキリスト教の二分性の抑圧から解放しようという、あの伝統的なレシピである。

国家神道において最高位の「神」とされる天照大神の性別については、議論も存在するようであるが、天照大神は、通説では大抵、女神とみなされている。

東洋思想における「神」の概念が、大抵、母性原理の象徴を指すことを考えても、天照大神は女神とする方が自然である。すでに見て来たように、東洋思想は、万物の根源を父性原理にではなく、母性原理に求める。そして、万物を生み出す根源としての母性原理の象徴を「神秘なる母性」、「母なる混沌」として賛美するのである。

グノーシス主義神話においては、男女の対が完全とみなされることから、「父・母・子」という異端的三位一体が提唱され、真の神は「原父」という男性的属性とみなされてはいるものの、実際には、グノーシス主義神話においては、男性的属性としての神に対して、女性的属性が反逆を企てることが正当化されるストーリーがあるため、実際には、これは母性原理を父性原理よりも高く掲げる思想だ、とみなすことができる。筆者の考えでは、東洋思想における母性崇拝は、まさにこのグノーシス主義神話を基盤として生まれて来たものなのである。

そこで、もし天照大神を通説に従って女神とみなすならば、以上に述べたようなグノーシス主義的特徴が、国家神道にもぴったり当てはまることになる。

つまり、国家神道のミッションとは、キリスト教の父性原理の二分性のために行き詰まりに陥っている西洋思想に、天照大神を最高位とする東洋的な母性原理を補うことによって、世界を西洋文明の行き詰まりから解放してやろうという思想だ、ということになるのである。

たとえ表向きには、「母性原理を補う」などと慎ましげな表現を用いていても、実際にそこにあるのは、聖書の「唯一の神」の否定であり、「父なる神」を押しのけて、「母性原理」をそれ以上に高く掲げようとする思想であり、聖書の神に対する敵対・反逆の思想である。

国家神道の理念も、結局、煎じ詰めれば、「キリスト教の父性原理の二分性の抑圧から世界を解放せねばならない」というおなじみの主張へと行き着く。アジアの諸国を欧米列強の植民地から解放することを名目とした大東亜共栄圏なる概念の根底にも、この歪んだメシアニズムの思想が流れている。つまり、列強植民地支配からの解放という題目をどんなに表向きに唱えていても、その根底にあるのは、キリスト教そのものへの拭いがたい敵意と対抗意識であり、結局、そこにあるのは、解放神学者らと同じ、「キリスト教の二分性の抑圧と支配から全世界を解放することが我らの使命である」という思想なのである。

そのような観点から見ると、「国体の本義」が随所で盛んに西洋思想の弊害であるとあげつらって非難している「個人主義」にも、結局のところ、キリスト教の二分性への敵意が秘められているのだと言える。

それはちょうど解放神学者リューサーが、キリスト教の男女の二元論が、あらゆるものに断絶と疎外をもたらしたと非難したのと同じであり、国家神道が主張しているのも、キリスト教における「神と人との二分性」こそが根源となってバラバラの個人主義が生まれたのであり、西洋思想はこのキリスト教の「欠点」を克服せねばならない、ということに他ならないのである。

西洋諸国における「個人」の概念は、まず、神から切り離された人間の孤独を前提としなければ、決して生まれて来ることのない概念である。まず「神と人との断絶」という聖書の事実があって、そこから、西洋思想における個人という概念が発生するのである。

しかしながら、東洋思想は、神と人との断絶を全く認めないことから、個人を全体の一部とみなし、全体を離れた個人という概念すらも否定することしかできない。そのように聖書の二分性を否定して、世界を一元化してとらえようとする試みは、結局は、「和の大精神」という美辞麗句の下での残酷な異論の排除と、個人の諸権利の否定と抑圧、反人間的な弾圧を生むだけであることはすでに書いた。

だが、国家神道は、何とかして「神と人との断絶」をないものとし、人間が神から排除されているという事実を否定したいのである。そのためにこそ、聖書の神を否定して、そこに東洋的な「愛と慈悲の神」を持ち出すことにより、キリスト教の父性原理の二分性を溶解し、無効化しようと試みるのである。さらには、個人という概念そのものを否定してまで、神と人とは一つであり、人は世界と一つであると主張するのである。

結局、国家神道の目指している目標とは、解放神学や、ペンテコステ・カリスマ運動と同じように、「キリスト教の二元論の抑圧からの全人類の解放」、もっと言えば、「全世界のキリスト教からの解放」だと言って差し支えない。

そこにあるのは、聖書の「父なる神」の否定と、それに対する人類の側からの反逆の試みである。その試みを天照大神を持ち出して来ることによって、また、天皇皇后という「霊の父母」を持ち出すことによって正当化しようとしたのが国家神道だと言えるのである。



・「子」を守る「父」が存在せず、「子」が「母」のために命を捨てることが義務化される東洋的な「母子家庭」としての国家神道の転倒した家族モデル


そのようにしてキリスト教の父性原理の二分性を「欠点」として非難し、「霊の父母」を持ち込むことによって、キリスト教に「父・母・子」の異端的三位一体を築き上げ、それによってキリスト教に母性原理を補い、西洋思想と東洋思想との合体を試みようとする異端思想は、今までに見て来たように、必ず、途中で、「父」に対する「母」の反逆が起こり、結果として「父」を持たない私生児が生まれるだけに終わる。

以前の記事で筆者は、創造(=命を与える行為)は「父なる神」の働きであって、母性原理が単独で命を生み出す力はなく、それにも関わらず、万物の生命の根源を女性原理にあるとみなす考え方は、聖書の秩序を転倒させて、母性原理を創造者に据えることによって、父なる神の権威を否定して、母性崇拝を肯定する聖書に敵対する反逆の思想である、ということを述べた。

フェミニズム神学もそのように聖書の秩序を転倒させるべく生まれて来た思想の一環であり、「母性原理」を万物の生命を生み出す根源として父なる神以上に高く掲げる思想は、どれも最終的には「父なる神」の否定と、その結果としての「母子家庭」と「父なし子」の発生という悲しい結末を生むだけに終わる。

聖書の父なる神は、ご自分の子らを守るために、自ら人類に必要な救済を全て用意された神である。主イエスが、「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」と言われたように、多くの人々を命にあずからせるために、父なる神はその独り子の命をも惜しむことなくお与えになったのである。

しかし、このまことの命である方を否定して、神による唯一の救済を退けて、人類にとって脅威とならない別の「愛と慈悲の神」を提唱する思想は、必ず、その偽りの神を「救済」するために、信者が命を投げ出すことを要求する残酷なものとならざるを得ない。

そのためにこそ、鈴木大拙氏が述べているように、「父を持たない宗教」である東洋思想の根源には、「(子が)母を守る」という転倒した家族関係が義務づけられているのである。最終的には、「子」が「親」のために犠牲となって死ぬことが、「子」の「親」に対する義務として説かれるのである。

その点で、国家神道も全く例外ではない。
 

第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民のすべての道徳の根源がある。

 忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。


国家神道において、臣民は天皇の「赤子」であるとされたにも関わらず、その「赤子」である臣民を天皇が守る必要はなく、むしろ、臣民こそが「絶対随順」によって「我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕する」ことが、「我等国民の唯一の生きる道」であって、「あらゆる力の源泉」であるとされた。さらには、臣民が「天皇の御ために身命を捧げる」ことこそ、「国民としての真生命を発揚する所以である」とまで説かれたのである。

