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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

「イゼベルの霊」(異教的母性崇拝)に支配される「神の家の乗っ取り運動」としてのペンテコステ・カリスマ運動(4)

・神に疎外された者たちによる復讐の哲学としてのグノーシス主義

さて、本題に入る前に、先の記事にいくつか補足しておこう。

先の記事では、グノーシス主義における「父なる神」の概念は、本質的にフィクションであると述べた。グノーシス主義においては、「真の至高者」と呼ばれる最高位の神から、神的存在が流出し、その神的存在がさらに自分自身の似像を創造することで、様々なアイオーン(神々)が生まれるが、「真の至高者」自身は、神的存在を映し出すための物言わぬ「鏡」であって、誰も見ることのできない虚無の深淵であるとされる。

グノーシス主義の神話的プロットにおいては、「真の至高者」が、意志をもった主体として登場したり、被造物の世界に介入することはなく、「真の至高者」による被造物の創造も、主体的な創造行為というより、ただ自分自身の姿を鏡に似像として映したというだけの、かなり消極的で受動的なものである。

前の記事では、結局、「真の至高者」は、リアリティを持った存在ではなく、ただ被造物の存在に意義を与えるためだけに名目だけ作り出された擬制的概念で、本質的には、被造物の欲望を「鏡」のように映し出す偶像であり、「フィクション」なのだと述べた。

ちなみに、虚無の深淵に、水面に光が反射するようにして「神的存在の流出」が起きるというグノーシス主義の神話のくだりは、創世記の次の記述を彷彿とさせる。

はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。」(創世記1:1-4)

しかし、この創世記の記述を、グノーシス主義の神話的プロットと同様のものとみなすことはできない。なぜなら、この記述においては、神の霊があたかも「やみの深淵」に等しい存在であるとか、神の霊が水のおもてに自分自身を映し出すことによって「光」が生まれたなどとは決して書かれていないからだ。

また、創世記には、神が人を創造された際、主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」(創世記2:7)という記述がある。

神が人間に息を吹き入れることにより、人は生きた者となったという聖書の記述についても、グノーシス主義のプロットの中に類似したくだりが見られる。だが、聖書のこの記述とグノーシス主義の神話のプロットの間にも、あまりにも多大なる差異があるため、これも同じようにみなすことは決してできない。

グノーシス主義においては、人類は、ヒエラルキーを犯して「真の至高者」を知ろうとしたソフィアの過失によって生まれた悪神ヤルダバオートから生み出されたことになっている。繰り返すが、このヤルダバオートとは、グノーシス主義において、旧約聖書の神と同一視されている。

グノーシス主義文献の一つ、『ヨハネのアポクリュフォン』では、母ソフィアに捨てられて下界に転落したヤルダバオートは、自分のいる下界よりも上位にプレーローマ界があることを知らないまま、下界にさまざまな被造物を生み出し、自分だけが世界の創造主であると自己過信して、「私の他に神はいない。私は妬む神である。」と宣言する。

しかし、それを聞いたプレーローマ界の創造者であるバルベーロー(真の至高者から最初に生み出された女性人格であり、プレーローマ界を創造した神的存在)はその宣言をヤルダバオートの傲慢さの表れであるとみなして憤激し、「人間と人間の子が存在する」と言って、自分の姿を下界に映し出す。それを見たヤルダバオートは、初めて見た神の姿を自分のものにしようと、バルベーローを模して人間(アダム)の体を創造したという。

だが、体が造られただけでは、人間は立ち上がることができなかったので、プレーローマ界の神々は、ヤルダバオートに、アダムの口に「息(プネウマ)」を吹き込むようにそそのかした。「そそのかした」というのは、ヤルダバオートがアダムに吹き込んだ息は、母ソフィアに由来する霊であって、ヤルダバオート自身は、その「息」をアダムに吹き込む代わりに、自分自身はそれを失ってしまったからである。

ところで、このような神話のプロットには、それ自体、相当な無理があると言えよう。グノーシス主義の神話では、それぞれの神的存在の間にヒエラルキーがある。そこで、本来、ヤルダバオートによって創造された人類は、ヤルダバオートの似像となるのが当然であって、吹き込まれた息も、ヤルダバオートの霊であるはずであり、ヤルダバオートを飛び越えて、さらに上位の神の似像として造られるなど考えられない。

ところが、グノーシス主義は、バルベーローがヤルダバオートを出し抜いたことにより、人類は、ヤルダバオートの存在を飛び越えて、プレーローマ界の直接の創造者であるバルベーローの似像として創造されたのであって、その息も、ヤルダバオートを飛び越して、母ソフィアに由来するとしている。これはいかにバルベーローの意志のもとで行われたことになっているにせよ、グノーシス主義が、神的存在の間にヒエラルキーを定めておきながら、そのヒエラルキーを自ら壊すようなプロットを作ったことを意味する。

グノーシス主義においては、このように、自ら定めた秩序やヒエラルキーを自分で破壊するようなプロットが次々と展開される。第一に、ソフィアが、自分の分を超えて「至高者」を知ろうとしたことによりヒエラルキーを覆し、第二に、ソフィアの過失によって生まれたヤルダバオートが、自分こそ至高の存在であると宣言して、ヒエラルキーを犯し、さらに、人類がヤルダバオートを飛び超えて、さらに上位の神の似像として創造されることによって、ヒエラルキーが覆され、さらに、以下に示すように、アダムから最初に生まれた子供たちであるカインとアベルが悪しき種族となる一方で、カインとアベルよりも後に生まれたセツの種族が「生命の霊」を継承する善なる種族となって、ヒエラルキーが覆される。

グノーシス主義においては、「私は妬む神である。私の他に神はいない」というヤルダバオートの宣言だけが、あたかも許し難い傲慢のようにみなされているが、実際には、ソフィアもヒエラルキーを犯し、人類もヤルダバオートより優れた存在として創造されることにより、ヒエラルキーを犯しているのだが、それらのことが悪として非難されたり、罰せられることはない。
 
しかし、そういう不公平でナンセンスな解釈をすべて取り払って、ただ単純に物語のプロットだけに注目するならば、グノーシス主義の物語では、ただ延々と「秩序転覆」(大田氏の言葉によれば、「簒奪の模倣」)が繰り返されているだけであることが分かる。

要するに、自分よりも上位にあるはずの存在から、オリジナリティを盗むことによって、自分自身がその者になり代わり、その者の優れた特性を剽窃して、歪んだ模倣を行うという「秩序転覆」が延々と繰り返されているのがグノーシス主義の物語なのである。
 

「グノーシス主義の造物主であるヤルダバオートは、プレーローマ界の似像として可視的世界を創造しながらも、その原型であるプレーローマ界の存在を認知せず、「私の他に神はない」と、自らの至高者と唯一性を宣言する。彼は、神的な秩序のオリジナリティを、本当の至高者から、そしてプレーローマ界から奪い取ってしまうのである。ヤルダバオートによる創造行為は、ソフィアが不意に踏み出してしまった「簒奪の模倣」という行為を、全面的に展開したものと捕えることができるだろう。
(『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』大田俊著、春秋社、2009年、pp.104-105)

 
既述した通り、グノーシス主義においては、ヤルダバオートが創造した人間が、プレーローマ界の創造者であるバルベーローの似像として生み出され、ヤルダバート以上の存在となったことは、全く悪とはみなされない。
 
だが、人類の誕生が、ヤルダバオートが水面に映ったバルベーローの姿を「我が物にしよう(=盗もう)」と欲したことによって起きたことを考えれば、結局は、これも「簒奪の模倣」の結果でしかないのである。さらに、ヤルダバオートがバルベーローの似像を奪い取ろうとして生み出した人類の中にも、二種類の種族が現れ、アダムから先に生まれた「カインとアベル」の種族は、ヤルダバオートが「生命の霊」を真似て造りだした悪しき「模倣の霊」にとりつかれ、互いに憎み合い、殺し合うという「運命の鎖」の中に閉じ込められて生きるしかなくなる一方、アダムからカインとアベルの後に生まれた「セツの種族」が、プレーローマ界に由来する「善なる、憐れみに富む霊」である「生命の霊」を受けて、物質的欲望から解放されて崇高な人生を生きるのだという。
 

創造された人間の肉体には、バルベーローが人間を救済するために派遣した「生命の霊」が、あるいはヤルダバオートがそれに対抗するために、「生命の霊」を真似て造り出した「模倣の霊」が植えつけられる。そして、これらの指導的な霊の種類の違いによって人間たちは、「セツの種族」という祝福されるべき種族と、「カイン・アベルの種族」という呪われるべき種族に分かれ、相互に対立を繰り広げるようになる。」(同上、p.107)


 
ここで、カインとアベルの両方が、堕落した種族の呼び名とされているなどの、あまりにも聖書からかけ離れた荒唐無稽な呼称について非難することは脇において、プロットだけに注目して話を進めることにしよう。こうして、ソフィアから、ヤルダバオートへと受け継がれ、さらに人類にも受け継がれた「簒奪の模倣」という、グノーシス主義に特徴的なヒエラルキーの転覆願望は、人類にも悪しき種族を通じて受け継がれて、呪われた「運命の鎖」として延々と継承されて行く。その「模倣の霊」の悪なる本質は、ヒエラルキーを下へ下がれば下がるほど、争いや殺人といったますます醜い形で現れるようになっていることが分かる。

『ヨハネのアポクリュフォン』は、一方では、悪しき「模倣の霊」とは異なる「生命の霊」なるものがあるとして、その霊によって導かれる善良な「セツの種族」なる人類が存在すると主張し、そこに救済のようなものを見いだそうとするのだが、しかし、そのようなプロットにも、あまりにも無理があると言えよう。なぜなら、セツの種族も含めた人類全体が、ソフィアが至高者の像を盗み取るという「簒奪の模倣」をきっかけに生まれたのであり、ソフィアの過失によって誕生したヤルダバオートが、さらにバルベーローの像を盗むという「簒奪の模倣」を行った結果として誕生していることは明白だからである。そのような呪われた出自を持つ人類全体の中から、どうしてセツの種族だけが、「簒奪の模倣」とは無縁の、プレーローマ界に由来する善なる霊だけを持つ神聖かつ善良な存在であるとみなすことができるのだろうか。
 
我々クリスチャンの目から見れば、グノーシス主義の神話的プロットの中で、唯一、確かなリアリティとして存在しているのは、決して「生命の霊」とか「セツの種族」といった救済めいた概念ではないのである。むしろ、そうしたものは、グノーシス主義の物語のプロットの中で、延々と繰り返されている秩序転覆、ヒエラルキーの破壊、「簒奪の模倣」を正当化するための言い訳として、ソフィアの過ちを「修正」するために作り出された方便でしかないのである。

そのことは、「セツの種族」なる人類が、自分の本当の出自がプレーローマ界にあると気づくことによって、「母ソフィアの過ちを修正する」ことを最大の使命としている点を考えても納得がいく。「セツの種族」が目指しているのは、悪しき模倣の霊と手を切って、それと無縁の人生を送ることではなく、悪しき模倣の霊の生んだ産物の子孫として生まれた自分自身のルーツを、何とかして正当化することで、ソフィアから延々と人類に受け継がれているヒエラルキーの転覆を正当化することなのである。
 
結局、グノーシス主義の物語は、全体が、「簒奪の模倣」を正当化し、それを弁明するために作り出された物語なのだと言える。そこで、グノーシス主義とは何か、ということを一言で言い表すならば、「妬みに基づく剽窃を正当化する教えである」と結論づけることができるものと思う。

グノーシス主義は、旧約聖書の神を指すというヤルダバオートが「私は妬む神である」と宣言していることを、あたかも彼の愚かさや偏狭さや嫉妬深さの証拠であるかのように徹底的に侮蔑・嘲笑・非難するが、ところが、よくよくこの物語を見れば、実際には、妬みに駆られているのは、ヤルダバオートだけでなく、ソフィアの過失にせよ、人類の創造にせよ、グノーシス主義の物語全体が、創造主なる神に対する妬みによる「剽窃」と秩序転覆を延々と繰り返しながら、上位の神からオリジナリティを盗み、奪うことを正当化して出来上がっているとしか言えないのである。

このように、終わりなき秩序転覆が繰り返されていることに見る通り、グノーシス主義の教えは、誰かが自分よりも優れた他者を妬み、その他者からオリジナリティを盗むことで、自分がその者になり代わって、高貴な存在となり、その者の功績を倣して、歪んだ摸造としての「盗作」を生み出すという悪しき行為を言い訳し、助長するために作り出されたものなのである。

それだからこそ、この物語においては、本来であれば、オリジナリティを盗み取られて、最も憤慨して、立ち上がり、無法者の行為を罰せねばならないはずの「真の至高者」が、物言わぬ「鏡」や「虚無の深淵」と同一視されて、被造物の過失の責任を問うこともなく、最初から最後まで沈黙し続けているのである。

このことから、グノーシス主義においては、最高の存在であるはずの「父なる神」は、最初からリアリティを持たない、抜け殻のような存在に過ぎず、単なる名目だけのお飾り的な存在で、もともとオリジナリティが全くないのだと言えよう。

これまでの記事でも、「剽窃」や「贋作」や「盗作」といった概念が成立するのは、確固たるオリジナルが存在する場合だけだと述べて来たが、グノーシス主義における「至高者」は、それ自体が「鏡」であり、誰も見ることのできない深淵であるため、オリジナリティがないだけでなく、逆説的に、この「鏡」を通して、被造物が「至高者」の像を盗み取ることが可能となる。「至高者」であるはずの存在が、「鏡」とされることによって、被写体のように、「見られる対象」となってしまい、そこから「存在の流出」が起きるのである。しかも、その「至高者」は物言わぬ存在で、勝手に自身のオリジナリティを盗まれても、文句も言うことができない。

このような自己矛盾した筋書きは、グノーシス主義が、初めから「至高者の存在を盗み取る」ために生まれた物語であるからこそ、成立するのである。

さて、聖書においても、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18)という記述があるが、この記述の持つ意味は、グノーシス主義の主張とは全く異なる。

確かに、神を見た者はいない、という点では、聖書とグノーシス主義は共通点があるかも知れないが、しかし、聖書においては、神は独り子なるイエス・キリストを通して、ご自分を示されたのであり、クリスチャン一人一人はキリストを通して神を知ることが許されている。

ところが、グノーシス主義においては、神を見ることは誰にもできず、神を知る手段も被造物にはない。あるいは、独り子だけが神を見ることができるとしながらも、他の被造物には、独り子を通して神を知る道が閉ざされている。人類も、神を見ることはできず、神を見るためには、自分自身を見つめるしかない。このように、グノーシス主義の「父なる神」は最初から最後まで、あるかなきか分からない「フィクション」なのである。
 
だからこそ、グノーシス主義の神話のプロットにおいて、このように「神を知る」ことから疎外されている被造物には、神を知るために、結局、神を「盗み見る」しか手立てがないのである。
 
このように、グノーシス主義とは、「父なる神」を知ることから疎外された者たちが、不正な手段で、「父なる神」のオリジナリティを盗もうとすることを正当化するために作り出された教えであると言え、神の救いから除外されてしまった人々が、神から神であることを盗み取ることで自己正当化をはかるために作り出された教えなのである。

そして、そのような悪しき方法で自己正当化をはかったことの責任を問われないために、グノーシス主義は初めから、「父なる神」を物言わぬ鏡にしてしまっているのだとも言える。

とどのつまり、グノーシス主義の言う「父なる神」とは、結局、被造物の欲望を映し出す「鏡」なのであり、被造物の欲望の化身であり、偶像なのである。グノーシス主義者は自己の欲望を「神」とみなし、それを拝むことによって、自分は神と一体化しているかのように考え、実際には、拝んでいる神が、実体のないフィクションでしかなく、自分は神を知ることから疎外されているという事実を覆い隠しているのである。

以上のことを考えれば、真に「妬み」に支配されているのは、決してヤルダバオートだけではなく、グノーシス主義に登場するほぼすべての被造物、グノーシス主義の物語全体が、「父なる神」に対する妬みに基づいて作られたものである事実が見えて来よう。

このように、グノーシス主義の教えは、「神を知る」ことから疎外されている者たちが、自分たちには知ることのできない神を不正な方法で「盗み」、これを「模倣」して、自分自身を「神」とするために、聖書の父なる神に対する「妬み」によって作り出された偽りの教えなのである。


・神に疎外された者たちが、神のものを盗むために延々と繰り返す「簒奪の模倣」としてのペンテコステ・カリスマ運動

さて、以上のように考えると、グノーシス主義は「神に疎外された者たちが神を盗み取り、模倣することで、神に復讐する物語」であると言える。つまり、神を知りたいと願いながらも、神を知る道を閉ざされた者たちが、神から神であることを奪い、神を乗っ取り、自分自身が神になり代わって、復讐を果たすための教えなのだと言えよう。

そのような意味で、グノーシス主義とは、まさに悪魔によって直接息吹かれた思想であると言える。なぜなら、聖書において、悪魔は神によって創造された被造物であるにも関わらず、神に背いて、神のようになろうとしたがゆえに、反逆の罪に定められたからである。

グノーシス主義はソフィアの過失を悪とみなさず、彼女を罰しないことによって、聖書の神に背いて神以上の存在になろうとした悪魔の欲望を肯定しているのである。

以上の事を考えると、なぜペンテコステ・カリスマ運動に影響を受けた信徒らが、様々な教会や集会の中で、異常としか言えない行動に出るのかが理解できるようになる。

それは、ペンテコステ・カリスマ運動が、もともとキリスト教ではなく、グノーシス主義に由来するものであって、その中心にはグノーシス主義と同じ「簒奪の模倣」、すなわち、「乗っ取り」や「模倣」や「剽窃」の霊があるためなのである。
 
ペンテコステ・カリスマ運動の起源がグノーシス主義にあることについてはすでに幾度も論じて来たので、ここでは繰り返さず、今は具体例を見ることにしよう。

以下は、前にも説明した通り、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(神召キリスト教会)の信徒であった鵜川貴範・直子夫妻がDr.Lukeの率いる横浜の集会Kingdom Fellowship Church(KFC)を乗っ取った時に作成したサイトである。

このサイトの更新は、2013年9月で止まっており、さすがに鵜川の肉声を記録した音声メッセージはすでに削除されているようだが、サイト自体は現在も放置されたままである。


https://kingdomfellowship.webnode.jp/
図1 当時、Dr.Lukeを集会から追い出して鵜川夫妻が作成した偽サイト。ウォッチマン・ニーの「荒野に宴をもうけ」が発信されるなど、当時の公式サイトがかなり細部に至るまで模倣されている。だが、Dr.Lukeがこの偽サイトを今日に至るまで放置していることにも、同じほど深い闇がある。

 
鵜川夫妻がこれまでにも様々なコピーサイトを作っては放置して来た事実があることは、記事で説明したが、同夫妻が、他教団の信徒であったにも関わらず、「いずれはエクソダスするつもりである」などとうそぶき、所属を隠してKFCに潜入し、メッセンジャーとなってKFCの集会を乗っ取ったこともすでに述べた。

鵜川夫妻は、それによって「神のものを盗める」と考えたのだと見られる。つまり、同夫妻はDr.Lukeに憧れ、Dr.Lukeのわざを盗み、真似することによって、自分自身が神に近付けると考えたのであろう。

しかしながら、乗っ取られた方も乗っ取られた方であり、同じほど深い虚無の深淵であったと言える。本来ならば、以上のような真似をされれば、オリジナルの所有者が出て来て、偽サイトを駆逐するための措置を取るはずである。それだけでなく、大変な迷惑をこうむったとして、他にも様々な法的措置を取り、無法者への処罰を求めて当然である。しかし、Dr.Lukeはそれを今日まで全く行っていないのである。

つまり、オリジナルの所有者が、オリジナルの所有者たる権利を全く行使しておらず、するつもりもないのである。そもそも「贋作」や「剽窃」を主張できるのは、オリジナルが存在する場合のみであるという理屈に当てはめれば、これは「偽物」であり、「コピー」でありながら、同時に、偽物でもコピーでもないということになろう。

それは、KFCという団体そのものが、実のところ、乗っ取った側と同じ、虚無の深淵からなる実体のないフィクションでしかないからである。

乗っ取られた側も、乗っ取った側と本質的に同じであったからこそ、「オリジナル」の所有者が出て来て権利侵害を訴えることができないのである。

そのことは、Dr.Lukeのミニストリーがフィクションであるだけでなく、Dr.Lukeという人物も、フィクションであることをよく物語っている。これまでの記事で、牧師という存在がみな信徒らの欲望を体現するための偶像であり、フィクションであると述べたが、Dr.Lukeという人物も、それと同じように、信徒らの願望を投影して作りだされた実体のない架空の概念でしかないのである。

Dr.Lukeのミニストリーは、その時、その時で、全く互いに相容れない異なる教えを掲げながら、次々とその看板をすげかえて続いて来た。目玉として打ち出される教えが何であれ、それらはすべてが「借り物」の域を出ないものだったのである。

そのことは、Dr.Lukeが、上記のなりすましサイトにも見られるように、かなり長い間、ウォッチマン・ニーを看板として掲げていたにも関わらず、それも一時的な「借り物」に過ぎず、現在は全く違う教えを看板として中心に据えている様子からも分かる。

KFCのミニストリーは、このように、その時々で、様々な教えをうわべだけの飾りのようにちりばめ、混合しながら出来上がって来たものである。とはいえ、その母体となるものも、明らかに存在しており、それは、鵜川夫妻が属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と同じ、「異言」を伴う「聖霊のバプテスマ」を強調する聖霊派の教えである。

(Dr.LukeがKFCを創設する際にモデルとしたKingdom Feithを率いるColign Urquhartは英国のカリスマ運動に属するリーダーであり、1970年代には"When the Spirit Comes"『聖霊が降臨するとき』などの著書も記しており、そのミニストリーの有様を観察すれば、これが今日の日本のペンテコステ運動などの聖霊派のスタイルとほぼ同じであることが分かる。)
 
すなわち、KFCの土台をなすのは、その他にどれほど様々な教えを掲げていようと、あくまでアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と同じ「異言」を伴う「霊のバプテスマ」を強調する聖霊派の流れなのである。それだからこそ、Dr.Lukeはサンダー・シングなどを読むアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒が現れてこの異端の書を集会の中に持ち込もうとしても、それに反対することもなく、また、鵜川夫妻の本質的危険性を指摘されても気づくことがなかったのである。

