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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。

「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。 」(イザヤ65:17)

目覚めると、この御言葉が心に響いた。何の変哲もない朝だが、いつの間にかエクソダスが完了していた。いつの間にか紅海を渡り切り、追っ手はいなくなり、エジプト軍は溺れ死んでいた。あの激しい戦いがすべて過去になり、新しい朝が来たことが分かったのである。

このような確信は、言葉で証明できるものではない。まだ周りには、がれきの山が散乱しており、洪水の爪痕が残り、後片付けが残っている。また雨が降るのではないか? 箱舟から降りて大丈夫なのか?

目に見える保証はない。それにも関わらず、「戦いは完了した」とはっきり心の中で理解できるのである。

前にも書いたように、霊的「エクソダス」の瞬間には、いつも激しい戦いが伴う。その脱出は、命がけの試みであり、壮大なドラマである。私たちは信仰の小舟に乗っているが、外の嵐に、小舟は翻弄される。嵐が本当だと信じるのか、それとも、信仰によって与えられる内なる平安を信じるのか。それは常に私たちの心にかかっている。

どんなに波が高く、風が強く見えようとも、心の奥底にある平安を確固として握りしめ、御言葉に立って、主に従い抜けば、いつの間にか、考えられないような静けさが訪れる。戦いは止み、平安が訪れる。

もし本当に脱出したいと望むならば、絶対に目的をあきらめてはいけない。追っ手がどんなに強力に見えようと、妨害がどんなに激しく感じられようと、決してあきらめてはならない。

神が必ず自由な地へと導いて下さる。長血の女がイエスに出会って癒されたように、長年、主の民を圧迫し、食い破ろうとしていた獰猛な獣は追い払われ、鉄の枷が打ち砕かれたのだ。

筆者は、キリスト教界からのエクソダスはとうに完了したと思っていたが、もしかしたら、未完了の部分が残っていたのかも知れない。何が過去に引き留めていたのかは知らないが、いずれにせよ、改めて自分自身をキリスト教の一切の宗教組織から引きはがし、この呪われた絆をキリストの十字架の死において完全かつ永遠に断ち切ったのであった。

むろん、筆者は生涯の終わりまで聖書に忠実な信仰者である。だが、地上の宗教組織は、もはや筆者とはいかなる関係もない。そういうものとは一切縁を切り、地上の呪われたキリスト教界とは何の関わりもないただの人として生きることに決めたのである。

その決意と共に、この古き絆から派生していたすべてのしがらみが死に絶え、断ち切られたのであった。筆者は、全く新しい方向へ向かって歩き出した・・・。
 
溺れ死んだのは、古き人、古き過去、古き呪われた縁の数々・・・。気付くと、キリストにある新しい人としての新しい朝がやって来たのであった。

ちょうど横浜へ来る直前がそのような状況であった。信者の刷新は、まず霊の内側から始まる。霊から始まる新しい命の息吹が、魂へ、体へと波及し、現実に少しずつ影響を及ぼしていく。この変化は少しずつ行われる。

十年ほども前のことであるが、筆者はその頃、色々な戦いがあって疲れていた。霊の内側は新しくされても、体はまだ過去の残滓の只中にあり、主が色々なことを用意して下さったのに、目まぐるしい展開に着いて行けず、自ら望んだことだったにも関わらず、こんなことで大丈夫だろうかと不安に思っていた。

いつものように朝寝坊をしかけていると、御霊によって起こされた。最後の平日だから、今日は住民票を取らないと手続きが間に合わないから行きなさいと、心に思い起こさせられたのであった。

その頃、自分が新しい土地へ旅立ち、どこで何をすることになるのか、皆目、分からないまま、それでも平安の内に御霊と共に歩んでいた。何もかもが手探りである。不慣れゆえすべてに戸惑いがないわけではない。だが、心の底では平安だ。主が着いておられるという確信があった。体がどんなに疲れていても、御霊が新しい命の中から、筆者自身のものではないエネルギーを心と体に供給してくれる。

その当時と今は全く同じである。神と私との間を隔てるものが何もなくなった。おそらく、筆者と神との間を隔てていたものがあるとすれば、それは地上の呪われた宗教組織、神と人との間に立ちはだかろうとする肉なる指導者、十字架を経ていない生まれながらの人間の古き人の情による絆としがらみだったのであろう。
 
だが、古きものはみな水の下に沈み、滅ぼされた。一つの時代が過ぎ去り、ノアは恐る恐る箱舟から降りて、新しい地へ一歩を踏み出す。まだ誰も降りたことのない、清められた新しい地、復活の領域に・・・。

主は私に顔を上げるよう促し、目の前に見える広大な土地を指して言われる、「目をあげて、目の前にある新たな土地を見なさい。あれがあなたのための土地です。まだ誰も足を踏みいれたことのない新しい土地です。これから始まることに思いを馳せなさい。古き世界のものがあなたを追ってくることはありません。それはあなたに手を触れられません。かつてあったものはみな死んだのです。

あなたはキリストにある新しい人、先のことをもう思い出す必要はありません。それは私の中では無きに等しいものですから、あなたも同じように考えなさい。死んだものに未練を持たず、それを振り返らず、これから進むべき地、獲得しなければならない新たな目的をしっかり見据えなさい。

恐れることはありません。私が着いています。私があなたのすべての戦いに共にいます。私の守りの中にとどまりなさい。呪われたものには二度と触れてはなりません。」

依然としてまどろみの中にあるように、心の中で、これは本当のことなのだろうか、と思いめぐらす。40日間、洪水がやまなかった間の窮屈な生活をよく覚えている。だが、神は、これから起きることに目を向けなさいと促される。

自然と、新しい歌が口をついて出て来る。それはこの世の音楽ではない、歌詞やメロディのない、人知を超えた、新しい霊の歌である。

それは、とどまるところを知らない神への賛美である。主を賛美せよ、万軍の主は戦いに勝利を取られた、心貧しい人、虐げられた人、蔑まれる人、弱い人、圧迫された人、神を呼び求め、神の義を求めるすべての選民よ、喜びなさい、神はあなた方のために、新しい人を用意され、新しい天と地を創造されたのだ・・・。

あなた方の古き人の上に、天から下られた聖なる新しい人である主イエス・キリストを着なさい。あなた方の罪のために十字架で死なれ、よみがえられたキリストを着なさい。

見よ、この新しい人の中にすべてがある。キリストこそ、すべてのすべてであって、彼こそあなたのためのまことの命なのです。
 
だから、キリストがお与えになったすべての良き性質を身に着けなさい。あなたのために天に備えられているすべての宝を、賜物を、義を、知恵を、命の糧を、キリストを通して得なさい、それはあなたのために払われた犠牲なのだから…。

主は勝利を取られた。肉の人としてのノアは、まだすっかり以前と変わってしまった大地に戸惑いを覚えている。しかし、霊の人としてのノアは、喜びに溢れ、主を賛美している。人は神のなさることを魂で理解できないが、霊においては、御霊を通して、神が人知を超えた解放の御業をなしておられることを確かに知っている。

だから、信仰の先人たちは、行く先を知らないで出て行くことができたのであり、何が起きているのかを知らないままで、主を賛美しながら、新しい目的に向かって行ったのである。

私たちは、神を畏れながら、新しい大地に跪き、主を崇め、誉め讃え、感謝する。

私たちの目は新しい契約に注がれている。それは神の目に喜ばれる新しい人であるキリスト、復活の命、新しい天と地、私たちのために用意された永遠の都である。

そこでは、もはや人の教えだとか、儀式だとかといったものはない。人が人に向かって「主を知れ」と教えることはない。神と人との唯一の仲保者であられるキリストが、直接、御霊を通して私たちを教え、導いて下さる。キリストは、信じる者たちにご自身を喜んで啓示される。

「もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、
主は言われる。
それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
エジプトの地から導き出した日に、
彼らと結んだ契約のようなものではない。
彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
わたしも彼らを顧みなかった』と、
主は言われる。

『それらの日の後、わたしが
イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、
主は言われる。

『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
 彼らの心にそれを書きつけよう。
 わたしは彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 彼らはそれぞれ自分の同胞に、
 それぞれ自分の兄弟に、
 「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。
 小さな者から大きな者に至るまで
 彼らはすべて、わたしを知るようになり、
 わたしは、彼らの不義を赦し、
 もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消え失せます。」(ヘブライ8:7-13)

「年を経て古びたもの」という言葉は、「年を経たあの蛇」を思い出させる。

「わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。」(黙示20:1-3)

復活の命には、経年劣化がない。この命は常に新しい命である。だが、堕落したもの、朽ちゆくもの、呪われたものにはすべて老いと死の跡が刻まれる。

エクレシアとは、死を打ち破ってよみがえられたキリストの命によって生かされ、立たされているすべての者たちである。いかなる外的な証明手段にもよらない、復活の命の刻印を帯びたすべての人々を指す。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(Ⅱコリント5:17-18)

キリストにあって、神と和解し、一つとされた人々。キリストに結ばれた聖なる花嫁。この人々は、新しい天と地、新しい都へ向かって進軍し続ける強力な軍隊である。

私たちのためには堅固な都が用意されている。そこには汚れた者は入ることはできない。だが、その都へ入るために、私たちは勇敢に前進して、信仰の戦いを戦い抜いて、御言葉を守り抜き、勝利を得る必要がある。聖書は言う、臆病者、不信仰な者になってはいけないと。勝利を得る者が、神の相続財産を受け継ぎ、神の子どとして栄光を受けるのだと。

だから、エクレシアよ、神の軍隊よ、花嫁たちよ、臆することなく、勇敢に前進して行きなさい! あなた方のために備えられた約束の地を勇敢に勝ち取りなさい!
 
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。

そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。
 見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。

すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。

また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。
 しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」(黙示21:1-8)
 
最後に、「神は決して正しい者がゆるがされるようにはなさらない。神は志の堅固な者を全き平安のうちに守られる。」という記事から、もう一度、以下の御言葉を引用しておこう。


あなたの重荷を主にゆだねよ。

主は、あなたのことを心配してくださる。
主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

しかし、神よ。あなたは彼らを、
滅びの穴に落とされましょう。
血を流す者と欺く者どもは、
おのれの日数の半ばも生きながらえないでしょう。
けれども、私は、あなたに拠り頼みます。
(詩編55:22-23)

私たちには強い町がある。
神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。
城門をあけて、
誠実を守る正しい民をはいらせよ。
志の堅固な者を、
あなたは全き平安のうちに守られます。
その人があなたに信頼しているからです。

いつまでも主に信頼せよ。
ヤハ、主は、とこしえの岩だから。
主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、
これを下して地に倒し、
これを投げつけて、ちりにされる。
貧しい者の足、弱い者の歩みが、
これを踏みつける。
(イザヤ26:2-6)


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神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。死人を葬ることは、死人に任せなさい。

どのようなことでも、自分自身でやってみることに価値がある。最初は抵抗感を覚えるような難しいことでも、少しずつ、取り組んでいるとコツが分かって来る。訴状もいわば作品の一つのようなものだ。
  
ものを書くのは、ひたすら考察と推敲の繰り返しである。当ブログの記事も、かなりの回数、書き直している。一度書いたものは二度と書き直さないという人々もいるが、筆者はとにかくひたすら文章を推敲するタイプだ。まして公に出す文書は、それにかける手間暇はすごいものがある。

その作業をこれまでずっと着実に果たして来たからこそ、自信を持って、どんなことでも自分でできると断言できるのだ。これは主イエスがついておられるがゆえの自信でもある。自分自身により頼まず、神により頼んでいるからこそ、言えることなのだ。

筆者は、当ブログを迫害して来た暗闇の勢力の手口を、何年間もかけて研究した結果、その手口には、ほとんど定型化された複合的なパターンがあることを学んだ。恫喝による口封じ、誹謗中傷による圧迫、個人情報の暴露の脅し、猜疑心を植えつけることによる仲間との分断工作、訴訟で反撃しようとすれば、スラップ訴訟だとわめき、権利を主張することを何とかして諦めさせようとすることなど・・・。

こうしたことは、ブラック企業が労働者に権利をあきらめさせようとする時に使う手口と非常によく似ている。だが、筆者はこうしたやり方にも、毅然と立ち向かう術を学んで来た。それ通して、卑劣な訴えにどう立ち向かうかという具体的な方法論を学んで来たのである。学生時代のディベートで鍛えた能力に加え、悪徳社労士、悪徳弁護士のような人たちにも根気強く向き合い、代価を払って、どのようにして自分の権利を守るかという具体的な方法を学んだ。

