忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(26)―神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。

「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたはささいな事件すら裁く力がないのですか。わたしたちが天使さえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。

それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。

なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通をする者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を植えkÞぐことができません。

あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」(一コリント6:1-11)
 
最近、掲示板での誹謗中傷もすっかり影をひそめた。そして、村上のブログからも、筆者をあからさまに断罪し、勝訴を誇る以前のような記述が消えた。

さすがに、杉本に対する取り調べが行われると分かり、掲示板でも、個人を特定して責任追及がなされることが予告され、掲示板の投稿者らも、危ないと理解したのであろう。そして、村上には二審で不利な証拠が積み上がっている。一審の時と同じようにはならない。

週明けから、杉本に対する新たな差押の準備を進めていたところ、またしても日曜日に杉本が筆者にメールを送り付け、そこで筆者の取立が迷惑行為であるとか、脅迫、恐喝であるなどと騒ぎ立て、支払いに応じる姿勢も全く見せず、何と控訴しているとまで書いていた。

相変わらず、自分に都合の良い言い訳だけを一方的に並べ、自分を振り返ってもらうためだけに他人に接触する行動パターンは何一つ変わらない。しかしながら、筆者が犯してもいない罪を犯しているかのように触れ回れば、それは新たな名誉毀損行為に該当する。

判決で削除を命じられたブログ記事の多くを5月になるまで削除せず(現在、非開示にしているだけなのかも不明)、コメントも改ざんしただけで、完全に削除もせず、賠償命令に逆らい、もはや、争うべき事実もほとんどないのに、判決を不服として控訴しても、受理される見込みは低いだろうと筆者は予想する。

杉本が一審で出して来た怪文書のような文書は事件ファイルにおさめられている。そのような内容の文書にこれ以上、目を通すことには、誰にも合理性が見いだせない。一審で反訴を言い立て、ついには裁判官に職権で拒否すると言われた悪印象もある。判決を不服とする控訴はそれ自体が非常に印象が悪く、控訴審では一審以上に反訴が難しいので、そのための保険にするつもりか、あるいは報復のためだけの控訴なら、ますます印象を悪くするだけで、容易には受け入れられないであろう。

筆者も、控訴する時には、この点に留意し、新たな証拠の発見等による判決の変更を求めるとして、一審判決と争う姿勢を見せることを避けている。裁判官の見立てと異なる考えがあっても、判決が言及しているのとは、別な角度から主張を補い、判決と合わせた共同作品を作るような構えで理由書を書いている。

一審で打ち立てられた成果を土台にして、二審をさらに完全なものとする。筆者の目的はそこにあるのであって、積み上げた成果を崩すことにはない。
 
今、こうして杉本が、またもや筆者が犯してもいない罪を言い立て、判決に従わない姿勢を見せていることをも、理由書にてよく示しておき、この先、杉本の控訴を受理することには、いかなる合理性もないことを主張して、控訴審に備えることとなる。
 
正直な話、控訴が正式に受理されてもいないうちに、その旨を杉本が筆者に告げて来たことは、かえって筆者に対策を講じる十分なチャンスを与えるだけの結果となった。
 
さて、勤務先に対する強制執行などは、人生そのものをひっくり返す可能性のあるものである。面識もない個人に対する名誉毀損行為に及び、判決で賠償を命じられても従わず、社会的責任から逃れ続けていることが分かれば、社会福祉士としての信用も、この先、得ることはできまい。

それだけではない。ヤギの会から、メールが来ていた。裁判関係の資料と杉本のブログを送付しておいたところ、ただ一方的な情報提供だけに終わるかと思いきや、受領の連絡があり、紛争には介入できないとしても、随分、丁寧に対応をされているという印象を受けた。

たった1件のコメント削除の依頼を受けただけで、このような紛争を自ら引き起こし、判決にさえ従わない人間が、大勢の人たちと協力して物事を進めなければならない世話人の仕事をきちんと果たすことができるとは、筆者には思えない。火種を抱えることになるだけで、会の信用にも関わるだろう。この先、よく検討されることをお勧めするのみである。

しかし、このような結果に至ることも、すべて杉本が自分で選んだ選択なのである。速やかに負うべき責任を負って、滞りなく支払いの連絡を済ませていれば、このような事態に至ることもなかった。筆者は幾度も、猶予をもうけ、チャンスも与え、諫め、警告したが、杉本が合理的な選択肢をことごとく拒否したために、現在に至っている。

こうして、判決から今日まで、何も変わったことがあるわけではないのに、一審判決の言い渡し直後と、現在とでは、当ブログを取り巻く雰囲気はまるで異なることに驚かされる。

これが裁判のもたらす社会的影響力なのだと筆者は思う。判決に従わないことが、どれほど人の信用を落とすかかがよく分かる。杉本がこうして裁判所の決定にも逆らっている以上、筆者が最後の手段を講じねばならないとしても、もはや筆者を責める人間は誰もいないであろう。

 * * *

「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」(1コリント3:14-15)

さて、先の記事で、サタンの体が焼き尽くされた可能性があると筆者は述べたが、高慢な者に対する裁きはいつも同じで、彼らが「体を失う」ことではないかと筆者は見ている。

だが、ここで言う体とは、文字通りの体ではなく、人間の外側の部分のことである。つまり、人の居場所や、社会的受容、富、名誉、地位、職・・・、神の喜ばれない生き方をしている人が、よすがとして来たすべての虚栄を剥ぎ取られ、焼き尽くされ、高慢さの源となるものがすべて失われることである。神の妬みの炎が、永遠に至らない何もかもを焼き尽くしてしまう。

「見よ、彼らはわらにすぎず、火が彼らを焼き尽くし
 炎の力から自分の命を救い出しえない。
 この火は体を温める炭火でも
 傍らに座るための火でもない。」

「ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」(黙示19:3)
 
神の妬みの炎が、おのおの人生の価値を試すのだ。
  
筆者が現在、村上、杉本、唐沢の3名に対して(まだ提起していないものも含め)訴訟を展開しているのは、信仰の争いをこの世に持ち出すためではないし、彼らの属している教会を訴えるためでもない。

むしろ、長年の観察の結果、これらの3名は、もはやキリスト教徒ではなく、兄弟と呼ぶべき人々ではないことがはっきりと分かったため、教会をこの世の支配下に置こうとするこの人々の魔の手から、教会を解放するために、筆者は、この人々を世の前に訴え出ることにしたのである。

これらの人々がクリスチャンでない以上、筆者の行為は何ら以上の御言葉に抵触するものとはならず、変節にも当たらない。

昨年一年間はかなり大変な戦いであったが、ようやく人々の理解を得、関わる人たちの信頼を勝ち得ることができ、また、その秘訣を学んだので、すでに書いた通り、今はこの裁判に反対する人は、もう周りにはほとんど誰も見かけなくなった。
 
少しずつだが、一審の影響が各地に波及している。二審の結果はもっと大きなものになることを予想している。これまで作られた淀んだ空気の流れを完全に払拭し、変えられるとすれば、あと2~5年くらいだろうか。

5年も経つ頃には、おそらく、杉本・村上・唐沢の名は、もはや聞かれなくなるものと筆者は思う。カルト被害者という言葉も、ほぼ絶えて聞かれなくなるであろう。筆者の裁判に最後まで反対していた人たちも、口を閉ざして、何も語らなくなるものと思う。
  
* * *

さて、上記3名に共通する点は、自己の内に深刻なコンプレックスを抱え、キリストの聖なる花嫁であるエクレシアに対し、尽きせぬ憎悪を抱いているということである。当初は、この3名は互いに対立し合っており、何の共通点もないように見えたが、最終的には、エクレシアを敵とするという点で、利害が一致したものと筆者は見ている。

杉本は、すでに記事で書いた通り、プロテスタント、福音主義に対して根強い不信感を持っており、アッセンブリー教会でペンテコステ運動につまずき、大きな心のトラウマを抱えた。
 
村上密も、青年期に統一教会に入信、暴力を伴う強制脱会を経験したことにより、キリスト教に対する根強いコンプレックスもしくは恨みを持っていると見られる。村上の救済活動が、彼の幼少期のトラウマに基づくものであって、真の救済活動ではないということを、筆者は幾度も記事で述べて来た。
 
唐沢治は、かつて異端のローカルチャーチに入信していた経歴があり、若い頃に、自分の失敗にで花嫁に去られた経験を持つ。そのことは唐沢自身が幾度もメッセージで語り、また、当時は、記事などにも書いていたことである。

彼はある女性と結婚を約束し、その女性から約束の実行を求められていたのに、(記憶によると)進学などを理由に、結婚を先延ばしし、不信感を持たれて花嫁に去られた。それによって、深い心の傷を負い、苦しみ、自分の身勝手さを悔い改めて神を求め、聖霊のバプテスマを得たと、当時はブログやメッセージでさかんに語っていた。

今でも、ホームページのプロフィールに書かれている唐沢の「聖霊による油塗り」の体験は、傷ついた心に対する癒しとして与えられた当時の体験を綴ったものではないかと見られる。

だが、それは本当にキリストの霊であったのかどうか、そこから筆者は疑問に感じている。村上密の眉唾物の回心の体験と同じくらい、それには根拠が乏しいのだ。
 
今現在、唐沢は幸福で安定した家庭生活を送っているかのように豪語している。その点では、村上も同じである。だが、それはうわべだけのことであって、村上の家族に起きた不幸な事件についてはすでに記した通りであり、また、唐沢も、大学講師時代には常に女学生への人気を誇り、とても妻帯者とは思えない不誠実な言動の数々を見せていた。

さらに、杉本や村上が、筆者や、鳴尾教会の女性牧師に対して、長年、中傷をまき散らして来た行為を思うと、彼ら3人の心の中には、女性に対する深い心の傷があるように見受けられてならない。

杉本や村上には、唐沢のような体験はないにせよ、3者の心の中には、何かしら共通する男性としての深い心の傷、自分自身へのコンプレックスが存在するように見受けられてならないのだ。

その心のトラウマが、悪霊の働く牙城となって、キリスト教に対する彼らの憎悪と結びつき、エクレシアに対する憎悪に転じている。

唐沢が、ニュッサ氏や筆者を含め、去って行った信徒を断罪し、自分を追い出すも同然に否定したニッポンキリスト教界を日々、嘲り、罵っているのも、結局のところは、自分のもとを去った花嫁に重ねて、キリストの花嫁たるエクレシアを侮辱・冒涜しているだけだと見ることができる。

自分を否定して、自分のもとを去った花嫁が、自分ではない誰かのもとで幸福になるなど絶対に許さない、という執念が、唐沢の記事における、去って行った信徒への共通する憎しみと非難の中に見て取れる。

不思議なことに、村上や杉本にも、唐沢と全く同じ精神が見られるのだ。彼らは、自分たちの率いるカルト被害者救済活動から離反して行こうとする筆者のような信者を、徹底的に呪い、断罪し、二度と立ち上がれないような打撃を加えようと試みた。

結局、これらの3者は、うわべの主張には様々な違いがあるように見えても、根底では、同じ精神を共有している。それはキリストの花嫁たる神の教会を、自分の思いに従わせ、自分の支配の下に置こうとする欲望である。

ウォッチマン・ニーは『キリスト者の標準』の中で、人類には二人の花婿がいると語っていた。最初の花婿は、生まれながらのアダム(律法)で、これは横暴で、利己的で、心が狭く、嘘つきで、約束を守らず、絶えず花嫁を上から目線で断罪し、非難しては蹂躙する、どうしようもない主人である。

人類がこの横暴な主人から逃れるただ一つの方法は、死だけである。そして、神は人をこの破滅的な霊的結婚から救うために、十字架の死と復活を用意された。

こうして、十字架の死によって、人は横暴な主人との結婚から解放され、その後、キリストとの新しい婚姻関係が与えられた。この新しい花婿は、横暴でなく、利己的でもなく、誠実で、花嫁を心から愛し、命を与え、守り抜くことのできる本物の主人である。

唐沢は、自分たちの団体こそが、キリストの聖なる花嫁なるエクレシアであって、既存の教団教派(ニッポンキリスト教界)は堕落したバビロンであると述べて来た。

だが、事実はその逆である、と筆者は主張している。杉本や村上のしていることも同様で、彼らは自分たちがあたかも正しいキリスト教徒であって、他のキリスト教徒の横暴や逸脱を取り締まることのできる存在であるかのように述べるが、それは事実に反しており、実は杉本や村上こそ、誰よりも暴走している偽クリスチャン、偽預言者なのである。

彼らは、本物のエクレシアを弾圧し、これを自分たちの抑圧の下に置いて、自分たち偽物を、本物に取り替えるためにこそ活動しているのだと言えよう。
 
そうして彼らは、エクレシアを簒奪、否定、蹂躙しながら、自分たちこそまことの信者であって、花嫁は俺たちのものだと叫んでいる。

だが、これは花嫁の強奪であり、私物化であり、蹂躙であり、冒涜であるから、そんな方法では、決して花嫁は手に入らない。

自分の思い通りにならないくらいならばまだ良いが、花嫁を冒涜することを繰り返していれば、いつかその所業のすべてが自分に跳ね返って来ることになる。

筆者は昨年の春頃から、この問題について、三島由紀夫に関する映画を引き合いに出しながら、一連の長い分析記事を書いた。
 
記事「神に疎外された者たちによる神への復讐としての「エクレシア殺し」」などの中で、人は神の神殿として造られたのであって、神殿を破壊する者は、自分自身を破壊するのであり、自滅して終わるという霊的法則性を示した。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(1コリント3:16-17)

筆者は紛れもなく神に贖われたキリスト教徒であって、エクレシアの一員である。だとすれば、杉本・村上・唐沢が筆者に対して行っている仕打ちは、彼ら自身が、自分を滅ぼしているのと同じ効果をもたらすことになる。

彼らはきっとそうは考えていないことであろう。ヴィオロンをどれほど痛めつけ、嘲ろうと、それは自分とは関係のない事柄だと。悪いのはすべてヴィオロンであって、自分たちではないと、今も自己正当化を図っているのだろう。

だが、霊的法則性においては、人がエクレシアを蹂躙することは、人が自分で自分を滅ぼすことと同義なのである。

その結果として起きるのが、『金閣寺』のプロットに見られるのと同じような、神の宮である自分自身の破壊(体の破壊)である。体の破壊とは、すでに書いた通り、肉体の破壊だけを意味するのではなく、人の外側にあるもの―虚栄をもたらすすべてのもの―が焼き尽くされることを意味する。
 
こうした霊的法則性が存在すればこそ、すでに杉本には敗訴と共に破滅が降りかかり、さらに、村上も二審で不利な立場に立たされることになり、唐沢にも同じ追及の手が及ぼうとしているのである。

冒頭の御言葉をなぜ引用したのか、解説を忘れるところであった。これはキリスト者がどれほど絶大な裁きを行う権限を持っているかを示したものである。

私たちのまことの裁き主は神である。しかし、キリスト者も、それなりにこの地上において事件を裁く権限を担っている。その権限は、この世を超えるものであって、私たちは御使いたちをも裁く権威を持っている、とパウロは告げたのである。

私たちは裁判官としての職務には就いていないが、キリスト者として、この世の裁きに対しても、非常に大きな影響を及ぼす者である。

村上や杉本や唐沢は恐るべき思い違いをしている。彼らはエクレシアの一員を断罪する権威が自分に与えられているかのように考えているが、実は、彼らこそ、エクレシアの裁きの権威に服さなければならない存在なのである。

神はおよそ地上のすべてのものを管理する仕事をキリスト者に与えられ、この世を裁く仕事をも教会に任せられた。だからこそ、私たちの裁き、私たちの宣告は、この世に属する者たち、とりわけ神の教会を迫害する者たちに対しては、まことに厳粛な効果をもたらすものとなる。

それだからこそ、筆者は、裁判が終結する前から、その結果がどうなるのかを知っている。以上の3者が、まことの信仰を持ったキリスト者の告発の前に、決して立ちおおせない事実を予め知っている。裁判は、その霊的事実を実際とするための方法論に過ぎない。
  
<続く>
PR

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(25)―人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。

「人の子よ、ティルスの君主に向かって言いなさい。

主なる神はこう言われる。お前の心は高慢になり、そして言った。『わたしは神だ。わたしは海の真ん中にある神々の住みかに住まう』と。しかし、お前は人であって神ではない。ただ、自分の心が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ。

お前はダニエルよりも賢く、いかなる奥義もお前には隠されていない。お前は知恵と悟りによって富を積み、金銀を宝庫に蓄えた。お前は取り引きに知恵を大いに働かせて富を増し加え、お前の心は富のゆえに高慢になった。

それゆえ、主なる神はこう言われる。お前は自分の心が神の心のようだと思い込んでいる。

それゆえ、わたしはお前に対して諸国の中でも最も暴虐な外国人を立ち向かわせる。彼らはお前の知恵の誇りに向かって剣を抜き、お前の栄華を汚し、 お前を陰府に突き落とす。お前は海の真ん中で切り倒されて死ぬ。

お前は自分を殺す者の前でもなお、『わたしは神だ』と言い張るのか。お前は人であって、神ではなく、切り倒す者の手にある。

お前は割礼のない者として、外国人の手にかかって死ぬ。まことにわたしがこのことを語った」と主なる神は言われる。

主の言葉がわたしに臨んだ。 「人の子よ、ティルスの王に対して嘆きの歌をうたい、彼に言いなさい。主なる神はこう言われる。

お前はあるべき姿を印章としたものであり
知恵に満ち、美しさの極みである。

お前は神の園であるエデンにいた。
あらゆる宝石がお前を包んでいた。
ルビー、黄玉、紫水晶
かんらん石、縞めのう、碧玉
サファイア、ざくろ石、エメラルド。
それらは金で作られた留め金で
お前に着けられていた。
それらはお前が創造された日に整えられた。

わたしはお前を
翼を広げて覆うケルブとして造った。
お前は神の聖なる山にいて
火の石の間を歩いていた。

お前が創造された日から
お前の歩みは無垢であったが
ついに不正がお前の中に
見いだされるようになった。

お前の取り引きが盛んになると
お前の中に不法が満ち
罪を犯すようになった。
そこで、わたしはお前を神の山から追い出し
翼で覆うケルブであるお前を
火の石の間から滅ぼした。

お前の心は美しさのゆえに高慢となり
栄華のゆえに知恵を堕落させた。
わたしはお前を地の上に投げ落とし
王たちの前で見せ物とした。

お前は悪行を重ね、不正な取り引きを行って
自分の聖所を汚した。
それゆえ、わたしはお前の中から火を出させ
お前を焼き尽くさせた。
わたしは見ている者すべての前で
お前を地上の灰にした。

諸国の民のなかで、お前を知っていた者は皆
お前のゆえにぼう然とする。お前は人々に恐怖を引き起こし
とこしえに消えうせる。」 (エゼキエル28:1-19)
 
ティルスの王に対するこの宣告は、サタン(ルシファー)に対するものであると言われている。

聖書は、神が人間に向けて与えられた約束の書であるから、神が人類を創造される前に、神と被造物である御使いたちとの間で何が起きたのかはほとんど記されていない。

しかし、以上のくだりは、人類の創造前もしくは創造後に、神と悪魔との間で起きた出来事――サタンの堕落という出来事の一端を明らかにするものであるから興味深い。

ちなみに、人類が創造される前の時期(プレ・アダミック・エイジ)については、ほとんど明らかになっていない。

たとえば、サタンは、聖書で最初に姿を現すときには、すでに神に背いて堕落した存在となっていたが、なぜ人類をそそのかすに当たり、悪魔は蛇の姿を取って現れたのか。これは大きな疑問だろう。この時点で、悪魔は体を持たなかったことが分かる。

だが、創造された当初から、サタンに体はなかったのだろうか?

「お前はあるべき姿を印章としたものであり

知恵に満ち、美しさの極みである。」と言われていることを見れば、サタンには創造当初、美しい容姿があったのではないかと思われる。

そして、この表現は、神が人をご自分に似せて造られたというくだりに似ている。サタンは創造当初、神への従順を表す完璧な被造物であった。

しかし、サタンは高慢になり、神に背いて堕落したため、

「それゆえ、わたしはお前の中から火を出させ

 お前を焼き尽くさせた。
わたしは見ている者すべての前で
 お前を地上の灰にした。」とされる。

神に背いて堕落したがゆえに、サタンは自分の体を焼き尽くされ、美しかった容貌を失った、という風に理解できる。

こうして、サタンの体は灰燼と化した。それだからこそ、自分の体を持たないサタンは、人類を唆すに当たって、地上の生き物を利用せざるを得なかったのではないか? 

