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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第二審)への準備(1)ー 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

「わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(2コリント10:4-6)

さて、控訴理由書ははかどっており、書けば書くほど、深い満足が生まれて来る。第一審の判決を心の内側に取り込み、これを咀嚼し、そして、新たな要素をつけ加えながら、第二審の判決を予想して書いて行く。

筆者は弁護士の書く錯綜した文書ではなく、裁判官の判決を受け取ったことを非常に喜んでいる。弁護士の文章は一方の当事者だけに肩入れしたものなので、参考にならないが、膨大な資料を整理して対立する陣営の双方の主張を比較衡量した裁判官の判決は、それとは比べものにもならない生きた教訓である。

判決が出るまで、予想できない点が多々あったが、今、こうしてみると、ただ法的観点からだけ事件に注目するのではなく、筋の通った矛盾のないストーリーを弁論の最中に打ち立てておくことがどれほど重要かを思わされる。
 
判決の変更を求めるためには、第一審以上にリアルで矛盾のない説得力のあるストーリーを証拠と共に提示することが必要となる。そのために、筆者は、第一審での自己の主張と共に、判決に記されたストーリーを内に取り込み、それを両方上書きしうるだけのさらなる説得力のあるストーリーを作り出しているのだが、それはあたかも一人の作業ではなく、共同作品を作っているような具合で非常に面白い。

第二審では、「カルト監視機構」が主要な争点になると書いた。すでに述べた通り、「カルト監視機構」と「宗教トラブル相談センター」が実質的に同一であるとの主張を展開するに加えて、村上密が関与して来た統一教会の信者の拉致・監禁を伴う強制脱会の違法性についても触れることになる。

その過程で、統一教会の信者らが強制脱会活動に抗議するために起こした裁判などについても、本訴訟とは直接関係していないにも関わらず、かなりのページ数を割いて説明することとなる。

ちなみに、統一教会の発表によると、2016年の時点で、強制脱会に反対するために起こされた裁判は20件を超え、強制脱会活動の対象とされた信者は4千人を超えていたという。また、数多くの強制脱会事件を主導した高澤守牧師は、刑事告訴された上、自殺していることや、また、強制脱会の対象となって精神病院に入院させられた信者が裁判所に人身保護を求める請求を手伝った高村弁護士が後の法務大臣になっていることなども分かった。

筆者は統一教会を擁護するつもりはないが、10年間以上監禁されても棄教しなかった彼らの信仰の強さは、敬服に値するものがあると考えている。前々から当ブログでは、殉教者の精神に学び、生きている限り、聖書の神への信仰を貫くことこそ、キリスト者の使命であるということを訴えて来たが、自分を絶対善・絶対的正義のようにみなすプロテスタントの牧師とその支持者から、統一教会の信者でなくキリスト教徒である筆者が、「カルト宗教の信者」や「異端者」の濡れ衣を着せられた挙句、今、こうして人権侵害のかどで牧師を訴える羽目になっているのは、運命の皮肉のようである。

だが、筆者は「自分は正しい」と叫んで他者を排斥する側に立たず、自己の無謬性を信じる牧師らから、かえって排斥される側に立たされたことを、むしろ、誇りに思う。

今、まだ二審が始まる前から、筆者があたかも敗訴に終わって悲嘆に暮れるのではないかなどと故意に悪意に満ちた未来を予想したい連中もいるようだが、そんな愚かな推測は、迷惑なのでやめてもらいたい。そういう予測は、すでに自殺した牧師を含め、強制脱会を主導した牧師たちの運命としてお返ししよう。

村上密が新たな権利侵害の証拠をあれほど大量に追加した以上、筆者の控訴は棄却されず、村上の権利侵害は必ず認定されて、彼は二審では敗訴するものと筆者は予想する。そういう意味で、二審は一か八かの賭けではなく、手堅い勝負になる。

また、杉本の控訴には、報復と賠償金支払いを延期したいという以外に動機がないと見られ、合理的な理由が何も見いだせないため、棄却される可能性が高いと筆者は見ている。控訴審は、杉本のリベンジの場ではないから、仮に当ブログの記事を大量に提出するなどしたとしても(一審も杉本は常にそうしていたが)、それは過去の権利侵害を正当化する理由としては受け入れられないだろう。

そういうことは反訴でなすべきことであるが、控訴審での反訴は、原則的に控訴人の同意なく受理されないため、杉本が筆者に反訴するのは、ほぼ不可能に近い。一審でも無意味な反訴を予告するなどして、被告らは裁判官からも反感を買っていたし、杉本はそれに加えて、裁判所の決定を「不法行為」だとまで言い立てていたが、控訴審では、賠償金も払わず、ブログ記事の完全削除もなく、一審判決に全く従う態度を見せないまま、杉本が何を求めて控訴するのかを問われ、ただ裁判所を自分の欲望に都合よく従わせたいという理由では、控訴を受理する根拠にならないとして、心証を極度に悪くするだけに終わるものと思う。

おそらく、二審判決の言い渡し後は、一審判決後よりも、さらに多くの人たちが、筆者や当ブログの主張に反対したことで、良心の呵責に苛まれることになるのではないかと筆者は予想している。

このように、筆者は、二審では勝訴は当然とみなしているどころか、訴訟とは関係ないところでも、可哀想な人として憐れまれる余地の全くない人生を歩むことが、目的の一つであると考えている。人権侵害は世に訴えねばならないが、筆者が最も訴えたいのは、私たちの信じている聖書の神の贖いの確かさであって、人権侵害の被害の甚大さではない。

神の御言葉に従う者が、あらゆる祝福にあずかること、私たち信じる者のためには、キリストを通して、天に無尽蔵の富が蓄積されていること、そして、神の御言葉に逆らう人々の運命は、非常に厳しいものとなることを、公然と世に示さなければならない。しかし、筆者はそのこととは別に、己が権利侵害がいかに深刻であるかを切々と訴えることによって、被害者と呼ばれたいとは思っていない。

筆者は第一審でも、善良な人々に出会い、信仰に基づき、また、法的根拠に基づき、丁寧かつ根気強く主張を提示し続けることによって、必ず、未来が開かれることを確信した。未熟な点があれば、学習して、それを補えば良いのであって、私たちは常に完成に向かって歩みを進めている。

そこで、筆者には何一つ絶望に至る理由などない。これからますます多くの人たちに出会い、ますます完成された主張を提示し、完成された判決へ向かい、信仰の完成を目指して歩み続けるだけのことである。

こうして、紛争が長引いても、筆者はそのことを良いことであると考えており、自分の召しが果たされるまで、忠実にその労苦を背負うつもりでいる。だが、それは決して労苦だけには終わらないだろう。キリストが私たちのために用意して下さっている命の豊かさ、栄光の前味に、生きているうちにたどり着くことも、信仰者に与えられた使命の一つであるから、この労苦には豊かな報いと慰めが伴うだろうと筆者は考えている。

そういう意味で、これほど価値ある戦いを与えて下さった神に、筆者は心から感謝せずにいられないのである。
 
* * *

さて、筆者は今、新たなる措置を準備中であるが、その過程で、杉本に関する新事実が分かった。これまで、杉本の経営する会社の住所には、アパート名や部屋番号の記載がないため、筆者はこれまでこの住所は一戸建ての持ち家だろうと思っていたところ、実はそうではなく、単なる賃借人であったことが判明したのである。

それは同番地の地番を調べている過程で分かった。同番地に3つくらいの地番があり、そのうちいずれも「杉本」の名では登録されていないことが判明、さらに詳しく調べてみると、杉本が表記している住所の後には、実際には建物名、部屋番号が省略されていることが分かった。

モバオクの表記
 


全国法人情報データベースの表記



企業がビルのテナントを借りるなどのことはよくあることだが、その際には、企業の所在地として、大抵、ビル名や階まで詳しく記載される。建物を借りていながら、まるで土地が自分の所有であるかのように思わせるような表記をすることは、そうそうあることではない。

ちなみに、この住所の真のオーナーは以下の青果店である(画像はgooタウンページより)。



杉本が経営する株式会社メディアテラスは、この青果店の所有する建物の一区画の賃借人に過ぎない。だが、杉本はまるでオーナーの店を押しのけてでも、自分がこの土地の主人だとアピールしたいかのように、オーナーと全く同じ住所表記で法人登録をし、自分が賃借人に過ぎないことがすぐには一般の人々に分からないようにしている。

正直な話、他人の所有する建物の正式な表記を省略して、まるで自分がオーナーであるかのように思わせる表記をするのはどうなのだろうかと筆者は思う。テナントならテナントらしく書けばどうなのだろうか。

特に、これまで、杉本が商工会議所の会員資格を詐称したり、東京銀杏会の資格を詐称したりしていたことを考えると、この住所表記も、偶然ではなく、何事についても自分を現実以上に誇大に見せかけようとする杉本の性格、そして、本来は自分の所有でないはずのものを自分の所有のように見せかけるパクリが大好きな性格がよく表れているような気がしてならないのだが・・・。

以下がGoogle mapで見た青果店の所有する建物の外観である。1階が店舗で3階もオーナーの所有であることが、問い合わせで分かった。貸間は2階のみだという。きっとこの青果店は、地域社会とも密着して経営されていることであろうが、商工会議所会員でないのに会員資格を名乗ったり、全国のキリスト教会をネットで叩き続け、見ず知らずの他者の個人情報を暴いたり、名誉毀損したりしている杉本のブログは、このオーナーの店にどういう影響を及ぼしているのだろうかと考えないわけには行かない。

何となく、過去にもそういう問い合わせがこの店に寄せられたことがあったのではないかという雰囲気が感じられたのである。杉本は早くブログを削除した方が大家への迷惑が減り、地域社会のためにもなると思わずにいられない。



ここには詳しく書かないが、調べたところ、他にも多くのことが分かった。たとえば、メディアテラスがヤフオクでもう数ヶ月近くも売りに出しているが、まだ売れていない以下の自転車(これがネットオークションでは同企業の現時点で最も高額の商品のように見えるが、価格を見ても、アピールポイントを見ても、なぜ今この商品なのかが全く分からない)は、さすがにこれは上記の会社住所には置けないものと見られるが、どこで撮影したのか、アパートではなく民家のような一軒家っぽい背景が移っている。



調べると、やはりこの自転車の保管場所は別にあるらしいことが分かった。たとえば、そう遠くない場所に実家があるとかいったことが考えられる。

オークションの他の出品を見てみたが、古物商でもなく、絵画などを専門に取り扱うでもなく、日用中古雑貨というだけで、独自のセールスポイントが分からない。商品の取り揃えも少なく、テーマも統一されていないため、これでは、ネットで十分な収益が上がるとも全く思えず、主な収入は、社会福祉士としての稼ぎだと想像される。
 
雑貨を売りたいならば、店舗を構えることもできるであろうがそれもなく、会社の所在地を構えながら、それとは違う場所を撮影や保管に利用していたり、間借り人としての住所で、完全に独立した生活を営んでいるようにも見受けられず、社会福祉士と、企業経営と、キリスト教会をバッシングするブログとが、一体どう結びつくのかも定かでない。

そもそも企業経営者であり社会福祉士でありながら、社会的弱者を愚弄して悦に入ったり、見ず知らずの他人の個人情報を暴いて名誉毀損して賠償金を踏み倒すなど、もはや何がしたいのかが全く分からない無定見な人生でしかない印象だ。

興味の赴くままに、あらゆることに手を広げはしたものの、明白な目的意識がなく、気が多すぎて一つの事に集中もできず、他者の手を借りずに自分だけで事を成し遂げられず、自分の欠点や不利な事実を指摘されても、これを真正面から受け入れる勇気や覚悟がないために、常に不都合な指摘は退け、易きに流れ、結局、何を手掛けても、一定の成果を出せないまま、すべてが空中に散じて終わるというパターンが感じられる。

前々から書いている通り、そういう傾向が改まらない限り、社会福祉士も長くは続かないだろう。こうして見ると、杉本の一つ一つの選択は、真に事業を成功させたいという願いに基づくものではなく、ただ「人に認められたい」とか、「人よりも上に立ちたい」といった動機(承認欲求)で飛びついた結果ではなかったのかと思わざるを得ない。

そういう性格は、村上密ともよく似ているように見受けられる。村上は今でも「宗教トラブル相談センターへの相談は尽きない」とか、「東奔西走」とかいった記事を掲載しては、自分がいかに全国から引っ張りだこになっているかを絶え間なく自慢せずにいられないという性格を披露しているが、イエスは言われた、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、人に尊ばれるものは神には忌み嫌われるものだ。」(ルカ16:15)

杉本は第一審の終わり頃から、裁判所が杉本にとって不都合な決定を出したことを「不法行為だ」と非難していたが、今、判決の取消を求めて控訴している事実も興味深く、筆者は前々か杉本はいずれ裁判所に対しても、警察署に対しても、反抗的な態度を取るだろうと述べて来た。

それは筆者が、杉本の信仰こそ異端的見解であって、すべての異端は反社会的なものであるとみなしているためである。そこで、今、彼が判決の取消を求めている主張の根底にも、裁判所の決定を否定するのみならず、神に対する反逆の精神が流れていると見ている。

おそらく、村上もこの先、杉本と同じ行動に及ぶだろうという気がする。鳴尾教会相手の裁判の時も、彼は随分、あきらめが悪かったが、村上は、カルト牧師が心を頑なにして裁判所の判決を認めない姿勢を非難していたにも関わらず、当ブログを巡る訴訟の第二審で、自分に不利な判決が出た場合、杉本と同じように、判決を認めまいとする態度を取るのではないかと予想される。

こうして、次第に彼らの反社会的な本質が徐々に明らかになっているのが、現在である。つまり、杉本や村上のような人たちが敵対している相手は、もはや当ブログや筆者だけではなくなり、彼らを取り巻く社会全体(神と人)に広がりつつあることが徐々に明らかになっているのだ。

こうして、飽くことのない承認欲求に生きる人たちの空虚な内実は、遠からず万人の目に明らかになるだろうと筆者は思う。人に認められたいとか、必要とされたいとか、他人を押しのけてでも、自分が人の上に立ちたいとかいった願望だけが、すべての行動に先立ち、自分を誇大に見せかけることは得意でも、内実のない人々というのは、最後には風船みたいに弾け飛んで終わるものだ。

事業の失敗くらいで終わればまだ良いが、キリスト教会に立ち向かい、神に対してマウンティングをしてしまったのが、彼らの運の尽きであり、「わたしはある」という方に向かって舌を出して挑戦すれば、「おまえはない」という以外に下る結論はない。すべてにまさる真実なリアリティである方を否定すれば、虚無の深淵に落ち込んで行くだけである。