今やネトウヨが弁護士に大量に懲戒請求を出したりしている時代であり、人権そのものを敵視し、これを葬り去りたいと願っている勢力が蠢いている。しかし、そのような考えにチャンスを与えてはいけないのだ。弁護士を攻撃することの背景には、人権への敵視が潜んでいる。だが、卑劣な訴えには、弁護士の方も黙ってはいない。何百人ものネトウヨに毅然と反撃を開始しているし、DHCのような巨大企業からスラップ訴訟を起こされた弁護士もこれに立ち向かい、今やDHCを被告席に座らせていると聞く。 

パウロは空を撃つような拳闘はしないと言ったが、筆者も負けるような戦いはしない。だが、努力なしに勝利できる戦いなど何一つない。実践の積み重ねでしか、手応えを掴むことはできないのだ。従って、脅されたからと言って、すごすごと引っ込んで取引に応じて妥協などしていれば、そんな臆病な態度では、初めから何一つ学習できない。まして殉教などを語る資格は全くないと言えよう。
  
さて、今回の訴えの中には数々の不法行為に加えて、著作権侵害も重要なポイントとして含まれるので、記事にまとめるために推敲しようと一旦、非開示にしていたコラム欄も公開しておきたい。

当ブログに長年敵対しているブログだけでなく、匿名掲示板でも多数の剽窃が行われている。掲示板のコメント投稿者らの中には、ネタ探しのためだけに、様々なブログを訪問し、出典も示すことなく、文章を無断で剽窃して行く者たちがいる。

剽窃者らは、ブロガーが最も手間を割いて書いた肝心な記事には見向きもせずに、ただゴシップ探しのためだけに様々なブログを訪問している。そして、わずか1~2秒ほどで、前後もわきまえずに、短い文章をコピペして盗み取り、別な場所へ貼りつけるために去って行く。そういう読み方を、ブログの作者は全く望んでおらず、それがブロガーへの敬意でもない。

法律上、出典を示せば、ある程度の引用は認められているが、本文のほとんどがコピペのような文章は、引用の範疇には含まれない。他者の画像や文章の出典を示さずに引用することは、剽窃に当たり、それだけで違法行為として、後日、責任追及がなされる可能性がある。

そこで、当ブログの文章を許可を取らずに引用することは控えていただくようにされたい。匿名掲示板だから、他人の争いだけを高みの見物できると高をくくっていると、思わぬところから足をすくわれることもありうる。

権利侵害を受けている当事者には、被害を語る権利があり、訴えられている人間にも、合法的な範囲で自己弁明する権利がある。もし合法的な範囲を超えて、反論をすれば、当然ながら、その訴えは認められず、かえって罪として追及されるだろう。

だが、当事者でなく、裁判官でもないのに、どっちつかずの立場から、人を裁き続ける「無数の匿名氏」らの罪も非常に重いと言えよう。もし真に「匿名氏」として非難されるべき存在があるとすれば、それは、当ブログではなく、むしろ、自分は何の苦労も責任も負うことなく、最低限度の自己紹介もなしに、ただ他人の文章を無断でコピペして、評論家然と、知ったかぶりで物事を論じ、部外者にも関わらず、当事者をよそにして、他人の人生を見物材料として高みの見物し、裁判官でもないのに、どっちつかずの立場から、人々を裁き、争いに火に油を投じようとしている人々であろう。

誰からも被害を受けていないにも関わらず、自分が審判者となって他人の争いに首を突っ込み、事態をよりこじらせるような投稿を行い続ける人々は相当に悪質であると言える。

また、人が自分で公開していない個人情報を無断で収集し暴露することも、プライバシーの侵害であり、不法行為に当たる。どんな理由があっても、本人が公開していない個人情報を第三者が無断で暴き、公表することは許されない。

ところが、牧師の中にさえ、当ブログを「匿名氏」と呼んで、実名暴露せよといきり立つ暴徒のような人々に暗黙の賛同票を送り、彼らの怨念を煽り立て、犯罪行為に焚きつけようとする者がいる。それはカルト被害者救済活動の筆頭に立ち、実際にこれらの暴徒たちに筆者の個人情報を提供したと見られる村上密のような牧師だけではない。

たとえば、以下の記事を読んでいただければ分かるように、筆者と面識のない牧師でさえ、そのような考え方に暗黙の賛同表を送っているのである。

死人を葬ることは死人に任せなさい―肉による情愛や、弱者救済を口実に、エクレシアにこの世を公然と持ち込むプロテスタントの偽牧師たち ―

異なる意見を持つ人々がネット上で議論することは大いに奨励されて良い。だが、平和な議論と、他人が公開していない個人情報を暴露したり、暴露を助長するような呼びかけを行うことにより、恫喝や権利侵害によって反対意見を力づくで封じ込めようとする行為は、厳に区別されなければならない。

実名でブログを書くかどうかは、あくまで本人の判断であり、ペンネームでブログを記すことは何らの不法行為にも当たらない。個人情報をどこまで公開するかは、あくまで本人の自主的な判断によるのであって、それは他人がとやかく言える問題ではない。実名を出さないから無責任だとか、逃げているなどといった主張も成立しない。

特に、現代社会ではセキュリティ上の観点から、一人一人が慎重な決断を求められており、世間でも、様々な犯罪事件の被害者が二次被害の発生などを抑えるために、個人情報の公開を自ら制限することは当然視されている。

にも関わらず、キリスト教界の牧師たちには、以上のような認識がまるで欠けているのである。
この教界には、表向きには、弱者を助ける優しい正義の味方のような顔をしつつも、実際には、自分よりも目下と考えている信徒らから、ほんの少しでも自分の論を批判されただけでも、相手を赦すことができない思いになり、生涯をかけてその相手を恨み続け、相手が一般信徒であっても、個人情報を暴露するなどして、何年間かけてでも徹底的に報復せずにいられないという、ヤクザ顔負けのような牧師たちが跋扈している。

自分が信徒に批判されて、少しでも面子を傷つけられたと感じると、一人を寄ってたかって大勢で痛めつけ、個人情報を暴き、徹底的に辱めようとする。むろん、相手が女性であろうと、一般信徒であろうと、一切の容赦もデリカシーもない。さらに、自分の手を汚さないために、一見、自分の教会とは無関係に見える信徒を焚き付け、手先のように利用して、復讐を加える。

しかも、その執念深さたるや、まさに異常のレベルである。些細なことで10年間も誰かを恨み続ける。法律には時効があるのに、彼らはその時効さえ無視し、法も無視して、私刑を加える。たった一件のコメントでさえ、頼まれても削除に応じない。一旦人を憎むと、恥知らずな嘘のプロパガンダを終わりなく流布して、徹底的にその人の人生を滅ぼそうとする…。

世間は、これがキリスト教の宗教組織の醜い現実の有様であることをよく見れば良いだろう。筆者の知り合いには、他宗教の信者も数多くいるが、自らの知人に対して、このような陰惨な復讐劇のような光景が繰り広げられているキリスト教界を見て、これに人々は少しでも近寄りたいと考えるだろうか。このような悪しき、忌むべき牧師たちを抱える宗教組織に自ら関わりたいと、人々は考えるだろうか。

むしろ、筆者に対して彼らが行っている仕打ちを見れば、筆者でなくとも、このような業界からは、誰しも「エクソダス」を唱えるのが当たり前であろう。当ブログで批判されて向きになって言い返している牧師や信徒たち、信徒の個人情報を言いふらす信徒、嘘八百を垂れ流して信徒を傷つける信徒、掲示板で騒ぎを拡大している信徒らを見て、こういう人たちに関わりたいと思う人は、誰もいないだろう。要するに、カルトを批判している人たちが、一番カルト化しているわけで、この光景を見ただけで、この宗教は何かがおかしいと世間は考え、近寄りたくないと思い、逃げ去って行くのは当然であろう。

こんなものが真実なキリスト教徒の姿と言えるはずもない。一般人以上に異常である。このような人々の出現は、キリスト教の名折れでしかないと、筆者ははっきり言っておきたい。そして、このような人々が、他の宗教団体を敵視して、正義漢ぶって争いをしかけるなど、百年早いと断言する。

だが、こういうことが起きたのも、牧師制度が既得権益となり、政治家と同じように世襲制となり、利権そのものと化していればこその事態である。牧師制度などというものが導入されたこと自体がとてつもない誤りであり、牧師制度が徹底的に腐敗すると同時に、キリスト教界全体が腐敗し、完全にセルフで塗り固められた搾取と虚栄の世界と化したのである。

筆者は生涯の終わりまでキリスト教徒であり、聖書への信仰は失わないつもりだが、こんなにも醜い宗教組織は、聖書とは何の関係もない、堕落した世界でしかなく、関わりたいとも思わない。世間はよくよくこうした事件を通して、この宗教の何たるかを学ぶことだろう。筆者は幼い頃からキリスト教界を知っており、通りすがりの人間としてコメントしているわけではないことも重く見られると良い。

牧師たちは自教団・自教会内での地位さえ守れれば良く、そのためならば、どんな手段を使ってでも、信徒の口を封じれば良いと考えているのかも知れないが、そのようにプライドと自己保身がすべてとなった姿が、客観的に見て、あまりにも幼稚で醜く忌まわしいものと映り、キリスト教の評判をさんざんなものにしていることに、自分で気づいていないのである。

安倍政権と同じだ。内実のない者が職務的に高い地位に就き、自分よりも賢明な者たちに横暴な権力を振るっている。だが、偉そうに君臨していられるのは国内だけで、世界からは呆れられている。要するに、自分を客観的に見る能力が欠けているのである。

かつて筆者の前で、プロテスタントの牧師の未熟さ、幼稚さ、傲慢さについて思いの丈をぶちまけ、非難の言葉を残して、カトリックへ去ると述べた信者がいた。筆者は、プロテスタントに絶望してカトリックに去ることが正しい選択だとは思っておらず、キリスト教を改革して母性原理を補うべきと唱えるペンテコステ運動をも支持しないし、禅や、ニューエイジ思想を取り込むことにも賛成できず、統一教会やその他の異端を支持するわけでもない。

筆者はカルト団体を支持しないが、他のカルトの犯した罪がどうあれ、今日、これほどまでに徹底して腐敗堕落したキリスト教界は、そもそも他宗教を非難できる筋合いにはないと思う。まずは牧師制度という階級制度を撤廃すればよろしい。牧師制度こそ、諸悪の根源であり、どの異端よりもさらに悪質で、完全に間違った制度であると、声を大に言わざるを得ない。
 
カルト被害者救済活動の暴徒のような信徒を生んだのも、牧師制度であり、キリスト教界を声高に非難し、憎しみの言葉を発し続けているKFCを生んだのも、牧師制度である。この制度こそ、まさに信徒同士を戦わせるすべての悪の根源になっていることが、なぜ多くの人々には分からないのだろうか。

牧師制度には聖書的な根拠がない。使徒パウロは信徒らから献金を受けとることができる立場にあったにも関わらず、何が何でもその権利を使うまいと考えて、身を粉にして働いた。初代教会には、信徒からの献金で生計を立てたような宗教指導者は、誰一人として存在しなかった。

今日の牧師たちは、羊を食い物にする強盗であり、霊的な中間搾取者階級でしかない。彼らには自分たちの利権だけが大切なのであり、信徒は野望を実現する手段でしかない。だからこそ、彼らは思い通りにならない信徒に徹底的に復讐を果たし、信徒を闇に葬ろうとするのであり、このような醜い精神は、悪魔から来るものであって、どこをどうやっても聖書に基づいて生まれて来るものではない。

だからこそ、当ブログでは、彼らはグノーシス主義者だと、再三、言っているのである。筆者がこの論稿を書いているのは、今日のキリスト教界が、全く聖書に基づかない別な教えによって陥落されていることをはっきりさせるためである。

誰が本当のキリスト教徒であるのかは、神ご自身が証明される。悪党を支援した牧師は恥を見ることになる。

さて、当ブログについて虚偽の非難を繰り広げている人々に公に反駁することは、訴訟が始まってからで良いと思っているので、ここに書いていることは、あくまで予告であって、公の反論は後日、きちんと手順を踏んで行うつもりであるが、それに先立って、いくつかかいつまんでトピックを挙げておこう。
 
労働紛争を闘うためには、会社の登記簿謄本を取り寄せるのは必須条件なので、会社と闘ったことのある人が、会社情報の調べ方を知らないことはあり得ない。だが、料金を払ってまで、会社の登記簿謄本を取り寄せたいと願う人がいるかどうかは別問題だ。仮に登記簿謄本を取り寄せなかったとしても、それだけで「会社情報の調べ方も知らない」と決めつけることはできず、そういう決めつけを発表すれば、誹謗中傷となるだろう。

さらに、「…という説もある」とあえて疑問の余地を残している記述を基に、「ガセネタを流布した」と言い切ることはできず、そのような主張こそ、かえって「ガセネタ」とみなされる恐れがある。むろん、掲示板からの情報だと記されていないものについて、勝手に掲示板の情報だと決めつけ、それを基に非難を繰り広げることも、誹謗中傷である。

さらに、「キリストの香り」「キリストを着る」といった言葉は、クリスチャンとしては最低限度、知っておかねばならない聖書表現である。この表現を知らないのであれば、せめてネット検索だけでもしていれば、すぐに分かったはずである。むろん、どちらも筆者の「お得意の造語」などではない。むしろ、「一人修道院」といった訳の分からない言葉の方が、間違いなく造語に該当するだろう。

「殉教」を「言論テロ」と決めつけたい者たちがいるようだが、もはやこうした稚拙な論には呆れて反論する気にもならない。テロを主張するためには、まずは具体的な犠牲が出てなくてはならないが、殉教の精神を説くことによって出る犠牲とは何を意味するのだろうか?