こうして、臣民が天皇に仕えるために自ら命を捨てることは、「自己犠牲」ではなく、「小我を捨てて大いなる御稜威に生き」ることであるから、断じて「犬死」などではなく、「真生命を発揚する」ことだとして美化されたのである。

一体、母胎の中にいる「赤子」に過ぎないような無力な者が、どうやって「親」を守ることなどできようか。「赤子」こそ守られるべき存在であって、「親」がその生命を絶やさないように注意して見守っていなければ死んでしまうような弱い存在である。

しかし、国家神道においては、上記のような詭弁によって、親子の関係は逆転され、「赤子」が「親」のために命を捨てるよう義務づけられ、「死」に過ぎないものが「真生命の発揚」にすり替えられ、勝ち目のない戦争において、若者を特攻に赴かせるような無謀な犠牲が、連綿と美化されて行ったのである。

むろん、国家神道には、聖書のように復活という概念はないので、天皇のために死ねば「神になれる」という偽りの他、死によって得られる功績など皆無である。

このように、人類に命を与えるために独り子の命を惜しみなくお与えになった聖書の父なる神を退けてまで、人間が勝手に担ぎ出した偽りの神は、人に命を与えるどころか、我が身の保身のために、臣民の命を大量に奪うことしかできなかった。もし本当に万物の生命の根源が「神秘なる母性」にあるのだとしたら、どうして天照大神の子孫である者が、臣民の命を奪うことによってしか、己を存続できない理由があろうか。一体、神を救済するために、信者が犠牲になって死ななければならないような転倒した思想において、「我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。」という文句の根拠は、どこに求められるのであろうか。

このことは、結局、神でないものを神とすれば、その偽りの神のために、人は己の命を無駄に奪われる結果にしか至らないことをよく物語っている。まことの神は人に命を与えるが、異端の神は命を奪うのである。そのようにして、万物の生命の源がどこにあるのか、創造の力を持つ者とは誰なのかという問題の答えが逆説的に証明され続けているのだと言えよう。

こうして、親の名誉のために子が犠牲となって死ななければならず、偽りの「神」の「救済」ために「信者」が絶えず生贄に捧げられるしかないという転倒した世界が、「父なる神」を持たない「母子家庭」としての宗教である東洋思想においては連綿と広がっている。そのようなものが果たして「愛と慈悲の神」であろうはずもなく、そんな「神」と運命共同体にされることは、人間にとって不幸以外の何物でもないのだが、このような思想を信奉している人々には、「愛と赦しと受容」という優しい仮面の裏側に隠された偽りの神の残酷さが分からないのである。

国家神道も、東洋思想の系列に属していればこそ、あれほどおびただしい犠牲を人類に当然のごとく要求したのであり、それが鈴木大拙氏が「母を守る」という言葉で美化する東洋的世界観の実態なのである。

<続く>

国家神道の地上天国建設のための異端的家族モデルーキリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑨

④ 戦前の国家神道における天皇・皇后を「真の父母」として国民がその「赤子」となって従う「一大家族国家」という異端的理想
 

さて、前の記事では、統一教会や、プロテスタントの牧師であり、カリスマ運動指導者である手束正昭氏の提唱する教会成長論に見られるような、「父・母・子」という異端的な三位一体の解釈に基づいて、宗教指導者夫妻を「霊の父母」、信者を「子」とみなして、「一つの霊の家族」に連なる信者の家庭を地上で増やすことにより、やがて全人類を「一つの霊の家族」に結び付けて、地上天国が成就されるとみなす考えが、根本的にグノーシス主義に由来する異端であることを確認した。

このように、「父・母・子」という異端的三位一体論を基礎として、目に見える形で地上天国を成就しようという考えは、異端思想の基本理念であると言える。その点で、ペンテコステ・カリスマ運動の目指す「リバイバル」と、統一教会の目指す「全人類一家族理想」とは、名称が異なっていても、ともに異端思想の最終目的としての一つの霊の家族から成る地上天国を目指している点で、根本的に同一なのである。

むろん、異端思想の全てはキリスト教を換骨奪胎してできる疑似キリスト教なのであり、そこで唱えられる地上天国の理想も、聖書における神の国の模倣である。聖書における神の国は、人の目で見られるような形で来るものではないが、異端思想は一様に、これを目に見える地上天国という形に置き換える。

また、聖書においてはキリストによって生まれた兄弟姉妹は神の家族であり、「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」(Ⅰペテロ2:5)とあるように、霊の家の建造というアイディアが存在するが、異端思想も「一つの神の家」という聖書のアイディアを模倣する。そして、聖書における神の家はキリストのみを土台として築き上げられるものであるが、異端思想はそこにキリスト以外のもの――「霊の父母」――などを持って来て、これを基礎に「一つの霊の家」を築き上げようとするのである。
  
さて、こ
こからは、戦前の日本の国家神道においても、上記の統一教会やペンテコステ・カリスマ運動に見るのとほぼ同様の異端的家族モデルに基づく地上天国の夢が提唱されていたことを振り返りたい。

国家神道においては、天皇を現人神として、万世一系」という「神の血統」を持つ「霊の父母」である天皇・皇后を頂点に、日本国民全体がその「赤子」となって天皇に仕えることで、「一大家族国家」を築き上げ、天皇皇后の「永遠の統治」を確立するという「聖旨」の大義を成し遂げることにあるとされた。

つまり、当時、国家神道のイデオロギーに基づき、日本という国全体が「一家族国家」という異端的家族モデルの理想を成就するための母体(実験場)とされたのである。また、その「一家族理想」のモデルは「八紘一宇」の名で、国境を超えて、全世界にまで適用されるべきと概念が押し広げられた。その点でも、これはまさにあらゆる異端思想に共通する事実上の地上天国の夢であった。

すでに幾度か引用して来た「国体の本義」にはこうある。
 

文部省、「国体の本義」、
第一 大日本國體、一、肇國より抜粋

「大日本帝國は、萬世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が萬古不易の國體である。而してこの大義に基づき、一大家族國家として億兆一心聖旨を奉體して、克く忠孝の美徳を発揮する。」
第一 大日本国体、二、聖徳、愛民 より抜粋

 天皇の、億兆に限りなき愛撫を垂れさせ給ふ御事蹟は、国史を通じて常にうかがはれる。畏くも天皇は、臣民を「おほみたから」とし、赤子と思召されて愛護し給ひ、その協翼に倚藉して皇猷を恢弘せんと思召されるのである。


 
一大家族国家」という名称は、それ自体が、統一教会の唱える「全人類一家族理想」とほとんど変わらない。そして「八紘一宇」も、全世界を一つの家とみなす思想であるから、これもまさに「全人類一家族理想」の呼び変えと言って差し支えない。結局、それは「現人神」である天皇皇后を「霊の父母」として、その下に全人類が「一つの霊の家族」として結び合わされることによって、地上天国が成し遂げられるという理念を指すのである。
 

Wikipediaによると、「八紘」とは「8つの方位」「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味すると解釈される。
また、「一宇」とは、「一つ」の「家の屋根」を意味している。
そこで、結局、「八紘一宇」とは、「世界は一つの家である」という理念を意味する。


 



・一大家族国家の理想を成就するための「家の生活」における「子が親に仕え、家を守る」という転倒した家族モデル


さて、「国体の本義」では、天皇の「赤子」たる国民の「」というものが、「一大家族国家」という地上天国の理想を実現するための重要拠点とみなされていた。

このことも、宗教指導者夫妻を「霊の父母」として崇める「子」としての信者の家庭を地上で増やすことが、全人類を一つの霊の家に結びつけて、地上天国を成就する最も有効な手段であるとみなす統一教会やペンテコステ・カリスマ運動の理念とも基本的に合致する。