「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。」(創世記3:1)と書かれているのを見れば、悪魔が蛇の姿を取って現れたのは、堕落した知恵(狡猾さ)と大きな関係があったことが分かる。

蛇が狡猾な生き物と言われてもなかなかピンと来ないが、世界の実に多くの古代宗教が、蛇信仰と結びついており、ここで言う「狡猾さ」には、シンボル的な意味があると考えると分かりやすい。

たとえば、グノーシス主義では、蛇が脱皮することから、蛇は終わりがないという概念を指すものとして、聖書の言う「永遠」とは全く異なる意味で、「誕生」と「死」とを一つに結びつける循環のサイクルを表すシンボルとして利用された。そういう意味で、蛇そのものが「堕落した知恵(詭弁)」の象徴だとみなせないこともない。
 
ティルスの王への宣告を読む限り、サタンが創造当初、備えていた2つの特徴とは「美」と「知恵」であったことが分かる。

「お前はあるべき姿を印章としたものであり
知恵に満ち、美しさの極みである。」

「お前の心は美しさのゆえに高慢となり
栄華のゆえに知恵を堕落させた。」

美しさ、知恵に、富と成功が加わったとき、高慢さが生まれ、サタンの知恵は堕落した知恵となった。堕落した知恵とは、一言で言えば、不正を行っても、これを不正と認めず、神の目に自分をごまかそうとする欺きのことである。

従って、サタンの知恵(狡猾さ)とは、欺きのテクニックそのものであると言えよう。

それは自己の不正を覆い隠し、正当化するために作り出される終わりなき詭弁なのである。

その詭弁とは、「嘘」と「まこと」の融合、つまり、対極にあるものの融合であり、蛇とはその象徴である。本来は融合できるはずのないものを、いかに融合できるかに見せかけるかが、サタンの堕落した知恵の基本である。
 
そのようニ詭弁を駆使して悪事に悪事を重ねたサタンは、誰もが見ている前で、神の裁きを受けて、体を焼き尽くされて消失した。見ているすべての者たちが、それに恐怖を感じたという。その終わりはバビロンの終わりに重なる。

* * *

さて、村上密が書いている、

悪い想定は呪いの一種」だと。

「悪い想定を何度も他人に語るのは呪いか。呪いの一種である。心配性の人には悪影響が出ることもある。なぜなら、普段でも心配事に向き合っているからだ。自分からではなく、他人から悪い想定を何度も聞かされたら、たまったものではない。毎日心配して生きているのに、他人がつらい重荷を意図的に負わせるからである。あなたは不幸な目に遭う。あなたは早く死ぬ。あなたは必ずひどい病気になる。あなたは交通事故に遭う。何度も悪い想定を個人に向かって言い続けると、言っている人から人が去る。聞きたくないからである。いつかその呪いが自分に向けられるかもしれないと人は恐れる。そのような言葉を語る人と誰が一緒に居ようと思うだろうか。このような呪いを語り続ける人は、自分の上の災いを招くことになる。聖書の神は人を呪ってはならないと教えておられるからである。自称預言者の悪い想定にも気を付けよう。恐れてはならない。恐れると保たれていた平安が崩れる。恐れを持って精神的に人を上においてはならない。支配されることになるからである。」

絶え間なく自分のブログに他者を罵る「悪い想定」を書き連ねて来た人物が、よくも呆れるような自己矛盾に満ちた台詞を吐いているものだと思う。

村上密はこれまで他人をおびただしい回数、呪って来た。攻撃的な言葉をブログに書き続けて来た。たとえば、鳴尾教会の牧師たちに対する非難を取り上げてみよう。

記録(2017年3月3日)では、村上が鳴尾キリスト福音教会の牧師について、その牧師が統一教会に入信した経歴もなく、小島武に傾倒した事実もないのに、勝手な推測でそれを断定的に書き記し、牧師夫妻が教会を乗っ取ったと言いふらし、牧師から、それが名誉毀損に当たるので、記事を削除して欲しいと、依頼があったが、その依頼を断ったことが記されている。

村上はこの記事の中で、自分が牧師について書いた内容が「攻撃的である」ことを十分に認めらながらも、証明されてもいない第三者の「被害」を理由に、自分はその第三者の被害の回復のために、「攻撃的」な記事を削除しないことが認められるかのように自己正当化をはかっている。

攻撃的であることは、誹謗中傷には当たらない。むしろ、攻撃された側の方が精神的ダメージを受けて長年苦しまれた。この方への心からの謝罪があれば、この方に関する文は削除に応じてよいと思っている。」

ちなみに、村上がこの記事であえて牧師の名前を出していないのは、自分が訴えられることを回避するための狡猾な予防策だろう。だが、名が記されておらずとも、この件は、鳴尾教会側がブログ記事で反論している次の事件を指すことは明白だ。
 

アッセンブリー京都教会 村上密氏の「デマによるマインド・コントロール」に注意!(2)
2017年03月15日

「また村上密氏がデマ文章を書いた。(3月3日付け「遍歴」である)

 誹謗中傷も甚だしい。
 そして、書かれた本人が「削除」を要求すると、その日のうちに「記録」と題し「今回の記事が相当嫌なようだ」と “的外れ” な推論を書いている。

 私(山田博)の妻(晃美)は「統一教会」で洗礼を受けていない(献身していない)し、信者でもない。また、「小島武」氏にも、傾倒していたことは全くない。どこから聞きつけ「推測による断定と断罪」をして、デマ文章にしたのか知らないが、誹謗中傷であり非常に迷惑である。まして「統一教会」のことについて言えば、村上密氏が妻に向って「(統一教会には)入ったことにはならないですね。」と語ったことを忘れているとは、誠実さを欠いていると言わざるを得ない。(この発言に当然、証拠は無い。1995年の阪神大震災で、当時、神学生であった妻が、その救援にと関西に派遣されたときに、村上密氏に身の上を話した時の会話だからである。)
 そして、今回も「根拠無し」のデマ文章である。 また、妻からの電話を受けて「誹謗中傷とのことであるが、事実無根とは言っていない。」という。「誹謗中傷」から、何で「事実無根とは言っていない」という結論に至るのか? この言葉(文章)の中に、村上密氏の悪い癖である「推測による断定と断罪」が出ていると言ってよい。 そして、こういうところに「村上密氏の “デマによるマインド・コントロール” 」が隠されているのだと、「村上密ブログ」 並びに 「現代の風景 - 随想 吉祥寺の森から」の読者に注意を促したい。(後略)



このように、記事に書かれた当人が、はっきりと村上密による指摘は、事実無根であると主張しているにも関わらず、村上密は、その主張を認めず、連絡を受けたことを機に、かえって得意げに、牧師に対するさらなる非難記事を投稿した上、削除の依頼がなされたのが電話の会話であったのを良いことに、抗議を受けた内容まですり替え、事実無根とは言われた覚えがないなどとうそぶき、自分に都合よく会話を捏造しながら、自己正当化を続けたのである。

こうしたやり方は、杉本徳久とそっくりである。杉本も筆者からコメントの削除の依頼を受けたのを機に、筆者が書き送ったメールの内容を自分に都合よく捏造し、さらに、筆者が、誰とも分からないカルト被害者を「冒涜している」などという口実をもうけて、筆者に対するバッシング記事の掲載に及んだ。

こうして、名前も分からない「被害者」の存在を口実に、自分が政敵とみなした人物を長年に渡り、執拗にバッシングするやり口は、村上と杉本では非常に酷似しており、さらに、彼らが敵とみなした人物に対する攻撃的で挑発的な言動を繰り返し、それに抗議を受けて、接触を受ける度ごとに、事態をさらに悪化させる報復措置に及び、泥沼の紛争へと人を導き入れて来た様子も酷似している。

話を戻せば、村上が記事の削除を逃れようと作り出す詭弁は、まさにトートロジーとしか言えないもので、いわば、蛇の理屈である。村上は、誰か人物も分からない人間が、村上のもとに、鳴尾教会の牧師のことで「被害相談」に訪れ、加害行為が行われたかのように報告したことをきっかけに、村上が、その名前も分からない人物に代わって、「加害者」とされた人物に「謝罪」を求めたり、「攻撃的」な文面を書いて非難断罪しても赦され、事実でないことを書き記しても、それは何ら「名誉毀損」に該当しないかのようにうそぶく。
 
そんな理屈が成り立つはずもなく、問題は、村上の書いた記事が、事実に基づく内容であるかどうかであって、第三者の問題は関係ない。

しかし、村上は、この点についても、次のような屁理屈を並べる。

「もしも、名誉棄損であると訴えてきたら、何が名誉を棄損しているのかを私は知ることができる。さんざん、人を傷つけてきていながら、自分が「傷つけられている」と思うのは自分勝手である。私には裁判の勝ち負けはなんでもない。私は事実を書きたいだけである。事実を知った人が関係をどうするかを判断してほしいからである。時に、人は自らが作った虚像と付き合うことがある。」

本当に呆れるほどの屁理屈だ。そこからはまず、「名誉毀損だと言うなら、訴えてくればいいのだ」という思いが読み取れる。さらに、「自分が人を傷つけた人間には、訴える資格などない」という思いも透けて見える。

さらに、「たとえ私が負けたとしても、裁判の勝ち負けなど何でもない。判決で私の書いた内容が否定されても、私は事実を書いたものと確信している。なぜなら、たとえ嘘であっても、大勢の間に、まことしやかに事実として広まれば、結果的に、嘘も事実になるからだ。私の目的は、何が真実であるかを追求することにはなく、多くの人に、私の書いた内容が事実であると信じ込ませ、影響を与えることにこそある。時に、虚像であっても、多くの人が信じれば、本人以上のリアリティを持つことがある」という思いさえも読み取れる。

このような詭弁を弄する相手に向き合うことは、骨の折れることである。こういう人間は、「あなたの記事は名誉棄損に該当します。」と言われると、「いや、あなたこそ、先にAさんに名誉棄損に及ばれたのではないですか。」と主張をすり替え、「そちらの事件を反省してからものを言ったらどうです?」といった具合に、子供のような幼稚な水掛け論に終始することで、時間を稼ぎ、自分の攻撃的な言動を正当化して済ませようとする。

そうして、ごちゃまぜにできない別の問題を一緒くたに論じ、「被害者」の存在を錦の御旗に、自己の無責任な行動の責任を全てうやむやにして終わりにしようとするのである。

だが、かく言う村上自身が、「悪質」と題する2014年の記事で、「嘘の物語を作り、知らない人に、先入観を与えることは、信用棄損である。」と書いて、yahoo!知恵袋に投稿されていた内容が、自分への「信用棄損である」と主張していた。

村上はこの投稿を何とか削除させた模様だが、投稿内容は、「十字架の死と復活の原則―神の教会とクリスチャンを冒涜し、呪う偽預言者らを待ち受ける地獄の永遠の厳しい裁き―」に転載してある。非常に興味深い投稿内容であって、筆者には、これは信用棄損どころか、村上という人物の本質を突いた指摘だと未だに感じられてならない。

いずれにせよ、このように、村上自身が、嘘の物語を作って他人の信用を傷つけることは許されないとしているのだから、それでは、村上が他の牧師に関する「嘘の物語」を作って記事を書くことが、「信用棄損」に該当しないはずがないではないか? なぜその理屈が、他人には当てはまって、村上自身には適用されないのか。まさに村上のご都合主義的な使い分け、詭弁、二枚舌と言う他ない。

さらに、村上は「田中信夫 その光と闇」の中で、自分がブログで牧師を批判する理由を説明して、「私は解任できる立場ではない。解任できるのは教会である。だから、私にできること、ブログを書くことをしている。これまで多くの情報提供があった。教会もおそらく知っている。しかし、現状は何もできていない。さて、どんな問題でも、ブログでは事実だけを掲載する方法がある。あえて私は、事実だけではなく、直接書けない人々の悲しみを読者に知っていただくために、批判を加えている。などとしている。
 
この文章を通して分かるのは、村上自身が、自分のブログ記事は、決して「事実だけ」を書いたものではない、と認めていることだ。そこには、事実プラスアルファとして、「被害者の感情」に基づく村上流の「批判」が付加されている。
 
こうして村上自身が、彼の記事は、事実に基づくものではなく、事実に巧妙に被害者感情というパン種を混ぜ込んで、事実を膨らませた自己流の「批判」であり、さらには「攻撃的」な内容であることも認めているのだ。

つまり、村上は、自分の書いた記事は、村上が当事者でもない第三者に過ぎない人間の被害者意識に流されて、誇張・歪曲・拡大・飛躍した論理によって成り立つものであり、決して事実だけに依拠するものではないことを、自分で認めていることになる。

村上は、杉本と同じように、「被害者の思い」という大義名分がありさえすれば、どれほど事実から逸れて飛躍した「嘘の物語」をブログに書き記しても、その行為が正当化されるかのように思い込んでいるのである。

こうした村上のブログは、古代宗教のシャーマンのようなレベルで執筆されていると考えれば分かりやすい。つまり、宗教トラブル相談センターの一部として運営されている村上のブログは、「呪いの祈祷」を捧げるためのシャーマンの祈祷室のようなものである。

誰かがシャーマンである村上のもとに、「被害」を訴えて、次のように駆け込んで来る。

「先生、私はあの人にひどいことをされました。許せません。報復してもらいたいです。」
「よし、分かった。それはひどい事件だ。加害者はぜひとも社会的制裁を受けねばならない。」
「どうやって制裁を加えればいいでしょう?」
「まずは裁判を起こすことだ。警察に訴えてもいい。悪人らは弁護士や警察を恐れる。もしも裁判の起こし方が分からないなら、私が代理人となって、色々教えてあげてもいい。むろん、私の働きは、ボランティアなので、報酬をもらう必要はないが、ただ裁判となれば色々と・・・」
「ええ、その辺のことは十分に分かっておりますから、おっしゃらなくて結構です。私共としても、立派な先生にただ働きなどさせてはと思っておりますので、謝礼金で駄目ならば、教会への献金という形でお役に立てればと思っています。で、裁判の他に報復の方法がありますか?」
「私の書いているブログがある。これは当センターが行った調査結果に基づき、不正があったと判断されれば、加害者に精神的な罰を与えるために用いているものだ。あなたが自分で書いてもいいのだが、私が書いた方が社会的影響力が大きい。公の誰にでも見られる場所に、加害者の行った悪事について、その人を非難断罪する言葉を書き連ねておくのだ。どんなにひどいことをされたか。どんなに悲しく、つらい思いをしたか。人の心を揺さぶる話を書いておけば、悪評が立つ。そうすれば、加害者に社会的制裁を受けさせることになる。」
「でも、先生、裁判は合法的に決着が着くし、向こうにも反論の機会があるからいいとしても、ブログは個人的見解を一方的に書くだけだから、名誉毀損に問われたりしませんか。しかも、聖書には自分で報復してはいけませんと書いてありませんでしたっけ?」
「本当に名誉毀損と思うなら、向こうから訴えてくればいいだけだ。第一、そんな裁判を起こす人は少数だし、第二に、裁判が決着するころまでには、大きなダメージを与えることができる。悪評が広まれば、味方の数も減る。精神的にもダメージになるから、裁判など起こせなくなるかも知れない。」
「分かりました。じゃあ、この事件について、ぜひ加害者を先生のブログで断罪してもらいたいです。」

むろん、こうしたやり取りは架空の想定とはいえ、当たらずとも遠からずだろう。村上ブログが、シャーマンの祈祷室よりも悪いのは、シャーマンならば、密室で呪いの祈祷を捧げるから、どれほどひどい呪詛の言葉を用いても、その祈祷内容が外へ知れることはないであろうが、村上の書いているブログは、不特定多数の読者の閲覧可能な媒体のため、そこに村上が事実無根の「嘘の物語」を書けば、当然ながら、書かれた人物は、著しい信用毀損を受けることだ。

村上はそれをあえて分かった上で、あえて「社会的制裁」を加える意図で、推測に過ぎない事柄を「怒りをこめて」断定調で書いたり、法的な制裁が不可能な事件について、情報提供として記事を書いていることがあると、2013年の記事「村上密ブログ 」で認めている。

「私は、ブログを通して、宗教問題の情報提供をしている。情報は、キリスト教の異端、カルト、カルト化教会、牧師や教会の問題である。時時、記事には私自身と読者のために、聖書の教えを加えている。情報は、資料或いは証言に基づいて書いている。推測の場合は、だろう、思われる、考えられる、と書き添えるようにしている。この記事は断定調ではないか、と思われる記事は、怒りが込められている。できるだけ、冷静に、理性的に書くようにしている。被害者が多くて、問題が深刻でも、問題によっては詳しく書けない場合がある。また、法的な制裁ができにくい場合は、情報提供として、社会的制裁を加えることがある。このようなブログを読んで、他者への紹介もあるので、自然、いろいろな情報が集まることになる。私は私の責任において記事を提供している。必要ではあるが、このような情報をキリスト教系のメディアが提供するとは考えられない。方針が違うからである。私は出来事を伝えるだけでは無く、出来事の問題性を書いている。例えば、ムーブメントを紹介しているのではなく、ムーブメントに含まれる問題性を書いている。このような視点は、スポンサーを必要としない個人のブログだからこそできる。反発、批判は当然あるだろう。しかし、これこそ、神学や解釈学を学んだ者ができる情報提供である。
 
神学や解釈学を学んだと言いつつも、村上のブログにはほとんど聖書の御言葉が出て来ず、専門家と言えるだけの論理もないのは言うまでもないが、そのことよりも、村上が「法的な制裁」によっては裁きを求められない非常に判断の困難なケースについて、「社会的制裁」いや、より正確に言えば、「私的制裁」を加えるための「情報提供」をブログで行っているとしていることは非常に注目される。ここではっきりと、ブログで公表するのは、制裁を加えることが目的であると、本人が認めているのである。

実際に、過去に沖縄リバイバル教会を巡って起きた問題についても、村上は「裁判だけが戦いの場ではありません。インターネットでも沖縄リバイバル教会の事が書き立てられ、大きな痛手を受ける事になりました。」(2009年「沖縄リバイバル教会裁判のその後 」)とインターネット上の情報戦を展開したことを認めている。これは結果的に被害者側が敗訴に終わり、法的制裁を加えられなかったので、その代わりに、インターネットで制裁を加えることで、穴埋めをした、と強調したものと見られる。

このように、村上が自らのブログを、法的制裁の及ばない問題について、私的制裁を加える手段として利用していることは、村上密の宗教トラブル相談センターが、村上がかつて設立しようとしていた「カルト監視機構」の構想を受け継いだものであることをはっきりと表している。

筆者が「「カルト監視機構」という名の秘密警察の設立について」でも記した通り、当初、村上は「カルト監視機構」を次のような組織にしようと構想していた。

「村上密(アッセンブリー京都教会牧師)とウィリアム・ウッドは、『カルト監視機構』の設立に向けて、具体的に動き始めました。この機構の目的は、カルトと疑問視されている団体を調査し、適正な判定を下し、発表することです。」
 
カルト監視機構の機能の中には、調査、判定、発表の三つが含まれていたのである。筆者はこの記事を発表した当時から、一体、誰がどうやって団体のカルト度について適正な調査・判定・発表など行えるのかという疑問を投げかけ、カルト監視機構は設立されれば牧師たちの権力闘争に悪用され、恐るべき異端審問機関となって魔女狩り裁判を生み、カルト以上に暴走するだけだと警鐘を鳴らした。

村上はこのカルト監視機構の構想をそのまま宗教トラブル相談センターに置き換え、相談者から、「カルトと疑問視されている」団体の情報を聞き出し、自前の「調査・判定」を行った挙句、自らのブログで、その結果を「発表」することで、疑惑を受けた団体や信者に報復を加えているものと見られる。

そして、2009年から危惧していた通り、筆者もそれから今日までこのセンターの「魔女狩り」の対象とされているのである。

だが、もともと法の裁きが及ばないような複雑な問題に対して、キリスト教の牧師という以外には、何の公的資格も持たない個人に過ぎない村上密が、ただ被害者の言い分だけを一方的に鵜呑みにして、加害者とされる人間に制裁を加えるために、ブログに事件の情報を発表するなど、越権行為の極みとしか言いようがないが、それを置いても、まさしくそれは私的制裁でしかないわけで、そのようなことを続けていれば、伝聞や臆測だけに基づく証拠もない行き過ぎた感情的な報復措置(私刑)が行われるようになるのは仕方がない。
 
だが、村上は、そのような問題が起きた場合、行き過ぎた行動によって誰かに与えてしまった損害は、謝罪や記事の削除だけで済まされず、弁済が必要としている。2016年の記事「特集 赦しなさい 4」にはこうある。

精神的な被害であれ、物質的な被害であれ、被害を与えている場合、弁償を十分考慮すべきである。損害は、損害分で済まない。だから、損害額+αである。謝罪があり、弁償がある。そうしたら赦すか赦さないかは被害者の問題となる。このような経過を踏まれたら、今度は加害者の問題ではなく、被害者の問題となる。問題の公平な判断は、手続きが正しく踏まれているかであって、高飛車な「赦しなさい」で片付くものではない。」

つまり、与えた被害については、損害額プラスアルファのものを償わなくてはいけないのだと言う。それだけ償ってもまだ赦すも赦さないも被害者側の自由だという。

このような理屈に則れば、村上密は、鳴尾キリスト福音教会の牧師に対して、どれほどの償いをせねばならないことであろうか。また、筆者に対しても・・・。

もちろん、村上が直接的に行ったことでなくとも、村上は、杉本徳久が筆者に対して行ったことについて、杉本がきちんと判決に基づいて弁済を行うよう勧めるのが、当然の筋ではないか。

ところが、冒頭の記事に戻れば、村上は、自分たちは常に他人に向かって被害を強調し、弁済させる側に立っても、自分たちが加害者となり、弁済する側に立つ可能性を全く想定していないのだ。自分たちは常に正しく、裁きを行う側であり、しかも、法的根拠すら欠いていても、私的制裁を加えることができ、そこに暴走も行き過ぎも誤謬も生じず、自分たちの判断にはいかなる誤算も間違いが生じることもないという前提に立っている。