日本でも、長崎を含め、殉教したクリスチャンは、すべての信者らから尊敬を受ける存在である。殉教者を尊敬する気風は、世界のすべてのキリスト教に共通する。にも関わらず、今日、殉教の精神を説くことだけで、これを「カルト」とみなしたり、「言論テロ」と決めつける者がいるとすれば、その人は果たして本当のクリスチャンなのかという疑問が生じるのは当然である。

むしろ、彼らが自分たちの論を批判する言動をすべて「言論テロ」や「犯罪」と決めつけていることこそ、最も激しい言論テロではないのか。

筆者が、当ブログに対して長年、行われている嫌がらせ行為を刑事告訴の対象としたことを嘘だとわめきちらしている人々がいる。

だが、実際には、刑事告訴が成立しているのは事実であり、ちょうど警察が追加された中傷記事についても、長い報告書を書いているところである。筆者は、ゴールデンウィーク明けに、当ブログに対して加えられたさらなる誹謗中傷の記事を警察に提出し、これからも、改めて追加資料を提出する予定である。

警察が作成している報告書は、量刑に関わって来るものであり、むろん、筆者もさらに調書を提出する。このような話が、全て筆者による作り話だと、読者は本当に思うのだろうか? 

しかも、刑事告訴された事件について、警察は捜査義務を負う。捜査しなければ、職務放棄に当たるわけで、事件が解決してもいないうちに、警察が告訴人を「見離す」という事態は起き得ない。

警察は一般に警告を文書で出さない。もしそういうことをするとしたら、裁判所の仮処分等であろう。また、民事調停委員は中立的立場で話し合いに臨んでいるため、申立書の内容について個人的な意見を言う立場になく、まして職務として臨んでいる調停の申立内容を「分からない」と発言すること自体があり得ない。

むろん、筆者が提出した申立書の趣旨は、具体的な損害賠償請求であるため、「神学的議論」には当たらない。もしも神学的議論で埋め尽くされた申立書が出されるようなことがあれば、裁判所がそれを受け付けない。裁判所は、訴訟であれ、調停であれ、申立書に不備があれば、訂正を求め、訂正が完了するまで、決して審理を進めない。
 
申立人が、自ら費用を払って調停を申し立てたこと自体が、話し合いによる解決を目指す姿勢を意味する。そこで、相手方が、申立人の訴えを「棄却する」という答弁書を出したにも関わらず、「自分は話し合いを強硬に拒否された」と主張しても、それが認められることはまずない。

期日当日、開始時刻間際に出した答弁書の内容は、その日の議題に取り上げてもらえず、従って、その日中に回答が出ないのは当然である。それを「回答できないからしないのだ」と決めつけるのは無理筋の話である。調停では、申立人と相手方は対面しないため、必要な説明はすべて調停委員から行われる。もし説明不足があるならば、それは委員に言わなくてはならない。

第二回目の期日が決められれば、「今後の見通し」が立ったことになるので、「今後の見通しが立たず」という主張は成立しない。民事調停への出廷は任意なので、調停に呼び出されたことで損害を受けたという主張は成り立たない。
 
さらに、筆者はネット上を含め、どこにも「随想」を発表した事実がなく猫を飼っていたこともない。KFCに夜行バスを使って訪ねたのも、人生に一度きりの出来事であり、夜行バスを使って月に何度もKFCに通った事実などない。むろん、会ったことのない人間に「ラブレターのようなメール」を送った事実もなく、当ブログのグノーシス主義研究は、大田俊寛氏以外にも、荒井献氏、ハンス=ヨナス氏など、グノーシス主義研究で著名な研究者の論を度々引用しており、一人だけの研究に依拠して書かれていないことは明白である。当ブログのグノーシス主義批判が研究者の「受け売り」であると主張できるだけの具体的な論拠は何もない。

また、「Sさんへの手紙」の中には、どこにも「実名」は出されていない。この手紙が書かれたのは、2010年10月であり、当ブログに対する1千件のコメントを伴うバッシング記事がネットに掲載されたのは、2009年11月である。従って、この手紙が紛争のきっかけになったという主張は時系列的に成立しない。むろん、この手紙が和解のために書かれたものであることは、一読すればすぐに分かる。当ブログがカルト被害者の裁判を狂言呼ばわりした事実もない…。

この他にも、終わりなく事実は列挙できるのだが、わずかにたったこれだけの事実を挙げただけでも、当ブログに向けられている非難が、いかに嘘八百のデタラメであるかは、誰にでも十分に分かるだろう。そうした主張には、いかなる具体的な証拠も示されていない。真実性を証明するためには根拠がなくてはならないが、そこにあるのは嘘、ごまかし、すり替え、トリックだけなのである。

これでクリスチャンを名乗ろうというのだから、まさに呆れるような詐欺としか言いようがない。さらに、筆者から見て、最も気になる点は、どうにも彼らには「御霊に導かれるクリスチャン」という言葉に、拒否反応を起こさずにいられない傾向が見受けられる点だ。

筆者は当ブログにおいて、自分が聖霊に導かれるクリスチャンだと決して誇示したり、それを自己顕示の材料としたりはしていない。さらに、筆者は「自分たちだけが正しい信仰を持っている」と一度も述べたことがない。そもそも当ブログは、筆者個人の信仰告白を述べたものでしかなく、団体による告白ではないのだ。

さらに、既存の教会組織からのエクソダスを唱えたのも、当ブログが初めてでは全くない。内村鑑三、古くはハドソン・テイラー、ジョージ・ミュラー、それから、オースチンスパークスや、ウォッチマン・ニーなども、みな同じことを主張して、既存の教団教派から離れて行った人々である。それにも関わらず、筆者が「エクソダス」を主張していることが、まるで筆者特異の極めて新奇な概念であるかのように考えている人々があるとすれば、その人々は、キリスト教史を知らなさすぎると言えよう。
 
それはさておき、いずれにしても、「御霊に導かれるクリスチャン」に対する拒否反応こそ、彼らが、一体、なぜ当ブログに対して、これほど執拗に絡み続けて来たのか、その答えを解く最も核心となるだろうと思う。この問題を突いて行けば、隠れていた最後の動機が明らかになるという気がしてならない。

どうして彼らはこれまで聖霊派をあれほどまでに敵視し、徹底的に叩き続けて来たのか? そのような行動を取る動機として何が具体的に隠されているのか? ただ単に過去にペンテコステ派の異様な集会を見てつまずいたといったような表面的な動機ではないだろう。そこには「聖霊」そのものに対する憎しみが隠れているのだと筆者には感じられてならない。まさにステパノに向かって歯ぎしりした群衆や、イエスをベルゼブルと呼んだ人々のように・・・。 

小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださるのだから。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

さて、当方が申し立てた民事調停の第二回目の期日が開かれなかったことを、まるで当方が一方的に調停期日を「キャンセル」したかのように、自分に都合よく言いふらしている連中がいるようなので、一言断っておきたい。

普段から、裁判、裁判と叫んでいる割には、彼らは裁判手続きの詳しいことをよほど知らないらしい。当方は、申立を取り下げたわけでは全くなく、そもそも民事調停のキャンセルと不成立は全く違うものなのだ。

今回は、訴訟へ切り替えるために、裁判所に調停不成立としてもらえるよう要請を行った。後日、必要文書が裁判所から送られて来るので、それをつけて訴状を出すだけである。

民事調停は不成立になれば、これを前提として訴訟に移行することができる。その方がゼロベースから訴訟を起こすよりはるかに有利なのだ。しかも、今度は、原告の住所地の裁判所へ訴状を出すことになる。わざわざ遠方へ足を運ぶ必要がない。実に便利である。

訴えは複数、提起することになろう。しかし、この辺のことは戦略なのでブログで詳細を公にはしない。だが、本訴となれば、判決も含めて、申立の内容も、答弁書も公表されるため、誰が嘘を言っているのかは、当然ながら、万人に知れ渡ることになる。訴えに反論するためには十分な証拠が必要であり、根拠のある反論ができなければ、原告の言い分が認められるだけである。

カルト被害者救済を唱えている陣営は、案外、裁判手続きに疎いようで、この当たりのことを何も知らずに、ただ調停が開かれなかっただけで、争いは終わった、自分たちは勝った、通常通りの生活に戻ったと、恥ずかしげもなく嘘のプロパガンダを流布しているようだ。相変わらず、刑事事件も終結していないうちから、あまりにも軽率な連中である。
  
だが、考え違いをしないでもらいたいのだが、彼らのついた嘘は必ず、責任追及されることになる。当ブログは信仰告白がメインなので、裁判手続きについて細かいことは、これからも事前には決して書かない。場合によっては、事後も書かないことがあるかも知れない。今、言えるのは、こちら側では必要なアクションを着々と取って行くだけであり、脅されたからと言って退却することは決してないということである。

向き合う価値のない連中、あまりにも愚かな論争とは思うが、バアルの450人の預言者を相手取ったエリヤと同じように、勇敢に、決して途中で諦めたり、手を引くことはせず、決着をつけるまで戦い抜く所存である。

これまでも、幾度も見て来た光景なのだが、理屈の勝負となった時に、人数や力だけをよりどころとして来た連中は、絶対に勝てない。仮に向こうが当方を「口達者なだけで臆病な兎」と考えて馬鹿にし、見下げているとしても、口で筋の通った理屈を唱えられなければ、負けるのが裁判というものなのだ。そこでは、人数も図体も腕力も何の頼りにもならない。

それが証拠に、鳴尾教会との裁判で、アッセンブリー教団・村上サイドはボロ負けしている。そうなるまで、鳴尾教会の信徒の人数の減少を、村上は鬼の首でも取ったように吹聴して、さんざん上から目線で馬鹿にしていたが、その村上が負けたのだ。次には、「穴にこもった兎」と揶揄してさんざん馬鹿にしていた人間に負けることになる。事前に馬鹿にすればするほど、敗訴した時にはさらに面目丸つぶれとなろう。
 
このように、ジャイアン対のび太、ジャイアン対スネ夫の勝負であっても、ジャイアンが必ず負けるのが裁判というものなのだ。ジャイアン相手であれば、誰でも訴状を出しさえすれば、自動的に勝てると言っても過言ではない。別に口達者でなくてもよいのである。ジャイアンには腕力以外の取り柄がないので、誰にとっても恐れるに足りない。しかも、申立書は8割方出来ている。

もっと言えば、私たちはロゴスなるキリストに立脚して、信仰によって、すべてのことを行っている。私たちには、決して揺るがされることのない永遠の岩なるお方がおられる。だが、向こうには何も立脚するよりどころがない。あえて言うなら虚無の深淵、混沌から生まれて来たような、信仰のない連中である。このような闇が光に打勝つことは決してあり得ない。よろめいても、つかまる支えになるものさえ彼らにはなく、風に吹き去られるもみ殻である。

このような状況で、とある連中が、決着も着いていない争いについて、嘘のプロパガンダをさんざん流布していることは、こちらにとっては、実に好材料である。間違いなく、彼らが垂れ流す嘘は、賠償金や罪の重さに関わって来ることになるからだ。大いに油断させて、言いたい放題言わせて、周到に材料を集めながら、様子を見るのも一つの戦略で、愚か者は口が軽く、思い込みが強く、自惚れ切って、慢心しているため、自らの愚かさによって墓穴を掘るに任せよう。

ちなみに、参考までに書いておくと・・・

(被告の)名誉毀損行為が違法でないと認められるには以下の3つの条件が必要になります。
• 【公共の利害に関すること】
• 【書き込んだ目的が公共の利益を図るもの】
• 【その内容が真実である又は真実と信じる相当の理由がある】
これらを1つでも満たしていないことを裁判所に主張し、認められれば(原告の)請求が認められる可能性はあります。

これを読めば、我々にとっての戦いのハードルがどんなに低いかすぐに分かるのではないだろうか。筆者に関する誹謗中諸の書き込みは、この条件を全部満たしていない。筆者は公共性のある人間ではない。当ブログは公刊論文でもなく、宗教団体の発信したメッセージでもなく、公共の利益とは関係のない、私人の信仰告白に過ぎない。さらに、最後の真実であることの立証責任を彼らは絶対に果たせないであろう。本人でない者がこれを立証するのはもともと至難の業だからだ。