そして、国民生活の基本となる「家の生活」とは、夫婦や兄弟といった横(平面)の関係ではなく、「生み生まれるといふ自然の関係」という、「親子の立体的関係」という縦の関係を中心とするものでなければならないとされた。

つまり、そこでは、「生み生まれるという」肉によって築かれる親子の縦の関係が、一生涯、動かすことのできない絶対的で神聖な序列のようにみなされ、肉によって築かれた生まれながらの親子関係が、個人が自らの意志によって選んだ夫婦や、横の関係である兄弟の関係よりも重視されたのである。
 

「国体の本義」、第一 大日本国体 三、臣節 より抜粋

我が国民の生活の基本は、西洋の如く個人でもなければ夫婦でもない。それはである。家の生活は、夫婦兄弟の如き平面的関係だけではなく、その根幹となるものは、親子の立体的関係である。この親子の関係を本として近親相倚り相扶けて一団となり、我が国体に則とつて家長の下に渾然融合したものが、即ち我が国の家である。従つて家は固より利益を本として集つた団体でもなく、又個人的相対的の愛などが本となつてつくられたものでもない。生み生まれるといふ自然の関係を本とし、敬慕と慈愛とを中心とするのであつて、すべての人が、先づその生まれ落ちると共に一切の運命を託するところである。

 我が国の家の生活は、現在の親子一家の生活に尽きるのではなく、遠き祖先に始り、永遠に子孫によつて継続せられる。現在の家の生活は、過去と未来とをつなぐものであつて、祖先の志を継承発展させると同時に、これを子孫に伝へる。古来我が国に於て、家名が尊重せられた理由もこゝにある。家名は祖先以来築かれた家の名誉であつて、それを汚すことは、単なる個人の汚辱であるばかりでなく、一連の過去現在及び未来の家門の恥辱と考へられる。従つて武士が戦場に出た場合の名乗の如きは、その祖先を語り、祖先の功業を語ることによつて、名誉ある家の名を辱しめないやうに、勇敢に戦ふことを誓ふ意味のものである。」


一体、この「家」の生活とは具体的にどのようなものなのかを説明するにあたり、「国体の本義」が、早速、「家の名誉」を守るという抽象論に没入していることにも注意が必要である。

つまり、「国体の本義」における「家の生活」とは、赤ん坊や、子どもたちや、弱い者たちを、強い大人たちが守り、支え、養い、育てるための場所ではないのである。その「家の生活」において、最も重視されているのは、生きた人間の安全や幸福よりも、「家の名誉を守る」という抽象概念である。しかも、それは「子孫が先祖に仕え、子が親に仕える」という、転倒した家族関係の中で成し遂げられるというのである。

つまり、国家神道における「」においては、先祖崇拝を盾にとって、「子孫」が「先祖」に仕え、「子」らが「親」を仕え、弱い者が強い者の名誉を立て上げる道具となることこそ、義務であるとされたのである。

国家神道は、人間を守るために家があるのではなく、家を守るために人間がいるとみなした。そして、一家のメンバーの存在意義は、「家」という集団の名誉を立て上げることにあるとし、しかも最も弱い者に最も重い義務を負わせる形で、家の名誉が脅かされる時には、先祖から伝わった家名を守るために、子孫は立ち上がって我が身を投げ出して勇敢に戦わなければならないと言う。

先祖代々から伝わる「」という集団の名誉が脅かされる時には、家族の成員は、我が身を犠牲にしてでも、「家を守る」ために積極的に戦うべきという精神が「」という名で呼ばれて、先祖に対する子孫の義務、親に対する子の義務とされるだけでなく、そのような精神を土台にして、「臣民が天皇に仕え、天皇のために我が身を犠牲にする」という「忠君愛国」が国民の義務として説かれるのである。

国家神道においては、親子の感情的・情緒的な結びつきは「慈愛」や「敬慕」などの言葉で美化される一方で、強い者(親)たちには弱い者(子)らを守り、保護する義務があり、同様に、権力者には国民を守る義務がある、ということは全く言及されることもない。

本来、家とは、親が子を守り、育てなければ機能もしないわけで、自力では生きられないような弱い子供たちや赤ん坊に親に仕え、家を守れと言っても、無理な相談である。そのような要求をすると、当然のごとく、家の中で最も弱い立場にある者たちに大変な犠牲が強いられることになり、家の健全な機能が失われ、「子」らの成長はなくなってしまう。

だが、このように、「弱い者(子)が強い者(親)に仕え、弱い者が強い者を守る」という弱肉強食の転倒した家族モデルは、これまで見て来たすべての異端思想の家族モデルにほぼ共通する思想である。

異端思想は、自力では生きる術もないような弱い者たちが、強い者たちを支え、守る義務について、いやというほど強調しながら、強い者たちには彼らを保護する義務があることには触れない。そして、強い者たちの名誉と利益のために弱い者たちが命を捨てることさえ、当然のごとく要求し、奨励する。だから、必然的に、それは健全な家族関係を壊し、「家」を搾取と弱肉強食の場へと変えてしまうのである。


記事「クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(1)」でも見たように、カリスマ運動を率いる手束正昭氏は、自らの著書において、教会を成長させるためには、「子」である信徒らが、「霊の父母」たる牧師夫妻の威厳を守るために、率先して教会内雑用を引き受け、牧師に代わって憎まれ役に徹し、泥をかぶるべきと主張していた。

また、記事「異端の教えは必ず子供を犠牲にする~吉祥寺キリスト集会の事例 リンデはなぜ亡くなったのか~」でも示した通り、この種の弱肉強食の転倒した異端的家族モデルの影響を受けると、結局、親の名誉を守るために、子供や若者が自らを率先して犠牲に捧げて死んで行くという現象が起きる。さらに、その痛ましい犠牲を美談として讃えるという異常極まりない現象が後に続くことになる。


むろん、聖書には、このように「弱い者が強い者に仕えるべき」という考え方は存在しない。聖書における家族の秩序は、弱肉強食の精神とは全く逆であり、強い者こそ、弱い者を守り、強い者こそ、弱い者のために仕えて生きるべき、というものである。

パウロは書いている、「子は親のためにたくわえる必要はなく、親が子のためにたくわえるべきです。」(Ⅱコリント12:14)

このように、「強い者こそ、弱い者を守るために蓄え、弱い者を守るために、我が身を犠牲にして投げ出すべき」――という模範を、誰よりも率先して、実行に移されたのが、聖書の神ご自身であったと言える。

世祖の父なる神は愛する独り子を地上に送って、人類のための贖いの代価としてその命を与えられることによって、人類のために自ら救済を完成されたのである。御子は、人々に仕えられるためではなく、自ら仕えるために地上に来られた。そして、信者たちもそれにならって、自らの強さにより頼んで弱い者の上に権力を振るわず、率先して仕える者となるようにと言われた。

「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:25-28)

聖書においては、「生み生まれるといふ自然の関係」、「親子の立体的関係」の意義は、地上にキリストが来られた時に終わっており、それ以後、最も重要なのは、肉によって築かれた信者の地上の生まれながらの親子関係ではなく、父なる神と、神の子供としての信者の霊的親子関係である。

聖書においては、親孝行は否定されてはいないものの、同時に、キリストが十字架の死に赴かれたことによって、アダム系列の「生み生まれる」という肉による関係の価値は、永遠に無価値なものとして廃棄されたのであって、信者の地上の「生み生まれるという縦の関係」が絶対化されるということはない。
 