それは、これらの聖霊派の信者らを導く「霊」が、Dr.Lukeを導く「霊」と本質的に同質だったためであろう。その他のどんな教本を読んでいるかなどの細かい差異は重要ではなく、彼らにとって重要だったのは、彼らを導く「霊」の共通性・同一性だったのである。

今日、Dr.Lukeが杉本徳久のような人物とも「遺恨を残すことは本意ではない」などと融和を唱え、村上密の活動にも異議を唱えなくなったことも、以上と同じ理由からである。この人々の思想の根底には、共通して聖霊派の教え、聖霊派の「霊」があるためなのである。そして、彼らがこれまで行って来たわざ、また、以下にも記す事柄を考慮すれば、聖霊派が強調する「霊」が、決して聖書における聖霊と同一でなく、キリストの御霊ではないことは明白である。
 
(ちなみに、Dr.Lukeは、筆者がまだカルト被害者救済活動の偽りをはっきりと知らなかった頃、筆者に向かって、杉本徳久を導く霊が、「キリストの御霊ではないと思いますよ」と、忠告して来たことがあった。そこで、筆者は、最初からDr.Lukeを導く霊が、杉本や村上を導く霊(ペンテコステ運動の霊)と完全に同一だったと言うつもりはない。おそらく、それとは異なる信仰のあり方の模索も存在していたのであろう。だが、Dr.Lukeの言動は常に二重性を帯びており、彼のミニストリーには互いに矛盾する様々な基盤が同居していたのであり、時と共に偽善性が深まった結果、最終的には、聖霊派の偽りの霊が、Dr.Lukeとそのミニストリーを占拠したのだと言えよう。)
 
もしも今日、鵜川貴範のメッセージが残っていれば、彼がその中で、単なる真似事や作り事とは思えないほどに「流暢な異言」を語っていた様子が分かるはずである。それほど流暢な「異言」は、実際に、聖霊派を知っている筆者から見ても、極めて特異なものであったと言える。

Dr.Lukeは、鵜川夫妻が登場する以前から、集会の中で異言を語ることに全く反対の態度を取っておらず、「霊の歌」などと称して、集会中に信徒が異言を語り続けることを奨励していたのであるから、聖霊派の唱える「霊のバプテスマ」の信憑性を疑ったり、鵜川の異言の出所に疑いを持つようなことは思ってもみなかったと考えられる。

KFCは、このように聖霊派の教えを土台として、その上に、アンドリュー・マーレー、オースチンスパークス、ジェシー・ペンルイス、ウォッチマン・ニーなどの霊的先人の教えをつけ加え、これらを総合的に混ぜ合わせて集会を作り出していた。

だが、本来、ペンテコステ・カリスマ運動のような聖霊派は、決して以上の霊的先人のメッセージと一致するものではない。両者は一見、キリストの御霊を強調している点で、同じような「霊の流れ」にある「霊的な教え」のように見えるかも知れないが、この二つの潮流の源流は全く異なるものである。

なぜなら、アンドリュー・マーレーにせよ、オースチンスパークスにせよ、ウォッチマン・ニーにせよ、その中心には常にキリストの十字架があるのに対し、ペンテコステ・カリスマ運動の強調する「霊」の教えの中心には、キリストの十字架が欠けているからである。
 
手束正昭氏の著書を通して、当ブログでもすでに見て来たように、聖霊派において常に強調される「聖霊のバプテスマ」とは、キリストを証するものではなく、人間自身をより高次の次元の存在へと引き上げる霊であり、人類の堕落したアダムの命に霊的死をもたらす要素を全く持たない。

そのことは、手束氏の述べている養子論的キリスト論をよく読めば、明らかになる。同氏の言う「聖霊」は、堕落した人間に過ぎないアダムの命によって生きる人類を、アセンションと同じように、何らかの方法で「改良」することにより、より高次の存在へ高めることによって、贖われていない者をあたかも贖われた者のように、さらには「神のように」見せかけ、神ではなく、人間自身に栄光を帰するため偽りの霊なのである。

その「霊」の偽りは、その「霊」が何を証するかという特徴によって顕著に見分けられる。聖霊派の信者が常に「聖霊」として強調する霊は、信者にさかんに自分自身を誇示させることはあっても、キリストご自身に栄光を帰さず、キリストが十字架で死を経られ、復活されたことを証ししない。

ジョン・R・ハイムズ著『異言の正体』には、聖霊派の強調する「異言」を伴う「聖霊のバプテスマ」の非聖書性・危険について詳しく解説されているが、その危険性をいくつか部分的に抜粋しよう。
 

それこそ異言の危険性です。異言を語る人は自分で、あるいは自分の教会だけで異言を語ることに満足しません。他の教会の信者も異言を語るように努力します。(p.4)

異言の魅力はどこにありますか。まず簡単です。異言の信者はこのように言います「異言を語ったら、すばらしい喜びを持つことができます。そして、この祝福を通してあなたのクリスチャン生活が簡単になり、あなたは罪に勝つことができます。
もしそれが本当であるならば、キリスト者は誰でも異言を語りたくなるでしょう。でもこの本で証明するようにそういう約束は聖書のどこにもありません。聖書的ではありません。(p.6)

異言は決してキリスト教のものだけではありません。1世紀にもいろいろな偶像の宗教は異言を語っていました。例えば:デルフィの宮の宗教や当時の「神秘の宗教」やグノーシス教やシリヤの女神ジュノの宗教などです。
現代にもキリスト教以外に異言を語る宗教があります。例えば、イスラム教のダービシュ聖人やヒンズー教のある聖人です。したがって、悪魔が話させる偽物の異言もあると言えます。これから勉強するように、キリスト教にも偽物の異言があります。(p.6)

カリスマの信者の目標は異言を認めない教会が異言を語るようになる、ということです。<略>カリスマ運動は教会を始めることより、他の教会のメンバーを盗むことが多いです。自分の教会を開拓しないで、福音派や根本主義者の教会に異言を伝えることが多い運動です。その態度は今まで続きますから、カリスマ運 動は多くの教会のけんかや分裂をさせてしまったことがあります。その理由だけで霊的にとても危ない運動です。(pp.8-9)

 

この最後の部分、「カリスマ運動は教会を始めることより、他の教会のメンバーを盗むことが多い」という指摘は極めて重要である。もちろん、これはカリスマ派のみならず聖霊派全体に
共通する特徴であるが、彼らには、「自分の教会を開拓しないで、福音派や根本主義者の教会に異言を伝えることが多い」という特徴があるのだという。

つまり、すでに出来上がった土台を有する他の教会に入り込み、そこで異言の重要性を解くことによって、その教会のメンバーを奪い去り、分裂をもたらすという行動が、聖霊派の信徒にはパターン化している様子が分かるのである。

鵜川夫妻がKFCでやろうとしたことも、まさにそれに当てはまる。つまり、この夫妻が行ったことは、まさにペンテコステ・カリスマ運動の信者に典型的な行動だったのである。

彼らは、クリスチャン・トゥデイの記事にも記されているように、早くから、路傍伝道を日常的に行っていたが、そのことからも、彼らが自分の影響力を、所属教会の許可なく、所属教会の枠組みを超えて、可能な限り、外へと押し広げようとしていた様子が見て取れる。

通常、教会が行う路傍伝道は、信徒らがチームを組んで、予め立てた計画に沿って行われるもので、所属教会の許可を得ずに、信徒の独断で行われることはまずない。しかし、彼らの場合は、あたかも自分の中にある抑えがたい情熱を定期的に外へ吐き出さずにいられないとばかりに、時間も場所も計画せずに、自分の心の赴くままに公共の場所へ出かけ、突如として、そこで通行人に向かって語り出すというスタイルであった。
 
その「伝道」が、所属教会の許可のもとに行われていない以上、仮にそうしたメッセージに耳を傾ける者が出て来たとしても、その魂が教会に導かれることはなかっただろうと思われる。

つまり、その「伝道」は、人々の救いのために行われたものでは決してなく、ただ聖霊派の信者が、自分の抑えがたい情熱を外へ吐露し、自分自身の欲望を満たす目的のためだけに行われていたのである。

ジョン・R・ハイムズ氏の記述からも分かるのは、ペンテコステ・カリスマ運動の信徒らには、自分が正しいと信じていることを他者にも押しつけねばならないという身勝手な思い込みのもと、秩序をわきまえず、独断的で専横的な行動を繰り返し、他教会に潜入したり、人々の生活に望まれもしないのに介入・干渉して行って迷惑をかけたり、分裂をもたらすというという特徴が共通して見られるのである。

聖霊派の信者が、「異言を語ったら、すばらしい喜びを持つことができます。そして、この祝福を通してあなたのクリスチャン生活が簡単になり、あなたは罪に勝つことができます。」などと自己宣伝しているように、聖霊派が強調する「異言」や「聖霊のバプテスマ」は、確かにそれを受けた信者に、それに病みつきになるような何らかの恍惚体験を与えたり、その信者が、通常人の域を超えて、周囲の人々に異常な影響力を行使することが可能になるような、何かしらの超自然的パワーを与えているのであろう。

その「霊」を受ければ、「神のように高次元の存在に引き上げられ、質の高い人生を送れる」という謳い文句は、単なる虚偽ではなく、そこには、実際に悪霊に由来する力が働いて、その「霊」を受けた人間が、何らかの異常な超自然的なパワーを得ている可能性は十分に考えられる。

だが、仮にそうしたことがあったとしても、その「霊」の本質が、キリストの御霊では決してない以上、その霊が結ぶ実が良いものとなることも決してない。それは、神から来た霊ではなく、以上で見て来たように、むしろ、神に反逆する悪魔的グノーシス主義に由来する「悪しき模倣の霊」であるからこそ、自分では何も生み出そうとせずに、他者の功績を盗み、他教会を乗っ取って信者を奪い去ったりして、分裂をもたらし、神を崇めると言いながら、自分自身を崇め、自己に陶酔するだけのナルシシズムの霊なのである。
 
その「霊」がクリスチャン生活を単純化し、罪に勝つ力を与えるなどという謳い文句も、偽りであって、錯覚でしかない。 実際には、聖霊派の出所不明の「異言」をもたらす怪しい「霊」を受けた信者は、自分に麻薬のような恍惚体験をもたらしてくれる「異言」にやみつきとなり、自己満足するために、ところかまわず「異言」を語っては、秩序を壊さずにいられなくなったり、その「霊」の悪しき影響によって、善悪の感覚や、良心や、罪悪感が麻痺させられるため、罪を犯しても罪と思わなくなり、それによってあたかもクリスチャン生活が単純化されて、自分が清められて、聖なる者になったかのような錯覚を抱くだけなのである。

それはちょうど重症のけが人や、重篤な患者が、麻酔薬のおかげで自分は健康になったと錯覚するようなもので、そうして痛みを無視して動き回ったことのツケは後になってすべて跳ね返って来るが、ペンテコステ・カリスマ運動の信者の場合、その破天荒な行動によって、本人よりも周囲の者たちが著しい迷惑をこうむるのである。

こうして、聖霊派の信者らが、悪しき「霊」を受けた結果、自分があたかも聖なる存在であって、自分の考えることはすべて正しいかのような思い込みに陥り、他者の人生に不当な干渉を繰り返しては、害を及ぼすという異常行動は、ただ「伝道」という名目だけでなされるのではない。

たとえば、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が、被害者を募っては、他教会に裁判をしかけ、他教会の運営に介入するカルト被害者救済活動をライフワークとしているのも、教会に分裂をもたらし、信徒を奪い去り、「神のものを盗む」ために行われる「簒奪の模倣」なのである。

また、杉本徳久を代表として、ペンテコステ運動をすでに出たにも関わらず、依然、村上のカルト被害者救済活動を支持することで、ペンテコステ運動の影響をひきずり続ける「信者」らが、無関係の赤の他人にまで、不当な干渉を延々と繰り返し、自分の考えを押しつけ、従わせようと試みたり、他人のブログの趣旨を歪めるために、ダミー記事を作ったり、他人の文章や写真を剽窃したりしているのも、まさに「簒奪の模倣」の霊による。

むろん、彼らが信徒らの公開されていない情報を入手しては、それを次々と暴露するような行為に及んでいることも、「自分には知ることの許されていない神の像を盗み見ることで奪い取ろうとする」グノーシス主義の「簒奪の模倣」の欲望に基づいてなされていることなのである。

これらのことは、次回以降でも詳しく論じるが、すべて聖書の「父なる神」の教えに従わず、キリストの十字架によらないのに、神に等しい存在となろうとして、真にキリストに従う信者たちから、神に属する性質を盗み取り、それによって、自分自身が「神になり代わろうとする」グノーシス主義の霊が引き起こしている現象なのである。

このように、ペンテコステ・カリスマ運動の起源は、グノーシス主義にあるため、信者はこの運動と訣別しない限り、以上のように人格を破壊されながら、支離滅裂な行動に出て、神と教会とクリスチャンに反逆する者となって行くことを避けられない。

だが、極言すれば、牧師制度そのものがグノーシス主義的起源を持つものであるから、Dr.Lukeであろうと、村上密であろうと、ゴットホルト・ベックであろうと、鵜川貴範であろうと、ベニー・ヒンであろうと、他のリーダーたちであろうと、誰であれ、自分の気に入った教師たちを立てては、そのメッセンジャーに群がろうとする信徒は、結局のところ、自分自身の欲望と霊的姦淫を重ねているだけなのである。

だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」(Ⅱテモテ4:3-5)

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「イゼベルの霊」(異教的母性崇拝)に支配される「神の家の乗っ取り運動」としてのペンテコステ・カリスマ運動(3)

・「父なる神」の概念を、被造物の都合によって生まれる擬制的な存在(フィクション、偶像)に変えてしまうグノーシス主義がもたらす悲劇

さて、旧約聖書の創世記においては、「神は自分のかたちに人を創造された。」(創世記1:27)とあるように、人類は父なる神に似せて創造されたことが記述されている。

だが、人類は罪によって堕落したために、父なる神から切り離され、「父」を喪失してしまった。そのため、人類は「失われた父」を取り戻すために遍歴を重ねており、完全なアイデンティティを回復するためには、キリストの贖いを受け入れて、御子を通して、まことの父を知るしかない。

つまり、堕落した被造物である人類が、いかにして「失われた父」へ回帰するか(逆に言えば、「父なる神」の側からも、いかにして失われた人類を取り戻すか)が、聖書の中心的なテーマなのだが、このテーマは、グノーシス主義においても、ある程度共通する。
 
それぞれのグノーシス主義文献の神話的なプロットに見られる無数の細かい差異の話などは、今はすべて脇に置いておくことにして、大きく見れば、グノーシス主義においても、人類が「父なる神」に似せて創造されたという事実は否定されていない。

さらに、人類が「父なる神」の似姿として創造されたにも関わらず、「父なる神」から切り離されて、「父を喪失」していることが、人類の悲劇の根本原因となっている、という認識も、グノーシス主義と聖書において、大筋では共通していると言えるだろう。

さて、人類が「父なる神」に似せて創造されたというとき、そこで使われる「似せて」という言葉は、何を意味するのかを考えてみよう。

創世記1章26-27節にはこうある。

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」

聖書は、こうして人間が、神の「かたちに」、神に「かたどって」創造されたと述べ、人間が神の「似姿」であるとする。

このことをグノーシス主義では「似像」という言葉を使って表現する。その「似像」とは、ちょうど鏡に映し出された姿や、水に映った姿と同じ「反映」である。
 
グノーシス主義も、「父なる神」(真の至高者)は、物質的な世界ではその姿形を捉えることのできない、目に見えない存在であるとしているが、人間は、その目に見えない至高の神が、自分自身の姿を、あたかも水面や鏡に映し出すようにして、目に見える世界に映像のごとく映し出すことによって出現したものであると言うのである。

このような表現は、たとえとしてはよく出来ている。グノーシス主義は、人類が目に見えない「父なる神」の似姿であり、影のような存在であるという事実を認めている点では、聖書の記述からそれほど遠くないと言える。

なぜなら、聖書においても、被造物全体は、キリストという本体の「影」であるとしているためである(コロサイ2:17)
 
だが、しかし、それでは、グノーシス主義の「似像」のたとえを、聖書にも通じる概念として、聖書に逆輸入できるかと言えば、それは無理である。なぜなら、グノーシス主義においては、霊的な世界と物質的な世界とが、どこまで行っても交差しないものであって、霊的な世界から物質的な存在を造りだすことのできる方は、神以外には誰もおらず、その逆は決してないという点が考慮されていないからだ。

聖書の記述において、「神は霊である」(ヨハネ4:24)一方、人類は、創造された時点においても、堕落した後も、キリストによって再生されない限り、この世の物質的存在の域を出ない、霊的な世界と全く接点を持たない者である。

アダムには創造された時点で、神に由来する「息」が吹き込まれていたが、それは、被造物としての動物的生存のレベルの命ではあっても、神の霊ではなかった。

キリストの贖いを受け入れない限り、人間の霊は死んでいるか、悪霊のとりこになっているかであって、人間は霊的存在としての意味を全く持たない。(悪霊の世界に対して扉を開いていると言うことは言えるかも知れないが、神の霊とはいかなる接点もない。)

そこで、人類が「父なる神」の目に見えない姿を、目に見える世界に映像として映し出すことによって創造されたというグノーシス主義の表現を、そのまま聖書に当てはめようとすれば、いくつものおかしな破綻や矛盾点が生じることになる。

まず、そのように考えるためには、霊的世界の存在を物質的世界の存在に映し出し、変換するための装置として、「鏡」や「水面」のような媒体が存在すると仮定しなくてはならないが、一体、その「鏡」とは何なのかという問いが生じよう。

聖書の記述を読む限り、神の創造は、すべて神ご自身によって完結してなされたものであり、神がご自分の御思いを表すために、ご自分の外に、ご自分の御思いを映し出す鏡のような媒体を必要とされたという記述はない。聖書には、霊的世界と物質的世界の架け橋や、変換装置となるような媒体は一切、存在しない。
 
聖書において、霊的世界と物質的世界の架け橋となる存在があるとすれば、それは人格や意志を持たない「鏡」や「水面」といったような媒体ではなく、神と人との唯一の仲保者であり、人となられたイエス・キリストご自身、さらに今日、キリストと共に霊的に十字架の死と復活を経て神に対して生きるクリスチャンこそ、霊的な世界と物質的な世界の両方に生きる架け橋的な存在(天地の人)だと言えるのである。

さらに、もしもグノーシス主義のように、霊的な世界を物質的な世界に映し出すことのできる、意志を持たない「鏡」のような媒体があると仮定すると、「神は見られる対象なのか」という、厄介な問題が持ち上がることになる。

なぜなら、「鏡」というものは、誰かが自らの意志でそれを用いて自分自身の姿を映し出すことができると同時に、必ずしも本人の意志に関係なく、自動的に対象となる存在を映し出してしまうからだ。

もしも霊的存在である神が、自分自身の姿を「鏡」に投影して、被造物を生み出すことができると仮定するならば、神は「鏡」を通して創造する者であるだけでなく、「鏡」を通して被写体のように「見られる」対象だということになる。

そうなると、「鏡」の持つそのような双方通行性を利用して、物質的世界にいる何者かが、「鏡」を通して、霊的存在である神の似姿を「盗み撮る」ことも可能だということになる。
 
「盗み撮る」などという不届きな意志がなくとも、神の似像が自動的に「鏡」に映し出されることによって、神の意志とは関係なく、どんどん物質的世界に流出して行くという現象が起きうるのである。

ここに、グノーシス主義の神話的プロットに満ち溢れる「神的な存在の流出」という概念の源がある。

グノーシス主義においては、「父なる神」は誰も見ることのできない存在であるという。ところが、同時に、以上のような「鏡」の存在を仮定することによって(グノーシス主義では「父なる神」自身が「鏡」のような深淵であると定義される)、実際には、「見ることのできない」はずの「神」の似像が、神の意志とは別に、どんどん流出し、神的存在(グノーシス主義においてはアイオーンと呼ばれる)がほとんど無限に作り出されるのである。
 

「グノーシス主義の多くの神話によれば、世界の始原においては、絶対的存在者である至高神、すなわち「父なる神」が、ただ一人で存在している。そして至高者は、何らかの仕方で自分自身の「分身」を発出するのである。<略>

キリスト教教父のエイレナイオスによれば、ヴァレンティノス派のプトレマイオスという人物は、その教説を次のように説き始める。

(ヴァレンティノス派は、)不可視で名づけることのできない高みに、潜在した完全なアイオーンなるものがあると言い、これを「原初(プロアルケー)」とも、「原父(プロパトール)」とも、「深淵(ビュトス)」とも呼ぶのである。(エイレナイオス『異端反駁』I.1.1)

このようにヴァレンティノス葉は、至高神のことを「原父」と呼んでいる。それは確かに「父なる神なのだが、しかしただの「父」ではない。それはあらゆる父的存在の原型となるものであり、ゆえに「原父」と呼ばれるのである。

 同時に至高神は、「深淵」とも称される。先に見た『ヨハネのアポクリュフォン』においては、至高神は「霊の泉」のなかに自分自身の姿を見たのであるが、ヴァレンティノス派において至高神は、この「泉」自体と同一視されている。父なる至高神は、森の深部に潜み、その奥底を見通すことができない「深淵」のように、秘められた存在なのである。

 しかしあるとき、その「深淵」に、一条の光が差し込む。そして、水面のきらめく反射によって周囲に光が溢れ出すように、「深淵」から数々のアイオーンたちが流出するのである。同じくヴァレンティノス派に属すると見なされている『三部の教え』というテキストでは、後に触れるように、父なる至高神のことが「水がどれほど溢れ出ても尽きることがない泉」と称されている。このように至高神とは、そこから万物を流出する「泉」であり、同時に万物を映し出す「鏡」そのものなのである。」(『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』、大田俊寛著、春秋社、2009年、pp.123-125)


グノーシス主義においては、このように「父なる神」である「至高者」の像が絶え間なく流出して、無限とも言える神々が造りだされるが、そうこうしているうちに、不正な流出事件も起きる。大田氏はこれを「模倣による簒奪」、「模倣による剽窃」と呼ぶ。

グノーシス主義の神話のプロットにおいて、最下位の女性人格であるソフィアが、「至高者」を知りたいという、分不相応な欲望を抱いた結果、単独で神を知ろうとして失敗し、醜いヤルダバオートを生むという事件がそれに当たる。彼女は、「至高者」の像を不正に「盗み見よう」とした結果、歪んだ似像を生み出したのである。