たとえば、実際に刑事告訴された人物について、事実に基づき、「誰それが刑事告訴された」とブログに書くのは、事実なので、基本的に違法行為とはみなされない。しかし、「誰それのブログ内容が犯罪的である」とか「誰それは精神疾患である」などと書き、それが名誉毀損の違法行為に当たらないと主張するためには、「誰それのブログに具体的な犯罪性があること」および「誰それが精神疾患に陥っていること」を、書いた本人や情報を掲載した者が、具体的根拠と共に立証せねばならないのである。

そこで、相手をよく知りもしないのに、根拠なく人を貶める印象批評ばかりしていれば、その記述のすべてについて、立証責任を問われることになり、それが立証できないために、誹謗中傷になって終わる。記事の削除くらいで済めば良いが、賠償請求の対象となる危険が極めて高いのだ。

だからこそ、当ブログでは結論を述べるに当たっては、必ず根拠となるソースを明白にするようにしている。画像の転載でも、安全と認められなければ、出典を記載しないことはない。こういう細かい作業は、論文の書き方の基本である。しかし、彼らの主張には根拠となるソースがいつもない。そこで、多分、彼らは反論のために論拠を探し出すだけでも、大変な苦労となるだろう。次々とネガキャンを書けば書くほど、立証責任がますます重く彼らにのしかかって来るというわけだ。

それから、もう少しだけついでに予告すると、訴えの内容如何によっては、賠償金は必ずしも判決が出てから支払いになるとは限らない。さらに、調停で一回請求がなされていると、延滞利息がつけられることもある。むろん、追加の請求が発生することは言うまでもなく…あとは、残念ながら、訴状が届いてからのお・楽・し・みだ。

そういうわけで、今、思い出されるのは、以前、筆者がこちらへ引っ越して来たばかりの頃に、筆者のバイクがいたずらで盗まれ、犯人が全員検挙された時のことだ。筆者は警察に被害届を出した際、犯人が見つかることには大した期待を寄せておらず、バイクも見つからないかも知れないと半分あきらめていた。しかし、すぐに近所で乗り捨てられていたバイクが発見され、それほどの故障もなく、十分に使用可能であったので、日常生活にはまるで支障をきたさなかった。後ほど弁護士から示談の電話がかかって来て、その時に、筆者のバイクを盗んだのは、8人くらいの少年グループで、あちこちで似た様な事件を引き起こしていたため、別の家で防犯カメラにばっちりと犯行の映像が映っていたことから、全員、面子が割れて捕まったと聞かされた。悔やまれるのは、その時、一人一人にきちんと賠償請求していれば、即座に新しいバイクが買えていたに違いないということだけである。

そこで、以前にも書いたように、村上密、杉本徳久を含め、カルト被害者救済活動の支持者らに誹謗中傷された人々は、集団訴訟に移行することを強くお勧めする。筆者はカルト団体は基本的に支持しないが、信教の自由を守る戦いにおいては、心は一つである。しかも、以上の連中は「不正に時効はない」という考え方のようなので、大昔の事件でも思う存分に追及されたら良いと思う。根拠のない脅しメール一通であっても、賠償請求に上乗せすればよろしい。迷惑を受けた宗教団体の方々は、アッセンブリー教団に公式に苦情と罷免の請求を送りつけられたらどうだろうか。当ブログでも、訴訟が開始すれば、署名なども募るかも知れない。

当ブログは、裁判沙汰やネガキャンにのめりこむことなく、この先も、あくまで基本路線の穏やかで平和な信仰告白と異端反駁を続けて行きたいと考えているが、おそらく、この事件の決着をつけることと、安倍政権の崩壊は深い所では一つにつながっているのではないかと感じられてならない。ネトウヨが跋扈して弁護士に勝ち目のない懲戒請求を送りつけるような、薄汚れた曲がった時代は早く終わらねばならない。きっと大勢の人々がそう感じているはずだ。

しかし、神の国の前進は、我々がぽかんと空を仰いでいてやって来るものではなく、一人一人のクリスチャンの毅然としたアクションにかかっている。そこで、我々は勇敢に真実を持って誠意ある行動を取るべきなのである。

「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32)

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑪~

・Eden Mediaの語る偽りの「悟り」としての「人類超人化計画」(アセンション)について(終)

さて、Eden Mediaの偽りを語る総仕上げとして「悟り」という動画に触れておきたい。この動画は、東洋思想の「悟り」とニューエイジの言う「アセンション」が本質的に同じ概念であることを示している。これまでの東洋思想の偽りを語るシリーズの総まとめとして、その内容の虚偽性について触れておきたい。

今日、ペンテコステ運動もそうであるが、こうした偽りの覚醒体験をキリスト教界に持ち込もうとしている勢力がある。だが、このような覚醒に関わってしまえば、信者はキリスト教徒として生きることはできなくなるであろう。これは堕落した人類の生まれながらの力を開発して、人が自力で神に至ろうとする試みだからである。

今日のバベルの塔は、目に見える形で、天にまで届くれんがの塔を建設する代わりに、「意識の上昇=覚醒」によって、人が自己の力で天にまで至ろうとするものである。神秘主義の言う「アセンション=悟り」とは、人類が自力で死を打ち破って永遠にたどり着こうとする悪魔的な試みなのである。

グノーシス主義は、すべての対極にあるものの融合を目指しており、そこには「男女の統合」も含まれている。割礼を受けることのない男性的なパワーと女性的なパワーの「融合」によって、世界を生み出す源とされる原初的エネルギーを回復して、人間が自力で創造の過程を逆行して世界の根源にまで至り着き、永遠と一体化しようとする試みがそこにある。

以下の動画の解説を通して、私たちは彼らが「光」と「闇」との融合という錬金術を目指していることが分かる。これはグノーシス主義が「神と人」、「男と女」、「精神と肉体」などのあらゆる対立するものの融合を目指していることを表している。
 

あなたは現代社会の欺瞞に立ち向かい、奥底に眠る意識を開花できるか?闇から光へ、今新たな時代が始まる。

光り輝くものをイメージする事では悟れない。
暗闇にあるものを意識に持ってくる事のみで悟れる。
【カール・ユング】

 
しかし、聖書は言う、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは無い一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:1-5)

別な訳では、最後の部分は「やみは光に打ち勝たなかった」となっている。聖書においては、光と闇との間には何の接点もなく、この二つは決して交わることがない、異質なものである。男女の融合、光と闇との融合、神と人との融合など、対極にあるものの融合は、人類が自力で成し遂げられることでは決してない。

しかも、聖書は、世界を形作ったのは、神のことば(ロゴス)であると述べるが、東洋神秘主義は、世界の万物は「気」というエネルギーによって出来たとする。エネルギーは、それが形作るものに、名をつけることもなければ、名を呼ぶこともなく、意味内容も一切伴わない。だが、ロゴスは、名をつけ、意味を表す。ロゴスなるキリストによってこそ、万物は造られたのであり、彼は名と体(本体と影)とを完全に一致させることのできる真のリアリティなのである。

聖書はこのように、世界は意味を持たない混沌・漠然としたエネルギーから作られたのではなく、神の精緻なご計画に従い、極めて論理的な意味内容を伴うものとして創造されたと告げている。

しかし、世界が混沌としたエネルギーから生まれ出たとする東洋神秘主義は、造られたものにも混沌以外の意味を持たせない。東洋神秘主義者は、万物はただ混沌としたエネルギーから生まれたのであり、人類はそのエネルギーへ回帰することで、永遠との一体化が成し遂げられると言うが、原初的エネルギーに溶け合うことを目指すだけで、決して自己存在の中に単独で意味を探そうとせず、一人一人に個人としての価値や意味を認めない。

彼らは、被造物の堕落を認めず、人類が生来のエネルギーを引き出すことで、そのまま神の永遠に至ることができるかのように偽りを教える。そして、その堕落した悪しき力によって、人類が自分たちの力で目覚めて「一つ」になれると主張するのである。
 
そのようなことは、聖書が述べていることとは真逆である。東洋神秘主義者の言うう"ONENESS"(一致)は、まさにバベルの塔の精神の再現であり、同時に、聖書におけるエクレシアの悪質な模倣でしかない。

聖書は、創世記において、人類が堕落した時点で、正しい男女のあり方も失われてしまったと告げている。神はエバはこう言われた。

「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」(創世記3:16)

さらに、アダムには神はこう言われた。

「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」」(創世記3:17-19)

地上における男女の関わり(というよりも、アダムとエバが築いた人類最初の家庭)は、人類の堕落によって、幸福と調和に満ちた一致の場ではなくなり、大いなる不幸の源になったのである。夫は妻に君臨し、支配しようとし、妻はそれによって大いなる苦しみを受けるが、それでも夫から離れることができない。夫は妻子を養うために身を粉にして働くが、大地は実りをもたらさず、苦労が積み重なり、ついには老いて死が人を飲み込む。家庭を維持し、ただ生きるために、夫婦は並々ならぬ苦労を負わねばならなくなり、その後、人類初の兄弟であるカインとアベルが生まれても、たちまちカインによる兄弟殺しが起きた。

人類の堕落によって、人間関係は徹底的に罪に汚染されて壊され、戦争、暴力、殺人を生んで行き、文字通り、家庭も含め、すべての人間関係が汚染され、堕落し、破壊されたのである。

そのような呪われた人間関係とは異なるあり方を人が得るためには、人は生まれながらの堕落した本能的なパワーによって、他人に関わろうとすることをやめて、キリストにあって、古き自己に死に、信仰を経由して、夫や妻を愛し、家族を愛し、他者と関わるという方法しかない。

キリストを経由しなければ、夫と妻の間にも、兄弟姉妹の間にも、他者との間にも、真実な信頼関係や愛情が育まれることは決してないのである。信仰を経由しない肉の絆が生み出せるのは、せいぜい敵意と憎しみでしかなく、そこからはどんな一致も生まれて来ない。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(エフェソ5:25)

生まれながらの人間の本能的なパワーが、神の永遠とは何の関係もないことは、ロトの時代も、ノアの時代も、人々は
「娶ったり、嫁いだり、飲んだり、食べたり」していたが、そうした行為が、神から見て全く評価の対象とならず、堕落したこの世の有様として、根こそぎ滅ぼされてしまった事実からも分かる。

彼らは地上になにがしかのものを持ち、人間関係を誇り、自分の所有物のように、家庭や地位や財産を誇っていたのであろうが、神の目から見て、それらは全く評価の対象とはならなかったのである。

この世の人々が誇っているものは、神の目には一切、永遠と接点を持たないことごとくむなしいのである。うわべには価値があるように見えるかも知れないし、なにがしかの幸福があるように見えるかも知れないが、それは動物的生存以上の意味を全く持たない堕落した人間の営みでしかなく、神が人に望んでおられたこととは関係がないものである。

しかし、キリストは、十字架において死なれ、復活されたことにより、信じる者にとって新しい永遠の命となられた。キリストは、ご自分の死によって敵意の隔ての壁を取り壊し、二つのものを一つにして神と和解させた。
ただこの方によって、信仰を通して互いに一つに結ばれることによってのみ、信者はエクレシアとして一つに結び合わされることができる。

本来は、信者の家族関係も、このようなエクレシアの一致に入らない限り、つまり、キリストへの信仰に立脚した、キリストを経由した愛情の上に築かれない限り、それはただの堕落した地上の肉なる関係として、分裂、混乱、憎しみ、争いなどの悲劇を決して免れられないのである。

「あなたがたは、皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:26-28)

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。
二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:14-22)


しかし、東洋神秘主義思想は、決してキリストへの信仰に立たず、十字架の死を経由していないのに、人類が神の教会であるエクレシアを模倣して、アダムの命によって一つになり、団結して神の永遠に到達できると考える。しかし、十字架の死を経由していないからこそ、彼らは自分たちの偽りの十字架を造り出し、自死によって死を乗り越えようとするしかないという忌むべきカラクリが生まれるのである。

東洋思想は、時間軸を逆にして、人類が自ら生まれ出た創造の過程を逆行し、根源的なエネルギーに回帰することで、永遠と一体化できるとする。それが以下の動画にも表れているように、「嬰児的回帰」という概念で現れる。

聖書では、イエスが「誰でも幼子のようにならなければ、天の国に入れない」と述べた箇所があるが、このことは、決して東洋神秘主義が言うような「根源的なエネルギー」にへ回帰するための「嬰児的回帰」を指すわけではない。

「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マタイ18:1-5)

ここで語られているのは、エネルギーの話ではなく、神の国における序列の話である。イエスは、この世においては、年長者が敬われ、子供は軽んじられるが、天で重んじられたいならば、信者は自らを低くして仕える人にならなければならない、と言われたのである。