いや、仮に間違いがあっても、当ブログを巡る裁判でも村上らが主張したように、せいぜい記事の削除に応じてやれば良いだけであって、弁済などする必要は全くないかのように考えているのだ。恐ろしいほどのダブルスタンダードとしか言いようがない。

だからこそ、筆者は、神が贖われた信者から成る教会に君臨し、自ら裁き主になって、聖徒らを公に断罪するなど、まさに悪魔的な高慢に基づく活動に他ならず、そのような反聖書的な活動に手を染める者は、正常な精神ではいられず、また、その活動は暗闇の勢力の牙城として利用され、人権侵害の温床となるだけだから容認してはならないと、繰り返し、強調しているのであり、事実、その通りになっているのだと言えよう。

* * *

さて、筆者は、杉本や村上や唐沢から受けた「呪い」をすべて解除して打ち破るために、今回の訴訟に臨んだ。まだすべての訴えが提起されたわけでなく、判決も完全に実現されていないとはいえ、筆者は、まず最初に杉本の書いた記事を削除に追い込むことで、その精神的・霊的呪縛を打ち破ったと言える。

そして、今、杉本が、取立が「怖い」とか「病気になる」などと、幼稚な不満をメールに書き記していたところを見ると、筆者が跳ね返した「呪い」は、杉本自身に跳ね返りつつあるように見受けられてならない。

杉本は筆者に向かって「精神異常」とか「まともな職につけない」だとか「社会的受容を受けられない」だとか、司法や警察から見捨てられているかのような様々な言葉を並べていたが、それらの一つ一つが、今や杉本自身の身の上に成就しているのである。

霊的刈り取りである。

筆者は2010年からそうなることを告げて来た。筆者は杉本をラスコーリニコフになぞらえ、悔い改めるよう勧めたが、杉本は悔い改めを拒否し、すでに以上の予告が成就しつつある。それでも、今回、杉本が判決に従い、ブログ記事を速やかに削除し、賠償金を速やかに支払えば、筆者もそれ以上、杉本に対して何らの措置に出る必要もなく、杉本の職場にこの事件が知れるといった事態が持ち上がる恐れもなく、事件は終わっていたことであろう。

自分で自分の仕事が危うくなるよう仕向け、とことん制裁を受ける道を自ら選んでいるのは杉本自身なのだ。筆者は債務弁済契約書も送ったので、杉本は支払いを行う意思を示そうと思えばすぐに出来たのに、それもせず、彼は昨日もサッカーに興じる道を選んでいる。

このように、まともな選択肢がどんなに用意されても、常にそれを踏みにじって退けては、自分で破滅へ至る道を選んで来たのは、杉本自身なのであるが、筆者はこのような状況となっているのは、やはり、杉本は自分の述べた言葉の厳しい刈り取りをせざるを得ないためだと思わずにいられない。

筆者は、この事件が不起訴になって終わるとは考えていない。警察は、自分たちが関わるのは捜査だけなので、その後のことは分からないとしているが、村上が五次元スクールから訴えられて不起訴になった事件と、この事件では重さが違いすぎる。

杉本が悔い改めない限り、彼に処罰が下されることは避けられず、それによって、唐沢に祝福を受けた社会福祉士の資格もいずれ剥奪されて終わるだけであろうと、筆者は1年以上前から、警告して来た。社会福祉士の仕事とは、精神を病んだ者、追い詰められた状況にある者、病気のゆえに就労できない者たちなどに対して、社会的支援の手を差し伸べることにあり、杉本がしたように、彼らを人前で愚弄し、その生活状況を徹底的に嘲笑するような行為が、この国家資格にふさわしくないのは言うまでもない。

同様に、村上も、唐沢も、自分のしたことの報いを受けるだろうと筆者は予測している。

前回の記事で、筆者は、村上の記事「そっとしておこう 」を読み、村上はこの記事に限らず、常に自分だけは決して孤独になることはないという根思い込みに立って、にぎやかで日の当たる場所から、孤独な人、不遇の状況にある人たちを高みから見下ろし、彼らが気づかれたくないであろう弱点を心の中で握って、その弱みを幾度も思い返しては、自分の優位を確かめて悦に入るような内容を書いていると指摘した。

そして、そういうことを繰り返していれば、いずれ村上自身が、自分が他者に対してしたのと同じように、孤独と不遇に追いやられ、他者にその弱みを憐れまれる立場になると書いた。

村上が前掲記事の青年に対して取った態度は、村上が筆者に対して「交流の少ない所で生活」しているなどと決めつけて非難した態度と同じであり、また、村上が拉致・監禁という手法を用いて、カルト宗教から強制脱会させて、密室のアパートに閉じ込めて説得を行った無数の信者たちに対する態度と同じである。

つまり、村上は、自分は常に「世間」を代表する無数の人たちに囲まれて、圧倒的な数の力を味方につけて誇りながら、密室に隔離されるがごとくに、孤独な環境に追い込まれた不遇の人々に対峙し、彼らに上からのしかかるように優位を誇り、また、その傷口をいついつまでもほじくり返すような態度を取りながら、ブログ記事を書いているのである。

村上の活動は、うわべは、被害者のためにと言って、あたかも可哀想な境遇にある人たちを助け、憐れむように見えるものの、実際には、村上は、自分がブログで仮想敵とした人々であれ、被害者としている人々に対してであれ、誰に対しても同じように上から目線で高慢に接しているということなのである。

村上は、人の弱点に関する情報を集めては、ブログで繰り返し、繰り返し、人の弱いところを攻撃し、自己の優位を誇示しようとしている。法的根拠などあろうがなかろうが、自分たちが被害者意識を発揮できるチャンスを得たと思うと、怒りの感情に任せて、好きなだけ報復措置を加えることが許されるかのように思い込んでいる。決して人を赦す必要はないと説き、人々の報復感情を煽り立てている。

こうして、自分よりも弱い他人に向かって、弱みを突いて、上からのしかかるように非難の言葉を書き連ね、その上、被害者意識を刺激された支持者たちがそれに煽られて、集団で獲物に襲いかかるように、村上がターゲットとした人物に中傷をまき散らし、正義漢ぶって袋叩きにする。そのような仕打ちを受ければ、普通の人は耐えられず死へ追いやられるだろう。

だから、そのような仕打ちを他者に対して行った人間には、いつか必ず、その報いが跳ね返ることになると、筆者は書いたのである。

だが、筆者があえてこのように書かずとも、すでに村上の人生には「刈り取り」が起きている。村上の子供たちには次々と不幸な事件が起きているが、なぜそのようなことが起きたのか、立ち止まって、考えてみれば良いのだ。村上の義理の息子が自死したのはなぜなのか。

筆者は、村上の宗教トラブル相談センターを訪れていた際、両夫婦からの冷淡な言葉に、何か月間も打ちのめされていたことを思い出す。特に夫人は、心傷ついた人に対して、生傷にナイフを突き立てるように話し、当時、無防備であった筆者は、自分の心を守る術も知らず、大きな痛手を受けた。

だが、それでも、筆者は少しの間しかこの教会に滞在しなかったので、受けた損失は軽かったかも知れないが、こうした対応に日常的に接している人間は、自殺に至らない方がおかしいくらいだと筆者は感じている。

別の息子も、自立して教会を離れたはずなのに、大けがに見舞われ、後遺症を負って村上のもとに戻らざるを得なくなったというのはなぜなのか。

唯一、教会で奉職している伝道師の息子がいるが、京都教会はすでに信徒数の減少に見舞われて、存続の危機に立たされていると見られる。村上が、長年、自分を助け、教会を支え、後継者とみなされた長澤氏を追放することで、教会が自滅に至る道を自分で選んだためだ。

これも村上が鳴尾教会に裁判をしかけ、信徒数の減少を見て嘲笑ったことの報いである。裁判で敗訴しても、なお、村上はこの教会の消滅を願うがごとく、非難断罪の記事を発表し続け、牧師夫妻を中傷し続けた。そうした残酷な仕打ちがなければ、村上ももう少し合理的な判断が出来、自分の所属している教会の存続が危うくなるような事態は避けられたかも知れない。

つまり、冒頭に挙げた村上の記事は、何から何まで村上自身に当てはまるのだ。村上のそばにいる信者たちは、いつか村上のブログで「社会的制裁」として自分も名指しの非難を受け、言葉尻をとらえられて、刑事告訴されるかも知れないと怯え、村上を提訴しても、賠償金を踏み倒されるかも知れない、村上の支持者たちからネットで集団リンチを受け、家族にまで被害が及ぶかも知れない、と考えて、このように残酷な呪いと制裁を信者に向かって発し続ける牧師とは決して一緒にいられないと、逃げ出す準備を整えている最中ではないだろうかと思われる。

村上とその家族の身の上には、すでに各種の災いが成就している点でも、呪いが我が身に跳ね返っているのは、まさに村上自身である。自称預言者というのも、一牧師に過ぎないのに、職権を濫用して、諸教会と全宗教を取り締まることができる裁き主であるかのように振る舞い、牧師の職務にはもともと含まれていない仕事をしている村上自身のことである。村上のしていることは何らの法的根拠も持たない「私的制裁」に過ぎない。

こうした悪事には必ず厳しい報いが伴う。村上は筆者の指摘を「呪い」であると感じているのかも知れないが、筆者から見れば、これは当然のごとく導き出される未来予測でしかなく、ただ霊的「刈り取り」が起きていることを示すだけの事実である。
 
村上が仮にこの指摘を呪いであると解釈したとしても、それを解く鍵は一つしかない。十字架である。

キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された”霊”を信仰によって受けるためでした。」(ガラテヤ3:13-14)

呪いは、恐れないことによって解くことができるわけではない。また、恐れないことができるのは、神への全き愛の中にとどまるからこそである。神への全き愛がなければ、人には罪赦される根拠もないので、刑罰を免れる根拠がない。

私たちのために身代わりに呪いとなられて木にかかられた方、ただこの方しか、呪いを解除する方法はない。筆者が杉本の書いた数多くの記事でかけられた呪縛を打ち破ったのも、掲示板における嵐のような中傷の前に立ちおおせたのも、村上や唐沢による中傷に影響を受けずにいるのも、ただキリストの十字架だけが根拠である。

唐沢はおそらく、ニュッサ氏が贖いに立っていないため、唐沢の呪いに抵抗する術を持たないことを知っていたものと見られる。それを分かった上で、ニュッサ氏を悪者として断罪し、刑事告訴し、ニュッサ氏の精神を徹底的に追い詰める策を講じることによって、彼を「自己崩壊」へ導いたのであり、それを鬼の首でも取ったように成果として誇っている。もちろん、こうした残酷な仕打ちにも、厳しい刈り取りがあるだろう。

筆者は、これら3名に対し、彼らが筆者に対して発したすべての呪いの言葉を、そっくりそのまま彼らにお返しすると、ここで宣言しておく。

筆者から見れば、杉本も村上も唐沢も、キリストの十字架の贖いを退けているので、十字架によって呪いを解除することはできず、恐怖に対抗する術を持たない。だから、自分が他者に向かって吐いた呪詛の言葉が、刈り取りとなって自分に跳ね返って来るとき、防御の方法を持たないであろう。いつかそれらがすべて自分の身の上に成就して人生を終えるだけである。

いつまでも自分だけは、安全なところに立って、孤独とは無縁の生活を送り、弱い人たちの恥を暴き、彼らの精神をとことん追い詰め、死へ追いやるような残酷な仕打ちを加えることが許されるとは思わない方が良いであろう。いつまでも自分が神のような裁き主となって、神が贖われたクリスチャンに罪を着せて断罪することが可能だなどと思わない方が良い。

弱い者、心ひしがれている者、追い詰められている者、疲れ切っている者を、愚弄の対象として踏みにじり、自分が神でもないのに、神のごとく思い上がって、正しい者を罪に定め、悪者を弁護し、自ら裁きを曲げながら、裁き主のように振る舞う高慢な人間たちの末路は、聖書にちゃんと記されている通りである。

お前は自分の心が神の心のようだと思い込んでいる。

それゆえ、わたしはお前に対して諸国の中でも最も暴虐な外国人を立ち向かわせる。彼らはお前の知恵の誇りに向かって剣を抜き、お前の栄華を汚し、 お前を陰府に突き落とす。お前は海の真ん中で切り倒されて死ぬ。

お前は自分を殺す者の前でもなお、『わたしは神だ』と言い張るのか。お前は人であって、神ではなく、切り倒す者の手にある。

お前は割礼のない者として、外国人の手にかかって死ぬ。

彼女は心の中でこう言っているからである。

『わたしは、女王の座に着いており、
 やもめなどではない。
 決して悲しい目に遭いはしない。』

 それゆえ、一日のうちに、さまざまな災いが、
 死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。
 また、彼女は火で焼かれる。
 彼女を裁く神は、
 力ある主だからである。」(黙示18:7-8)


「わたしは永遠に女王だ、とお前は言い
 何事も心に留めず、終わりの事を思わなかった。
 今、これを聞くがよい
 快楽に浸り、安んじて座る女よ。
 わたしだけ わたしのほかにはだれもいない、と言い
 わたしはやもめになることなく
 子を失うこともない、と心に言う者よ。

 その二つのことが
 一日のうちに、瞬く間にお前に起こり
 子を失いやもめとなる苦しみが
 すべてお前に臨む。どれほど呪文を唱え
 どれほど強いまじないをしても無駄だ。

  お前は平然と悪事をし
 「見ている者はない」と言っていた。
 お前の知恵と知識がお前を誤らせ
 お前は心に言っていた
 わたしだけ
 わたしのほかにはだれもいない、と。

 だが、災いがお前を襲うと
 それに対するまじないを知らず
 災難がふりかかっても、払いのけられない。
 思いもかけない時、突然、破滅がお前を襲う。

 まじないと呪文の数々をもって立ち向かえ。
 若い時から労して身につけたものが
 あるいは役に立ち
 それを追い払うことができるかもしれない。

 助言が多すぎて、お前は弱ってしまった。
 天にしるしを見る者、星によって占う者
 新月によってお前の運命を告げる者などを
 立ち向かわせ、お前を救わせてみよ。

 見よ、彼らはわらにすぎず、火が彼らを焼き尽くし
 炎の力から自分の命を救い出しえない。
 この火は体を温める炭火でも
 傍らに座るための火でもない。

 呪文を若い時から労して身につけ
 売り物としてきた者すら、この様だ。
 彼らはおのおの勝手に迷って行き
 お前を救う者はひとりもいない。 」(イザヤ47:7-15)

これは聖書に記されている動かせない霊的法則性である。高ぶって、自分を神のように思い、神に代わって裁き主となり、教会や聖徒らの恥を暴き、キリストが十字架において命を捨てて贖われた聖徒らを再び罪に定めようとする者には、悪魔と同じ裁きが下るのは当然である。

自分は決して孤独をも貧しさをも知ることはないと豪語していたバビロンが、夫と子供を一日で失って寡婦となり、恥辱のどん底に突き落とされ、焼き払われる。聖書の真理に逆らっては、誰も立ちおおせない。ただそのことが記されているに過ぎない

十字架の贖いを退けるならば、呪いは誰も解除できないのだ。

神は全ての物事を見ておられる、バビロンへの裁きの時は近づいている。弱い人を容赦なく踏みにじって死へ追いやろうとした人間たちは、自分たちが弱くなった時に、踏みにじられて終わる。

人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(ヤコブ2:13)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(24)―自己顕示・自己栄化の霊に導かれ、政敵を蹴落とすためなら手段を選ばない村上密―

最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。

なお、その上に信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」(エフェソ6:10-20)

* * *
   
最近、筆者の周りに少しずつ増えつつある信者以外の知り合いは、時折、筆者自身がはっとするほど鋭い助言をしてくれる。筆者はクリスチャンだが、筆者自身は、信仰を持つ人々よりも、信仰を持たない人たちの方に、バランスの取れたものの見方、的確な判断を見ることが多い。

むろん、神を信じて何一つ後悔することはないし、聖書の神が生きておられ、信じる者を教も守って下さることを疑わないが、それでも、筆者の出会った信者の中に、こうした助力や助言を適宜、行える人たちがほとんど見つからなかったという現状は、どういうことなのだろうかと思う。

筆者から見ると、ほとんどのクリスチャンたちは、現実で起きる様々な問題に対処する知恵と力があまりにも乏しい。そういった背景があればこそ、カルト被害者救済活動が登場して来て、諸教会に裁判などをしかけ始めると、多くの人たちがこの活動の前にひるんで沈黙してしまったのではないかと思う。

だが、クリスチャンがそのように世人に比べ、圧倒的に世の事柄に疎い状態ではいけないと筆者は思う。次のように言われている通りである。

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」(マタイ10:16-20)
 
この「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」という命令が、反キリスト・偽預言者たちの策略に負けないように、という文脈で記されていることは興味深い。暗闇の勢力には蛇のような狡猾さがあるが、それに劣らぬ知恵が霊的戦いには必要となると言われているのである。

筆者が人生最初に経験した訴訟が、これほど難易度の高いものとなっていることも、見逃せない事実である。訴訟と債権回収は一つであって、債権回収が成立しないならば、訴訟を起こす意味がない。どんなに勝訴判決を得ても、それが机上の空論でしかないならば、すべては時間と労力の空費でしかない。

だから、「言葉」と「実行」を一つに結びつけることが必要なのであるが、その方法を、筆者は、とことん学ぶ機会を与えられていることも、神の恵みであろうと思う。すでに強制執行や間接強制の手続き方法はひと通り理解した。後は取立を成功させる秘訣を学ぶことである。

さて、昨日、筆者は杉本の件で警察に相談してみた。すると、杉本に会うことは、安全のために決して勧められないので、行かないでもらいたいと制止を受けた。むろん、それは予想の通りの助言であった。杉本の取り調べも近日中に予定されているのだから、警察に任せなさいということである。
 
随分、警察が心配してくれるようになったが、そのような円滑な関係が打ち立てられたのも、筆者の内心の変化と、一審判決が下されたことが大きいであろう。今回、非常に鋭い指摘を受けた。それは、筆者が杉本のメールに憤り、これに触発されて、杉本に直接交渉したりすれば、彼と同じレベルに堕ちる危険があるからやめた方が良い、というのである。相手の幼稚さ、俗悪さ、卑劣さに引きずられることなく、自分の人生をしっかりと大切にしなさい、というのであった。
 
考えてみれば、刑事事件に明白な進展が訪れたのは、杉本の書いた一連の記事が削除されてからのことである。やはり、事実無根の名誉毀損の記事であっても、霊的な領域においては、呪いの効果を持っている可能はあるだろう。それが削除されたことにより、警察との関わりも前とは違ったものになり、刑事事件もよりスムーズに進むようになったのである。

むろん、杉本が今回、筆者に送って来たメールのあまりにも利己的かつ幼稚で無責任な内容、サッカーチームの試合予定、さらに、以下の杉本による事件の閲覧記録と、村上密のブログにおける唐沢の記事の投稿などについても、すべて事情を伝えておいた。
 
二審が始まってみなければ、まだ確定的なことは言えないとはいえ、一審判決から現在に至るまで、相当に村上を不利に陥れる証拠が増えたことは確かである。

村上密のブログからは、以前はあれほど頻繁に見られた「完全勝訴」の響きが消えて、かえって、「変節」の記事に見られるように、筆者が村上に対して裁判を起こしたこと自体に、ぼやきに近い不満を示すかのような調子が見られるようになった。

「クリスチャンが裁判することに強く反対していた人が、裁判の原告になったのを聞くと、ご都合主義に思える。何人もこのような人を見たり聞いたりしてきた。」
 
本当にそうだろうか。何人も見て来たのか? しかも、これはどういう紛争の話なのか、全く説明がない。クリスチャンといえども、この世で起きた紛争に関して、原告となることが禁じられているわけではあるまい? 土地の境界線に関する隣人とのトラブル等から始まり、労働紛争、交通事故、その他、いかなる紛争も、クリスチャンは訴えを起こすことが禁じられているなどといった話ではないだろう? だが、あまりにも文章が短すぎるため、前後の文脈もなく、説明不足すぎて、読者に誤解を招きかねない表現だ。

さらに、言葉の使い方も間違っている。

「他人がしているときは、高邁な自説を主張し、わが身になると手の平を返す、これを国語辞書では変節という。変節の自己弁護を聞くことほど嫌なものはない。だれでも裁判権を持っているのだから、初めから裁判を否定しなければよい。しかし、裁判権を知っていながら、激しく裁判を否定していた人が、法的手段に血眼になっているを聞くと、いったいあれは何だったのかと問いたい。私はクリスチャンでも裁判を行使してよいと勧めてきた。コリントの第1の手紙(6:1~7)から裁判を否定するのは間違った解釈である。教会で扱うプロセスを飛び越えて、早々と世の裁判に訴えることをパウロは咎めているのである。裁判そのものを否定しているわけではない。   」

正しくは「これを国語辞典では「ご都合主義」と言う。」だろう。変節というのは、転向とも似ており、信念そのものが変わったことを指す。だが、他人の裁判だけを非難して、自分の裁判は正当化するという態度は、ただご都合主義的に意見をころころ変えているだけで、信念そのものの変節には当たらない可能性が高い。
 
そして、もしこの非難が筆者を指すものであるならば、筆者は裁判権を否定したことなど全くない。筆者は聖書に沿って、クリスチャンがクリスチャンに対して訴えを起こし、教会内の問題をこの世に持ち出すべきではないと述べているのだ。その点で、筆者は教会に対して争いを起こしたことは今に至るまで全くないので、信念が変わった点は何一つない。

だが、長年に渡る緻密な観察と分析により、村上密、杉本徳久、唐沢治の三人は、キリスト教徒ではないという判断が筆者の中では下っている。相手がクリスチャンではない場合、この世に訴えを持ち出しても、何ら問題とはならないのである。

このように、筆者の信念は何ら変化していないので、村上から非難される筋合いなど全くない。むしろ、村上こそ、カルト被害者が裁判を起こした際には、被告とされた牧師たちを強く非難し、信者に損害を与えた牧師は、賠償に応じるべきだなどと叫んでいたのだから、今回の一審判決で、杉本に下された賠償命令を、杉本がきちんと受け入れ、判決に従って支払いをするよう、牧師として促すべきではないか?
 