だが、そのようなプロットも、そもそも至高者の存在が、もし誰かが盗み見ようとすれば、あたかもそれが可能であるかのように、「鏡」のような深淵であると定義されることなしには、成立し得ないものであったと言えるかも知れない。
  
このように、グノーシス主義における被造物の創造は、あたかも水面に光が反射するような受動的な「神的存在の流出」によるのであり、時には、創造主の意志を超えて存在が流出することさえあるのに対し、聖書における「父なる神」による被造物の創造は、すべてが神の意志に基づいた、主体的で能動的な命令の結果である。

聖書においては、被造物は決して神の意志の範囲を超えて誕生することはなく、グノーシス主義の言うような、受動的な「存在の流出」はない。

さらに、聖書においては、創造主と被造物との間には絶対的な主従関係があり、被造物には生み出された後も、存在している限り、創造主の意志に従う義務がある。創造主は確固たる人格を持った存在であり、決してグノーシス主義の言うような、意志を持たない沈黙する「鏡」ではない。そして、創造主は被造物の違反を沈黙して見逃したりすることはなく、被造物は絶対者である神に背いたがために、堕落し、滅びに定められたのである。

このように、聖書において、創造主である神の意志は絶対であり、被造物は決して創造主の意志や許しの範囲を超えて自らの存在を主張したり、保つことができない(そのようなことをすれば結果的に破滅するだけである)。

だが、グノーシス主義における「至高者」は、聖書の「父なる神」のような絶対的な意志を持つ存在ではなく、それゆえ、グノーシス主義においては、絶対者の意志に背いた被造物が罪に定められたり、罰せられることはない。人類が父なる神に背いたがために、神と断絶したという事実も全く認められていない。

しかしながら、以上に記したような、看過できない重大な差異をすべて脇に置いて、大筋だけを見るならば、グノーシス主義においても、人類は真の至高者の影のような「似像」であるがゆえに、「本体」である「父」と共にいなければ、存在意味が完全でなく、それにも関わらず、「父を喪失」したことが、人類の悲劇の原因となっているということは、ある程度、認められている。

そうした意味で、グノーシス主義においても、人類は、自己の同一性を、初めから「父なる神」に担保されているのであり、それにも関わらず、本体である「父」を見失い、自分のルーツを喪失していることが、人類の悲劇の原因なのである。

そこで、聖書においても、グノーシス主義においても、人類がいかにして「喪失した父」を取り戻し、「父に回帰する」ことができるか、という問題が焦眉の課題であり、それによらなければ、人類は自分が一体、誰を模して創造されたのか、何のために創造されたのか分からず、自分の存在意義を見失ったまま、意味のない人生を生きるしかないという認識は、大筋では、共通していると言える。
 
しかし、結論から言ってしまえば、グノーシス主義は、「神は不可知である」と定義することによって、人類が自らの創造主を知って「父なる神」に回帰する解決の道を自ら閉ざしてしまう。

人類には、母のルーツと、父のルーツがあり、母のルーツは、常に明白で、人類の「母」は人類である。つまり、人類は、目に見える被造物として、自分と同じ目に見える人類という被造物を「母」として生まれる。肉なる人類は、肉なる人類からしか生まれない。(「母」という言葉自体が、被造物を象徴する。)

しかし、人間の誕生の際、DNA鑑定などの手段のなかった昔には特に、父が誰であるかを証明することは難しかったように、人類にとっても、「母」のルーツは常に議論の余地なく明白であるにも関わらず、「父」のルーツはより精神的で見えないつながりを意味し、それを証明するためには、「母」とは異なる、より複雑な内的証明手段が必要とされるのである。
 
そのように「父」を証明することは単純でないにも関わらず、人類にとってより重要なのは、動物的生存のレベルの「母」のルーツではなく、見えない精神的なルーツとしての「父」である。なぜなら、「父」のルーツは、創造主へと続くものであるから、「母」のルーツに比べて、圧倒的に高貴であり、それを発見するときに初めて、人類は、動物的生存のレベルを超えた完全な在となる可能性を持つことができるためである。

ところが、グノーシス主義は、「父」という存在を「フィクション」にしてしまうことによって、事実上、人類には父に回帰する道がない、という結論に自動的に行き着いてしまうのである。

グノーシス主義における「父なる神」とは、万物を生み出す根源となる「真の至高者」であるが、グノーシス主義において、その「至高者」は、あまりにも崇高な存在であるために、言葉によっても形容できず、感覚によってとらえることもできない、誰も見ることのできない虚無の深淵であり、不可知的存在であるとされる。
 

グノーシス主義によれば、父なる神は「鏡」として存在しており、それ自体を認識することができない。父なる神からは、鏡のなかに束の間に浮かび上がる仮初の像のように、見せかけの姿を呈した数多くの神々が流出し、そして彼らは、可視的世界においてさまざまな交流と相克を展開し続けるのである。こうしてグノーシス主義は、彼らなりの仕方で、この世界にはなぜかくも多くの神々の形象が溢れかえっているのか、そしてその状況のなかで「真の父」の存在が見失われてしまうのかということを、明らかにしようと試みたのだった。」(同上、p.175)

グノーシス主義では、すべての被造物が、根源的には「至高者」によって創造されたことになっているものの、それぞれの被造物がどれくらい至高者に近い存在として創造され、どの程度、至高者を知ることができるかによって、被造物の間にヒエラルキーが定められる。
 

「「深淵」として存在する至高神から、アイオーンの神々が流出することによて成立する世界は、「プレーローマ(充溢)」と呼ばれる。プレーローマ界は、光と美によって満たされた、精神の充溢界なのである。<略>

 それでは、完全無欠の世界として成立したはずのプレーローマ界に、どのような理由で亀裂が発生することになるのであろうか。一言で言えばそれは、神々のあいだに立ち現れる「競合」の関係である。

 これまでに述べてきたように、プレーローマ界に住まうアイオーンの神々は、すべて「深淵」である至高神から流出する。しかしながら、それゆえにすべてのアイオーンが平等の立場にあるかと言えば、実はそうではない。「(原)父」である至高神を見ることができるか、またそれによって自分自身を知ることができるかということに応じて、アイオーンたちのあいだには、暗黙のうちにヒエラルキーが設定されているのである。」(同上、p.126)


 そのため、「至高者」に創造されながらも、「父を知らず」、それゆえ「自己を知ることのない」アイオーンたちが数多くいる。そして、ある神話的プロットでは、「独り子」だけには「至高者」を知ることができる資格が与えられているが、それ以外の者には、人類も含め、一切、「至高者」を知る手立てはないとされる。
 

「このようにヴァレンティノス派の教説によれば、プレーローマ界を構成する数々のアイオーンたちのなかで、父を知り、また自らを知っている者は、「独り子(モノゲネース)(別名は「叡知(ヌース)」と呼ばれるアイオーンのみであった。「父」は「子」のみによって知られ、そして「子」だえけが、父の存在を表すことができるのである。すなわち、「父」と「子」のあいだには、鏡像的かつ想像的な一体性が特権的に確保されており、そしてその他のアイオーンたちは、このような完全な一体性から疎外されている。「他のアイオーンたちは、(子と)同じように自分たちの種子を流出したものを見たい、また初めのない根を観察したいと、密やかに憧れていたのだった」(エイレナイオス『異端反駁』I.2.1)。

アイオーンたちのなかで、このような欲望をもっとも激しく抱くようになったのは、『ヨハネのアポクリュフォン』の物語と同様に、末娘のアイオーンである「知恵(ソフィア)」であった。ソフィアは、自分も至高神から生み出されたアイオーンであるのに、どうして「独り子(ヌース)」と同じように父を知ることができないのかと憤り、彼に対して嫉妬の感情を抱く。」(同上、pp.128-129)


 このように、グノーシス主義の矛盾や悲劇は、「万物の創造の根源となる至高者は確かに存在する」として、その至高者からほとんど無限とも言える神々の流出を認めながらも、同時に、その「至高者」は被造物の側からは不可知であって、ヒエラルキーに応じてしか知ることができず、「独り子」なる存在の他には、ほとんどすべての被造物に見ることができず、知ることもできない存在であるとして、あらゆる被造物を「父なる神を知る」ことから締め出し、疎外していることに起因する。

最下位の女性人格であるソフィアだけが、大胆にもその禁を破って、自ら至高者を知ろうとするのだが、彼女の試みは失敗に終わる。それは当然である。なぜなら、グノーシス主義における至高者とは、誰にも自分を開示することのない虚無の深淵だからである。

以下の大田氏の指摘は、驚くほどに正鵠を射たものではないかと筆者は思う。
 

さて次に、「独り子」以外には知りえないという「父なる神」の姿を、ソフィアは一瞬であるとはいえ垣間見たわけであるが、その姿は果たしてどのようなものだったのだろうか。

 その答えとは、おそらく先に見たように、父とは「深淵」であり、「鏡」である、ということであるように思われる。やや積極的な解釈を試みるとすれば、父が不可視であるということは、鏡そのものが不可視であるということに等しい。いくら鏡をのぞき込んでみても、そこに映っているのは鏡をのぞき込んでいる自分自身にすぎず、「鏡そのもの」を見ることはできないからである。

 ソフィアがそこに見たものを想像してみよう。ソフィアが見たものは、自分自身の姿であると同時に、鏡という「無」であった。ソフィアはナルキッソスと同じように、自分自身の姿の美しさ、その甘美さに酔いしれる一方で、それがいくら手を伸ばしても自分のものにすることができない「虚無の深淵」であり、手に入れようとして深く身を伸ばせば、「死」のなかに飲み込まれてしまうということを知ったのではないだろうか。オウィディウスがナルキッソスの物語で描き出したように、自己愛の甘美さの裏には、死の棘が潜んでいるのである。」(同上、pp.132-133)


 このように、グノーシス主義は、人は神に似せて創造されたとしながらも、「至高者」の存在を「鏡」や「深淵」にたとえ、「至高者」を知ることのできない存在とみなすことによって、被造物が「至高者」を知るためには、自分自身を見つめるしか手段がなくなり、その結果、見えない「至高者」よりも、その影として生まれたに過ぎない「被造物」の方が、あたかも確かなリアリティであるかのように関係が逆転してしまうのである。
 
グノーシス主義においては、こうして見えざる存在である「至高者」と見える存在である被造物との唯物論的な関係の逆転が起こり、人類が「神を知ろう」と思えば、神の似像として造られた自分自身を見つめるしかないため、人類は自己の内に神を探しつつ、歪んだ自己愛に溺れ、結局、神を得られず、絶望の中で苦悶するしかないというトートロジーに陥るのである。そうした支離滅裂なトートロジーの結果として起きたのが、ソフィアの過失であり、ソフィアによって生まれたヤルダバオートが作り出した出来そこないの下界であり、今日も、グノーシス主義的な考えに立脚して神を探求することは、自分自身の内に神を探求することを意味するから、そのようなことを企てる者は誰であれ、結果として、水面に映った自分の姿に恋い焦がれて死んだナルキッソスと同じように悲劇の運命を辿るしかないのである。
 
だが、一体、なぜこんな愚かしいトートロジーが生まれるのであろうか。そもそもグノーシス主義はなぜ「真の至高者」をこんな風に不可知的深淵であると定義しているのであろうか。

大田氏はその謎を解く鍵を、古代社会に求める。古代社会おいては、父という存在が、生物学的にはきわめて不確かな存在であり(父方のルーツは証明不可能であり)、しかも、子供の死亡率が高かったため、「養子制度」の需要も高く、そうした時代には、家族を生物学的な絆にとらわれてとらえることのメリットが薄く、それゆえ、より流動的で融通の効く家族制度を作り上げるために、父子関係を、生物学的なつながりに必ずしもとらわれない、儀礼的なものとみなす必要があったのであり、その結果、生物学的な絆ではなく、言語表明(宣誓)によって作り上げられる儀礼的な父子関係を中心として、家族制度が作り上げられて行ったのだと主張する。
 

古代社会の宗教において、父と子の関係を成立させるのは、母子関係のような生物学的事実ではなく、むしろ「宣誓の言葉」という儀礼的行為であった。すなわち、生まれてきた赤子に対して、「これは私の息子(娘)である」と父親が宣言することにより、正式な父子関係が成立すると見なされたのである。

このような宣誓行為は、古代の宗教における中心的な行事の一つであった。すなわち、子供はただ母親から産まれてきただけでは家族の一員となることはできず、父親によって司られた祭祀において、正式な成員として承認されなければならないのである。」(同上、pp.34-39)


こうして、大田氏は、古代社会においては、子供はただある家族のもとに生まれて来たというだけの理由では、または、父や母と生物学的な絆を有するというだけの理由では、子として認められず、父親が「わたしの子である」と宣誓することによって、初めて生きた父子関係が成立したのだと言う。

ここまでならば、ある程度、聖書においても、同様の原則が見られると言えるかも知れない。

なぜなら、聖書においても、人類は生まれながらにして神の子供とは認められないからである。人類は父なる神に似せて創造されはしたものの、罪に堕落して神と断絶したため、キリストの贖いを信じて受け入れ、水と霊によって生まれなければ、神の子供とはならない。

そして、聖書の父なる神と人類との間で結ばれる父子関係は、極めて排他的なものであって、人の側から、神の側からの双方の「宣誓」が必要となり、人間の側からの宣誓としては、己が罪を認め、これを悔い改め、キリストの十字架の贖いを信じて受け入れると告白し、この世と分離し、父なる神の御心に背く一切のものからの分離としてのバプテスマを通過しなければならない。

「だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。
 全能の主はこう言われる。」(Ⅱコリント6:17-18)

このことを、主イエスご自身が、人類の代表として、バプテスマのヨハネから洗礼を受けることにより証明された。

「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」(マタイ3:16-17)

イエスは聖霊によって生まれたので、最初から神の独り子であったにも関わらず、人類の代表としてバプテスマを受けることにより、霊的死を通って、堕落したアダムに属する自分自身も含め、神の忌み嫌われる一切のものと分離し、神に属する新しい命によって復活されたことを象徴的に表されたのである。その時、初めて、天が開けて、父なる神の御許から聖霊がイエスに降り、イエスが神の御心にかなう、神の子供であることが、周りの人々にもはっきりと分かる形で、父なる神によって宣誓された。

このように、聖霊によって生まれたイエスでさえ、バプテスマという霊的儀礼を通過することによって、初めて、父なる神から「わたしの子である」という公的な承認を受けたという点では、大田氏が指摘しているように、父子関係は「宣誓」によって初めて確かなものとなるという主張は、聖書からそうかけ離れて遠いものではないと言えるかも知れない。
 
パウロも、選民であったユダヤ人をさし置いて、異邦人に救いが最初に宣べ伝えられ、かつては神の民とは認められなかった異邦人が、救いを受け入れることにより、神の側から「わたしの子である」と、承認されたことについて、次のように述べた。これも信仰に基づく「父」と「子」の双方からの「宣誓」であると言えないこともないかも知れない。
 
「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出して
くださいました。ホセアの書にも、次のように述べられています。
わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、
 愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
 『あなたたちは、わたしの民ではない』
 と言われたその場所で、
 彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」(ローマ9:24-26)

以下の詩編も、直接的にはキリストを指すとはいえ、救いを受け入れ、水と霊によって新しく生まれたすべてのクリスチャンに当てはまる神の側からの宣誓である。

主はわたしに告げられた。
「お前はわたしの子
 今日、わたしはお前を生んだ。
 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし
 地の果てまで、お前の領土とする。
 お前は鉄の杖で彼らを打ち
 陶工が器を砕くように砕く。」」(詩編2:7-9)

このように、聖書においても、父なる神とその子供たちとの関係は、生まれながらの生物学的な絆(肉による絆)によるのではなく、信仰による双方からの宣誓に基づくものである。人間の側からも、キリストの救いを受け入れ、神の御心に背く一切のものと分離して、バプテスマによって霊的死を通り、キリストの命によって新しく生まれたことを宣言すると共に、神の側からも、その信仰による表明を受け入れて、その人間を信仰を通じて神の子供として承認するという宣誓により、霊的父子関係が成立するのである。

だが、そこから先、グノーシス主義と聖書における記述では、この「父子関係」を巡る態度が決定的に分かれる。グノーシス主義は、こうして成立した父子関係を、生物学的な絆に基づかず、物理的に立証不可能な儀礼的なものであって、それは家族や社会に秩序を与えるために便宜上、造りだされた概念に過ぎないため、本質的には「フィクション」であると結論づけることにより、聖書とは正反対の結論へとたどり着く。

聖書においては、信仰によって宣誓された父子関係は、決して人間社会を保たせるための便宜上の絆ではない。それは生物学的な絆を超越して、永遠のリアリティとして効力を発する、父と子との排他的な結びつきであり、神の側からの無償の愛と人間の側からの従順による強力な人格的な結びつきである。

それに引き換え、グノーシス主義は、儀礼的な祭祀を通して言語による宣誓によって表明された父子関係は、あくまで社会を保たせるための便宜上の絆であり、「擬制的なもの」「パフォーマティブなもの」、要するに、実体の伴わないフィクションだと言うのである。

大田氏は、古代社会において、父子関係は、生物学的な絆にとらわれず、家族制度を維持するために便宜上、作り出された儀礼的・擬制的なものであったということを根拠に、「父とは擬制(フィクション)的な存在である」と言い切るだけでなく、古代社会における「父」の概念は、そもそも、死者(先祖)を神として祀る家制度の中で、「神聖な始祖」々から先祖代々に受け継がれる「神聖な血統(火花)」を継承するという「神話」に基づいて作り出されたものであり、「神聖な始祖」自体が虚構の概念である以上、そのような「神話」を継承するために造りだされた「父」の概念も当然ながらフィクションだと言うのである。

さらに大田氏は、そこからすすんで、「父」とは「フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者」であると定義し、古代社会の家族制度におけるフィクションとしての「父」の概念が、その後、発展して、共同体社会や都市国家の基礎になったのだという。
 

「それでは「父」とは、一体何だろうか。端的に言えばそれは、フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者である。すでに述べたように、父と子の関係は、「お前は私の息子(娘)である」という儀礼的宣誓、すなわち、パフォーマティブな言語行為によって創設される。これを言い換えれば、そのような言語行為が行われる以前、子供が子供でないのと同様に、父もまた父ではない。父はその子と同じように、言語によって創設されるのである。

 しかし、父が擬制的な存在であるというのは、このような意味においてのみではない。そもそも彼が、新しく生まれた子を家族の成員として承認するという権限を持つと見なされるのは、どのような背景に基づいているのだろうか。それは彼が、家族の「神聖な始祖」から「生命の火花」を継承していると考えられていることによる。そしてこの「神聖な始祖」は、先に述べた通り、普段は先祖代々の墓に眠っているのだが、神聖な篭に火が灯されると、現世へと来臨する。すなわち、真の意味で「父(パーテル)」と呼ばれるにふさわしいのは、現実世界に存在しているわけではない、この「神聖な始祖」という虚構の人格、虚構の存在者なのである。」(同上、pp.41-42)


 このように、大田氏が古代社会の家族制度や都市国家の成立とグノーシス主義における「フィクションの父」という概念を結びつけていることは、非常に興味深く、的を射ているのではないかと思われる。
 
だが、それは聖書における「父なる神」と神の子供たちに当てはめることのできる概念ではない。以上のような分析を通して、はっきり分かることは、グノーシス主義における「父子関係」と、聖書における「父子関係」は、それが一体、誰のために結ばれる関係なのか、という点で、完全に異質であり、全く逆の方向を向いていることである。

聖書においては、父なる神は、失われた人類を滅びから救い、罪から贖い出すことを願っておられ、その神の御心に気づいて、これに応答してキリストの十字架を信じて受け入れた人々が、神の子供とされる。それは「初めの愛」にもたとえられるように、当事者同士の強力な個人的な結びつきであって、あくまで当事者の利益のために結ばれるものであって、決して、当事者以外の周囲の人々のために便宜をはかったり、人類社会や家制度を存続させる目的で生み出される絆ではない。

しかし、グノーシス主義における「父子関係」は徹底して、当事者である「父子」のために結ばれるものではなく、むしろ、「神聖な始祖」というフィクションに基づき、当事者以外の人々、先祖、家族、家制度、共同体、人間社会の秩序を保ち、人間社会に便宜をはかるために結ばれる絆なのである。そうであるがゆえに、それはどこまで行っても、真実からはほど遠く、人間の威信を保ち、社会の秩序を成り立たせるために便宜上、作り出された「神話」の一部であり、「フィクション」なのである。

そのことを考えれば、なぜグノーシス主義における「至高者」が「鏡」や「虚無の深淵」にたとえられ、不可解かつ不可知な存在であって、聖書の「父なる神」のように、はっきりした人格や意思を持って、物事に善悪の区別をつけり、時には被造物の世界に積極的に介入し、神に反して反逆した被造物を罰したりすることがないのか、その理由もおのずと見えて来る。

グノーシス主義において「虚無の深淵」にもたとえられる「至高者」は、多数の神々を流出させはするが、物事の善悪を定めたり、背いた者を怒って罰することのない、意志表示さえしない沈黙する神である。その代わりに、「至高者」によって生み出された様々な被造物たちは、「至高者」よりもはるかに活発に動き回り、自らの意志や願望を表明する。

天界の被造物を生み出す根源となったのも「至高者」自身ではなく、「至高者」から最初に生み出されたとするバルベーローという女性人格であり、さらに、時にはソフィアのように、分を超えた逸脱行為を犯して「至高者」の真似をしようとする者も出て来る。それでも、ソフィアが「至高者」によって罰せられて滅ぼされることはない。

ソフィアの過失の結果、天界の歪んだ模造である不幸な下界が誕生したわけだが、それでも、最終的には、人類が天界に復帰することにより、ソフィアの過失も修正されることになっている。
 
その際、グノーシス主義においては、人類は、自己の内に生まれながらにして「神的自己」(「至高者」に由来する神聖な霊の欠片)が宿っていると気づくことにより、自分が「至高者」の子孫であると名乗り出るのだが、その一方で、その神話のプロットに「至高者」が登場して、人類を我が子として「認知」するという場面はない。
 
グノーシス主義においては、子の側から名乗り出る場面はあっても、父が子を前にして「これが我が子である」と宣誓する儀礼的場面が全く存在しないのである。大田氏は一方では、父子関係が、言語行為によって宣誓される儀礼的なものであると述べているのだから、「子の側からの宣誓」はあっても、「父の側からの承認」がないことは、極めて奇妙な矛盾に感じられる。

だが、このことは、グノーシス主義の物語が、根本的に、創造主なる「父なる神」を中心として造られたものでなく、「和を持って尊しとなす」式に、被造物の思いや願望を中心に、被造物の世界に秩序を保たせるために造られたものであることを考えれば納得が行く。

グノーシス主義においては、ソフィアのように、ヒエラルキーを無視して過失を犯した者も、決して悪者にされたり罰せられたりすることなく、彼女の願望もある程度、認められ、彼女の過失を「修正」する仕事は、人類が身代わりに負わされることにより、何とかして物事がおさまりがつくように、辻褄合わせのような筋書きが作り出される。

こうして、グノーシス主義においては、どの被造物も罪に定められることがない一方で、悪者にされている存在が一人だけいる。それは「私は妬む神である」と宣言しているヤルダバオートである。
  
だが、普通に考えれば、ヤルダバオートはソフィアの過失の結果として生まれたのだから、彼もまた哀れな被害者であって、ソフィアの過失を責めずにヤルダバオートだけを責めるのは筋違いであると言えよう。

それにも関わらず、グノーシス主義は徹底してヤルダバオート一人に責めを帰する。
 
グノーシス主義が責め立てているヤルダバオートの「非」や「罪」とは、一体、何なのかという問題を通して、我々は、グノーシス主義という思想の本質をかなりはっきりととらえることができる。

すなわち、グノーシス主義の考えるヤルダバオートの「非」とはおそらく、

➀外見が醜く愚かであるため、他の被造物(特に「母」であるソフィア)の不快を催す存在であること、
②自分の他に神はいないと考えて神の称号を独占しようとしており、他の被造物とのヒエラルキーの中におさまらず、他の被造物から見れば、秩序を乱し、自分たちの栄光にならない目障りな存在であること、

の二点であろう。要するに、ヤルダバオートが他のすべての被造物との間のヒエラルキーに従わず、自分だけが神であるかのように宣言して、他の被造物たちの自惚れに水を差し、他の被造物たちの考える「秩序」を壊し、かつ視覚的にも他の被造物に不快をもたらす存在であるから、徹底的な侮蔑に値するというわけなのである。

このことからも、グノーシス主義とは、徹頭徹尾、被造物の都合や願望を中心に造られた者であり、被造物の世界に、何とか折り合いをつけ、「和をもって尊しとなす」式に、うわべだけの秩序を成り立たせるために作られたストーリーだと言えよう。

そこで最も重要な価値は、聖書の教えるように、絶対者である「父なる神」の命令に背かず、その意志に従うことではなく、むしろ、被造物の社会で、多数決式に、他の被造物にできるだけ迷惑をかけずに、浮いた存在とならず、他の被造物たちとの間で、折り合いをつけて生きることなのだと考えられる。

グノーシス主義において、最も大切なのは、至高者の意志ではなく、被造物たちの意志であるからこそ、至高者に背いたかどで誰も罰せられたり滅ぼされたりすることなく、過失を犯しても、それぞれの被造物の願望がみなある程度、認められているのである。
  
つまり、グノーシス主義にもし善悪という概念があるとすれば、それは、「至高者」の意志に服従するかどうかとは全く関係なく、被造物たちに好ましい影響を与えるかどうか、被造物たちの社会の秩序を成り立たせることに貢献し、そのヒエラルキーに従っているかどうかという基準ではかられるものだと言って良いかも知れない。

グノーシス主義は、被造物の自己肯定や自己都合のために(被造物の欲望をかなえるために)作り出された物語あり、そこでは、被造物の都合が第一優先されているがゆえに、被造物たちの目に慰めとならず、被造物のヒエラルキーにも従わない、「空気」を読めないヤルダバオートが、目障りな存在とみなされ、侮蔑の対象とされ、「悪」とみなされるのである。「神々」の世界において、ヤルダバトートが「わたしの他に神はいない」と宣言することが、他の被造物の自己愛に水を差し、面目を失わせる行動に映るからこそ、ヤルダバオートは毛嫌いされ、「悪」とみなされるのである。
   
グノーシス主義の中心は、被造物の思いであるがゆえに、「至高者」であるはずの「父なる神」さえも、決して絶対の存在ではない。「至高者」は、言葉の上では、至高の存在であるかのように讃えられてはいるものの、実際には、被造物らの願望や都合によって、事実上、骨抜きにされ、形骸化してしまっている。「至高者」は、被造物の勝手な振る舞い合を制止することも、罰することもできず、自らの意志表示を行うことさえなく、まるで神棚に祭られた先祖の遺影のごとく、ただ被造物の願望に口実を与え、彼らの存在を神格化するためだけの名ばかりの存在として沈黙しているだけである。

グノーシス主義において、最高の位階にある神的存在であるはずの「至高者」が、これほど不確かな人格や意思を持たない存在として描かれ、「鏡」や「虚無の深淵」と同様の存在であるかのように、極めて曖昧かつ否定的な表現でしか表されないのは、この「至高者」の存在が、もともと被造物の欲望を集積して作り出された「フィクション」であり、「偶像」だからだと考えられる。

つまり、「至高者」の存在を「虚無の深淵」であると定義するグノーシス主義は(根源的にはその「虚無の深淵」は、仏教などの「無」の概念にも通じるが)、「父なる神」をただフィクションにしているというよりも、「至高者」とは、結局、被造物の欲望の総体として作り出される偶像だとみなしているのであって、それゆえに、「至高者」自身が、あらゆる被造物の願望を映し出す「鏡」と称されているとみなされるのである。
 
つまり、グノーシス主義における「至高者」とは、このように、被造物の存在を承認し、彼らに「神々」としてのステータスを与え、被造物の欲望の総体として生み出された偶像なのであり、被造物自身の欲望の化身としての「フィクション」なのである。
 
このようにして、グノーシス主義の神話は、創造主に似せて人類が造られたため、人類はまことの創造主に回帰することによらなければ自己を発見できないと言いながらも、その創造主を、人類の欲望の対象、偶像に変えてしまうことによって、無限のトートロジーに陥っているのである。

そこで、このような教えを信じた人々が、神に至る道を見つけるために、無限の深淵なる鏡をのぞき込み、そこに自分自身の姿を投影して果てしなくそれに耽溺し、ついに自分が神であると宣言するか、あるいは、「至高者」の崇高な姿を見ることのできない苦悩から逃れようと、嫉妬に駆られて、自分が憧れる対象を歪んだ摸造に写し取ることで剽窃するという、不幸な悪循環に陥るのは当然である。 

こうしたことを考えれば、なぜKFCのDr.Lukeが「わたしたちはエロヒムだ!」というとんでもない宣言をメッセージで行ったり、杉本徳久のような人々が、クリスチャンの個人情報を集めてはそれを利用して、自らのブログを鏡のようにして、そこにターゲットとなる人物の印象操作を行うために歪んだ像を造りだして映し出すことで、ガティブ・キャンペーンを行ったり、あるいは鵜川貴範のような人々が、他教団の人間であるにも関わらず、KFCの違法なコピーサイトを作ったり、KFCの半分を乗っ取って横浜で集会を開き続けたりしたのか、その理由もおのずと明らかになろう。

これらはすべて「簒奪の模倣」や「剽窃」(歪んだ「模倣の霊」の働き)であって、「父なる神」を探求しながらも、自己存在を見つめる以外に「父なる神」に至る道を見つけられないグノーシス主義者が、苦悩のあまり、不正な方法で「父なる神」の似像を盗み見、模倣しようとする手法を意味するのである。
 
さらに、多少、先走って結論を述べれば、牧師制度も、グノーシス主義における「至高者」を模して成り立つ誤った制度であり、大田氏の言葉を借りれば、「擬制的存在である」。

グノーシス主義における「至高者」が、被造物の都合や欲望によって、被造物を神格化して存在に意義を与えるためだけに作り出された「フィクション」であるのと同様、牧師という存在もまた、信徒らの欲望に口実を与えるために作り出された「偶像」であり「フィクション」であり「擬制的存在」なのである。
 
大田氏は、「父」とは「端的に言えばそれは、フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者である。」と述べるが、現実には、このような「フィクションとしての父」は、人間の欲望をいたずらに刺激し、苦悩を増し加えるばかりで、決して人間社会を統御などせず、何の秩序をももたらさない。

「フィクションとしての父」しか存在しない場所では、人々は己が欲望を「父」に投影し、「父」にそれを叶えてもらおうと熱心に願い出るが、その「父」自体がフィクションなので、彼らの願いは実現できない。結果として、ソフィアの欲望がもたらしたと同様の悲劇が延々と繰り返され、誰もが知ろうとしても知りえない「父」のために、嫉妬と苦悩を増し加え、悶絶しながら神の像を盗み取ろうと、悪しき模倣を繰り返し、争いを繰り広げるだけなのである。

以上の考察を通して、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが、なぜカウンセリングを通しての自己認識につとめているかも理解できよう。大田氏は著書で精神分析とグノーシス主義の関連性について論じているが、カウンセリングも、神を見いだそうとしながら、その神を自己の内にしか見つけられないと考える人々(グノーシス主義の教えに影響を受けた者たち)が、「鏡」に映し出した自己像に耽溺することで、何とかして完全な自己を取り戻そうと苦しい努力を重ねる過程なのである。

ある人が、自分の悩み苦しみを他者の前で言葉を通して吐露し、それに他者が頷きながら耳を傾けるのを見ることによって、その人は、他者の眼差しという「鏡」を介して自己存在に承認を受けたように錯覚する。人はそこで他者が自分の主張に頷いてくれたことで、自己存在のリアリティが取り戻されたかのように錯覚する。

ところが、「鏡」を通して自己を発見しようとする過程では、常にそのような望ましい結果が出るとは限らない。他者の眼差しの中に「あらまほしき自己像」を見つけようとしても、そこには、自分の意に反して、自分が望みもしない醜く悪しき自己像が映し出されるということが度々繰り返される。そこで、人は、満足の行く自己像を発見するために、願い通りの自己像を映し出してくれそうな「鏡」を探し求めて走り回るという作業を重ねずにいられないが、そのようなことをすればするほど、他者の眼差しに自己を奪われ、数多くの「鏡」に乱反射する自分自身の一体どれが本物なのかも分からなくなり、ますます自己を見失って行くだけなのである。

人が「鏡」を通してしか自己を認識できないと考えている限り、自分を「鏡」によってどんどん質に取られ、不正に流出させられる結果を防ぐこともできない。
 
結局のところ、「父なる神」をフィクションであると仮定すると、「父なる神」に似せて創造された人類も「フィクションである」という結論しか生まれないのである。神的自己を発見するどころか、自己存在を発見しようとして、虚無の深淵だけが残る(もしくは歪んだ模倣の結果、異形の産物が生み出される)という本末転倒な結果に至るしかないのである。

神を探し求めると言いながら、このような無限のトートロジーに陥った人間は、最後には狂気に至るしかなくなる。

それゆえ、筆者は、「母性原理の崇拝」すなわち、「被造物崇拝」のグノーシス主義を基盤として成立しているペンテコステ・カリスマ運動が、キリスト教の二分性を非難しているのは、とんでもない見当違いであると言うのである。キリスト教の二分性が人を狂気に陥れているのではない。グノーシス主義の支離滅裂なトートロジーの教えこそ、人間を狂気に陥れる根源なのである。 

「イゼベルの霊」(異教的母性崇拝)に支配される「神の家の乗っ取り運動」としてのペンテコステ・カリスマ運動(2)

・国家レベルで広がるグノーシス主義~人間を神とする現人神崇拝からのエクソダスの必要~
  

本題に入る前に、再び、政局について書いておきたい。やはり、佐川前国税庁長官の国会における証人喚問は、予想した通り、単なる見世物であり、安倍夫妻が逃げ切るための出来レース、ガス抜きだったという印象を受ける。しかも、これをインターネットでリアルタイムで実況中継しようとしていた菅野完氏のツイッターが直前に凍結されるなど、この国の暗黒状態をよくよく物語る出来事が進行中である。

当ブログが、何年も前から、暗闇の勢力からいわれのない攻撃を受けて来たことも、我が国が統一教会や日本会議などのオカルト勢力に占拠されている現状と無関係であるとは思えず、もはや安倍政権になってから何でもありとなったこの国には、言論の自由もなくなりつつある上、巷でささやかれているように、公文書の改ざんも、明らかになっていないだけで、他にも数えきれないほど横行しているものと思われる。

公文書が改ざんされたということは、ただ公務員の仕事に信頼が持てなくなったなどという次元の問題ではなく、国の存立基盤が根本から揺るがされていることを意味する。今やこの国そのものが、オカルト・ヤクザ勢力に乗っ取られ、どんどん書き換えられ、「フィクション」になりつつあるのが現状なのである。

我が国は、すでに何年も前から、全体主義社会と化しており、表面的に平和に無事に生きようと願う人々は、悪魔に魂を売るしかない状況だ。そのことは、官僚の世界でトップクラスに至るまで腐敗が進行し、誰もが粉飾に手を染めている事実からもよく分かる。こうした腐敗と癒着が、官僚の世界だけにとどまるはずがなく、当然、民間にも深く浸透しているはずである。
 
筆者はこうした世の腐敗の中に、牧師を神のように崇めるキリスト教界の堕落を見る思いがする。以下でも詳しく論じるが、牧師制度は、決してキリスト教に由来するものではなく、その起源は被造物を神とするグノーシス主義に由来するのである。

多くの信仰の先人たちが、目に見える人間をリーダーとして、それを頂点にいただく地上の組織や団体を作ることは、キリスト教と本質的に相容れないことに気づき、聖書に忠実なエクレシアを求め、そうした団体をエクソダスして行った。

今や信仰とは関係ない地上社会においても、バビロン化が極度に進んだ結果、誰かをボスとして、その人物に雇用され、生殺与奪を握られて生きることが、結局、教会に籍を置くことにより、救いを教会に質に取られてしまっている信者の状態とほとんど変わらなくなっているものと思う。

独裁国家では、独裁者に異議を唱えた人物に、平和な暮らしはない。投獄されるか、殺されるか、国外追放されるなどして、厳しい迫害が待っているだけである。牧師制度に異議を唱えた信徒も、同様に、教会から悪魔扱いされて追放されるということが多々起きている現状であるが、国ごとグノーシス主義に乗っ取られた我が国では、国家レベルでカルト化が進行中なのである。

首相夫妻が、事実上の現人神となり、「真の父母」となって国民に君臨しており、オカルト信仰によってこの国を動かしている。彼らおよび彼らの作った体制を拝むことを拒否した人々は、「人民の敵」のごとくネガキャンにさらされ、社会的な抹殺へと追いやられているのである。

だが、至る所からほころびが出ている現在、こんなにも腐敗し切った愚かな体制が長く続くことはあり得ない。

筆者は、ペンテコステ運動が米国から持ち込まれたものであるように、日本会議も米国発(源流はイスラエル)から輸入されたものではないかと考える。米国ではロシアの悪魔化のプロパガンダが一層、進んでいるようだが、巨悪から目を逸らすために、「巨大な悪役の像」を作り上げては、自ら犯した悪事のすべての責任をその悪役に転嫁するというのは、彼らの常套手段である。

米国がイスラエル及び他の国々と組んでこれまで行って来たすべての悪事を、ロシアを巨大な悪役に仕立てることでオールリセットしようとしていることは、もはや人々の共通認識となりつつあるように思う。ロシアという国もそれなりに相当に厄介な「フィクション」であるとはいえ、こんなお手軽かつ馬鹿馬鹿しい卑劣な手段によりすべての悪事を帳消しにできるはずがないことは明白である。

こうしたすべてのことには、決して偶然ではない霊的影響があり、筆者は自分が様々な意味で、古い時代と新しい時代の歴史の交差点に立っていることを感じる。結論から言えば、信仰の世界は、この世と合わせ鏡であるから、筆者があるべき場所に確固として立つことにより、こうした支離滅裂な国際情勢や、この国の悲惨な現状にも幾分か変化が訪れる可能性があると考える。

さて、筆者は、これまでの記事にも書いて来たように、暗闇の勢力に真実を語らせるためには、訴訟を通して答弁を公開させるしか残された手段はないと確信している。筆者はこれまで自分から訴訟を提起したことは一度もなく、また、村上徳久や杉本密の行って来た行為を、キリスト教界の内側の問題としてとらえていた頃には、教会の問題を世に持ち出すべきではないという聖書の御言葉に基づき、訴訟という手段を使って彼らの引き起こした争いを解決することを回避して来た。

だが、今や杉本徳久や村上密という人物はキリスト教徒ではなく、彼らには信仰の片鱗もなく、彼らを信者と同様に扱う理由はどこにもない上、筆者が個人的な思惑により彼らと対立しているわけではなく、この争いは彼らの側からしかけられたものであることを明白にするためにも、ネット上の議論を出て、きちんと実社会において公にしかるべき形で決着をつけることがぜひとも必要であると考える。

その作業を通して、これまで杉本や村上のような人物が、自分の側から率先してクリスチャンに訴訟をふっかけることにより、自分たちがあたかも悪を退治する正義の味方であるかのようなポーズを取り続けて来たことの欺瞞性が、より一層、公衆の面前で明らかになるであろうと思う。
 
また、それを通して、聖書の御言葉に反逆する者たちは、どんなにこの世の常識を振りかざしているように見えても、結局は、この世の常識や法制度をも平然と踏みにじり、すべての善悪の基準をあざけり、踏みにじりながら、自分が何者にも服する必要のない神であるかのような思い上がりに陥り、己が欲望を高く掲げるのだという事実が明らかになるだろうと思う。

彼らがこの世の法廷において敗訴したという記録を作ることは、非常に重要である。訴訟は、ヤクザ者の専売特許ではなく、そんな者たちのために作られた制度でもない。クリスチャンはそうしたこの世の手続きにあまりにも無知であるべきではない。

本当のことを言えば、筆者にとっては、個人情報を収集されるとか、実名を開示されるとか、名誉を毀損されるとかいった問題は、本質的に重要ではなく、実に些末な問題でしかないのだ。実名を公表してブログを書いている人々は、世に数多く存在し、そうした人々は厳しい批判にも時にさらされている。筆者が実名を公開しないのは、杉本や村上のようにさかんに自分の名を売りながら、宗教指導者や改革者をきどる気がないためで、自分の名を冠したミニストリーのようなものを作って、人前に栄光を受けたくないからである。

さらに、筆者の実名が特定されないことによって、筆者に関わる人々のプライバシーも保たれる。当ブログでは、牧師や指導者として自分を公にし、自ら自分の情報を明かした人々以外については、たとえ敵のように行動する信者があったとしても、実名を公開したり、彼らを特定できる個人情報を開示したりはしていない。

もしも自分のミニストリーを作って有名になろうと願ったならば、筆者にもそのチャンスは十分にあったであろうと思う。ブログを金もうけの手段とし、何かの新しい教えを宣べる教祖となって、人々に君臨しようと考えたなら、そのための才覚がゼロだったとは思わない。そういう悪しき目的のために、筆者がこれまで地上で積み上げて来た様々な経験や肩書を存分に利用することも可能だったろう。今から先も、様々な戦いに勝利をおさめれば、筆者の名を使って、筆者を担ぎ上げようとする人々が出て来ないとも限らない。

だが、筆者はそういうことを全く願っていないので、無名氏のままであり続け、自分の名を売るまいと考えているのである。地上で栄光を受ければ、天での栄光はもうないからだ。

当ブログに対して引き起こされている様々な戦いは、神の国の権益に関わる問題であって、個人の諸権利に関わる問題ではない。ここで本質的に重要なのは、ヴィオロン何某といった地上の人間の諸権利が侵害されているといった個人的なレベルの問題ではなく、聖書の神の御言葉が否定され、キリスト教が歪められ、聖書の神と神の教会が冒涜され、神の国の権益が侵され、真実と正義が曲げられているという問題なのである。

個人の諸権利を主張することは、聖書の御言葉に基づく信仰を公然と守り、神の国の権益を守るために必要な現実的措置として行っているだけのことであり、それが本質的に重要な問題なのでは全くないのである。

ちなみに、3月23日という日は、本当にいわくつきな日だったらしく、札幌では、元朝日新聞記者で慰安婦報道に関わった植村隆氏と、日本会議の強力な代弁者の一人であると見られ、筋金入りの改憲派でもある櫻井よしこ氏との間で本人尋問が行われた日であったらしい。
 

【慰安婦記事訴訟】植村隆氏、櫻井よしこ氏双方の本人尋問 札幌地裁で7月6日に結審
03/23 19:50 産経新聞

 元朝日新聞記者で慰安婦報道に関わった植村隆氏(59)が、記事を「捏造」と書かれ名誉を傷つけられたとして、ジャーナリストの櫻井よしこ氏や出版社3社に損害賠償などを求めた訴訟で、植村氏と櫻井氏双方の本人尋問が23日、札幌地裁(岡山忠広裁判長)であった。7月6日に結審する。
  植村氏は朝日新聞記者だった平成3年8月、元慰安婦が「『女子挺身隊』の名で連行された」とした大阪本社発行の記事について、「連れていかれた所で監禁され意に反して慰安婦にさせられた。だまされて戦場に連れて行かれた。一連の行為で『連行』と書いた」とした。また、「当時の韓国では慰安婦が『挺身隊』を意味していた」と証言し、意図的に慰安婦と挺身隊を結びつけたのではないと主張した。
  一方、櫻井氏は、後に作り話と判明した吉田清治氏の「女子挺身隊の名のもとで強制連行された」に呼応する形で植村氏の記事が書かれたと主張。「植村氏は(吉田氏の)作り話の被害者が実際にいると書いた」とその影響力の大きさを指摘した上で「植村氏は公開討論の呼びかけにも応じてこなかった」と批判した。  


   この裁判については、植村隆氏を支える市民団体が以下の記事を発表している。

櫻井よしこ氏が自身のウソを認める! 「捏造決めつけ」記述にも重大な誤り
札幌第11回■詳報  次回7月6日に結審、判決は秋以降に

札幌訴訟の第11回口頭弁論が3月23日、札幌地裁で開かれ、原告植村隆氏、被告櫻井よしこ氏に対する長時間の本人尋問があった。

この尋問で、櫻井氏は、いくつかの記述に誤りがあることを認めた。この記述は捏造決めつけの根拠となるものであるため、植村氏に対する誹謗中傷が根も葉もないものであることがはっきりした。櫻井氏本人がウソを認めたことにより、櫻井氏の根拠は大きく揺らぎ、崩れた。櫻井氏はその一部については、訂正を約束した。
<続きは本文参照。>