この先、彼らが言い逆らっているものが、あれやこれやの人物ではなく、社会そのものであり、聖書の神ご自身であるという事実がより公然と明らかになるに連れて、彼らにはこの世においても、自然と居場所がなくなって行くものと確信する。

そして、「交流の少ない所で生活」「情報はインターネットが頼り」だとか、「甘っちょろい空想」や、「藪の中から石を投げて顔を出さない無責任な生き方」といったレッテルも、ついにはこれを吐いた人間自身に返されて終わることとなるだろう。
 
* * * 
 
さて、少し前のことになるが、村上密は「反知性主義」と題する記事の中で、長年、自分の活動に反対して来たある人物に対して、その人物から被害を受けたとする人間の代理人となって、訴訟を提起することをほのめかしたところ、相手が折れて出て来たので、屈服させることができたと語っていた。

和解などという言葉を使ってはいるが、「相手は撤回と謝罪に応じてきた。それで双方は和解した。」と書いているので、結局は、訴訟をされたくないなら、自説を捨てて謝罪せよと圧力をかけて、相手を屈服させることに成功したということである。

この記事で村上は書いている。

「嫌いと言う感情は嫌いとされた相手の実像を捉えることができない。相手をネガティブにしかみれない感情は、反知性主義に陥っているからだ。以前、私に対して何でも反対の立場を表明した人がいた。彼は公私にわたって反対した。しかし、私の主張や働きが一時的に足止めを食ったりはしたが、挫折に追い込まれたことはない。」

まるで自分は無敵だと豪語するような文面である。だが、嫌悪感と反知性主義はそもそも関係ない事柄のはずであるから、村上がここで使っている「反知性主義」の定義とは、感情に流されて理性できちんと物事を考慮できないといった意味合いで、反知性主義の本来の定義からは離れている。

反知性主義という言葉の本来的な意味は、「日米で異なる2つの「反知性主義」とは?その意味と論点を正しく理解する為に 」という記事では、次のように紹介されている。

「反知性主義はもともとアメリカで生まれた概念で、「知性と権威が強く結びついている社会や、知識のあるものが権力を持つという風潮に対する反発」を表しています。「知性そのもの」を否定しているのではなく、「既存の知性主義や権威」を否定するものなのです。」

村上は、以上の記事で屈服させた人物が、牧師であるとは書いていない。だが、村上がキリスト教界の多くの牧師に対して、争いをしかけて来たこと、訴訟をほのめかすか、もしくは実際に訴訟をしかけるなどの方法で、牧師らを屈服させて来たことは事実である。

ちなみに、筆者は以下に再び引用する通り、かつてアッセンブリー教団、いや、ペンテコステ運動そのものが反知性主義に陥っていると書いたことがあった。

そして、筆者のこうした指摘は、iRONNAの記事「安倍晋三政権の「反知性主義」」(榊原英資著)の前半で、アメリカのキリスト教原理主義を分析した文章を読んでも、的を外れたものではないと考えざるを得ない。

「反知性主義」とはもともとアメリカのキリスト教原理主義者達が進化論等の科学的分析に対し反発した事等を指したものでした。かなりの社会的地位のある人達が平然と科学的分析を否定し、キリスト教の絶対性を説くといった現象は他の国にはあまり見られないものでした、アメリカ建国以来、何度かにわたって訪れたリバイバリズム(信仰復興運動)とも密接な関係があるとされています。

 アメリカという国自体、旧イングランドを脱したピューリタン達が神との新しい契約のもとで「新しいイングランド」を創設するという壮大な実験でした。そしてそのリーダーシップをとったのは高学歴の牧師達でした。彼等は入植後わずか一六年で牧師養成機関としての大学、ハーバード大学を作ったのでした。知性を重んじるこうした動きは、次第に権威と結びつき、アメリカのエスタブリッシュメントになっていったのです。

 こうした権威に対して民衆に信仰を取り戻すという運動として、新たな布教運動が拡がっていったのです。その主導者達は教会を持たず牧師の資格も持たず命がけで土地・土地を巡り布教活動をしていったのでした。大衆をターゲットにし、神の前の平等を説く彼等の辻説法は、人口が爆発的に増え、同時に生まれた字も読めず教養もない層に熱狂的に受け入れられたのでした。それが反知性主義の原点であり、極端に言えば、アメリカという国の原点だったのです。つまり、アメリカの反知性主義はアメリカ的宗教革命だったということもできるのでしょう。

 そして、反知性主義は大衆民主主義(マス・デモクラシー)が拡大する中で権力が大衆に媚(こ)びる手段にもなってきたのでした。知識人、あるいはインテレクチュアル、は社会のエリートであっても少数派です。知性主義を否定し、法の前の平等、実用主義等を説き、権力が直接大衆にアッピールするためには反知性主義は有力な手段の一つにもなりうるという訳なのです。」



だが、以上の文章には、筆者から見ると、多少の誤謬が混じっているので注意が必要である。たとえば、進化論に反対することを、この論者は「反知性主義」に分類しているが、このような考え方に立つと、およそすべての信仰はみな「反知性主義」に分類されることになる。

そうしたステレオタイプなものの見方は、ちょうど20世紀に「科学」に対する絶対的なまでの信頼が高まった時代に(科学万能主義が生まれた時代に)、「科学」対「信仰」という単純な二項対立の図式が作られ、あらゆる宗教への信仰は非科学的だという理由から、キリスト教の信仰に対しても批判が展開されたのと大して変わらない。

現代では、「科学」対「信仰」という対立の図式を「知性」対「信仰」といった図式に置き換え、「キリスト教原理主義者」や「聖書原理主義者」に「反知性主義」というレッテルを貼って、あたかもすべての信仰が、反知性主義的なものであるかのような先入観を作り出し、それがキリスト教信仰(聖書信仰)を攻撃するための材料として利用されている。

そのようなステレオタイプなものの見方に立って、聖書信仰をいわれもなく否定、非難したものが、杉本の記事だったと言えよう。

だが、実際には、以下で詳しく述べるように、信仰は決して知性と対立するものではなく、また、人間の知性の中には、誤った知性というものも存在することを考える必要がある。

当ブログで再三、警告して来たグノーシス主義などは、特に、「偽りの知性」「誤った知性」を「叡智」のようにみなす思想であるから、知性という名で呼ばれるものが、何もかも正しいとみなすと、こうした誤った知性を警戒して退ける試みさえも、「反知性主義」というレッテルを貼られて排斥されることになりかねない。
 
人間の生まれながらの知性は不完全なものであり、真理を啓示できるのは、聖霊だけであり、よって、聖書に基づく信仰を通してでなくては、人は正しい知性にたどり着くこともできない、というのが当ブログの見解である。

そうした考えに立って、筆者は、科学が必ずしも知性的であるとは限らないし、進化論が正しい知性の産物であるとも全く考えていない。だから、進化論を否定したからと言って、それが「反知性主義的」であることの証拠にも全くならないとみなしている。

このように、以上の論説には、科学万能主義が唱えられていた時代の再来のように、科学に反対するあらゆる信仰を「反知性主義」に分類してしまいかねない危険な二項対立の図式が含まれていることに注意せねばならないが、それ以外の点では、興味深い指摘も含まれている。

それは、この論説では、ペンテコステ運動という言葉は登場しないものの、アメリカでエスタブリッシュメント層に対する反発として生まれて来た新たな「宗教革命」すなわち、信仰復興運動が、反知性主義的な傾向を持っていると指摘されていることである。

もちろん、この信仰復興運動の中で、ペンテコステ運動がかなり大きなウェイトを占めていることは間違いないだろう。なぜなら、教養もなく、場合によっては字も読めない大衆をターゲットに、辻説法を繰り広げるだけでなく、異言や奇跡的な癒しなどの超自然的現象を強調しては、大衆の注意を惹きつけ、圧倒的な支持を受けて拡大して来たのが、ペンテコステ運動だからである。

聖霊派とも呼ばれるこうした運動には、従来の福音派の説教にはないダイナミズムが伴い、それゆえ、大衆の支持が得られた。マスメディアを通じて、ムードたっぷりの讃美歌や、心を打つ信仰の証などをふんだんにちりばめ、感動的な礼拝風景をテレビやネットを通じて配信するなどして大衆の支持と注目を集めたのもこの運動である。

そこで、以上の論説が、大衆の支持を背景に生まれて来たペンテコステ運動の流れを汲む米国の信仰復興運動が、反知性主義によって特徴づけられると記していることは、筆者の指摘とも共通する部分があって興味深い。

村上密が所属しているアッセンブリー教団も、言うまでもなくペンテコステ運動に属する。そして、村上が、記事において、牧師が聖書の解釈を独占していると非難していることを思い出すと、これこそ、牧師だけが聖書の解釈を独占することで、「知性と権威が強く結びつく」キリスト教界に対する「反知性主義的反発」として登場して来た説だと言えよう。
 
以上の記事で解説されていたように、反知性主義を、「知性と権威が強く結びついている社会や、知識のあるものが権力を持つという風潮に対する反発」とらえるならば、もともと反知性主義的な傾向を持ったペンテコステ運動の中から、牧師が御言葉の解釈を独占することで、「知性」を独占し、それゆえ牧師が「権威化」されるという風潮や制度そのものに対する反発として、カルト被害者救済活動、すなわち、村上密の反カルト運動が生まれて来たのだと言える。

ちなみに、当ブログでも、牧師制度は無用なものであるとみなし、信者が牧師から聖書の御言葉を咀嚼して「霊的な乳」を飲ませてもらわなければ、自分では聖書を理解もできない状態をあたかも正常な状態であるかのようにみなすプロテスタントの牧師制度は、信者の霊的前進を妨げる障害物にしかならないので、撤廃されねばならないという見解を幾度となく述べて来た。

今や聖書の理解が牧師によって独占されている状態に終止符を打ち、聖書がより一般に解放されて、信者一人一人が自ら聖書を理解する時代が来なければならず、プロテスタントからの新たな宗教改革が必要なのである。

この見解は、村上の指摘と一見、似ているように見えるかも知れない。村上だけでなく、杉本もプロテスタントの牧師らの権威主義を強く非難し、また、唐沢治もまたニッポンキリスト教界の牧師らを非難し続けて来たのであるから、当ブログと以上の人々の主張の間には、何かしらの共通点が見いだせるように思われるかも知れない。

だが、これらの人々の牧師批判と、当ブログの主張とでは、似ているようで、決して見逃すことのできない大きな相違点がある。

それは、当ブログは、知識が一部の人々によって独占された結果、権威もまたその人々によって独占されるという状態には反対するものの、以上の3名が行っているように、知識と権威の両方を否定して排斥しようとは全く試みていない点である。

当ブログでは、「知性」と「権威」とが結びつくこと自体を否定したことは一度もない。

むしろ、当ブログでは、聖書には「主を畏れることは知恵の始め。」(箴言1:7)と聖書にあるとおり、要するに、すべての「知性」の根源は、神を知る知識、すなわち、聖書の御言葉を御霊によって理解することにこそあり、聖書の御言葉に忠実に生きることこそ、その者が他の者に対して霊的優位性を勝ち取る秘訣であると述べて来た。

つまり、聖書の御言葉の理解に精通した者が、他の者に先駆けて知識と権威を得るのは当然のことであって、正しい法則であるということを、繰り返し述べて来たのである。

歴史を振り返っても、キリスト教国がそれ以外の諸国に比べて早期に経済発展を遂げた事実や、プロテスタントの精神が資本主義の発展を促した事実の中に、聖書の御言葉への理解がいかに経済的な利益とも見えない領域で結びついているかを確認することができよう。

筆者の見解では、経済発展の真の原動力になったのは、科学の発達ではなく、むしろ、聖書に立ち戻ろうとする信仰復興運動である。時代を超えて、聖書の御言葉に忠実に歩もうとするキリスト教の最先端の信仰復興運動こそ、あらゆる経済発展の真の原動力となって来たのである。

従って、プロテスタントの牧師が他の信者に比べて精神的・経済的に優位を誇っている根拠も、牧師が御言葉を取り継ぐ者として、聖書の理解を他の信者から奪って独占していることにこそある。

こうして、聖書の御言葉に精通した者が、他の者に先駆けて知識や権威を得るという原則は、非常に信仰的な意味合いが薄れているとはいえ、たとえば、我が国において、官僚や知識人の多くが法律の専門家から成るという風潮の中にも見て取れる。

法律の解釈と出世とは一概に結びつかないように見えるであろうが、こうした風潮の中には、ちょうど律法学者らがラビとして民に敬われていたのと同じような原則を見ることができる。法律は死んだ条文ではなく、生きた言葉であり、そこから命を汲み上げることのできる人たちは、それができない人たちに比べ、知的に優位に置かれるのである。それはその法が人間を各種の脅威から守り、救い出すことができる根拠だからである。

この世の法でさえそのような機能を果たすわけであるから、ましてや聖書の御言葉に精通した者がこの世のすべての人々に超越した霊的優位性を得て、知識と権威を得るのは当然である。

従って、こうした観点から、当ブログでは、知性と権威が結びつくことそれ自体は、誤ったことではないとみなしており、問題は、聖書の知識の理解が、これまでのすべての時代において、一部の聖職者階級によって独占されて来たこと、それゆえ、ほんの一部の人々が、他の信者よりも優位に立って、経済的にも、その他の面でも、特権を得ているという状態が、望ましくないと述べている。
 
当ブログでは、今日のプロテスタントの牧師たちは、かつてカトリックの聖職者たちがそうであったように、聖職者階級となって聖書の御言葉の理解を独占することで、一般の信者たちが自ら聖書の御言葉を理解するのを妨げており、それゆえ、こうした状態から信者が解放されて、聖書の御言葉が万人に解放されるという最後の信仰回復運動が到来せねばならないと述べているのである。

このように見ると、当ブログの主張は「反知性主義」に立つものではない、と言うことができる。むしろ、知性をより一般に普及させることで、知性と権威の底上げとでも言うべき状態を目指すべきというのが、当ブログの主張である。これは決して「知性」と「権威」とが結びつくことそれ自体を否定するものでもない。

反知性主義とは、当ブログの主張とは異なり、知性を持つ者が、それを持たない者に対する優位の証しとして、権威を獲得すること自体を否定する考えであるから、根本的に、唯物論から出て来た発想であると言える。

