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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表し、絶えずさらに優った天の故郷を熱望する

彼は天然の立場を捨てるというこの偉大な真理をすべて数語の短い言葉の中に詰め込まれました。「誰でも私について来たいのなら、自分自身を否み、日毎に自分の十字架を取り上げて私に従いなさい」「自分自身の十字架を負って私について来ない者は、私の弟子(教わる者)になることはできません」

「自分自身を否む」! この句を握りしめて自己否定について語り、それをあらゆる種類の事柄に適用することもできますが、主イエスがこの御言葉で言わんとされたのは、天然の命の立場全体を拒絶して、それによって全く支配されないことです。キリストはそれを十字架によって断ち切り、それに反対して十字架を据えられました。そして十字架の意味によって、生来の私たち自身であるすべてのものに対して、「ここにあなたの立場はありません。あなたはここでは支配できません」と仰せられました。

これを行う時、あなたは彼の弟子になることができます。つまり、彼から教わる者になることができます。彼の学校に入学して、この立場ではなく彼の立場に基づいて生きることの何たるかを学ぶことができます。新生以前の立場を放棄してキリストの立場にとどまることが、私たちの包括的義務です。

 ここでもまた主イエスは、彼の立場に基づいて生きるというこの偉大な真理を、絵図的形式で述べておられます。「私の中に住んでいなさい」「ぶどうの木の中に住んでいなければ枝は自分では実を結ぶことができないように、あなたたちも私の中に住んでいなければ実を結ぶことはできません」

この絵図は完全に明らかであり単純です。しかし、彼が何について述べておられたのかを示す後の御言葉による、聖霊の全き照らしが必要です。キリストの中に住むとはどういうことでしょう?それはあなた自身の中に住むことではありません。それはあなた自身の外側に出て彼の立場に着くことであり、それは彼がすべてを支配するためです。これはとても単純ですが、必要不可欠です。

オースチンスパークス 「御霊による生活」 第四章 御霊に満たされる (5)から


多くの信者たちが、自己を否むことについても、キリストの中に住むことについても、あまりに多くの誤解を抱いている。彼らは、自己を否むとは、自分の生来の利己的でわがままで罪深い性質を拒んで、もっと道徳的で社会に役立つ人間になうと努力することであるなどと勘違いしたり、キリストの中に住むことも、同じように、もっと宗教指導者の教えに従って、敬虔そうで信心深く見える宗教的な生活を送ることだ、などと誤解している。

しかし、自己を否み、キリストの中に住むとは、うわべだけ敬虔そうな生活を送ることや、道徳的な生き方をするといった事柄とは関係がない。これは信者がいかなる命に従って生きるのか、という選択の問題である。

つまり、信者が、再生された後も、生まれながらの堕落したアダムの命に従って生きるのか、それとも、神の贖いによって与えられた内なる永遠の命に従って生きるのか、どちらの命の法則に従って生きるのか、という選択を指すのである。

キリストの復活の命は、神の非受造の命であり、堕落した魂の命とは全く別物であり、この二つの命の性質も、それに働く法則も、全く異なるものである。しかし、人は信仰によって、キリストの復活の命を知るまでの間は、アダムの命しか知らずに生まれ育って生きているため、主を知った後でも、依然として、慣性の法則に従い、それまでのアダムの命に働く法則に従って生きようとする。それは、信者の中で、それが常識となっており、またそうすることが天然の衝動だからである。

しかし、キリストの中に住むことの必要性を知らされた信者は、命の御霊の法則を学び、これに従って生きることを学ばなければならず、その過程で、それまで自分が常識だと考えていたアダムの命の法則に従うことをやめなければならない。

アダムの命に働く法則は、一言で言えば、「限界」である。その限界は、死へとつながる有限性であり、罪の重荷に縛られているがゆえの死の束縛である。

ところで、以前にも説明した通り、多くの人々は、同情という感情をあたかも良いものであるかのようにみなしているが、実は、同情は、人間の腐敗した魂の命の限界と密接な関わりがある。

同情は、人間の限界を抵抗せずに受け入れることと深く関係しており、その感情を受け入れる人間をどんどん弱くさせてしまう効果がある。

筆者はそのことを以前、ハンセン病者に対する絶対隔離政策の忌まわしさになぞらえて論じたことがある。

我が国でハンセン病者に対する絶対隔離政策という非人道的な政策が続いていた間、皇族などの人々がしきりにハンセン病者を哀れみ、慈愛の歌を詠んだり、あるいは、キリスト教の伝道者などが療養所を慰問し、病者を励ましたりもして来た。

しかし、これらの人々の慰問は、本当に元患者らの自由や解放に役に立ったと言えるのかと問えば、本質的にはNOであった。むしろ、彼らを自由にするのとは正反対の側面を強く持っていたと言えよう。

なぜなら、すでに病気も治療されて、患者でもなくなっていた元ハンセン病者らには、療養所に束縛される理由など何一つなく、彼らに必要だったのは、一刻も早く、隔離政策が廃止されて、自由の身とされ、療養所の外に出て行き、働いたり、結婚したり、事業を営んだりしながら、ごく普通の社会生活に復帰することだったからである。

絶対隔離政策さえ廃止されていれば、彼らには、初めから人の慰めや同情を受ける必要もなく、慰問なども全く必要なく、自分らしい生活を送ることができたのである。

ところが、絶対隔離政策は、かつて一度、ハンセン病に罹患したことがあるというだけの理由で、もはや療養所に隔離されなければならない理由が何一つなくなった人たちを、療養所にずっと束縛し続けていた。

そのような差別を前提に、差別された集団に対する同情や慈悲といったものが説かれ、それを利用する人々が現れたのである。

そうした人々の同情や慈悲は、本来は療養所に閉じ込められなければならない必要など全くないはずの人々に向かって、あたかも彼らが一生、閉じ込められて暮らすことが「運命」であるかのように説き、彼らが自由になることを早くあきらめて、隔離政策に抵抗せず、すすんで甘んじながら、療養所の中で幸せを見つけて暮らすよう、抵抗をあきらめさせる効果を持っていた。

つまり、人々が本来、全く受け入れる必要のない「限界」や「制限」に甘んじて、自由を自ら捨てるように促す効果を持っていたのである。
 
このようなものが、真の意味での同情や慈悲の名に値する活動ではないことは明白であろう。

むしろ、同情や、慈悲といった、一見、美しく優しく見える感情は、そこで人々に本当の自由、本当の人権を忘れさせて、彼らをディスカウントされた立場に甘んじさせ、なおかつ、隔離政策を支持する人々が、心ひそかに、彼らをいわれなく見下して犠牲者としながら、うわべだけ慰めや励ましを装って、彼らの存在を利用して、自分が社会的に有益で正当な活動をしているかのようにアピールするために利用されたのである。
 
しかしながら、以上のような例は、何もハンセン病者への絶対隔離政策だけに当てはまるものではない。

罪の束縛に応じるすべての人々は、今日も続いている目に見えない「絶対隔離政策」にすすんで同意し、自らそこに閉じ込められて生活しているのである。

クリスチャンはキリストの贖いによって罪を赦され、自由とされた民であるから、本来は、誰からも同情される理由がないにも関わらず、その事実を知らないまま、自分を哀れに思い、人の支援や同情にすがり続けながら暮らしている人々は多い。

今日、自分をクリスチャンだと考えている多くの人々が、罪のゆえに、日曜ごとに教会という名の囲いの中に参拝し、牧師たちからお祓いを受け、慈悲の歌を詠まれ、慰問を受けている。

牧師たちは、こうした信者たちが、日常的に様々な問題に苦しんでいることを知っており、彼らが助けを求めていることも十分に知りつつも、人間に過ぎない自分には、彼らが求めている100%の助けを決して与えられないので、常にそれ未満の、決して彼らが自由になれない程度のほんのごくわずかな慰めや励ましだけを与えておいて、彼らがいつまでも助けを求めて教会にやって来ざるを得ない状況を作り出している。

牧師だけではなく、信者同士も、教会を保険組合か、互助組織のように考えて、集まるごとに、自分たちの家庭生活の問題、健康の問題、将来の不安、経済問題などのありとあらゆる不安を持ち寄っては、それをテーブルに出して祈り合う。

だが、その祈りは、神が大胆に御業をなして下さることへの確信や感謝の祈りではなく、いつまでもなくならない彼ら自身の不安を言い表したものでしかない。

こうして今日の教会は、あらゆる弱さを抱えた人々が集まる病院のようになり、人々は自分の弱さを教会に持ち寄っては、それを互いにカミングアウトして、自分と同じように弱さから抜け出せない人々と共に肩を寄せ合い、同情し、慰め合う場所となってしまっている。

しかし、そのような慰めに満足を覚えれば覚えるほど、人はますます自己の弱さから自由になる気力を削がれて行くだけなのである。

人間の持つ同情や慈悲といった感情は、それを受ける側の人間を悪質にディスカウントし、彼らから、自由、完全性、独立心や、気概といったものを奪い取り、その人々があたかも不治の病に罹患し、差別され、隔離されている可哀想な民であるかのような立場にまで転落させてしまう。

本当は、キリストにおいてすでに罪赦されて、あらゆる問題に対する解決を与えられているはずの人々を、同情は、弱さや恥の意識でいっぱいにして、彼らが常に助けを求めて方々を走り回らなければならないかのように思わせるのである。

カルト被害者救済活動などは、そうした互助組合のようになってしまった今日の地上組織としての教会の悪しき側面が、最大限に発揮されて生まれて来た運動であると言える。

この運動は、かりそめの互助組合のようになった教会からも見離され、こぼれ落ちた人々を親切にすくいあげるように見せかけながら、彼らに向かって「あなた方は教会から不当に見放された可哀想な被害者なのだ」という思いを吹き込む。

そうして、被害者意識をふき込まれた人々が、自分たちを見捨てた教会への憤りに燃えて、この互助組合に再び自分を受け入れさせようと、いつまでもその組合にすがり続けるよう仕向けるのである。

だが、本当のことを言えば、彼らに必要なのは、自由であって、罪のゆえの互助組合ではない。牧師制度のもとに自由はなく、既存の教団教派の中にエクレシアはないため、教会から打ち捨てられた人々は、むしろ、それを幸運と考えて、いち早く、真理を探究して、聖書に立脚した真実な信仰の道を行けば良いだけであって、互助組合にいる人々から哀れまれたり、同情されたり、誰かからそこから排除されたことで、可哀想に思われたりする必要もなく、その互助組織に属さないことを不遇だと嘆く理由自体が全くないのである。

絶対隔離政策が推進されていた時代、ハンセン病の元患者らの中のある人々は、勇敢に療養所で自由を勝ち取るための戦いを続け、脱走を試みたり、不当な裁判に抵抗したり、様々な活動を行った。

しかし、今日、キリスト教界という療養所では、悪魔が制定した罪による絶対隔離政策がすでに廃止され、人々は罪という不治の病からすでに解放されて、自由になったという事実さえ、いつまでも認めようとせず、自らすすんで隔離政策に同意するばかりか、果ては療養所から追い出されたことが気に入らないと、療養所に再び自分を受け入れさせようとすがり続け、自分に自由を宣告した療養所を非難し続ける人々がいる。