 
当ブログは、これまでこの訴訟を追って来ていないため、内容について深く立ち入ることはできないが、大筋を見る限り、この裁判は、「大日本帝国」の復活を願い、戦前の軍国主義路線の誤りを認めず、従軍慰安婦などの問題はすべてなかったこととして闇に葬りたい日本会議を支持する櫻井よしこ氏が、慰安婦問題を掘り下げる報道を不当にバッシングし、そのようなテーマを追求するジャーナリストに不当な打撃を加えて、このテーマ自体を葬り去ろうとする趣旨の記事を発表したため、記者がバッシングから身を守り、自分が行った報道の正しさを立証するために起こさざるを得なくなった訴訟であるという印象を受ける。

市民団体の報道によれば、櫻井氏は徐々に誤りを認め、自分の主張が捏造であったことを認めざるを得ない立場に追い込まれているようだ。 

植村氏が起こした裁判は、名誉毀損の被害を取り返すという、ただ自分の権利を守ることだけが目的ではなく、自分が報道した内容が真実であることを論証して、慰安婦問題が闇に葬り去られて社会の利益が損なわれることのないよう必要なアクションを取ったものだと考えらえる。

報道関係者でなくとも、自分が述べた言葉が真実であることを証明するためならば、それを公に論証する機会として、裁判を用いることは、時には必要であろう。そのようにして自分の言葉の真実性を主張するためには、自分の権利が侵害されたという訴えの形を取るしか今のところ方法がないのが実状である。

日本会議サイドは、櫻井よしこ氏を大いに利用して、慰安婦問題を報道した植村氏を個人攻撃させることで、慰安婦問題に触れると、誰でもこういう結果になるので、慰安婦問題など掘り下げない方が良いですよ、という見せしめ事例にしようとしたのではないかと考えられる。

筆者や当ブログに対して行われて来た攻撃もそれと同じで、牧師制度を批判したり、ペンテコステ・カリスマ運動の偽りを証明したり、カルト被害者救済活動を批判したりすれば、徹底的な報復を受け、人生に害を及ぼされるので、そのような厄介なテーマを、クリスチャンは扱わず、決して言及しない方が良いですよ、という見せしめのためになされたと思われる。

このように、あるテーマそのものをタブーとするために、個人攻撃が行われるということはままある。だが、筆者が書いている内容は真実であり、杉本や村上が書いていることは虚偽である以上、どちらが消し去られなければならないのかは明白だ。しかも、これはこの世のみならず、来るべき世にまで及ぶほどの永遠性を持つ普遍的テーマを巡る論争なのである。

虚偽の情報によって真実が駆逐されねばならない理由はなく、ましてそれが永遠性を持つテーマに関するものならば、なおさらだ。そこで筆者は、杉本が当ブログを誹謗するために書いた虚偽と人権侵害に満ち溢れる記事を一刻も早く削除してもらいたいがために、そのための取引材料として、当ブログ記事を差し出したりするつもりはさらさらない。そのようなことをすれば、敵の脅しに屈したことにしかならない。

だが、誰が真実を述べているのかということを証明するにふさわしい場が、判定者のいないインターネット上の議論や匿名の掲示板の無責任なコメント投稿欄ということはあるまい。そこで、より公共性・社会性のある形で決着をつけなければならないのである。

さて、筆者が個人的にキリストの十字架の死と復活のより深い意味を知って、関東へ来た2009年8月に政権交代があった。おそらく、その頃、関東へ来た筆者に求められていたのは、人間の指導者につき従わず、神にのみ従って歩むことであり、決して、人間の指導者を頂点とする組織に所属することではなかったものと思う。

その点で、KFCは偽りであり、その他の人間のリーダーを担ぐすべての交わりや集会も虚偽であった。牧師制度と手を切りながらも、それと類似するすべての人間による支配を断ち切り、その偽りなることを証明できなかったことが、筆者の霊的停滞の原因なのであり、今から考えると、そのようにしてリーダーを担ぐ団体の虚偽なることを証明することこそ、筆者に当初から求められていた課題だったのであろうと考える。

筆者は、その当時、聖書に基づくエクレシアを探し求めていたとはいえ、それはKFCや、誰かをリーダーとし、その人間を事実上の神とする集会に受け入れられたり、その集会にいる信者らと仲良くして、そこに定着することとは全く無関係であった。そのようなことを目的に、筆者はこの地へ召されてやって来たわけではない。神が筆者を召し出されたのは、人間的な思いや欲望に基づいて、人間の作ったヒエラルキーに依存する自己満足的な共同体を作って、それをエクレシアと呼ぶことでは全くなかった。そのような悪しき目的とは全く異なる目的が、当初から存在していたのである。

人間を中心に作り出された団体は、すべて過ぎ行くアンシャン・レジームに過ぎず、万民祭司とされているこの時代、いい加減に、現人神なる人間のリーダーに従うという腐敗とは一切無縁の、新しいエクレシアの姿が出現しなければならず、新しい時代が来なければならないのである。筆者はその新しい時代の新しい思想の担い手としてこの地へやって来た。その後、長く続く停滞が訪れたように見えるが、それでも、筆者が召された当初の目的が変わらないならば、遅かれ早かれ、その目的は姿を現すのであり、それは筆者が人間の生まれながらの情愛に基づく肉なる絆を根こそぎ断ち切り、神の国の権益にのみに立つ者として行動するときに初めて可能となるのだろうと思う。

筆者はアダムに属する「人類」を離れる覚悟を固めねばならないわけで、今その時が来ているように思う。筆者は、筆者が杉本や村上に対して訴訟を起こすことが、地上のアダムとしての出自を完全に断ち切ることとどこかで霊的につながっていると考えている。これまでの筆者は、人間的な感情を優先しすぎるがゆえに、してはならない妥協をし続けて来たのである。その人間的な感情こそ、牧師制度に類するすべての制度を偽りであるとして、毅然と退けることをしなかった筆者の甘さなのである。(今、そうした呪われた団体が、どれほど筆者の足手まといとなっているかを考えればそのことは明白である。)

そこで、筆者は人間的な情愛を優先するがゆえに、物事を曖昧にしたまま決着をつけずに終わりにしようとする甘さを根こそぎ払拭せねばならないと考えている。

一部の人々は、筆者が訴訟を提起しようとしていることを、あたかも筆者の個人感情に基づく残酷な報復措置であるかのように主張するかも知れないが、その考え方は転倒しているとはっきり言う。

物事にきちんと決着をつけないまま、無責任なネット上だけで、当事者でもない者が、野次馬のごとく対立を煽りつつ、責任の所在も分からない匿名のコメントを延々と半永久的に書き連ね続けることの方が、訴訟を起こすことに比べ、はるかに残酷で無責任で有害な行動であり、かつ限度を超えて行き過ぎた報復措置、私的制裁であると言えよう。そのような無責任な行動に比べ、この世の法に従い、きちんとルールを守って論敵と対峙することは、はるかに公正かつ公平な措置であり、それにかかる時間も限られているし、それによって下されるペナルティの度合いも限られている。
 
筆者がもしも自分の個人の利益を優先したいだけの人間であれば、これほどの手間暇を裂いて、ペンテコステ・カリスマ運動の異端性や、カルト被害者救済活動の誤りや、グノーシス主義の分析など行う必要もなく、早々に取引に応じて、不都合な記事を削除してもらう代わりに、手間のかかる当ブログにおける議論もさっさとやめてしまえば良いだけである。

だが、問題は、筆者個人の利益などではなく、聖書の御言葉の真実性という永遠のテーマなのである。聖書の神が否定され、神の御言葉が曲げられ、キリスト教が歪められ、神の教会が蹂躙され、正義が曲げられ、真実が葬り去られようとしている時に、筆者が、自分の利益が最優先だからと、悪魔との取引に応じて沈黙したりすれば、来るべき日に、神は筆者に向かって「わたしはあなたを知らない」と言われ、筆者は恥ずべきクリスチャンとして見捨てられるだけである。

繰り返すが、ここで問題となっているのは、個人の利益などではなく、神の国の権益である。自分の個人的・地上的な利益よりも、神の国の権益を優先し、主と共なる十字架において古き人としての自己を完全に死に渡すクリスチャンが現れないことには、神の国の地上における前進もない。

代価をいとわず、主と共なる十字架において自己を徹底的に死に渡すという過程を、信仰によって貫き通す個人が現れることによって初めて、神の国の前進が地上にもたらされるのであって、誰一人としてそのように代価を払って主に従う者も現れないならば、そんな社会を神が守らねばならない義務はない。そのような社会は、教会も含めて、ますますバビロン化が進み、ソドムとゴモラ同様、地獄のようなところになって滅びるしかないであろう。

日々代価を払って主に従うクリスチャンの信仰を通して、初めて神の国が地上に引き下ろされるのであり、そのようにして神に従う一群が現れる時、初めて、教会だけでなく、この世の地上の政治体制にも影響が及び、変化が訪れるのである。
 

キリスト教が信仰によって「神を知る」ことが可能であるとしているのに対し、「神は不可知である」とするグノーシス主義が人類にもたらす悲劇

さて、筆者が当ブログを始めたのは2008年頃であるが、その頃から、当ブログでは、キリスト教界に誤った教理が満ち溢れていることを検証し、牧師制度の誤りを主張し、聖書に基づく真実なキリスト教とは何なのか探求して来た。

当初は「何が誤った教えであるか」ということに重点的に目を向けていたが、「何が真実であるか」に注意を払わねば、偽りを明るみに出すこともできないと気づき、途中から、当ブログでは、改めて聖書の御言葉に立ち戻り、神ご自身を真剣に尋ね求め始めた。

その過程で、聖霊派の教団の中などにいたのでは、決して知る機会もなかったであろう聖書の真理(キリストと共なる十字架の死と復活という十字架のより深い働き)を知らされ、筆者は、初めて以下のエレミヤ書にあるように、聖書に書かれている「主を知る」ということの意味を知ったのである。
  
「しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。
すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。 」(エレミヤ31:33-34)
 
前の記事で、贋作は、オリジナルと対比されて初めて、贋作であることが証明されうると書いたが、その原則は、何が正しいキリスト教であり、何が誤ったキリスト教であるか、という問題を解く際にも、同じように適用される。

我々自身が、真実なキリスト教の信仰に立ち、神によって選び出され、神の子供とされた、主を知るクリスチャンとして生きないことには、どれほど偽りのキリスト教を分析し、非難したとしても、それを当事者として「神の国の権益に関わる被害」として訴えることができないのである。
 
クリスチャンとは、文字通りの意味では、「キリストに属する者」、「キリストの復活の証人」であるが、現実には、クリスチャンを名乗っているすべての者が、必ずしもキリストのものとされた、キリストの証人であるわけではない。

今日、クリスチャンを名乗っている人々の中には、数えきれないほど、神を知らず、キリストのものとされておらず、神を知ろうともしていない人々が存在する。毎週日曜、どこかの教会で開かれる礼拝に出席し、讃美歌を歌い、聖書を読み、うわべだけ敬虔そうに見える生活を送ることによって、神を知ることはできない。そういう形式を通して神に近づくことはできない。

「イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝するときが来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:21-24)

このように、神を礼拝するとは、日曜ごとにどこかの団体へ出かけて行き、人間に過ぎない誰かの語るメッセージに耳を傾けることとは何の関係もないことである。「神を知る」ことは、聖書の御言葉に立つ信仰によって、人の霊の内側で起きることであり、神によって与えられる啓示であるため、形式によってそのような啓示を得ることは誰にもできず、それを外側から見て分かるように客観的に立証することもできない。

そこで、誰がキリストに属する本当のクリスチャンであって、誰がそうでないのか、我々が、それを区別するために与えられている唯一の方法は、外見的要素によってそれを区別しようとすることではなく、ただその人物が述べた言葉や行動を、聖書に照らし合わせて検証することだけである。その人間が述べている証の言葉とその人物の行動を検証することだけである。

そのような検証作業によって初めて、クリスチャンを名乗るある人物が、本当に神に知られているクリスチャンであるのか、そうでないのか、その人物を導く霊の性質を確かめることができる。

その人物が真にキリストの証人であれば、その人の言動には、聖書との齟齬がないはずである。だがもし、その人の言動に、嘘やごまかし、自己矛盾、トリック、歪曲、捏造などが見られ、聖書との齟齬、不透明さが見つかれば、その人は見せかけだけの信者で、内的では、キリストを全く知らず、キリストの御霊に導かれてもおらず、神の子供とされてもいない、非クリスチャンである可能性が極めて高い。

主を知らずとも、様々な教義を身にまとい、うわべだけはあたかも神を知っているかのように、敬虔そうに振る舞うことは可能である。しかし、それがその人の内側の本質から出て来るものでない外側の演技のようなものに過ぎなければ、必ず、その人の言動は偽善的なものとして、あちこちにほころびをきたすことになる。
 
だからこそ、聖書は愛する者たちよ。 すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。 多くのにせ預言者が世に出てきているからである。 」(Ⅰヨハネ4:1)と言うのである。

さて、ようやく話を本題へ戻すが、当ブログでは、今日、あたかも正統なキリスト教であるかのように、プロテスタントの一部を占めているペンテコステ・カリスマ運動は、「偽物のキリスト教」であって、もとを辿ればグノーシス主義に行き着くことを再三、述べて来た。

グノーシス主義とは、一言で言えば、創造主ではなく被造物を崇める「被造物崇拝」の教えである。 筆者が幾度となく強調して来た、異教的な母性崇拝の原理(「イゼベルの霊」)も、被造物崇拝を指すのである。

異教的な女性原理の崇拝における「女性」とは、文字通りの女性ではなく、神の助け手となるべく、霊的な女性として神によって創造された人類を指す。

「イゼベルの霊」の教えとは、要するに、人類を神以上に高く掲げて神として賛美する教えなのである。

この世には、表面的に見れば、様々に異なる思想が存在しているように感じられるかも知れないが、根本的には、大きく分けて、たった二つの思想しか存在しない。キリスト教とグノーシス主義である。

異端はすべてグノーシス主義に由来するものであり、究極的には「被造物崇拝」の教え、人類の自己崇拝である。

だからこそ、異端や異端化されたキリスト教には、必ずと言って良いほど、目に見える人間を指導者として担ぎ上げ、その人間をキリスト以上の存在として絶対化するという特徴が現れるのである。

そして、それに基づいてこそ、筆者は、牧師制度とは、グノーシス主義にルーツを持つ、聖書に根本から抵触する制度であり、牧師制度を取り入れた教会は絶対的に腐敗すると述べて来たのである。

さて、キリスト教とグノーシス主義という、真っ向から対立する二つの思想には、数えきれない違いが挙げられようが、根本的な違いは一つであり、それは「人間には神を知る道があるのか、ないのか」という問いに対して、両者が正反対の答えを出している点にある。

結論から言えば、聖書が「父なる神」は「わたしは有る」(出エジプト3:14)という方であって、れっきとしたリアリティであり、信仰を通じて、人は神を知ることができるとしているのに対し、グノーシス主義は、「父なる神」をフィクション同然の概念とする。

聖書の記述はすべて「父なる神」の計画を中心に「父なる神」の観点から書かれたものであるのに対し、グノーシス主義の神話的プロットは、すべて「父なる神」に創造された被造物の側から、被造物の都合に従って書かれた物語であると言える。

聖書の記述が、「父なる神」の御思いを中心に展開される物語であるのに対し、グノーシス主義の物語における主役は、「父なる神」(真の至高者)ではなく、「父なる神」に創造された被造物なのである。

グノーシス主義における「父なる神」(真の至高者)は、人格もなく、意志もなく、存在すらも、あるかないか分からない「虚無の深淵」であり、いわば、被造物の存在に口実や意義を与えるための添え物のような、名ばかりの存在に過ぎず、物語の最後まで、確固たる登場人物として自分自身を現して舞台に登場することのない不可知的存在である。

こうして、グノーシス主義の本質が、父なる神の概念を「フィクション」とするところにこそ、この偽りの神話とそれに導かれる人々の悲劇の根本原因があるのだと言える。

当ブログでは、以前から、グノーシス主義とは、「母の過ち」によって生まれた「父なし子」としての人類が、確たる証拠もないのに、「父なる神(真の至高者)」の子孫であると一方的に名乗り出て、神の家への復帰を企てるという、実にナンセンスな「神の家の乗っ取り」物語であると主張して来たが、大田俊寛著『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』(春秋社、2009年)は、この考えに驚くほど多くの裏づけを与えてくれる。

この文献は決してグノーシス主義を批判するために書かれたものではないが、それにも関わらず、グノーシス主義における「父」とは何かというテーマだけでなく、「父」を喪失した人類が、完全な自己や、健全な「自己愛」を探し求めて、精神分析やカウンセリングやインターネットといった「鏡」を通しての自己認識に病的に明け暮れるようになることの危険性など、まさにペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが陥っているいくつもの「病理現象」についても、実に多くの示唆を与えてくれる。

この文献を参照しつつ改めて思うことは、ペンテコステ・カリスマ運動の本質はまさにグノーシス主義であり、グノーシス主義とは何かを理解することによってしか、この運動の誤った本質を明らかにすることは決してできないということである。

ペンテコステ・カリスマ運動があたかもキリスト教であるかのように理解して、聖書だけを用いて、この運動の間違いを分析しようとしているうちには、決して解けなかった実に多くの謎が、この運動がグノーシス主義を手本に出来上がったものであると仮定すれば、驚くほどあっさりと解けるのである。

今日、グノーシス主義の研究なくして、キリスト教に流入し、襲いかかっている異端の本質を掴むことが、どれほど困難であるかを思わされる。初代教会があれほどの労力を費やしてグノーシス主義と格闘し、対決したのは、決してゆえなきことではない。現代にも、グノーシス主義という異端がゾンビのようによみがえり、見えないところで教会に襲いかかり、キリスト教を骨抜きにしている事実に、クリスチャンは決して無知であってはならないと筆者は確信する。

「随想 吉祥寺の森から」の杉本徳久の答弁書を通して見るグノーシス主義者の空虚な自己の本質

~「父なる神」をフィクションとし、人類をもフィクションとするグノーシス主義を信じる人間の自己の内面の空虚化と荒廃の実例~

さて、このところ、政局が目まぐるしく変化しているので最初に一言述べておきたい。昨年、7月末から大阪拘置所に長期拘留され、家族との面会すらも断られ続けて来た籠池泰典氏に野党がようやく接見を果たしたという。

裁判もなく詐欺罪の容疑だけでこれほど長期拘留する法的根拠は疑わしく、ただこれ以上安倍政権に不利な証言を行わないよう、口封じのためだけに、勾留されているのは明らかである。今や安倍政権にたてつく「政治犯」を収容する監獄のようになりつつある大阪拘置所が「バスティーユ監獄」にたとえられ、首相夫人(安倍昭恵)が「マリー・アントワネット」になぞらえられるのはまことに無理もない。

「私人」と言いながら、歴代の首相夫人と比べても、破格の特権的な待遇で警護され、公務員の付き人を5人もつけていたこともあるという昭恵夫人は、夫である首相が国会で厳しい追及を受けている最中にも、全国各地での公演活動をやめず、野党を罵倒したり侮辱するような書き込みに、軽率に「いいね!」ボタンを押してはひんしゅくと買っている。このように状況をわきまえない奔放な行動を繰り返すお騒がせ者で、その上、森友事案に深く関与したことが明白となり、国有地の不当な売却や、公文書改ざんという重大な犯罪に関与した疑いが濃厚であるのに、国会への招致も拒み、権限もないのに国政を陰から操る「私人」に、公金を大量につぎこむ意味がどこにあるのかと、国民に怒りがおさまらないのは当然だ。そうした総理夫人の姿が、民衆が飢えている時に「パンがないなら、お菓子を食べれば良いじゃない」と言い放ったとされるマリー・アントワネットの姿を彷彿とさせるのは仕方がない。

さらに、安倍首相の八方美人的な外交も行き詰りに達し、トランプ大統領からも「人を出し抜こうとして薄ら笑いを浮かべている」かのように勘ぐられて疑いの眼差しを向けられ、ロシアからも北方領土を返せる見込みなど全くないとの宣告を突きつけられて共同開発も進まず、国際的に、もはや相手にする者もなくなりつつある状況を見ていると、国内にも国外にも逃げ場のなくなりつつある安倍夫妻は、やがて本当にルイ16世とマリー・アントワネットのような終わりを辿るかも知れないと感じられて来る。

筆者は、これを機に、我が国に新たな革命勢力が台頭すれば良いと言いたいわけではない。この政権が転覆した後に、どういう時代が来るのか、それは一つの懸念事項である。だが、いずれにせよ、安倍政権が終わらないことには、この国にはいかなる希望ある未来もないことだけは確かであろう。そのことはもはや国民の共通認識に近くなって来ているように感じる。

安倍政権に盾突いた人々が、官僚であれ、民間人であれ、執拗に人格攻撃を受けては、社会的に抹殺され、ブラック企業や裁量労働制などが実質的に広がり、国民の貧窮化が進み、国力が低下している中、国家総動員体制のような無理な苦労が国民に要求され、税は重くなる一方で、軍備が拡張され、最後には、政権が誤った政策を自ら認めて撤回することができないプライドのゆえに、再び、軍事力に頼って無謀な戦争を起こしてすべてを都合よくオールリセットしようとするしか残された道がなくなるという、一度すでに辿り、結論が初めから見え透いている破滅へ転げ落ちるだけのこの暗黒時代が早く終わらないことには、この国には何一つ進歩もなく、希望ある未来もなく、未来が向こうから愛想を尽かして立ち去るであろう。
 
さて、筆者は政治家ではないので、政治運動に参加することを通して政局を変えようとはしないが、クリスチャンとして、霊的な戦いを勇敢に戦い通すことによって闇を払うことに貢献できると考えている。それが当ブログの役割なのである。

当ブログが聖書に基づく真実な信仰を求めて探求を始めたのが2008年、それから一年近くで、筆者自身が神と出会うという実りある収穫を得て、2009年8月末に戦後、初めて政権交代がなされたが、こうしたことが偶然に起きたようには思われない。
 
また、この度、籠池氏に野党が接見を果たしたのが、ちょうど筆者が当ブログに執拗に根拠のない言いがかりをつけては記事の削除を要求し続けて来たブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および、杉本に筆者の個人情報を提供して誹謗中傷を幇助した疑いが濃厚であるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密を民事調停に呼び出した日に当たることも、とても偶然とは思われない。


・ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が民事調停で出した空疎な答弁書とグノーシス主義の関連性について

ちなみに、杉本徳久と村上密に対して当ブログが起こした民事調停は、予想の通り、まるでお子様のようなレベルでしかなく、筆者が出した100枚近くの答弁書は、十分に訴訟に対応できる内容であり、民事調停のレベルをはるかに超えていたため、一刻も早く訴訟に移行すべきものと思う。

だが、お子様のレベルの「話し合い」とはいえ、叩けばそれなりに埃は出るもので、今回、収穫がゼロだったわけではない。

村上密は予想通り、具体的な反駁も寄越さず、調停に姿を見せることもなかった。その一方、杉本徳久は当日になって時間ぎりぎりに現れ、たった2枚しかない人を馬鹿にした内容の答弁書を提出した。

今回の二人の対応から、これまでクリスチャンや教会に次々と言いがかりをつけては、裁判に及んできた村上密と杉本徳久の正体が、さらにはっきりしたと言えよう。

村上は、自分に不利な訴えには極力、耳を貸したくないという狡い性格の持ち主であり、杉本も、とてもではないが、訴訟に対応できるような人物ではない。クリスチャンをこれまで訴訟によって恫喝して来たこの二人が、実際には、自ら訴訟を受けて立つような力量が全くない人間であることは、今回のことではっきりと証明されたと言えよう。

以下で記す通り、杉本の答弁書における反駁を読めば、それがまるでお話にならないほどに幼稚なレベルのものであることは、誰にでも分かる。

むろん、杉本には弁護士などいなかった。あれほど筆者に向かって、再三、弁護士を通じて連絡せよと要求し、弁護士相手でなければ、話にもならないという態度を見せていたにも関わらず、結局、杉本には、自分が訴えられた際、弁護士をつける経済的余裕が全くなかった様子が、今回のことで明らかになったのである。

ちなみに、杉本徳久は、株式会社メディアテラスの代表を名乗っている人物であるから、単なる一般人としての「私人」ではない。杉本の行為は、すべてこの会社の代表としての振る舞いであると世間に受け止められることになる。

それが、期日当日の時間ぎりぎりになって、ようやく裁判所に答弁書を出すというのは、まるでブラック企業に雇用された悪徳弁護士が使うような汚い手口である。そういうことをすると、参加者全員が、事前に答弁書をきちんと読んで協議に備える時間がなくなるため、審理に悪影響を及ぼす。いたずらに協議を長引かせて結論を先送りすることだけを目的とする、非常に印象の悪い、人を馬鹿にした利己的な行動である。

さらに、杉本が出して来た答弁書は以下の通りであるが、その内容を見ると、基本的な言葉遣いさえなっておらず、証拠書類の番号の振り方さえ間違っており、弁護士が一度も目を通していないことが明白であるだけでなく、大の大人が書いた文章とも思えず、小学生程度の算数さえできるのかどうか危ぶまれる内容である。

  
(図1、2 杉本徳久が民事調停の期日当日に提出した「とんちんかんでお話にならない」ほど幼稚な答弁書)

杉本は答弁書の冒頭において、筆者の主張を「棄却する」などと書いているが、正しい表現は、「否認する」である。訴えを棄却するのは裁判所にも関わらず、まるで自分に誰かの訴えを「棄却する」権限があるかのように考えているこの言葉からも、杉本の傲慢さが透けて見える。
 
 杉本はこのたった2枚しかないあまりにも手抜き作業であることが明白な答弁書によって、筆者の訴えを一方的に「棄却」したつもりになっている上、調停を起こす費用もすべて筆者に負担させた上で、自分は一銭の賠償金も支払うことなく、勝手に「3日以内」と根拠も不明な期日を一方的に指定して、自分のブログ記事を削除する代わりに、筆者のブログからも、都合の悪い記事を削除せよと叫んでいるのである。

きちんとした弁護士であれば、申立書に記された一つ一つの項目ごとに、きちんとその内容を踏まえた上で、否認する旨とその具体理由をちゃんと書き記すものであるが、杉本の答弁書には一切、具体的な反駁がなく、反論している内容さえ、申立書には書かれていない内容ばかりである。

筆者の申立書には、段落ごとに番号もふってあり、無数の段落がある。それがたった2枚の答弁書の数行だけの文章で、筆者の全ての主張に反駁したつもりになり、これを「棄却する」とまで宣言しているとは。厚かましさ・愚かさに呆れ果てることを通り越して、もはやただ苦笑するのみである。

小学生でももう少しましな文章を書くであろう。しかも、杉本が出した証拠の大半も、筆者のブログをただ印刷しただけのもので、答弁書の本文と照らし合わせても、必然性が全く感じられない添付書類であった。その上、証拠書類の番号のふり方さえ間違って、番号が飛んでいるのだから、夏休みの終わりになって宿題を片づける小学生のように、期日当日になって慌てて作成したのだろうと笑うだけだ。

杉本が弁護士に相談を行った実績がないことが、この答弁書の内容からはよく分かる。無料相談くらいなら、利用したかも知れないが。

要するに、杉本の答弁は、杉本自身の言葉を使えば、完全に「とんちんかんでお話しにならない」レベルのものであり、とことんまでの手抜き作業であり、さらに、杉本が筆者に投げつけて来た言葉を使えば、この答弁書こそ、「思い上がった上に、市井の常識をわきまえない、あまりにも自己中心な内容」と非難されてしかるべき内容であったと言えよう。

筆者は近々、このようにお子様レベルの不毛な民事調停を打ち切って、訴訟に移行するつもりである。訴訟となれば、こんな人を馬鹿にした無内容の答弁書など提出している余裕などは全くない。信憑性のある反駁ができなければ、敗訴に終わるだけである。また、村上密も反駁を寄越さないわけには行かなくなる。さらに申立内容によっては、申立人の住所地で裁判を行う道が開けるため、わざわざ被告の住所地へ足を運ぶ手間も省ける。移送を申し立てても、被告の希望が認められる見込みはほぼなくなるであろう。

以上のような経緯から察するに、杉本と坂井氏が対決したという裁判も、しょせん、民事調停以下のレベルだったのだろうと想像されてならない。つまり、杉本は、きちんとした訴訟が提起されれば、およそ勝ち目のない人間であり、これまでただ自分の方から先に訴訟をふっかけることにより、心の準備のできていないクリスチャンを恫喝して黙らせて来ただけなのである。

かつて杉本徳久は2009年頃に、2ちゃんねるの書き込み内容が名誉毀損であるとして、2ちゃんねるに削除要請を行おうとした様子が、掲示板「株式会社メディアテラス(杉本徳久)」に残っている。

確かに2ちゃんねるは悪質な掲示板であり、しかも、杉本がこの当時から2ちゃんねるに、コメント番号を指定することさえも不可能なほどに大量の書き込みをされて、ほぼストーカーのごとく追いかけられていたことを考えれば、多少、彼の言い分にも、同情の余地があると言えないわけではない。

だが、それでも、そのような事態となったのは、杉本自身が自らのブログであまりにも多くのクリスチャンに自ら喧嘩を売って、実名で誹謗中傷を重ねて来た結果であることや、また、削除を要請するに当たっては、どんな掲示板であろうと、どれほど書き込み数が多かろうと、杉本自身が、どの部分をどんな理由で削除依頼するのか、手間がかかっても、やはりそれだけは最低限度、明らかに指定しておかねばならないことを考えれば、一方的な同情の余地は残らない。

その当然の形式を整える手間を怠ったがゆえに、杉本は2ちゃんねるに削除依頼を出しても、依頼として扱ってももらえないまま、門前払いされた経緯がよく分かるのである。

こうしたことからも分かるのは、杉本徳久は、常に自分が主張している内容の正当性を、他者にも客観的に分かるように具体的に根拠を示して証明するという作業をしないということである。今回の民事調停の答弁書もそうなのであるが、杉本はいつも「自分が迷惑を受けて嫌な思いをしていることは、あなた方にも当然、分かるはずだ!」という理屈で、自分の要求を何一つ客観的に証明することなく、相手がそれを理解して飲むのが当然であるとして、一方的に押し通そうと突きつけて来るのである。

しかも、杉本は、そうして客観的な手間を省いた分だけ、常に刑事告訴やら、民事提訴やらといった脅し文句を凶器のように振り回して、相手に要求を飲めと脅すばかりなのである。

杉本はこうした手抜きな要求の結果として、以上の掲示板でも、自分の出した削除依頼を、必要条件を全く満たしていないため審査にも考慮にも値しないと言われて「棄却」され、「門前払い」された上、削除を求めた書き込みや、そこで引用した誹謗中傷のコメントの転載も含めて、それをさらに半永久的にさらしものとされる材料として増し加えてしまい、削除依頼をもあきらめざるを得ない結果に追い込まれたのである。

2ちゃんねるはこのように悪質な掲示板であるとはいえ、それでも、2ちゃんねるで事件に巻き込まれた人々の中には、努力に努力を重ねて、刑事事件にこぎつけたり、その他の方法で、第三者機関を通して、削除にこぎつけている例もある。

彼らはおそらく膨大な手間暇をかけては証拠書類を集め、読みたくもないコメントを一つ一つ丹念に探し出してコピーし、番号を指定して、そこでどんな人権侵害が行われているのか、何が事実であってそうでないのか、自分の主張を精魂込めて練り上げた上、しかるべき場所に書類を持参し、何度も何度も様々な公的機関に足を運んで話を重ねつつ、あきらめることなく、自分の主張が認められて実現にこぎつけるまで、手続きを重ねて来たのである。

ところが、杉本は、そうした努力を一切払わず、ただ「私が言いたいことはあなたにも分かるはずだ」という子供のような理屈で、常に周囲の者たちが、自分の意向を「忖度」してくれるよう当然のごとく求め、「忖度」してくれない他人は、告訴したり、個人情報を暴露するなどと脅して言うことを聞かせようとし、筆者のような形で事件を解決しようとする他人が現れると、その他人の努力に便乗して、調停や裁判を自分のリクエストを提示する場として都合よく利用しようとするのである。

しかも、訴えを起こされても、自分の非を一切認めず、何の譲歩も行なわずに、ただ他人だけに一方的な代価を払わせて、自分の願いを実現しようとするのである。そこに、杉本徳久という人間のどうしようもない卑怯さ、利己主義、怠慢が見て取れる。

杉本は、筆者に送りつけて来た恫喝メールの内容からも分かるように、おそらく、これまで自分の願いを実現するために必要となる苦労をして来たことがないのであろう。周りの者たちが、常に自分の意向を尊重してくれて、面倒な作業を何もしなくても、願いが叶うのが当然という環境で、甘やかされて育って来たのではないかと想像される。

自分よりも強い者には媚びておとなしく従うが、そうして自分をひっこめて願いをあきらめた分だけ、自分よりも弱い者を恫喝し、八つ当たりすることでしか、自分の弱さ、卑怯さ、臆病さをごまかそうとするしかないのだろう。

杉本が勝訴した裁判がこれまでにいくつかあるそうだが、こんな風に自分の主張を客観的に論証する手間さえ省く無精者に敗訴するなど、あまりにも恥ずかしくみっともなく馬鹿げたことである。多分、訴訟に及ばれた側が、あまりにも不慣れで、心の準備ができておらず、弁護士を雇ったりして、十分に対策を打つ手間暇がなかったせいでそうなっただけであろう。クリスチャンの中には、そういう風に世の事柄に格別疎い人々も多い。

この度、杉本が出して来た答弁書を見るにつけても、このような手抜き作業では、訴訟には絶対に勝てないことは明白である。弁護士がついているかどうかといった問題ですらない。たとえ弁護士がついていたとしても、依頼人自身が、自分が何を言いたいのかさえ分からず、自分の主張を明確にして相手に反駁することさえできない状況で、当事者でもない弁護士が、それを補って完璧な主張を作り上げてやることは無理である。

まあ、とてつもない大金を積めば、そういう面倒な作業をも代行してくれる弁護士がいないわけではないだろうが、企業であればそういうことができても、個人のレベルではまず無理である。だから、この答弁書を見ただけで、いざ訴訟になった時の結果は初めから明らかだと言えよう。

繰り返すが、これが今まで数々のクリスチャンを訴訟の脅しで黙らせて来た男のみっともない答弁なのである。まだ分析は以下でも続くが、まずはよくよくご覧になられたい。

さて、このようにお子様レベルの民事調停であるとはいえども、それでも、杉本が今回、出して来た証拠の中にも、それなりに収穫と言えるものが、二つだけあった。

それは、杉本の生年月日を記した社会福祉士登録証と、唐沢治が杉本に送信したというメールである。


(図3 杉本が出して来た社会福祉士の資格者証 社会福祉士にあるまじき社会的弱者への侮蔑・嘲笑をブログで公然と行っておきながら、こうして資格を誇示しようとする態度に呆れる。しかも、資格取得から2年しか経っていないのに、自分は駆け出しに過ぎないという認識が全く欠けている様子にも呆れ果てるのみ。)

杉本徳久は、大学院修士課程まで出ており、博士号の取得は諦めたようであるが、修士でも、研究者として生きるのでなければ、一般人の学歴としては十分であろう。にも関わらず、杉本は博士号を取得しなかったことが、それほど自信喪失やトラウマにつながったのであろうか。大学院卒の肩書では満足できなかったようである。

杉本はこの度、社会福祉士の国家資格を取得したことが、よほど自慢の種だったらしく、唐沢のメールの文面からも、杉本がソーシャルワーカーの資格を取得したことを唐沢に向かって大いに自慢していたらしい様子が読み取れる。


(図4 唐沢治が杉本徳久に送ったメール。唐沢の信用ならない嘘つきな性格がよく分かる内容であり、唐沢が水面下でどれほどこれまで事態を常にこじらせてきたか、その様子も見て取れるが、それでも、杉本が坂井氏と唐沢を裁判で破ったにも関わらず、2017年になってもまだこうして唐沢にも筆者と同様に因縁をつけては絡み続け、嫌がらせメールを送りつけていた様子にも、唖然とし、恐れ入ると苦笑するほかない。杉本は、こうして明らかになっている人々の他にも、一体、どれだけの人物にこうして隠れたところで言いがかりをつけては嫌がらせメールの送信を繰り返して来たのであろうか。)

だが、このタイミングで、杉本が自分が何より大切にしている国家資格者証を、筆者に向かって出して来た気が知れない。

特に、杉本が今までクリスチャンに対して裁判をしかけては個人情報を収集し、その情報をダシにして、クリスチャンを貶め、中傷して来たことを思うと、まさにそれは自滅行為であるとしか言えない。

杉本徳久や、村上密が、これまでクリスチャンに対して取って来た行動は、古代社会における、シャーマンの呪詛の祈祷をも思わせるものである。

古代社会や、今でも文明の行き届いていない社会では、シャーマンのような呪術師が、誰かから金をもらって、ターゲットとする人を呪い殺すための祈祷を捧げる依頼を受けるなどのことが、おそらく日常的に行われていると思われる。

その際に、シャーマンは、依頼者に、ターゲットとなる人物の髪の毛など、身の回りの品を持って来させ、それをもとに藁人形などを作っては、その人形を本人に見立てて、連日、呪いの祈祷を捧げるのである。

筆者は、村上密や杉本徳久のして来た行為は、シャーマンによる「呪い」や「冒涜」とほとんど変わりないものだと考えている。彼らは自分たちが憎んでいる相手(クリスチャン)の個人情報を何らかの方法で入手しては、それを不当な形で利用して、その情報を土台に、まるで「藁人形」でも作るように、本人の歪んだ「像」を作り出し、その像を侮辱・嘲笑することで、ターゲットとなる人間の人生に危害を加えようとして来たのである。

杉本は自分がこれまでそのようにクリスチャンをターゲットとして呪詛のような行為に及んできた事実を少しでも考えれば、自分が宝としている情報を、敵方のサイドに提供することが、どれほどの自滅行為であるか、分からなかったとは思えない。

しかも、当ブログでは、杉本の行った行為は、ソーシャルワーカーの信用を著しく傷つけるもので、国家資格の剥奪に値すると何度も書いているのである。

にも関わらず、杉本が危険もかえりみずに以上のように国家資格者証を誇示したことは、筆者から見れば、杉本を破滅に導こうとしている悪霊のなせるわざであるとしか言えないのである。

これまで書いて来たように、社会福祉士の仕事内容は、社会的弱者を助けることにあり、社会的弱者を嘲笑したり、罵倒することにはない。精神障害者も、社会的弱者に含まれるのは明らかだ。にも関わらず、杉本は、筆者のような健康な人間を、何の根拠もなく精神異常、人格障害と決めつけて罵倒・嘲笑した上、さらに、精神障害者が一般的に就労困難であったり、社会に適応困難な状態にあるなどの苦しい状況をあげつらいながら、これを罵倒・嘲笑したのだ。

自分が助けねばならない社会的弱者全般をターゲットとして侮辱するようなソーシャルワーカーが全国のどこにいるだろうか。こうした記述内容を通して、杉本がおよそソーシャルワーカーにふさわしくない人格の持ち主であることがよく分かるのである。

杉本が資格を取得したのは、決して社会的弱者を助けるためではなく、ただ自分よりも弱く困っている人間を上から目線で見下げ、彼らを「助けてやっている」という優越感を味わうためでしなかったのではないかと強く疑われる。

さらに、この証書を通して、杉本が国家資格を取得したのは、平成28年3月であり(交付は4月)、取得からまだたった2年しか経っていない事実も分かる。これでは、社会福祉士として、まだほんの駆け出しではないか。

現場で10年くらい実践を積み、プロと言えるような実績がそれなりに出来上がってから、人前で資格を自慢するならばともかくとして、よくもこんなにも短期間で、ただ資格を取ったという表面的な事実だけを理由に、これほど他者に対して傲岸不遜な態度に出られるものだと呆れざるを得ない。

筆者は、まだ唐沢治と親交があった頃、杉本が福祉関係の仕事を始めたという情報を入手した唐沢が「杉本にそんな仕事が続くはずがない」と述べて苦笑していたことを思い出す。

それでも、しばらくの間は続いたのであろう。だが、その努力すらも、今回のような行動を取ることによって、杉本は自分で台無しにしてしまっているのである。

杉本は、以前には、株式会社メディアテラスの代表であるという身分をしきりに強調していた。今やそれをあまり口にしなくなり、かえって、ソーシャルワーカーであることを誇示している様子を見ても、メディアテラスという会社は、ネットで幽霊会社と言われていることは事実無根でなく、極めて厳しい経営実態にあると懸念されてならない。

杉本は会社の事業として、音楽スタジオやら、他にも様々な事業を手がけようとしていたようであるが、あまりに手を広げすぎて、趣味と実益が結び付かなかったのであろうし、仮にそうした事業が先見性のあるものだったとしても、「随想 吉祥寺の森から」のようなブログで、あれほど数多くの人々の実名を出して誹謗中傷し、自分からクリスチャンを訴えるための争いを起こし、さらにそれを手柄のように吹聴していたのでは、会社の代表としては、およそ世間の理解や信頼を得られない。事業が成功する見込みを自ら潰しているも同然である。

杉本は筆者のように、杉本とは一切面識のなかった無関係な人間をも、ただインターネットで一つのコメントの削除依頼を受けたというだけの理由で、これほど長きに渡って執拗に脅しつけ、嫌がらせを重ねて来たのであるから、そんな人物と、ビジネスで金銭の絡む取引をしたいと願う人が現れるはずもないことは明白である。

しかも、以上の民事調停の答弁書を見ても、杉本が自分にとって不利な訴えは何一つ認めず、一銭の賠償金さえも払わず、他人の労に便乗して、自分の望む結果を得ようとしているケチさ、無精さ、利己主義がよく伝わって来る。そこから察するに、およそメディアテラスという会社が、自社の評判を大切にして、人との調和を重んじる会社だと考える根拠は何一つ存在しない。

昨今、中小零細企業の社長は、他人に向かって威張りちらしているわけにいかず、大変な苦労を背負っているものだ。旅行業やサービス業の社長は、社長と言っても、名ばかりで、実際には、顧客のクレームのために、社員が負わない苦情を一身に背負って、絶えず駆け回らねばならない。どれほど顧客から会社に言いがかりのようなクレームをつけられても、言い返さず、謙虚に頭を下げて誤解を解く努力を続けながら、人々の理解と賛同を勝ち得て、事業展開をせねばならないのだ。

それが、杉本のように、他人の些細な言動に腹を立てては、それを理由に、根拠もない言いがかりをつけ、記事を削除せよと一方的な要求を突きつけ、果ては告訴をふりかざして脅したりしながら、力づくで人に言うことを聞かせようと試み、果ては訴えられてもデタラメな答弁書ばかり出して身勝手な要求を繰り返すだけであれば、そういう人間をビジネスパートナーとして選ぶ人はいなくなるのが当然である。

どういう経緯があって事業展開が難しくなったのかは知らないが、杉本は会社代表という身分を誇示することが難しくなった次には、今度は、ソーシャルワーカーの資格に飛びつき、国からのお墨付きをもらい、弱者救済をライフワークとすることで、新たな活路と自信の源を見いだそうとしたのだと思われる。

だが、こうして、大学院、会社経営、社会福祉士と、次々と自分のよりどころとする立場や肩書を変え、自分の手がけた一つ一つの試みを、何一つ、時間をかけて苦労を耐え忍びながら成功へと導くこともできないままに、熱中の対象を次々と取り替え、うわべだけの資格によって身を飾ろうと試みても、そんな試みが成功へとつながる見込みは極めて薄い。だからこそ、今回のような藪蛇な展開になっているのである。

杉本は、今回、社会福祉士の資格者証を出せば、自分の身分保証や、信頼を得る材料となると考えたかったのかも知れないが、刑事事件で有罪が確定すれば、当然、国家資格を剥奪されるだけであると、当ブログでは再三、予告している。筆者から見れば、杉本はただ厚労省に資格取消を求めて通報される際の手間を自ら省いているだけなのである。

最後に、杉本は答弁書において、自分の身にまだ捜査が及んでおらず、逮捕令状も出ておらず、身柄拘束も、取り調べも行なわれていないことを理由に挙げて、自分が刑事告訴されたという事実そのものを否定し、今回の訴えは事件にならないなどと一方的に決めつけ、迷惑行為防止条例にて警告を受けた事実をも否定しようとしている。

杉本が、自分が告訴された事実を何とかして嘘であると考え、否定したい様子がひしひしと伝わって来る。いつものように、筆者の「狂言」と決めつけたいのだろう。

こうして、自分が名誉毀損で訴えられているにも関わらず、都合の悪い事実を否定するばかりで、事態を収拾する努力もせず、自分の人権侵害のブログをまるで取引材料のように振りかざし、筆者の起こした調停の場を自分に都合よく利用して、筆者のブログから気に入らない記事を削除させるための機会に変えようと、「喧嘩両成敗」に持ち込もうとしている態度に、どこまで常識がないのかと心底、呆れる。

しかも、杉本は例によってどの記事の削除を要求しているのか、自分の要求の内容さえも具体的に明らかにしていないのであるから、こんな主張は、最初から通る見込みがなく、なかったも同然に空中に散じ、胡散霧消していくだけである。

要するに、杉本の取っている行動は、自分の書いた犯罪的な誹謗中傷の記事をダシにして、依然、筆者を脅し、その記事を一刻も早く削除して欲しいと願うなら、筆者が刑事告訴を取り下げ、事件自体をなかったことにし、筆者のブログからも、杉本の気に入らない記事を即刻、削除して、杉本の犯罪行為をすべてなかったことにして水に流せと、筆者を脅しているのと同じである。

どこまで限りなく卑怯な人間なのだろうかと呆れるばかりだが、しかしながら、こうした杉本の主張が、この先、杉本に非常に不利な結果を生む材料となるのは避けられないだろう。

杉本は答弁書において警察から連絡を受けた事実を否定していないが、もしも杉本が名誉毀損で告訴されておらず、迷惑行為防止条例にも違反していないというならば、一体、何のために、刑事が杉本に連絡せねばならない理由があるのだろうか。

刑事は実際に杉本にブログの削除を要求しており、ブログを更新しないようにとも警告し、二度と筆者に関する誹謗中傷の記事を書いたり、嫌がらせメールを送信しないようにと警告し、この度、名誉毀損で告訴状が受理された旨も伝えている。警察が介入した結果として、杉本のブログの一つ「神々の風景 religsious scene」が実際に削除されたのである。

にも関わらず、杉本はこうした事実をすべて否定することが、この先、自分にどれほど不利な結果をもたらすかを予想していない。杉本の主張は、警察に向かって、「本当に事件になっているというなら、その証拠にちゃんと捜査令状、逮捕令状を出して、取り調べをしろ!」と言っているのと同じなのだが、警察とて、そうまで言われれば、事件になっていることを自ら証明せざるを得ない立場に追い込まれる。(警察も捜査義務を怠ったとして追及されることは望ましくないためである。)

杉本のこうした発言は、かえって敵方のアクションにきっかけを与えているだけであり、警察が民事調停で杉本が反省を示し、自主的に記事を削除するかも知れないことを最後の望みとして行動を留保して来ただけであるとは思いも至らないのである。

杉本はこれまでにも、自分の吐いた容赦のない言葉の報いとして、数々の災難を身に招いて来た。完全に自分自身の言葉で罠にはまってしまっているのである。

たとえば、杉本が根拠もないのに、当ブログで自分が「サタン呼ばわりされている」と主張したり、「自分が冒涜された」などと主張して、次々と当ブログへのバッシング記事を書かなければ、当ブログでも、反論のために杉本の名を記して記事を書き記す必要もなかったであろう。

さらに、もしも杉本からの当ブログへの一方的な刑事告訴の脅しがなければ、杉本自身が刑事告訴されるという展開にもならなかったろう。この他にも、杉本は「一度口から出した言葉は取消できない」と述べたり、「民事で巨額の賠償金を支払っても、刑事事件の捜査は続く」などと、自分で自分の情状酌量の余地をなくすような、容赦のない非難の言葉をブログで他者に向かって吐き続けている。

「人に憐れみをかけない者には、憐れみのないさばきが下されます。」(ヤコブ2:13)と聖書にある通り、他人に対して容赦のない態度を取った人間が、自分だけは憐れみを受けることはできない相談である。こうして他人に向かって吐いた憐れみのない言葉の数々が、すべて杉本自身に跳ね返ることになると、杉本は考えてもみない。これは悪霊が彼に言わせている言葉の数々であろうと思うが、大変に恐ろしいことである。

このように、自分の取った行為の責任ときちんと向き合うこともできない空疎な人間が、どんなにうわべだけ、様々な立派な肩書や資格を振りかざして身を飾ったとしても、しょせんクジャクの羽をつけたカラスでしかなく、決してそれによって内面の空疎さを埋めることはできない。

そして、内面が空虚であればこそ、こうした人々は、その空虚さを突かれ、自分を他者に奪われ続けるのである。

次回以降の記事でも詳しく論じるが、筆者の目から見れば、村上密も、杉本徳久も、唐沢治も、「自分がない」という点では、共通しており、内面の空虚さとコンプレックスを埋め合わせるために、常に他者の眼差しの中に、自分への承認や賛同を見つけようとし、それを通して、自己を取り戻そうと、「弱者を救済するヒーロー」のような虚構の自己を演じ続けているのである。

彼らにとっては、他者の眼差しこそ、自分自身を映し出す「鏡」であり、インターネットも、そのような「鏡」の一つである。彼らはこれまで、そうした「鏡」としての他人の眼差しの中に、他人が喜ぶような「理想的な自己像」を投影し、他者からの賞賛や賛同を得ることで、自分を確認しようとして来たのであるが、そういうありもしないヒーローのような自己像の演出を重ねているうちに、「鏡」を通してしか自己を認識できないという心理的弱点があだとなり、結局、「鏡」の方が「本体」以上のリアリティとなり、「鏡」に人生を乗っ取られてしまったのである。

彼らがブログ等において演出している「理想的な存在としての自己像」も虚構であると同様、その他の無数の歪んだ「鏡」が映し出す彼らの自己像も誤りであり、もはや彼ら自身が、どれが彼らの本当の自己像であるのかさえ、すっかり分からなくなっているのである。
 
「鏡」はしょせん「鏡」に過ぎず、そこに真実が映し出されることなど永久にない。鏡の表面には、凸凹があったり、光が乱反射したりして、「本体」を正しく反映することさえ、至難の業である。

にも関わらず、確固たる自分がない人々は、絶えず、他人の眼差しという「鏡」に映る自己像を確かめることでしか、自分を認識できず、自信を得ることもできないため、その弱さのせいで、どんどん虚構の「鏡」の世界に取り込まれ、他人に自己像を奪われ続け、ついに「鏡」の世界で「本体」を喪失したまま、帰らぬ人となってしまうのである。

これは大変に恐ろしい事態である。杉本は、すでに2ちゃんねるによって、長年に渡り、「自己像」を侵害されて、奪い取られ、上書きされ続けて来たが、今やその上に、唐沢のブログの指摘があり、当ブログの指摘もあり、多数の「鏡」によって、杉本の像は根本から書き変えられ続けているのである。

杉本はそれに抵抗するために走り回っているが、その主張があまりにもお粗末であるために、どこへ行っても相手にされず、それどころか、ついに杉本自身のブログが名誉毀損であり人権侵害であるとして削除され、消滅しかかっているのであり、さらにこの先、杉本の訴えが裁判においても「棄却」されるなどした日には、杉本にはもはや「自分自身とは何か」ということを、自らの口で主張する手段がなくなる。

こうして、ついに「本体」が消え去って「鏡」だけが残るのである。杉本が主張した内容はすべて無かったこととされて消え失せ、他者が杉本に向かって述べた様々な言葉や印象批評だけが、「杉本の像」として定着し、残って行くのである。

これが、他人からの「お墨付き」を得ることによってしか、自己を確かめられない空疎な人間が決まって辿る悲劇の結末である。

ところで、「剽窃」だとか、「乗っ取り」だとかいう主張が成立するのは、あくまで「本体」がれっきとして存在し、誰かがこれを証明しうる場合のみである。たとえば、無断複製を違法であると主張するためには、オリジナルの所有者が出て来て、オリジナルとは何かを提示した上で、問題となる内容がオリジナルから違法にコピーされたものであることを証明しなければならない。

オリジナルが存在しないか、誰もそれを証明できない事柄については、コピーという概念も存在せず、「贋作」や「無断複製」や「違法な改変」や「剽窃」という主張自体が成立しない。「本体」が確かに存在していないものについては、どんなにたくさんの歪んだ「鏡」が作り出されても、誰一人として、それを権利侵害だと主張できないのである。

杉本が、これまで自分自身に確かなよりどころとなる自己がないことを埋め合わせるために、会社の代表や、国家資格といったうわべだけのステータスで身を飾り、あるいは、苦しんでいる他者を助けることで、自分の内面の空虚さを補えるかのように考えたことは、錯覚でしかない。

そうしたものはすべて「鏡」なのである。そして、杉本ブログそれ自体も「鏡」である。そのような「鏡」に人が自分を映し出し、その像に熱中すればするほど、その人間は、確かなリアリティを失って、「鏡」の世界に自分を吸い取られて行くだけである。

そして、ついに最後には「本体」が「鏡」に吸収されて消失し、フィクションとなり、神話となり、その代わりに、ただ歪んだ「コピー」だけが、リアリティであるかのように残ることのである。

結論から言えば、グノーシス主義の本質とは、もともとオリジナルとしての「本体」が存在しない、無数のフィクションの物語である。

次回以降に論ずるが、グノーシス主義が「父なる神」をフィクションとしていることは、つまるところ、グノーシス主義が「父なる神」に創造された人類も、結局は「フィクションである」と主張しているに等しい。

ペンテコステ・カリスマ運動も、その本質は、グノーシス主義であり、こうして、人類の自己の本質がもともと「フィクション」であるという教えを信じた人々の内側には、確かな自己がなくなる。

彼らは、心の内に空虚な深淵を抱え、人々の眼差しという「鏡」に映る不正確な映像を手がかりにする以外には、自己存在を証明するための手立てが何もなくなり、それゆえ、「鏡」を通して、自分の見たくない欠点を暴露されることを病的なまでに恐れ、気に入らない「鏡」を根こそぎ破壊しようとの行為に出たりするのである。

だが、もし「本体」がリアリティとして存在しなければ、「鏡」によってどんな権利侵害を受けたと感じても、それを権利侵害だと主張する根拠もまたないのである。

彼らに出来ることは、ただ一つ、一つの「鏡」に映った気に入らない自己像を否定するために、別な「鏡」を持って来て、これが自分だと宣言することでしかないのだが、もともとその鏡は、どれもこれも不正確なもので、そこに映った像も乱れ、影のようなものでしかないため、その人物が「鏡」を基にして行う証言は、あらゆる面で辻褄の合わない、嘘で埋め尽くされた、整合性の取れないものとなって行く。

結局、自分がないからこそ、そのようなデタラメなつぎはぎの証言が生まれるのであって、そのような人間には、デタラメな証言を行う以外に、自分が何者であるかを客観的に証明する手段もない。そのため、そのデタラメな証言のゆえに、その人間が何者であり、何を言いたかったのかは、結局、最後まで誰にも分からないまま、その人間そのものが不明な塊となって消え去って終わる。

こうして、確固たる自己を持たない人間の内部には、自己の代わりに、ただ虚無の深淵が横たわっているだけなので、そのブラックホールのような虚無性の隙をついて、そこには、何でもありとばかりに、あらゆる種類のゴミが投棄され、贋作やコピーなどのありとあらゆる偽の創作物語が詰め込まれ、虚偽によって埋め尽くされて行くのである。

それが、グノーシス主義の本質なのである。グノーシス主義は、人間の自己存在をフィクションとして消し去るものであり、そんな教えを信じている限り、その人物には、自分が失われて、デタラメな創作物語によって自分がどんどん書き換えられて行くことに抵抗する術もない。
 
繰り返すが、どんなにそれを「デタラメな創作物語」だと声高に非難しようとしても、もともとオリジナルが存在しない以上、コピーも存在せず、人権侵害も存在せず、名誉毀損もないのである。虚無の深淵が仮にサタン呼ばわりされたところで、誰もそれを虚無の深淵に対する権利侵害であるとして虚無の深淵の代理人となってこれを是正できないのと同様である。

それに引き換え、「わたしはある」という方を信じ、聖書のまことの父なる神を知っているクリスチャンは、グノーシス主義者のように虚無の深淵を信じているわけではなく、キリストの復活の命にあって再生された確かな自己を持ち、神に対して生きる人々であるから、こうして再生されたクリスチャンの主張も、確固たるリアリティであり、誰かが勝手に書き換えたりすることはできず、そのようなことを試みた人間は、当然ながら、人権侵害のかどで罰せられる。

武蔵野簡裁の付近は、横浜のように海風が吹くこともなく、起伏もない平地の開けた都会で、桜が咲き、人々は穏やかに行き交い、街はのどかで平和であった。確かに、ここに住む住民にとっては、この都会に生きていることが、ステータスに感じられているのかも知れない。民事調停では、相手方と顔を合わせることはないため、杉本徳久なる人物の印象は分からなかったが、四捨五入すれば50歳にもなろうという男に会いたいという願いは筆者には全くない。一体どういう理由で、こんなにも平和そうに見える街から、こんなにも常軌を逸した人物が生まれて来るのか、ただただ理解に苦しみ、首をかしげるばかりである。

改めて杉本のような人物を生んだペンテコステ・カリスマ運動とグノーシス主義を心の底から非難しないわけには行かないと感じるのみである。

ペンテコステ・カリスマ運動は、人類を神以上に高く掲げる「イゼベルの霊」(異教的母性崇拝)に支配される「神の家の乗っ取り運動」

・ペンテコステ・カリスマ運動は、人類を神とする東洋的異教の母性崇拝(「イゼベルの霊」)に支配される運動である。
 
さて、これまでにも当ブログでは、ペンテコステ運動とは、イゼベルの霊(一言で言えば、異教的母性崇拝の思想)に導かれる運動である、ということを再三に渡り、述べて来た。はっきり言えば、ペンテコステ運動とは、異教に由来する非キリスト教的な思想に基づく「神の家の乗っ取り運動」なのである。
  
ペンテコステ運動にははっきりした教義体系が存在せず、教義体系を明らかにする文献も少なく、ただ「聖霊のバプテスマ」を受けて「異言」を語るなどの超常現象ばかりを重んじるため、自然と、この運動の問題について語られる場合にも、現象面の分析で終わりがちであり、教義面からこの運動の根本的な危険性を洗い出す議論は少ない。

とはいえ、それでもペンテコステ運動の教義の基礎を明らかにしていると見られる文献はいくつか存在し、それを手がかりにこの運動の異常性を教義面から論証することは可能である。

そうした文献の一つが、大きく見れば、ペンテコステ運動の中にひとくくりにできるカリスマ運動の指導者である手束正昭氏の言説である。当ブログではすでに幾度も述べて来たように、手束氏は、すべての物事にはっきりとした区別をつけて、何が善であり、何が悪であるかを峻別する聖書の二元論を非難して、キリスト教は、このようにすべてに区別をもうけようとする父性原理ばかりが強すぎて、すべてを慈愛によって包容する母性原理が足りず、それゆえ、バランスが取れていないため、キリスト教は精神異常や狂気を生むなどと主張する。

ペンテコステ・カリスマ運動にもし「教義」というものがあるとすれば、それはこのように伝統的なキリスト教にあたかも「重大な欠陥」が存在しており、それゆえ、キリスト教が「人を精神異常に追い込む狂気の根源」となっているかのように主張し、それを口実に、あたかも聖書の御言葉だけでは不十分であるかのように、キリスト教の中に聖書にはない「何か」を巧みに持ち込み、つけ加えることにあると言えよう。

彼らがキリスト教につけ加えようとしているその「何か」とは、聖書の二元論という「父性原理」を骨抜きにするための「母性原理」である。
 
彼らの理屈によると、キリスト教では、何が善で何が悪であるかを厳しく区別する父性原理の二分性が人間を苦しめ、狂気に追いやっているという。そして、「キリスト教は、あまりにも厳しすぎる区別をもうけたがために、人間を狂気や精神異常に追いやる宗教となった。そこで、そのようなことの起きない、人にやさしいキリスト教を新たに作り出さねばならない」と主張し、そのために、キリスト教は父性原理の二元論を廃し、物事に区別をつけずにすべてを慈愛によって優しく包容する、母のような寛容さを補うべきである、と言うのである。

こうして、ペンテコステ・カリスマ運動は、まずはキリスト教を「ディスカウント」し、もともと聖書にはない「何か」を、あたかも聖書の教理に補われるべき要素であるかのように主張して、「慈愛」や「慈悲」などの美しい言葉を口実に、キリスト教を骨抜きにするような、すべてを曖昧にして包容する「母性的要素」を、キリスト教につけ加えよと要求するのである。
 
だが、当ブログの読者であれば、このような形でキリスト教に「母性原理」をつけ加えると、どういう恐るべき結果がもたらされるかは、あえて説明しなくとも了解しているものと思う。

それでも、キリスト教の「父性原理」に、キリスト教にはない「母性原理」をつけ加えようとすれば、何が起きるのか、それを「家庭内紛争」にたとえながら、あえて説明したい。

家庭の中で、父は、一般的に、規則や権威を象徴する存在である。そこで、ある家で、父親が子供に向かって「宿題はかならず毎日夜の8時までには終えて、夜9時には就寝しなさい」というルールを定め、子供がルールを破った場合には、罰を受けなければならないと定めたとしよう。

しかし、子供がルールを破り、父親が叱責と罰を加えようとする度に、母親が飛んで来て、「お父さん、あなたの決めたルールはあまりにも厳しすぎて理不尽で、それを理由に子供を罰するなんて、残酷すぎます。そんなにまでも、すべてをはっきりさせる必要が本当にあるんでしょうか。あなたはいつも小さなことで目くじら立てては、子供を叱っていますが、あなたのやり方では、子供は委縮してしまってのびのび成長できません。教育上有害です。」などと言って、毎回、子供をかばったら、その子はどのように成長するだろうか。

母親は子供をかばってさらに言う、「お父さん、今日、この子は宿題をまだ終えていないのに、あなたは9時だからもう寝なさいと言いますね。でも、それじゃあ、この子は明日、学校で、宿題を忘れたと言って、友達の前で、自分だけ恥をかかされ、先生から怒られなければいけなくなるんですよ。あなたはこの子が友達の前で恥ずかしい思いをして、それが原因でいじめられるようになっても、何とも思わないんですか? あなたはそうやって、いつも規則を守ることの方が、人間の感情よりも優先されるべきだと言いますが、あなたは私から見れば、規則を口実にして、ただ子供に対して威張り散らして、鬱憤晴らしをしたいだけなんです。そんな動機で、可愛い我が子を危険にさらすことは私には許せません。この子の宿題は私が代わりにやってあげますから、あなたは何も言わないで下さい。私はあなたの定めたルールにも、罰をもうけることにも反対です。」

母親がこんな風に主張すれば、家庭の秩序は成り立たなくなる。おそらく、子供は父の権威を侮るようになり、父を平然と見下げるだけでなく、父は自分の幸福を願っておらず、いたずらに権威を振りかざして自分を威圧し、罰しようとしているだけなのだと考えて、父を憎むようにさえなるだろう。そして、自分が恥をかかず、心傷つけられず、罰せられないで済むように、自分に都合の良いことを言ってくれる母の言うことだけを聞くようになり、母にべったりと甘え、そのうち、自分はどんな過ちを犯しても、決して罰を受けることなどないと高をくくるようになり、一言で言えば、途方もなく甘やかされて、駄目になってしまうに違いない。

このように、ルールを定め、それによって物事の是非をはっきりさせて、ルールを破ったものには罰をもうけるという、父性原理に基づく二元論的な考え方と、何もかも白黒つけずに「母のような慈愛によって」包含しようとする母性原理に基づく考え方は、決して相容れない。このことからも、キリスト教に「父性原理」と「母性原理」を同居させようとする試みは、決してうまくいくことがないと言える。そのようなことをすれば、キリスト教は骨抜きにされ、崩壊するだけである。
 
にも関わらず、ペンテコステ・カリスマ運動は、キリスト教の「父性原理」が悪の根源であるかのように主張して、これを否定して、そこに「母性的な要素」をつけ加えることで、キリスト教の「残酷さ」や「偏狭さ」を改革できると言うのである。一見、その言い分は、「愛」や「憐れみ」にカモフラージュされているため、人の耳には心地よく響くであろうが、その教えを受ければ、信者はもはやキリスト教徒ではなくなり、異端の教えによってすっかり自己を肥大化させられた、およそ信者と呼べないばかりか人としても駄目な人間になってしまうだけである。
 
一言で言えば、ペンテコステ・カリスマ運動は、それ自体が、キリスト教に偽装しつつも、キリスト教を骨抜きにして崩壊させるために登場して来た異端の教えなのである。そして、この運動が主張する「母性原理」なるものの起源も、東洋的な非キリスト教的異教にある。

これまで確認して来たように、ペンテコステ・カリスマ運動がキリスト教に足りないと言って導入しようと試みている「母性的要素」とは、もとを辿れば、非キリスト教・異教的な宗教哲学から受け継がれた母性崇拝に由来する。

多くのオリエント・東洋宗教哲学においては、キリスト教のように、「父なる神」が万物を生み出したとは考えられておらず、万物の生命の源として、女性原理の象徴である「神秘なる母性」が讃えられる。(この「母性原理」は、様々な宗教神話において「女神」の形を取って現れたり、あるいは、必ずしも人格を持たない万物の生命の源として「神秘なる母性」、「神秘なる混沌」などと呼ばれる。老子はこれを「玄牝」と呼んだ。)

早い話が、ペンテコステ・カリスマ運動とは、 このように異教に由来する原則を、公然とキリスト教の中に持ち込もうと試みているだけであって、この運動は、西洋的な伝統的なキリスト教と、東洋的・オリエント的な母性崇拝を混ぜ合わせて出来上がった混合宗教なのである。
 
このことを理解すれば、我々は、なぜペンテコステ運動の只中から生まれて来たカルト被害者救済活動のような運動に影響を受けた人々が、クリスチャンに向かってしきりに「精神異常者」のレッテルを貼って中傷しようとしているのかを理解できるだろう。

彼らは、たとえば、完全に健康な筆者に向かっても、何の根拠もなく、「立ち直り不可能な人格障害に陥っている」かのような決めつけを長年に渡って行って筆者を中傷しているのだが、こうして彼らがクリスチャンに「精神異常」というレッテルを貼りたがる背景には、そもそもペンテコステ・カリスマ運動が、「伝統的な西洋的キリスト教は、人間を狂気に陥らせる宗教だ」とみなして非難していることが挙げられる。

つまり、この運動が、聖書に基づく純粋なキリスト教そのものにあたかも重大な欠陥があって、それがために「父性原理ばかりが強すぎるキリスト教が、人を狂気に陥れている」かのように主張しているからこそ、その運動の支持者たちは、キリスト教だけでなく、聖書に忠実に従うクリスチャンたちにも、「狂気の宗教」を信じる「精神異常」のカルト信者といったレッテルを貼り、さかんにディスカウントしているわけなのである。

ペンテコステ・カリスマ運動は、あたかもキリスト教の一派のように、プロテスタントの中で座を占めているが、以上のようにキリスト教をディスカウントして聖書にはない新たな要素をつけ加えるよう主張している人々が、クリスチャンであろうはずなく、この運動は、ただキリスト教に偽装して、キリスト教を内側から骨抜きにして破壊するために登場して来た、根本的に異端の教えなのである。

彼らは、(彼らに言わせれば)「狂気を生み出す根源」でしかないキリスト教の父性原理(二元論、御言葉による切り分け)を攻撃して否定し、御言葉に忠実に従うクリスチャンに狂気のレッテルを貼って、真にクリスチャンを駆逐したいがためにこそ、日夜、以上のように根拠もない印象操作や人格攻撃にいそしんでいるだけなのである。そのような異常な一群を生み出すペンテコステ・カリスマ運動が、聖書を土台にしていないことは明々白々である。

しかし、終末においては、このようにキリスト教の装いをした忌むべき混合宗教が、世界規模で登場することになると予告されている。それが聖書の黙示録に登場する「大淫婦バビロン」であり、彼女が「混ぜ合わせた杯」(黙示18:6)を持っていることからも、バビロンとは、キリスト教と、それとは異質な異教的な要素の混合物であることが分かる。

その「混ぜ物」こそ、東洋・オリエント的異教に由来する母性崇拝の原理であって、ひいては、人間を神とする反逆の思想なのである。


・ペンテコステ・カリスマ運動は、「母」の罪を擁護し、私生児として生まれた「父なし子」を「神の家の後継者」であるかのように詐称するグノーシス主義神話に基づく「神の家の乗っ取り運動」である
 
さて、ここで、非キリスト教的異教が「母性崇拝」を掲げていることは、決して意味のないことではないと断っておきたい。

聖書によれば、万物を生み出したのは「父なる神」であって、母性原理は生命の源ではない。

聖書では、キリストを生んだ処女マリアを例にとっても、彼女はあくまで聖霊によってみごもったのであり、彼女の「女性原理」がキリストを生んだわけではない。イサクを産んだサラも同様で、父なる神の「約束」があって初めてイサクが生まれた。黙示録には、龍に迫害されながら、男の子を生む女が登場するが、この女も、諸説あるとはいえ、母なるエルサレムや、エクレシアを象徴していると考えられており、エクレシアがキリストに属する御霊の実を生むにあたっても、やはり単独で子供を生めるわけでなく、必ず、そこには御霊による働き、御言葉に基づく約束がある。

聖書において、これらの女たちが幾度も「夫のない女」「一人残された女」「産まず女」などと、蔑称のような言葉を用いて、霊的に独身・未婚であると強調されているのは、彼女たちには、キリストを抜きにして自分の力では決してまことの生命を生み出す力がないことをよく表していると言える。

つまり、聖書においては、生命を生み出す根源は、常に神の側にあり、被造物それ自体には、キリストとの結合なくして、自力でキリストに属する産物を生むことは決してできないのである。

ところが、カリスマ運動の指導者の手束正昭氏は、すでに見て来たように、聖霊を「母なる霊」と定義することによって、「父なる神」と「母なる聖霊」と「子」の「三位一体」という、聖書には全く記されていない異常な教理を主張し、あたかも、キリストが「父なる神」という父性原理の象徴と、「母なる聖霊」という母性原理の象徴との結合の結果として生まれたかのようにみなし、「母なる霊」という呼び名で、異教に由来する母性崇拝の原理をキリスト教に偽装して持ち込もうとする。

このような異端的な教説では、まだ「母なる霊」が単独で子を産み出したまでは言い切られていないが、聖書にはない「母性原理(母なる霊)」がつけ加えられることによって、神の独り子であるキリストが、あたかも「母なる霊」によって生み出されたかのように主張されている。

こうして、手束氏の考える「キリスト教」には、東洋・オリエント的母性崇拝の思想が公然と持ち込まれ、それによって聖書の教理までがすっかり変質させられているのである。

そして、これまでにも書いて来たように、このように生命を生み出す根源が、あたかも「母性原理」にあるかのように唱える主張は、異教に由来するだけでなく、もとを辿れば、グノーシス主義に起源がある。

グノーシス主義には、すでに述べたように、共通して、女性人格が単独で生命を生み出すという神話的プロットがある。そこで、万物の生命の根源があたかも女性原理にあるかのように唱える異教的な思想は、大きく見れば、すべて根源的にグノーシス主義を土台にして成り立っていると言える。

このように、異教的な思想が、「父性原理」よりも「母性原理」を高く掲げるのは、神と被造物との主従関係の逆転するためであり、結論から言えば、異端とは、唯物論的な被造物崇拝の教えなのである。
 
聖書によれば、神は人類をご自分に似せて、ご自分の助け手として創造された。そこで、人類は神に対して霊的に女性の立場にある。また、聖書においては、男が先に創造され、男をもとに女が造られている。

だが、すべての異端的思想は、この正当な秩序を覆し、神によって創造された被造物に過ぎない人類(霊的に女性)を、あたかも創造主であるかのように主張し、神以上に高く掲げる。

東洋的な異教が「女性原理」を「父性原理」よりも高く掲げようとするのは、その背景に、「本来は神に似せて、神から生み出された被造物に過ぎない人類を、創造主である神以上に高く掲げたい」とする欲望があるためである。

フェミニズム神学(およそ異端なので本当は神学という名に値しないが)は、「女が男から造られた、男よりも弱い被造物だという聖書の記述は、女を男の付属物に貶める男尊女卑の考えであって、誤りである」などと主張して、聖書の記述を否定する。

母性原理を高く掲げる異教的な思想もこれと同じ理屈を用いて、「人類が神によって、神に似せて創造された被造物だという考え方は、人類を神よりも劣ったものとみなしている点で、人類に対する許しがたい差別・蔑視であって、事実ではない。我々はキリスト教の神による人類へのこのような蔑視を決して認められない」と主張して、神と人類との関係を逆転しようとしているのである。

このように、東洋的な異教の思想において誉めたたえられている「女性原理」とは、文字通りの女性を指すのではなく、被造物全体、もっと言えば、神の被造物としての人類全体を象徴しているのだと言える。そして、ペンテコステ・カリスマ運動のような思想が、キリスト教の「父性原理」の中に「母性原理」を持ち込むことで、両者を競合させ、最終的には「母性原理」によって「父性原理」を骨抜きにし、駆逐して行こうとしていることにも、創造主と被造物との関係を逆転させようという意図が込められている。

そこで言われる「父性原理」とは、父なる神を指している一方、「母性原理」は人類全体を指しており、結局、ペンテコステ・カリスマ運動も、神によって創造された被造物に過ぎない人類を、神と対等か、神以上に高く掲げ、人類を神と同一視して、聖書の父なる神に反逆して、創造主と被造物の関係を逆転させようとしている教えなのである。
 
このように、東洋思想が「女性原理こそ万物の生命の源」であると主張していることには、結局、「我々人類は、誰の手にもよらずに単独で生まれた独立した存在であって、誰の被造物でもない。そして、我々自身が、神のように、単独で生命を生み出す力を持つ、神に等しい存在なのだ。」という主張が込められているのである。

そして、このような東洋的な母性崇拝をキリスト教に混ぜ込んで出来上がったペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けた人々は、その教えがもたらす当然の結果として、聖書が教える「人類は神によって造られた被造物に過ぎず、創造主である神に服する義務がある」という基本原則に反抗して、被造物である自分自身を「神」として最高の地位につけようと高く掲げるようになり、自画自賛に溺れて行くのだと言えよう。

ペンテコステ・カリスマ運動は、キリスト教にそのような悪しき結果をもたらす致命的な毒素としての「女性原理」を受け入れよと迫っているのである。

(ちなみに、筆者はペンテコステ・カリスマ運動のみならず、「エクレシア崇拝」に陥ることも、以上と同様の反聖書的な考え方であるとみなしている。クリスチャンが自分たちの集会を絶対化したり、賛美するようになれば、それ自体が偶像崇拝に該当する。エクレシアであろうと、何であろうと、被造物に過ぎないものを、キリスト以上に高く掲げることは、すべて「女性原理の崇拝」と同じなのである。)

さて、これまで、グノーシス主義には「女が単独で子を産む」という聖書に反する考え方があると記した。グノーシス主義には神話はないが、神話的プロットと呼んでも差し支えないような共通の筋書きがあり、大きくまとめると、それは以下のようになる。

➀ 万物を生み出す「まことの父(真の至高者)」の能力を見て、「女性人格」がそれを嫉み、自分もその能力が欲しいと願う
② その結果、「女性人格」が規則を破って、「男性人格」の参与なく、単独で子を産む
③ 「女性人格」はその違反の結果として天界から転落しかかり、違反の結果生まれた「子」も転落して醜く愚かな「悪神」となって下界を支配する
④ しかし、「女性人格」が単独で生んだ「子」(悪神)の子孫である「人類」は、悪神よりも賢く、知識の啓示を受けて、自分には「まことの父(真の至高者)」に由来する「神聖な霊の欠片」が受け継がれており、自分の本当の父は「悪神」ではなく、「まことの父」なのだと気づく。
⑤ 人類は、こうして自分が「まことの父」の子孫であると自ら名乗り出ることによって、「母の過ち」を修正し、「母子」ともに天界へ復帰する。

このような物語では、第一に、女性人格が単独で子を生むという違反を犯すことによって、万物の生命を生み出す力は、誰にあるのか、「父なる神」にあるのか、それとも、「母なる神」にあるのかが全く分からないという混乱が持ち上がる。

そして、さらに、人類は、女性人格が単独で生んだ子の子孫であるとされることによって、人類は事実上、父がいないも同然の存在(父を喪失した存在)となる。

だが、最下位の女性人格であるソフィアが単独で子を生んだということは、より深い文脈では、グノーシス主義が、「人類とは、聖書の神によって創造された被造物などでは決してなく、誰にも創造されることなく、自力で生まれた独立する存在なのだ」と言わんとしていることを意味する。

グノーシス主義は、旧約聖書における神を「悪神」とみなし、これをヤルダバオトとか、デーミウルゴスなどと呼び、無知で愚かな神として徹底的に侮蔑する。グノーシス主義のプロットによれば、この「悪神」こそ、最下位の女性人格であるソフィアが単独で子を生むという違反に及んだ結果生まれた、醜く、愚かな、出来そこないの「神」である。

この「悪神」は、出来そこないの醜い産物であるにも関わらず、身の程知らずな思い上がりに陥って、自分こそ至高の神であり、他の神はないと思い込み、「わたしの他に神はいない」「わたしは妬む神である」などと豪語しながら、「神」の称号を不当に独り占めしていると、グノーシス主義は言う。そして、悪神であるがゆえに、彼の創造した被造物はすべて醜く不完全で、それゆえ、地上は不幸に満ちていると言うわけである。

グノーシス主義はこのようなフィクションを作り出すことにより、聖書が「神は唯一である」と述べていることを嘲笑し、聖書の神が「妬む神」であって、決して神という称号を他に明け渡すことがないという事実を徹底的に否定・侮蔑・嘲笑しながら、聖書における神を、醜く愚かな「悪神」にたとえて冒涜する一方、その悪神の子孫であるはずの人類を、悪神よりも賢く高貴な存在として描き、人類こそまことの「神」の子孫であるから、悪神を否定的に超えて天界に復帰できると主張するのである。

だが、このようなものは随分虫の良い身勝手な話であって、額面通りに受けとる方がどうかしていると言えよう。

グノーシス主義の以上のような神話的プロットでは、いくつもの論理破綻と言っても良い規則破りが犯されている。

まず第一に、グノーシス主義においては、あらゆる概念が「対」としてとられ、単独では完全でないとされているにも関わらず、女性人格であるソフィアが、対となるべき男性人格の了承なくして、単独で子を産みたいと願い、実際にその行為に及ぶ時点で、「対」の原則が破壊されている。

次に、その「母」である女性人格は、単独で子を産むという「違反行為」を犯したわけだから、普通に考えれば、その結果、生まれた「子」は、誰を「父」としているのか分からず、それを立証する手立てもないはずである。要するに、その「子」は私生児である。

グノーシス主義の一部の物語によれば、人類は、女性人格が違反を犯して単独で生んだ悪神から生まれた子孫であるだけでなく、悪神が自分を生んだ母を知らずに凌辱して生まれたのが人類だという。単なる「私生児」であるだけでなく、あまりにも悲劇的な生い立ちである。

にも関わらず、グノーシス主義においては、そのような「悪神」によって創造された素性も知れない「人類」(ソフィアが違反の結果生んだ愚かで醜い「悪神」の子孫)が、どういうわけか、悪神よりも上位の神の似像として造られ、その息を吹き込まれているため、悪神を超える存在であり、「神聖な知識の啓示」を受けて、自分は天界にいる「真の至高者(真の父)」のDNA(「神聖なる霊の欠片」)を受け継ぐ神聖なる存在であると気づくことによって、「真の父」の後継者であると自ら名乗り出て、「母の過ち」を修正して、「母子」ともに天界に復帰するのだというのである。

このような話を聞いていると、この「母子」はどこまでも得体の知れない存在だと思わずにいられない。

なぜなら、グノーシス主義が、「人類」は「真の至高者」の子孫であると主張していることには、いかなる客観的な根拠も存在せず、その神話的なプロットの中でさえ、「真の至高者」の側からの「子」への承認や賛同(認知)はなく、「人類」が自分は「真の至高者」の子孫であると主張しているのは、完全に自称の域を出ない、思い込みのような話でしかなく、極言するならば、詐称と呼んで差し支えないほどに疑惑に満ちた主張だと言えるからなのである。
  
そして、人類が本当に「真の至高者」の子孫だというならば、「真の至高者」がそのプロットに登場して、自分の子として人類を認知しないのは一体、なぜなのかという疑問が生まれよう。しかし、グノーシス主義における「真の至高者」とは、そもそもそれ自体が、あたかも人格を持たない虚無の深遠、混沌のような概念であるため、この神話は初めから「真の至高者」の存在や意志など全く無視して出来上がっていると言えるのである。

こうして、グノーシス主義の神話的プロットでは、どこまでも「父」がないがしろにされ、「母」だけが重んじられる一方的なストーリーが展開されるが、こうして、「父」からの承認や応答を一切抜きにして、「違反」を犯した「母」と、「知識の啓示」を受けたと自称する「子」だけが、何一つ客観的な証拠のない、思い込みのような主張により、自分たちは「まことの父」の正当な子孫であるから、神の家に復帰させよと主張して、「母の過ち」を正当化し、母子ともに名誉回復して幸せになろうと目指す、というのが最終目的なのだから、こんな話はあまりにも眉唾ものと思われるのである。

一言で言えば、この話は、家の相続権を巡る争いであるが、一目見ても、これほど素性の分からない「母子」に本当に「真の至高者」の子孫として名乗り出る資格があるのかという疑いが生じるのは当然である。
 
さらに、このような出生の汚点を抱えて生まれた「子」としての人類は随分、不幸な存在である。まず、「母」が極めて身勝手な存在であり、「母」は自分の過ちによって、不幸な出生の「子」を誕生させた上、自分の名誉を挽回するために、「子」を生涯、自分の欲望の道具として束縛してしまう。「子」は、「母」をかばって自分のルーツを正当化し、出生の汚点を取り除くためには、「母の過ち」を修正するために生きるしかなく、証拠があろうとなかろうと、自分が「真の至高者」の子孫であると名乗り出るしか手立てがないという状況に置かれている。この「母子」は不幸な運命共同体であって、こういう状況に置かれている限り、「子」には「母」から自立できる見込みは全くない。

この物語では、「母」の過ちによって、すべてが狂わされたにも関わらず、その過ちがとがめられることもなく、罰せられることもなく、その後、屁理屈のような主張が延々と積み連ねられることによって、「母の過ち」修正して正当化することが最終目的であるとされ、そのために、人類が存在するとされ、連綿と不幸が生み出されているのである。

この物語だけを眺めても、本当の「犯人」は決してグノーシス主義が徹底的に侮蔑する「悪神」ではないだろうと思われて当然である。なぜなら、この「悪神」も、ソフィアの過失のために誕生した不幸な産物に過ぎないためである。にも関わらず、グノーシス主義の神話的プロットにおいては、その「悪神」だけが悪者とされ、ソフィアの過ちが咎められず、人類の使命が「母の過ちを修正する」ことにあるとされているがゆえに、この物語はどこまで行っても不当な主張に満ち溢れた荒唐無稽な内容なのである。
 
このように得体の知れない「神話」が、キリスト教に偽装して、キリスト教の中に公然と入り込んで来ると、当然ながら、真にキリストによって生まれ、神の国の正統な後継者たる神の子供たちが、迫害される結果になるのは避けられない。信仰もなく、キリストによって生まれた事実もなく、場合によっては、聖書の父なる神をさえ信じていない、全く素性の明らかでない人々が、公然と神の家(教会)の後継者を詐称して、神の子供たちであるクリスチャンたちを脅かし、駆逐するようになるのは避けられない。

「父」を裏切ってひそかに誰の子とも知れない子を産んだ「母」と、誰を「父」としているのかも分からない「子」がタグを組んで、自分たちこそ神の正当な子孫であって、神の家の正当な後継者であるかのように主張して、天界に復帰を企てるというグノーシス主義的な「神話」が、キリスト教の中に入り込むと、結局、真に聖書に従うクリスチャンたちを迫害し、教会から追い出して、神の家を乗っ取ろうとする運動が生まれるのは当然である。

ペンテコステ・カリスマ運動は、キリスト教に「母性原理をつけ加えよ」と主張することによって、以上のような悪しき目的を果たし、正当な資格がないにも関わらず、不当に神の家を乗っ取ろうと目論んでいるのだと言える。この運動は、本来的にキリスト教に属さない、聖書の神に属さないはずのものを、あたかも正当なキリスト教であるかのように主張して、神の家を乗っ取り、堕落させるために生み出された運動なのである。

だからこそ、カルト被害者救済活動などという恐るべき忌むべき運動も、ペンテコステ・カリスマ運動の只中から生まれて来ているのである。

カルト被害者救済活動が目的としているのも、結局は、「母の過ちを修正すること」、すなわち、人類の罪を、人類が自力で修正することなのである。

この運動は、何らかの原因があって、教会生活につまずき、信仰生活につまずき、聖書の神への信仰を捨て、教会やクリスチャンに恨みを持った人々が、信仰がないため、本来は、教会の一員となる資格もないにも関わらず、自分たちの被害者意識を口実にして、教会を責め、クリスチャンに罪悪感を持たせることにより、自分たちを教会の一員として受け入れよと迫っているのである。

教会はキリストの十字架の贖いを通して罪赦され、贖われた人々のものであるはずなので、信仰のない人々には無縁であるはずだが、この人々は、贖われていないか、贖いを自ら否定しているのに、被害者意識を口実に、自分たちが神の家に入り込む資格があると主張して、自分たちを神の子として「認知」するよう、クリスチャンに迫っているのであるから、このようなものは、神の家の乗っ取り運動である。

このように神の家の正当な相続権を持たない「私生児」が、信仰もないのに、教会を占拠し、正当な相続権を持つ神の子供たちであるクリスチャンを脅かし、迫害し、負い出しているのである。

だが、ペンテコステ・カリスマ運動の教義の異端性を考えるなら、この異端的運動の只中から、こうした極めて異常な歪んだ「救済運動」が生まれて来たのも、まさに必然と言える。

さて、ここまでは、これまでの記事においても幾度か述べて来た内容と重なるが、ここから先は、「グノーシス主義の思想 <父>というフィクション」(大田俊寛著、春秋社、2009年)という、このテーマを掘り下げるに当たり、議論の材料を与えてくれそうな極めて興味深い文献なども参考にしながら、ペンテコステ運動のグノーシス主義的起源をめぐる議論の中核にさらに迫っていきたい。

だが、結論から述べておけば、「父性原理を重んじ、母性原理をないがしろにする伝統的なキリスト教の二元論が、人間を狂気に追い込む原因となっている」などというペンテコステ・カリスマ運動の主張は、完全な偽りであって、笑止千万な荒唐無稽である。

むしろ、真実は、それとは全く逆であり、以上のような論理破綻したグノーシス主義的「神話」こそ、人間の精神を著しく害し、精神異常に追い込む狂気の根源なのである。

すでに述べたように、母性崇拝(女性原理の崇拝)の思想とは、被造物である人類が、あたかも創造主であって、自分自身が神であるかのように唱え、まことの神に反逆する反聖書的な思想のことなのであるが、グノーシス主義はまさにそのような聖書に対するすべての反逆的思想の土台となる思想である。

そして、グノーシス主義の「神話」とは、罪を犯した者が決して己が罪を認めず、過ちの責任も取らずに、本来、罰せられて然るべきにも関わらず、罰を免れて自己正当化をはかり、堕落したルーツしか持たない者が、そのルーツをごまかして、自分を神の子であると詐称して、自己正当化をはかるために作り出された終わりなき嘘であるため、この「神話」では、一つの嘘をごまかすために、次の嘘が作り出され、そうして人類が自分のルーツをごまかすために、果てしなく嘘で塗り固めた「創作神話」が述べられ続けているのである。

そのような荒唐無稽な神話に没入して行った挙句、その人の精神の正常性が保たれることはまずない。

繰り返すが、聖書の二元論が人を狂気に追い込むのではなく、グノーシス主義的荒唐無稽な神話が、人を狂気に追い込むのである。だからこそ、この異端の影響を受けたペンテコステ・カリスマ運動からは、至る所で、眉をひそめるような混乱が引き起こされ、また、カルト被害者救済活動のように、信仰を持たない人間から見ても、全く異常であるとしか言えない運動ばかりが登場し続けているのである。

<続く>

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