そして、ペンテコステ運動に見られるやたら奇跡を重んじる体験主義なども、反知性主義から出て来た傾向であることは、すでに幾度も解説して来たが、カルト被害者救済活動を率いる村上密や、ニッポンキリスト教界を非難し続ける唐沢治などは、当ブログとは違って、まさに反知性主義的観点から、牧師らを非難しているだけであることに注意しなければならない。

それが証拠に、村上も唐沢も(杉本も)、牧師らをただ非難し続けるだけで、決して聖書の御言葉への忠実な理解に立ち戻ろうとはしない。むしら、これらの人々は、プロテスタントの問題性、牧師らの腐敗を追及・非難すればするほど、ますます聖書の御言葉を知る知識から遠ざかり、異端的教説に接近して行くだけである。
 
要するに、この人たちは、反知性主義に基づき、牧師を非難することで、「知性」と「権威」の両方を同時に否定しているだけなのである。そのために、かつては大学講師をつとめ、知識人の一人のように見えた唐沢治でさえ、アカデミズムを去って、怪しげな新興宗教の指導者が宣伝するようなごちゃまぜの異端的教説を公然と宣べるようになったのである。

当ブログでは、随分前から、唐沢や村上のネット上の論説が、極端なまでの劣化の道を辿りつつあることを指摘して来た。数年前から、唐沢の文章も、匿名掲示板の投稿とほとんど変わらないようなレベルになっている事実は見逃せない。

こうした知的劣化(荒廃?)は、彼らの反知性主義的な理念のもたらした必然的な結果だと筆者は見ている。では、知性が欠如(劣化)すると、その次に何が起きるのであろうか。権威の崩壊である。

筆者は、グノーシス主義とは、悪魔が人類に吹き込んだ「偽りの知性」であって、それは根本的に「無知」であると述べて来た。

聖書が神の霊感によって書かれた書物である以上、聖書の御言葉を理解するためには、聖霊による導き(啓示)が必要となるが、今日、聖霊の名で呼ばれているあらゆる運動が、真に御霊によって生まれたものなのではない点に注意しなければならない。

キリスト者は、飽くことなく、聖霊の働きを追い求めるべきという点において、聖霊派は、確かにキリスト教の中でも、最も先駆的な信仰復興運動なのであるが、残念ながら、その中には数多くの偽りの霊による運動が入り込み、ペンテコステ運動にも、聖書の御言葉の深い理解を得ようとするのではなく、感覚的な享楽をもたらす体験を重んじることで、信者が知性によらずして、神を知ろうとする「さかさまの探求」が込められている。

ペンテコステ運動とは、そういう意味で、鈴木大拙の言う「二度目の林檎」と同じものなのである。つまり、これは信者を知性へと導くように見せかけて、無知へと導く偽りの知恵に支えられた運動である。

村上密も、唐沢治も、杉本徳久も、みなペンテコステ運動に多大なる影響を受けていることは幾度も指摘したが、その結果として、彼らは聖書の御言葉を知る知識と権威の両方を否定するようになり、自分自身がまさにその両方を失おうとする直前まで来ている。今日、すでに彼らからは知識が失われているが、次に失われるものは権威である。

当ブログが提起する訴訟は、彼らの知性が偽物であることを公にし、彼らの権威が完全な失墜に至るための導火線のようになるだろうと筆者は考えている。なぜなら、上記の通り、本来、知性と権威とは不可分の関係にあり、聖書の御言葉を知る正しい知識こそ、人に権威を与えるものであるから、神を知る知識すなわち聖書の御言葉への正しい理解を捨てた者は、もはや自己の尊厳を守れず、自分で自分の命を失う結果となるからだ。

不正や暴虐によって得た利益は、その人を滅ぼす。強制脱会活動などに関わって金銭を蓄えた者、罪もない者を陥れるために策略をしかけた者らの富は、恐怖と災いがつむじ風のように襲うとき、あっけなく奪われ、取り去られる。

しかし、主の御言葉に従う者は、地上においても確かな住まいを得て、災いを恐れることなく暮らす。神の御言葉を知る知識は、人の生活のすべての面における繁栄と平穏の根拠なのである。

最後に、箴言第1章を引用しておきたい。

「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。

 
これは知恵と諭しをわきまえ
 分別ある言葉を理解するため

 未熟な者に熟慮を教え
 若者に知識と慎重さを与えるため。

 これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え
 聡明な人も指導力を増すであろう。

 また、格言、寓話
 賢人らの言葉と謎を理解するため。 

 
主を畏れることは知恵の初め。
 無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

 わが子よ、父の諭しに聞き従え。
 母の教えをおろそかにするな。

 それらは頭に戴く優雅な冠
 首にかける飾りとなる。

 わが子よ
 ならず者があなたを誘惑しても
 くみしてはならない。

 彼らはこう言うだろう。

一緒に来い。待ち伏せして、血を流してやろう。
 罪もない者をだれかれかまわず隠れて待ち
 陰府のように、生きながらひと呑みにし
 丸呑みにして、墓穴に沈めてやろう。

 金目の物は何ひとつ見落とさず
 奪った物で家をいっぱいにしよう。

 我々と運命を共にせよ。
 財布もひとつにしようではないか。

 わが子よ
 彼らの道を共に歩いてはならない。
 その道に足を踏み入れるな。

 彼らの足は悪事に向かって走り
 流血をたくらんで急ぐ。

 翼あるものは見ている。
 網を仕掛けるのは徒労だ。

 待ち伏せて流すのは自分の血。
 隠れて待っても、落とすのは自分の命。

 これが不当な利益を求める者の末路。
 奪われるのは自分の命だ。

 
知恵は巷に呼ばわり
 広場に声をあげる。 

 
雑踏の街角で呼びかけ
 城門の脇の通路で語りかける。

 「いつまで
 浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち
 不遜な者は不遜であることを好み
 愚か者は知ることをいとうのか。

 立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら
 見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ
 わたしの言葉を示そう。

 しかし、わたしが呼びかけても拒み
 手を伸べても意に介せず

 わたしの勧めをことごとくなおざりにし
 懲らしめを受け入れないなら

 あなたたちが災いに遭うとき、わたしは笑い
 恐怖に襲われるとき、嘲笑うであろう。

 恐怖が嵐のように襲い
 災いがつむじ風のように起こり
 苦難と苦悩があなたたちを襲うとき。

 そのときになって
 彼らがわたしを呼んでもわたしは答えず
 捜し求めても
 わたしを見いだすことはできない。

 彼らは知ることをいとい
 主を畏れることを選ばず

 わたしの勧めに従わず
 懲らしめをすべてないがしろにした。

 だから、自分たちの道が結んだ実を食べ
 自分たちの意見に飽き足りるがよい。

 浅はかな者は座して死に至り
 愚か者は無為の内に滅びる。

 わたしに聞き従う人は確かな住まいを得
 災難を恐れることなく平穏に暮らす。

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村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(30)ーこの朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。

さて、このシリーズも30本に達した。次回からは、第二審に向けて標題を改めることにしよう。

先の記事で、本紛争は、行き着くところまで行き着き、中途半端な妥協点は退けられて、どちらかの陣営が社会的に抹殺されるなど、完全な勝敗が明らかになるまで、続くだろうと筆者は書いた。

筆者はこの紛争が始まる前から、論敵の口を完全に封じること、ハガルとイシマエルの子孫を神の家から駆逐することが紛争の目的であると何度か断って来た。だが、当初は筆者の目にも、それはあくまで霊的法則性を表すものであって、地上の人間に対しては各種の情けが必要であって、文字通りにその法則性を当てはめてはならないものと見えていたのである。

そこで、筆者は誰かを社会的に抹殺することなどを目的として本紛争を提起したわけではない。それにも関わらず、事態がどうやらそのような方向にしか進まないらしいことを、筆者はここ数日間で理解した。

筆者はこれまで、一審判決で下された命令を、被告に字義通り、忠実に実行させることが、自らの責務であると考えていた。「命令」と「実行」を一つにするとは、そういうことだと解釈していたのである。

ところが、被告は賠償金を支払わない。これを支払いさえすれば、新たなる差押がなされるなどの不利益を被ることはないと、どれほど伝えても、身を守るための措置も講じず、敗北を認めず、判決に従おうともしない。

こうして、賠償命令が未だに実現していない理由が、なぜなのかを考えるとき、それはこの戦いが、決して一審判決で命じられた事柄を字義通り実現しさえすればそれで良いという性質のものではないからだと、筆者は思わざるを得ない。

被告は、自分に不利な判決を取り消してもらいたいがゆえに、控訴したそうである。また、筆者との直接交渉の中で、筆者の意思と情けを踏みにじり続けることで、判決の解釈と実行をどこまでも自分に有利に曲げようとしている。

だが、もしも敵にそのような模索が可能ならば、こちら側にも当然、同じことができる。つまり、判決は変えられないが、その執行の形態はいくらでも変えられる。そのことは、判決の解釈を変更することに等しく、「命令」に対する相手方の反応を見て、その実行形態を様々に変化させて、段階的により容赦のない措置に及んで行くことを意味する。

これが、本紛争が究極的なところまで行き着かねばならないとする筆者の予想の根拠である。被告が命令に逆らえば逆らうほど、彼にはしたたかな破滅が避けられないものとなって行くのである。だが、それは筆者が選んでいるのではない。被告自身の選択なのである。
 
筆者は、供託係と話をした時に、この印象を伝えておいた。「第三債務者はよほど不運な人間だ。ここでお金をおさめておけば、これ以上、ひどい事態は起きようがなかったのに、支払わなくて良い口実をもうけるためだけに、係の者に接触し、自分に都合の良い解釈を引き出し、供託はできないと結論づけた。もう少し丁寧に物事を説明する係であったなら、彼にデメリットを教えてくれて、思いとどまるように示唆してくれたかも知れない。なのに、それもなく、彼は自分に都合の良い説明を聞いて、それに飛びついた。だが、このことは、彼にとってさらなる不利益にしかつながらない。こうして、彼は自分のために与えられた情けを自分で踏みにじり、自ら猶予を無駄にしたのだ。このようなことは、よほど不運な人間にしか起きない・・・。」

こうして、一審判決の解釈は幾通りにも変えられて、より情け容赦のない措置が取られることになるだけではない。一審判決そのものの不完全な部分も、控訴審で克服されて上書きされることになる。

筆者は、このような事態になっているのは、現在の成果で決して満足してはいけないという天の采配であるとみなしている。

幾度も言うが、筆者は本紛争を提起するに当たって、どちらかの陣営が社会的に抹殺されるまで争いたいとか、最高裁まで争いたいなどという願いは微塵も持っていなかった。むしろ、一審を担当してくれた裁判官が、とても善良で、優秀で頭脳明晰な人物と見え、かつ、それだけでなく、何より重要なこととして、本紛争の核心部分を、実に早い段階で深く理解してくれていることを知ったとき、これならば十分に一審で終われるだろうと考え、そうなることを望んでいたのである。

それにも関わらず、現在、その裁判官の判決を「上書き」することを求めて控訴する事態となっていることは、かえってとても良いことだと筆者は考えている。

筆者がこれまで常に学んで来た教訓は、キリスト者は、決して誰をも自分の心の偶像としてはならないし、自分の代理人としてもならない、ということであった。弁護士などという職業が、我々にとって不要なだけではない。どんなに優秀で、どんなに深い理解を持つ、どれほど親切で善良な人間であれ、神以外の何者も、私たちの代理人にはなれないのだ。

だから、決して地上のどんな人間に対しても、私たちは決して自分の願いをことごとく託すようなことはしてはならない。
 
むしろ、私たち自身が、キリストの代理人であり、そして、キリストが私たちの代理人となって下さる。私たち自身が、主の思いを実行する側に立っているのである。このことの絶大な意味を決して忘れてはいけない。

一体、キリスト以外の誰が、私たちの心を隅々まで理解し、私たちの権利をことごとく守るための力強い代理人となって下さるであろうか。誰が敵を粉砕し、足の下に踏みにじり、私たちのために大胆な勝利と解放の宣言を打ち立てて下さるであろうか。

私たちは、鏡に映すように、彼(イエス)の栄光を移す民である。この関係は実に言い尽くせないほどに価値ある、栄光に満ちたものだ。ところが、その神を捨てて、人間に過ぎない代理人を立てると、必ずや、私たちは、その人の意思や都合に束縛される結果となり、やがては二人三脚で破滅に落ち込んで行くことになる。
 
筆者は、牧師という存在は、人間(信者たち)の欲望の化身でしかないと述べて来た。人は自分の願いを手っ取り早くかなえてくれそうな誰かを常に代理人にしたがるものだ。そして、その者に自分の権利を託し、願いを託し、その者を自分の「偶像」に祀り上げる。だが、そのようにして、人が神を捨てて、人間に過ぎない誰かを自分の代理人に据えることの結果は非常に苦く厳しいものである。

神はそのようなことをキリスト者にお求めになっておられない。人間を偶像とすれば、解放されるどころか、束縛と隷従が待っているだけである。たとえそこまで深刻な事態に行き着かずとも、私たちが人情を優先して、そこで霊的前進を終わりにすることは、とても危険なことなのである。

そういう意味で、この紛争は、究極的結論に至るまでは、終わらないであろうことを筆者は予感した。そして、筆者自身が覚悟を決めて、そこまで歩んで行かねばならないことを悟った。誰かが筆者を優しくかばってくれて、筆者をこの労苦から早期に解放してくれることを第一に望むわけには決していかないのだと。最後まで大胆に立って、信仰の戦いを忍び通して、勝利を掴まなければならない。

そういう意味で、筆者はこの戦いが続行していることを、まさに主の御心に適うこととして、喜んで受け入れている。
 
* * *

聖書に書いてある、私たちは御使いをも裁く者、世を裁く者だと。従って、傲慢不遜と誤解されることをあえて承知で言うが、本紛争に関しても、真に裁きを下しているのは、実は目に見える地上の人間ではないのだ。

今、遅ればせながら、筆者は急ピッチで控訴理由書を書き上げているところだ。事件ファイルが高裁に届くのに随分時間がかかっていたようなので、おそらく誰も急いではいまい。新たに証拠となる記事も多数、追加されたことであるし、筆者が理由書の提出をするのは、ちょうど良い頃合いになるだろうと思う。

これまで駆け足で当ブログに発表して来た多くの記事は、理由書の土台とするために、過去記事を整理したものである。

そして、理由書を書き始めると、この作業は、非常に楽しいものであり、深い満足をもたらしてくれるものであることが分かった。

筆者は、第一審の時点から、村上が筆者に対して害意を持っていることを確信していたが、筆者が一審を提起した段階では、まだそれは行為としては成就していなかったし、証拠が明るみに出てもいなかった。そこで、このような状況では、裁判官とて如何ともしがたく、現在のような判決が生まれて来るのも、理由のないことではないと言える。