自分たちが人を訴える際にだけ、声高に賠償を要求しながら、自分たちが敗北して賠償せねばならない立場になれば、詭弁を弄して支払いから逃げようとする。このような行為こそ、御都合主義として非難されるにふさわしい。司法の悪用と言っても差し支えない。

さて、裁判所に確かめたところ、唐沢の陳述書を閲覧・謄写したのは、杉本徳久であることが分かった。むろん、それで入手の経路を100%断定はできないにせよ、村上が、この陳述書を杉本経由で入手した可能性が高まったことになる。

 

杉本が閲覧謄写している日が4月26日にであることを見ても、村上の投稿以前なので、辻褄は合う。陳述書本文は筆者が公表している。公表されていない書証の部分だけ、杉本が複写して、これを村上に提供し、村上がそれを読んで一連の記事の発表に至った可能性が濃厚である。

筆者は、村上が唐沢とメールで直接、やり取りをして、直接、唐沢から陳述書の掲載の許可を取った上で、掲載しているはずだと考えていた。当然ながら、牧師同士の配慮として、了承も得ていない当事者の文書を、無断で入手して公開するなどの可能性は全く考えもしなかった。
 
おそらく唐沢から村上に対して、これを公開して欲しいといった黙示・明示のリクエストがあって、初めて村上が公開に及んだのだということを疑わなかったのである。
 
だが、村上が唐沢本人から提供を受けていたのであれば、杉本が閲覧・複写する必要はないことであろう(なぜなら、以前から村上と杉本との間ではメール交換等も行なわれているためだ)。そして、唐沢は「没交渉」と言って、そのような事実を示唆しておらず、さらに村上は許可を得て掲載している旨も説明していない。
 
むろん、入手経路の釈明は二審で求めることとなろうが、村上が、筆者が当事者としてすでに公表している唐沢の陳述書について、入手の経路さえ明らかにせず、まるで自分が未発表の事実をつきとめ、これを発表することで、手柄を立てたとでも言うかのように、「唐沢治氏の陳述書」などとして記事を公表し、唐沢を弁護する目的で、筆者が強要罪を犯しているかのように示唆しながら、筆者を断罪したことを、読者は覚えておかれたい。

筆者は、村上のブログに働いているのは、常に自分が他者よりも優れていることを誇示して勝ち誇ろうとする自己顕示の霊、自己栄化の霊である(別の言い方をすれば「マウンティングの霊」)であると指摘して来た。

記事「そっとしておこう 」も同様である。村上が通りすがりに、失業して喫茶店で何度も時間を潰すしかない状況にある青年を頻繁に見かけたが、あえて声をかけないでやったという内容である。一見、思いやりに満ちた内容のように見えるかも知れないが、決してそうではない。

これは自分と比べて不遇の境遇にある人を、上から目線で哀れむ牧師の自慢話に過ぎない。本当に「そっとしておこう」と思うならば、どんなに人物が特定できない形でも、記事になど書くべきではないだろう。しかも、青年はすでに就職しているようであるから、今になって、本人さえも忘れているかも知れないその当時のことを思い出し、「俺はおまえの失業を知っているぞ」と今更のように強調する必要はない。

人の見られたくないところ、知られたくない姿を見た時には、それは見なかったことにして一切、心の中から消し去り、忘れることだ。たとえ忘れなくとも、決して人前でその秘密を明かしたりはしないことだ。それが他者への思いやりというものだ。

そうでなければ、村上が年老いて妻に先立たれ、会話する相手もいなくなり、日々、喫茶店で時間を潰すしかない老人になった時に、誰かがそのことを記事に書くかも知れない。

「友達と一緒に移動してるときに、よく通る道にある喫茶店で、ぽつんと座っている老人がいるのを何度か見かけたの。ねえ、あれ、村上先生じゃない?、寂しそうだから声をかけようかな?と思ったんだけれど、何だか声をかけづらくて、きっと先生ももうすぐ天国に行かれるでしょうから、地上で最後の休息を取ってるだけだろうし、邪魔しないでそっとしておいてあげようと思ったの。そしたらね、ほんとにそれから間もなく、召されたみたいだった。」

そんな風に言われたいのだろうか? だが、村上が、普通の人間の心さえ分からなくなっているのは、彼がまさに「マウンティング」を目的に記事を書いているからだ。自分が他者よりもいかに秀でており、優位にあって、他者の弱みを数多く握っているか、それを自分に言い聞かせることで、自己を慰めるために記事を書いているためである。
 
話を戻せば、この自己顕示の霊は、パクリの霊でもある。他人の手柄を自分のもののように横取りし、ライバルを駆逐して、自分だけが勝ち誇りたいという霊である。

村上は、筆者の手柄を横取りし、なおかつ、筆者を断罪して濡れ衣を着せ、ネットから葬り去る目的で、唐沢治の陳述書の公開に及んだ。

村上の最新の記事「牧師が解釈を独占 」でも、村上が鏡に映った自分に見惚れるように、検索を繰り返し、自分の記事がいかに上位にヒットしているかを確かめ、悦に入っている様子が分かる。

「今日「解釈を牧師が独占」と「牧師が解釈を独占」を検索したら、上位3件が同じく村上密ブログの記事だった。一部を抜粋してみた。このような表現はほかに検索の結果が出なかった。どうやら2014年6月9日の記事が、今まであまり表現されてこなかった言葉で、教会のカルト化に警鐘を鳴らし始めたことになる。」

まるで「鏡よ、鏡、世界で一番偉いカルト専門家はだあれ?」と尋ね、「それは俺様だろ!」と自問自答する姿を有様を見るように、村上のナルシシズムを強く感じさせる内容である。

こういう牧師は、もしも検索サイトという「鏡」が望ましくない答えを返し、村上以外の誰かが上位にランクしていることを告げて来たら、きっと、「そんなはずはない!俺の満足する答えを返せ!正しい答えが出るまでやり直すぞ!」と、鏡を打ち壊して、新しい鏡を必死で作るのだろう。

そうなるためになら、自分の支持者たちが、掲示板でライバルを集団リンチし、誹謗中傷をまき散らすことで、検索サイトに悪評を反映させ、順位を下落させ、駆逐して行くことをも黙認・容認するのであろう。

その上、それだけでは飽き足らず、とどめを刺すために、ライバルを刑事告訴したり、自分でも盛んに中傷を書きなぐるなどの入念さを見せるのであろう。実際、村上がしてきたのはその通りの行為である。

当ブログには、村上や杉本にとって不都合な記事を検索結果から駆逐しようと、毎日のように、大量の読者が押しかけて検索結果の操作が繰り返されている。従って、筆者は、検索結果など意図的な操作によりいかようにでも変わり得るものであること、それが事実を示しているわけでないことを疑わない。

村上は「牧師が解釈を独占」という独自の用語で検索した結果、そうした発想がまるで自分の考案したものであるかのように自慢げに主張しているが、筆者は、2009年来、同様の主張を当ブログで展開して来た。

当ブログでは、開設当初からどれほどの回数、牧師が信者の霊的生長の妨げとなっているかというテーマについて、触れて来たか分からない。ただし、牧師制度の悪について触れるに当たり、筆者は幾度も分析の方法や、用いる言葉や、注目する観点を変えて来た。当初は、牧師制度は個人崇拝の制度であるというところから始まり、グノーシス主義との関連性、ペンテコステ運動との関連性、牧師が「御言葉を取り継ぐ者」とみなされていることの反聖書性などに言及した。
 
しかし、言葉の違いはどうあれ、当ブログ始まって以来、決して途絶えたことのないメインテーマの一つが、牧師制度の悪を訴えることにあった。牧師制度こそ、すべてのカルト化現象の元凶なのであり、この制度ある限り、プロテスタントの腐敗はなくならないというのが、当ブログの変わらない主張である。
 
現在、筆者は次のように主張している。「信仰回復運動は、常に聖書そのものの一般への解放と密接な関係があった。プロテスタントの牧師制度は、牧師だけを御言葉を取り継ぐ者として、信者自身に聖書を解釈させないことにより、聖書を牧師の独占物として来た。新たな信仰回復運動は、牧師制度から聖書を解放し、聖書を万人に開放し、万民祭司の原則を打ち立てること以外にはない。」
 
* * *

さて、当ブログがどれほど早くから牧師制度と独占という言葉を結び付けて論じて来たか、いくつか過去記事を抜粋してみよう。最も古い時期のものは、手束正昭氏の著書『教会生活の勘所』が異端的教説に基づいていることを分析した以下の記事であろう。

教会成長論が生む牧師への個人崇拝」(2009年5月12日)

4)教会成長論が生み出す牧師への個人崇拝


 さて、『教会成長の勘所』に話を戻そう。第一部では、教会役員はいかにあるべきかが述べられているが、この部の最も核心的な話題は、実は、教会役員にあるのではなく、牧師への個人崇拝にあると見て良いと私は思う。だから、そこから話を始めよう。

人格的象徴としての牧師

 『祈りの精神』という日本でもよく読まれている書物を書いた英国の神学者フォーサイスは、その書物の中で『牧師とは礼典的存在である』と主張している。礼典的存在とは、私の言葉で言えば人格的象徴ということである。『象徴性を担った人間』ということになる。
つまり、その人間を通して神の恵みと祝福、命と力が注がれてくる媒体としての存在ということである。
神の世界は四次元、人間の世界は三次元なので両者は直接的には交わり得ない。人格的象徴とは、この四次元と三次元をつなぐ通路、管としての存在と言ってもよい。<略>
宗教的象徴ということについての理解の不足は、信仰そのものの貧困さをもたらすことになりかねないということは明らかである。」(p.21-22)

 この短い文章を読んだだけですぐに、ある人々は、この書物がキリスト者をいかに破滅的な異端に誘い込む危険な内容であるかを察するだろう。
 よく読んでみよう。牧師は「礼典的・象徴的存在」であると手束氏は言う。

 確かに、あらゆる団体のリーダーとなる人物には、群れの模範、代表、シンボルマークの役割を担う力が必要になる。リーダーには確かにグループのシンボルとしての役割がある。そのことには異論はない。しかし、手束氏の言う「礼典的・象徴的存在」の意味は決してその程度の軽いものでは終わっていない。

 氏は言う、礼典的・象徴的存在とは、「その人間を通して神の恵みと祝福、命と力が注がれてくる媒体としての存在」であると。つまり、牧師を通して、信徒は神の恵みと祝福、命と力を受け取るというのである。
 確かに、敬虔なクリスチャンは誰でも神の愛と恵みを隣人に届けるための通り良き管となれるだろう。そのことに私は反対しない。私たちがキリスト者として、愛に基づいて隣人を助ける時、私たちは神の祝福の通り良き管となっているのである。従って、もしも優れた牧師がいるならば、彼は神の恵みを多くの人々に届ける管になるだろう。

 しかしながら、氏はこれでも終わらない。そこからさらに進んでこう言う、「神の世界は四次元、人間の世界は三次元なので両者は直接的には交わり得ない。人格的象徴とは、この四次元と三次元をつなぐ通路、管としての存在と言ってもよい。」
 ここまで来れば、どんなに鈍感な人でも、この文章の危険性に気づくのではないだろうか。私たちはこれをきちんと字義通り解釈しなければならない。この文章は、三次元の世界に住んでいる信徒は、神のおられる四次元の世界には「直接的には交わり得ない」、従って、「四次元と三次元をつなぐ通路、管としての存在」、つまり、「人格的象徴」である牧師を通さねば、事実上、信徒は神と交わることができず、神の恵みを受け取ることもできないと言っているのである。
 牧師を通さねば、信徒は神との直接対話は不可能だと言うのがこの文章の意味である。そして、そのことの重要性を見落とし、「宗教的象徴」についての理解が不足すると「信仰そのものの貧困さをもたらすことになりかねない」と氏は言うのである。

 眩暈がするような文章ではないだろうか。善良なクリスチャンにこれ以上の説明は不要だろう。しかし、これだけではまだこの論理の異常性が分からないという人がいるかも知れないので、念のために、最後まで、分析を進めよう。[四次元問題については、末尾の注を参照。]

 上記のような「人格的象徴としての牧師説」は、事実上のイエス・キリストの否定である。

 聖書を見よう、イエスは言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)

 クリスチャンが真理に至るため、あがないを得るため、永遠の命を得るため、父なる神の御許に至るために、唯一与えられている通路は、イエス・キリストただ一人である。象徴的存在としての牧師ではない。いかなる人間も、神と人とをつなぐために、イエスの代理人となることはできない。

「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒4:11-12)

 イエスは「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)と言われた。そこで、クリスチャンは今日、「イエスの御名によって」祈るのである。
 旧約聖書時代には、預言者を通さなければ、民は神の御言葉に接することができなかった。だが、十字架によるあがないのおかげで、クリスチャンがイエスの名を通せば、直接、神を礼拝し、神に願い求めることが可能となった。これは聖書理解の基本中の基本である。だが、『教会成長の勘所』はそこからしてすでに真理から逸れている。牧師が事実上、イエスの役割を代行する者として名乗り出ているのである。そのことは、続く文章を読めば、さらによく分かるだろう。

「ところで、象徴というものにはそれに対する信頼と尊敬があってこそ、その機能を発揮できるという性質がある。たとえば、聖書は只の古典ではなく、象徴としての書物即ち神の言葉である。それゆえにこの書物に対して鄭重なる尊敬と神の言葉としての信頼をもって読むことによってのみ、私たちはそこから汲めども尽きぬ恵みと神の命に与かりえるのである。
ましてや人格的象徴には、尊敬と信頼とが更に必要となる。あのナザレのイエスにおいてさえ、故郷の人々が尊敬と信頼を持たなかった時、奇跡を行うことができなかったのである」(p.22)

 この文章をよく読めば、著者手束氏が「象徴」という言葉をどのような意味で用いているかがよく分かるだろう。
 聖書は「象徴としての書物」であると氏は言う。つまり、神の御言葉が、見える形となって現われたものが聖書だという意味である。神の霊的な御言葉が、現実の地上世界の言語に表され、翻訳の不手際なども指摘されつつも、それでも可能な限り正確に文章化されて、見える形でクリスチャンの手元に届けられた。その見える形の聖書は、ただの物質ではないから、私たちはそれを小説や雑誌のようにではなく、神の言葉としての尊敬を払いつつ読まねばならないということが言われているのである。そのこと自体に異論はない。だが、それと同様に、牧師も「象徴」であるから尊敬を払われなければならないと氏は言うのである。

 不明なのは、牧師が一体、「何の象徴として」信徒から尊敬されなければならないのかという点である。教会の象徴としての牧師? 正しい教えの象徴としての牧師? この文章からはよく分からない。
 もう一度文章を読んでみよう。

「それゆえにこの書物に対して鄭重なる尊敬と神の言葉としての信頼をもって読むことによってのみ、私たちはそこから汲めども尽きぬ恵みと神の命に与かりえるのである。ましてや人格的象徴には、尊敬と信頼とが更に必要となる。」
 
 奇怪な文章である。信徒が聖書に尊敬を払うならば、「ましてや」人格的象徴である牧師には「更に」尊敬と信頼が必要だと言うのである。つまり、人格的象徴である牧師には、聖書に対する以上に、信徒からの尊敬と信頼がなければならない、と言うのである。牧師が事実上、聖書より高い位置に置かれていることが分かる。
 これはどういうことであろうか。ただの群れのリーダー、聖書を教える教師、教会の統率者が、聖書以上に尊敬と信頼を受けなければならない理由はない。従って、はっきりした説明はないものの、手束氏が「象徴的存在」である牧師が聖書以上に尊敬されてしかるべきだと述べているその根拠とは、「牧師とは御言葉の象徴であり、神ご自身の象徴である」と氏が考えているからだと受け取るのが、何よりも自然であろう。

 だが、さすがに「牧師は神と御言葉の生ける象徴である」とまで言い切ることはためらわれたのであろう。そこで、何の象徴であるのかを明確にしないまま、ただ「牧師は礼典的・象徴的存在である」という曖昧な説明でお茶を濁しているのだろうと想像される。
 結局、牧師は御言葉と神ご自身の人格的象徴であるから、聖書そのものにまして、信徒から尊敬と信頼を受けなければならないということが暗に言われているのである。

 ここで、イエスがユダヤ人に言われたことを私たちは思い出さなければならない、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。<略>わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の何よって来るならば、その人を受けいれるのであろう」(ヨハネ5:39-43)

 もしもこの地上の人間の中に、御言葉や、聖書の人格的象徴と言える存在があるとすれば、それはイエス・キリストお一人だけである。父なる神の名によって地上に遣わされたのはイエスだけであり、それ以外の人々は全て「彼自身の名によって来た」のである。だからこそ、聖書を敬いながら、イエスを信じようともしないユダヤ人に、キリストは上記のように言われたのである。聖書自体が、イエスについてあかしする書物であり、イエスの存在は御言葉そのものである。にも関わらず、どうして肉なる人に過ぎない牧師が、イエスに成り代わって自分が御言葉の象徴となり、聖書に対する尊敬以上の尊敬をクリスチャンに要求することができるのだろうか。

 手束氏の言う、「人格的象徴」なるものが、事実上、牧師がイエスに成り代わり、聖書以上の権威を身に帯びて、自分を通さねば神からの恵みを誰も受けることができないと主張し、自分に対する個人崇拝を信徒に要求するものであることは、明らかである。

* * *

また、同じ頃、書いた記事を土台に、後に内容を多少書き加えたものが以下の記事である。

牧師制度という個人崇拝の悪―偶像崇拝が大衆にもたらす偶像との一体化願望と失望」(2009年3月19日)

これまで、キリスト教界に問題が起きるのは、牧師制度が原因である、ということについて述べて来た。なぜ牧師制度はあるべきでないのか。聖書では、主イエスは次のように語られた。

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
あなたがたは、地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。」(マタイ23:8-10)

このように、聖書はキリストを信じる信者の間に序列があるべきでないこと、信者にとっての教師とは、見えないキリストただお一人だけであることをはっきりと示している。

それにも関わらず、主イエスの御言葉に反して、信者が信者の上に立ち、神と人との唯一の仲保者であるキリストを否定し、押しのけてまで、他の信者の教師、模範、指導者となり、他者を教えることを、制度化することによって固定化しているものが、牧師制度である。

このようにキリストの御言葉の根幹を否定して成り立っている牧師制度がある限り、キリスト教界には問題が起き続け、是正は不可能であろう。むろん、カトリックであれば、プロテスタント以上の厳格なヒエラルキーがあり、神の代理人としての法王が立てられているわけだから、プロテスタント以上に深刻な問題が存在することは言うまでもない。

<略>

ペンテコステ運動にも同じことが言える。
  
神と人との関係は、原則的に、一夫一婦制である。神は唯一であり、神と人との仲保者はイエス・キリスト以外にはいない。にも関わらず、その一夫一婦制の原則を破って、人間の指導者がキリストとエクレシアとの間に割って入って、エクレシアの心を盗もうとするならば、必ず、その指導者と、神への貞潔を捨てた信者たちに、ひどい末路が降りかからないわけにはいかないのだ。
 
つまり、カルト化現象は、何かしらの難解な教義的な逸脱の結果として起きることではなく、一部の教会や指導者が悪に傾いたために起きるものでもなく、信者が唯一のまことの神だけに従う信仰を捨てて、目に見える人間の指導者を含め、神でないものを神としたことによって起きる当然の結果でしかないのである。

だから、キリスト教にはカルト化という問題は存在しない。あるのはまことの神を神としないで、神でないものを神とする人間の罪と背教だけである。

* * *

また、2015年頃からは、筆者はグノーシス主義とからめて牧師制度の悪を論じることが多くなった。グノーシス主義は霊的階層制を取っており、必ず、真理の仲介者として目に見える指導者を必要とすることを明らかにし、プロテスタントの牧師制度は、聖書に合致するものではなく、むしろ、グノーシス主義的な背景を持つものであることを指摘した。

神の代理人を詐称する牧師制度と公務員を詐称する官僚制度の闇」(2015年6月21日)

さらに、グノーシス主義は人間を救済するために、こうして人間の仲介者(グルのような存在)を肯定するばかりでなく、聖書に反して、真理を教えるためには指導者に聞く必要があるとして、教える者と教えられる側の区別を作り、信徒の間にヒエラルキーを作り出します。

聖書はもともと「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。」(マタイ23:8)