そうした人々は、あちらの療養所はもう少し待遇が良かったとか、こちらの療養所は質が悪いとか、ここでは慰問団のパフォーマンスが良かったとか、こちらでは不十分だとか、それぞれの療養所を比べ合っては、終わりなき批評を行い、中には自分たちを見捨てた療養所へのバッシングで溜飲を下げる者たちもいる。

こうした有様は、まるで釈放された元囚人が、自分には未だ刑務所に収容される権利があるとみなし、刑務所が自分を見捨てたのは不当だと叫び、再び受刑者に戻るために、どの刑務所が一番待遇が良いかなどと、まるでカタログでも見るように刑務所の待遇を比べて論じ合っているようなもので、そんなにまでも自由であることの意味を見失ってしまうと、たとえ釈放されても、一生、心は囚人のまま暮らすことになるのだろうとしか言えない。

この人々の盲点は、自由は、組織としての教会の中にあるのではなく、自分自身の信仰の只中にあるという事実を見失っている点である。隔離病棟や、療養所の中に自由を求め、そこで受け身に暮らしながら、満足できる待遇を要求すること自体がナンセンスだということに全く気づいていないのである。

真に満足できる暮らしを手に入れるためには、まずは療養所を出て行かなければならない。そこにいる人々と弱さを分かち合って連帯して同情し合い、慰め合うことで、いつまでも自分の弱さを握りしめることをやめ、やんごとなき人々のほんのわずかな注目や、慰問団のパフォーマンスに慰めを見いだそうとすることをもやめて、自分はもはや病人ではないから、誰の世話は要らないということを自覚し、キリストの命が、自分のすべての弱さに対する十分な強さとなってくれることを信じて、たとえ慣れていなくとも、一歩一歩、新しい生活へ向かって、自分の足で歩き、自分自身ですべての物事を判断しながら、ごく普通の自立した生活を打ち立てて行くしかない。

ところが、今日、クリスチャンと言われている人々には、驚くほど、この判断力、自立の力が弱い。多くの信者たちが、集会から集会へと渡り歩き、自分の弱さに溺れるばかりの、あるいはそれに対する何の解決にもならない無意味な祈りに没頭し、各教会を批評家然と品定めして、指導者の力量を品定めすることはできても、自分自身で物事を判断し、道を定め、自由へ向かって歩いて行く力がほとんどないのである。

この人々はまるで車いすに座ったまま、自由に歩ける人々のパフォーマンスが不十分だと非難している観客のようなもので、地上組織としての教会の足りないところを数えて後ろ指を指し、もっと自分に祝福を与えよと人に向かって要求することは巧みでも、自由になるためには、そもそも自分自身が自力で立ち上がって、組織によらず、他人の助けにすがらず、自分自身の信仰によって歩みを進めねばならないことが分からないのである。

こうした人々は、たとえるならば、「金銀はないが、私にあるものをあげよう。イエスの御名によって立って歩きなさい」と命じられ、健康な二本の足で立って歩く自由が与えられているのに、いつまでも車椅子にしがみつく人々のようであり、あるいは、一つのおしゃぶりを与えられても、それが気に入らないからと言って泣きわめき、うるさく泣いていれば、いつか母親が近寄って来て、別のおしゃぶりを与えてくれると期待している赤ん坊のようなものである。
 
自由になるためには、まずその哺乳器を離れなければならないのである。車いすを捨てて立ち上がり、療養所から出て行かなければならないのである。

そういうわけで、アダムの命の有限性と訣別して、キリストのよみがえりの命によって生きるための秘訣の第一歩は、「自分にはあらゆるものが足りない」という意識と訣別することである。

確かに、周囲を見渡せば、不満のきっかけとなりそうな材料は、無限に見つかることであろう。社会で毎日のように起きる陰惨な事件、無責任な為政者、腐敗した宗教指導者、冷たい友人、味気ない家庭生活、自分自身の限界・・・失意を呼び起こす原因となるものは無限に列挙できよう。

しかし、そうした地上のものは、もともとあなたを満たす本質的な力を持たないアイテムでしかなかったことに、まずは気づかなければならない。

そこにはもともとあなたを生かすまことの命はなかったのであり、あなたの真実な故郷も存在しないのだから、そういうものに期待を託し、すがり続けている限り、失望しか得るものがないのは当然なのである。

自由になるためには、あなたを生かす力のないこれらの人工的な栄養補給のチューブを引き抜いて、自らの内に神が与えて下さった新たな命だけを動力源として生きる決意を固めねばならないのである。

その時、あなたがその命に従って生きることにどんなに不慣れであっても、その命は、あなたにすべてのことを教え、導き、すべての不足を補って余りある超越的で圧倒的な支配力を持っていることを信じねばならないのである。

それでも、その新たな歩みは、あなたにとって不慣れであるがゆえに、欠乏の感覚は度々襲って来るであろう。肉体の限界、心を圧迫する様々な出来事、行く先をよく知らない不安、波乱に満ちた絶望的な事件などが、あなたを絶えず圧迫し、常にあなたの人間的な限界を突きつけ、こんな無謀な冒険はやめて、元来た道を戻った方が安全だとささやくであろうが、あなたはそこで、自分にはその行程に耐えるだけの力がないとささやく同情の声に負けて、信仰による歩みをやめて、元来た道を戻ってはならない。あなたは毅然とアダムの命の有限性を受け入れることを拒み、十字架の死を打ち破ってよみがえられたキリストが、あなたの人間的なあらゆる弱さに対して、常に十分に解決となって下さるがゆえに、目的地までたどり着く力があることを信じて歩み続けねばならないのである。

復活の命が、周囲の限界にも、あなた自身の限界にも、それを補って余りある力となり、解決となることを、まずは信じて、一歩、一歩、歩みを進めねばならない。

その信仰がなければ、人には慣れ親しんだ療養所の環境を出て行く決意などつかないであろう。なぜなら、人々はあまりにもそこの暮らしに慣れ過ぎているためだ。人々はその生活に満足しておらず、そこに自由も完全性もないことも知っているが、それにも関わらず、あなたは自由になったので、そこを出て行って良いと告げられても、隔離された生活以外のものを全く知らず、未知の世界に自己の責任と判断で新たな一歩を踏み出すこと怖さに、その不自由の囲いの外に出て行こうと願わないのである。

ごく少数の人々だけが、何が何でも束縛された不自由な生活には耐えられないと思い、経験のあるなしに関わらず、人としての自由や完全を求めて、どんな小さなチャンスでも逃さず、療養所を出て行こうと決意している。彼らは人としての完全な自由と尊厳を取り戻すまで、どんな困難にでも耐え抜くことで、誰かが押しつけて来た不当でいわれのない被差別民のレッテルなどは完全に返上しようと固く決意している。
 
あなたがどれほど自由を求めているか、どれほど人としての完全を求めて、それを約束してくれている神の御言葉を信じて、自分の限界を信じずに、これまで見て来たすべてのものの限界を信じずに、見えるものによらず、神の栄光を完全に表す一人の新しいキリストに属する人として、新たな道を信仰によって勇敢に大胆に進んで行くことができるか、その決断と選択にすべてがかかっているのである。

ダビデが、神が敵前で自分の頭に油を注ぎ、食卓を整えて下さると信じることができたのは、彼が目に見える事実をよりどころにしておらず、目に見えるすべてのものの限界をはるかに超えて、それを打ち破る神の御言葉によるはかりしれない恵みの約束を固く心に信じていたからである。

信仰の先人たちが、行く先を知らないで出て行くことができたのも、彼らが自らの知識や経験によらず、彼らの内に働くまことの命の法則に従って、天の完全な故郷に向かって歩んだからである。彼らは目に見えるものの有様を見て、それが自分にふさわしい世界だと考えず、その限界を信じず、自分にはそれよりもはるかにまさった天の自由な故郷が約束されていることを信じ続けて、これを目指して前進したがゆえに、神は彼らの信仰を喜ばれたのである。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブル11:1-3)

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが、実際には、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:13-16)
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神の言葉は生きて活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、心の思いと意図を識別します。

神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、
 魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、
 心の思いと意図を素早く識別します。
 (ヘブル人への手紙四章一二節、改訂訳)

ヘブル人への手紙四章一二節のこの注目すべき節は、魂と霊の区別、両者を互いに「切り離す」必要性、それがなされる手段をはっきりと示しています。これは、信者が真に「霊の中で神にしたがって」生きる「霊の」人となるためです(ペテロ第一の手紙四章六節)

ペンバーはこの節に関して、次のように指摘しています、「使徒がここで言っているのは、神の御言葉の切り離す力である。祭司が全焼のいけにえの皮をはいで、四肢をばらばらに切り離したように、神の御言葉は人の存在全体を霊、魂、体に切り離す」

フォウセットは次のように記しています、「神の言葉は『生きていて』、『力があり』(活動的・効果的で、ギリシャ語)、『人のより高度な部分である霊から、動物的魂を分けるにまで至る』」「神の言葉は、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通し、肉的・動物的なものから霊的なものを分離し、魂から霊を分離する」「神の言葉は、緊密に結合している人の非物質的存在、魂と霊を分ける」「この描写は、祭司の剣によって、文字通り関節を切り離し、骨髄を刺し通してさらけだす所から取られている」。

神の霊が信者の霊の宮から自由に活動するかわりに、信者は魂の命によって支配されるおそれがあります。この危険性に対して目を開かれている信者にとって、ヘブル人への手紙四章一二節はとても示唆的であり、教訓的です。フォウセットの言葉はこれを示しています。

霊の人になることを願う信者のうちに、ただち次のような疑問が生じるでしょう、「私はどうすればいいのでしょう?どうすれば、私の歩みや奉仕の中にある魂的なものを識別できるのでしょう?」。

いま考察しているテキストによると、私たちは私たちの大祭司に自分を明け渡さなければなりません。この方は「もろもろの天を通って行った」方であり、この方の目に「すべてのものは裸であり、あらわにされています」(ヘブル人への手紙四章一三節)この方が祭司の務めを果たされます。彼は、鋭い両刃の剣である御言葉を用いて、私たちの内にある魂と霊を切り離すまでに刺し通し、「心の思いと意図」さえも識別されます。フォウセットは注解の中で、「『思い』と訳されているギリシャ語は心や感情に言及しており、『意図』または『知的観念』と訳されている言葉は知性に言及している」と記しています。

主は、私たちの肉体的・道徳的弱さに同情することのできる、「あわれみ深い、忠実な大祭司」(ヘブル人への手紙二章一七節、改訂訳)となるために、人となられました。この方だけが、祭儀用の剣*を用いて、思い、感情、知性、知的観念さえも刺し通し、魂の命を忍耐強く「切り離す」ことができます。なんという働きがなされなければならないのでしょう!