しかしながら、改めて控訴審への準備を進めているうちに、一審判決と戦うわけではないにせよ、一審判決の不完全な部分を、どのように覆い尽くすべきかが見えて来たのである。

ポイントは、第一に、これまでの記事にも書いた通り、カルト監視機構と宗教トラブル相談センターを結びつけて、同センターがカルト監視機構の延長上にあり、その構想の実現として設置されたものであり、根本的に同一であることを、目的と機能の面から論じ、カルト監視機構が設立されていないという判決の前提そのものを覆すことである。

第二に、村上が過去に統一教会信者の拉致監禁等を伴う説得に関わって来た行為なども指摘しつつ、反カルト運動による権利侵害の一助を村上の活動が担っていると見られることを指摘することだ。

そして第三に、村上が一審判決言い渡し直後から、筆者に対する人格権の侵害行為に及んだり、筆者を刑事告訴したと告げたり、筆者が犯してもいない犯罪行為を犯しているかのように示唆したり、裁判資料として提出した筆者のメールを無断で公開したりした行為は、すべて宗教トラブル相談センターの暴走を示すものであり、それが筆者に対する権利侵害に結びついているだけである。そのことは、筆者が2009年に、カルト監視機構が魔女狩り的な粛清を生むと予告して行った警告に、現実性・信憑性・相当性があることの証拠である。

こうしたロジックの組み立てによって、2009年に村上が著した筆者に関する二つの記事が、権利侵害に当たらないとする判決をも、覆せるだろうと筆者は考えている。

それと並行して、掲示板に対する訴訟を起こすことで、投稿者を特定し、共謀関係の有無を突き詰めることも重要な課題である。それにより、サイバーカルト監視機構の問題についても、新しい見方を与えることができる。しかし、これは時間のかかる作業のため、この問題が明らかにならないうちに二審が終われば、二審でもこの紛争は決着しない可能性がある。

当初は、個々具体的な権利侵害だけを論じる予定だったのだが、考えれば考えるほど、二審は「カルト監視機構」が争点となるという予感は否定できない。

筆者が一審の裁判官の仕事を高く評価していたのも、今でも移送の申立の却下通知をホームページに掲載している通り、この裁判官が「カルト監視機構」こそが、本紛争の最大の争点であることを、訴訟の開始当初から見抜いていたためであった。裁判官の文章は、あくまで筆者の主張を簡潔にまとめただけのように見えるかも知れないが、実はそうではないと、筆者は確信している。

筆者は、この文章を読んだとき、この裁判官が、本紛争は、カルト監視機構という悪魔的構想に対して、それぞれがどのような信仰的態度を取るかという、深い思想的(霊的)対立が引き金となって生まれたものであり、カルト監視機構の構想こそが、すべての問題の出発点であり、根源であるという深い理解と洞察を、そこで示していることを感じたのである。

その指摘の中には、筆者が気づいている以上の深い洞察が込められていたことに、筆者は驚きを覚えた。
 
だが、一審の最中には、カルト監視機構と宗教トラブル相談センターが実質的に同じ機能を持つものであることを、筆者は論証せず、統一教会の信者に対する拉致監禁など、カルト被害者救済活動の違法性を具体的に証拠立てる資料も提出せず、何よりも、村上と杉本やその他の人々との共謀関係を証拠立てる資料が出て来ず、また、村上も筆者に対するあからさまな権利侵害に及んでいなかったため、村上密という人物が、この悪魔的構想の生きた体現者であるということをはっきりと立証するための決定的な証拠が欠けていた。この状況では、裁判官とて何もできなかったであろう。

そこで、村上の本質が客観的に明らかになるためには、まず第一に杉本が口を封じられるという過程が必要だったのであり、そのためにこそ、一審判決は有益な役割を果たした。だが、紛争は決してそこで終わりになってはいけなかったのである。
 
それは、村上密という人間の本質を明らかにすることこそ、もともと本紛争の最も主要な課題だからであり、杉本の権利侵害行為とて、結局は「カルト監視機構」の発想が具現化して起きて来たものに過ぎないからだ。

筆者から見て、村上密という人物は、「カルト監視機構」という反聖書的発想の生きた体現者なのであって、その村上を手つかずで残したまま、杉本の不法行為だけを認定して終わりとすることは、本紛争の提起された意義を根本的に失わせ、かえって極めて不公平な判決を打ちたてるだけである。

しかし、筆者は一審が開かれていた最中は、そこまでの深い理解には到達していなかった。それどころか、判決が言い渡されても、杉本から賠償金が支払われさえすれば、そこで杉本との間では紛争を終わらせて構わないと考えていたくらいである。

ところが、決してそうなってはいけなかったのである。杉本が今に至るまで賠償金を払っていないことには、以上で述べた通り、深い意味がある。つまり、この問題は、額面通りの金銭によって解決されてはならないほど深いレベルに達しており、杉本は、村上が倒れない限り、決して筆者に敗訴した事実を認めるつもりはなく、神ご自身が、筆者がこの判決を元手に、可能な限りの打撃を敵にもたらし、杉本と村上の両名を打ち破って初めて、この紛争の目的が達成されるのであり、神がそのことを望んでおられるからこそ、杉本自身が、一向に敗訴の事実を受け入れず、未だ筆者の情けを踏みにじり続けているのだということにようやく気づいたのである。

この紛争は通常の紛争とは性質の異なる霊的戦いである。杉本は筆者が2009年に投稿した1件のコメントを利用して、筆者の人生に、最大限の打撃を与えるべく行動して来た。その目的は、筆者を社会的・精神的に抹殺することにあったと筆者は見ている。

そのように、筆者の死を願っていることを明らかにして行動しているような相手に、通常人と同じような情けをかけるべきではないのである。むしろ、その発想をまさに逆転して、彼ら(あえて彼らと呼ぶ)に返さなければならない。命じられた賠償を額面通りに実現させるだけでは解決にならず、それが神が願っておられる最も望ましい解決でもない――筆者はそう思い当たった。

これは正直に言って、大変、恐ろしい結論である。彼らの(霊的)債務が金銭ではかたをつけられないレベルにあることを意味するからだ。

だが、もしも神が本当にそのように考えておられるのであれば、そして、霊的戦いとしてのこの紛争の目的が、そこまで物事を徹底的に明らかにすることにあるならば、誰もそうなることを止めることはできないだろう。おそらく、この先も、杉本はすべての情けを踏みにじって、逃げられるだけ賠償から逃げることによって、最も厳しい断固たる措置が取られざるを得ない状況を自ら作って行くものと思う。

何度も言うが、通常の紛争では決してこのようなことは起きない。訴訟は、法的・社会的決着をつけることが目的であって、人間を破滅させることが目的ではないからだ。通常の紛争では、損害の大きさは、決まっており、賠償もその範囲にとどまり、債務が無限大に拡大して行くとか、どちらか一方が破滅するまで戦いが続行されるなどということはまずない。どれほど巨額の賠償が命じられても、人はそれを払えば、やり直しできる。もちろん、筆者もそう思って、紛争を提起していた。
 
ところが、霊的戦いは、人間の思惑の通りには進まない。そして人間的な観点から見て、明らかに妥当かつ合理的であると見られる解決を退けて、敗訴が究極的な破滅と同義になるほどまでの深刻な事態へ向かって進まないわけにいかない。それは、人々を導いている霊の本質が極みまで明らかになるために、どうしても避けては通れない過程なのである。

つまり、神を畏れることこそ、知識の初めであって、神を知る知識(聖書の御言葉)に逆らう者は、自分のすべてを失い、人生そのものが破滅するという霊的法則性が、動かしがたいものであることが、公然と世に証明されるためには、それ以外の道がないために、敵自らがそうなる道を選ぶのである。

あるキリスト者が、次のように言ったことを思い出す。「悪魔は本当に愚かですよ。なぜって、キリストを殺せば、復活が現れ、悪魔の最大の武器である死が打ち破られて無効になることを、悪魔自身が知っていた。それなのに、彼は抑え難い殺意によって、キリストを十字架にかけて殺さないわけにいかなかったのですよ・・・」

同じように、杉本は賠償金を踏み倒し続けることが、自分に何をもたらすか、知らないわけではない。なのに自らその道を選んでいるのだ。
 
そこで、この戦いには、究極的な結末が待ち受けているだけであって、やり直しのチャンスはない、ということに、筆者はようやく気づいた。被告らには、悔い改めもないし、再生もなく、忠告を聞き入れるチャンスも、情けを受ける余地もない。彼らの行く先は定まっており、それを来るべき世が訪れてからではなく、今この地上にあっても、客観的に人々に分かるように立証する使命が、筆者に託されているのである。

繰り返すが、これは極めて厳粛で恐ろしい事実である。

あらゆる訴訟には、個人の損なわれた利害の回復を目指すだけにとどまらない、個人を超えたレベルの社会的意義が込められているが、霊的紛争となると、その意味はもっともっと深いものとなる。

この紛争は、永遠にまで達する領域に関する物事を争うものなのであり、だからこそ、普通の人間の目に、ほどほどと思われる地点で終わりになることがないのである。

だから、予告しておきたい。筆者は一審判決を飲み込んで、これを上書きし、変更を勝ち取ることとなる。控訴状では、筆者は一審判決の取消ではなく、上書き(変更・追加)を求めている。これは判決の不完全な部分について、さらに主張を補い、完成に導くための措置である。

なぜ筆者が当ブログにおいて、訴訟に関する連続シリーズを書き続けているかという目的も、そこにある。これは歴史を塗り替えるため、存在の上書きをし、朽ちるものを朽ちないもので飲み込み、覆うための措置なのである。

杉本や村上は、人間の正義感に過ぎないものを振りかざし、神の御言葉によらず、教会を悪から浄化しようとしたが、そのような運動は、聖書の神に対する反逆であるから、決して成功に終わることはない、との指摘を筆者は続けて来た。

村上密は、2009年当初からカルト監視機構の構想を批判した筆者に「悪」のレッテルを貼っていたが、事実は全く逆なのであり、それゆえ、村上はいずれ筆者の批判に飲み込まれて終わるというのが、筆者の変わらない見立てである。

このようにして事実を上書きする(もしくは事の真相を明るみに出すことにより、偽りの情報を駆逐する)ために筆者はものを書いている。虚偽のプロパガンダに過ぎないものを、真実によって飲み尽くすために再評価を下し、名誉回復の作業にいそしんでいるのである。

また、この上書き作業は、「名を知る者がその者を支配する」原則に基づくものと言って良い。

杉本や村上は、自分たちが住所氏名電話番号まで自己の情報のすべてを開示して「逃げも隠れもせず」活動していることを盛んにアピールしていた。それを誠意の証しであるかのように宣伝していた。だが、筆者に言わせれば、そのように自己の情報を第三者に無防備に託すというのは、初めからその第三者(大衆)に自己存在を奪われ、第三者によって自己イメージを規定される道を選んでいるのと同じなのだ。

「わたしたちには、神が”霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。”霊”は一切のことを、神の深みさえ究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。<略>霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
「だれが主の思いを知り、
 主を教えるというのか。」
 しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」(1コリント2:10-16)

キリスト者は、自らすべての事柄を判断するが、自分自身は誰からも判断されることはない。

これまで杉本は盛んに筆者の個人情報を要求して来たが、それは善意によるものではなく、筆者に害を加えようとする意図に基づくものでしかなく、たとえば、氏名を知れば、誹謗中傷に利用する、住所を知れば、提訴するために利用するといった具合であるから、口座番号を伝えれば、強制執行を実行するために利用するだろう。

このように、反カルト陣営に関わる人々は、信者に関して入手したすべての情報を、信者に害をもたらすため、信者を不利な立場に立たせるため、本人の心を支配する脅しの手段として利用して来た。そのようにして、信者を不利な立場に陥れるきっかけをつかむために、彼らは裁判という場を利用して情報の開示を求めて来たのである。

だが、そのように信者に悪意を抱いている人々がいるならば、同じ原則を、そのまま逆に彼ら自身に当てはめることが可能である。自己の情報をみだりに第三者に開示し、「逃げも隠れもしない」などと豪語して、他者の名誉を貶める行為にいそしんでいる人々には、彼らが開示していた情報を利用して、責任追及を行い、開示されていない情報についても、司法を利用してさらに開示を求めるだけのことである。

もともと彼らがそのように世に対して自己の情報を開示していた行為は、それ自体が、他者(世)からの評価に自己存在を規定され、自己を左右され、評価され、簒奪され、上書きされるきっかけを自ら作っているのと同じであるから、彼らの存在は、さらに「聖域」を取り払われて、まるで裸にされるがごとく、徹底的にこの世に対する開示を求められることとなろう。

つまり、彼らが教会の「聖域」に畏れ知らずにもメスを入れ、神に代わって教会の恥を暴き、裁こうとした思い上がりに満ちた計画が、そのまま彼ら自身の上に適用され、成就するということである。それが、主が願っておられる計画であって、主の御名と教会を辱めようとした者に当然のごとく降りかかる報いであって、それ以前のところで決着をつけてはいけないということを、筆者は理解したのである。

筆者は当ブログにおいて自己存在をアピールするつもりは全くなく、キリストによって覆われた新しい人として、世に対して姿を現している。

村上密は、自分は被害者の代理人として行動して来たと言う。代理人とは、自分の名を名乗り、自分の権利のために行動するのではなく、自分が代理としている人物の名を用いて、その人物に代わって、その人物の利益のために行動する者である。
 
私たちは、地上において、誰の代理人なのか。むろん、私たちは、キリストの代理人であるから(牧師が神の代理権威なのではなく、信じる者一人一人が御名の権威を託されている)、私たちは、自己の利益を擁護するために立っているのではなく、キリストの利益を擁護するために生かされているのであり、従って、世の前に立つとき、私たちが自己の名を語るのではなく、キリストの名を用いるのは当然である。

そして、もしも私たちが代理人となって行動しているその方の御名が、私たちの名を圧倒的に超える絶大な権威を持つものであるなら、その方の代理人となることにより、私たち自身が、はかりしれない権限を持つこととなる。

従って、私たちクリスチャンが、幼い頃から「イエス・キリストの御名によってお祈りします。」と唱えることを教えられて来たのと同様、筆者は当ブログにおいても、自己の名ではなく、主の御名によって、すべての事柄を書き記している。