と、神のみ前に兄弟姉妹が平等であることを説き、教師や指導者を名乗る信徒が、他の兄弟姉妹の信徒を指導し、支配するという階層制を認めていません。

しかしながら、グノーシス主義は徹底したピラミッド構造を持っており、少数のエリートの指導者層による大多数の信徒への「教育」や「指導」(=「支配」)を肯定します。一握りの「悟りを開いた」エリート集団が、その他大多数の「愚かな」平信徒を指導するというピラミッド型の差別構造が、異端の教えには必ず伴います。ですから、グノーシス主義を取り込んでしまった宗教団体は、ネズミ講のような上意下達式の組織を持つことになり、それが支配と収奪のシステムとして機能し、指導者は偉くなって君臨する一方、末端の信徒は虐げられるということになります。

こうして、異端の教えは、巧みに神の名や、人の救いを口実として利用しながらも、神への服従ではなく、「神の代理人」や「みことばを取り継ぐ人」を名乗る人間の指導者の権威への服従を説くことにより、平信徒が少数のエリートに依存し、服従するようなシステムを作り出します。これに反すれば、指導者に逆らうことは神に逆らうことと同一視され、「地獄へ落ちる」、「悪魔に心を奪われた」、「悪霊に取りつかれた」などと批判して、追放します。

しかし、このように人間が人間の上に立ち、人間を支配するシステムは聖書の真理に全く反しており、そのようなシステムは奴隷化をもたらすだけで、決して本物の救いをもたらさず、人を解放することも、幸福にすることもありません。最も虐げられるのは、子供や、社会的弱者です。しかし、ヒエラルキーの中で上位を占める人々は優遇されている旨みのゆえに、その偽りに気づくことはないでしょう。

また、グノーシス主義には常に出来合いの宗教組織をのっとるという特徴があります。グノーシス主義そのものが「のっとり」(横領、盗み)の思想だと言って差し支えありません。グノーシス主義はもともと宗教ではなく、神話を持たない哲学的な思想体系なので、様々な既存の宗教に仮装して、宗教思想を装って組織の内側に入り込み、自分の寄生した宿主としての宗教を内側から破壊して行くことにより、転覆させる(組織ごとのっとる)働きをします。ですから、グノーシス主義はあらゆる革命思想、クーデタの思想の始まりだと言っても過言ではありません。

* * *

2016年中は、ペンテコステ運動とグノーシス主義と牧師制度の悪という問題を関連付けて論じることが多くなった。必ずしも、牧師という存在だけが、現人神となるのではない。牧師に率いられる集団ごと、そのような理念に陥ることがある。

相模原で起きた障害者の大量殺傷事件は、安倍政権の歪んだエリート主義が生んだ実である(2) 」(2016年7月29日)

KFCに関わる人々のすることは何もかもすべて、彼ら自身の見栄と自己顕示のためである。たとえKFCを陰では悪しざまに非難していたとしても、これと公に訣別宣言をしないならば、彼らの仲間同然なのである。

彼らの活動は全て、自分たちがいかに他者よりも優れており、特権を享受している幸福な人間であるかを誇示するために行われるものでしかない。すでに書いた通り、信者の結婚式さえも、その目的のために存分に利用されたのである。そして、その結果、起きたことは、とても痛ましい出来事であった。

聖書は、もし宴席に誰かを招いてもてなすならば、立派な金持ちではなく、貧しい者たちのように、返礼できない相手を招きなさいと教えている。そうすれば、主がその隠れた親切に報いて下さるというのである。本当の親切とは、見返りを求めず、隠れたところで行われるものである。だが、KFCは常に、自分たちの恵みを、自分たちの仲間内の狭い集団の中だけで誇示することで、すべての栄誉を自分たちだけで独占してしまい、他の人々に分かち与えることをしなかった。その独占を、自己の優位性とみなしたのである。

そのような彼らの態度は、常に閉ざされていて、内向きで、何もかもが、自分たちのためであり、そのような態度が、主の御前に喜ばれることは決してあり得ないと筆者は今でも確信している。彼らは地上にいる間にすべての報いと栄誉を受けてしまったのである。

Dr.LukeとKFCは、カルト被害者救済活動の指導者である村上密氏とほぼ同様に、決して自己の本当の弱さや醜さや限界と向き合わなくても済むように、自分がいつでもヒーローとなって人前に脚光を浴びていられるような、偽りの「マトリックス」の世界を作り出し、それを信仰生活とはき違え、その幻想の中で、ついに自分たちは「神である」と宣言するところまで行き着いた。

* * *

イゼベルの霊がもたらす男女の秩序転覆――男性化した女性たちと、非男性化された男性たち」(2016年11月29日)

ペンテコステ運動に関わる男性たちが、このように大胆不敵な女性たちに屈従するのは、彼らの内面が空虚で、劣等感に苛まれ、自己が傷ついているためであって、彼らには真のリーダーシップを取れるだけの自信と力がないのである。こうした男性たちには、支持者に誉めそやされ、他者を押しのけて優越感に浸る以外には、自信の源となるものがない。そして、他者から何かを盗むことだけを生き甲斐としている。

筆者は、ペンテコステ運動(だけに限らないが)の信者たちが、勝手に人のメールを転送したり、他人のブログ記事を自分が思いついたもののようにメッセージで利用したり、聖書や先人たちの著書を無断印刷して大量に配布したり、これを自分の作品のように自分のブログで著作権表示もなしに縦横無尽に引用したり、改造する場面を幾度となく見て来た。その結果、こうした剽窃は、盗みなのだという結論に筆者は至っている。

彼らは、自分に近づいて来る信者から栄光を盗むだけでなく、手柄を盗み、思想を盗み、夢を盗む。特に、人の望みを奪って、他者を失望させ、隅に追いやっておきながら、自分だけが脚光を浴びて、すべての栄光を独占することで、気に入らない他者に対する圧倒的な優位性を誇示することが、彼らの最大の生き甲斐であり、よすがである。

この人々は内心が空虚なので、人から盗む以外には、自己の自信と力の源となるものが存在しない。彼らが力強く、大胆に、目を輝かせて、立派そうな態度を取り、雄弁なメッセージを語るのは、イエスマンの支持者に囲まれて誉めそやされ、持ち上げられている時か、教師然と人を上から教えている時か、他者を批判して引きずりおろしている時か、自分よりも弱そうな誰かに支援者のように寄り添い、人の弱みを巧みに聞き出しては内心で自分の優位性を確認して満足している時か、あるいは、自分の偉大な超自然的な力を誇っているような時だけである。

彼らは、人に正体を見破られ、おべっかを受けられなくなり、捧げてもらうものもなくなり、盗むものがなくなり、自己の優越性が失われると、完全に心弱くなって力を失ってしまう。彼らは自分が栄光を受けることのできる舞台には、好んで出かけて行くが、いざ自分が不利な立場に置かれ、人に非難されたりすると、途端に臆病になり、まともな反論一つもできずに、仲間を見捨ててさっさと逃亡し、自己弁護や反論の仕事を支持者たちに任せきりにしながら、自分は影に隠れて陰湿な復讐計画にいそしむことも珍しくない。

多くの場合、ペンテコステ運動のリーダーたちは、あまりにも自尊心が傷つきやすく、臆病で、ナイーブなので、普通の人々であれば、公然と反論できるような些細な疑問や批判にさえ、まともに立ち向かう力がない。それはただ自尊心が傷つきやすすぎるためではなく、内心では、自分が詐欺師だという自覚があるので、反論できないということもあるだろう。

こんなリーダーだから、男性であっても、自分や、配下にある人間を、各種の脅威から力強く守ることもできず、仲間が傷つけられても、我が身可愛さに、自分だけ難を逃れることを最優先して逃亡することしかできない。要するに、彼らは聖書のたとえにある通り、群れを守らない雇われ羊飼いなのであり、羊を食い物にして栄光を受けることだけが目的で、敵の襲来を受ければ、真っ先に羊を見捨てて逃亡するような、勇気と潔さのかけらもない、男らしさを失った、見栄と自己保身だけが全ての、卑怯で臆病な牧者なのである。

* * *

牧師や教職者を特権階級とする制度は教会を絶対的に腐敗させる~バアルにひざをかがめない七千人の登場を待つ~」(2018年4月1日)

さらに、Mr.Sugarがその集会でメッセンジャーとなって人前で説教していることを知って、筆者は心の底から呆れた。なぜなら、Mr.Sugarこそ、筆者の前で、メッセンジャー(御言葉を取り次ぐ教師)となって、キリストになり代わって他の兄弟姉妹の心を支配し、人前に栄光を受けることの忌まわしさを、嫌というほど語った本人だったからである。

そこで、筆者はMr.Sugarに向かって、彼のしていることは自己矛盾であると述べ、Mr.Sugarがメッセージを語っている集会に行くつもりもない旨を告げた。だが、筆者はこの集会の人々がベック氏について述べたことは、本当であると考えている。そもそもベック氏について作り上げられている美談は、もはや「神話」と呼んで良い類のものであり、額面通りに信ずべき内容ではなかった。

Mr.Sugarは相変わらず、自分がこの集会に残ってメッセージを語り続ければ、人々の目を開かせることができると考え、そうすることに関心があったようだが、筆者は決して、そのようなことが人助けであるとは考えていない。

* * *

さらに最近になると、筆者ははっきりと村上密、唐沢治、杉本徳久の名を挙げながら、反カルト運動は、一見、牧師制度の暴走を許さないための歯止めとして登場して来たように見えるが、根本的には、カルトと同じかそれ以上に、牧師制度の悪を集積して生まれて来た最も危険な運動であると指摘するようになった。

村上密と「随想 吉祥寺の森から」の杉本徳久に見るグノーシス主義者の空虚な自己の本質
(2018年3月30日)

だが、そうした腐敗は、すべてもとを辿れば、グノーシス主義が生む現人神崇拝としての牧師制度へと行き着く。まずは牧師制度が、キリスト教を人間が栄光を受けるための手段に変え、被造物中心の教えに変えてしまうのである。神を信じることにより、堕落した人間に過ぎない牧師が、あたかも神の代理人のように高められ、しかも、他の信徒にまさって、「神の御言葉を取り継ぐ」資格を得たかのように振る舞い、神と人との唯一の仲保者であるキリストになり代わって信徒の心を支配し、金銭的にも肉体的にも、搾取し、自ら栄光を受けるのである。

このような牧師制度は、教会内に偽りのヒエラルキーを作り出し、教会を人間の欲望を叶える手段とし、奴隷としてしまうだけである。

<略>

主イエスは言われた、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたがたの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる。」(ルカ16:15)

なぜ人に尊ばれるものが、神に忌み嫌われるのか。それは、人が尊ぶものは、自分の欲望を都合よくかなえてくれそうなものばかりだからである。この世において、人が尊ぶものはすべて人々の欲望の化身なのであって、人はそれを尊ぶことによって、結局、自分自身の欲望を重んじているのである。

今日の教会においても、信徒らは、牧師という目に見える「象徴」の中に、自分の一切の願望を投影する。神の御心にかない、人々の救いのために自分の命を惜しまず注ぎだす、御言葉に忠実で従順かつ理想的な神の僕の姿を見ようとする。

しかし、神の御心にかなう従順で忠実な僕は、キリストお一人しかいないのであるから、目に見える人間の中に、神の忠実な僕を見たいとする信徒らの欲望は、裏切られて終わるだけである。

あれやこれやの牧師が特別な例外として誤りに陥るのではない。牧師制度そのものが、神と人との唯一の仲保者であるキリストの地位を奪い、キリストになり代わろうとするフィクションの制度であって、牧師という職は、それ自体が、人々の心の欲望から作り出された偶像、神話なのである。
 
そこで、信徒が、牧師という目に見える存在に、美化された人間の幻想を重ね合わせ、それを自らの欲望の化身として拝むことをやめなければ、信徒らがこの「フィクション」である牧師を手本に、福音を自分を飾る手段として利用して、幻想の自分を作り出しては、それに耽溺し、虚構の「聖化」や「栄化」の概念に溺れて行くことも終わらないであろう。


* * *

近年になると、筆者は、牧師制度の悪を、グノーシス主義的背景だけから論じるのではなく、信仰回復運動の観点から論じることが多くなった。すなわち、プロテスタントは、カトリックの統一的なヒエラルキーから信者を解放し、聖書を一般に解放したという点では、功績を果たしたが、牧師制度を取ったことにより、その改革が中途半端に終わり、今やプロテスタント自体が新たな信仰回復運動としての聖書の一般へのさらなる解放を妨げる障壁になっていると指摘したのである。

良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ。」(2019年3月5日)

さらに、プロテスタントには、もう一つの決定的と言える弱点があった。それは、この宗派においても、カトリックほどに厳格な聖職者階級というものはなかったにせよ、まだ、聖書は完全に一般に解放されたとは言えず、依然として、牧師だけが「御言葉を取り次ぐ者」であって、信徒は、牧師の説教を受け身に聞いて、牧師に教えを乞い、教会に献金を納め、牧師一家を支える奉仕者として、牧師よりも実質的に下の階級(被抑圧階級)に置かれ、聖書の御言葉の積極的な理解から排除されていたことである。

 プロテスタントにおける牧師階級は、前述した通り、その発生当初は、人間が自ら聖書の御言葉を解釈して、大胆に証を述べるという意味で、画期的な役割を担い、また、大衆伝道を通して御言葉を全世界に宣べ伝える点で、大きな貢献を果たしたと言えるかも知れないが、その後、福音が全世界に普及し、宣教師たちが命がけで未開・未踏の地に福音を届けるというミッションがほぼ終了して消え去った後では、ただ信徒を搾取し、信徒を聖書の理解から排除し、いつまでも信徒を霊的赤子状態にとどめるという点で、信仰の前進の著しい妨げとなったのである。

 牧師だけが聖書を知的・霊的に理解・咀嚼して、信徒に説教を語り、信徒は牧師から「霊的な乳」を飲ませてもらわなければ、信仰に生きることができない「赤子」にとどめられるというプロテスタントの礼拝スタイルは、今やそのものが、キリスト教の前進の著しい妨げとなって、排除を迫られているというのが現状である。

 いわば、プロテスタントからの新たな宗教改革が必要とされているのが、現代という時代なのである。その改革の核心として、牧師階級から聖書をさらに一般に向けて解放することが、早急な課題として求められていると言えよう。

* * *

<続く>

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(23)―判決に逆らってコメント削除を拒み、賠償金の支払いを拒み続ける卑怯な男・杉本徳久

「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。

わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」(エフェソ3:10-13)
 
掲示板も時には正しい忠告を行うことがある。自己愛しか語れない連中の虚しい議論の合間に、村上密がどのようにして唐沢治の陳述書を手に入れたのかを調べるためには、裁判所に問い合わせるのが一番だという旨の助言があった。

いみじくも、筆者は杉本への措置のために、保全係と連絡を取っていたので、久方ぶりにこの件について問い合わせた。すると、当事者には、記録を閲覧した人間を特定できる事が分かった。

つまり、閲覧記録を照会しさえすれば、村上密が、唐沢治の陳述書を裁判所経由で手に入れたのか、それとも、唐沢本人から入手したのかは、はっきりするということである。

筆者の見解としては、村上と唐沢との間にメール文通があれば、それは二審で、村上がこの陳述書の中身を本物だと信じた理由として提出されるだろうと思う。

神は不思議な方で、隠れたところで行われている事柄を、明るみに出される。ある意味、事件の解決に時間がかかるのは、そのためなのである。私たちが思っているよりも、さらに悪は深く、さらに思いもかけないほど、人間の堕落は深い。

私たちの予想を超えて、これらの牧師たちが深いレベルで霊的堕落に陥っていることを示すものとして、おそらく、二審では、これまでとは違った種類の証拠が出て来るのではないかと見られてならない。

一審では、杉本も村上もしばらくの間、「否認する」と「不知」しか書かれていない答弁書を出して、沈黙を守っていた。村上は、一審の間中、沈黙を守ったと言えよう。そして、判決が下されてから、初めて口を封じられた杉本徳久と交替するように、己が内心を吐露し、筆者に対する公然たる権利侵害の記事を書き始めたのである。

だが、二審では、杉本と村上の役割が逆転し、杉本が沈黙し、村上が発言することになる。その時、村上の内側から何が出て来るのか、筆者は非常に興味深く思っている。

ちなみに、筆者には村上のブログそのものが非常に気持ちが悪い。最近は、筆者がひとこと欄で述べたことや、「牧師が御言葉の解釈を独占したがゆえにカルト化が起きた」などとする論を、村上がまるで自説のごとく振りかざし、筆者の論を次々借用している様子が理解できる。

唐沢もそうであった。唐沢は、信徒らが執筆しているブログから勝手にテーマを盗んで行っては、メッセージで我が物のように勝手に利用することを繰り返していた。クジャクの羽をつけたカラスであって、すべてが借り物なのである。

村上密の記事「選択」にはこうある。

「裁きが、遠い外国に対してであるときは、人々は喝さいしたはずである。しかし、段々自分たちに近づいていることに気付かない。とうとうその裁きが自分たちに向けられた時、誰が喝さいをあげるだろうか。それは嘆きと悲しみの時の到来である。私は喜んで宗教問題に通り組んでいるわけではない。嘆き、悲しみ、被害者の回復のために取り組んでいる。しかし、被害者が回復していくときは喜ぶ。だから、嘆きと悲しみを共有し、やがて来る喜びも共有しようと全国を飛び回っている。」

聖書は、裁きは神の家から始まる、と言う。村上は、裁きが自分の足もとまで迫っているのに、未だそれを他人事のように書く。自分だけは裁く側であって、裁かれる側には回らないという思い上がりが透けて見える。

だが、二審では、村上自身に裁きが下されることになる。  

そして、今、裁きから逃げ回っている杉本にも、逃げられない時がすぐに来る。

二人は、裁きを受け止める勇気も覚悟もない人間である。自分たちは神のように人を裁くことができるという思い上がりに陥っているだけである。その点は唐沢も同じだ。

この三人は、自分たちはニッポンキリスト教界の監督者であって、自分には諸教会を裁く資格があるという途轍もない思い上がりに陥り、己が罪を神の御前に悔い改めるチャンスを失っている。

人生の終わりには、ゲヘナに投げ込まれて終わるだけの偽預言者である。
 
ちなみに、カルト被害者は10年以上前から、村上の薄情さ、冷淡さ、痛み苦しみへの共感のなさを訴えて来た。聖神中央の被害者は、あっという間に村上から逃げていなくなった。

村上が、以上の記事に書いているように心優しい人間であったなら、そもそも身内が自殺に至ることは絶対になかったはずである。もちろん、長年、自分の下で仕えて来た長澤牧師を、主任牧師として育ててやれないなどのことが起きるはずがない。

いつまでも自分が栄光を独占しようとするため、身内以外に誰も後継者が育っていない、これは独裁者の特徴である。
 
偽預言者には悪い実しかならない。うわべの自画自賛の言葉に騙されることなく、実態をよく見極められたい。
 
* * *

さて、杉本徳久が賠償金を払いたくない、筆者の取立は迷惑行為だ、自分は取立の「恐怖」によって体調を崩している、などとするメールを本日、送りつけて来た。

ゴールデンウイーク前から連絡しているにも関わらず、いよいよ勤務先に手が回ると分かって大慌てだ。
 
だが、筆者は、杉本がこうして支払いの時期を引き延ばしていることに、心の底から嫌悪を侮蔑を思えるが、それにも、神の計画があると見ている。なぜなら、その間に、商工会議所、同窓会(東京銀杏会)、ヤギの会などにも連絡を取ることになり、その過程で、杉本がありもしない経歴を詐称している事実が分かったからである。

もしも杉本が速やかに誠意をもって判決に応じていた場合、筆者には、彼の虚偽の深さが見えなかったであろうし、関係者に、事実が知れることもなかったであろうと思う。杉本がここまで卑劣な人間であることが、彼に近しい社会に伝わる結果にはならなかったであろう。
 
村上密についても同様なのである。もしも一審判決が下されてから、判決確定までの間、村上が沈黙を守っていたならば、筆者はおそらく、この一審判決で満足して立ち止まっていたに違いない。筆者もまた、村上に疑問を感じつつも、その内面の悪の深さを見抜けないまま、そこで争いが打ちきりになっていた可能性があるのだ。

だが、神はあえてこの事件を引き延ばされた。それはやはり、人の隠れた内面が極みまで明らかにされるためではないかと思う。
 
従って、物事がこじれているように見えるところにも、神の深い采配は働いている。そして、杉本が支払いを遅らせれば遅らせるほど、事実はより多くの人々に知れて、彼はますます窮地に陥り、社会で居場所を失って行くことになる。

また、以下にも書いたが、筆者の策はいつも一つではない。神はこの世で知恵あると己惚れている者を、高みから見て嘲られ、この世では無知と思われている者、無力と侮られている者を大胆に用いられて、御業を示される。神は教会を通じて、この世の諸々の支配と権威に、ご自分の多種多様な知恵を示されるのだ。

だから、神の教会の知恵は尽きることなく、この世のすべての人々の知恵を上回っている。私たちキリスト者は、敵の策略を足の下に踏みしだき、彼らのしかけた罠を高く飛び超えて行くだろう・・・。
 