これは東洋神秘主義者の主張する「嬰児的回帰」(原初回帰)とは全く異なるものである。

むしろ、聖書が教えていることは、信者一人一人が信仰において成長して「キリストにある成人」に達することであり、東洋思想の「嬰児回帰」とは逆である。

だが、肉にあって歩んでいる限り、決して人はキリストの身丈まで成長することはできず、赤ん坊のままだと聖書は言う。

「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。

お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。
」(Ⅰコリント3:1-3)


霊的乳飲み子状態からキリストにある成人へと成長するために避けて通ることができないのが、肉に対する十字架の死の働きである。

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。<略>キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:19-21,24)

クリスチャンが霊的にどれだけ成長するかは、その人の内側で生まれながらの自己(=肉)に対してどれほど十字架の霊的死が適用されたかに比例する。肉に対していつまでも十字架を経ず、生まれながらの肉のパワーによって生きている者は、いつまで経っても嬰児のままなのであり、それは決して聖書があるべき信者の姿として教えている状態ではない。

生まれながらの自己、生まれながらのアダムの命、そこから来る力や衝動を否み、どれだけ日々の十字架を取ってイエスに従ったか、その過程に従い、初めて霊的に正しい識別力が得られ、成長が起きるのである。

「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの道あふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根差して真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(エフェソ4:12-15)

従って、東洋思想が目指している目的は、何から何まで、聖書とは「さかさま」である。
 

さて、この動画は、まず作成したファンドの名前が"IN SHADOW"(影の中で)と、極めて悪趣味な名前となっていることに注目したい。この名前を見ただけで、この動画がキリスト教とは何の関係もない、「光と闇」との統合を目指すオカルト的な世界観に基づくものであることは明白であろう。

影とは暗闇のことであり、同時に、本体の影でしかない被造物を指す。それは本体なるキリストのいない、被造物だけからなる闇の世界、虚無の世界である。
  


冒頭では「皆既月食」と思われるシーンが登場する。
これはニューエイジの概念では「太陽と月の融合」を意味する。
 


その「輪」は、すべての神秘主義者が、宇宙の根源だと見なしている「対極にあるものの融合」としての「永遠の循環」、すなわち、「和」=「輪」=「道」=「虚無の深淵」=「空」を指している。

この「和=輪」が、おそらくチャクラと思われる三つの輪に分割される。チャクラとは神秘主義で用いられる概念であり、これも「輪」を意味することは前回までに説明した。
 


また、この「三つの輪」は、グノーシス主義の「父・母・子」という偽りの三位一体を意味すると思われる。
つまり、男性的なエネルギー、女性的なエネルギーと、その交わりの結果として生まれる「子」が、グノーシス主義の偽りの三位一体である。

また、ヒンドゥー教では、「ブラフマー」、「ヴィシュヌ」、「シヴァ」の「3神」が、宇宙の創造、維持、破壊という3つの機能を持つ、三人で一組の「神」とされる。この「三神一体(トリムールティ)」とも関係があるかも知れない。
 


ここで、「四角い地球」(=キューブ)という、おかしなシンボルが登場する。
 

(注:Eden Mediaの嘘。人類を支配しているのは「キューブ」ではない!)
 
そして、早速、「キューブは”悪魔のシステム”を表す」などと字幕がつき、人類はまるで家畜がくつわにつながれるように「キューブ」のとりこになって、悪魔崇拝者の奴隷として支配されているとされる。

この世を仕切る秘密結社の悪魔崇拝者たち…
キューブは”悪魔のシステム”を表す。
人は毎日好きでもない仕事に追われる。
しかし、住宅・車ローンのために働く。
来る日も、来る日も…
(右上の時計)
気付けば、魂は吸い取られ…
仮面が…
仮面をかぶって日頃のうっぷんを晴らす。

ここで「キューブ」とは、一体、何なのか?という疑問が生じよう。

早々に種明かしをすれば、「キューブ」とは、キリスト教を指す。

この動画の製作者は、神秘主義者であり、オカルト信仰者であるから、キリスト教を悪者にして非難するために、この動画を作ったのである。

ただし、この動画では、「キューブ」とは、本来のキリスト教という意味から転じて、「西欧キリスト教文明・文化を土台として生まれた現代社会システム」といった意味をも持つ。

この動画は、現代のバビロン化された社会は、西欧キリスト教文化を基に生まれて来たものだとして、根本的にキリスト教を悪者として責任を問いたいのである。そして、東洋思想の方にこそ人類救済の秘訣があるという偽りを広めるために、この動画が作成されたのである。

さて、「キューブ」とは、聖書においては、神の完全を表す形である。神殿の中でも最も聖なる場所であり、神の霊の訪れる至聖所は立方体である。
 

エゼキエル書に従って図案化された神殿の図。

「1.立方体の形。この理由により、昔の幕屋と宮では、全き栄光の完全性は至聖所の立方体の形によって象徴されていた(出三六・一五~三〇)。立方体は完成を表す図形だからである。新しいエルサレムも立方体として示されている(黙二一・一六。なおエゼ四八・一六を参照)。これが教えているのは、新しいエルサレムは完全な天の至聖所だということである。

エーリッヒ・ザウアー(Erich Sauer)「十字架のキリストの勝利」"The Triumph of the Crucified" 第四部 世界の完成と天のエルサレム 第三章 完成された神の宮 から
 

新エルサレムは、神殿の完成であるから、「キューブ」は新エルサレムにおいて完全になる。クリスチャンは今ここへ向かっている途上にあるのだと言えよう。

「しかしキリストにあって、すべては完成されて新しくされた。キリストは道を備える偉大な御方であり、扉を開く御方である。キリストにあって、パラダイスと至聖所は開かれたのである。今や、すべてが成就されている。天は開かれている。しかし、天はエルサレムであり、エルサレムは至聖所であり、至聖所は天の栄化されたパラダイスである。」(同上)

「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」(ヘブル12:24)

(*ちなみに、前回引用したDr.Lukeの「エロヒムの祝宴」というポスターは、以上の御言葉から取られた言葉である。ここでの「エロヒム」とは「天使たち」のことである。だが、KFCの信者らはすでに「神々」になってしまっているので、彼らの言う「エロヒムの祝宴」とは、スピリチュアリズムにおける「エロヒム」(=下級神)と同じ概念で、要するに、彼らは自分たちがエロヒムだと言っているのである。)
 
聖書では、立方体は神の完全を表す形であるにも関わらず、Eden Mediaは「キューブは悪魔のシステムだ」として、悪質な概念のすり替えを行い、暗にキリスト教を敵視し、聖書のまことの神を非難する。そして、そこからの「脱出」として「アセンション」を唱えるのである。

だが、真実を言えば、人間を閉じ込めて奴隷化しているのは、「キューブ」ではなく、「和の精神」である。グノーシス主義的な「輪(和)」こそ、人間を奴隷にして逃がそうとしない悪魔のシステムなのである。



その後、突然、動画では「赤ちゃんには”7つのチャクラ”が備わる。」と話が飛躍する。もちろん、このような話は、ニューエイジやヨガでしか使われない概念であるが、要するに、この動画は、人は誕生した時が、一番、何者にも妨げられず、汚染されない、力強い生命エネルギーを持っていると言いたいのである。
 



その後、この動画は、いかにこの世がサタンの奴隷的なシステムによって動かされ、人々がそのシステムに閉じ込められ、苦しめられ、騙されながら、悲惨な生活を送っているか、世の中の不条理を延々と語り出す。

そこで描写されるこの世の人々は、グロテスクで、侮蔑的にディスカウントされた醜い姿をしている。この動画が、厭世的で悲観的な世界観に立って、この世をサタンの牢獄として侮蔑し、見下している様子がよく伝わって来る。要約すれば、その内容は大体、次のようになるだろう。

この世の人々は、悪魔の支配下に置かれ、知らないうちに操られ、奴隷的なシステムの中に閉じ込められて、本来の生命エネルギーを吸い取られて疲弊している。

たとえば、学校教育の弊害、ワクチンの害、戦争、軍需産業、企業による搾取、役人の腐敗、TV業界のマインドコントロール、利権を守るための情報操作、大衆を家畜化しておくためのセレブ、映画、スマホ、ゲーム・・・

人々を支配するツールには終わりがなく、市民たちは無分別に宣伝広告に煽られて、ひたすら化粧品や筋肉増強剤で自分を飾り立て、「オレオレ、ワタシワタシ」と、自分の欲望に突進して、我を失っている。そうこうしているうちに、食べ物はひどく汚染され、人々の健康が害されることで製薬会社が儲かり、科学者、政治家、エリートたちが、大衆を使って動物実験を繰り広げている…

もしも人々が自分たちが操られ、奴隷化されていることに気づいて声を上げようものなら、早速、彼らは狂人として牢獄へ送られる。人々は「もの言えば唇寒し」の状況で暮らし、国を支配するエリートたちは、とても人間の良心を持ち合わせているとは思えないサディストばかりである…

これが、あなたがたの生きるこの世のシステムであり、この世には、真実も正義も希望もなく、ひたすら絶望的で悲観的な世界観があるのみなのだ…。




動画は、このような地上の悲惨はみな「キューブのせい」ということにしてしまう。だが、もちろん、それは嘘である。

そして、動画は、このような悲観的な世界から脱出しなければならないと語り始める。

それが「覚醒=アセンション=悟り」である。いわば、グノーシス主義者の考案した、この世からの偽りの「エクソダス」の方法なのである。
 
どこにでもありそうな幸福な一家の主人が登場する。が、彼は不幸に見舞われ、自死するしかない状況に追い込まれる。この父親だけでなく、大勢の人々が仮面の生活も成り立たなくなり、自死へと追い込まれている。

死なない限り、この不幸な地上世界からは逃れる手立てはない。

と、動画は訴えているのである。

こうして、Eden Mediaの動画は、ひたすら絶望的な地上世界の有様を描き、そこに生きる人々を徹底的な侮蔑の眼差しで見下ろした後で、その生き地獄のような状態から逃れるためには、自死しかないという方向へ人々を誘導して行く。死によって初めて、人類には自分自身から真に解放されて、死を乗り越えて「覚醒」する道が開ける、と暗示されているのである。

「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」

と同じ価値観である。
三島由紀夫の最期と同じ、死による自己完成という偽りの思想が奨励されているのである。
 
 
自死が遂げられた瞬間にこそ、人類は「覚醒」する、と彼らは言う。
 
 
 
「エジプト死者の書」にも記されているという「アセンション」
 

 
「死」との一体化による「超人化」への道!

 
松果体が開かれて邪悪なエネルギーが活性化し、

 
存在しない「霊の波動」を受け、

 
超人的なパワーが生まれる!

 
「覚醒」した超人の意識は、高次元へと上昇していき、

 
死によって自己の殻が取り払われたので、宇宙と一つに融け合い、

 
宇宙に漂う人類全体の集合意識"ONENESS"と一つに融合する。

 
その後も、人類の集合意識はさらに上昇して行き、

 
ついに自らの力で天に昇り、目指していた「道」(=日輪=永遠=混沌)との一体化が成し遂げられる!