私たちの発する言葉は、一つ一つが不完全であり、私たちの存在も不完全で、影のようなものでしかない。だから、筆者は当ブログで用いている言葉が、隅から隅まで完全であると言っているわけではない。だが、それにも関わらず、私たちが「イエス・キリストの御名」の権威を帯びる時、私たちの不完全さは、主の完全さで覆われ、私たちの弱さは、主の強さに変わり、私たちの不真実は、神の真実によって取って代わられ、敗北は勝利に置き換えられ、悲しみは慰めに変わり、罪は赦しの恵みによって覆われ、朽ちる命が朽ちない命を上から着せられ、滅びゆく有限な者が、神の永遠の命を着せられて、キリストと共に栄光にあずかるのである。

そのようなわけで、私たち自身が、絶えずイエスの命によって、キリストの思いによって、存在を「上書き」されている。そうした現状があればこそ、筆者は、御名の権威を用いて、信仰のない人々の判断を上書きすることを辞さず、またその作業が可能であることを信じている。

筆者は、彼らの判断を飲み込んでしまい、それに上から新しい事実を「着せる」。筆者は「勝利者」として歴史を作り、書き換えているのだが、その「歴史」とは”His-story”であって、カルバリで取られたキリストの勝利に基づくものであって、筆者個人の勝利ではない。

つまり、筆者がすべての物事を「上書き」することによって、着せようとしているのは、キリストご自身なのである。そして、それに従わないものは、すべてのみ込まれて消えて行くか、罰せられるかに終わるであろう。

「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

「死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしたちの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分の苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(1コリント15:50-58)

こうして、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬべきものが命にのみ込まれるためにこそ、私たちは証の言葉を述べ続けている。
  
これは神の完全な贖いを巡る争いなのである。だからこそ、人間的な観点から見た合理的な解決に至り着いて終わりになることなく、完全な決着が着けられるまで、戦いが続行される。
 
神の贖いに反対する者には、この地上はおろか、永遠に至る領域においても、容赦のない裁きが下されることが確定している。その霊的法則性が明らかになる地点まで、本紛争は必ず進むだろう。筆者はこれを明らかにする責務を負わされているのであって、それを果たすまでは、この戦いは終わらない。そのことを、ここ数日間で筆者は心に確信させられたのであった。
 
わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(2コリント10:4-6)

主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

 
すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:10-18)

 
  <続く>

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(29)―彼のものは一切、債権者に奪われ 働きの実りは他国人に略奪されるように。

本日、筆者の中で何かの一線を超える出来事があった。筆者の中でいよいよ堪忍袋の緒が切れたのである。

杉本が筆者の用意した供託書の内容では供託ができず、自分には債権債務はないと告げ、債務を支払うつもりもないのに、直接、口座間でやり取りをする必要性があるかのように告げて来てから、筆者は二度と杉本には返信しないことを決意していた。

支払いの意思を示さない人間に個人情報など伝える必要は全くない。そして、供託書は最後の温情であるから、これに従わないのであれば、筆者の側からは一切の救済措置はない。

筆者は今日になって、もうこれ以上、被告らにいかなる発言の機会をも与えてはいけないこと、彼らにお伺いなど絶対に立ててはならないことを理解した。

杉本はただ単に賠償金の支払いを拒んでいるだけではない。そもそも彼は負けを認めておらず、この紛争は、どちらか一方の陣営が、完全に社会的に抹殺されるまでずっと続くことであろう。

これは激しい霊的戦いであって、通常の紛争とはわけが違う。筆者が人間としての情けから、敵に猶予を与えれば、自分が死に直面することになるだけだと分かったのである。

裁判官の与えてくれた判決は、被告の意志次第で変更できるようなものではない。ところが、取立という名目で、筆者が被告に接触すれば、被告はその機を最大限に利用して、自分にとって都合の良い言い訳をひたすら並べ、筆者を自分の要求に従わせようとして来る。あわよくば、判決内容さえを自分に都合よく変えようとして来る。

そこで、これ以上、筆者は敵の意思を問うたり、敵に猶予を与えることをしてはならず、そのようなことは、筆者の尊厳をいたく傷つけ、筆者に死以外の何物ももたらさない行為だと理解した。

ところで、先の記事の中で、筆者は訴訟において提出する準備書面は、裁判官に宛てたラブレターのようなものだと書いた。だが、このことを、筆者は訴訟が始まった時からすぐに自覚していたわけではない。

そもそも紛争などというものには、当事者でさえ、積極的に関わりたいとは願っていないので、裁判が始まった頃の筆者には、裁判所の人々が最初から身近な人々に見えていたわけではない。むしろ、できるだけ早く決着をつけて、この事件の関係者とは関わらなくて済む日が来るのが、皆にとって最善だと考えていた。
 
また、被告らとはつきあいが長かったので、当初は、裁判所の人々よりも、被告の方がリアリティを持つ存在のように見えていたほどである。持ち前のお人好しさや人間的な甘さから、筆者はこの訴訟の途中で、被告らが何とかして自分の行動の誤りを悟り、良心の呵責を覚えて、少しでも生き方を改めてくれるのではないかといった楽観をも持っていた。
 
だから、筆者は書面を通して被告らに語り掛けようと試みた。被告らに対する厳しい叱責と非難と忠告の言葉を並べながらも、それが筆者から彼らに向けた真心のこもった「ラブレター」だと述べたことさえあった。

ところが、その関係が、裁判の途中で逆転して行った。筆者は書面を通して語りかけねばならない相手は、被告ではなく、裁判官であることに気づいた。口頭弁論の最中、ほとんど何も発言しない裁判官であったが、彼にははっきりと自らの判断があり、考えがあり、計画があり、筆者を守ろうという思いがあることが分かり、この人に判断を委ねなければならないということに気づき始めた。

そこで、書面を提出する目的も、被告の主張を論破することが第一義的課題であってはならないと途中で気づいたのである。

これは極めて、本当に極めて重要な気づきであった。だが、残念なことに、その気づきは長くは続かず、一審の最後の口頭弁論が終わり、裁判官に宛てて書面を書くこともなくなって以後、筆者はまたしても、被告との差し向かいの牢獄に閉じ込められ、その上、掲示板の嵐のような誹謗中傷が追い打ちをかけた。

筆者は、心を圧迫され、どこにも助けを求めようのない、出口のない状態に置かれ、頭を抱えて嵐が過ぎ去るのを待つ人のように、自力でそれに耐える以外には、何ら方法のない受け身の状態に置かれたかのようであった。

唯一できることは、ただひたすら彼らの嘘を論破することだけであった。

一審判決の言い渡しが、筆者にとって大きな緊張を伴うものであったのは、ただ単に、それが事件の真の終わりにならないという予感が伴ったためだけではない。ようやく築き上げられた裁判官との信頼関係が断ち切れれば、筆者はその後、誰に向かって、何を訴えれば良いのか分からなかったためでもある。

実際、一審判決言い渡し後、賠償金を取立てるためには、筆者は自ら被告に接触する以外に方法がないという状況に置かれた。

これはまさに地獄のような状態への逆戻りであったと言える。だが、その状態にも二審を前に、いよいよ新たな体制が組まれ、書面の送り先も決まり、手続きが開始してから、終止符が打たれた。

筆者には、自分の主張をこれから誰に向けて提示すべきかが見えて来たので、ようやく自分の陥れられていた恐るべき密室状態に、風穴を開けることができたのである。

そこから、脱出口が見えて来た。筆者は、もうこれ以上、取り合う価値のない被告らのごたく(控訴審では被控訴人だが、あえて被告としておく)に注意を向けたり、彼らにお伺いを立てたり、彼らに眼差しを注いだりしなくて良いことが分かった。

見るべき人を見、掴むべき目的を見失わないようにしなければならない。

筆者はまだ二審を担当する3名の裁判官に会ったこともないが、全身全霊のSOSと共に、この人々のもとに駆けこまねばならない。そして、わき目も降らず、彼らの与えてくれる判決をつかみ取り、それを抱えたまま、まっしぐらに前に走り、二度と絶対に被告らの方を振り返ってはいけないし、彼らに発言の機会を与えてもならないということを理解した。

まだ審理が始まってもいないうちから、それが分かった。被告らを振り切り、なおかつ、彼らを合法的に二度と追って来られない場所へ追いやらねばならないのだと。モーセの率いる民とエジプト軍が、紅海で隔てられたようなエクソダスである。

それが明白に分かった時、紛争はまだ続いているが、同時に終わっていること、これを終わらせるのは、筆者自身の意思と決断によることも分かった。

そういうわけで、本日、筆者の前には、二つの手続きが目の前に置かれていた。命につながる手続きと、死につながる手続きとである。死につながる手続きとは、筆者が被告の意思を問うもので、この手続きは、筆者を再び牢獄へ連れ戻そうと、残酷な本性を発揮して、筆者を思い切り打ちのめし、痛めつけた。だが、筆者は獄屋の刑吏の手から逃れるように、そこから逃げ出し、命につながる手続きを掴んだ。

死につながる手続きは、あらん限りの力で、筆者の前進を妨げようとしたが、命につながる手続きは、すべてぎりぎりのところで予定通り達成された。

夜になって、高裁に宛てて申請書を出すために、郵便局の夜間受付窓口へ走った。右折車線に並ぶために車線変更しようとしたが、入れてもらえなかったので、仕方がなく直進し、Uターンして左折すると、筆者を入れてくれなかった行列がまだ停車しているうちに、目的の道へ進むことができた。

こういうものなのだなと思った。これ以上、開かない扉を叩き続けてはならない。遅々として進まない行列に入れてもらおうとしてはいけない。むしろ、遠回りに見えても、青信号に向かってまっすぐ走りなさい。その方がはるかに早く目的地に着けるだろう。

そういうわけで、筆者は、一見、遠回りに見えても、被告の意思を問わず、各種の手続きを次々と実施することにしたのである。

これが命へつながる手続きである。その手続きには、誰一人、反対する者もなければ、滞らせる者もなかった。筆者は時刻ぎりぎりで駆け回っていたが、何もかもが予定通りに達成された。それを見たとき、改めて、これがゴーサインで――神の御思いは、きっとここにあるのだろうという気がした。

筆者の脳裏に、以下の詩編の御言葉が思い起こされる。

特定の人間に向けるには、あまりに残酷すぎるように思われるダビデの言葉である。多くの信者たちは、この御言葉を読んで、さすがのダビデも、私怨には打ち勝てなかったとか、悔しさがにじみ出ている――などと思うかも知れない。これはダビデの神へ向けた愚痴だと言う人もあるかも知れない。

だが、筆者はそうは思わない。これはダビデが聖徒らの代表として、霊的な敵に向けたふさわしい宣告なのである。

聖書には、サタンに対する厳しい裁きの宣告は、あちこちで語られているが、それはあくまで神のなさるわざであり、信仰者個人が、ここまで容赦のない宣告を敵に向けた箇所は、聖書の他の場所では、そうあまり多くは見られない。

だが、筆者は、これは比喩でなく、暗闇の勢力に真実、発せられねばならない当然の宣告であることを思う。

人々は以下の詩編を「呪いの言葉」と理解するかも知れないが、ダビデは、ここで、敵の発した呪いの言葉を、敵に向かって返しているだけである。

ここでダビデは、彼を絶え間なく悩ませ、神と聖徒らに敵対する者たちに、太刀打ちできない敵対者が起こされるように、彼らが裁きによって罪に定められ、祈りが聞かれないようにと願っている。

さらに、彼らの地位が取り上げられ、家が取り上げられて、彼らのすべての財産が債権者に取り上げられ、働いても、働いても、その実りはすべて他人のものとなり、家族が路頭に迷い、極貧の状態に落ち込み、子孫が絶え果て、ついには地上から彼らの名が消し去られるように、と願っている。

すさまじい宣告に聞こえるかも知れないが、筆者は、これは何ら行き過ぎた宣告でもなく、不適切な内容でもなく、ただ単に峻厳な霊的事実を告げたものに過ぎないと思う。

これは暗闇の勢力に対する極めて妥当な宣告なのだということが、今ならば、はっきりと分かる。

筆者が誰かの身の上にこのような事柄が成就することを望んだのではない。筆者は幾度も、幾度も、敵にチャンスを与えたにも関わらず、彼らが自ら悔い改めの機会を拒みながら、筆者の情けを嘲り、破滅へ向かって走っているのである。

そこで、筆者は彼らの発した呪いの言葉を、ダビデと同じように、彼ら自身に跳ね返すと同時に、慰め主なる方のもとへ向かって一目散に逃げ込む。

神よ、あなたはこの状況を御存じです。私たち聖徒らがどれほど侮られ、嘲られ、助けない状況に置かれて、踏みにじられて来たか、あなたはすべてご存じです。報復なさる方よ、公正で真実で人を偏りみない方よ、私はあなたに裁きを委ねます。どうか敵に対して、あなたの正しい宣告を、あなたの容赦のない裁きの宣告を発していただきたいのです。そして、あなたが私たちに与えて下さった救いの確かさと、あなたの愛の大きさを、今一度、私たちに見せていただきたいのです。

私たちは、あなたを信頼しています。どのような状況にあっても、あなたが正しい方であり、私たちを苦難の中に見捨てておかれない方であることを知っています。

* * *
 
「彼に対して逆らう者を置き
 彼の右には敵対者を断たせてください。
 裁かれて、神に逆らう者とされますように。
 祈っても、罪に定められますように。

 彼の生涯は短くされ
 地位は他人に取り上げられ
 子らはみなしごとなり
 妻はやもめとなるがよい。

 子らは放浪して物乞いをするがよい。
 廃墟となったその家を離れ
 助けを求め歩くがよい。

 彼のものは一切、債権者に奪われ
 働きの実りは他国人に略奪されるように。

 慈しみを示し続ける者もいなくなり
   みなしごとなった彼の子らを
 憐れむ者もなくなるように。

 子孫は断たれ
 次の代には彼らの名も消されるように。
 主が彼の父祖の悪をお忘れにならぬように。

 母の罪も消されることがないように。
 その悪と罪は常に主の御前にとどめられ
 その名は地上から断たれるように。

 彼は慈しみの業を行うことに心を留めず
 貧しく乏しい人々
 心の挫けた人々を死に追いやった。

 彼は呪うことを好んだのだから
 呪いは彼自身に返るように。

 祝福することを望まなかったのだから
 祝福は遠ざかるように。

 呪いを衣として身にまとうがよい。
 呪いが水のように彼のはらわたに
 油のように彼の骨に染み通るように。

 呪いが彼のまとう衣となり

 常に締める帯となるように。

 わたしに敵意を抱く者に対して
 わたしの魂をさいなもうと語る者に対して
 主はこのように報いられる。」(詩編109:6-20)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(28)―彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。

さて、筆者は訴訟を巡る一通りの手続きに、ぜひとも習熟したいと考えている。弁護士でも知らないか、もしくは弁護士でもなかなかできないような手続きであっても、全部、一通り自分で経験したいと願っている。

筆者はもともと弁護士という職業を好かない。だが、それでも、筆者はこれまでたくさんの文書を書いて来たことはあっても、弁護士に匹敵する訴訟の経験はないため、まずは基礎的な学習として、昨年に代理人なしで訴訟を起こし、これを通して訴訟手続きを知ろうとしたのであった。

訴訟を起こすまでの間に、ADRを経験していたので、それが十分な予行演習となってくれた。訴訟に踏み切るまでには、訴訟というもの自体に非常に大きな心理的抵抗があったが、実際に経験してみると、ADRの方がずっとプレッシャーが大きかったことが分かった。舞台としては訴訟の方がはるかにスケールが大きく、ADRと比べものにもならない大きな満足感があったと言えるだろう。

だが、訴訟を通して得られる満足感のことなど、語る人は少ないかも知れない。そして、筆者が語っている「満足感」というのは、普通の人々が考える判決内容、すなわち、賠償額や、認定された事実などだけを指すものではない。

何よりも、訴訟は、裁判官との付き合いも長くなり、1、2回の審理で終了するADRに比べ、当事者とのリアルな関係を経験することができるため、人間観察の貴重な機会が与えられる。

期日を設定するための原告被告の巧妙な駆け引きや、書面の出し方、スケジュールに追われる裁判所関係者との良好な関係の築き方、もしくは、たとえ反感を買っても、断固として主張を述べなければならない時に、どう勇気を奮い起こして発言すべきか、口頭弁論で議論すべきか、書面で主張を戦わせるべきか、その他、様々な裏技のようなテクニックに至るまで、長く続く審理の間に、学習できることは無限にある。

筆者は、ADRの経験しかなかった頃は、とにかく紛争を早く終わらせるために、短期間に圧縮して書面を出し切ってしまうことが最善であるという考えを持っていた。1回か2回で審理が終わり、もう二度と会うこともない関係者にとっての読みやすさなど度外視である。だが、訴訟においては、書面の出し方が全く異なることが分かった。

訴訟は、初めから、非常に小さな事件を除いて、じっくり、ゆっくり時間をかけて当事者に向き合い、少しずつ、物事を明るみに出していくことになるため、短期間で圧縮して書面を出し切ったから早く終われるという結果には必ずしもならない。

そして、何よりも、訴訟で出される書面は、ただ紛争を有利に解決したいがために、自己の主張を一方的に述べるものではなく、要するに、裁判官に宛てたラブレターのようなものだということが、次第に分かって来た。

むろん、書面には、被告に対する反論、説得、非難、叱責、懇願、求釈明などの意味も込められることになるが、何よりも、裁判官の心を動かすことを目的として書かなければ、誰に何を訴えるために書いているのか、意味を失ってしまう。

そういう意味で、明らかに、書面は生きた人間に宛てた手紙のようである。論敵と激論を戦わせることにばかり目が行っていると、裁判官に判断を仰ぐという一番重要な目的を見失ってしまう危険があることも分かった。
  
そこで、書面の出し方(内容や形態)は、それが裁判官にどのように受け止められるかを最も重視して決めることになる。ADRではそのような配慮はそれほど大きくものを言うとは思われなかった。それは、長期に渡る紛争だからこそ、生まれる人間関係への配慮である。
 
また、一見、書面を短期間で出し切り、紛争が早期に解決する方が、人間にとっては利便性が高い解決策に見えるかも知れないが、時間をかけて主張を争うことにより、物事が非常に深いレベルまで明らかにされ、その結果として、心に深い満足を得られることが分かった。
 
筆者は今回、訴訟の他に、強制執行や、間接強制の手続きも学ぶことができ、いわば、無からお金を作って行く方法を学んでいると言える。

これは知れば知るほど実に面白い手続きだと思わざるを得ない。なぜなら、学術論文はどれほどの分量を執筆しても、それ自体はお金にならず、著書として売り出すでもしない限り、利益には結びつかないが、訴訟手続きにおいては、自ら執筆する一文一文が、まさに請求の根拠となって行くからである。

こんな風に、文章が請求に直結するという分野を、筆者は訴訟以外では見たことがほとんどなかった。そして、訴訟においては、様々な権利侵害の事実の有無が争われ、幾分か抽象論も展開されるが、判決確定後は(仮執行も含め)、判決をいかにして実際に金銭に変えるかという「命令」の「実体化」とでも言うべきプロセスが手続きのメインとなる。これが訴訟につきものの、もう一つの顔としての各種の強制執行の手続きである。
 
今回は強制執行と供託から配当までの流れを理解したので、この分野で、筆者はまだ経験していないものは動産執行、不動産執行の手続きである。

筆者が見たところ、今の段階では、当ブログを巡る紛争のスケールは、賠償額の大きさから判断しても、不動産執行に値するものではない。せいぜい全店照会をして口座を特定して強制執行に及ぶか、勤務先を特定し、給与の差押に及ぶ程度のものだ。

だが、筆者の心には、実はこの先、もっと大きなスケールの差押をしてみたいという願いがかねてよりある。そして、やはりそのスケールの大きな差押の最たるものは、不動産執行でないだろうかという気がしている。

この事件で、そういうことが将来的に起きるのかどうかは知らないが、いつか必ず、その過程を学ぶことになるだろうと、筆者は前々から心に確信している。小さな元手で、最大限のものを獲得する、言葉によって、最大限の実体をつかみ取る、そのための方法がこれなのである。司法制度以外の場所では、言葉を用いた主張を駆使して、最終的にこのような結果を勝ち取る手続きはまず存在しないだろう。

不動産の話はさておき、当ブログを巡る事件は、筆者にとって、まさに筆の力を使って、無から有を生み出すための摩訶不思議な世界に足を踏み入れるための、うってつけの学習に相当した。これはあらゆる点で、筆者の望みに沿っていた。

訴訟を起こすまで、当ブログは完全に無料ですべてを筆者のコストとして執筆されるものでしかなかった。このブログによって何かの権利を獲得するとか、利益を得るとか、もしくは損害の補てんを得るといった考えは、筆者には全くなかった。
 
ところが、そのブログが、人生で大きな紛争の舞台となるだけでなく、権利侵害の事実を通して、金銭的賠償を得る根拠となった。これは筆者が当初全く意図してさえいなかったブログの全く別の効果というか、威力のようなものである。

当ブログを巡る事件は、そのスケールが、長い時間をかけて、実に小さなものから、実に巨大なものへと、雪だるま式に拡大しつつあるところも、実に不思議である。

そもそも、事の発端はからし種のような紛争でしかなく、始まりはただ1件の筆者が投稿したコメントであった。

2009年に筆者が杉本に依頼した1件のコメントの削除を、杉本がすんなりと聞き入れて、これを削除していれば、このような訴訟が起きることは絶対になかった。

この1件のコメントを削除するとかしないとかいった問題は、その当時、実に些細な事柄でしかなかったように見えた。にも関わらず、それが年々、より大きな紛争に発展し、ここまでのインパクトを持つものとなったのである。

それでも、筆者が昨年、杉本に調停を申し入れた際には、杉本が投稿していた明白な権利侵害の記事は、まだごくわずかに2、3本程度でしかなかった。
 
この時点で、杉本がこれらの記事を速やかに削除して、微々たる賠償金を支払っていれば、事件は速やかに終わっていたであろう。だが、民事調停での和解は困難となり、筆者が訴訟に転じると予告すると同期に、杉本は20本以上のあからさまな筆者に対する名誉毀損の記事を投稿、まさに訴訟にふさわしいスケールの権利侵害が生じ、賠償額があっという間に膨らんだのである。

今また筆者が一審判決で命じられた賠償金を杉本に供託で支払うよう求めたところ、杉本がこれを拒否する回答を寄越した。このことは、二審に大きく影響するだろうと筆者は見ている。そもそも一審判決に従わない人間が、控訴してみたところで、印象は極めて悪く、裁判官がこれを合理的な訴えとみなすことはないと筆者は思わずにいられない。

だが、それ以上に、杉本に対する賠償金の取立がこれほど困難を伴うことが一審で分かってしまうと、二審でも、裁判所による調査嘱託等の方法を用いて、予め勤務先を特定するなどして、二審判決を実現に移すための布石を打つことが認められる可能性が高まる。

従って、探偵その他を使って勤務先を特定するのが得策でない場合であっても、どんなに遅くとも、二審の途中で、そうした事情は判明すると考えられるのだ。さらに、来年には民事執行法の改正が予定されており、債権者がある程度、債務者の勤務先や口座情報を特定できるようになる。

記事「【民事執行法 改正見込】相手の口座や勤務先不明で諦めていた養育費が取立てしやすくなります」を参照。

これによると、来年4~5月あたりに民事執行法が改正されて、「第三者からの情報取得手続」という制度が新設されて、債権者が裁判所を通して市町村や年金事務所に照会をして、債務者の勤務先を調べられるようになるという。また、裁判所から銀行の本店に照会をして、債務者の銀行口座や預金残高等まで把握できるようになるのだという。

むろん、こうした手続きはすべての訴訟に適用されるわけではなく、また、これらの手続きは、誰もに100%結果を出せると保障するわけではないにせよ、賠償金の踏み倒しを許さないための大きな進歩となることは間違いなく、その改正が間近に迫っているのだ。
 
そういう意味でも、当ブログを巡る事件は、まさに学習にはうってつけの機会である。このように、筆者はこの紛争を聖書に基づくキリスト教の理念を巡る争いであると考えているが、それだけでなく、訴訟という一連の手続きに習熟するためにも、実に良い学習の機会なのである。

なぜこのような学習の機会が与えられているのかは知らないが、何か深い意味があるのだと筆者は考えている。
 
筆者から見れば、杉本がたった1件のコメント削除を拒んだのを機に、筆者に対しておびただしい呪いの言葉のような権利侵害の記事を投稿した結果、ついには職も失えば、家も失い、有罪判決を得るといった究極的な自滅的結果へ向かっているように見えるのは、実に驚くべきことである。

おそらく、こうした自滅行為は、賠償額の拡大とも密接に関連しているものと思う。だから、おそらく今、一審判決にさえ従おうとしない杉本には、二審ではもっと支払いが困難な額が言い渡される可能性は否定できない。
 
一見すると、事件がただこじれにこじれているだけに見えるかも知れないが、筆者はこのような運びになっていることには深い意味があると感じており、そこから実に多くの学びを得て、論敵の脅しを粉砕する方法のみならず、受けた損失を具体的に取り返すための実効的な手段を着々と学び、手に入れている。
  
上記した通り、この事件は、たった1件のコメントを巡って始まったのであり、いつ終わってもおかしくない小競り合いのような内容であったのに、未だに究極的な結論へ向かって拡大し続けていることは、驚くべき事実である。こんな事件は、地上では、お目にかかろうと思っても、そうそう滅多に起きることではないだろうと思う。

筆者自身も、杉本が悲劇的結末に至らなくて済むよう、猶予に猶予を重ねて来たというのに、杉本はわざわざその合理的選択肢をことごとく蹴って、自滅の方向へひた走っている。これぞ悪霊のなせるわざとしか言いようがない。それと共に、紛争の規模――受けた権利侵害のインパクトも、さらに拡大し続けて、筆者が最も厳しい措置を取ることさえ十分に想定されるような方向へ向かっているのである。
 
杉本は今、勤務先にしがみつき、筆者の取立が、精神的苦痛であり、心理的に追い詰められているなどと、不満をつらつらと書き連ねては、賠償金の支払いを拒んでいる。だが、筆者は杉本に電話番号を通知しておらず、杉本は筆者からの電話に全く出ておらず、通話も成立していない以上、杉本が、筆者の電話による取立の「権利侵害」を主張できる証拠はどこにもない。

非通知の電話がただかかって来たというだけでは、通話記録も出せず、迷惑電話も主張できない。なぜ着信音が鳴らないようにするなど、自分でそれなりの対策を講じなかったのですか、と首をかしげられるだけであろう。

筆者から見ると、杉本は絶えず雨漏りがし、隙間風が吹く家で、修理もせずに、我慢し続けながらその家に住んでいる住人のようなものである。やたら文句ばかり言って、すべての負の出来事を回りのせいにして、自分以外の人ばかりを責め続けて生きているせいで、自分で取るべき対策が何一つ見えず、自分で自分を守るための工夫が全くできないまま、今に至っているのである。

だから、杉本が職場が大切と、仕事にしがみついているのも、自分のためではなく、何が人生で一番大切であるかが分からないために、人に自分を認められるという二義的な満足を最優先して生きているからであるとしか思えない。おそらく、そうして何が本質的に重要であるかを根本的にはき違えているせいで、この先、健康も職場と一緒に失いかねない危うさを非常に感じるのである。

目先の利益にしがみつくと、こういう本末転倒な結果になるのだ。職場を守るためにも、本来は、一審判決に速やかに従うべきである。健康を守るためにも、早く賠償金を支払うべきである。職場が駄目になっても、健康が駄目になっても、どちらもいけないのだから、二つとも守るためには、まず判決に従うことがベストである。

ところが、杉本は最も優先すべき事柄を後回しにして、二義的な利益だけを守ろうとすがりついているから、結局、それらはすべて失われて行くことになるのである。

だが、筆者は、早期に取立を終わりにすることで得られる利益もさることながら、かえって、これを機に、一通りの強制執行をみんな実行してみるのも悪くないと考えている。

何しろ、そんなことをやろう、やっても構わないと思う悪質な相手には、まずお目にかかれない。普通の人たちを相手に、そこまでのことをしようとは、筆者もさすがに思わない。だが、このような貴重な機会はまたとない人生経験である。何のために役立つのかは知らないが、今、できる限りの学習を積んでおくことは悪くない。
 
筆者は再三に渡り、杉本にとってダメージの少ない方法を提案して来たにも関わらず、向こうがそれをことごとく拒んでいるわけだから、筆者がより厳しい、いわば、最後の手段に出たとしても、そうせざるを得ないだけの事情があったことは、誰でも分かってくれるはずだ。もはや非難する者はあるまい。

* * *
 
さて、杉本が筆者に供託を断って来て後、ただちに村上密がまたしても愚かかつ的外れな記事を投稿した。そして、村上が記事を投稿すると、間髪入れずに、杉本が当ブログを訪問して、「マーキング」していく。こうした現象が、彼らの間では、もはやお決まりのパターンと化しているのだが、そういうところを見ても、二人の間の悪の連帯の強さを筆者は感じざるを得ない。

さて、村上の記事の何がおかしいのか、どれほど多くの間違いがあるかを見ておこう。

名前はいつか分かる


「委任者と代理人との関係は、委任者ができないことを代理人に委任するわけだが、代理人は委任者からの情報が十分でないと解決に持っていけない。今まで解決に時間がかかったのは、委任者が名前を明かさないで解決してほしいとの依頼だ。その場合は、取り組む中で別の問題が浮上してきて、別の被害者が委任者となって問題解決に至るケースがあった。基本は委任者は実名で委任状を出し、相手が代理人だとわかるように委任状を見せるように要求された時、その書面を見せるわけである。警察でも実名で訴えなければ警察は訴えを扱ってはくれない。警察に実名を教えてほしいと言っても警察は伝えることはない。しかし、裁判では公開されているので、知ろうとしたい場合はだれでも知ることができる。芸能人が裁判で被害を訴えた。芸名で訴えるわけではない。芸能人が実名を出したくなくても、民事訴訟では原告は名前を出さずに訴えることはできない。それで、裁判に提出された書面を見れば実名はわかる。裁判に出た名前は公にできる。なぜなら、裁判は公開されているからだ。裁判で訴える場合は、匿名や芸名やハンドルネームで名前を隠すことはできない。ただし住所を伏せることはできる。弁護士事務所宛にしておけばよい。」

村上はこの記事で無知をさらけ出している。

まず「警察でも実名で訴えなければ警察は訴えを扱ってはくれない。」との一文だが、これは告訴人についての話なのか、被告訴人についての話なのか、その違いさえ明らかにされていない。

これが被告訴人を想定しているとしよう。
 
被告訴人の名前は明らかにせずとも訴えられる。たとえば、掲示板の投稿者について、人物が特定されていないからと言って、告訴状が出せないということはない。氏名住所不詳のコメント投稿者相手でも、十分に告訴状は出せる。

さらに、では、被告訴人をペンネームで訴えることができないのかと言えば、それもない。むしろ、警察は実名を特定して誰かを訴えることには、常にその相手から虚偽告訴罪を主張されるリスクが伴うため、できれば氏名を特定せずに訴えることはできないかと最初に勧めて来る場合が多いであろう。このように、刑事事件においては、実名を特定せずに誰かを訴えるということは、往々にして行われている。

次に、村上は書いている、「芸能人が実名を出したくなくても、民事訴訟では原告は名前を出さずに訴えることはできない。」これも間違いである。訴訟は、どうしても名前を出せない事情がある場合には、原告番号で提起することも可能なのだ。実際に、ハンセン病の絶対隔離政策による人権侵害を巡る訴訟や、薬害エイズ訴訟などにおいても、個人の病歴を明らかにすることが望ましくない場合には、原告番号による訴訟が起こされている。

さらに、村上は別の間違いも犯している。「裁判に出た名前は公にできる。なぜなら、裁判は公開されているからだ。」これも大きな間違いである。実際に判例集などを見てみれば良い。ほとんどの判例集において、一般人の原告や、被告の名前は、XとかYなどに置き換えられている。それは個人の氏名などは本人の意に反して公表されることが望ましくないプライバシー情報に当たるからである。

筆者が杉本相手に一審で主張した中でも、電話帳ですでに公開されている氏名や住所をインターネットに公開することが許されるかどうかを争った裁判例を引き合いに出した。その事件で下された判決は、電話帳に記載された個人情報も、ネットに無断で掲載すれば、プライバシー権の侵害に当たるというものであった。たとえば、以下のQ&Aを見て見れば良い。

弁護士ドットコム「民事裁判の内容をネット上の書き込みしていい?

このQ&Aでは、自分が被告とされた訴訟の内容をブログに公開しても良いかを尋ねる質問者に対し、弁護士Aは、原告の実名を出さなくても、誰のことかわかるようであれば、ネット上の公開は避けたほうがよろしいでしょう。公益的な必要性があるのであれば別ですが、ネット上の公開は慎んだほうがよろしいでしょう。」と回答している。

弁護士(比護望氏)は公開の法廷で傍聴した者に知れること、内容と、ネットで不特定多数に、書面そのものの内容が知れるのでは、格段の相違があると思いますので、ネットの場合には、名誉棄損となるおそれがあると思われます。 と回答している。

どちらも、訴訟が公開されているからと言って、訴訟に提出された書面をネット上に公開することは、何らかの権利侵害を発生させる恐れがあるため、全くお勧めできないとの回答で一致している。
 
さらに、裁判の場であれば何を主張しても良いかと言えば、決してそうではなく、訴訟における主張であっても、名誉毀損の余地が生じ得ることも示されている。もともと訴訟においてさえ、名誉毀損に相当するかも知れない準備書面の表現を、ネット上に公開したりすれば、ほぼ間違いなく権利侵害が成立することになるだろう。
  
上記弁護士が、「東京地裁平成22・7・20」の判例を引用して、次のように示していることからも分かる通り、過去の裁判例においても、訴訟において提出された書面は、一般に、ごく限られた範囲にしか伝播しないものと想定されており、インターネットなど不特定多数の人々が閲覧する場所に掲載される文書とは、初めから性質が異なる表現行為と理解されている。
 
「(4) そこで,損害額について検討するに,民事訴訟の準備書面への記載は,広く一般社会に流布することを目的としてされた表現行為ではなく,民事訴訟が公開の法廷で行われ,記録の閲覧が可能であるとしても,特に社会の注目を浴びていない通常の民事訴訟においては,法廷における主張活動の内容が広く一般に伝播することは現実には考え難い場合が多い。そして,C訴訟が社会的関心を浴びていたと認めるに足りる証拠はなく,本件記載1の内容について,広く一般に伝播したとの事実も本件証拠からは認められない。これに,本件準備書面が提出・陳述されたことにより,原告の社会的評価が低下した具体的程度についての主張立証がされていないこと等に照らすと,原告の損害額は3万円と認めるのが相当である。」

従って、こうした事実を踏まえず、村上密の主張を鵜呑みにした読者は、大変な目に遭わされることになる。裁判の記録だから、一般公開しても構わないと考え、当事者の実名、プライバシー権に抵触するような内容を大々的にネットに掲載するなどしていれば、当然ながら、様々な権利侵害に問われる恐れが生じる。

訴訟に提出される準備書面等は、裁判という枠組みの中で公開されているに過ぎず、それをインターネットで掲載することは全く別の話なのである。

さらに、村上が「ただし住所を伏せることはできる。弁護士事務所宛にしておけばよい。」と書いていることも、正確には間違いである。住所秘匿の上申を行った上で、弁護士を介さず、本人訴訟を起こすことも、十分に可能である。その場合は、弁護士事務所経由の送達ではなく、裁判所経由で書面を送達する。裁判所によっては、原則として裁判所経由の送達を認めない所もあるが、住所秘匿の措置が取られている場合には、当事者間で直接的な書面のやり取りは行えないため、裁判所を経由して書面が送達されることになる。

この他にも、書こうと思えば、数々の防衛のテクニックが存在する。だが、今ここで書いておきたいのは、訴訟の制度やテクニックの詳細ではなく、村上密が書いていることが大嘘であるということだから、テクニックの話は脇に置いておこう。

村上密が筆者の著作者人格権を侵害した行為は、当ブログを巡る裁判で、筆者の個人情報を含む書面が公開されているから、権利侵害に当たらないという主張によっては否定されない。また、村上密が、唐沢治の陳述書と題して、筆者がネット上に公開したことのない裁判資料(筆者のメール)をネットに公開した行為も、プライバシー権の侵害として追及されることを免れられない。唐沢の主張であっても、村上がそれを引用しながら、筆者が強要罪を犯しているかのように示唆する記述を行ったことも、名誉毀損もしくは侮辱等に問われる恐れを否定できない。

従って、村上の主張は、何から何まで大嘘であるから、読者はよくよくそれに騙されないよう注意しなければならない。このような主張を鵜呑みにして行動すれば、後々、自分が厳しい責任追及の矢面に立たされかねないためである。
 
筆者は、このように無知・無責任・愚かな「訴訟の専門家」に頼るくらいならば、多少の間違いはあってもいいから、何もかも自分で一から学んで、本人訴訟をすることを勧める。その方が、こんな人物を代理人に据えてさらなるリスクを背負いながら戦うことに比べ、はるかに多くの有益かつ貴重な学びと経験を、誰にも妨げられずに得ることができるであろう。

それにしても、筆者が何かを勧告する度に、破滅へ向かってひた走る杉本や村上といった人々には、まさに以下の御言葉が似合いである。この人々は、信仰の問題はおろか、この世の司法手続きについてさえ、愚かしい初歩的な多くの間違いを重ねつつ、一体、どこまで暴走を続けて行くつもりであろうか。見ものである。

「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
 見るには見るが、決して認めない。
 この民の心は鈍り、
 耳は遠くなり、
 目は閉じてしまった。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
 耳で聞くことなく、
 心で理解せず、悔い改めない。
 わたしは彼らをいやさない。」(マタイ13:14-15)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(27)―わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
 わたしの道はあなたたちの道と異なると
 主は言われる。 
   
  
天が地を高く超えているように
 わたしの道は、あなたたちの道を
 わたしの思いは
 あなたたちの思いを、高く超えている。

  
雨も雪も、ひとたび天から降れば
 むなしく天に戻ることはない。
 それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
 種蒔く人には種を与え
 食べる人には糧を与える。

  
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
 むなしくは、わたしのもとに戻らない。
 それはわたしの望むことを成し遂げ
 わたしが与えた使命を必ず果たす。

   
あなたたちは喜び祝いながら出で立ち
 平和のうちに導かれて行く。
 山と丘はあなたたちを迎え
 歓声をあげて喜び歌い
 野の木々も、手をたたく。

 茨に代わって糸杉が
 おどろに代わってミルトスが生える。
 これは、主に対する記念となり、しるしとなる。
 それはとこしえに消し去られることがない。 」(イザヤ55:8-13)

以上の聖句は、筆者の最も好きなものの一つで、ジョージ・ミュラーの椅子の話を思い起こさせる。神の御言葉は一つとしてむなしく地に落ちることはない。言葉は、約束であり、実体と一つなのだ。

筆者は、自分のための約束を握りしめ、それが空手形ではないことを確信している。そして、その確信が、欺きと嘲りだけによって報いられることなど、決してありはしないと確信している。

もしも地上の判決が、守らなくても良いものであるとすれば、法には意味がないことになる。法などあってもなくても、やりたい放題のことを行った者が勝ち、責任追及されても、責任が取れない者が、最も得をすることになる。

もしもこの地上で、そのようなことが当然視されるならば、まして神の御言葉になど、世人は誰も耳を傾けないだろう。それは単に絵に描いた餅でしかなく、法がむなしいなら、言葉もむなしく、あらゆる掟を破って、己が欲望のままに行動し、他者を思う存分蹂躙し、人間性を辱めた者が勝つことになる。
 
まさかそんな結論が正しいわけがあるまい。そして、それこそ、人類が創造された当初から、悪魔と暗闇の勢力が絶え間なく行って来た悪事なのである。彼らは神の御言葉に背き、これを踏みにじって、自分たちには責任の取れない行為に及び、その結果として、地獄の火の池に投げ込まれる運命が定められた。

だが、神はキリストの十字架において、人類が悪魔と連帯責任で負わされたすべての債務を帳消しにして下さった。だとすれば、債務を抱えているのは、キリスト者ではなく、悪魔と暗闇の勢力の側である。従って、我々は彼らから債務を取り立て、彼らが我々に与えた損失を取り返さなければならない。

「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:14-16)

以上の御言葉の前半はすでに成就している。残るは後半である。暗闇の勢力のもろもろの支配と権威の恐怖と脅しによる武装を解除し、彼らを縛り上げて、キリストの凱旋の行進に加えて、公然とさらしものとして引いて行かねばならない。

* * *

さて、先日、杉本からは、職場を特定して取立を行うのは頼むから勘弁してもらいたい、という内容のメールが来たため、筆者は改めて今週中の供託を依頼しておいた。

裁判所への供託手続きは、手続きが完了してから、受け取るまでに1ヶ月近く(場合によってはもっと)時間がかかる。判決からすでに2ヶ月が経とうとしている。十分にリミットである。

筆者は、これが最後の温情措置であり、猶予であることを断った上で、杉本に宛てて、供託手続きの流れと、供託書および事情届の記入見本を送付しておいた。もしも彼が筆者の温情をこれ以上、悪用、あるいは無視するならば、この先、杉本にはもはや社会人としてやり直しができるチャンスは決してなくなるだろうことを断っておかねばならない。

筆者はこれ以上、侮られたいがためにこうした措置に及んでいるわけではないためである。

さらに、筆者は杉本に無意味な控訴も取り下げるよう呼びかけている。控訴審はもはや筆者と杉本との対決がメインになるのではない。そこで主要な争点は、村上による権利侵害である。筆者はこれ以上、杉本の怪文書のような泣き言の書面に煩わされて時間を失いたいとは願っていない。従って、杉本の口を封じることも、控訴理由書の主張の一つにせねばならない。

杉本は、本来ならば、一審で筆者に敗れた時点で、キリストが筆者を共に加えて下さった凱旋の行列に捕虜とされているはずである。それにも関わらず、杉本は未だべったりと村上の影に隠れることで、あたかも筆者に勝利したかのように自分に言い聞かせている。

そのような行為を続けるのであれば、筆者はまず村上に対する今後の見せしめの意味も込めて、杉本に対しては、徹底的に容赦のない法的手段に出ざるを得なくなるだろう。

今回、杉本の側から筆者の要求に応答もなく、支払いもないならば、この先は、今まで以上に情け容赦のない取立に及ぶことになるだけだ。勤務先の特定も、ほぼ不可避となるばかりか、採算度外視の動産差押の手続きなども、念頭に入れて動くことになろう。

時効になるまでには、まだ取立期間が十分に残されていることから、筆者はその間に、杉本が心を休める暇もないほど、ありとあらゆる手段を駆使して、徹底的な取立を日々、続行することになる。

いかに合法的な取立の範囲を超えないといえども、次は何が起きるのだろうかと、毎日、考えをめぐらしては、恐怖を感じざるを得ないほど、情け容赦のない取立を、絶え間なく続行することになる。今はそのようなことが起きる前の最後のチャンスである。
 
そのチャンスを杉本が棒に振るならば、もはや彼のために残された温情はない。むろん、二審でも、筆者は杉本の無責任な行為を強く非難し、賠償金を踏み倒そうとする杉本のメールもすべて書証として提出し、全面対決の姿勢を取りながら、掲示板の投稿等も含めて、厳しい責任追及を行って行くことになる。

さらに、刑事事件でも、有罪判決を勝ち取るために入念に主張を展開することとなるだろう。

筆者は、杉本がこの先ただちに供託の手続きをしたとしても、それが刑事事件の行く末に大きな影響を与えることはないだろうと考えている。刑事事件は、未来に向かって行くものではなく、すでに起きた事件について裁くものだからだ。杉本の書いた記事は、あまりにも分量が多い上、繰り返し、悪質な権利侵害が行われている。村上が不起訴になった事件とは、重さが違いすぎる。

そこで、筆者はこれが不起訴に終わるだろうなどとは全く考えていなが、さらに、杉本が賠償金を踏み倒したままの状態でいるならば、不起訴になる可能性など、さらに低くとどまり、このように社会的責任を負えない人間に対しては、処罰が残るのみとなるであろう。

おそらく、刑事事件については、筆者がどう考えるかではなく、行われた行為の重さに応じて、的確な判断が下されるであろうと思う。そして、事件はすでに筆者の手から離れつつあるのだ・・・。

だが、筆者がこのような記事を連続して投稿したことによって、今、ほんの少しずつだが、杉本のメールの調子の中に、そろそろ逃げおおせない地点に来たという自覚が見え隠れするようになった。

ヤギの会は、相変わらず、非常に丁寧に返信をしてくれている。本来、そのヤギの会の世話人をつとめていたくらいだから、杉本は、供託の手続きなどについては、すべて自力で調べ上げて、他人に教えてやれるくらいでなくてはならない。今、その作業を筆者が代行していることは、杉本にはやはり、世話人としての能力がないことをはっきりと物語っていると思う。

他人が自分に代わって苦労してくれるなら、それにすがって自分はどこまでも楽をしようとする杉本の性格は、およそ世話人という仕事には向かないと、筆者は考えている。おそらく、自己顕示と自己満足のためだけに、そうした仕事を求めたのであろう。

村上にも、唐沢にも、杉本にも、分かっていないのであろうが、リーダーとして人の上に立つためには、本来、他人のやらない仕事、避けて通りたい大変な作業を、人の何倍も引き受ける覚悟と能力がなければならない。晴れがましい舞台に立って、自分一人、注目を浴びることが、リーダーの役目ではない。他の人たちの負担を軽減するために、人の何倍も隠れた仕事を引き受け、自分よりも弱い者たちの心や生活の状態に気を配り、彼らを陰ながら支える能力が必要となる。それがないのでは、人の上に立つ資格が初めからないと言っても過言ではない。

他人にかしづかれ、もてはやされ、仕えられ、栄光を受け、注目される立場がリーダーなのではなく、最後まで契約の箱を担いでヨルダン川に立ち続ける人間が、指導者に最もふさわしいのだ。

さて、前から書いている通り、有罪となれば、間違いなく、杉本の社会福祉士の資格は剥奪されることとなる。今、杉本は勤務先の特定は嫌だと叫んでいるくらいだから、将来的にそうなる可能性の重さをまだ自覚していないのであろう。

しかし、筆者は、この先、杉本の自覚は少しずつ増して来るだろうと思う。

筆者という人間が、杉本の目に、以前のように不倶戴天の敵とは見えなくなり、自分と同じような人間の一人であることが分かるようになるに連れて、杉本は、これまで自分の行った行為の重さを自覚し、それを嫌悪するようになるのではないだろうかと思う。

筆者から怒りと憎しみと嫌悪ではなく、人としての健全な反応、健全な感情が返って来るのを見せられる度に、つまり、杉本が筆者に対して何をしようとも、筆者はそれによって心を汚染されないし、動かされることもないということが分かるに連れて、おそらく、杉本は自ら行って来た悪事に対して、向き合うことができないほどの自己嫌悪を感じるのではないかと思う。そういう瞬間がこの先、どこかの時点で来るのではないだろうか、と予想する。

* * *

さて、筆者はこの道で間違いないことを痛感している。ここまでやるかと呆れている人もいるであろうが、正しいことはきちんと主張して、最後まで貫き通さなくてはならない。どれほどの困難が伴おうとも、目的は貫徹するまであきらめてはならないのだ。

そして、目的を達するための方法論は、あくまで主張し続けることにこそある。

なぜ筆者がこのブログを書き続けているか、紛争を通して何を得ようとしているのか、その目的も、ここにあるのだ。判決文は、単なる紙切れでもなければ、空文句でもない。それと同じように、神の御言葉も、私たちの述べている証の言葉も、空文句ではない。

私たちは、神の姿を見ることはできないし、その声を聞くことも、その御体に手を触れることもできない。だが、たとえその存在を感覚によって確かめることができずとも、私たちは神からの紛れもない真実な約束を与えられている。

聖書66巻が、神が私たちのために与えられた判決文である。これは私たちが生まれるよりも前に、私たちの代わりに、キリストが人類の代表者として、原告となって悪魔を訴え、神の法廷において、悪魔と対峙して、悪魔を打ち破って、神の御手から直接受け取った勝訴判決であると言える。

私たちはその判決文から、日々、自分の糧を得て生きているのである。

御言葉は、物事を切り分ける剣であり、かつ、実体の伴う約束である。人間の言葉は、嘘が混じり、実体からかけ離れているとはいえ、本当は、あらゆる言葉には、必ず実体が伴うべきなのであり、それが言葉の本質なのである。
 
言葉と実体との関係は、キリスト(本体)とエクレシア(影)と同じだ。

私たち自身も、神の御言葉によって造られた被造物に過ぎず、影なる存在として、不確かさ、脆さ、儚さを負っている。しかし、どれほど私たちが不真実な存在であるとしても、私たちは、自分を生かす、永遠に変わらない、神の確かな約束に対して、「アーメン(その通りです)」と述べて、これに賛同・承認する民である。そこに、私たちの存在の確かさがある。

だから、与えられた命の約束を、決して手放してはならないし、あきらめてもならないのである。
 
そこで、一見、回り道のように見えるかも知れないが、これが最短コースであることを、筆者は疑わない。私たちは、キリストの復活の証し人であり、御言葉には、すべての障壁を打ち破って、約束されたことを実体化する力があることを知っている。

この御言葉を盾に、私たちは、何が正しいことであるか、何が神の喜ばれることであるか、何が正義であり、真実であるかを、公然と世に示し、聖なるものと俗なるものとの違いを世に示し、嘘偽りを憎み、暴虐や搾取を憎み、神の喜ばれない全ての事柄を退け、神の約束を、地上に実現するまで、あきらめずに戦い抜くのである。

東洋思想のはびこるこの国で、物事を中途半端に曖昧なまま残しておこうとする人たちは多いであろう。手間暇をかけて何かを論証すること自体を、無駄な苦労だと考える人も、忌み嫌う人も多いであろう。しかし、筆者は、約束を中途であきらめて、空文句に終わらせたくはない。

だから、物事を極みまで証明し、正しい約束の言葉を成就する努力が、決して徒労には終わらないことを、筆者はきちんと世に示したいと考えている。それは自分自身のためだけではなく、多くの人々を失意と絶望に終わらせないためにも、貫徹せねばならない仕事である。

そういうわけで、物事をあるべき秩序に戻すためには、この紛争を最後まで戦い抜くことは、避けては通れない課題だと、筆者は確信している。本当ならば、自分と相性の良い裁判官のもとで、早期に判決を書いてもらい、払う労力を最小限度におさえて事件を終えるのが、一番、本人にとっては楽に見えるものと思う。

しかし、まだ光を当てなければならないものが残っているならば、事件を終えることはできないのだ。研究者が顕微鏡をのぞきながら、細胞の隅々にまで光を当てて、研究対象を検証して行くように、物事の細部に至るまで、光によって検証する作業が必要なのである。光が当てられたとき、初めて、物事の真の有様が明らかになり、闇が払われる。

筆者は、この戦いを貫徹することで、暗闇の勢力の要塞を打ち壊し、彼らが脅しと恐怖によって、人心を支配してきたその手法を粉砕し、無効化せねばならないと考えている。彼らが教会に対して用いて来た脅しには、もはや力がないこと、彼らは、すでに打ち破られて、キリストの凱旋の行列において、捕虜とされてさらしものにされていることを、はっきりと世に示さねばならないと思っている。

悪魔と暗闇の勢力こそ、御名の権威に従わなければならない存在であり、御名の権威は、すべての名にまさるものとして高く掲げられねばならないのだ。

地上の判決は、この世の裁判官の名において言い渡されるが、私たちはそれ以上の権威者であるキリストの御名において、暗闇の勢力に対峙し、その手下どもに向かって命令している。そこで、彼らは我々の命令に従わねばならない。

それは筆者が被告とした杉本にしても同様である。
 
そして、この原則は、来るべき判決においても、同様に適用されねばならない。もしも筆者が今から、すでに手にした判決を空文句に終わらせるなら、この先、この戦いを戦い続ける意味はどこにもなくなる。
 
だから、筆者は、杉本を判決に従わせねばならないのである。もしもそれでも、従わないというならば、徹底的な恐怖によって、否が応にも従わざるを得ない状況を作り出すしかない(むろん、筆者は合法的な手段しか用いないとはいえ)。

だが、できるなら、そうなる前に、自主的に判決に従ってもらいたいものである。そこで最後の猶予を与え、呼びかけをしている。

このようにして、私たちは、暗闇の勢力がこれまで恐怖によってキリスト者を脅しつけ、支配して来た手段を無効化して、彼らの武装を解除し、今度は、それを裏返しにして、彼らこそ、私たち(の証しする神の御言葉)によって罰せられる恐怖のために、キリスト者に従わざるを得ない状況を作り出さねばならないのである。

しかし、我々は人を恐怖によって死に至らしめる判決を握りしめているのではなく、人を命と平安によって生かす神の御言葉を掲げているのであるから、聖なる神殿を破壊する者がいれば、その者は死に至らしめられるであろうが、神殿を清め、支え、維持するために仕えるならば、その人も、宮と共に生きるだろうと告げておく。

だから、悪を捨てて立ち帰りなさい。筆者は、杉本の今後に注目している。彼が予想通り、自分で吐いた呪いの言葉の跳ね返りを全身に浴びて、ただ自滅するだけに終わるのか、それとも、違った道を見つけ、選ぶのか。

もしも杉本が筆者に投げつけた呪いの言葉を、自分で背負う道を選ぶなら、遅かれ早かれ、死しか彼には待っているものはないだろう。十字架がなければ、それは決して誰にも背負うことのできない途轍もない呪いだからである。筆者の温情になど期待しても無駄なことであり、提案が反故にされれば、筆者は最も厳しい措置を取るだけのことである。猶予も今週いっぱいと告げてある。

だが、筆者は、杉本(およびその他の被告となる人々)が、ただ単に、これまでにも明白に予測できたように、「破滅」という当然の結末に自ら落ち込んで終わるだけなのかどうかを、見極めようとしている。それ以外に、結論はないのかどうかを。

そもそもこれほどまでに長年に渡り、彼らが筆者に執拗に絡んで来た理由はどこにあるのか。彼らが掴もうとしていたものは何なのか。神が贖われたキリスト者である筆者に接近して来た彼らが、ただ筆者の信仰につまずき、同時に、キリストにつまずき、御言葉につまずき、教会につまずき、これらを恨んで、エクレシア殺し(教会の破壊)という恐るべき所業に手を染め、その霊的刈り取りとして、当然の自滅を刈り取るだけに終わるのか、それとも、我々キリスト者の生き様を通して、何か違うものを掴むのか――筆者は知りたいと考えているのだ。

彼らがあくまでエクレシアに対抗する道を選ぶなら、粉みじんに粉砕されて、跡形もなく消し去られて終わるだけである。

前回の記事で、我々キリスト者は地上のすべての事柄を裁く者、御使いたちをさえ裁く者であると述べた。記事末尾に挙げる詩編は、そのような権威を持つ神の子らが、「自分たちは神々だ」と思い上がって、不正な裁きを繰り広げた結果、サタンが焼き尽くされたように、没落して惨めな死を遂げるという宣告を告げたものと筆者は理解している。

そこで、我々は以下の御言葉を、思い出さなければならない。

愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。

あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。

今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。
「正しい人がやっと救われるのなら、
不信心な人や罪深い人はどうなるのか」
と言われている通りです。だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」(Ⅰペテロ4:12-19)

裁きは、神の家から始まる――今は神の教会が試されている時である。カルト被害者救済活動を支持する暴徒のような荒くれ者たちが登場して来て、諸教会を脅かすようになったことにも、それがよく表れている。それも、神の教会に対する裁きの一環なのである。だが、教会はそのような暴虐からも解放されて、あるべき状態が取り戻されねばならない。そのための方法は一つである。

悔い改めて、御言葉に立ち帰り、不正をやめ、嘘偽りを捨て、真実を尊び、虐げをやめ、苦しむ人、貧しい人を蔑むのをやめて、彼らを助け、神に逆らう人々の手から、正しい人を救い出し、神の正しい真実な裁きに立ち帰ることである。それがなければ、クリスチャンの名で呼ばれる人々にさえ、厳しい末路が待ち受けているだけである。そして、その裁きはすでに始まっている。我々は世人の前に自分たちが教訓とされないために、自分たちの姿を主の御前にかえりみなければならない。反カルト運動の終焉は、神の家に対する裁きの始まりに過ぎないためである。
  
「神は神聖な会議の中に立ち
 神々の間で裁きを行われる。

 「いつまであなたたちは不正に裁き
 神に逆らう者の味方をするのか。
 弱者や孤児のために裁きを行い
 苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
 弱い人、貧しい人を救い
 神に逆らう者の手から助け出せ。」

 彼らは知ろうとせず、理解せず
 闇の中を行き来する。
 地の基はことごとく揺らぐ。
 わたしは言った
 「あなたたちは神々なのか
 皆、いと高き方の子らなのか」と。
 しかし、あなたたちも人間として死ぬ。
 君侯のように、いっせいに没落する。

 神よ、立ち上がり、地を裁いてください。
 あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。」(詩編第82編)

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

メールの提供、写真、個人情報の提供を大いに歓迎します。特に、直近になされているコメントについても、投稿者の個人情報(所属教会、氏名、勤務先情報、連絡先)をご存じの方は、ぜひ詳細にお伝えくださいますよう。情報源を明かすことはありませんのでご安心下さい。県警ではなく、神奈川署ですのでお間違いなく。045-441-0110

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