* * *
  
さて、杉本は控訴していない。判決に不服を示していないのだ。にも関わらず、筆者の控訴を理由に、賠償金を支払わないとする彼の屁理屈には、呆れるのみである。

今回の判決には、仮執行がついている。仮執行は、賠償金の部分と、ブログ削除の部分にかかっている。

従って、杉本が未だコメントを削除していないことや、賠償金を支払わないことに対しては、筆者は強制執行、間接強制をかけて、取立を行う権利を有する。それが認められていればこそ、すでに債権差押命令が出ている。

一つの差押が空振りに終わりそうでも、取立業者に委託すれば、勤務先を調べてもらえる。その上で、勤務先に相談し、給与の差押などの措置に及ぶことは可能だ。

しかし、何よりも、こうした情報が勤務先に知れた時点で、平和裏に勤務を続けて行くことは難しくなるものと想像される。

そのことは、学術研究者から成るヤギの会の事務局員も、筆者がただ電話でこの訴訟の話を伝えただけで、決してこちらの言い分を一切疑うことなく、再三、杉本の行為を筆者に詫びていた様子からも分かる。

これが、普通の良識ある社会人のまっとうな反応なのである。それにも関わらず、杉本は、筆者がヤギの会に連絡を取った行為さえ、迷惑行為であるかのように非難している。

杉本はHCCの榊山牧師に勝訴した時、訴訟費用を早く払えと言って、HCCを非難していた。坂井能大を訴訟で破ったときには、即日で、裁判所で坂井に解決金を支払わせている。

それにも関わらず、自分だけは判決に従いたくないと駄々をこねる。どこまで我が身可愛さのゆえに、法に逆らい、世間の常識に逆らい、人に迷惑をかけ続けて、自分だけを愛し続け、わがままを通すつもりか。

杉本のキリスト教徒への非難には何の根拠もなかった。自分が裁判でキリスト教徒に打撃を与え、彼らからただ巻き上げることだけが、彼の目的だったのは明白である。本当に反吐が出るほどの嫌悪を催す、としか言いようがない。

もちろん、このような人間がキリスト教徒のはずがないし、悔い改めの余地があるとも全く思えない。このような男が、信者を名乗るだけ我々には大きな迷惑である。

筆者はメールに次のように書いた(多少文言を変えた部分がある)。
  
  

 ただちに託金にて賠償金を支払いなさい。

杉本徳久様

ゴールデンウイーク前からお支払いを要求しておりました。一体、いつお返事がいただけるのかと思っていましたが、あまりに無責任な対応を非常に残念に思っています。

さて、杉本さんが、賠償金の支払いおよびブログ削除の実行をこれ以上遅らせたいと願っておられることは、一切認められません。

一審判判決にはご存じの通り、主文の6に「この判決は、第2項及び第3項に限り、仮に執行することができる。」とございますので、控訴の有無に関わらず、私には判決の第2項、第3項をあなたに対してただちに実行に移す権利がございます。

第2項は賠償金の支払い、第3項は20本以上のブログ記事の削除を命じる判決です。仮執行の宣言がなされている以上、控訴審の判決を待たずとも、ただちに一審判決を実行可能なのです。

しかも、杉本さんは控訴なさっておられませんので、一審判決に同意という立場を公にされたことになります。ですから、今の杉本さんは、一審判決に不服も申立てていないわけですから、それにも関わらず、判決に従わない理由は、何一つございません。

しかしながら、杉本さんは賠償金の支払いは言うに及ばず、第3項さえ現時点できちんと履行なさっておられず、5月13日まで数多くの記事を削除されませんでしたし、未だにコメント番号17も内容を書き換えただけで、削除しておられません。

これは杉本さんが判決を実行しなければならない立場にあるにも関わらず、それを正当な理由なく無視し、一方的に履行を怠っていることを意味しますので、私はこれに対して、強制的に判決を実行に移すための措置を取る正当な法的権利を有しています。

実際に、私にその権利があるからこそ、立川支部が、債権差押命令をあなたに送ったのです。

しかも、私一人では限界があると判断すれば、第三者などの回収業者に委託することも可能です。

私はこれまで杉本さんが電話やメールにきちんと出られず、正当な理由なく、賠償金の支払いをいたずらに遅延させて来たため、やむなく杉本さんの知人やご家族や大学関係者や勤務先に、杉本さんが判決に従うよう、杉本さんに連絡を取ることが目的で、問い合わせを行わざるを得なくなっています。

そのために膨大な時間を費やさせられています。あなたご本人がきちんと連絡に応じないのですから、あなたの知人にそうした問い合わせを行うことには、やむを得ない正当な理由があります。

あなたは実名でブログを執筆されて来た方であり、今回、誰でも不特定多数の人々が閲覧できるインターネット上で私の名誉を公然と毀損されたわけですから、あなたに関して、一審判決の中では、何一つ秘密に当たる情報もなく、そこで、私が判決内容をあなたの知人やその他の人々に口外したところで、何ら、あなたに対する権利侵害にも、迷惑行為にも当たりません。

そのようなわけで、あなたが判決にきちんと従うまで、私が以上の措置を取ることには、「正当な理由」がございますし、続行せざるを得ませんので、ご了承下さい。

このような事情ですから、あなたには、私の法的に認められた正当な取立を「迷惑行為」などと呼ぶ権利はなく、そもそもあなたは私からの電話に、最初の1本を除き、全く出ておられませんし(その他の電話は一切通じていないので、通話記録もない)、このメール一本以外、一通のお返事もしておられませんので、それにも関わらず、迷惑行為が成立する理由もありません。

むしろ、私の名誉を毀損され、民事訴訟でも判決に従わず、迷惑行為を繰り返しておられるのは杉本さんだと思います。

さらに、あなたは私の記事や取り立てが原因で、体調不良に陥ったかのような、小学生のような文句を書き連ねていますが、あなたが運営しておられるFC弥生というサッカーチームの掲示板には、

https://fcyayoi.hatenablog.com/

2019   

   5/18   Sat 新横浜駅前 新横浜 球技場グランド 天然芝  2:00 - 4:00

     vs   浜のオヤジUnited

 杉本 水野

と記されており、休日には趣味のサッカーに興じて元気に走り回っておられるご様子ではありませんか。体調不良の影すらも見受けられない現状に驚かされます。

ヤギの会の事務局は、私の置かれている状況を理解して下さり、あなたの行為が、会の信用を損ねるものなので、あなたにしかるべき対応を求めると回答し、私にも詫びてくれました。

それにも関わらず、今回、ヤギの会からの連絡を受けたにも関わらず、あなたが今になってもまだ賠償金を支払いたくないと子供のように駄々をこね、「怖い」とか「体調不良になりそう」などと、自分が被害を受けているかのように訴えるメールを私に送って来られたことは、まさにあなたが市井の良識ある一人前の社会人として、自らが負うべき法的責任を一切、負えないわがままかつ幼稚な人間であることを示す驚くべき事実ですから、その旨も、合わせてヤギの会の事務局に、お伝えしておこうと思います。

多分、そのようなあなたの態度を見れば、これまで、あなたを信用して来た人たちも、あなたという人について考えを翻し、もはやあなたを信用し続けることはできなくなるのではないかと想像します。

特に、杉本さんはかつてHCCと裁判をし、HCCから訴訟費用を取り立てた過去がありますし、坂井能大氏をも裁判に訴え、彼に少なくない解決金を即日に裁判所で支払わせています。ご自分はこうして裁判を利用して、他の人々に、賠償金を支払わせていながら、ご自分だけ、子供じみた言い訳で、債務を逃れることができないのは当然と思います。

さらに、杉本さんは、過去10年間ほど、再三再四、私に「刑事告訴」や「裁判」を口実にして、様々な要求を行う脅しめいた内容のメールを送りつけられています。そして、私が要求に従わなければ、「実名を無断で公表する」とか「卒業した大学に問い合わせる」などとおっしゃっておられました。

それにも関わらず、私が杉本さんや関係者に対して、司法で下された判決に従い、賠償金の取立という「正当な理由」に基づいて連絡を行うことが、一切、迷惑行為に該当する理由があるはずもありません。

そこで、最後に通告します。

今、私は、株式会社メディアテラスの代表としての杉本徳久に対し、差押と取立を行っています。ですが、杉本さんがお支払いをなされませんと、今度は、杉本さんの勤務先などをお調べして、給与の差押等に及ぶこととなります。

しかし、勤務先が特定され、給与の差押等が行われますと、杉本さんの生活にも色々と直接的な影響が出て来ることでしょう。

それを望まれないのであれば、杉本さんには、今、すでに差押通知が来ている金額をただちに供託して府中支局におさめる以外に、以上の事態を防ぐ手段はありません。

私には控訴審の準備のための作業がありますから、待ちできる期間はもはやありません。

そこで、まずは、杉本さんが18日に新横浜競技場グランドに来られる際、サッカーチームの方々にこうした事情があることを伝え、理解を乞い、杉本さんとの話し合いの場をもうけていただこうと考えております。

横浜のチームも参加しているようですし、良識ある市井の方々は、ヤギの会と同じように、この問題に理解を示して下さるはずです。

また、万一、杉本さんが非常に乱暴な対応に終始されたりした場合に備えて、神奈川警察署にも、私が取立を目的に杉本さんに接触をはかる旨は、前もって伝えておきます。

それに先立ち、債務承認弁済契約書を送ります。

当日、ご署名捺印を求めます。ただし、サッカーチームの前でこうした書面の交付に及びたくないとお思いの場合には、メールで署名捺印の意思表示を前もって示して下さい。

そうでなければ、予定の時刻にグランドに参りまして、関係者一同にこうした事情があることを伝え、理解と助力を求めることとなります。その際、判決文、債権差押命令、杉本さんが書かれたブログ、また、杉本さんが書かれましたメールも持参することとなりましょう。

それでも杉本さんが、誠意ある対応をされない場合には、この先、勤務先の特定と給与の差押が不可避となりますので、ご了承下さい。

ヴィオロン

追伸

さらに、杉本さんが本日中に債務弁済契約書に署名捺印の意思表示を見せられず、このメールに何らの返答もされない場合は、杉本さんのメールの内容と、私のお送りしたこのメールも合わせて、ヤギの会にお伝えしておきます。

ヤギの会には、判決、債権差押命令、杉本さんのブログをお送りしておきますのでご了承下さい。

また、神奈川警察署には18日の件はこれから伝えますが、制止を受けた場合には、契約書の当日手交をとりやめ、メールで取り交わし、それができない場合には、やはり早急に業者委託等により、勤務先の特定と給与差押に直接的に及ぶ可能性がありますので、これはグランドでお会いすることを約束するものではありません。

また、杉本さんのご両親はクリスチャンという話でしたので、場合によっては、代理人等を通して、ご家族と接触を図り、この件をご相談させていただくことも検討しています。

このように、杉本さんが賠償金の支払いを遅らせますと、多くの方々が、杉本さんの無責任でわがままな行為に、心痛める結果となり、むろん、刑事事件の進展にも差し支える結果となり、生活にも影響が及ぶことをよくお考えになるようお勧めするのみです。

以前に伝えた通りの方法で、ただちに賠償金を支払いなさい。

ヴィオロン

 
おそらく、神奈川警察署は筆者が杉本に会うことを許可しないであろう。だから、筆者はグランドには赴かないと思うが、杉本はよくぞ自分が訴えられている最中、神奈川警察署のテリトリーに自分から入って来る気になったものだと思う。
 
さらに、このメールを送った直後、杉本はホームページを書き換え、自分は審判・用具係だと豪語している。

いずれにしても、病人には休日にグランドに赴くことさえ不可能だ。この猛暑の中、数時間、電車に揺られ、外出するだけでも、いたく体力を消耗するだろう。従って、杉本のメールは、自分にとって不都合なことは何もやりたくないという身勝手な意思表示でしかない。

だが、筆者には、いつも二重三重の方法がある。だから、表向きに実行すると言った方法以外にも、数多くの別の方法論をその陰で駆使することになろう。
 
さて、杉本の送りつけて来た駄々っ子のようなメールは、予告した通り、杉本の書いたブログ記事、判決、債権差押命令などと共に、ヤギの会に送付しておく。それ以外にも、杉本の関係者に相談する時には、杉本の幼稚なメールは、一セットとしてまとめて送付することなるだろう。

おそらく、杉本が筆者に送りつけて来たメールを送付すれば、会からの脱退は免れられなくなるものと思う。あのメールを読めば、通常の人々は、あまりの強烈な自己愛にめまいがして来て、杉本徳久という人間について、根本的に考えを改めざるを得なくなるのではないだろうか。
  
筆者は杉本のメールを読むとき、彼は本当に研究者だったことが一度でもあるのかと、非常に疑問に思わざるを得ない。

文体が、学術論文を一度でも真剣に書いたことのある人の文体ではないのだ。そもそもすべての記事やメールが、文章を愛する人の書く内容ではない。

杉本は大学院修士課程に在学していたことがあると、かつてブログに記していたが、よく考えてみると、修士論文を書き上げたとは一度も書いていなかった。従って、院を修了し、修士の学位を得たのかどうかも、当人の記述からは、はっきりしない。特に、東京大新領域に所属していたのかどうかもよく分からない。
  
とてもではないが、この男の文章では、一本の修士論文も書き上げられないだろうことを筆者は疑わない。

(以下は、杉本がかつてブログに掲載していたプロフィール「他人からの呼ばれ方」の記載。)

  


杉本の人生がどのようなものだったかは知らないが、杉本が主宰しているサッカーチームは、都立西高校のサッカーチームから派生したものだ。高校生活までは、比較的リアルな足跡が見える。ヤギの会でも世話人をつとめたり、ホームページ管理をしていたところを見ると、リーダー役をつとめて、多くの人々をまとめ、脚光を浴び、注目されるのが大好きな人間像が浮かび上がって来る。

だが、そういうことは、高校の同窓会くらいでやめておけばよかったのだ。下手に大学院に進学し、学問を志し、そこに自分には到達できない高みがあることを知って、挫折感を味わったのではないだろうか。大学院時代の記述には、ほとんど何も感慨深い事柄が記されておらず、研究テーマもよく分からず、院を修了したのかも分からないまま、サラリーマンになったと記されており、サラリーマン生活にも、味気無さ以外に見いだせるものは特になかったようである。

杉本のプロフィールから見えて来るものは、精神がずっと「大人になり切れない子供」のまま、子ども時代や、学校時代の、大勢でわいわいがややがと楽しんでいる自分を捨てられないまま、一人前の責任を負えずに、現在を迎えてしまった男だということである。彼には、自分が憧れているものと、現実に自分が努力して手にできるものとの巨大な落差が認識できなかったのであろう。

企業経営者になってからも、多方面に手を出し、音楽スタジオを創設したり、教会音楽に取り組んだりもしていた。だが、音楽に関しては、基礎的素養がなければ、ビジネスとしての成功も難しいだろう。そんな風に、憧れだけで、様々な事柄を手掛けるのだが、基礎というものがきちんとできていないため、すべてが中途半端なまま瓦解して行ってしまう。

その最たるものが、信仰生活である。

* * *

信仰生活とは、神の高みに至り着くことを目指す人生だと言えるので、ある意味では、この世のどんな人たちの人生に比べても、最も不遜な試みだと言えなくもない。

だが、学問においても、高みに至り着くためには、己をむなしくして努力することが必要であるように、神を知るためにも、人はへりくだって自分を捨てねばならない。それができないまま、美しい飾りを身にまとうように、憧れの対象をいくら身の回りにかき集めても、人はクジャクの羽をつけたカラスにしかなれない。
 
しかも、「神」を自分のアクセサリーとして身に着けようとする以上の高慢は、人には見られないものである。ちょうど掲示板でも、ギリシア語やヘブライ語の知識を誇示し、自分は聖書を誰よりも原語で読んでいるなどと豪語しながら、マリアの処女懐胎を否定している投稿者がいるが、呆れることである。

知識は人を高ぶらせる。だが、信仰は、人をへりくだりに導く。

キリスト教の信仰は、自画自賛、自己顕示、自己愛のために持つものではない。
 
杉本の人生からは、この点をはきちがえた男の悲哀が伝わって来る。つまり、最も高みを目指しながら、結局、何者にもなれなかった男の悲哀である。だが、何者にもなれなくとも良いから、せめて判決には従うごくごく普通のまっとうな社会人として生きていれば、それで良かったのではないのかと筆者は思う。

そうしてさえいれば、まさかここまで人生を失うことはなかったはずである。

なぜキリスト教会に敵対し、なぜ自分が他の教会や信者よりもさらに優れた信仰を持っているかのように豪語し、罪もない大勢のクリスチャンを中傷し、裁判に引きずり出し、打撃を与える必要があったのか。

何よりも、杉本が、聖書の神よりも自分自身を高く掲げたことが、破滅の始まりなのである。杉本が否定したいのは、次のことだ。

生まれながらの人間には、聖なる要素は何一つなく、人はみな生まれながらにして、神の御怒りの子であって、己が罪を悔い改めて十字架の贖いによって救われる以外に道はないこと。

イエス・キリストの十字架の贖いを受けなければ、誰一人、神に受け入れられることはないこと。生まれながらの人間には、どんな努力によって、自分を変えることはできず、人間の一切の自己救済はむなしく、人間の生まれながらの自己を改良する方法では、人は何者にもなれないどころか、ゲヘナの子になって終わるだけであること。

信仰生活の基礎は、キリストご自身であって、人の生まれながらの自己ではない。

しかし、杉本は自分を愛し、自分を手放すことを惜しみ、自分の美が失われることを拒んだ。彼は十字架の贖いを拒んだ。そして、神以上に己を義として、諸教会に戦いを挑んだ。そうであるがゆえに、彼は自分の罪が全く見えなくなって、これを悔い改めることも、反省することもできなくなり、神の救いから、自分を除外し、滅びの道をひた走っているのである。

正直に言えば、現在の杉本には、杉本がかつて筆者に向かって発した呪いの言葉が、そのまま跳ね返っているだけのことである。杉本が他者を精神的に追い詰め、他者が心を病んで立ち直れなくなることを積極的に願いつつ、容赦のない呪いの言葉を浴びせて、他者を中傷し、他者の社会生活が不可能になることを積極的に願う言葉を、おびただしい回数、公の場所に書き記し、また、そのように自分が嘲り、罵った人間の苦しみを、高みから見下ろして、これを踏みにじって嘲笑するようなことがなければ、今、彼がこのような立場に置かれることはなかったであろう。

筆者は、杉本がまだ多分に嘘をついていることを知っている。彼はサッカーの審判が出来るくらいに元気だ。だが、たとえ仮病であったとしても、自らの債務を逃れるために、杉本が自分を「病気」だと宣言したことは、神と人との前にきっと覚えられるだろう。人は自分で口から発した言葉に、自分でとらわれ、自分で恐れた事柄が、実現して行くからである。

不思議なことである。杉本は、警察の取り調べが「怖い」と言うのではなく、筆者の取立や、ブログ記事が「怖い」と言うのである。そういう感覚がまだ残っているならば、2010年頃から、杉本が再三に渡り、筆者に送りつけて来たメールが、筆者にどれほど大きな不快感、精神的苦痛をもたらしたか、彼には分かるはずだ。

ところが、当時、杉本が「訴訟」や「刑事告訴」という文言をやたら振り回していたので、それらのメールは、たとえ名目だけであっても、「正当な理由」があれば、迷惑行為に該当しないとされた。ならば、筆者はその理屈を裏返しにして、現在の杉本にそっくりそのまま当てはめるのみだ。まさか筆者が判決に従うよう杉本に求める行為が、迷惑行為に当たるはずもない。
 
このように、人には他者に対して行った行為が、いつか自分に跳ね返ることになる。憐れみのない者には、憐れみのない仕打ちが跳ね返り、残忍な者には、残忍な仕打ちが跳ね返る。その逆に、憐れみ深い人間には、憐れみが返され、施す者には施しが、人を赦す者には、赦しが返って来る。

筆者はこれまで幾度も杉本に悔い改めるよう警告して来たので、十分にその時期は過ぎたものと思う。

このように、神は人の心を極みまで探り究められ、おのおのの行いに応じて報いられる方である。事態が紛糾しているように見えるのは、杉本には、まだまだこれからその身に降りかからねばならない出来事が多数、残されているためである。

筆者は贖いの絶大な効力を知っているので、これまで杉本にどんな言葉によって呪われても、それに打ち負かされることはなかった。だが、信仰の盾のない杉本には、自分が他人に向かって吐いた言葉が、自分自身に跳ね返って来る時、防御の方法はないであろう。

杉本が発して来た残酷で容赦のないクリスチャンへの呪詛の言葉は、これから信者たちを離れ、彼自身の生涯に付きまとうことになる。杉本が恐れているのは、筆者ではなく、彼の行った数々の残酷な行為を覚えておられる神ご自身の報復と、聖徒らからの徹底した侮蔑と嘲りである。
 
   <続く>
 

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(22)―わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。

悔い改めを拒否し、教会を分裂に導き、神の教会を冒涜して、滅びへ向かう唐沢治と村上密と杉本徳久
 
さて、一つ前の記事で、筆者は最後の機会として、村上密に向かって唐沢治と手を切り、悔い改めるよう呼びかけた。そして、杉本徳久の賠償金の支払いのために、手を貸してやるよう勧めた。

だが、こうした一切の働きかけは無駄のようである。むろん、最初から彼らが忠告に従わないことを、予想しつつ、あえて筆者は最後の呼びかけを行ったのである。筆者は彼らの善意に期待することは全く考えていない。