聖霊が内住している霊が支配し、あらゆる思いを虜としてキリストに従わせるには、動物的な魂の命が取り除かれなければなりません。ではどうやって、動物的な魂の命は、その「関節と骨髄」さえも貫いて探知され、取り除かれることができるのでしょう?私たちの大祭司は、決してしくじったり、諦めたりされません。主は裁きの中から勝利をもたらされます。ただしそれは、人が自分を主の御手に委ね、主に信頼する場合です。主は神の霊により、生ける御言葉の剣を振るって下さいます。

魂と霊(Soul and Spirit)ジェシー・ペン-ルイス著  第4章 いかにして「魂」と「霊」は切り離されるのか



裁判官に会う日程も決まり、着々と物事が進行している。
 
さて、このところ、悪魔に立ち向かいなさい、そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去るだろうという御言葉の意味を知らされている。今回は、御霊によって歩む生活を考える上で、邪悪な思念を退けるというテーマについて語りたい。

かつて当ブログでは、主と共なる十字架における自己の死について、幾度か語ったことがある。信者の生まれながらの体の邪悪な働きに対しては、主と共なる十字架における霊的な死が信者に適用されることが実際に可能であると。

多くのクリスチャンが、信仰生活の最初に、罪との格闘において、この段階を通る。そして、罪に対する勝利は、人自身の力によるのではなく、御言葉を通して、人間の堕落した肉体に働く主と共なる十字架の死が適用されることによって初めて可能になるのだと知る。

だが、十字架の働きはそこで終わらない。体に対する十字架の霊的死が適用されれば、次なる段階として、魂の命全体に対する十字架の死が適用されるという段階がある。それは、人の天然の肉体と魂に働くアダム来の命の邪悪な働きに対する死である。
 
罪との格闘が、最初は失敗からしか始まらないように、信者が魂の命の邪悪な力に気づいて、これを御言葉によって克服する方法を知るにも、それぞれの段階がある。まずは気づき、抵抗、格闘、勝利といった段階がある。

悪魔は、クリスチャンに対して、あたかもクリスチャン自身が思い描いていることであるかのように見せかけながら、邪悪な思念を外から吹き込むことができる。悪魔は、信者に恐れや、不安や、神に対する疑いや、罪悪感や、その他、信仰を曇らせるあらゆる邪悪で不潔な思念を心の中に混ぜ込もうとする。

それだけではない。悪魔は光の天使に偽装して、信心に見せかけた誤った思想や、常識に偽装した御言葉にさからう悪しき思念を、もっともらしい理屈のように見せかけて、信者に信じ込ませることもできる。

とにかく悪魔は神の栄光を曇らせる様々な虚偽の思いをクリスチャンの思念の中に絶えず注入しようとしており、それによってクリスチャンの自由を奪い、信者が自分で自分を縛り、信仰が働く余地がなくなるように仕向けているのである。

このことを知らないうちは、クリスチャンはそうした悪しき思念が自分自身の思いなのだと勘違いし、それにとらわれたまま生き続けてしまうだろう。

だが、もしもクリスチャンが、悪魔から来た思いを自分の思いであると信じ込み、また、それが抵抗することも、変えることもできない運命的な結論であるかのように信じて受け入れれば、その思念が実際にクリスチャンの霊の内に働いて現実になってしまう。

悪魔が狙っているのはまさにこのことであり、本来は、神の恵みに満ちた御言葉を地上で生きて実践し、御国の秩序を地に引き下ろすために存在しているはずのクリスチャンを、悪魔の思念を実現させるための道具に変えてしまうことなのである。

そこで、信者の心が戦場となる。信者の心には様々な敵矢が撃ち込まれ、神から来たのではない様々な種がまかれるのである。信者がそれに気づいてこれを取り除かない限り、その種は発芽し、雑草のようにはびこり、信者の心全体がやがて神から来たのではない思想に専有されて行くことさえ起きかねない。
 
だが、信者は誰しも天然の魂の命の邪悪な働きについ初めからて熟知しているわけではないので、この戦いは、完全な勝利から始まるというわけにはいかない。まずは信者が様々なきっかけを通して、霊的な敵が、自分の思いの中に、悪魔から来る要素を注入しようとしているということに気づくところから始めねばならない。

幾度かの失敗と、悪しき思念との格闘の末、ようやくクリスチャンは、自分の天然の魂に働く邪悪な衝動を見分けてこれを撃退する必要に気づき、やがて御言葉による実力行使によって、毅然と自分の思いの中に混ぜ込まれようとする様々な誤った考えに抵抗して打ち勝つことができるようになる。
 
信者は、御言葉に合致しない、神に栄光を帰さない、御言葉に敵対する、悪魔に由来する邪悪な考えや、さらに、自分自身に害を及ぼすような考えを、即座にきっぱり拒否する必要があると分かる。

もしもそれが分からないままでは、その信者は自分が一体、何に攻撃されているのかも分からないまま、ただやられっぱなしの状態が続くであろう。こうした無知な状態をすべてのクリスチャンが脱しなければならないのである。
 
たとえば、クリスチャンが稀に誰かからあからさまに呪いの言葉を浴びせられるということも、現実には全く起きないわけではない。しかし、クリスチャンは、そうした悪意ある言葉を聞いたときには、即座にこれを心の中で断ち切らなければならない。なぜなら、御言葉を参照すれば、私たちのためには、すでに木にかかられて呪いとなられた方がおられるので、そうした邪悪な言葉を私たちが身に背負う必要もなければ、そんな責任も全くない。そのことにちゃんと気づかねばならない。

それができなければ、信仰あるクリスチャンでも、呪いの言葉を受け入れてそれを身に引き受けるなどという馬鹿げた事態に至りかねないのである。

だが、悪意を持って第三者から発せられた言葉であれば、それが悪であることは、比較的誰にでも分かりやすい。誰もそれが神から来たものであるとは思わないであろうし、そんな言葉を真に受ける人も少数であろう。

だが、ふと人の心に何気なく思い浮かぶ様々な思念の中にも、そうした邪悪な起源を持つものが含まれていることがあると、気づいているクリスチャンたちはどれくらいいるであろうか。文字通り、自分の心に去来するすべての思いを、御言葉に照らし合わせて吟味し、まことの大祭司なる神の御手に委ねなければならないことを真に知っている人々はどのくらいいるであろうか?
  
邪悪な起源を持つ思いが、まるでその人自身の思いつきであるかのように装って、人の心に外から注入されるということが実際に起きうるのである。いや、四六時中起きていると言って過言でないかも知れない。そこで、信者は自分の魂に対しても、十字架の霊的死の働きが不可欠であることを知らねばならないのである。

たとえば、どんなに敬虔なクリスチャンであっても、何かよく分からない倦怠感、諦念、恐れや不安に駆られたりすることが全くないわけではないだろう。それは一時的な体調不良や、疲れに伴ってやって来るもののように思われるかも知れないが、それだけではない。
 
大概、暗闇の勢力は、信者の体の弱体化に伴って、邪悪な思いを注入するということに注意が必要である。以前にも書いたように記憶しているが、主イエスは十字架上で、痛みを和らげる効果のある酸い葡萄酒を拒まれた。(ただし息を引き取る直前には、それとは違った文脈でこれを受けられたが)。

このことは、イエスが罪なくして罪人の代表として、十字架刑の苦しみを、人工的な緩和なしに余すところなくその身に背負われたことを意味するが、同時に、主イエスが、体の働きを少しでも麻痺させるような薬の服用によって、霊的な命の支配力が弱まることを拒否されたことをも意味する。

つまり、痛みを和らげるためのアルコールを含めた様々な薬の服用は、ただ人間の苦痛を緩和するだけでなく、人間の判断力を鈍らせ、人が自分自身を治める力自体をも鈍らせ、失わせてしまう効果を持つのである。

霊は信者のうちで支配力を持つ司令塔であるが、体の働きと一切無関係にその支配力を実行に移せるわけではない。従って、体の力が弱まり、バランスが崩れれば、それに伴い、人間の思考力、判断力といったもののすべても低下する。霊的な識別力、判断力も、当然ながら、弱まって来る。
 
そこで、サタンは大概、信者の体のバランスが崩れた時に、信者の魂や霊に対する攻撃をしかける。体の弱体化には、過労や、病気やあからさまな災害によって引き起こされる変調もあれば、投薬による感覚の鈍麻もある。そこで、クリスチャンはそうした体の変調・弱体化を可能な限り、避けるべきである。不必要な薬の服用によって、霊的な命の統治の力までが弱まることに無知でいてはならない。
  
サタンが、こうして信者の体の弱体化に乗じて、正体不明の恐れや不安や疑いを注入して来るとき、信者はこれに毅然と立ち向かって、その思念を撃退することが必要となる。どんなに疲れていても、その思念がどこから来るものであるのかをきちんと見分け、受け入れてはならないものを拒否する姿勢を失わないようにせねばならない。

特に、自分や、家族や、自分に属するすべての大切な人々の命に危害を加えようとするような思念、人生で目指していた目標を諦めさせようとしたり、理由もなく失望落胆させる思念といったものには、徹底的に立ち向かって、これを受け入れることを拒否し、気力を奮い起こして立ち上がって抵抗・撃退しなければならない。

こうした格闘により、信者には、生まれながらの魂の命に働く邪悪な思いを否むことの秘訣がだんだん分かって来る。

だが、このことは決して信者が、主に従う上での苦難を一切、背負わなくなることを意味しない。悪しき思いを退けることと、試練と一切無縁の人生を送ることは別である。依然として、信者の人生には、様々な試練は起きて来るのだが、それでも、信者はこれに極めて積極的に立ち向かって、御言葉により大胆に武装して、これを克服し、勝利する秘訣を学ぶようになる。御名のゆえの苦しみを負いつつも、それに対する勝利があることを確信し、その試練の一つ一つを信仰によって乗り越えて行く秘訣を知るのである。
 
理由もなく苦しみにもてあそばれ、サタンのなすがままになることが、日々十字架を取って主に従うことではない、ということを、信者は心して理解しておかねばならない。霊的な戦いは、まさに信者の心の内側で始まるのであって、信者の魂が戦場となり、神の御言葉と悪魔の虚偽との間で、争奪戦の対象となるのだということを覚えておかねばならない。

私たちはすべてのことについて、神の限りなく豊かな命を選ぶのか、それとも、悪魔の押しつけて来る束縛や限界や死を選ぶのか、問われている。文字通り、すべての選択において問われている。私たち自身が、どちらを真実だとみなして受け入れるかによって、その後の人生が変わる。御言葉に根差して、自らの思いをコントロールすること、御言葉に合致しない思いを退けることは、私たちが神の恵みと祝福に満ちた人生を失わないでいるために、必要不可欠な日々の戦いである。

自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守りなさい。聞いて忘れてしまうことなく、行う人になりなさい。

「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」
(ヤコブ1:19)


「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。」
(ヤコブ1:22-25)


キリスト者の交わりは正直かつ誠実でなければならない。そこで、時には、どんなに相手にとって耳の痛いことであっても、言うべきことは、言うべきときに、はっきりと相手に伝えねばならない。

それができなければ、交わりは人間のエゴによって甘やかされ、腐敗し、ダメになって行ってしまう。だが、もしも一言苦言を呈しただけでも、たちまちダメになるような交わりがあるとすれば、それは最初から多分、交わりと呼べるものではなく、長続きする人間関係でもないと言えよう。

その意味で、筆者は今まで自分に、いや人間に対して、あまりにも優しすぎ、優柔不断であった側面があることを否めない。筆者は誰かに、二、三言、苦言を呈した際、その相手が、のらりくらりとその忠告を交わすようなことがあっても、かなりの猶予をもうけてその相手と向き合って来た。

だが、そのようなことをすると、最後には、その人間のわがままによって害を受けることになる。わがままを通したい人間が、忠告を聞くふりだけをして時間を稼ぎ、結果的には、その忠告をないがしろにして踏みにじった挙句、自分に耳の痛い助言をして来た人間を悪者扱いして排除するということが、度々起きて来たのである。

そうした教訓に立って、最近は、二、三回、よくよく話し合って注意しても、全くそれを聞き入れず、態度が変わらない人には、それ以上、関わらないようにしている。どこで線を引くかということに関して、慎重な判別がなされなければならないのだ。

だが、同時に、正直な態度を保持していると、助言を素直に聞き入れながら、互いに変化して行くことのできる関係が存在することも、次第に分かって来る。もしも常に歯に着せて、良いことづくめの甘い言葉だけを言わねばならない人間関係があるとすれば、それはこの世的な人間関係であって、キリスト者の交わりとは関係がない。

だから、時には、兄弟姉妹は、互いに言うべきことをはっきりとお互いに言い合い、正直であり、誠実であることが必要となる。しかし、それは、それぞれが人間としての情愛で結ばれるのではなく、キリストを介した信仰の絆で結ばれていればこそ、できることだ。

もしも人間の情愛による関係しかそこになければ、それは打算に基づくものであるから、利益がないと分かれば、たちまち崩壊するであろう。しかし、主がつなげて下さった絆は、そんなにも簡単なことでは壊れない。長い時がかかるかも知れないが、互いに辛抱強く進歩して行くこともできるのだ。

兄弟姉妹は互いに光をもたらす存在である。誰かが教師となって教えることはなくとも、それぞれが互いを照らし出す光を持っている。その時、自一人一人が、自分を照らし出してくれた光に正直に誠実に向き合うことができるか、できないかによって、そのクリスチャンのその後の歩みは分かれる。
 
そして、兄弟姉妹から光を受けなくとも、我々は御言葉によって絶えず光を受ける。生まれつきの自分の顔を鏡に映して見るように、生来の自分の衝動や欲望だけに従って生きるのではなく、御言葉を受け入れ、これを実践して行くことによって、いつか正真正銘の自由にたどり着くことができる。むろん、キリストを信じて私たちは自由とされているのだが、段階的に実現する自由というものもある。それはアダム来の自分自身からの自由でもある。
 
さて、オリーブ園の記事「御霊による生活」 第四章 御霊に満たされる (2)」にも書いてあるように、時にキリストに根差した生活の最も大きな障害となるものが、形骸化した枠組みとなった宗教である。

当ブログは2009年以来、ずっとキリスト教界をエクソダスすべきことを唱えて来たが、その頃には、キリスト教界と牧師制度の欺瞞に気づき、そこからエクソダスすべきと唱える信者たちは、かなりの数、存在しており、活発な議論が行われていた。

その当時、既存の教団教派に失望して、教会難民のようになって、教会を離れた信徒の数は非常に多く、そうした人々が、既存の教団教派にとらわれることのない、聖書に忠実なエクレシアを模索していた。その当時、多くのクリスチャンたちが牧師制度を離れ去るべきと公然と唱えており、そうした論は珍しくもなかった。

ところが、エクレシアを模索していたそれらの人々が、その後、欺かれ、まっすぐな道を進めなくなり、散らされたのには、大きくわけて二つの原因があると考えられる。

一方には、「キリスト教界からエクソダスせよ」と言いながら、キリスト教界をエクソダスしていない群れがあった。その群れは、牧師制度を否定していたが、実際には、牧師制度と同じように、リーダーを立ててそれに従っていたのである。

他方には、カルト被害者救済活動のような偽りの運動があり、それが牧師制度の悪を糾弾する信者たちを傘下に集めては、巧妙に彼らを再び牧師制度のもとへ帰属させようとして行った。

これら二つともが、表向きには牧師制度を批判していたものの、両者ともに、実際には牧師制度に深く根差しており、従って、牧師という存在と訣別することができない自己欺瞞の運動だったのである。

このような欺瞞の運動に関わっている限り、信者は決してキリスト教界をエクソダスできず、キリストだけに従って生きるのも無理な相談である。

そのため、「キリスト教界をエクソダスせよ」と言いながら、それをしなかった群れは、その後、どんどんキリスト教界寄りになって行き、ついには一人の指導者を立てて、日曜礼拝を厳守するまでになった。有料のセミナー、売れ筋の出版物などをキリスト教界を通じて販売し、もはや何の区別も存在しない。
  
筆者が、これらの双方の群れから離れ、完全に牧師制度と無縁の真に独立した群れを模索し始めたとき、どれほど激しい妨害や攻撃が起きてきたかを見れば、キリスト教界という宗教組織が、いかに組織内に取り込んだ信者をいつまでも奴隷として拘束し、自由になることを許さず、かつ、牧師が信者の上に立つというヒエラルキーを何としても死守しようとするかを、誰しも十分に見て取れるだろう。

これが宗教というものの本質だとも言える。

カルト被害者救済活動は、信徒が牧師を訴えるという動きを、あくまで牧師の承認のもとにコントロールしようとしていたところに、根本的な腐敗と欺瞞があった。このように、背後に牧師がついている反対運動は、ある意味で、牧師と牧師のプロレスごっこと同じような出来レースなのであり、決して信徒の自主的な運動とはならず、本当の意味で、牧師制度の腐敗を根本的に正す原動力ともならない。

それが証拠に、かつてカルト被害者救済活動に関わる牧師が、カルト被害者のメールなどの個人情報を、加害者の牧師に無断でそっくり転送したことが発覚したために、カルト被害者から絶縁を言い渡されたりもしている。

その後も、この牧師は絶え間なく被害者の個人情報の漏洩を続けてきたが、それは彼がカルト被害者を傘下に集めているのは、被害者を自由にするためではなく、決して牧師制度から逃がさないように束縛することが目的だからである。
 
このような運動に身を寄せてしまえば、被害者は自由になるどころか、より一層、束縛されて行くことになるだけである。

それだけではない。この牧師は、自教団とは何の関係もない信徒を利用して、被害者が自分の囲いのもとから逃げられないように脅し、圧迫し続けている。

このような現象から見ても十分に分かるのは、牧師制度を敷くキリスト教界が、もしも地獄のようなところであるとすれば、カルト被害者救済活動というのは、その地獄から信徒を逃さないための、地獄の門番のようなものでしかないということである。

そんな運動が、根本的に牧師制度そのものを撤廃したり、キリスト教界を浄化する原動力には絶対にならないことは明白である。
 
キリスト教界の誤りに気づきかけ、牧師制度の誤りに気づきかけ、牧師に反旗を翻そうとした信徒たちを、再び牧師のもとへ集め、聖職者階級という階層制が、決してキリスト教界からなくならないように、それに疑いを抱いたり、反対する信徒たちを骨抜きにし、潰してしまうために、カルト被害者救済活動という偽りの運動が存在するのである。

だが、牧師制度や、教職者階級制度が、聖書に照らし合わせて、れっきとした誤りである以上、そうした運動や制度の中には、今後も、御霊の生きた息吹きは決して誰も見いだせまいと思う。

そこで、私たちは静かにそうした制度を離れ去る。神ご自身が、その制度が誤りであることを証明されるだろう。私たちがそこを離れ去った後、この教界は前よりも一層悪くなるだろうことを筆者は確信している。今、抜け出さなければ、抜け出ることさえできない時が来るであろう。

私たちは宗教組織に根差すのではなく、指導者に根差すのでもなく、見えないキリストにのみ従う民である。宗教組織に根差す信者は、その宗教の枠組みから出られない。特定の指導者に根差す信者は、別の指導者のもとにいる信徒と交われない。彼らの関係は、ちょうど医者と患者のようなもので、かかりつけの医者ができてしまえば、その医者から紹介状を書いてもらわない限り、別の医者にはかかれず、別の病院にも行けない。医療の世界では、セカンドオピニオンも尊重されるが、封建的なキリスト教界ではそれも無理である。信者は一人の牧師のもとへ行けば、その牧師に拘束されてしまう。ある教団は、信者が教団から離脱することさえ許さない。

そのような牧師制度のもとで繰り広げられる「教会のカルト化対策」などは完全に嘘っぱちである。それが証拠に、彼らは、カルト化教会の牧師が、この世の法に従わないと言って非難しているが、そういう彼ら自身が、法に従わず、自分に不都合な場合は、裁判の結果さえ軽んじるという自己矛盾を呈している。

村上密という牧師は、かつて鳴尾教会がアッセンブリー教団から単立化した際、これに反対して、教団を通して教会に裁判をしかけて裁判に敗れたが、その際、「私は裁判の結果など意に介さない」という趣旨のことを豪語している。

そこから見ても分かるように、彼らは、ある時には、「教会は聖なる法だけが支配しているために無法地帯になっているから、その聖域にこの世の法を適用し、聖域を撤廃せねばならない」などと言って、「この世の法に従え」と言いながら、教会に裁判をしかける。

ところが、その後、彼らにとって不利な判決が出ると、彼らは「この世の法だから限界があるのだ。この世の法を超えた聖なる法に従え」と言う。裁判結果などはどこ吹く風、自分たちにとって得になる結果だけは認めるが、損になる結果は、この世の司法がもたらす結論であろうと、たちまち「意に介さない」と言って、自分たちはこの世の法を超える規範に従う超法的な民であるかのように言い始めるのである。

こうした主張は完全に詭弁であり、彼らが振りかざしているのは、この世の法でもなければ、聖なる法でもなく、ただ自己の義それだけである。

聖書には、冒頭に挙げた通り、「人の怒りは、神の義を全う(実現)するものではない」という聖句があるが、そのように人間の義憤と、神の義は一致しない。私たちにはやはり最終的な裁きを神に任せるという慎重さが必要である。

だが、そんな彼らの言うことにも半分は理があると言えるのは、彼らが指摘している「教会のカルト化」問題とは、要するに、牧師制度につきものの問題だということである。牧師制度ある限り、その教会では、腐敗が絶えず、牧師が「法」となって信徒の心を支配し、結果として、無法地帯が出来上がることは避けられない。だからこそ、教会のカルト化から身を避けたいならば、牧師制度そのものをきっぱり離れ去るべきなのである。牧師が牧師をやっつけるという構図の中では、決してこの問題から抜け出ることは誰にもできない。そうなると、キリスト教界から出る以外に選択肢がないのは当然であろう。
 
そもそも教会のカルト化は1980年代になって始まったのでなく、特定のあれやこれやの教会だけが腐敗したわけでもない。教会のカルト化は、牧師制度が根本的な原因となって引き起こされているのであり、見えないキリストではなく、目に見える人間の指導者に信者を従わせようとする反聖書的な思想から来ているのである。

現にカトリックの聖職者制度においても、プロテスタントで起きていることと相当な類似性のある大規模な腐敗が起きているが、そうしたことも、決して近年になって始まった現象ではない。神の福音が、聖職者という特権階級を養うためのビジネスとなり、それゆえ、信徒が、聖職者階級を支えるための道具として食い物にされるとき、そうした腐敗堕落が起きて来るのは当然である。教会成長論などといったものは、この聖職者ビジネスの途上に現れて来たに過ぎない。
 
だから、聖職者階級という階級制度ある限り、カルト化問題はなくならず、それゆえにこそ、カルト化を取り締まる側に立って救済活動を率いているはずのアッセンブリー教団とこの活動を率いる牧師こそが、他のどの教団や牧師よりも深刻にカルト化しているという現実が存在するのである。
 
繰り返すが、カルト被害者救済活動に正義など微塵もなく、私たちは悪しき牧師制度全体と訣別せねばならない。私たちは見えないキリストのみに従い、根差す民であり、どんな教団、教派であれ、特定の指導者の思惑が、あたかも神の聖なる法であるかのように押しつけられる囲いの呪縛に束縛されるべきではない。

私たちはどんな教団教派にもとらわれることなく、信仰によって同じようにキリストに根差すすべての民と、一つのエクレシアを形成している。

私たちはそうした真のエクレシアの姿を模索するその一員であり、その時々で、同じようにキリストだけに頼り、聖書に忠実なエクレシアを追い求めている信者に出会っては、主の御名のもとに集まる二、三人の群れを形成して来た。

日曜礼拝だとか、家庭集会だとか、聖会だとかいった目に見える囲いが、信徒の敬虔さの証になるのではない。ごく普通の日常生活の中で、互いに会って交わりをし、食事をし、主を誉めたたえ、恵みを分かち合う。讃美歌も歌わないかも知れないし、必要がなければ、祈りさえしないかも知れない。聖書の朗読なども行なわないかも知れない。

だが、たとえそうであっても、そこには、あくまで主を中心とした交わりがれっきとして存在しており、そのためにこそ集まり、話し合っていることを、一人一人が知っているのである。

なぜ、主の御名の中に集まる二、三人なのか? それは、おそらく、規模が二、三人を超えてしまうと、なかなか親密な交わりは難しくなってしまうからだろう。

もしもそこでリーダーとなって教えと垂れようとする人が現れれば、そこでその交わりはおしまいになる。兄弟姉妹は互いに助言し合い、光によって照らし合う存在ではあるが、それは誰かが教師となって誰かを教える関係を意味しない。階層制が出来てしまえば、その交わりはそこで死んでしまう。

さて、この記事の後半に書いておきたいが、ある人々が、当ブログに逆SEOがしかけられているというのは嘘だと言っているのだが、以下のような記録がたくさんあるため、皆さん、嘘に騙されないよう気をつけられたい。
 
当ブログへの集中アクセス履歴(6月6日~6月7日) 
当ブログへの集中アクセス履歴(6月30日~7月1日)
  
もちろん、サーバーに負荷をかけるような集中アクセスを繰り返すことは、ブログに対する明白な攻撃であるから、当然、被害を主張されても仕方がないということは、おそらくご存じの上でやっておられるのであろう。

筆者はIPアドレスの開示請求のための訴訟に及ぶ予定にしているが、こうした嫌がらせ行為は当然ながら、その範疇に含まれて来る可能性が高い。
 
筆者は、上記のアドレスの持ち主が、カルト被害者救済活動のコアな支持者だと言うつもりはないし、キリスト教関係者だとも考えていない。だが、カルト被害者救済活動が暴走した結果として、本来はキリスト教と何の関係もない人々の間にまで、無実のクリスチャンに対するいわれのない憎悪や迫害を駆り立ていることは事実である。

そうしたネット上の嫌がらせに取り組んでいる「宗教的ネトウヨ」のような人々を、筆者は総称して「サイバーカルト監視機構」という言葉で呼んでいるだけである。だが、むろん、彼らは実際には、何一つ信仰心など持ち合わせていない人々であるから、宗教的な要素はなく、またネトウヨでもない。
 
筆者は、カルト被害者救済活動というものが登場して来たその最初の頃から、この運動は、カルト化した教会を是正・改革することが真の目的ではなく、むしろ、必ずや既存の教団教派に属さない信徒らをカルト扱いして排除することが主要な目的となるだろうと警告して来た。

筆者はそのことを10年前から警告している。要するに、カルト被害者救済活動というものは、カルトを撲滅することが目的なのではなく、初めから、真実、主に従う神の民を迫害し、殲滅することを真の目的とする悪魔的運動なのだと。

彼ら自身が書いていることなのだが、人を欺くためには、真実の中に多少のデマを混ぜ込めば良いのだそうだ。危険なのはこの点である。彼らの言うことの80%が本当だったとしても、残りの20%が嘘であれば、その20%の嘘によって、神の聖なる民が無実にも関わらず断罪され、迫害され、排除される危険が出て来るのである。

そういうわけで、私たちは一つの情報、一つの記事を読むときに、その背景に至るまで事実を詳細に分析し、文脈を疑いながら読む癖を身につける必要がある。そうでなければ、簡単に欺かれるだろう。

繰り返すが、生きた人間に決して異端審問の権限などを与えてはならない。そのようなことをすれば、必ず、本物の異端だけでなく、偽物の異端(つまり全く異端ではない真実な信仰まで)も、共に異端として駆逐されることになり、それは必ず現代の異端審問所となって暴走して行くだけである。

私たちクリスチャンは、誰と交わり、誰と交わらないかを、自己決定する権限は持っているが、地上から異端を根絶したり、力づくで排除するとなれば、それは全く別の話である。

そもそも異端というのは、思想であるから、構造面からの緻密な分析なくしては、見分けることもできず、排除もできない。異端に対する取り組みは、平和的で根気強い議論の積み重ねの上にしか成り立たないのであり、平和な議論ではなく、力の行使によって異端の排除に及ぶ人々は、根本的に方法論をはき違えているのであり、これは大変危険な暴力的運動である。

だが、今、カルト被害者救済活動にとどまらず、既存の教団教派に属さない人々の信仰心そのものを敵視し、侮蔑し、排除しようとして、憎しみを駆り立てている勢力が存在していることを感じざるを得ない。そうした世相が形成されつつあることを感じる。
 
たとえば、以下の記事も、そうした世相に照らし合わせて読むと、ある種の非常な危なっかしさと怖さをはらんでいることが分かる。これはある意味で、大変に誤った方向へ人々を導く記事だと言えるであろうから、ちょっと取り上げて注意を促しておきたい。

ネトウヨの中心層は40代~50代、バブル崩壊などを経験!「純粋過ぎて宗教的な怖さ」 」(情報速報ドットコム 2018.06.05 22:10)

たとえば、この記事の標題のつけ方に、すでに相当な注意が必要である。

まず「ネトウヨの中心層は40代~50代」という決めつけに、本当に信憑性のある具体的な根拠があるのかどうかを、記事を読んで確認してみよう。

その前に、まず、ここで「ネトウヨ」と呼ばれている人々が、誰を指すのかという問題について考えねばならないが、ここで言われている「ネトウヨ」とは、ただ単に最近、弁護士に大量に懲戒請求を送りつけたという事件に関わる人々だけを指すのであって、本来の「ネトウヨ」の概念は、この事件にとどまらず、もっと広いものであることに注意しなければならない。

つまり、この記事では、ネトウヨの概念が極めて矮小化されているのである。

次に、この記事の元記事となった日刊ゲンダイの記事「ネット右翼の中心層を40代後半~50代が占める空恐ろしさ」の文面を読んでも、そこに書かれているのは、

「この会見でもうひとつ驚いたのは、懲戒請求した人たちの年齢構成だ。あくまで和解に応じた人での範囲だが、最も若い人で43歳、中心層は40代後半から50代で、60代、70代も含まれていたという。」

ということだけで、ここには年齢層を示す正確なデータもなければ、60代、70代の割合が全体のどの程度を占めていたのかも示されていない。つまり、どこにも40~50代が中心層だと言えるだけの明白な根拠が示されておらず、不確かな伝聞だけしかそう決めつける頼りになるものがないのだ。さらに、それさえも、和解に応じた人々だけの年齢層であるから、和解に応じなかった人々も含めなければ、全体の年齢構成を判断する正確な根拠とはならないことは言うまでもない。

こうした不確かなデータしか存在しないのに、ゲンダイの記事が「ネット右翼の中心層を40代後半~50代が占める空恐ろしさ」などと決めつけて標題としているのは、ある意味、あまりにもあからさまな誘導的なタイトルの付け方であり、特定の年齢層の人々に対する侮蔑や憎悪を煽るタイトルだとさえ言える。

また、筆者に言わせれば、この年齢は必ずしも「失われた20~30年世代」と重なるわけではないので、必ずしも就職氷河期などを経験して、社会で冷遇された人々と一概に結びつけることもできないのだが(多少のズレが存在する、どちらかと言えばネトウヨと名指しされているその層は、煽りは受けたかも知れないが、一番過酷な時代の直撃を免れた人々である)、ほとんど根拠のない連想ゲームのような具合で話が進み、「就職で不利となり、社会で居場所を失って、自尊心を傷つけられた世代がネトウヨ化した。そうした世代が、大体40~50代の世代に集中しており、この年齢層は、不安定な雇用情勢などが引き金となり、危険思想の持主となりかねない社会の不穏分子だ」といったような、ある種のイメージ操作のようなことまでが行われていることを感じずにいられない。

そして、仮にそのようなこと(この世代のネトウヨ化)が現実にあるのだと仮定しても、それに対する対策は、そもそも就職氷河期世代に政府が緊急かつ明白な雇用の手を差し伸べることでなければならず、中でも高学歴の人々に安定的なポストを供給することにあったのであり、無謀な大学院の拡張や、デフレ脱却に対する無策といった政府の施策の数々の失敗が、彼らのネトウヨ化を招いた根本原因であることは明白にも関わらず、そうした政府の責任という問題には蓋をしまま、いきなり、「ネット右翼の中心層を40代後半~50代が占める空恐ろしさ」などという標題をつけ、あたかもこの年代層が社会を不安定化させている不穏分子であるかのように決めつけているところに、まさにこの記事の「空恐ろしさ」があると言えよう。

さらに、この記事の「空恐ろしさ」はこれだけでは終わらない。以上のような曖昧なデータしか存在していない元記事を根拠に、記事の書き手も、ネトウヨについて、「ネット上では工作員だの雇われているだの言われていることもありますが、彼らの9割は本気で右派系のメディアやブログを信じ込んでいる一般人でした。」などと断言する。

だが、ここで言われている「9割」というのが、何の内訳であるのかもはっきりせず、彼らが本当に雇われていなかったのかどうかや、一般人なのかどうかなども、現時点ではすべて未確定の事実であるにも関わらず、推測だけで、ネトウヨは「工作員ではない」という決めつけがなされる。むろん、ここで言う「ネトウヨ」とは、弁護士に懲戒請求を送りつけた人々だけに限定されているのだが、そのことも十分には触れられていない。
 
仮に、彼らが実際に工作員でなく、いかなる雇用関係もない一般人であったとしても、それはあくまで弁護士に懲戒請求を送り、和解に応じた「ネトウヨ」だけを対象とするのであって、それ以外のネトウヨ全体が、工作員でないのか、雇われていないのか、といった問題は、この事件だけを通しては全く見えて来ない事実であるにも関わらず、そのことも触れられていない。

こうして、記事では、まるで弁護士に懲戒請求を送り和解に応じた人々だけを「ネトウヨ」とみなすかのように、物事を極度に矮小化した果、「ネトウヨは俗にいう雇われ工作員ではありませんでした」と受け取れるような結論が提示されているところに、ある種の世論誘導的な空恐ろしさを感じざるを得ない。

さらに、そうしたネトウヨが「本気で右派系のメディアやブログを信じ込んでいる」ことは、ただ単に彼らの愚直さ、愚劣さを示しているだけであるにも関わらず、それをあえて「純粋」と呼び変えるところにも、この記事のある種の「空恐ろしさ」がある。
 
「純粋」という言葉は、本来、こういう文脈で使うべき言葉ではない。これはカッコつきの純粋さであり、むしろ、以上のようなネトウヨは、決して純粋ではなく、不純であり、愚直、愚劣であったからこそ、このような悪事に手を染めたのである。

さらに進んで言えば、本来、宗教とは何の関係もないネトウヨに対して「純粋過ぎて宗教的な怖さ」 があるなどと決めつけ、宗教に対する敵視まで呼び込もうとしていることに、筆者などは、一体、この記事の目的は何なのだろうかと、背筋がぞっとして来るのである。
 
宗教と無縁の運動を「宗教的」と呼ぶからには、相当な根拠がなければならない。もしもネトウヨを宗教扱いしたいのであれば、そこには、戦前・戦中の国家神道などのイデオロギーの分析が土台にあり、安倍政権との思想的な親和性が前提として語られなければならない。

しかし、この記事には何らそうした前提となる考察の裏づけや分析がないまま(むろん、現政権への思想的な批判もきちんと向けられないまま)、いきなりネトウヨに「純粋過ぎて宗教的な怖さ」 などというレッテルが貼られ、ネトウヨをいきなり無差別的にひとくくりに「宗教」という名と結びつけて、特定の年代層に対する蔑視に加えて、宗教全般に対してまでも侮蔑の眼差しを向けさせようとしているところに、この記事の本当の「空恐ろしさ」がある。

一体、この記事の真の目的はどこにあるのかという疑惑が生じるのは当然である。本来、ネトウヨに対しては「安倍真理教」などと言った名称が向けられており、そうした文脈で批判がなされるならまだ分かるのだが、ここで言われている「宗教」なるものが何であるのかは、全く明らかにされていないため、論点のすり替えを感じるだけである。
 
むろん、筆者は「宗教」を擁護するつもりはないのだが、今、ここで述べていることは、聖書に基づくキリスト教の信仰の本質は、宗教にはないということとはまた別の問題である。

そこで、筆者は、以上のような、正当な文脈を外れた「純粋」だとか「宗教的」だとか、根拠のない年代層の決めつけなどの曖昧な言葉の使い方が、結局は、宗教全般に対する敵視、特定の世代に対する敵視、社会から打ち捨てられた不遇の人々に対する差別感情や憎悪、はたまた既存の教団教派に属さない人々の純粋で素朴な信仰心そのものに対するいわれのない憎悪や敵意を生んでいきかねないと考えるがゆえに、この記事の「空恐ろしさ」を感じずにいられないのである。

結果として、こういう類の決めつけの記事は、40代から50代の人々に対するいわれのない差別感や、社会的に不遇の立場にある人々に対する蔑視や、真面目な信心を持つ信者に対するいわれのない侮蔑の念、蔑視を呼ぶだけで、根本的なネトウヨの分析には全くなっていないと言えよう。
 
かつては以下のような記事も出され、一般的には、政府与党によるネット上の書き込みの大規模な規制・監視が、ネトウヨと呼ばれる人々を生んだのだということは、今や世間の共通見解のようになっているのに、以上の記事はその前提まで否定しかねない勢いである。

「自民党の凄まじいネット工作!!自民党はツイッターやブログの書き込みを常時監視し、問題があればすみやかに反論&削除を要請!

  
自民党が組織的に人員を雇用して大規模なネット規制や監視を行い、世論誘導を行って来たことは、今や周知の事実であり、ネトウヨはそうした中から生まれて来た雇われ工作員であることも、ほとんど共通見解になっているというのに、以上のような記事は、そうした政府のネット上の工作からは人々の目を背け、ネトウヨの問題を極度に矮小化することで、それをあたかも個人の問題、特定の年代層の問題であるかのように置き換え、問題をすり替えて、自民党による組織的で大規模なネット上の工作などは、まるで行われていなかったかのように、あるいは、それとネトウヨの発生は全く無関係であるかのように話をごまかす効果を持っている。

つまり、以上のような飛躍した内容の記事は、「ネトウヨとは、社会で行き場がなくなり、ネットで気晴らしするしかなかった特定の年代層の個人が、愚直で信じやすいがために、ネットの嘘に騙されて煽られただけで、自民党の工作などとは一切、関係ないんだよ」と世間に信じ込ませる手段となり得るのである。(ついでに政府の施策の失敗がもたらしたネット難民のような人々の存在という問題をも、侮蔑によってかき消してしまう効果もある。)
 
こうしたあまりにも飛躍した論理が高じると、最後にはまるで皇帝ネロがしたように、ネトウヨが引き起こしたすべての災いまでもが、ネトウヨとは何の関係もないクリスチャンに転嫁されて、「純粋過ぎて宗教カルト化した人々がすべての原因だったのだ」などというとんでもない虚偽の風説の流布にさえつながりかねない怖さを感じる。

関東大震災の後で、朝鮮人に暴動の罪が着せられ、多くの人々が何のいわれもない害を受けたのと同じで、宗教とは何の関係もない出来事が、宗教や、信仰心に根拠もなく結び付けられ、特定の集団がバッシングを受けたりすることにつながって行くことは、歴史上、度々、起きて来た事実なのである。

そこで、ネトウヨの罪をいわれなく宗教や信仰心にかこつけようとするこうした根拠も不明な曖昧な内容の記事は、特定の集団をターゲットとして憎悪を煽る流言飛語をまき散らす人々にとって格好の材料になりかねない危うさを持つ、ということを何度でも断っておきたい。今はまだそういう人々はそう多くはないかも知れないが、そのような風潮がじわじわと強まって来ていることを筆者は感じるのである。
 
そこで、筆者はこの種の記事には何とも言えない嫌悪感を覚えている。繰り返すが、ネトウヨを生んだのは、間違いなく、政府与党であり、安倍政権のイデオロギーである。もちろん、ネットにたむろして鬱憤晴らしをするしかないような行き場のない個人を生んだ原因も、政府の施策の失敗にある。そうした問題をすべて個人の問題に置き換えて、個人だけを叩き、さらに、思想的・宗教的なところに原因をすり替えることで、人々の目を問題の本質から逸らし、本当の問題の原因を胡散霧消させようとするこうした記事による巧みな世論誘導の中に、筆者は歴史を都合よく簡単に書き換える者たちの「空恐ろしさ」を感じずにいられない。

このようなわけで、我々は何かを信じる前に、その根拠となるソースについて、まず十分な分析を行わなければならず、その際には、枝葉末節のように細かい情報だけを頼りとするのではなく、広い視野を持って大局的に物事を見なくてはならない。特に、勧善懲悪の物語がもたらす単純な正義感に踊らされるのは命取りであって、そのことは弁護士に懲戒請求を送りつけたネトウヨの行動にも十分に当てはまるが、これを批判している側にも同じように当てはまる。

ネトウヨを批判していたつもりが、いつの間にか、自分たちの批判している対象が、本来のものとは全く別の何かにすり替わり、罪のない者たちにいわれなく石を投げる行為に加担していた・・・ということが起こらないように、特定の年代層、特定の宗教、あるいは信心があるかないか、といった人々の属性に応じて、特定の集団に対する差別、侮蔑、敵愾心、憎悪、偏見などを煽る傾向のある記事にはよくよく注意しなければならない。

現代はフェイクに満ちた時代なのであるから、すべての情報に注意が必要である。宗教に向けられるヘイトというものも存在するということを我々は覚えておかなければならない。

筆者はそういう意味で、カルトに対する憎しみを極端なまでに煽り続けるカルト被害者救済活動は、一種の「宗教ヘイト」と言って差し支えない極めて危険な運動になっているとみなしている。聖書は独麦を抜くなと教えている。誤った思想にふさわしい時に裁きを下されるのは、神の仕事であって、人間の仕事ではない。必要なのは、クリスチャン一人一人が真実な信仰に立って歩むことであって、他者の歩みに干渉して力づくでこれを変えようとすることではない。侮蔑や憎しみや対立や猜疑心を煽る内容の記事は、いかなるものであれ、よくよく注意しなければならない。

あなたがたが地上つなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

「はっきり言っておく。あなたがたが地上つなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:18-20)

今、一つの絆を永遠に解き、一つの絆をつなごうとしている。これは厳粛な瞬間である。主の御前で永遠に断ち切れる絆と、再び結び合わされる絆がある。

断ち切るべきものを断ち切って、初めて回復される交わりがある。今、筆者は命ではなく、死に通じる扉を永久に塞いでしまうとしている。神の祝福が失われた枯れ枝のような交わりを幹から丁寧に取り除き、木を剪定して、死んだ枝を焼却炉に投げ込もうとしているのだ。

しばらく会うことのなかった信徒と久々に交わりを持ったが、困難の最中に回復された絆は、さまざまな嵐を耐え抜いて残ったものなので、頑丈だ。

筆者は日曜礼拝などに全くこだわるつもりはないが、これから素朴な日常生活を送りながら、二、三人の集まりが、徐々に拡大して行くだろうという気がしている。

筆者が専門と関係のない様々な仕事をしていた頃、地獄の一丁目のような職場でさまざまな人と出会った。学歴も高くはなく、社会層としても、そう高くない出身の人々に数多く出会い、彼らと一緒に働いた。

そういうとき、何気ないことで、助言ともつかぬ助言を、筆者がその人たちに向かって発したことがある。

何年も経ってから、その人たちが、筆者から受けた忠告を、別れた後も大切に守り続けていることを教えてくれた。彼らは、「あの時、ヴィオロンさんがこう言ってくれたから…」と言って、ずっと筆者の教えた法則を大切にし続けて生きたというのである。

ただ法則を知らないがゆえに、迷い続けている人が、法則を掴みさえすれば、生き方が安定することがある。筆者が発した何気ない言葉は、彼らにとっては、まさに必要な光だったのだと思う。

その頃、筆者には助言をしているというつもりはなく、ただ自分自身が生きて掴んで来た法則性をよかれと思って彼らに伝えただけである。だが、その後、伝授された法則を守って生きるのか、それを無用な忠告と退け、侮って生きるのかで、人の道は分かれた。

こちらの言い分を重んじて耳を傾けてくれる人たちには、関わる価値がある。華やかな学歴や教養に乏しくも、どんなに貧しく社会の底辺に位置している不安定な人々のように見えたとしても、忠告に耳を傾け、重要な法則に逆らわないで、これを掴んで取り入れる人たちは、時間と共に着実に生き方が進歩して行く。

それに比べ、自分は賢い、誰からも何も教えてもらう必要はないと考えている高慢な人たちは、何年、関わっても、全く進歩がない。彼らは恵まれた境遇にあるため、いい加減な生き方をしていても、それが何となく成り立ってしまい、試練を通して人間性が練られることも、変化することもなく、ただ同じところを堂々巡りし続ける。地位や肩書や財産などがあるので、かしづいてくれる人たちはたくさんいるが、それによりかかって生きているため、人格がいつまでも成長が止まったまま、幼稚で、未熟である。はっきり言って、そういう人との関わりは退屈でしかない。

彼らは貴重な助言も、侮り、罵倒し、逆らい、踏みつけて来るだけなので、助言する価値も、関わる価値も無い。どんなにクリスチャンを名乗っていても、そのような怠惰な人々との関わりは、交わりと呼べるものではないので、枯れた枝のように、木から剪定して行き、みずみずしい葉のついた生きた枝だけを残すべきである。

もちろん、枯れ枝を切り取って焼却することは神のなさるわざなのだが、それでも、時には、私たちが自分で剪定しなければならないこともある。私たち自身の意志表示も、やはり重要になって来るのだ。枯れ枝なのに、自分は生きていると主張して、他の枝の成長を妨げるような枝は、やはり木から取り除かねばならない。

さて、第一の訴えに付随して、何と段ボールひと箱分以上の資料が出来上がった。これも複合的な訴えなので、必要部数をすべてそろえると、当然、それくらいの分量にはなるのだ。ひと箱では運ぶのに分量が多すぎるため、3箱くらいに分けた。

訴えの中のあるものは約180頁、証拠だけで70以上もの番号がふられている。一セットゆうに400頁くらいになるだろうか? 

しかも、これは第一弾に過ぎず、続編が待っている。家庭用印刷機のレベルを超えた仕事だ。我が家の床も、ちょっとした私立探偵の事務所風になっている。

さて、この書類の山をどうやって裁判所へ持ち込むか思案し、台車があればちょうど良いのだが・・・と思いめぐらしていると、夜間、交わりから車で戻って来た際、ちょうど駐車場に車を止めると、すぐ真横のコンクリートの塀に、どうぞ使って下さいと言わんばかりに、使い古したキャリーが立てかけてあった。

まさかそんな都合の良いことが現実にあるだろうかと目を凝らすと、本当だった。駐車場は個別のスペースで区切られているため、間違ってそこにこんなものを置いて行く人がいるとは思えない。しかも、そのキャリーはほどよい古び具合で、持ち主が大急ぎで取りに戻って来るような代物ではない。そこに捨てられた可能性も十分に考えられた。

これはまさに筆者のために特別に用意されたものであるとしか思えなかったが、一体、誰がそんな親切を? 筆者に今これが必要だと知っている人はいるはずないのだが。

その時、「主がお要りようなのです」

という言葉が脳裏をよぎった。

まさにエルサレム入場の際の子ろばのことが思い出された。

これは主だ、としか思えないありがたいタイミング。ありがたく数時間、お借りして、またもとの場所に戻しておくことにした。必要なら、持ち主が取りに来るだろうし、捨てて行ったのなら、取りに来る人はいまい。

似たような具合で、必要のすべてがそろった。細かな道具の一つ一つに至るまで、目指した日にまでの間にすべてが供えられた。

このようにして、このところ、この地上は、まるで筆者のための共産主義社会になったような具合だ。決して他人の所有物の概念を否定する考えを述べるつもりはないが、キリスト者にとっては、誰かが地上に引いた境界線や、誰かが独占的に蓄えた私有財産などといった区分は、事実上、ないようなもので、すべてのものは天地を造られた神の所有なのである。そこで、神の子供たちに必要なものは、すべて天から適宜、供給される。

復活の命を生きて体験した人は、筆者の言わんとしていることを理解してくれるだろう。キリストの復活の命は、神の非受造の命であって、どんなものにも依存しない、死を打ち破った命である。そこで、この命が、持ち主のために、必要のすべてをおのずから供給する。

天の経済は、キリスト者の必要に応じて伸縮し、拡大・縮小する。

筆者は、これは神の喜ばれる正しい仕事なのだということを、あらゆる機会に痛感している。筆者はこの仕事をただ自分の必要、自分の権利を守るためだけにやっているのではない。聖書の神が生きておられ、今日も神の子供たちを十分に守って下さり、すべてのことについて、必要な解決となって下さり、ご自分の栄光を信じる者に存分に表して下さることを、公然と生きて世に証明することが、私たちの責務であり、証なのだと考えているからこそ、それに取り組むのである。

この方を信じて生きることが、人間にとっての喜びであり、最高の満足であり、どんな場合にも、その信仰は決して失望には終わらないことを、生きて証明し続けることが、私たちの責務なのである。そして、神はその期待に十分に応えて下さることがおできになる方である。

敵の要塞はエリコの城壁のように崩壊する。多くのことは書かないが、結果が目に見える形で現れるとき、何が起きているのかを人々は理解するだろう。

筆者が今手がけているのはすべて弁護士が書くような書類ばかりであるが、そういうことも、一般人でも工夫すれば十分に対応できる。バッハの『シャコンヌ』をヴァイオリンで満足の行くように弾くことに比べれば、書類作成などはるかに易しい。

筆者はある会社に勤めていた時、100頁近くもある就業規則を外国語に訳したことがあった。そこにはネイティブスピーカーもいたが、誰一人その仕事に着手する者も、完遂できる者もいなかった。業者に依頼すれば20万円以上に相当する翻訳だと言われた。それを他の仕事と共にやった。まるで頭髪の長さまで規定した校則のように、社員をがんじがらめにする意味のない規則ばかりではあったが、その時、そのように苦労して書類を作るのならば、会社を去った後も、自分の人生に残るもっと価値のある書類を作るべきだと心から思った。

今、やっていることが、それに似ている。誰のためでもない、自分のための権利の主張文である。だが、その書類では、筆者一人だけの権利ではなく、そもそもキリスト者の権利とは何か、天と地において、人とは何者なのか、という問題が提起されている。

たとえば、信教の自由、思想信条の自由という言葉が、私たちが様々な紆余曲折を経ながら、まことの神を探求し、神と共に生きる道を模索し続ける求道者としての魂の遍歴を十分に優しく認めてくれている。人は神と出会うために、また神に従って生きるために、必ずしも平坦ではない様々な試練の道を通らねばならない。だが、その道が平坦でないからと、これを罵倒できる人などどこにもいはしないのだ。

神は、私たちに「求めなさい」と言われる。あなたたちは何も求めないから、手に入らないのだと。多くの人々は、それを聞いても、自分は富んでいて、豊かで、何も乏しいことはなく、神の御前で打ち明けるべき弱さや、問題などない、と考えているため、何も神に求めようとはしない。求めるものは現世利益だけで、それさえも、つつましく分相応に見えるように、自分の規定したスケールの範囲内でしか求めない。常に周りを気にし、人並みの生き方をしてそこから逸脱しないことにしか目標がないのである。

彼らはあまりにも神と人との前で虚勢を張りすぎているため、自分の弱さを認めず、自分の人生の尺度を自分で規定してしまい、神の御前に素直に問題を打ち明けることもできず、自分の人生を打ち破るようなスケールの恵みを求めることもない。自分のために何も要求しないし、自分はその恵みに価しないと考えている。だから、何も与えられないのである。信じないから、何も与えられないのである。

それに引き換え、主張文を書くことは、自分の正当な権利の行使であり、要求である。自分はそれに価すると信じなければ、要求することはできない。地上でさえ、人の訴えを裁判官が取り上げ読み、審議するのだから、天に出すべき訴えというものも、当然ながらある。神は正しい方であり、真実が曲げられるようなことをなさらない。寄る辺ない人々の訴えに喜んで耳を傾けて下さる。

だから、地上で書類の山を作るのも必要だが、まして重要なのは、天に向かって訴えを出し続け、父なる神に向かって子としての権利を要求し続けることだ。

時に、信者が本気で神にぶつかり、扉が開けるまで懇願し続けなければならないことがある。答えが遅いように見える時もあるかも知れない。だが、信じてよい、神は我が子の訴えに喜んで耳を傾け、これを取り上げて下さると。神は信じる者たちの願いを喜んで受けられ、彼らの信仰に応えることを、ご自分の栄光とみなして下さる方である。

主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き、まっすぐにあなたの道を歩ませてください。

「主よ、朝毎に、わたしの声を聞いてください。
 朝ごとに、わたしは御前に訴え出て
 あなたを仰ぎ望みます。
 
 あなたは、決して逆らう者を喜ぶ神ではありません。
 悪人は御もとに宿ることを許されず
 誇り高い者は御目に向かって立つことができず
 悪を行う者はすべて憎まれます。
 主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし
 流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます。

 しかしわたしは、深い慈しみをいただいて
 あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し
 あなたを畏れ敬います。
 主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き
 まっすぐにあなたの道を歩ませてください。」(詩編5:4-9)

まだまだしばらくの間、重要な訴えのための膨大な書類作成が続く。だが、捨てる神あれば拾う神・・・ではないが、紛争が起きれば、それをきっかけに、回復される絆もある。協力者が現れ、助けられる。

まことに聖書の御言葉は正しく、神が許されて起きる地上の軽い艱難には、常に大いなる天の栄光が伴う。苦難には慰めを、悲しみには喜びを、欠乏には満たしを与えて下さる我らの神の御名は誉むべきかな。

暗闇の勢力は、兄弟姉妹に何とかして猜疑心を植えつけ、ネガキャンを展開し、互いに裏切らせ、信仰の絆を分断し、引き裂こうとするのかも知れないが、必ず、それに影響を受けない草の根的な交わりを神は取っておいて下さる。

これこそかつてずっと夢見ていた草の根的なクリスチャンの集まりだ・・・。

しばらくの間、誤解や対立があって分断されていても、時と共に回復される絆もある。困難があるからこそ、忍耐によって乗り越えたのだと言える絆がある。

そういう意味で、罵りや中傷の言葉は、人の心を試す実に良い試金石だ。誰が本当に最後まで、主にあって兄弟姉妹でいられるのか。誰が人間のうわべだけの有様に惑わされることなく、物事を見極め、人間的な絆によってではなく、信仰によって繋がり合えるのか。

おそらく、私たちは死ぬまで他者との間で、すべての物ごとに対する見方が完全に一致することは決してないだろう。そういう意味では、クリスチャンに思想的な同志を求めても無駄である。必ず、どこかでズレが起きて来る。そのズレにこだわれば、分裂や対立しか待つものはなかろう。だが、たとえ多くの点で見解が互いに異なっていたとしても、基本的なところで、一致を保つことはできる。

その基本とは、キリスト以外によりどころを持たないことだ。人間の造った組織や団体を離れ、立派な教師や指導者の肩書に背を向け、いかなるビジネスや集金活動、組織や指導者の栄光とも関係ないところで、素朴で対等な兄弟姉妹として、ただ聖書への信仰によってのみ、繋がり合うことができるかどうか?
 
そんな草の根的な信徒の交わりを、筆者はずっと前から探索し続けている。そんなものを求めても無駄だ、そういうものはないんだよと、悪魔は言うかも知れない。

だが、そんなにも簡単に諦めるのは忍耐力のなさの表れでしかない。かつてある姉妹にも、早く諦めてはいけないと叱咤されたことがある。だから、はっきり言っておきたい、今日、社会の状況がこれほど悪化し、人々の心が険悪になり、人々が裏切り合い、貶め合う中でも、そうしたみずみずしい新鮮な青草のような信徒たちは、確かに温存されているのだと。

ただし、私たちが、それに気づく目を持っているのかどうかはすべてを分けるだろう。いと小さき貴重な兄弟姉妹の存在に気づくためには、私たちの目が、曇らされた状態でなくなることが必要である。立派な肩書をぶらさげた人気の指導者、荘厳な教会、うやうやしい礼拝儀式、大人数の集会、弁舌の巧みさ、知識の豊富さ、外見のきらびやかさなど、見かけ倒しの虚栄に振り回され、踊らされ、惑わされ、絶えず欺かれてばかりの軽薄な浮草のような心では、どんなに価値ある貴重なものに出会っても、それに気づくことは永遠にできまい。

そのように惑わされやすい軽薄な心そのものと訣別し、自己の栄光にも死んでいない限り、我々の目に、みすぼらしく取るに足りない「草」たちの価値が分かる日は決してないであろう。だが、その青草の発見は、十字架で死なれたキリストご自身の発見でもあり、ある意味では、自分自身の発見でもある。

ところで、宗教的なリーダーというものは、やはり、決して人前で信徒を罵ったり、悪しざまに言ったり、信徒の個人情報を無断で公開したりしてはいけないと筆者は思う。筆者は牧師制度そのものに反対であるが、それをさておいても、あらゆる組織のリーダーには、自分のもとに集まって来るさまざまな信徒に対する包容力がどうしても必要だ。

特に、教会にはあらゆる問題を抱えた人々がやって来る。巨額の借金を抱えた人々、家庭内問題を抱えた人々、心理的な病を抱え、人生に行きづまっている人々、こうした人々の中には、福音などには全く耳を傾けず、ただ自分の愚痴を聞いてもらう事だけを求め、手っ取り早い現世利益を求め、それが得られないために、早々に指導者を罵って教会を去って行く人もあろうし、またあるときには、牧師を脅すことを目的にヤクザがやって来ることもあろう。
 
こうしたすべての人々にリーダーは対処せねばならないのであって、自分を批判されればすぐにかっとなって言い返し、信徒の中傷を言いふらすような人々は、もともと指導者の器ではない。

ところが、プロテスタントの牧師には、そういうリーダーの力量を持った人がほとんど見られないのが現状だ。昔からそうだが、本当に信仰のある志の高い人々は、決して牧師になどならない。それもそのはず、信徒の献金で生計を立てるのが当然になっているような、特権階級としか言いようのない職業的地位に就こうと自ら願うような人々は、それ相応の心を持った人々しかいないからだ。

そうした人間的な力量に欠け、信仰的な力量にも欠けている牧師のいる教会に所属してみたところで、信徒に心の安らぎが得られるはずもない。

ただでさえ、日本の教会の永遠のテーマは、ずっと「なぜ日本にはキリスト教が普及しないのか」というものだ。多分、これから先も、20年経とうと、30年経とうと、このテーマは依然として、教会の中心的課題であり続けるに違いない。

多くの教会は高齢化の影響もあり、閑古鳥が鳴いており、社会的事業に乗り出さないとやって行けない有様だというのに、そんな中で、まるで教会の衰退に拍車をかけるがごとくに、所属教会を自ら明かしながら、インターネットで他の信徒を悪しざまに罵り、聖書を否定するような「信徒」が現れる。

ただでさえ信徒数が少ない教会にとって、そのような不良信徒の出現は、とてつもない打撃になるだろう。そうした事態からも見えて来るのは、もしもその信徒の教会生活が、本当に満たされて正しく幸福なものであったなら、その信徒が、面識もない他の信徒たちに言いがかりをつけては聖書を捨てろなどと言いふらしたりするようなことは、決してなかっただろうということだ。

得意げに所属教会を名乗っていても、実際には、まるで身の置き所のない孤独感がひしひしと伝わって来る。所属教会に対する配慮もないのだろう。空疎な祝福の言葉が、かつてよく聞いた「栄光在主」とか「頌主」とかいったむなしい言葉を思い起こさせる。

悪いことは言わないから、早くそんなにも身の置き所なく味気ない教会生活をきっぱり離れ去った方が良いのだ。いつまでも形骸化した組織にすがりついているからこそ、心のむなしさが募る。その空虚さを、所属教会以外のところで埋め合わせようと、聖書に忠実な信仰生活を送る信徒を引きずり降ろすしかないなど、何と惨めな生き方であろうか。

だが、もっと恐ろしいのは、そういうことをしているうちに、いつの間にか、その信徒にとっては、あれやこれやの気に入らないクリスチャンだけでなく、「聖書」そのものが敵になっていくことだ。

これが一番、恐ろしいことなのである。

その人にとっては、所属している組織が「神」となり、聖書の御言葉が、人を狂わせる「悪」と見えて来る。すべての物事を人間を中心として見るあまり、自分にそんなにも心の空虚さとむなしさを味わわせたのは、人間に過ぎない牧師や、人間の造った組織ではなく、神ご自身だという風に、考え方が転倒するのである。

まるで聖書とはさかさまの世界観であり、どこをどうすればクリスチャンを名乗っている人間が、このような考え方になるのか、首をひねるばかりである。だが、何度も言って来たように、これがペンテコステ運動が人にもたらす倒錯した世界観なのである。

実体のない組織にすがり続けていると、最後にはそういう事態にまでなってしまうのだ。私たちはそのような悪しき運動を離れ去ることを宣言する。

これまで幾度となく繰り返して来た通り、ペンテコステ運動から生まれて来たカルト被害者救済活動の失敗が、プロテスタントの終焉を何よりよく物語っている。被害者救済を唱えている人々自身が、まさに被害者を率先して売り渡し、被害者を中傷し、破滅させる所業に手を染めたという事実は、キリスト教史の恥ずべき汚点として、歴史を超えて永久に語り継がれるだろう。そうした恥ずべき事態が、これらの人々が被害者救済を唱えて来た真の目的が、全く被害者の救済になどなかったことをよく物語っている。

プロテスタントはもう終わっているのだと、気づかなければならない時に来ている。むろん、だからと言って、他の宗派に去れば良いという簡単な問題ではない。宗教改革は続行しているが、それは今やプロテスタントを離れて、人の目に見えないところで続行している。聖書は万人に解放された。今は聖職者階級というものから、信徒が解放されねばならない時代である。万民祭司という新約聖書の当然かつ根本的な大原則が回復されるために。

いくつか前の記事で、筆者がある職場からエクソダスしたエピソードを書いたのは、これをキリスト教界になぞらえて、今、ここからエクソダスしないと、この業界はこの先、本当にひどいことになって行くと警告したかったからだ。御霊の息吹が失われ、神が目を背けられ、人の関心も失い、誰からも打ち捨てられて形骸化した組織の中に残っていると、とんでもない事態が起きて来るだけである。

今、多少、手傷を負ってでも良いから、建物全体が倒壊する前に、そこから出た方が良いのだ。そのまま残っていれば、傷を負うくらいでは済まされず、やがて命を失うことになるだろう。

しかし、そうした警告に耳を傾ける人はほとんどいまい。今、この国の経済界で起きていることも、キリスト教界で起きていることは、合わせ鏡だ。自分は選ばれた民だ、他の人々と違って、安定した居場所がある、れっきとした教会員だ、仲間がいて、孤独ではない生活がある、と豪語することと、私は正社員だ、難解な試験をパスして、上位で合格したエリート公務員だ、教職員だ、妻子もいれば、家もあり、家業もあり、土地も財産もあり、誇るべきものがこれほどたくさんある・・・などと豪語することの間には、さしたる違いはない。

そういう見せかけのアイテムの数々を誇っていると、やがてすべてが取り去られ、とんでもない事態に巻き込まれるだけである。

人間の本当の救いは、そんな風に目に見えるものの中には決してないからだ。本物の救いを偽物のバッジと取り替えた人々には、つらく苦しい未来が待っているだけである。そのことは、教会籍制度に何よりもよく当てはまる。神の救いは、教会籍のように目に見える証明に決して置き換えることなどできない。それが証拠に、その証明書は、これほど多くの教会難民のような人々を生み出した。そうでありながら、まだ教会籍にすがり続ける人々は、自分をエリートだと自称している。

これは世の有様と同じである。組織それ自体の中に、命はないのに、組織をまことの命と取り違え、神と取り違えると、そういう忌むべき事態が起きるのである。宮は、神がやって来られて、その中に入られて、初めて価値を持つというのに、神が忌み嫌われ、見捨てられ、神ご自身が不在となった宮が、己を神のようにみなして誇っている。何と忌まわしい光景であろうか。

高プロ制度を批判している場合ではない。偽りの階層制の上に成り立つ一つの虚構の世界がまるごと倒壊しかかっているのが今なのだ。この危ない建物全体から離れねば、誰も身を守ることはできない時代にさしかかっている。
 
さて、いきなり話は変わるようだが、我が家のペットが昨日の朝、ちょっと様子が変に見えたので、動物病院に連れて行った。かつて動物病院では、誤診がもとになって狂奔させられた嫌な思い出があるが、今回は違った。全く異なる病院である。無駄な治療は一切しないし、余計な手当ても勧めない。待合室にいると、看護士さんがやって来て、採れたての新鮮な野菜をサンプルとしてくれた。家に帰ると、ペットは何事もなかったようにけろっと元気になっていた。何でもなかったのだが、連れて行ったついでに色々身ぎれいにしてもらった。

もらった玉ねぎに包丁を入れると、みずみずしい真っ白な断片が見える。しばらく水にさらせば、生のままでもサラダにできそうだ。試しに炒め物に半分使ってみると、あまりに美味だったので、もう半分も早速調理した。

とにかく、一つ一つのことについて祈る。主の助けを乞う。すると、一見、人の目にはハプニングに見えるような、思わぬ出来事からも、思わぬ出会いが生まれ、新たなチャンスが生まれて来る。大規模な組織など必要ない。立派な指導者の助言も要らない。ただ草の根的な知恵と知識だけで、私たちは十分に生きていける。その確信は、日常生活だけでなく、信仰生活にも十分に当てはまる。

人に知られないひそやかなところで、御霊の導きにすべてを委ねて、一歩一歩、主と共に進んで行こう。それは人に踏み固められた道でないため、不安が全くないと言えば嘘になるが、それでも、霊の内側には、確信があり、平安がある。

筆者はたとえこの先、どれだけ多くの兄弟姉妹からの賛同や理解を得たとしても、心はただ主にのみ向けておきたいと真に思う。ただお一人のまことの神である方とのみ、二人三脚し、すべてのことを相談しながら、地上にいる最後の瞬間まで、共に歩いて行きたいのだ。これが新エルサレムまで続いている狭く細い道である。それは人に知られず、誰にも踏み固められていない細い道だからこそ、スリルもあれば、冒険もあり、涙もあれば、笑いも、喜びもあり、毎日、わくわくする体験には事欠かない。決してそうした体験を人前で語ることはないであろうが、主に訴え、主に感謝する出来事に溢れている。

組織になど所属せずとも、いや、組織に所属しないからこそ、真に神が働いて下さったと言える出会いがあり、真に自分の人生だと言える地点に立脚して、味わい深い日々を送ることができる。
 
まことに主は我らの重荷を日々担われる。それゆえ我らの荷は軽い。新しい朝ごとに主を讃え、すべてのことを主に訴えよ。主が我らの正義、解決となって下さる。御名に栄光あれ。

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

メールの提供、写真、個人情報の提供を大いに歓迎します。特に、直近になされているコメントについても、投稿者の個人情報(所属教会、氏名、勤務先情報、連絡先)をご存じの方は、ぜひ詳細にお伝えくださいますよう。情報源を明かすことはありませんのでご安心下さい。県警ではなく、神奈川署ですのでお間違いなく。045-441-0110

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