今や信者にとって最も重要なのは、地上で誰を親として生まれたかという生まれながらの縦の関係ではなく、「水と霊によって上から生まれる」こと、すなわち、地上の出自によらず、キリストにある新創造として生きることである。
 
さらに、そこでは、信者にとって真の「父」は天におられるただお一人の神であり、その他にいかなる「霊の父母」も存在しない。神と人との間には、キリスト以外の仲介者は存在しない。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(Ⅰテモテ2:5-6)

「イエスは答えられた。「まことにまことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」(ヨハネ3:5-7)

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
 
だが、異端思想はこれらすべての聖書の秩序を覆して真逆のものに変え、生まれながらの肉なる関係を神聖なものとみなして絶対化し、しかも、子が親に仕え、子が親を守るべきと、親子の秩序をも転倒させて、キリスト以外の「霊の父母」を持ち出して来ることによって、偽りの「霊の家族」を築くのである。



・人を永久に「赤子」のままにとどめ、、「子」が「親」を離れ、「家」を離脱することを許さない思想

また、聖書においては、創世記において「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となるのである。」(創世記2章24節)という夫婦のモデルが提唱されているように、子がいつまでも子のままで親から自立せず、親に仕えて生きることを奨励する記述はどこにもない。

むろん、この記述は、何よりも、キリストと教会の結婚の予表であるのだが、いずれにせよ、信仰面においても、実生活においても、子が成長して一人の独立した人間となって、生家を離れ、自らの意志によってパートナーを見つけ、新しい家庭を築くというのが、聖書的家族モデルだと言える。

いつまでも人が精神的に「嬰児」のまま、「生み生まれるという親子の立体関係」に従属し、死ぬまで自分を生んだ父母(と先祖)の名誉を守るために犠牲となって生きよ、という教えは聖書にはない。

信仰において、人はいつまでも子供のままでいてはならない、と聖書は言う。それは信者がものの考え方において生長して、誰にも頼ることなく、独立して一人前の判断力・識別力を持った成熟した人間にならなければならないからである。

パウロは書いている、「兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼な子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。」(Ⅰコリント14:20)

「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。」(コロサイ1:28)

「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により教えの風に吹き回されてたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」(エペソ4:12-15)

ところが、異端思想は、人が「その父と母を離れ」ることを決して認めない。「国体の本義」が唱えているように、人が生まれ落ちた家から決して離脱できないようにさせて、子を親の従属物のように貶めるだけでなく、精神的にも、「霊の父母」の支配下にからめとることによって、決して人を「成人」に生長させないのである。

すべての異端思想の原則は、信者をいつまでも目に見える指導者という「霊の父母」に依存させて、永久に「子」として半人前の状態にとどめ置き、決して「霊の父母」から自立することを許さないばかりか、いつまでも物の考え方において未熟な「子ども」であって、一人前の自己決定権を持つ「成人」には達しないようにと生長を妨げるのである。

離脱を許さない「家」の生活においては、信者は永久に「霊の親」から自立できず、一人前の判断力も識別力も養うことができず、いつまでも嬰児のごとく半人前とみなされ、指導者と一蓮托生で人生を送らねばならない。

そのような家族モデルは、もともと家族関係と呼ばれるにもふさわしくない転倒した関係であり、搾取と癒着の構図と呼ぶしかないのだが、国家神道においては、そのような転倒した癒着・支配関係の下にある「家」というものが、「すべての人が、先づその生まれ落ちると共に一切の運命を託するところである。」とされて、生まれ落ちた以上、そのしがらみから抜け出る選択肢は個人にはないものとされるのである。

これと同様に、「国」というものも絶対化され、この国に生まれ落ちた以上、臣民は「生まれながらにして天皇に奉仕し、皇国の道を行ずるものであ」るとされ、臣民(子)が天皇(親)に仕える義務は一生のものであり、そこから抜け出る選択肢や自由は、個人には事実上ないものとされた。


 
・全人類を「現人神」である天皇に帰依させることによって「神の血統」に転換し、世界救済を目指すという国家神道の歪んだメシアニズムの思想

そもそも国家神道では、個人というものが、家や、社会や、国家などに所属して初めて意味をなすパーツに過ぎないもののようにみなされ、生まれ落ちた家や国や歴史を離れての個人という概念は、幻のような抽象概念、「所詮本源を失った抽象論」に過ぎないものとして完全に退けられた。
 

第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

個人は、その発生の根本たる国家・歴史に連なる存在であつて、本来それと一体をなしてゐる。然るにこの一体より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に国家を考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。」

このような状況では、いわば、個人という概念そのものが存在していないに等しく、そのような中で、個人の自立、自由、大人としての精神的成熟、自己決定権、などの概念が考慮されるはずもなかった。

このように個人というものを否定して、独立した個人という概念を認めず、個人をより強い何者かの関係と常に一体とみなし、まるでその従属物であるかのように、強者との関係性においてしかとらえることができないという盲目性は、上記したような誤った親子関係という家族モデルだけでなく、誤った神と人との概念から発生して来るものでもあった。

「国体の本義」においては、日本における天皇と臣民の関係が、いかに西洋諸国と異なっているかということが繰り返し強調される。

西洋諸国においては、君主と人民の関係は絶対的なものではなく、人民を虐げる君主が追放されたり、人民が自ら君主を選ぶということも起きる。しかし、そのようなことは、我が国では決して起こり得ない、とされた。なぜなら、我が国の「国体」においては、天皇と臣民の関係は、生まれながらにして与えられるものであり、さらに、天皇の権威は「神」に由来するものであって、人民の選びにあるのではないので、従って、その関係が変更されたり撤廃されたりすることはなく、しかも、天皇は臣民の発展と幸福のために存在するのではなく、臣民を守ることが天皇の義務なのでもない、と言うのである。
 

第一 大日本国体、三、臣節、臣民 より抜粋

「臣民の道は、皇孫瓊瓊杵ノ尊の降臨し給へる当時、多くの神々が奉仕せられた精神をそのまゝに、億兆心を一にして天皇に仕へ奉るところにある。即ち我等は、生まれながらにして天皇に奉仕し、皇国の道を行ずるものであつて、我等臣民のかゝる本質を有することは、全く自然に出づるのである。

 我等臣民は、西洋諸国に於ける所謂人民と全くその本性を異にしてゐる。君民の関係は、君主と対立する人民とか、人民先づあつて、その人民の発展のため幸福のために、君主を定めるといふが如き関係ではない。然るに往々にして、この臣民の本質を謬り、或は所謂人民と同視し、或は少くともその間に明確な相違あることを明らかにし得ないもののあるのは、これ、我が国体の本義に関し透徹した見解を欠き、外国の国家学説を曖昧な理解の下に混同して来るがためである。」


一体、なぜそこまで天皇と臣民との関係が絶対的かつ不可分のものとされ、個人と国家の関係が切り離せないものとして絶対視されたのか、その根拠となるのは、天皇と臣民は共に「一つの根源」から生まれて来たという思想である。
 

第一 大日本国体、三、臣節、臣民 より抜粋

「然るに我が天皇と臣民との関係は、一つの根源より生まれ、肇国以来一体となつて栄えて来たものである。これ即ち我が国の大道であり、従つて我が臣民の道の根本をなすものであつて、外国とは全くその撰を異にする。固より外国と雖も、君主と人民との間には夫々の歴史があり、これに伴ふ情義がある。併しながら肇国の初より、自然と人とを一にして自らなる一体の道を現じ、これによつて弥々栄えて来た我が国の如きは、決してその例を外国に求めることは出来ない。こゝに世界無比の我が国体があるのであつて、我が臣民のすべての道はこの国体を本として始めて存し、忠孝の道も亦固よりこれに基づく。」

ここで言う「一つの根源」とは、要するに「神の血統」を指す。
  
第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民のすべての道徳の根源がある。


このことから、なぜ「生み生まれるという親子の立体関係」が国家神道においては、ほとんど絶対視されていたのかが、説明がつくであろう。臣民と天皇の関係を含め、地上の「親子関係」は、「神の血統」を受け継ぐものと理解されていたからである。

このような発想は、文鮮明を再臨のキリストとみなし、文鮮明夫妻を「霊の父母」とみなして、信者が彼らに「子」として連なることによって、信者が堕落したアダムの血筋から救われて「神の血統」に転換できるとしていた統一教会の教えにそっくりである。

つまり、国家神道は、天皇皇后を「霊の父母」とみなして、全人類をこの「神の血統」に転換させることによって、世界救済を成し遂げようというメシアニズムの思想に他ならないことがそこから分かるのである。

また、それは牧師夫妻を「霊の父母」とみなしてそれに信者が「子」として連なることによって、地上に「リバイバル」が成就すると主張するペンテコステ・カリスマ運動とも全く同型の異端的家族モデルである。

統一教会が文鮮明を再臨のキリストとみなし、信者がこの宗教指導者を現人神として崇めるのと同じように、国家神道は、天皇を天照大神の子孫とみなすことで、天皇を事実上の神(救済者)とみなし、天皇に「子」として帰依する「信者」を増やすことによって、「神の血統」に属する家庭を地上に増やし、そうして「一つの根源」に連なる「霊の家族」を「一大家族国家」として日本全体に普及させるだけでなく、「八紘一宇」のスローガンの下、これを全世界にまで押し広げることによって、全世界を天皇を中心とする「神の血統」に転換して「救済」しようとする世界救済のメシアニズムの思想であったことが分かるのである。

むろん、当時の国家神道は、自らを宗教であるとみなしていなかったので、世界救済などといった用語を持ち出して、そのミッションを公に語ることはなかったが、実際に主張していた内容から判断すれば、それはまさに世界救済の思想に他ならないことが明白なのである。

つまり、国家神道における「国体」とは、そうしたメシアニズムの思想を使命として持ちながら、世界を「神の血統」に塗り替えて行くための核としての役割を担うものだったのであり、それがゆえに「世界に無比なるもの」として賞賛され、神聖視されたのであり、その世界救済の使命こそが、帝国植民地支配からの解放という名目で、当時の日本の世界征服の野望を正当化し、果てしない軍事侵略、軍国主義化を促す根拠となって行ったのである。

村上重良氏の著書『国家神道』においては、日清、日露戦争の時期にはすでに「国体の教義」の中心には、「神の血統」を持つという「世界に無比なる国体」を基礎とする「神国日本」が、「全世界を指導する聖なる使命意識」を持つというメシアニズムの思想があった様子が記されている。その「聖なる使命意識」こそ、日本の軍国主義の強化を思想的に美化・正当化し、侵略戦争を「聖戦」として美化し、正当化する根拠となっていったのである。
 

国体の教義の中心には、世界における「神国日本」の絶対の優位性の主張と、全世界を指導する聖なる使命意識があり、天皇の名による戦争は、無条件に聖戦として美化された。」(『国家神道』、村上重良著、岩波書店、1970年、p.144)

つまり、当時の国家神道は、「我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり」、「開国の初めより、自然と人とを一つにして自ずからなる一体の道を現じ」て来たという神話を根拠にして、日本には事実上、「神に至る聖なる血統」を有する「世界に無比なる国体」があるとみなし、それゆえ、日本は「世界救済」という使命を負うにふさわしい神聖な核となりうる存在であり、この神聖な核を(侵略戦争を通して)全世界に押し広げて行くことによって、事実上、全世界を救済できると主張していたに等しいのである。

<続く>

からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。

「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」(Ⅰ列王記19:18)
 
「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。

五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。」(ルカ12:4-9)
 
主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

 
すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:10-18)

 
朝方、小鳥たちのさわやかな美しい鳴き声で目が覚めるのはまことに気持ちが良い。外出時には引き留められ、帰宅時にも愛らしい出迎えがある。

猫派、犬派だけでなく、鳥派、というものもおそらくあるのではないかと思う。地に足をつけない生き物だからこそ、好感が持てる。特に、文鳥のように小鳥の中でもとりわけ小さな鳥が、どれほど人間によくなつくものか、知っている人はそう多くはないのかも知れない。

鳥がどこまで人間になつくものか、どこまで鳥とのコミュニケーションが可能か、愛好家を除き、どれほどの人々が知っているだろうか。犬猫には多くのことが期待されるが、鳥には一般にあまり期待がかけられていないように思う。

聖書では、鳩を除いて、鳥一般がそれほど良い生き物とはあまりみなされておらず、しばしば悪霊の象徴として描かれるが、都会暮らしの筆者にとって、残念ながら、鳩はそんなに好感が持てない。むしろ、1アサリオンで2羽買えるという雀の方がよほど愛らしく思える。

色々と珍しく美しい鳥を飼ってみて、それぞれに独特の愛らしさがあり、極彩色の珍しい鳥には目を奪われるが、やはり、素朴で愛らしい庶民的な鳥として、文鳥は異彩を放っていると思う。文鳥は鳥綱スズメ目カエデチョウ科に属するそうだから、ほとんど雀のようなものだろう。

値段的にも手頃なので、文鳥は誰にでも入手できる(ただしよく馴れたものを飼わなければならない)。そこで、独り暮らしの老人や、様々な苦難に追われている人々の家にも、一羽の文鳥がいれば、人々は生きる意欲をこの小さな鳥からも、存分に学べるのではないかと思う。

何しろ、大きな鳥がエネルギッシュなのは当然であるとして、これほど小さな体の鳥がこれほど愛らしく造られ、賢く活発に飛び回って生きているその様子を見ていると、まして人間にはさらにもっと多くのエネルギーと知的可能性が備わっていることは疑いの余地がないと分かって来る。

こうした生き物を見るときに、彼らに注がれる神の愛を思わずにいられない。神の許しなしには、一羽の雀も地に落ちることはない(マタイ10:29)というフレーズを思い出す。それは転じて人間に対する神の愛として受け止められる。勇気を出しなさい、一羽の雀さえ、こうして神が素晴らしく造られ、養っていて下さるのだから、まして人間はもっと神の御前に高価で貴い存在ではないのか。

だが、それは単に人間の貴さを力説して人を自己満足させるための御言葉ではない。冒頭に引用したように、人間に注がれている神の愛は、信者が主の御名の証人として立つことと大いに関係がある。

こうして主が新しい鳥たちに出会せて下さるのも、小さな十字架の死と復活の働きである。
 
さて、参院選が近づいているが、今一つ選挙は盛り上がっていないような印象を受ける。大本営発表は早くも与党に有利な情報ばかりを流しているらしいが、筆者は大本営広報部というものは嘘しか発表しないと理解しているので、全く目にしていない。さて、ネットには次のような面白い記事があったので引用しておきたい。

マスコミに載らない海外記事」からの引用である。翻訳もさることながら、訳者のコメントがいつも気が利いていて面白い。巨城も蟻の一穴から崩れる、と言われる通り、IWJに6000人近くも読者いるのであれば、憂鬱になる必要はないだろう。なぜなら、その6000人がみなインテリであって、自分の耳に入れた情報を隣人に伝えて行く力があれば、それだけでかなりのインパクトがあるからだ。10万人の愚者が定期購読している御用新聞よりも、6千人の知者が購読している民間のメディアの方が力がある。

ここで筆者にはバアルに膝をかがめなかった7千人、という聖書のフレーズが頭をよぎる。

それはバアルの預言者たちの前で、大胆に神の奇跡を行ない、バアルの偽預言者たちを皆殺しにした神の預言者エリヤが、アハブ王を背教によって堕落させた王妃イゼベルに命を狙われ、彼女の追跡を恐れて逃亡していた時に神がエリヤに言われた言葉である。

エリヤはバアルの預言者たちの前であれほど大胆に主の御名を証したのに、なぜイゼベル一人に恐れを感じて荒野へ逃げたのか、という質問を投げかける人がよくいる。どのような方法でイゼベルがエリヤを追い詰めたのかは分からないが、少なくとも、エリヤは追われるのは沢山だ、自分の命を取ってくれと神に願うのである。

しかし、神はそんなエリヤをあざ笑ったり、見捨てたりすることなく、むしろ、食うや食わずで疲労困憊していた彼のために食事を備え(復活のイエスが漁をしていた弟子たちのために食事を整えた光景を思い出す)、そして、国中の全ての人間が背教に落ちたアハブ王とイゼベルの手先になっているわけではないことを告げ知らされる。しっかりしなさい、エリヤよ、あなたは一人で戦っているわけではないのだ、アハブとイゼベルに魂を売らなかった人間が確かに残っているのであり、その数は7千人であると。

筆者は考えている。志の純粋性さえ保てていれば、人数はそう多くなくて良いのだと。当ブログなど、再開当初は訪れる大半はさわやか読者であったが、そんな中でも、記事を書き続けていると、さわやか読者の数はもうほとんど1人、2人程度しか残っておらず、その代わりに、あっと思うような輝きを放つ検索用語で当ブログにたどり着いて来る人々が増えた。

以前のような聖書の脅し文句ではなく、真実、キリストを訪ね求めた人々でなければ、決して使わない御言葉である。

そんな光景を見ていると、御言葉を慕い求める人々が尽きたわけではないことがよく分かって来るのだ。常に筆者を意気阻喪させようと工作に余念がない人々の活動は脇に置いて、主が取り置いて下さった人々のことを考えたい。

ブログを書き続けていると、自ら発表したもののの影響の大きさを常に感じさせられるが、相手は常に人間ではないのである。目に見える読者でもなければ、読者数でもない。はっきり言えば、ものを書いて行く上での影響力の大きさは、情報の質である。

真に美味しいコーヒーや、入手しにくい珍しい鳥を訪ね求めてはるばる行脚する人々がいるように、安っぽい嘘にはうんざりして真実かつ高い質の情報を求めている人々は常に存在しており、そういう人々の要求に応えうるものを作って行けば、必ず、その衝撃力の大きさは現れるのである。

さらに、キリスト者である以上、筆者はただ人間の満足のためだけにものを書き続けているわけではない。これは主の御名による戦いであり、暗闇の勢力に対する衝撃力を伴う攻撃でもあるのだ。敵が我々を意気阻喪させることに余念がないならば、こちらも彼らを意気阻喪させねばならない。それはただ御言葉に基づき、何が真実であって、何が虚偽であるかを明るみに出すことによる。それが我々の霊的戦いなのである。

さて、以下の引用であるが、「スネオファシズム」とは実に言い得て妙である。誰に対するファシズムかと言えば、当然、のび太に対するファシズムである。つまり、我が国の行き先が参院選で問われているわけだが、選択肢は二つに一つだということである。

ジャイアンーースネオーーのび太という三者の関係から思い出すのは、常にキリスト教界や、他の教会や、他の信者を見下すことで、自分たちだけは天の特権階級であると誇って来たある宗教団体である。ペンテコステ・カリスマ運動を通じて、その宗教団体は、カルト被害者救済活動と一体であるが、その宗教団体は、自らの背教を隠すために、筆者にイゼベルの汚名を着せたのであった。しかし、すでに幾度も記事で書いて来た通り、イゼベルと呼ばれるにふさわしいのは、筆者ではなく、異端の教えを臆面もなく言い広めた上で、筆者に濡れ衣を着せようとした人々である。

その団体は、昔から高慢さと自己満悦で有名で、これに関わった人々は、筆者の周りでも、ことごとく手に負えない高慢さに落ちて行き、自分以外の他の信者を見下し、人の弱みをあげつらってはあざ笑うようになった。それを自分たちが「神に祝福されている証拠」だととらえ、どんな風に自分が欲望をかなえたか、どれほど他者には手の届かない非凡な体験をしたか、という話をまるで信仰の手柄であるかのように吹聴して回るようになった。日常の体験だけでなく、その人々は「神の御声を聞いた」とか「御姿を見た」とか、誰が聞いても怪しいとしか感じないような呆れる体験談を盛んに手柄として自慢するのである。
 
しかし、他者に対する優越感しかよすがのない人間というのは、本当に内面が空虚である。常日頃から、自尊心を捨てて、自分よりも強い者に媚びへつらい、魂を売って生きているからこそ、自分よりも弱い者の弱点を暴き立て、これを踏みしだき、優越を誇ることによってしか、自分の惨めさを隠し、憂さ晴らしする方法がないのである。そういう風に、人々の間に見えない階級制度を作り出し、互いの間に差別を敷くことによって、国民を分断し、互いに争わせ、もはやあるまじき出来事がどれほど身の回りで起きても全く心が痛まないほどに他者の痛みに鈍感になり、己の満足しか眼中になくなった人間を大量生産し、そういう愚者を操ることによって、己の統治を強化しようとしている何者かが存在するということを考えてみるべきであろう。他者への優越感を生き甲斐として他者を見下して勝ち誇っているような連中は、みなその格好の操り人形となっているだけである。だが、ある時期が来たら、そういう人々はみな御用となって消え去る。なぜなら、栄枯盛衰、権力というものはどれも永遠ではないからである。

さて、我が国がこれからもずっとジャイアンに踏みしだかれて、自尊心を絶えず傷つけられ、一個の人格として否定されながら、それでも自分よりも成績の劣ったのび太に対する優越感だけを生き甲斐として生きる惨めで意気地なしの「スネオ」であり続けるのか、それとも、のび太を踏みつけにすることで憂さ晴らしをするという虚栄の生き方を捨てて、のび太と共にジャイアンに立ち向かい、誰もが生きられる世界を目指すのか、問われている。

参院選の争点は、アベノミクスでなく、改憲なのだが、何よりも、対米隷属という「長い物には巻かれろ」式の生き方から、いつになればこの国は脱却するのかということが、毎回、問われている。「ジャイアン(米国)」の威を借る「スネオ」(奴隷)として生きることのみっともなさをそろそろ自覚すべき頃合いである。

というのも、ジャイアンの攻撃性は日々強まっており、今までのように、スネオがのび太を馬鹿にし、踏みつけにし、貢がせる程度のことでは、欲望がおさまらなくなって来ているからだ。今、ジャイアンが夢見ているのは、スネオに武器を持たせて、自分の代わりにスネオがのび太を殺す光景を見たいということだ。そのような見世物を俺様に早く寄越せと、ジャイアンは随分前から、スネオにせっつき、スネオを脅すようになっているのだ。さすがのスネオも一応、インテリのはしくれではあるので、こういう要求には我が身の危うさを感じ、蒼白になっている。

だが、ジャイアンは、別の町にもスネオのような、いや、スネオよりももっと凶暴な第二のスネオを抱えているので、スネオが要求をおとなしく飲まないと、殺されるのはのび太ではなくスネオだぞと脅している。いつになったら、そんな呪われた関係から、スネオは抜け出るのか、どこまでジャイアンと共に罪の連帯責任を負い続けるのか。ジャイアンのためなら、殺人者になることも厭わないのか? スネオは、その一線を超えるつもりなのか? そうして、いずれ町ごとジャイアンのための献上物、見世物として、焼け跡のように変えてしまうつもりなのか?

というのも、ジャイアンが、たかがのび太がやられたくらいのことで、満足するはずがない。スネオがのび太をやったら、ジャイアンの要求はさらにエスカレートするだろう。のび太が100人死んでも、ジャイアンの欲望はおさまらない。おそらく、スネオも死んで、町の住人が皆殺しになって、ジャイアン一人残るまで、ジャイアンは満足しないだろう。ジャイアンの猜疑心はそれくらい深いので、自分以外の誰かが生き残っているだけでも、王座を奪われるのではないかと、気が休まる時がないのだ。だから、ジャイアンにとっては、自分以外の誰もいない世界が望ましく、スネオであろうとのび太であろうと、皆が敵なのである。だが、そんなジャイアンの欲望の言いなりになっては、この国土はもはや灰塵と帰して何も残りはすまい。そして、その日にジャイアンは言うだろう、「おまえたちには大変、不幸なことだったな。何しろ、空から原爆が降ってきたんだ。どういういきさつでそんな惨事が起きたのか、俺は全く知らない」と。

むろん、これはジョークであるが、実際に、このような経過を我が国が辿ることはないであろう。なぜなら、歴史は繰り返せないからである。グノーシス主義の原初回帰が不可能であるのと同様、軍国主義の再来も不可能である。以前に起こったことをどんなにもう一度起こそうとしても、それは無理である。

そして、神は義人と悪人とを共に滅ぼすようなことはなさらない。地球が何万回滅びるほどの出来事が起きたとしても、神はご自分を頼る民を必ず守り、救い出して下さる方なのである。十字架の死は、決して霊的死のみでは終わらず、復活の前提なのである。主の御名は誉むべきかな。
 
  
以下は「マスコミに載らない海外記事」から抜粋(太字、赤字は筆者による強調)

大本営広報部とは、全く違う見方をする記事、今朝の日刊IWJガイド・ウィークエンド版をそのまま引用させていただこう。こういう記事・報道を読む人々の人数が、60,000人ではなく、6,000人に満たないという事実を読むたび、毎回、憂鬱になる。
 

■■■ 日刊IWJガイド・ウィークエンド版【参院選まであと15日!】「本日11時より、岩上さんが東電による『メルトダウン』隠蔽に関して郷原信郎弁護士に緊急インタビュー!/イギリスのEUからの離脱が確定、キャメロン首相が辞意表明/IWJでは各党各候補者の街頭演説に関する記事を続々とアップしています!」2016.6.25日号~No.1380号~ ■■■

(2016.6.25 8時00分)

 
おはようございます。IWJで主にテキスト関連の業務を担当している平山と申します。

 
世界は今、大きな曲がり角を迎えているようです。

 
昨日6月24日、イギリスでEU(欧州連合)からの離脱の是非を問う国民投票が行われ、離脱派が52%の票を獲得して48%の残留派をわずかに上回り、過半数に達しました。この結果、これから2年をかけ、イギリスはEUとの離脱協議に入ります。1973年に前身のEC(欧州共同体)に加盟して以降、43年にわたるイギリスのEU加盟に終止符が打たれることになりました。ヨーロッパは、分裂の危機を迎えることになったと言えます。

 
今回の国民投票の結果を受け、イギリスのキャメロン首相は辞意を表明。10月の党大会後に辞職し、イギリスでは新たな首相を選ぶ選挙が行われることになります。

 
イギリスによるEU離脱決定を受け、6月24日の東京市場は大混乱に陥りました。円高が急激に進み、一時1ドル=99円に。これは2年7ヶ月ぶりの値です。日経平均株価も、一時下げ幅が1300円を超えるなど大暴落しました。

 
この事態を受けて麻生太郎財務相は緊急の会見を開き、「足もとの為替に極めて神経質な動きがみられる。世界経済や市場に与えるリスクを極めて憂慮している」と述べました。しかし、円安・株高で輸出企業と富裕層のみが儲けるアベノミクスにおいて、どんな操作を行おうと、外的要因で思惑はこなごなです。

 
アベノミクス・ブームに乗せられて、株に手を出した個人投資家は、これまでも乱高下相場で痛い目にあってきましたが、今回は絶叫に近い悲鳴が聞こえてきそうです。また、こうした中でいつも気になるのは、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が運用する国民年金資金です。今回の株価暴落により、いったいいくらの国民の年金が消えたのか、その額ははかりしれません。

 
今回、イギリスでEUからの離脱派が残留派を上回った背景には、EU各国からイギリス国内に流入し続けている移民や難民が、英国人の雇用を脅かしている、というイギリス国内での認識があります。今回の結果を受け、フランスの極右政党「国民戦線」のマリーヌ・ルペン党首はただちに歓迎の意を表明。「フランスや他のEU加盟国でも国民投票の実施が必要だ」と語りました。また、米大統領選挙で共和党の指名権獲得を確実にしているドナルド・トランプ氏にとっても、追い風となることは間違いありません。

 
移民・難民を排斥する極右の台頭により、イギリス発、フランス経由、そしてアメリカ着で、戦後の国際秩序がみしみしと音を立てながら崩れ始めているように感じます。同時にこれは、冷戦後に国民国家の役割を相対化してきたグローバリズムにも、ブレーキをかけるものとなる可能性があります。

 
さて、今回のイギリスによるEUからの離脱確定は、日本の参議院議員選挙にどのような影響をもたらすでしょうか。日本人にとっては何よりも最大の気がかりです。

 
自民党改憲草案を見れば一目瞭然ですが、安倍総理が目指す改憲とは、「緊急事態条項」を創設することで基本的人権を停止させるとともに、集団的自衛権を行使して米軍とともに世界中で戦争をする「国防軍」を創設しつつ、天皇を「象徴」ではなく「元首」と戴く「祭政一致の国家神道」の復活を含意するものです。

 
これは、日本が戦前に復古し、国権を強化するベクトルと、米国にどこまでも忠実につき従ってゆく属国化、果ては植民地化へのベクトルという矛盾した真逆の方向を向く2つのベクトルを同時に抱えこむもので、いずれその矛盾によって破綻しかねないように思われます。

 
ただそのウルトラナショナリズム米国隷従のどちらにも共通するのは、日本国民の主権、人権、利益、権利が最小化されてゆくという点です。国民主権、基本的人権の尊重や平和主義といった、戦後の日本社会が日本国憲法を通じて守ってきた人類普遍の原理を覆し、戦後の国際秩序に対して挑戦し、孤立化を招くものです。米国の陰に隠れてさえいれば、あとは国内の国民の声も国際社会の米国以外の国々も無視するという、岩上さんいわく「ジャイアンに依存スネオファシズム」が極大化されます。

 
この時、「スネオ化」した日本の支配層は、「国民は総活躍しろ、血を流せ、死ぬまで働け、ためこんでいる金は吐き出せ、働けなくなったら死ね」と先日の麻生氏の発言を現実化してゆくのでしょう。その意味で、今回のイギリスにおける危機は、日本にとっても対岸の火事ではありません。英国の危機よりも、日本の危機の方がはるかに深刻であるというべきでしょう。

 
悲惨な戦争の記憶とともに築きあげられた平和と人権を守る戦後秩序を守るか、あるいは戦前の軍国主義とも少し違う「スネオファシズム」体制に突入してゆくのか。今回の参院選では、有権者一人ひとりに対し、このような問いが突きつけられていると言えます。

 
今週、IWJでは6月22日に公示を迎えた参院選の取材に、最も時間を割きました。本日の「日刊IWJガイド」は、ウィークエンド版として、今週の岩上さんによるインタビューとIWJによる取材成果をふり返ってゆきたいと思います。

わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。

「イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(マルコ10:29-31)

さて、我が家の成員が急遽増えたので、しばらくそちらにかかりきりになっていた。
鳥の雛が我が家にやって来たのだ!

毎朝、毎夕、我が家のベランダには可愛い雀たちが群れて挨拶にやって来て、つい先日は、手の届くほどの距離で物干しさおにちょこんと止まっていたが、鳥好きの私としては、雀を眺めているだけでは物足りない。

むろん、我が家のメンバーはすでに存在しているのだが、もう少し成員を増やしたいと願った。

以前の記事にかつて起きた小鳥の落鳥のことを書いた後、言葉が足りなかったなと思うことがあった。「主が与え、主が取りたもう」・・・、このストーリーには確かに続きがあるが、まだそれを書いていないからだ。

は与え、は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21) これはヨブの言葉であるが、主は取られることもあれば、必ず、その後、以前よりも豊かにお与え下さる方なのである。

それが証拠に、ヨブはサタンの試みにあって家族を失い、一時は一家全滅の寸前まで追いやられたのに、物語の最後では、前よりも豊かになっている。

このように、むろんヨブほどの試練ではないにせよ、何かが我々の生活から取り去られる時、いつも主にあってそれを小さな十字架として受け止めるならば、しばらくの悲しみの後に、前よりももっと豊かな祝福が与えられる。

それがどんなきっかけで生じた損失であれ、法則は同じなのである。自分の過失であれ、誰かの裏切りであれ、偶発的な事件であれ、何が原因で生じたものであれ、すべての痛みと損失を主に持って行き、主にあって、これを日々の十字架として受け取り、「主が与え、主が取りたもう、主の御名は誉むべきかな」と宣言するのである。

すると、そこに死と復活の法則が働く。そして、不思議と受けた損失を補って余りある祝福が天から与えられるのである。

私はこのことをよく経験して来た。

だから、きっと小鳥もそうに違いないと確信していた。案の定、探すと不思議な幸運で、大した苦労もなしに、ちょうど雛のシーズンが終わる前に、実によく人馴れした愛らしい鳥たちに出会うことが出来た。

それは願った以上のものが向こうからやって来るほどで、頼んでもいないのに珍しい鳥が集まって来るのである。

しかし、これは鳥に限った話ではない。以前に、あるキリスト者に向かって、ロシア語の練習の機会が欲しいのだと話した時に、こう言われた、「ヴィオロン、それはね、ロシア人よ、私のもとに集まれ!と命じるんだよ」と。その時にも、実際に不思議とそうなって行ったのだが、今度は鳥である。(鳥と同列に論じられるとロシア人は怒るかも知れないが。)

キリスト者は自らの言葉によってさまざまな出来事を主と共に創造している。だから、どのようなことであれ、主の栄光になるように語ることが大切である。「主は与え、主は取りたもう。しかし、主の御名はほむべきかな、主は我々のすべての必要と心の動きをご存知で、私たちの地上の人生は、痛み苦しみだけでは終わらないのだ…」

むろん、誰しも、大きな別離を経験したすぐ後に、立ち上がって再び出会いを探そうというのは無理な話である。そんな不自然なことをする必要はない。悲しみたい時には悲しみ、涙を流すべき時には思い切り泣き、目いっぱい、人として自然な生活を送り、そして、立ち上がり、望む気力が出て来たときに、新たな出会いを模索するのである。それはペットであれ、仕事であれ、人との出会いであれ、みな同じである。主は絶対に人の心の自然な動きに反するようなことを求められない。

だが、信仰者が信仰によって望みを抱いて立ち上がるなら、そこから、常に新しい展望が開けて来る。それは信者の歩みが主との二人三脚だからである。

十字架の死と復活の法則は、すべてのことを信仰によって主の御手から受け取る時に確かに生きて働く。良いことも、悪いことも、喜ばしいことも、悲しいことも、何もかもすべてを主の御手から受けとるのである。

そして、主こそ、それらすべての現象をご自身の栄光に変えることのできる方であることを信じるのである。

それは日々起きるすべての出来事の中での信仰による一瞬の手続きである。何も考えずにただ現象に振り回され、左右されるのでなく、すべての出来事の只中にあって、主を見上げ、すべてのことを主の御手から受けとることを、あえて信仰によって宣言するのである。

そうすると、悲しみや苦しみでさえ、まもなく新たな喜びへと変えられて行く。何かが失われたように見えても、しばらくの後に、溢れるほどの祝福が返って来る。その不思議ないきさつを見ていると、おそらくは、そこに日々の十字架の働きが――死と復活の命の働きが確かにあるのだろうと想像するしかない。

私は十字架の恵みに満ちた喜ばしい側面だけを強調しようとは思わない。主に従う上で、苦しみは確かに避けて通ることができないと知っているからだ。セルフがキリストと共に十字架の死に同形化されることに、痛みが全く伴わないはずがない。

しかし、それでも、キリスト者の人生とは、苦しみの連続には終わらない。ダビデが謳ったように、慈しみと恵みとが生きている限り、キリスト者を追って来るのである。

そして、当ブログに書いて来た通り、これまで筆者が出会ったクリスチャンを名乗る人々の間では(むろん、彼らはとても信者を名乗るに値する人々ではなかったのだが)、裏切りや離反や密告や誹謗や讒言や、誰も目にしたくもないさまざまな偽りの光景が目の前で起きて来たが、同時に、これらの損失(?)を補って余りある祝福もまた上から与えられるのだと信じている。

人の人生を食い荒らすことしかできないバッタやイナゴのような無価値な一群とは別に、人に喜びを与え、そのさえずりによって安らぎをもたらす美しい鳥たちの群れも飛んで来ることであろうと確信している。

私は何もこの手に握らない。これだけは私のものだ、これだけは取らないでくれ、としがみつくものはない。
それでも、聖書には書いてある、信仰者は主の御名のために失ったものの百倍を受けるのだと。今の世でも、来るべき世でも、豊かな報いを受けるのである。(来るべき世には家というものがないので、永遠の命を報いとして受ける)。回復されるものの中には、兄弟姉妹も含まれている。これには信仰による兄弟姉妹も含まれると私は確信している。

だから、ヨブが失った家や娘息子たちを再び主の御手を通して得たように、失われたクリスチャンの兄弟姉妹たちも再び得られる時が来るだろうと確信している。ちょうど、海の向こうから贈り物を携えてやって来る外国人たちを信仰によって呼び出したように、すべての生活の必要と、兄弟姉妹を、呼び出すのである、御言葉に基づき、信仰によって――。

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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