ちょうど民事訴訟を刑事告訴と並行して進めたように、今、筆者は同時に三つの策を用意しているところだ。一つ目は、任意の悔い改めの呼びかけ。二つ目は強制力を伴う実力行使。これは判決言い渡しや、警察を通じた取り調べや、処罰を求める手続きである。

そして、三つ目は、極めて重要な新しいステップである。

杉本は昨日に至るまで、判決で命じられた記事を3つも削除していないことが発覚した。当ブログのひとこと欄で、そのことを指摘してから、慌てて削除したようだ。

未練がましさの感じられる態度である。杉本が残していたのは、一つは筆者の著作者人格権を侵害した記事、もう一つは、2009年に筆者が削除を依頼したコメント、さらに、筆者の著作者人格権を侵害しつつ、鳴尾教会の女性牧師と筆者を並べて断罪した記事である。

こうした記事の残し方に、村上密からの深い影響を感じざるを得ない。まず彼らの強い学歴コンプレックスが感じられる。それから、男尊女卑、そして、自画自賛を手放せない思いである。

それらの記事はそそくさと消したようだが、杉本は判決で削除が命じられた「トランスフォーメーション・グロース」のコメントNo.17を未だに削除していない。しかも、コメントから名前を消し、投稿内容を消してでもいいから、☆5つの評価にすがり続ける男のみっともなさ、未練がましさである。



だが、こうして、杉本が判決に逆らっていることは、筆者には有利にしか働かない。なぜなら、こうしたことも、費用の回収に役立つからだ。

さらに、杉本が世話人として所属していた全国ヤギネットワークにも、杉本のことについて問い合わせた。杉本が執筆して来たキリスト教界をバッシングするブログの趣旨を伝え、そこで面識もないのに、当方がプライバシー権を侵害されて、名誉毀損され、さらに判決言い渡し後にも、2ヶ月が経とうとしているのに、賠償金の支払いもなく、本人は電話に出ず、メールに返信せず、連絡がつかない状態にあるため、困っていることを伝えた。

さらに、杉本が商工会議所の会員でないのに、会員資格を詐称したり、東京銀杏会の正会員などを詐称している事実も伝え、筆者は提供している情報がデマではないことを示すため、事件番号も伝えた上で、事実確認を依頼した。

すると、研究者兼事務局の代表者は、杉本は世話人としてここ2年ほどは会合に姿を現していないので、活動の実態も不明で、どんな人物かは知らないが、会の信用もあるため、そのように社会的・法的責任をきちんと負えない人をこのまま世話人にしておくのははばかられるため、事実確認の上、今後の対応を事務局内部でも検討するとの返答であった。

不愉快な問答は何一つなく、直接的な関係は何もないのに、うちの会員が迷惑をかけてすみませんでしたと、丁寧にお詫びをされていた。追って判決等の資料をスキャンして送付しておこうと思う。
 
このように、筆者はまさか彼らの善意のみに期待して解決を委ねる気は決してない。むしろ、任意では、これが最後の呼びかけであると、筆者は書いた。そして、彼らがその機会を無視したことの報いも、大きいだろうと考えている。

第三の策は、種明かしをすれば、包囲網である。キリスト教界からの包囲網、そして、世間からの包囲網によって、彼らを囲い込んで行き、活動できない状態を作り上げることである。杉本は、筆者が杉本に対して訴えを起こしたことをさんざん嘲笑し、司法や警察が筆者の味方になるはずがないとうそぶいていたが、実際には、司法も警察も生きており、筆者を根拠もなく精神異常者呼ばわりした杉本のデマなど信じこむことはなかった。

こうして、司法と警察を取り戻しただけには終わらない。この世全体を取り戻し、それによって、こうした中傷者を囲い込んで行くのである。私たちは、信仰によって、この世から召し出された民であり、キリストの御名によって、この世を統べ治める権限が与えられている。

だから、教会全体がこの世を足の下に置いて活動することが可能なのである。その霊的優位性、そして体としての一体性を取り戻すことが今、必要とされている。

* * *

筆者はこの戦いを中途で終えるつもりは全くない。神は教会を通じて、ご自分の多種多様な知恵を世のもろもろの支配と権威に示される。神はこの世の知者だと己惚れている人々を辱め、取るに足りない知恵なき者を用いて、ご自分の豊かな知恵を示される。

だから、教会の知恵を侮る者は、したたかに恥を受けるであろう。

杉本が判決に従わず、賠償金の支払いを遅らせれば遅らせるほど、利子がつき、債務は膨らんで行くだけのことである。筆者の提案を侮れば侮るほど、そして、法的責任を回避しようとすればするほど、杉本自身が失うものが増えるだけだ。

掲示板もしかりで、投稿者を2、3人でも特定できれば、十分に費用の回収はできる。海外にある掲示板の運営会社の法外に高い資格証明書取得料(5万円相当)も、慰謝料(5~10万円)と合わせて請求することになろう。その上に、訴訟費用(数万円)が上乗せされる。何しろ、ここ数ヶ月間、毎日のように権利侵害のコメントがなされて来たので、連続して多数のコメントを投稿している場合、杉本に下された賠償を超える判決が下される可能性も否定できない。

特に、こうして筆者に執拗につきまとって来ては、杉本や村上を擁護し、賠償金を踏み倒すことを勧め、筆者をストーカー呼ばわりするこの女投稿者を特定することが先決である。



この女は誰よりもおびただしい数の中傷のコメントを投稿して来た人間である。人物が特定されれば、氏名住所電話番号等を公開の上、刑事告訴することとなり、村上密や唐沢治や杉本徳久とのつながりや、投稿者同士の横のつながりについても、取調室でゆっくりしゃべってもらうことになるだろう。
 
その日は、ある日、突然、予告なく来るかもしれない。筆者から見れば、たった3行程度のコメントを日々書き連ねたために、そのように人生を棒に振るなど愚かさの極みだが、どうしても破滅に落ち込みたいという人間を止めるつもりはない。

人は他人に対して行ったことが、いつか自分に跳ね返って来る。これから先、杉本が筆者に対して行った仕打ちは、ほぼすべて掲示板の愚かな投稿者らに報いとして降りかかることとなろう。筆者は信仰にあって、どのような迫害を受けても、立ちおおせたが、信仰のない彼らには、破滅以外に待っているものはない。

この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。

わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。」(2ペテロ2:17-21)
  
* * *
 
村上密率いるカルト被害者救済活動は、唐沢治がニッポンキリスト教界を日々、罵り、非難して続けているのと、全く同じ精神に導かれる運動である。キリスト教会をブログで次々バッシングして来た杉本徳久も同じであって、これらの人々の行っている活動は、もとから本質的に同根だったのであり、彼らの行っていることは、教会に対する迫害であり、聖書の神への敵対行為であり、聖徒らに対する冒瀆である。

それだからこそ、この度、村上密が唐沢治を擁護するために、唐沢の陳述書をブログで公開したのであり、この二人が提携したのは、まさに必然の結果だったと言える。
 
さらに、驚くべきことに、唐沢が口汚く罵っていた「ニッポンキリスト教界」は、ついに筆者を指す用語なった模様だ。村上も、唐沢も、これまで諸教会を非難・断罪して来た以上に、筆者を仮想敵としている。そして、それがおそらく最初から彼らの活動の真の狙いであったことを筆者は疑わない。

要するに、「教会のカルト化を防ぐ」などというのは、ほんの見せかけだけのきれいごとであって、この人々の活動の真の目的は、キリスト教徒の迫害にこそあり、信者同士を敵対させて、教会を分裂させて、教会を弱体化させることにある。
 
京都教会の信者は、長澤牧師を失った痛手に加え、村上が唐沢と手を結んだことが分かれば、この教会から大慌てで逃げ出すに違いない。筆者はこれまで、村上が集めて来たカルト被害者らが、どんなに唐沢治を嫌っていたかを知っている。なぜなら、唐沢は被害者を名乗る人々に格別に厳しい残酷で容赦のない批判の言葉を並べ、心打ちひしがれた人々に一切の同情を払わなかったからである。

貧しい人々、心ひしがれた人々、不遇の環境にある信者たちに対する唐沢の容赦のない侮蔑と嘲笑の言葉は、カルト被害者にとっては、とりわけ耳を塞ぎたいような恐ろしいメッセージと聞こえていただろう。筆者はカルト被害者の中で、一人たりとも唐沢を擁護した人間を見たことがない。次の記事でも述べる通り、学歴をひけらかし、自分たちだけが真理に立っているかのように吹聴し、キリスト教界の牧師たちの貧しさや、苦労を嘲る唐沢のメッセージは、牧師たちの心にも、居ても立ってもいられないほどの憤りを呼び起こして来た。
 
従って、そのような状況で、村上が唐沢の陳述書の公開に及び、唐沢を擁護したことは、明らかに、京都教会にとってはかりしれない打撃となり、信徒数の減少、教会の終焉を招く行動となろう。長澤牧師が今この時期に京都教会を離れたのも、まさにバビロン倒壊から助け出されたに近いものがあると筆者は考えている。

* * *

さて、村上は、自分が吐いた言葉が、いずれ自分に跳ね返って来ることを、考えたことがあるのだろうか。彼は5月10日付で「著作権侵害」という記事を投稿している。

この記事の中で、村上は教会と教会を対立させて、兄弟同士を争わせたくてたまらないという様子で、自分が当事者でもないのに、ある教会で、著作権侵害の書物が配布されている事実を発見したと得意げに記し、「被害」を受けた教会は、これを訴えるべきだと呼びかける。

「ここでは教会名と出版社名を伏せることにした。双方の話し合いで解決するか。民事・刑事訴訟で取り組むか、それは教会の対応次第である。双方で解決するにしても、償い金は必要である。それは損害を与えているからである。それでは主導したと思われる牧師に対する罰はあるか。償いをすればそれで済むわけではない。牧師としての職務を辞すことで責任を取る必要があると私は考える。かつて、ソフトの違法コピーをした牧師に対して、コピーの破棄とソフトの購入で解決したことがある。今回の著作権侵害は、教会が組織をあげて、検証をし、責任を果たさなければならない。」

しかしながら、筆者は、紛争の火種を見つけてきては、教会の恥になる記事を発表し、諸教会を互いに争わせては分裂に導きたくてたまらない村上の呼びかけには、次の通り応答するのみだ。

本日に至るまで、掲示板では、毎日のように、村上密の支持者たちが、当ブログの文章を盗んでは、著作権侵害の投稿を続けて来た。全体としてものすごい文章に達している。こうした投稿者らが、村上の支持者から成り、村上のブログをキリスト教界(およびカルト問題の第一人者)としてスターの地位に押し上げ、村上を批判する当ブログの更新を阻止・妨害するために、こうした行為に及んでいる事実は、ずっと前から明らかだ。

そこで、もしもこの先、投稿者らの実名が特定されて、村上がこうした権利侵害のコメントの投稿を主導した事実が発覚した場合には、村上は以上の言葉の責任を取って、投稿者に償い金を払うよう言い聞かせた上、牧師としての責任を取って、辞職せねばならない。
  
だから、読者は、村上の発言をしっかり覚えておかれたい。以上の通りの事実が発覚した後に、村上が地位に恋々としがみついたりすることがないように。筆者は掲示板の投稿者の特定に動いているからだ。

さて、「双方で解決するにしても、償い金は必要である。それは損害を与えているからである。」と言うならば、村上は、なぜ杉本徳久に対して、賠償金を支払うよう説得しないのだろうか。

それどころか、村上は、筆者の提起した訴訟の一審で、杉本の投稿が、筆者に対する名誉毀損に当たる事実も認めず、杉本をかばうために、二人、一緒になって、賠償なしでの和解を唱え、それに筆者が応じないならば、反訴するとまで予告し、脅しのような圧迫を加えた。
 
一審判決で賠償命令が出た後も、杉本は賠償金を踏み倒すつもりで逃げ回っており、本日に至るまで、判決で命じられた記事をすべて削除したわけでもなかった。未だに、削除を命じられたコメントも内容を勝手に書き換えたまま、残している。

村上はこうした杉本の卑劣な行為をなぜ一言たりとも非難しないのか。損害を与えたのに、なぜ償い金を支払うよう言い聞かせないのか。従って、村上の論はダブルスタンダードであることは明らかだ。

もちろん、筆者はこのような行為を見逃すつもりはなく、杉本が支払いを遅らせれば、遅らせるほど、彼の負債は雪だるま式に拡大して行くだけのことである。
 
杉本は、村上が尊大に構えているので、その威を借りてさえいれば、賠償金など踏み倒せると考えているらしいが、そのようなことが社会的に通じるはずもない。これはもはやキリスト教界内の問題ではなくなっている。世間を敵に回し、社会を侮れば、その分のツケは、残る人生全体に落ちかかって来ることになる。
 
* * *
 
さて、村上と杉本はこれまで、教会に対する裁判を唱え、自分たちが教会に損失を与える時だけ、意気揚々と賠償請求に及んで来た。

村上が、元鳴尾教会の信徒を焚き付けて、鳴尾教会の教団離脱に反対するために、鳴尾教会に対する裁判に及ばせた時、村上の支援する信徒たちは敗訴したが、それでも、鳴尾教会は訴訟の対応のために、大きな経済的打撃を受けた。

杉本がかつて筆者に「相談している弁護士名を明かせ」とか、「あなたから私を訴えなさい」などという脅しのメールを送りつけて来た時も、同じように、杉本は、筆者に弁護士を雇わせることで、経済的損失を与えようとしていたのである。

彼らは、諸教会や信徒を混乱に陥れ、教会や信者たちに濡れ衣を着せて、彼らが弁護士を雇わなければ、対応できないようなトラブルを発生させて、大きな経済的負担を背負わせ、教会や信者たちの名誉を傷つけ、信徒数を現象させて、キリスト教の評判を貶めることを目的に、活動して来たのである。
 
唐沢治もこれと同一線上に立って、「ニッポンキリスト教界」を非難し続け、嘲笑することで、諸教会にダメージを与えている。その目的は、キリスト教そのものの評判を貶め、聖書の御言葉の真実性を人々に疑わせ、教会と信者と、引いては神御自身に損失を与えることにある。

要するに、彼らの活動は、諸教会に打撃を与え、信者たちに心理的・経済的損失をもたらし、聖書の神の栄光を傷つけるためにこそ行われているのである。「カルトを防止する」などという美名は、ほんの表向きの看板でしかない。

そこで、いざ、彼ら自身が、訴訟に引きずり出され、社会人として、市民として、一人前の法的責任を負わなければならない段階になると、彼らは今まであれほど教会をこっぴどく罵り、非難し、償いを要求して来たことなど、すっかり忘れたかのように、詭弁を弄して、自らの責任から逃げようとするのだ。

これらの人々は大嘘つきであり、本質的に、教会の敵、クリスチャンの敵、聖書の福音の敵、反キリストの精神に導かれる者たちである。だからこそ、彼らは信者を訴えては、公開裁判に引きずり出し、中世の魔女狩りの再現を願い続けているのである。

村上がいかに唐沢治の陳述書を公開した記事の内容を、都合よく書き換えて来たかについては、5月13日の筆者および村上密のブログおよび杉本徳久および工作員読者らの動きにもまとめておいたが、このPDFファイルとは別に、以下にも、記事本文にざっくり記しておきたい。

村上密の卑劣な記事の書き換えは、これまで再三、再四、行われて来た。村上は、まず判決言い渡し後、4月に筆者の著作者人格権を侵害する記事を投稿した上、筆者からの批判を受けると、権利侵害がなかったかのように、記事内容を書き換え、さらに、その次には、筆者を刑事告訴したなどという記事を投稿した上、筆者から虚偽告訴罪に該当するとの抗議を受けると、すぐにその記事を削除し、さらに、「唐沢治氏の陳述書 3 」と題する記事を投稿した後、筆者がこの記事の内容が名誉毀損に該当する恐れがあると反論すると、またもや、こそこそと記事を書き換えた。

今回の村上による卑劣な書き換えの内容は次の通りである。
  
➀投稿当初の村上密の記事



②書き換え後の村上密の記事



お分かりだろうか、何の断り書きもなく、記事からは、こっそり次の2文が削除されている。

「もし土下座が強要であればこれは強要罪(刑法223条)となる。」
「もし、土下座が強要されたものであれば、ヴィオロンを追放する法的根拠にはなる。」

だが、無駄なことである。この記事は、投稿された文面のまま、控訴審で不法行為の証拠として用いられる。

こうして、杉本徳久と同じように、村上密が、次から次へとトラブルを引き起こしながら、絶え間なく信者に損害を与える行動を取り、批判を受けると、うわべだけこそこそ修正し、何事もなかったかのように見せかけながら、自らの責任を全くかえりみることなく、後始末を人に押しつけて、自己憐憫と自画自賛に明け暮れて来た様子が分かるだろう。

人騒がせにもほどがある。村上が、子供のように自らの行為に責任を取れない幼稚な人間であることがよく分かる事実だ。

* * *

そして、村上が以上のような記事を投稿すると、掲示板では早速、これに触発されて、以下のように、筆者を滅茶苦茶な理屈により断罪するコメントが投稿されるのが常であった。



何と恐るべき倒錯だろうかと呆れるのみである。筆者が、裁判所を経由して強制執行に及び、差押命令が出て、正式に取立が許可され、さらに杉本が筆者のメールに返信せず、電話にも出ず、賠償金を踏み倒して逃げ回っているがゆえに、筆者がやむなく商工会議所、東京銀杏会、杉本の関係者に問い合わせを行うと予告したことを、「恐喝罪」だなどと非難するコメントが投稿されたのである。

さて、それでは恐喝罪の定義を見てみよう。

「他人を脅して財物を交付させたり、財産上不法の利益を得、または他人にこれを得させる罪(刑法249条)。恐喝とは、相手に恐怖心を抱かせ、その瑕疵(かし)ある意思(詐欺、強迫によって強いられた意思)により財産的処分行為をさせることである。」日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

まず、恐喝罪では、脅しによって得ようとしている利益が 、不法の利益であることが必要なので、判決に基づき、強制執行して債務を取り立てることが、不法の利益を得ることに当てはまらないのは明白だ。
 
さらに、 Wikipediaでは「脅して」という部分の意味は、次の通り解説されている。

「恐喝罪とは、暴力や相手の公表できない弱みを握るなどして脅迫すること等で相手を畏怖させ、金銭その他の財物を脅し取ることを内容とする犯罪。刑法249条に規定されている。 」
 
筆者が電話とメールで取立を行うことでは何の権利侵害も発生しない。 何よりも、杉本自身が最初の1本を除き、電話に全く出ておらず、メールの返信も一通たりとも寄越していない以上、こうした本人への取り立てが、迷惑電話や営業妨害等が成立する余地は全くない。

また、債務者が応答しないので、知人らに接触して問い尋ねたとしても、押しかけて住居侵入罪を犯すわけでもなければ、日に無言電話を100本かけるなどして、営業妨害に及んでいるわけでもないので、いかなる罪にも当たらない。
 
もちろん、杉本は実名を公表してブログを執筆して来たため、杉本の記事が名誉毀損に問われ、判決で賠償命令が下された事実を、筆者が第三者に告げたところで、それも「公表できない弱み」を握って脅したことに当たらない。

このように、何から何まで正当な筆者の取立の権利をすべて否定してまでも、筆者が杉本に対して賠償金の取立を行うことを「恐喝未遂罪」などと非難したい匿名のコメント者がいるのである。

しかし、こうしたコメントの方が、まさに筆者に対する恐るべき権利侵害だと言える。
 
このようなことをしてまで、この人々が杉本に賠償金を支払わないよう勧めるのは、なぜなのか? 