 
陰と陽、男と女、太陽と月、神と人、対極にあるものが融合し、

 
人類は自ら宇宙の原初的なパワーへ回帰することによって、
「精→気→神→虚」の回帰が成し遂げられる。
人類は自分を生み出した宇宙の根源へとたどり着き、
嬰児的回帰を成し遂げ、
永遠の混沌(道)と一体化して安らぐ。

 
これぞ涅槃の境地である。

 
こうして覚醒を遂げた者は、邪悪な目が開け、人は神のように善悪を知る者となる。
 
「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4-5)



これが彼らの目指す「アセンション」の内容である。しかしながら、これは、グノーシス主義的な「さかさまの世界観」であり、Eden Mediaは、聖書の神の完全を表す「キューブ」を諸悪の根源であるかのように非難しているが、実際には、彼らが理想としている「和(輪=道=太陽神=永遠の循環=虚無の深淵)」こそ、最も人間を奴隷的に貶めて支配し、自由を与えない諸悪の根源である。

「和の精神」なるものが、うわべは美しい一致や団結に見えても、どれほどはかりしれない人々を死に巻き込んできたのかは、改めて説明する必要もないであろう。この動画は、まだはっきりと明言していないだけで、聖書の神を敵視し、キリスト教への敵視の上に作り上げられており、悪魔の行った悪しきわざを全て聖書の神に責任転嫁しようとしているのである。

おそらく、終わりの時代、人々の心が荒廃し、社会の有様が荒廃・悪化して行くのは、以上のような偽りのアセンションを経て、人類の悪しき集合意識につながる人々が多くなることと無関係ではないと筆者は考える。人の心も体も、異常な方法で変容させられるため、常識では考えられないほどに堕落した人々が出現するのである。

しかし、聖書は、悪くなる者は悪くなるにまかせよと告げている。時代の状況が悪化し、あざける霊が人々の心を支配したとしても、それと同時に、聖なる者は、より一層、聖なる者とされることを、聖書ははっきりと告げている。

そこで、我々のなすべきことは、こうした時代だからこそ、より一層、キリストと共なる十字架において自己を否み、天の父なる神の御心を求め、それを行って生きることである。

世間で何が流行り、人々が何を考え、時代の潮流がどうあるかに一切関係なく、どれほど多くの人々が偽りの覚醒体験に飛びつくかにも関係なく、神は個人個人のわざを見ておられ、それに応じて、人々を裁かれ、報いをなされる。

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ24:35)

私たちクリスチャンが求めているのは、神秘主義者の目指すような「善悪を知る木の実」ではない。私たちは肉なる自己を肥大化させ、自分を高めるだけの「二度目の林檎」を食べることを固く拒否し、自分の衣を改めて血潮によって洗い清め、イエスの十字架の死と一つとなって、イエスという羊の門を通って都に入り、命の木に対する権利を与えられることを心から願う。

クリスチャンは、完成した神殿であり、至聖所である都を目指して歩いている。そして、私たちのためには、すでに死んで下さった方がおられるため、神秘主義者らのように、自分で自分のための十字架を改めて作り出す必要もなければ、自力で死を乗り越えようとする必要もない。

黙示録は言う、「渇いている者は来るが良い。命の水が欲しい者は、価なしに飲むが良い。」と。ここに「価なしに」と書いてある。自分で得るのではない。集団で得ようとするのでもない。しかも、そこには、誰もが神の国に入れるわけではないこともはっきりと書かれている。神の国に入るための条件が列挙されている。神の御言葉を守らず、それに従って生きてもいない人々が、人類の集合意識にアクセスしたからと言って、どこにもたどり着くことはない。

聖書は、「それぞれの行いに応じて報いる」と、はっきり書いている。集団でどんなに連帯して悪質なわざを成し遂げ、どんなに責任の所在を曖昧化したつもりでも、各自は、はっきりと自分のしたことに対して、一つ一つ、神と人との前で責任を問われることになると告げられているのである。

それが真実である。聖書の世界観は、個人を起点として始まり、個人で終わる。そこで問われるのは、どこまでも神と人との個人的な責任関係である。地上では、人間同士が互いに関わり、繋がり合うが、人間関係についても、人は神を介して責任を問われることになる。他者を騙し、陥れ、口を封じ、もはや誰も悪事に声を上げる人がいなくなったとしても、その悪行については、神がその人に責任を問われる。

しかし、東洋思想は、個人を見失わせ、個人を集団の中に埋没させることによって、個人の価値を無化するだけでなく、人は必ず、自分のした行いに対して報いを受けなければならないという基本的な事実をも見失わせる。

そして、東洋思想は、人々を神の御言葉をわきまえるという知性によらず、堕落した本能的なエネルギーに従って、衝動的に生きさせることによって、自分を高めてくれそうなものに見境なく飛びつかせ、訳の分からない集団的な暴走のような現象を引き起こし、人々に取り返しのつかない罪を犯させるのである。その罪が、最後に大きく膨らんで至り着くのが、自死という自己破壊である。これは、我が国が戦中そうであったように、個人的なレベルだけでなく、集団的なレベルで、集団死となって現れることもよくある。アセンションが目指しているのは、人類が自らの死によって死を克服することであるから、必ず、それは必ず人を自ら死に至らしめるという結果を伴うのである。

「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。

見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファでありオメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。

命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。

わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」

”霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るが良い。命の水が欲しい者は、価なしに飲むが良い。」(黙示22:10-17)

人にはたった二つの選択肢しかない。セルフを十字架において否んで、キリストに従い、永遠の命を得るのか、セルフを保って、キリストを拒んで、アダムの命に生き、死に至るのか。クリスチャンは全世界の前で、そのどちらを選ぶのか、自分の生き方を証明させられ、試されているのである。

もう一度、以下の御言葉を引用しておきたい。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。

人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:34-39)

以上の御言葉は、人が心で愛着し、手の中で握りしめているものがすべて――それが自己の命であれ、自分自身であれ、家族であれ――、キリストの十字架の死を経ていないものであれば、どんなにそれを誇りとし、よすがとしていても、必ず、その関係は敵対関係に変わり、無価値なものとなって失われることを示している。

キリストの十字架の死に渡されることなくして、永遠の価値を持つものは何もないのである。殉教とは、キリストの十字架の死の地点において、人が絶えず自己の天然の命を否み続けることの集大成である。十字架における霊的死を経ていればこそ、信者には朽ちることのない神の永遠の命が与えられているのである。

もしも人が十字架において絶えず自己を否むことを拒み、自分の天然の命、生まれながらのエネルギー、それに基づいて築き上げられた関係や、名声、欲望、地位などの獲得物を保存しようとするならば、アセンションへの道しか残されているものはない。その道を行けば、自己を楽しませ、偉大にできるように錯覚できるのも、ほんの束の間で、最終的に待ち受けるものは、死以外には何もなく、得ようと思っていた命さえ、失わて終わることになる。

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑩~

KFCのDr.Lukeの近年のメッセージは、ニューエイジの神秘主義思想から強い影響を受けたものであり、完全に聖書に基づく正しいキリスト教の信仰からは外れているが、Dr.Luke自身、自らのメッセージが、ニューエイジの着想に大いにヒントを得たものであることを否定していない。

以下の記事に見るように、彼は今日のキリスト教界においては霊的息吹を失った形骸化した教えがあるだけであり、その代わりに、ニューエイジには「人が神になる」という変容(覚醒)という「肉汁たっぷりのステーキ」が保存されており、キリスト教界では失われているその「肉汁」の部分を、自分たちは「取り返さねばならない」と主張する。

Dr.Lukeは常にそうであったように、徹底的なキリスト教界への侮蔑と敵視に立って、形骸化したキリスト教界を凌駕するためならば、どんなものでも取り入れると言わんばかりに、ニューエイジという神秘主義思想の「神髄」となるべき核心部分を、自分たちは教えの中に取り込んだと告白するのである。

そこで、Dr.Lukeが、堕落した「肉」と深く関係する「肉汁」という言葉を使っていることは興味深い。その「肉汁」こそが、実のところ、「割礼を受けない人間の生来の本能的なパワー」を指すのであって、「蛇」の力にによって、人が肉的なパワーを肥大化させて、超能力を得ようとするニューエイジの「アセンション」に通じるのである。

これまで、「気」とは、人間の堕落した肉に働く悪魔的なパワーだと述べて来たが、Dr.LukeやEden Mediaの語る「マインド」は、ちょうど「気」の言い換えである。

彼らの言う「マインド」は、「思念」などと呼びかえることもできようが、それは要するに、理知的な思考のことではなく、より本能的で情意的な「思い」を意味し、人間の堕落した魂の働きである。神秘主義やニューエイジにおいては、この「思念」は、肉体の限界を超える、超能力を発揮するエネルギーとなるものである。もちろん「マインド」は「霊(Sprit)」とは別物であり、神の聖霊とは何の関係もない、霊に由来しない、魂的・肉的な力である。

Dr.Lukeは、以下に挙げる記事において、「私たちのマインドには創造する力がある」と述べて、真の霊的創造は「霊(Sprit)」から始まるという事実を無視・否定しているだけでなく、その根拠として、何と驚くべきことに、聖書のバベルの塔の記述を引き合いに出す。それを通しても、彼の主張する「マインドの創造力」なるものが、神の聖霊に由来するものでなく、反キリスト的なパワーであることは明らかである。

また、Dr.Lukeが、人類のエスタブリッシュメントは爬虫類人種だと述べているデイヴィッド・アイクの名を上げて、その説を荒唐無稽として全否定するどころか、興味深いものとして引き合いに出し、半ば肯定する文脈で、「人間とは意識であり、それは孤立してものではなく、大海の一滴のようにすべての人類の意識とひとつである(ONENESS)」などとして、人はバラバラの個人個人では意味をなさず、個々人が「人類の集合意識」にアクセスし、これを通じて「さらに高次元の霊的な存在」と接続して初めて高次の存在になれるかのように述べていることも、彼がどれほどニューエイジ思想から深い影響を受けているかを伺わせる。この「ONENESS]なるものこそ、実質的な「和の精神」のことである。

Dr.Lukeがしきりに主張する「波動」も、ニューエイジの思想では至る所に見られる概念である。ニューエイジの神秘主義者らは、「松果体」の活性化や「覚醒」のために特定の周波数を聴いたり、以下に示す「エロヒム」から「波動」を受けることが有益だと説いたりしている。

しかし、前にも説明したが、「波動」というのは、この世の物理的時空間の中でしか起き得ない物理現象であって、聖書における霊的な世界には、そもそも時空間がないため、波動など起きようがないのである。従って「波動」という言葉が出て来た時点で、それは霊に属する事柄を、この世の物理現象の話にすり換えているとすぐに判断できるのである。

従って、こうした事実から、Dr.Lukeの唱えている以上のような説は、すべて「肉的(物質的)な領域に造り出された霊の偽物」だということが明らかとなる。

Dr.Lukeの唱える「マインドのトランスフォーメーション」は事実上、ニューエイジの「覚醒」(アセンション)と同じものであり、彼はすべてのペンテコステ運動の指導者と同様に、人間の堕落した本能的な力を、キリストの十字架において否む必要を主張するどころか、それをあたかも神の神聖な霊の働きであるかのように装いながら、その堕落したパワーを増幅し、肥大化させることで、人類の超人化(アセンション)を促しているのである。
 

クリスチャニティとニューエイジ 
投稿者: drluke 投稿日: 2017-12-02 

投稿者: drluke 投稿日: 2017-12-02「(このふたつ表向きは実によく似ている。が、本質的にはニューエイジはキリストの否定。しかし、神学オツムで空回りするキリスト教徒よりは霊的世界との触れ方は深い。キリスト教徒は肉汁の抜けた筋張ったステーキを食わされているが、ジューシーな部分はニューエイジに取られている。われわれはそれをゲットバックする必要がある1) コチコチなオツムの人はただ「ニューエイジは危険だ、危険だ」とヒステリックに叫ぶだけだが、きちんとした見極めが必要。そう言ってるあなたのオツムはどうなのよ、と言いたいわけ。

さて、David Ickeなる人物を知っている人は、最近ではけっこう多いと思う。英国人、サッカー選手に憧れるもリューマチで挫折。その後BBCキャスターとして活躍するが、原稿を読まされるだけの仕事に飽き飽き。緑の党の広告塔となり、BBCを解雇され、90年代の初期に霊的覚醒を経験。

その後、世界を巡る間に爬虫類伝説が各地にあることに気づき、世界のエシュタブリッシュメントはスメールの子孫である爬虫類人類(レプタリアン)であると指摘。彼らがいわゆるシェイプシフトする動画などもYouTubeにはころがっている。日本では大田龍氏と親交が深かった。一時は故小石泉牧師とも交流があった模様。

彼の論はきわめて興味深い。いわく、人間とは意識であり、それは孤立してものではなく、大海の一滴のようにすべての人類の意識とひとつである(ONENESS)。この大海の意識はさらに高次元の霊的なエンティティとつながっている。

ところがこの肉体の中に閉じ込められている間に五感によって作られた偽りのリアリティーのカプセルの中に束縛されている。人は恐れによって自分の中に閉じ篭っているのだ。それが場を作り、そこにはある種のエネルギーが存在する。

それを生み出すのが爬虫類脳、つまり私の言うところの大脳辺縁系だ。ここを刺激されると人間は弱くされる。自己保存するための闘争が世では繰り広げられているが、それはこの爬虫類脳を刺激されて、マニュピレートされた結果だ。彼はここでマニュピレートする存在をイルミナティとかメーソンと言うわけ。

レプテリアンが存在するかどうかはわからないが、これはきわめて面白い。ある意味私が指摘しているとおりなのだ。人は欺かれている2) 誰に?Ickeの言うようなエスタブリッシュメントというよりは、霊的な存在による(Eph 2:2)。そのヘッドであるサタンは全人類を欺く存在である(Rev 12:9)。人は爬虫類脳である大脳辺縁系を刺激され、恐れや情欲によって振り回されているのだ。

内的な世界モデルは自分の内面を投影したものであり(☞鏡像原理)、よって人により世界をどう把握するかはテンデンバラバラ。一応その最大公約数的な部分が常識とされるわけだが、この常識というやつが危ない。特にニッポンのものはやばい。さらに危ないのがニッポンキリスト教のそれだ。<略>

われわれがある種の霊的なオーラを発していることは明らか。真に御霊に満たされているクリスチャンの醸す雰囲気は普通とは異なる。その霊的な場に人々が引き寄せられることは当然。イエスも多くの、特に虐げられた人々を吸引した。

また私たちのマインドには創造する力があることはバベルの塔の件で神が証言している。彼らが思い巡らすことは妨げられることはないと(Gen 11:6)。そして言葉にもその力があることは何度も書いている。

われわれはこの物理的世界と霊的世界の狭間に生きている。神と悪魔と人は三角関係のダイナミックスに置かれている。諸霊の影響を受けているのが世の中の人々、そしてオツムだけのキリスト教徒だ。彼らは霊の世界、あるいは霊の場を知らない。その場の振動(波動)がこの物理的世界に現出するのだ。

中東情勢も、個人の経験も、みな原則はひとつ。われわれのフェイスによる言葉はその霊の場に波動を起こす。フェイスによって霊の場の波動、すなわちサブスタンスをこの世界に現出させる(Heb 11:1)。

イエスは内にいます父の言葉をご自身の霊の波動としてとらえ、それを語り出された。これが死者を生かし、水をワインに変え、癒しやしるし・不思議をなしたのだ。物質界も場の波動であり、霊的世界も場の波動。そのふたつの領域を結ぶのがわれわれの言葉だ。内なる霊の波動による言葉を語り出すとき、それは何かを生じる。

Ickeも言っている、マインドのトランスフォーメーションこそが鍵だ、と。目の前の世界、現象を変えるのではなく、自分の内が変われば自ずと世界も変わると。まことにそのとおり。小さな自分というカプセルから飛び出せ!船から水面に一歩を踏み出したペテロのように。神のレーマがあれば水面も固体化するのだ! 
   

 「自分の内が変われば自ずと世界も変わる」などと言って、神に目を向けさせず、ひたすら「自分の内」に目を向けさせていくのは、グノーシス主義者の常套手段である。グノーシス主義者はもともと神を人間と同一とみなしているため、神を見いだすためには、人が自己を見つめることが必要だと言って、自分自身に目を向けさせる。それはどこまで行っても、被造物だけしかおらず、まことの神が不在の世界である。そこでは、「神」は人間の認識を通してしか得られないものとされ、あたかも被造物の付属物のごとく貶められ、被造物に存在を乗っ取られているからである。

Eden Mediaは、神秘主義の独自の概念である「松果体」や「サードアイ」に、まるで聖書に起源があるかのように見せかけながら、人類超人化計画を推進しようとする。あまりにも荒唐無稽なため、あえて紙面を割いて分析する必要もないようには思うが、以下では、笑い出したくなるような、こじつけとしか言えない語呂合わせが展開されている。
 
 聖書における「松果体」について…

古代人は松果体(PINEAL GLAND)を知ってた。
マインドとの繋がりを。
それは難解だった。
実際、聖書も触れてるくらいだ。

それでは、聖書に松果体(PINEAL GLAND)が登場する
節句を挙げていこう。
「創世記 32章30節」

ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、
なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)
と名付けた。

ペヌエル=Peniel="Pineal Gland"(松果体)」


だが、ここで語られているのは、単なる語呂合わせだけではなく、聖書において、ヤコブがヤボクの渡しで神と格闘した際、「もものつがい」を外され、「顔と顔とを合わせて神を見た」ことを、Eden Mediaはグノーシス主義の立場に立って、これを「覚醒」による「真の自己の発見」と結びつけようとしているのである。
 
本来のキリスト教の解釈では、ペヌエルで神との格闘の中でヤコブの「もものつがいが外された」ことは、ヤコブの中で、生まれながらの古き人が、主と共なる十字架につけられて霊的に死んだことを意味する。もちろん、それが起きたのは、キリストの十字架よりも前の時代であるから、ヤコブに起きたことは、キリストの十字架の霊的予表である。

「もものつがい」が外された時、ヤコブの生まれ持った天然のエネルギーの中で、最も強靭で手に負えなかったアダムの堕落した命に由来する本能的な力が、神の力によって「デス・タッチ」を受けて、霊的に死を経たのである。

ヤコブという人物が、かなりわがままで狡猾な策略家で、自分が望んだものは何が何でも手に入れるまで絶対に後には引かないというタイプだったことは、聖書の色々な記述から明らかである。だが、そんな性格ゆえに、ヤコブの人生には様々な苦難が連続して起こった。

むろん、そうしたヤコブの強い性格の中には、神への信仰を決してあきらめないという長所も含まれていたが、同時に、それはヤコブ自身が自分ではどうすることもできない、彼らの頑なで手に負えない天然の内なる自己をも意味していた。

しかし、ペヌエルでは、それまでのヤコブの人生に絶えず働いていた肉的なエネルギーに、神の側からの霊的死が適用されて、そのエネルギーが死んで無効化されたのである。神との格闘の中で、十字架の霊的死に触れられた後で、ヤコブは足をひきずるようになった。そのことは、ヤコブの人生にそれまでずっと働いていた強力な肉的エネルギーが死んだことを意味し、その時から、ヤコブはそれまでのように生まれながらの「古き人」に生きるのではなく、キリストの十字架の死とよみがえりを経た「新しい人」に生きるようになった。すると、それまで、彼の人生に絶え間なく襲いかかっていた困難や試練が徐々に取り去られて行き、神の祝福は、以前よりももっと滞りなく豊かにヤコブの上に流れ出るようになったのである。

キリスト教の正統な解釈では、ペヌエルは「キリストの十字架におけるアダムの自己の死」を象徴する場所である。すなわち、人間の堕落した生来の肉的なエネルギーがすべて神によって触れられて死ぬ場所である。神を見るためには、人は生まれながらの自己に対する死を経なければならないのである。

ところが、グノーシス主義者は、このようなペヌエルの正統な意味をまるで逆にしてしまう。彼らは、ペヌエルで、ヤコブは「鏡」の中に映る自己を見つめてこれを「神」だと認識し、天然の自己を保存してこれに死ぬことなく、肉的なエネルギーの中で「覚醒」して、自ら神に到達したと、話の趣旨を捻じ曲げてしまうのである、

Eden Mediaでは、ペヌエルのエピソードは、ヤコブが十字架の霊的死によって自己を否んだ結果として、神との出会いと祝福の中に入れられたことを意味するのではなく、むしろ、ヤコブが自ら自分は神であるという認識に達して、ヤコブの内側で「アセンション」が起き、彼は超人的な能力を手にして神からの祝福に与り、自ら神と同じものになった、という正反対のとんでもない解釈を施されているのである。 
 

「”ペヌエル”で何が起きていたか説明すると、
ヤコブは夜明け前になっても起きてたんだ。
そんな彼は最高神の天使と格闘中だった。
それは”YAH”(ヤハウェ)の天使だ。
ヤコブが最高神の化身の天使と格闘していると
ヤコブはももの関節をはずしてしまう。

それでも、ヤコブは最高神から
祝福をもらうのに必死で
「祝福するまでは離さない」と言った。
すると、最高神は彼に祝福を与え、彼の名前を
”イスラエル”に変えた。

ヤコブは「顔と顔とを合わせて神を見たので、
その場所を”ペヌエル”と名付けた。
「面と向かって、神を見たため…」



さらに、ここで、Eden Mediaの解説者が、「神(God)」と呼ばずに、最高神(Most High)」などという聞きなれない名を持ち出していることにも注意したい。もちろん、「最高神」などという呼び名は、聖書の神が、唯一の神であることを否定する立場に立っていなければ、出て来るはずのない言葉である。
 
「最高神」という存在は、他にも「下級神」がいて、神は一人ではないという前提なしには生まれない呼び名である。そこで、Eden Mediaが「最高神」と呼んでいるのは、グノーシス主義における「真の至高者」だということがすぐに分かる。つまり、彼らの言う「神」とは、聖書の唯一の神ではなく、グノーシス主義の「至高者(=鏡=虚無の深淵)」のことなのである。
 
このことは、Dr.Lukeが近年、「神」という呼び名を使わずに、やたらと「エロヒム」という言葉を多用している事実をも思い起こさせる。「エロヒム」とは、以下にも記すように、スピリチュアリズムの世界では、極めて広く使われている独自の概念なのである。



Dr.Lukeの出しているポスター。エロヒム(神々)とはKFCの「覚醒」した信者らを指す。


以下は、Dr.Lukeが2016年7月4日に書いた「あなたがたはエロヒムだ!」と題する記事。これはKFCの事実上の「覚醒宣言」であった。

今週のメッセはいわゆるキリスト教(特にニッポンキリスト教)の神学オツムにはかなり刺激的だと思う。あるいは挑発的か。われわれの真のアイデンティティーに覚醒せよ! われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである! WOW! 

そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々(エロヒム)である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。-John 10:34-35


ニッポンキリスト教や英語圏キリスト教のマトリックスから解かれよ!エロヒム・ヤハヴェはエロヒムの会議で裁定するのだから。知ろうとせず、闇の中を行き来する、ことのないように!<後略>



むろん、以上で述べられているようなDr.Lukeの聖書解釈は、完全に荒唐無稽で成立し得ないものであることは、別の記事の中で、すでに説明したので繰り返さない。以上で、Dr.Lukeが「われわれの真のアイデンティティーに覚醒せよ! われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである! WOW!」などと述べているのは、間違いなく、ニューエイジの「アセンション」と同一の「超人化」を指しており、KFCの信徒らが「覚醒」に至り、自らを「神々」とみなし始めたことを宣言したものである。
 
スピリチュアリズムにおいても、「エロヒム」の概念は広く使われているが、それが何を意味するのかを見てみよう。以下の記事では、「エロヒムとは天使だ」と言われてはいるものの、そこで言う「天使」とは、「最高神」から直接、創造され、「最高神」のパワーを受けとる「被造物」もしくは「下級神」といったような意味合いである。

また、スピリチュアリズムでは、「エロヒムは高い、効果的な波動を持つ強力な存在」などと言われていることも興味深い。やはり、「霊の波動」などという怪しげな概念を強調するDr.Lukeのメッセージと非常に重なる部分が多く、Dr.Lukeがこのような従来のキリスト教とは全く無縁の用語を強調し始めた理由が、ニューエイジやスピリチュアリズムの影響にあったことが推察される。




 
Eden Mediaは、神秘主義者の言う「アセンション」に、あたかも聖書的な根拠があるかのような虚偽の説明を続ける。

次は「マタイ6章22節」
読み上げると「体のともし火は目である」
「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが…」

Yehushua(イエス・キリスト)…
”人の子”と呼ばれる方
または、罪の贖いのために死んだ方は、
目を”単数形”で話す。

しかし、我々には”二つの目”が…
となると、Yehushuaが話した”目”は
違う目だったはずだ。
”一つの目”と言うからね。

彼は”マインドの目”を語ってた。
それは人間に洞察力を与える目のことだよ。
だから、この”光”…この”目”が…

Yehushuaが話していた
この一つの目が濁っていると…
そして閉じていると、
あなたの身体は全身暗い。
Yehushuaは松果体の存在を知っていただろう。

なぜかって?
彼は最高神”YAH”の息子で、
人間を自分自身に摸って
デザインしたわけだからね。
だから、最高神に摸って、人間をデザインしたということは、
その体の器官やその機能を知った上で創造し―
それらが”身体”と”魂”に与える
影響を知っていたはずだからね。



だが、以上のような記述も、真っ先に「聖書は神による人間の取扱説明書」などと主張していたDr.Lukeの記述を思い起こさせる。Dr.Lukeは、自らのブログの解説を、次のように記していた。

「Dr.Lukeのキングダム・フェローシップ・ブログ。聖書を宗教から解放すべく自然科学者の視点から解き明かす。聖書は神による人間の「取り扱い説明書」であり、物理的世界と霊的世界の関係を啓示しており、スーパーナチュラル。WHOも「霊的健康」なる概念を提唱するが、『霊精神身体医学』を開拓する。



しかし、これはどこから見てもツッコミどころ満載のデタラメな記述である。その根拠として、まず、第一に、聖書は「自然の人は神の霊に関する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(Ⅰコリント2:14)と述べており、霊の事柄は霊によってしか解釈できず、魂で理解することはできないと教えているため、Dr.Lukeの言うように、「自然科学者の視点から聖書を解き明かす」ことは絶対に無理であることがすぐに分かる。なぜなら、自然科学は、人間の魂による探求によって生まれたものであり、神の霊とは無関係であり、必ずしも信仰に基づかないからである。

また、聖書は、神が人間に与えられた約束(契約)であり、人間の側でも神に対して守るべき義務を定めている。聖書は神と人間との間に結ばれる契約であって、決して、Dr.Lukeの言うように、人間の「取扱説明書」ではない。聖書を人間の「取扱説明書」とみなすDr.Lukeの考えの中からは、人間本位の考えが読み取れるだけであって、聖書の中心は、人間ではなく、まことの神ご自身であり、聖書はキリストを中心とする物語であるという概念が抜け落ちている。やはり、ここでも、被造物しか存在しないグノーシス主義の世界観を見て取れるのである。

さらに、仮に聖書が「物理的世界と霊的世界の関係を啓示している」としても、聖書が一環して述べていることは、物理的世界と霊的世界との接点は、十字架で死なれたキリストという、ただ一人の「神と人との仲介者」(Ⅰテモテ2:5)なしには絶対に成立しないということである。このキリストの十字架の死と一つとなって、人が古き自己に死ぬことなくして、人が神に受け入れられ、神の霊と一つとされることは絶対にないという点が完全に抜け落ちている。

さらに、Dr.Lukeの引き合いに出す「霊的健康」なる概念を唱えるWHOは、以下の通りの紋章を使っている。これを見れば、WHOの唱える「霊的健康」なる概念が、どういうものであるかがよく理解できるのではないかと思う。このようなシンボルに従って行けば、霊的健康どころか、霊的病以外には待ち受けているものはないだろう。

 

 世界保健機関(WHO)で使われている「アクレピオスの杖」

 
 
救急車で使われている「アクレピオスの杖」


以上のWHOや救急車で使われているシンボルは、「アスクレピオスの杖」と呼ばれ、ギリシア神話で名医とされるアスクレピオスが持っていたと蛇の巻きついた杖を指す。むろん、聖書とは何の関係もない概念である。しかし、今日、この「蛇」のからみついた「杖」のマークが、医療・医術の象徴として世界的に広く用いられている。

この杖は、『龍の正体』でウィルソンの昇進の儀式の際に師匠が持ち出して来た魔術師の杖を思い出される。もちろん、シャーマンの杖に、蛇はいない。なぜなら、そこに絡みついている蛇は、悪魔に由来する見えない邪悪なエネルギー(=「気」)を指しているからである。



このような事を考え合わせても、Dr.Lukeが唱えている「霊精神身体医学」なるものは、邪悪な霊的パワーによって人体を変容させる内丹術とほとんど変わらない、非科学的かつ非聖書的な偽りの概念であると言えよう。

彼が目指しているのは、グノーシス主義者と同じように、邪悪な起源を持つ人間の堕落した魂の世界や、堕落した肉的なパワーを、神の御霊と「融合」させるという身体的錬金術なのである。

そして、Dr.Lukeと同じように、Eden Mediaも、本来は、霊によって解釈することしかできない事柄を、この世の物質的世界の諸現象に置き換え、霊に属する概念を、肉に属する概念にすり替えて行く。

むろん、以下のマタイ第6章22節の記述も、「サードアイ」や「松果体」のことを指しているのでは全くないが、Eden Mediaはそれも文脈を捻じ曲げて解釈してしまう。

「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」(マタイ6:22)

以上の御言葉は、神の霊が人の内に住んで、御言葉の意味を啓示し、それによって光(正しい知識)を与えることがなければ、人間は自分だけでは何事も正しく理解し、判断することができないということを示したている。確かに、ここで言われている「目」とは、霊の目のことなのだが、それは、キリストの霊と一つになった人間の霊が、霊の中の直覚において、御霊を通して、神の啓示を受けて、何が神の喜ばれることで、何がそうでないかをわきまえる(見る)ことを示している。

一言で言えば、「目が澄んでいる」とは、信者が神の聖霊から御言葉を通して霊的啓示を受けることを指しているのであり、「松果体」やら「松果体を流れるエネルギー」やら「サードアイ」なる概念とは全く何の関係もない話である。そうしたものは、たとえ百歩譲って、作り話ではなく実在すると仮定したとしても、徹頭徹尾、この世の物質世界における物理現象の域を出ない、霊的な事柄とは何の関係もない話である。

しかし、Eden Mediaは、本来、神の「霊(Sprit)」によってしか見極められないはずの事柄を、肉に属する「思念(mind)」の話にすり替え、ひたすら、人間の生まれながらの自己の内側で、すべてを自己完結させて、神に至り着く道を切り開こうとする。そして、「ヤコブはペヌエルで最高神から松果体を開いてもらい、超能力に目覚めたのだから、あなたもそれに倣うべきだ」などと、とんでもない解釈を語り出すのである。

「だから、松果体をデザインした時
主はその明確な役割を知っていたんだ。
”セロトニン”や”メロトニン”
といったホルモンを分泌する
この松果体という小さな器官は―
人間に”夢”や”幻想”をもたらす機能も果たすんだ。

だから人々は鮮明なイメージをマインドで見れるわけだ。
その場で体験しているかのように…。
実際は睡眠中なのにね。スゴイ。

両目は閉じてるのに、

鮮明なイメージが見れるんだ。

例えば、数年前に亡くなった親族が
鮮明に浮かび上がったりする。
または学校のイジメっ子が
現れることもあったり―
そんな彼と遭遇してしまう
恐怖を感じたりする。

(注:こうして死者に言及したり、やたら不気味で不快なイメージばかりを描くところに、Eden Mediaの悪趣味がよく表れている。そんなイメージしか見られない「第三の目」など、開眼する必要は全くないものである。)

あるいはあなたのマインドで創造される
不思議でアブストラクトなイメージを見れたりもする。
それは実際、存在しないが、
あなたはそれを両目が閉じた状態で見れるんだ。

最高神はヤコブを祝福し、彼の松果体を開いた。
そうだ、その通り。
”最高神”が…彼の松果体を開いた。

要するに…あなたは自分の部屋でヨガのポーズをとり
サードアイを開こうとしてはならない。
それは違う。
そんなことすると、あらゆる悪質な存在に隙を与え、
精神分裂症になるだけだからな。
自分で開こうとするならな。

そうでなく、あなたは最高神に集中し、

彼を賛美し、
最高神のガイダンスに従い、
彼に開いてもらうべきなんだ。
それが正しいやり方だ。

では、あなたが、最高神の霊に

身体を引き渡すなら何が起きると思う?
その魂は?
神の息吹(ルアク)は?
聖書によると、”神の息吹(ルアク)”は何をもたらすと?
それはあなたを完ぺきな真理へと
導いてくれると教える。
洞察力を与える。

だから、こうした奇妙なモノは必要ない。
ヨガ、メデイテーション、マントラやら…
周波数やら、トーンやら、
松果体を開くにはね…
最高神に集中すれば、彼が開いてくれる。


Eden Mediaは、「最高神(=グノーシス主義における真の至高者)」を賛美していれば、自然と、「真の至高者」が「松果体」の開き方を教えてくれて、「サードアイ」が開眼するのだと言っていることは、Dr.Lukeの唱えている「セレブレーション」の内容を思い起こさせる。要するに、KFCの「セレブ」は、ニューエイジが考える「霊的覚醒(=アセンション)」を呼び起こし、「人が神になる」ための場なのだと見て良いだろう。

 



以上の記述において、Eden Mediaはいつもの例にならって、一方では、「ヨガや、瞑想や、マントラや、周波数や、波動やらは要らない」と言いながら、他方では、「彼らが言うことは必ずしも嘘ではない」と真逆の結論を述べ、それらを肯定する。そして、「サードアイ」やら「松果体」やらと言った概念は、オカルト的・魔術的・悪魔的なものではなく、使い方次第によっては十分に有益なものとなるため、ニューエイジの思想の価値を「見直す」べきだ、などと人々に訴え、悪魔的起源を有する呪われたものを、クリスチャンが信仰生活の中に積極的に取り入れるよう促していくのである。その主張は、Dr.Lukeとほとんど変わらない。

「言った通り、古代人は松果体を知ってた。
世界中の文化を見渡せばわかる。
それが古代インドだったり、ヒンドゥーだね。
あとは古代中国や…日本もそうだ。
古代エジプト、古代マヤ。
どこ行こうが、皆、松果体を知ってた。

どっかのヨギーが、ヨガを通して、
サードアイの開き方を教えてるからと言って…
彼らは最高神と繋がりを持たない未熟な形で
開こうとしているかもしれないが、
彼らが言うことは、必ずしも嘘ではない。

要は、サタンは何でも悪用できる。
例えば、火を使って、放火することも出来れば、
調理することもできる。
それは、あなたとその意図次第。

では”サードアイ”や”松果体”と言うコンセプトは
本当に悪質でオカルトと言い切れるのか?
”悪魔”で”魔術的”だと…
考えるべきだ。」


 
先に述べたDr.Lukeの主張と、Eden Mediaと驚くほどそっくりである。彼らは「ニューエイジは危険だ」とか「サードアイや松果体などはオカルト的だ」と決めつけず、もう一度、本当にそれらが間違っているのか、考え直すべきであり、ヒステリックに拒否反応するのではなく、「きちんとした見極めが必要」だ、などと言うのである。

これは、かつて蛇がエデンの園で、次のように人類に尋ねたことの繰り返しである。

「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。

今日も、蛇は人類に語り掛ける、「ほんとうに神はあなたにそれを禁じられたのですか? ニューエイジは危険だ、魔術だ、オカルトだから、関わってはならないと、神がほんとうに言われたのですか? 

いや、あなたはもう一度、それについて考え直してみるべきです…。あなたはヒステリックな思い込みに陥っているだけです。きちんとした見極めさえできれば、ニューエイジだろうと、オカルトだろうと、神秘主義だろうと、実に無害で、有益なものなんですよ…。あなたが考えているような危険なものじゃありません。あなたはせっかくのチャンスを、自分の狭い了見のせいで、台無しにしているんですよ…」


このような主張に、決してクリスチャンは耳を傾けるべきではない。Dr.Lukeは「聖書を宗教から解放しなければならない」などと述べて、聖書を「キリスト教」の枠組みからも取り出さなければならないなどと主張するが、その結果、起きるのは、あらゆる忌むべき思想と聖書との「混合」である。

もしDr.Lukeの言うように「オツム」が崩壊して滅びに至るような人々が出現するとすれば、それはキリスト教徒ではなく、むしろ、クリスチャンを名乗りながらも、「二度目の林檎」を取って食べ、ニューエイジの神秘主義思想を内に取り入れた人々である。なぜなら、神を畏れることを捨て、真理を捨てた者が、正常な意識を保つことはなく、蛇の言うことは常に嘘だからである。

「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4-5)

ニューエイジの思想に従って、「人類の集合意識」にアクセスし、これと融け合い、さらなる「高次の霊的意識(=虚無の深淵)」と融合するために、「アセンション」を経ることは、「この世の君」であるサタンの意識に直接アクセスする権限を得るのと同じことであるから、そのような「覚醒」が、もし信者の内で起きれば、その信者は、サタンのための開かれた通路となり、もはや二度と聖書の神への正しい信仰に立ち戻ることはできまい。

前回の記事の冒頭で、黙示録に登場する「獣の刻印」に関する御言葉を引き合いに出したが、そこでは、獣を拝む者には「すべての者にその右手か額に刻印を押させた。」と記されている。この獣の刻印なるものが、具体的に何であるのかは定かではないが、今、分かっていることは、この獣の刻印が押される場所が、「額」すなわち、「サードアイ」と同一の場所であるか、もしくは、ヒンドゥー教で、「聖なる手」とみなされている右手だということである。

このことは、獣の刻印が、悪魔の支配の印であるにも関わらず、あたかも聖なる刻印であるかのようにみなされて、彼らが「聖なる体の部位」だと主張するところに選んで押されるということである。

むろん、獣の刻印が何であるかは分からないとはいえ、神秘主義思想家らの言う「サードアイ」とは、それ自体が、獣の刻印の予表のようなものだと筆者には思われてならない。

そこで、KFCの「セレブレーション」も含めて、ペンテコステ運動の集会や、それに関わる信者たち、Eden Mediaの言う「超越瞑想者の集会」や「サードアイの開眼」など、「クンダリーニ覚醒」によって「蛇」の邪悪なエネルギーを呼び覚まし、サタンに通じる「集合意識」にアクセスして、暗闇の勢力に扉を開く手段には、決して関わらないようにと勧められるのみである。

そのような「覚醒」は、聖書のまことの神への礼拝や賛美とは何の関わりもなく、そのような悪魔的礼拝に関われば、クリスチャンはもはや神の子供ではなくなり、命の書から名前を削られ、救いからも除外されて、神の敵となり、真実なクリスチャンに戦いを挑む暗闇の兵士とされた上、外の暗闇に打ち捨てられるであろう。

このような忌むべきオカルト思想に関わりながら、クリスチャンが同時に神の民であり続けることは不可能である。汚れたものとは分離せよ、という聖書の原則を厳に守らねばならない。

「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとべリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。

神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。

「そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主は仰せられる。」(Ⅱコリント6:14-18)

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