それはやはり、彼らが初めから教会を罪に定め、信者を罪に定め、教会に打撃を与え、聖書の神を否定する目的で活動しているからである。

彼らが信者に賠償金を払うことは、教会を富ませる結果になるから、やりたくないのである。

しかし、法的拘束力を持った判決にさえ公然と逆らうことを正当化する彼らの理屈は、まさにすべてが「さかさま」であることがよく分かる。

そこでは、正しい人が罪に定められ、罪人が聖人とされる。

根本的に狂ったこのさかさまの世界観は、彼らが聖書の神を否定していることから生まれる。神を否定した唯物論だからこそ、すべてがこのように白黒反転して見えているのであり、その世界観に基づき、彼らはすべてを裏返しに見て、ありもしないことを主張し、その結果として、厳しく責任を問われて人生を失って行くのである。

彼らのこうした異常なものの見方が、反聖書的世界観が土台となって生まれていることは、村上の記事を一つ一つ丹念に追っていくとよく分かる。

* * *

村上密はほぼすべてのブログ記事において、自分は常に他者よりも上に立って、上から人にものを教えてやれる立場にあるかのように吹聴している。自分を誰よりも賢く、誰よりも事実がよく見えていると考えており、他者から学ぶ姿勢がない。

そのことは、村上の最新記事「故郷の春」を読んでも分かる。

一見、ほのぼのとした記事のように見えるが、結局、言いたいことは自慢話なのだと分かる。

「アカハラは2006年には環境省レッドリストに準絶滅危惧種(NT)として掲載されている。数年前沖縄ではシリケンイモリ(準絶滅危惧種NT)を見つけた。どちらの場所も人に教えるつもりはないが、生物学者で、研究している人には話の内容次第で教えるかもしれない。

村上は科学者ではない。それなのに、自分こそが動物の生態について、学者も知らない物事を知っているかのようにうそぶき、生物学者や、研究者にも、ものを教えてやれる立場にあるかのように表明している。

こうした記述を読んで、「へええ、村上先生ってすごいんですね」などと思う人は、本当に物事をきちんと自分の頭で考察できない愚かな人たちである。学者が動物の生態を観察するためにどれほどの時間を費やすか、それに比べて、全国を飛び回っている忙しい牧師である村上に、彼ら以上の情報を握ることが、どれほど困難であるか、そんなことは考えずとも分かることである。

さらに、その一つ前の記事「幻覚」を読んでみよう。

何とこの記事の中で、村上は、20年前、30年前に「幻覚」が見えていると相談しに来た信者らを引き合いに出しながら、心理学者でもなければ、脳科学者でもないのに、彼らの状態は「シャルル・ボネ症候群」に該当するのではないかなどと、根拠もない病名診断に及び、さらに次のような結論に至り着くのである。

「読み進めて行くうちに、幻覚が深く宗教と関係していることも知った。カルト問題で宗教が避けられ、茂木健一郎氏がマスコミに盛んに登場するようになって、脳科学に人々の興味が移って行った。宗教人口は今でも減少し続けている。「日本は世界で4番目の無宗教国家だ」(1)発表が出ている。」

まず最初に、自分に批判を向けて来た信者や相談者に、次々と精神異常のレッテルを貼り、信者への「病名診断」に及ぶことは、唐沢治の専売特許であったことを思い出す必要があろう。未だに「脳内空転」などというありもしない造語を使って、唐沢は自分に刃向った信者らを精神異常と決めつけて嘲笑している。

次に、唐沢の問題をさて措いても、村上の「シャルル・ボネ症候群」の理解自体がおかしい、ということが分かる。この症状については、次の記事にも説明されている通りである。

真に迫る幻視、シャルル・ボネ症候群 視覚障害のある高齢者に多い 」(時事メディカル 2018年9月4日)
真に迫る幻視、シャルル・ボネ症候群」(医療法人 裕心会 いわい中央クリニック 2018年9月10日)

まず、どちらの記事でも、村上の相談者とは異なり、シャルル・ボネ症候群に陥り、幻覚を見ている人は「本人は,自分が幻を見ていると認識しています。」、「本人は戸惑い「自分はおかしくなったのか?」と一人悩むケースも少なくない。」と記されているように、はっきりと、自分は幻覚を見ているのであって、見ているものが現実ではないことを認識している。

だから、村上が記事で挙げているケース「「度々、夜になると部屋の中で若い男性たちがが来て、座り込むの困る。」(20年前の相談者A)「度々、引き出しの中から知らない動物が飛び出て、部屋の中を走り回るので困る。」(30年前の相談者B)ふたりとも見たように話されるが見ているものは存在しない。と、シャルル・ボネ症候群は、全く異なる症状であることがすぐに分かる。
  
つまり、村上は「オリヴァー・サックスの『幻覚の脳科学 見てしまう人々』(大田直子訳 早川書房)を読んで、それは「シャルル・ボネ症候群」ではないかと思った。この本は2018年に発行された。20年、30年前では、この名称はまだ一般的ではなかった。」などと書くが、村上が引き合いに出している例は、シャルル・ボネ症候群ではあり得ない、ということが分かるだけである。

こうして、村上は手前勝手な理屈を駆使して、研究者でも科学者でもないのに、自分の相談者たちに偽りの「病名診断」に及んだ挙句、さらに「読み進めて行くうちに、幻覚が深く宗教と関係していることも知った。」などと、驚愕の結論に至り着く。何と、宗教が幻覚の原因であるかのように、唐突に話が結びつけられるのである。

果たして、村上が引用しているオリヴァー・サックスの著書が、そんな結論に本当に読者を導いているのかを実際に確かめるために、 本の要約サイトを覗いてみた。すると、脳神経科医である著者は、村上の提示した結論とは、真逆の結論を述べていたことが発覚した。

「つまり幻覚とは、心の病やスピリチュアルな存在からのお告げなどではない。脳がなんらかのきっかけで、いつもと異なるはたらきをした結果というのが、著者オリヴァー・サックスの一貫した見解なのである。

映画にもなった『レナードの朝』をはじめ、脳神経科医らしい鋭い観察眼とヒューマニズムあふれる筆致で多くのベストセラーを著し、2015年に没したサックス氏。同氏の生前最後の著作が本書だ。医師として、また作家として「人間のありようの根幹」を追い求めた同氏の集大成といえるのではないだろうか。」幻覚の脳科学 見てしまう人びと

つまり、オリヴァー・サックスは、幻覚は、断じて精神病や宗教のお告げなどではなく、脳の異常に由来すると指摘しているのである。それなのに、村上はこの著書の結論を勝手に真逆に読み換えて、「読み進めて行くうちに、幻覚が深く宗教と関係していることも知った。」などというトンデモない結論を提示する。

こうして、村上は、巧みに宗教全般を「人間を狂わせるもの」と思わせる方向へ話を誘導し、自分自身がキリスト教の牧師を名乗っているにも関わらず、日本は世界で4番目の無宗教国だなどという統計を提示、まるで「ああ、だから、宗教なんて信じる方が馬鹿なんだ」と言いたげな結論で記事を終えている。

これはどういうことなのだろうか。なぜキリスト教の牧師を名乗る人間が、こんな記事を書くのか。

筆者はこの記事を読んで、かつてカルト被害者の一人が、話してくれたことを思い出した。村上の娘は、かねてより父親の牧会する京都教会を毛嫌いし、村上のもとに相談に訪れる信者たちを「理由(わけ)ありの人」と呼んで軽蔑していたというのである。「牧師の娘にも関わらず、信者を侮蔑するなんて、家庭でどういう教育を施したら、ああいう風になるのか」と、被害者は憤っていた。

そして、村上の娘婿は、前にも述べた通り、教会からリフォームの仕事を回してもらったにも関わらず、事業がうまくいかなかったのか、不明な理由で自殺を遂げている。

村上の発言から見えて来るのは、カルト被害者の指摘の通り、村上が、自分は牧師であるにも関わらず、「宗教なんか信じるから、幻覚が見えるようになったりして、精神を病んで行くのだ」などと、幻覚を見たという相談者の例を無限大にまで拡大しながら、宗教そのものを蔑視し、あるいは断罪し、信者たちを蔑視し、異常者扱いするような結論を記事で示唆していることである。

だが、実際には、何十年も前に見聞きした、シャルル・ボネ症候群に相当しない相談者を、あたかもこの病名に当てはまる患者であるがごとく、根拠もなく断定したり、オリヴァー・サックスの著書が全く述べてもいない結論を、まことしやかに著書の結論であるかのように提示したり、無いものをあるように「見てしまっている」のは、村上自身ではないのか?

ここに筆者は、キリスト教を敵に回すことの恐ろしさがある、と思う。前々からずっと述べている通り、 主を畏れることは知恵の始め。」(箴言1:7)であり、「無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」のであって、宗教が精神的な病の根源なのではなく、むしろ、逆に、神を畏れないことこそ、精神崩壊の始まりなのである。

それなのに、村上は聖書とは真逆の結論を述べて、神など信じるから、人は精神異常に陥るのだと言いたげな結論へ読者をいざなう。

だが、聖書の御言葉を知ってさえいれば、村上がこの記事で最も述べたい結論は、要するに、聖書とは真逆の唯物論なのだということが分かる。

なぜなら、聖書は言うからだ、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(へブライ11:3)

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(2コリント4:18)

聖書は、この世界は、見えるものからではなく、見えないもの(神の言葉)から出来ていると言う。そして、見えるものではなく、見えないものこそ、すべての根源であって、永遠に続くものであると教える。そのような聖書的世界観は、村上から見れば、まさにないものを「見てしまう」という、「精神を病んだ人々」として、蔑視の対象にしかならないのであろう。

ところが、現実は真逆であり、神を畏れ、尊ぶ人たちは、まっとうな生き方をするのに、宗教を侮蔑し、神を畏れない人間、そして、諸教会を断罪しては、信者同士を争わせ、神の教会を侮蔑してはばからない村上たちの活動の支持者らは、どういうわけか、自分は正しいと言い張りながら、判決に逆らって、賠償金を踏み倒したり、あるいは不明な理由で自殺に至ったり、刑事事件で訴えられたり、人権侵害の記事を書き連ねながら、全く反省がなかったりするのである。

神の教会を冒涜し、あらゆる宗教を敵視し、見えるものの根源は見えないものにあるという霊的法則性を否定して、見えるものこそすべての根源であるかのように主張するこの人たちが、彼らの論とは裏腹に、自分たちこそ、精神異常に落ちかかっている様子が見えて来る。
 
そこで、私たちは、村上がすべての宗教に「害悪や、病をもたらすもの」、「胡散臭いもの」、「カルト的なもの」、「悪」というイメージを植えつけようとして、根も葉もない虚偽のプロパガンダを言い広め、キリスト教のイメージを貶めようとしていることを十分に理解した上で、これを鵜呑みにしないように、警戒しなければならない。そして、牧師であるにも関わらず、このような記事を書く人間は、決して、真実なキリスト教徒ではあり得ず、まともな牧師でもあり得ないという結論も、おのずと見えて来よう。

つまり、村上は、聖書66巻が神の霊感を受けて書かれた書物であることを否定した杉本徳久と同様に、偽牧師であり、偽教師であり、偽クリスチャンであり、要するに、反キリストの精神に導かれる人間だということが分かるのである。

ちなみに、筆者は、物事のうわべのありようではなく、その本質を見ている。そして、クリスチャンには、聖書に「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあながたに告げるからである。」(ヨハネ16:13)と記されている通り、御霊によって、将来的に起こることをも、ある程度、予知する力が備わっている。

たとえば、以前にも書いた通り、筆者が2010年に杉本徳久をラスコーリニコフになぞらえ、カルト被害者救済活動が不法行為の温床になっていると記事で警告したときには、まだ明白な不法行為と言えるものは明らかになっておらず、杉本が犯罪行為に問われていたわけでもなかった。

しかし、その後、物事は筆者の予想した通りの展開を辿り、杉本は今やラスコーリニコフからそう遠くない地点に立っている。さらに、筆者が昨年、仮処分の申立てを杉本・村上・唐沢の3名に対して提起したとき(これは一部訴訟に転じる予定で取り下げている)、筆者はこの訴えの中で、3人が共謀しているなどとは全く主張していなかったが(3者の行動にそれぞれ接点があったため、3者を債務者として同時に申立を出した)、1年後にはほとんどそれに近い状況が出来上がっている。

 唐沢などは、自分たちに共謀関係などあるはずがないと、筆者の論を嘲笑っていたが、今、村上が唐沢治の陳述書を公開している有様を見ても、その当時いはなかったネットワークが、今、出来上がっている様子が分かるのである。

こうしたことも、筆者が約1年前にほぼ確実な未来予測をしていたことを示している。

とはいえ、これは筆者自身の予知能力などではなく、何ら不思議な現象でもなく、彼らの活動が本質的に聖書に反するものであることを理解すれば、遅かれ早かれ、この人たちが聖徒らを迫害する目的で、手を結ぶに至るであろうことも、十分に予測しうるのである。

誰であろうと、物事の本質をきちんと見極めれば、将来的にどのように事態が展開するか、実際にその出来事が起きるよりも前に、一定程度、予測できる。

つまり、これは無いものが「見えてしまう」という幻覚の類とは全く異なる事柄なのである。信仰を持たない人々が、いかに否定したとしても、世界は、厳然たる霊的な法則性によって造られており、また、それに従って動いており、その法則は、物理法則と同じくらいに変わらないものである(正確には物理法則を超える)ので、ある人の思想を緻密に分析すれば、その人がどういう人生の最期を迎えるかまで、大体分かってしまうのである。

だから、筆者には、村上も、杉本も、唐沢も、決して平和な人生の終わりを迎えないであろうことが予想できる。KFCは特に、地上のエルサレムの崩壊や、マサダの集団自決などを彷彿とさせるような、ひどい最期を遂げるだろうと予想している。

* * *

掲示板でも引用されていたが、唐沢は記事「最期で分かる男の価値-いかに地上を去るべきか- 」の中で、このようなことを述べていた、「われわれは思索によって生きるのではない、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。その言葉こそが究極の存在であり、いのちの実体なのだ。で、唐突だが、男の死に方。」

この冒頭を読んだだけで、クリスチャンには、何かがおかしい、ということが分かるだろう。「いのちの実体」を語っているはずが、唐突に「死」へ話が結びつけられる。しかも、その間に、復活がない。そもそも、復活という概念が、一度も出て来ないまま、生と死とが結び付けられるだけで話が終わっているのである。

このような世界観を、グノーシス主義的な対極の概念の融合という。「あらゆる対極性を一つのものにしてしまう巨大な輪」なるウロボロスの輪というシンボルに象徴される、初めも終わりもない永遠の循環の概念である。

この循環の概念については、過去に三島由紀夫の映画の分析記事(「神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から⑤」)などで詳しく記した。

実際、唐沢が述べているものが、グノーシス主義的世界観であることは、「生と死の間は浮世狂言、脳内の電気と化学物質の生み出すマトリックス。まともに思索したところで空理空論の無限ループ。」という記事冒頭の言葉からも分かる。
 
つまり、唐沢から見れば、世界のすべては存在しないも同然の無であり、生も死も結局は存在しない無限ループでしかなく、本質的に同一だというのである。

そして、唐沢はローマ帝国時代の殉教者たちを、神への愛のゆえに命を投げ出しても信仰の証を守り通した勇敢な信仰の先人たちとは見ずに、むしろ、殉教に死の美学としての肉体の完成を見いだそうとする。

「ローマ時代のようにライオンと戦って殉教するような華々しい場面はないとは思うが、【その時】、ブヨブヨの肉体を晒さないために、これまで鍛えてきた。葉隠にいわく、武士道とは死ぬことと見つけたり・・・。主も言われる-わたしのために魂を捨てる者はそれを得る。得ようとすれば失い、失えば得るのだから。-Jesus」

しかし、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という葉隠の言葉が、決してキリスト教とは両立しない、むしろ、正反対の大変、危険なものの考え方であることは、記事「肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑤~」などで再三再四、指摘して来た。

戦前・戦中の国家神道においても、天皇の御ために身命を捧げることは<略>、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。などと説かれ、天皇のために死を遂げることが、「真生命の発揚」などという言葉でごまかされ、生と死とが、まるで根本的に同一であるかのように、一つの概念へと結びつけられていたのである。

こうして、対極の概念を融合する考え方は、東洋思想の基本である。そして、東洋思想は、本来的にグノーシス主義と同じであることも述べて来たのであって、これは絶対にキリスト教と混じり合うことのない異質な思想である。

というよりも、東洋思想は、それ自体が、キリスト教の「対極にあるもの」であって、キリスト教と己を合体させることで、キリスト教を堕落させることを真の目的としている教えだと言って差し支えない。
 
唐沢はまんまとその罠にはまり、キリスト教と武士道の精神をごちゃまぜにしている上、最近は、禅までも融合したらしい。一体、いくつの非聖書的な思想を無分別に取り込めば気が済むのか、唐沢の信仰は、もはやキリスト教からは遠く遠くかけ慣れた、異端のデパートのようになっている。
 
東洋思想には、復活という概念がない。死を打ち破ることのできる力は、その世界にはどこを探しても、存在しない。そこでは、物質的なものが、本質的なものとされ、一切が究極的には無である、とされる。つまり、唐沢の言葉で言えば、何もかもが「脳内の電気と化学物質の生み出すマトリックス。」という結論に至り着くのである。むろん、人間もである。

従って、本来的に無であるものが、どういう扱いを受けようと、損失も、痛みも、発生するはずはなく、また、見えている有様は、本来的なものでなく、無こそが本来的な姿であるとされるので、この世界観にとらわれた人は、己の無なる本質を証明するために、生きているうちから、死を目指すことになる。
 
唐沢は、かつては十字架における死と復活を頻繁に語っていた。しかし、それも借り物の教義に過ぎなかったのか、今やあからさまに肉の思いは死であり、」(ローマ8:6)との御言葉が示す通り、生を語っているようでありながら、あからさまに死を語るようになっている。

苦痛を避けて、美しい人生の終わりを迎えたいなどと書いているが、彼の信奉する三島由紀夫の終わりも、ウォッチマン・ニーの終わりも、決してそんなものではなかった。

筆者は、唐沢のこうした思想を見るにつけても、彼とKFCは決して平穏な終わりを迎えないことを心から確信せざるを得ない。
 
唯物論とは、見えるものと、見えないものの秩序を逆転させて、見えるもの(物質)を見えないもの(神の御言葉)よりも重視し、神の神殿たる人間を、神ご自身以上に高く掲げる聖書に対する反逆の思想である。

それは男と女との秩序をも覆し、人自身における霊魂と肉体の秩序をも転覆し、肉体を魂や霊以上に重視し、最終的に、人間を自己破壊へと至らせる。肉体を重んじる、と言いながらも、最後は己の肉体の破壊で幕を閉じる思想である。これは決して変えられない法則性であり、数多くの人たちがこの思想の虜となって、非業の死を遂げて来た。だからこそ、それは死の美学を形成するのである。

自分たちはエロヒムだ!と豪語する唐沢は、自分たちを神々だと称して、諸教会に君臨し、教会を「ニッポンキリスト教界」と呼んで、盛んに侮蔑・罵倒することで、エクレシアを蹂躙・冒涜している。そして、自分に刃向って来た信者や、自分のもとを去った信者を呪い、断罪し、罵倒している。

だが、そうすることで、結局のところ、唐沢は、神の神殿として造られた宮である自分自身を否定・蹂躙・冒涜しているのである。

キリスト教徒の殉教は、決して肉体美の誇示のためではない。にも関わらず、唐沢は、これを信仰の完成としてではなく、肉体の完成であるかのように受けとる。そして、殉教者たちが、神を愛するがゆえに、命がけで信仰を証したのではなく、自分の肉体美を保存するために死へ赴いたかのようにとらえる。そして、自分の肉体を老いさらばえる前に保存するために、その死にならいたいと憧れている。ものの考え方としては、三島と同じである。

唐沢の考え方には、ただ見える世界だけがあって、見えない世界は存在しない。
 
だからこそ、筆者は余計に、唐沢がいかに「脳内空転的に三島のように腹を切るのもグロ。今回の西部氏の老人性鬱病と間違われるような最期もね。要するにキレイに逝きたいと思うのだ。」などと言っていても、彼の生涯の終わりは、非常に象徴的な自己破壊となり、苦痛を免れられないであろうと思うのだ。村上の愛読書がフィリップ・ヤンシーの『苦痛』であって、そこには次から次へと激痛に呻く人々が登場して来ることも、よく似ている気がする。

唐沢は、死は肉体の完成であるとして、「死の美学」を語りながら、己の肉体を破壊する方法を絶えず思いめぐらしているようにしか、筆者には見えない。死のカタログのページをめくって、どのような死に様が自分にとって良いかを絶えず思いめぐらし、絶えず死に憧れて、生を語りながら、死へと至り着かずにいられない唐沢の中に、すでに彼の最期が明白に表れていると思うのだ。

しかし、私たちは断じて、このような唯物論的「死の美学」を信奉する者ではない。

「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安であります。」(ローマ8:6)
「義人は信仰によって生きる。」(ヘブル10:38)
もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。<略>わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマ6:5-8)
 
私たちは、キリストと共に十字架で死んで、彼と共によみがえった者として、すでに死の脅威からは解き放たれている。とはいえ、日々、自分の十字架を負って、主の霊的死を身に帯びるからこそ、そこによみがえりの命が働き、私たちは生きる。

そういう意味では、私たちに霊的死は必要であるが、それはあくまで霊的死であって、肉体的死を目指すものではない。だから、筆者は、自分がどのように死ねば、満足を得られるのか、と、死に様を思いめぐらすようなことはない。むしろ、生きている間に、何を成し遂げれば、御心の満足になるのか、と思いめぐらし、時間を惜しんで、御国の前進のために働いている。

筆者は、キリストと共なる古き人に死んで、もはや自己満足のために生きているのではなく、筆者のために死んでよみがえって下さった方のために生きているのであるから、束の間に過ぎない地上における自分の美を保存するために、まるで自分を冷凍保存するように、死というガラスケースの中に閉じ込めようなどとは間違っても思わない。

いずれにしても、キリスト教を罪に定め、神を信じる敬虔な信者たちを「精神異常者」呼ばわりし、信仰を侮蔑し、教会を冒涜するこれらの牧師たちは、自画自賛し、信者たちを病人呼ばわりした舌の根も乾かないうちに、自分たちは、率先して、病どころか、激痛や、死を慕い求めながら、罪に罪を重ね、破滅へ向かっているのである。
 
 
<続く>

カレンダー

06 2019/07 08
S M T W T F S
1 3 4
7 8 9 10 11 12 13
15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

メールの提供、写真、個人情報の提供を大いに歓迎します。特に、直近になされているコメントについても、投稿者の個人情報(所属教会、氏名、勤務先情報、連絡先)をご存じの方は、ぜひ詳細にお伝えくださいますよう。情報源を明かすことはありませんのでご安心下さい。県警ではなく、神奈川署ですのでお間違いなく。045-441-0110

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー