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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険④~

さて、ここで少しだけ、映画『龍の正体』の解説を離れたい。ウィルソン青年が武術を身に着け、次第に自信とプライドを増し加え、キリスト教の信仰を離れて行く様子を見ながら、筆者は、カルト被害者救済活動を率いている村上密牧師のブログ内容を思い出さずにいられない。

カルト被害者救済活動が、当初は拉致監禁という方法を用いて、暴力的にカルト宗教から信者を奪還し、密室で説得工作を行い、強制的に彼らの信仰を打ち砕いていたことは、すでに述べた通りである。

最近では、このような方法で信者の心を無理やり入れ替えることはできない相談であることが常識となりつつある。拉致監禁などという暴力を用いた方法に非難が集まり、それが信教の自由、身体の自由の侵害を含む人権侵害であるとして、カルト宗教の側からも訴訟などが起こされているだけではない。

そのような暴力的な方法で人の心を変えようとする説得工作自体に、大きな問題があり、そのような方法で棄教を強制された人は、心に深い傷を負い、場合によっては、強い洗脳を短期間で一挙に解こうとすることで、人格が崩壊する恐れさえあるとされている。

筆者はこれまで、そのようにして強制的に脱会させられ、クリスチャンとなった人たちと幾度か接触したことがあるが、その際、彼らの内心が根本的に変化して、心底からのクリスチャンになったとは思えない何かの違和感を感じ続けて来た。

むろん、そうした脱会者らは、表面的には穏やかで、敬虔そうに見える。彼らは口では、脱会できて良かった、何某先生のおかげでカルトから足を洗うことができて、自分は本当に幸運であった、などと一様に感謝を述べるが、一旦、彼らの心の琴線に触れるような話をすれば、心の内側に隠されていた憤りと憎しみが噴出する。これらの人々は、本当に解決すべき問題と向き合わないまま、表面的な回心を経て、キリスト教に入信させられた上、自分の精神的支柱を打ち砕かれているため、あまりにも傷ついた自己を抱えており、デリケートな話になると、常に感情的な爆発に直面する恐れがある。

だが、カルトでの洗脳が終わったかと思うと、今度はカルト被害者救済活動によって、新たな洗脳を施され、自我をへし折られたまま、いつまで経っても本当の自分を取り戻すことができずに、力の強い指導者の言いなりになって生きねばならないことは、本当に哀れである。

筆者から見て、本当に注目せねばならない問題とは、この人々がカルトに入ったことが間違っていたという事実ではなく、むしろ、なぜ彼らが、カルトに逃避の場を求めずにいられなかったかという理由である。

人は自分に何も悩みがないのに、いきなりカルトに接近したりはしない。青年期にカルト宗教に接近する人たちのほとんどは、そのきっかけとなる何かの悩み苦しみ、人生や世界に対する疑問を抱えており、そうした悩みのきっかけとなるのは、ほとんどが家庭内問題ではないかと筆者は見ている。

人は幼少期から受けた教育の中に、何かしらカルト的な教えに心惹かれるような土壌がなければ、そのような宗教に抵抗感を覚えずに接近して行くことはなかなか少ない。つまり、常日頃から何かしら「カルトと似たような教育」を家庭で施されているために、抵抗感が薄められている場合が少なくないのである。

そこで、こうした人々が最も考えなければならない問題は、一体、自分が何の問題からの逃避を求めてカルトに接近したのか、という具体的な理由である。それは家庭内の問題であったかも知れないし、親の暴力や暴言、抑圧的な態度、あるいは両親の離婚、学校や職場のいじめであったりと、原因は様々であろう。

だが、いずれにせよ、彼らが、一体、自分は何から逃げるためにカルトへ走ったのか、自分の個人的な人生にスポットライトを当てて、その本当の原因に迫ってこれと向き合って問題解決しようとしない限り、ただカルトの教義の誤りだけを認めただけでは、彼らが心の深いところで抱えている問題は何ら解決しないままなのである。

そのような状況だと、彼らはキリスト教に改宗しても、以前から引きずり続けて来た問題をまた新たな宗教の中に持ち込み、さらなる厄介な問題を引き起こし、それに巻き込まれて行くことになるだけなのである。

そこで、カルト被害者救済活動が、なぜこうした人々がカルトへ走らざるを得なかったのかという本当の原因を考えてこれを解こうとするのではなく、ただ親たちの訴えだけに耳を傾け、子供たちが親に迷惑をかけて、人生を棒に振っているという理由で、子供たちの信仰を強制的に打ち砕いて、誤りを認めさせ、その逃避をやめさせようとして来たことは、非常にまずい悪質なやり方であったと言えよう。

もしもこれらの人々がカルトに助けを求めた最も深い理由が、家庭内問題にあった場合、ただ親たちの言い分だけを鵜呑みにする被害者救済活動では、子供たちがカルトへ走った真の原因を探り出して明るみに出すどころか、それをより深く隠ぺいし、見えにくくして、こじらせる結果にしかならないためである。

その危険性は、村上密自身の人生を見ても分かることだ。村上は、若い時分に統一教会に入信していたわけであるから、本当は、こうした問題点を理解していておかしくなかった。暴力的に信仰を打ち砕かれることが人の心にもたらす傷や、強い者が支配する理不尽な環境の家庭や学校や社会からの逃避の場を求めてカルトに走らざるを得ない者たちの心の痛みを理解していておかしくなかった。

にも関わらず、なぜ村上は、暴力的に他人の意志を打ち砕いてまで棄教させるという活動に関わり、これを「救済」ととらえていたのだろうか。それを考える上で興味深い材料が、村上のブログに記載されているので、今回、その問題について具体的に考えてみたい。

この問題を理解する鍵となるのは、村上と父との関係である。村上はブログにおいて幾度も、幾度も、子供時代に父から暴力を振るわれ、深刻な虐待を受けていたことを示唆する記述を行っている。ただし、村上自身は現在に至っても、これを虐待と認識しておらず、実はそのことこそ、村上の抱える最も深刻な問題なのである。
 
通常、牧師は回心前などに、学校で級友と流血沙汰の喧嘩をしたことがあったとしても、それは信仰を持つ前の神を知らなかった頃の行為であるから、愚かだったと思いこそすれ、そのような話は福音伝道のためにならないと思い、公に告白しないことであろう。

ところが、村上密は今になっても、自信ありげに、子供時代の殴り合いの喧嘩を武勇伝のごとく吹聴している。村上はいくつかの記事で、高校時代に他の生徒ににらまれた際、殴り返して撃退し、それに懲りた相手方の生徒が、自ら転校して行って勝利をおさめたという話を自慢げに繰り返している。

だが、この記述の中で、注目すべきは、そのような喧嘩の仕方を村上に教えたのが、彼の父であったことである。父が息子に喧嘩の仕方を教えていたので、高校時代には、村上はすでに相手を殴るだけでなく、蹴倒して蹴り回すなどの術をも身に着けていたのだという。

村上の父は、言葉で息子を諭すよりも、体で「教える」タイプの人間だったらしいが、そのように喧嘩の仕方を教わったことで、いじめっ子を撃退できたことが、村上の中では誤った「成功体験」となり、村上は牧師になった今でも、それを「父のけんかの教え」と呼んで(あえて「教え」という言葉を使っていることに注意したい)、「父の先見の明に感じ入った」などの賞賛の言葉を記している。未だに「父に忠実な息子」であることを誇りとし、その教えの中に悪しき思いが入り込んでいることに気づかないのである。
 

高校1年生の時のことである。Aが私の机でパンを食べ散らかした。私はごみをかき集めて、Aの机の上に置いた。Aは授業が始まってから、教師の目を盗んで、パンくずを私に投げてきた。授業が終わって教師が退室すると、ぬしゃ~(おまえは)と言い寄り、つかみ合い、殴りかかってきた。椅子や机がなぎ倒され、けんかの場所がべランダになった。私は父の言いつけを守ってきた。1発、2発は殴られてやれ。3発目は油断して殴ってくるのでカウンターで急所を殴り返せ。忠実に相手の鼻を拳骨で殴った。たちどころに鼻から血が流れだし、戦意を喪失した。私は蹴倒して、蹴りまわそうかと、父のけんかの教えを再現しようと思ったが、さずがに同級生たちが束になって止めにかかった。Aは翌日から高校に来なくなった。いつまでも来ないので心配していたら、転校していったとのことだった。高校生の時「わる」に絡まれたのはこの時一度だけだった。以後は争いのない高校生活を終えた。

それでも、私は二度高校をやめようと思った。一度はけんかの後、退学か停学かを受けるのではないかと思い、どうせなら自主退学をしようと覚悟していた。ところが、担任教師がこのことを知っても何も処分について口にしなかった。正当防衛が成立しているからである。ちょっと行き過ぎた正当防衛である。父の先見の明に感じ入った。<略>
拳骨で平和を 2018年 04月 25日 )


この記事の後半で、その当時に村上が禅に心惹かれていたと記述されていることも興味深く、やはり、東洋思想からの思想的な影響を感じさせる。筆者はDr.Lukeを初めて実際に見かけた際にも、どこかしら禅寺の僧侶を思わせるような人物だという印象を記事に記している。(筆者は実際に禅寺がどういうところであるかを知っているので、これは単なる印象批評ではない。)

村上は暴力事件については、さらに、なんと保育園時代から、年長者に兄を相手に、相当な手傷を負わせることで、兄から手を出されることがなくなり、不戦の関係が築かれたと自慢している。
 

私は兄とけんかした記憶がない。これは両親と兄から聞いた話である。私は保育園児の頃に兄とけんかをした。肥後刀の取り合いになって、貸して、貸さんのやり取りになった。兄は怒って、肥後刀を私に投げた。それが私の左目の目じりの端で眼球まで数ミリの骨の部分に当たった。瞬く間に左目は血だらけになり、ポタポタと血が流れ出した。私は近くにあった鎌を手にかけて上段に兄の頭に振り下ろした。兄は頭から血がだらだらと流れた。兄弟とも血まみれになった。急いで病院に連れて行かれたと聞いた。昨年、兄と何かを話しているとき、まだ、あの時の傷が目じりに残っているよと話すと、おる(私)もまだ頭に傷が残とっととたいと頭の傷を指した。互いに大笑いした。私たちは私たちのけんかがどのような結果になるかを経験した。その結果、私たちは互いを恐れ、暗黙のうちに不戦の関係を築いたのではないかと思う。口げんかさえ記憶にない。
血まみれのけんか   2018年 04月 25日)


幼児だから力が足りなかっただけで、もう少し成長していれば、殺人事件になっていてもおかしくなかった。このことから分かるのは、村上は、かっとなると、見境のない行動に出て、身内が相手であっても、とてつもない暴力性を発揮する可能性のある性格の持ち主だということである。

だが、なぜ幼児期から、村上はこのような衝動的な行動に出ていたのであろうか? おそらく、この兄弟喧嘩が発生したこと自体に、親の影響が相当にあったと思われる。村上の父がどのような人間であるかは、以下に挙げる記事からも分かるが、父の影響を受けて、すでにこのような幼児期から、村上は、自分の家庭では、「目には目を、力には力でやり返せ」といった、力の論理で生きるしか、身を守る術はないという考えを会得しており、口で説得したり、言葉を用いて相手をねじ伏せるよりも前に、まず手が先に出て、体でやり返し、本能的な自己防衛の思いから、相手に打撃を与え、痛い思いを味わわせることで、自分を守ろうとする方法論が身に着いていたと思われる。そして、そのような方法論を村上に体得させたのは、他ならぬ父だったのである。
 

子どもの頃、けんかして泣いて帰ると、父からげん骨を食らう。やり返してこい。何かで泣いていると、男が泣くもんじゃない。馬鹿たれ。なんば泣くか、とげん骨である。父の前では涙を見せられない。歯を食いしばって我慢するしかない。おかげで奥歯が擦り切れた。けんかに負けないように、教えてくれと言っていないのに、勝つ方法を教えてくれた。以来、けんかで負けたことはない。負けるかんか(ママ)はしない。父親の方が怖い。

高校の時である。クラスのワルがけんかを仕掛けてきた。二発殴らせてやった。向こうは安心して三発を打ってきた。それで相手の鼻をカウンターで打ち返した。鼻血を流して戦意喪失。クラスメートが間に入って止めた。相手は翌日から学校に来なくなった。転校したのだろう。以来、私はけんかをしなくなった。その代り、論争に負けないように努めた。こうやって、私の性格は父のげん骨で作られた。父の最高傑作品ではない。父の前で泣かないだけだから。クリスチャンになって、天の父の前ではよく涙を流すようになった。私は二人の父親を使い分け、次第に変わってきた。
ところが、自分が父親になって、子どもが泣いたり、めそめそしていると、なんば泣くか。男が泣くもんじゃない、と聞かなくなった父の言葉を今度は自分の子どもに言い、げん骨を食らわしている。父親の血は私の中に流れていたわけである。そのたぎる血も、頭を打つのは止めてください。手でおしりを叩くぐらいにしてくださいとの懇願に転向を余儀なくされた。そして父親と同じように子たちが中学生になる前には手をあげることを止めた。
父とげん骨 2017年 11月 19日)


 
これはまさに武術に励むことで、いじめっ子を撃退し、プライドを立て上げようとしたウィルソン少年の姿を彷彿とさせる。村上ははっきり述べている、「私の性格は父のげん骨で作られたと――。これは非常に恐ろしい告白である。彼はキリストの成分が自分を形作ったのだと言っておらず、父の暴力が自分の性格を形作ったと言うのである。

クリスチャンには、「二人の父親」はいてはならず、まして「二人の父親の使い分け」などあってはならない。だが、村上の告白は、クリスチャンになった後でも、村上の中には、キリストの教えと、もう一つ、それとは異なる肉の父親が教えた「力の論理」がずっと併存して息づいていたことを示している。

村上は少年時代に、たとえ子供のけんかであっても、負けて帰って来ることは恥であると父に責められ、自分で自分の身を守れと言われ、力の論理を体得させられた。すでに保育園時代から、村上は、自分の家庭では、力が弱いがゆえに喧嘩に負けても、誰からも同情などしてもらえず、相手が兄であっても、負けることは恥であり、涙を見せることは心の弱さの証拠でしかなく、馬鹿にされるだけだと学んでいたのではないかと思われる。

以上の喧嘩に関するすさまじい記述は、どれもこれも、村上が少年時代に、親から事実上の虐待を受けていたことをよく物語る。たとえば、子供同士の喧嘩で負けて帰って来た子供を、親が慰めず、子供の心配をするどころか、みっともないと叱りつけたり、「泣いてはならない」と命じたり、「喧嘩の仕方を教えてやる」という口実で、父が子供に取っ組み合いのわざをしかけるなどの行為は、れっきとした虐待である。さらにもっとひどい虐待の様子も、後述するように、村上の記事にはいくつも記されている。
 
親の庇護がなければ、子供はもともと生きていけない存在である。弱い子供に自分で自分の身を守れるはずがない。ところが、親が、子供の弱さをかばうどころか、子供自身が強くなって自衛するのが当然であり、それができないのは恥だと教え、弱い子供を突き放し、泣くことさえ禁じるのは、ただ親が子供への保護責任を放棄しているだけである。

だが、問題は、村上が未だに自分の親のこのような行動が、深刻な虐待であったという意識をまるで持っていないことである。それどころか、村上はキリスト者になっても未だに、そうした父の「教え」が、自分に役に立ったと考えて、それによって得られた「成功体験」を重んじ、継承しているのである。

級友に暴力を振るい、級友が学校に来なくなった時点で、村上は、自分の暴力が、イジメ問題に発展し、自分が学校で罰せられるかも知れないという自覚を持っていたと書いている。正当防衛を主張するには、明らかに分を超えてやり過ぎたのだ。しかも、相手が不登校になってしまえば、何が原因であれ、やはりそれはあるまじき結末だ。きちんと和解して両方が同じ教室で学べるように決着をつけるべきだったのだ。

ところが、学校側は無責任で、和解の努力もせず、村上は罰を受けることもなく、ただ喧嘩の相手となった生徒だけが転校するという重荷を負うことで、事件が済まされてしまった。そのことは、村上にとって悪しき「成功体験」となる。この時、村上の中では、大人たちの世界では、たとえどんな卑劣な方法を使おうと、どんなにやり過ぎようとも、とにかく力の勝負で勝ちさえすれば、それが勝利としてまかり通るのだ、従って、そのような方法で自分が身を守ったのは正しいことだったのだという認識がさらに強化されたと思われる。

それは、喧嘩に負けることを恥であると普段から教えて来た父親の言葉に、学校側も呼応して同じ見解を示したことを意味する。そこで示されたのは、世間は「力の論理」で成り立っている、何が正義であるとか、真実であるとか、何がほどほどの妥協点であるかなどは関係なく、「力の論理」で相手を打ち負かした者が、勝つのだという理屈であった。

こうして、村上はキリスト教に改宗した後も、暴力で弱い者を打ち負かすことを恥とせず、何事をも父から教わった「力の論理」によって解決しようとし、力によって身を守れた者が勝つのであって、それができなかった者は敗北するのが当然だという考え方を持ち続けることになる。そして、キリスト教とは根本的に相容れないこのもう一つの肉的な教えを、キリスト教と同時に使い分けて行くのである。

村上の「力の論理」は、村上自身が親となった際にも、自らの子供への体罰という形で受け継がれる。 

前にも書いたことだが、筆者は村上密の教会に実際に通い、村上の家族を実際に目撃しているが、一番最初に疑問に思ったのは、村上の妻が少しも幸せそうでない、ということであった。

牧師がワンマンでないか、本当に謙虚な人格を持ち、周囲のことを思いやっているかどうかをはかる最も良いバロメーターは、妻との協力がどれくらいうまくいっているか、牧師夫人が本当に生き生きして満たされて行動しているかに注目することである。牧師の行動はいくらでもごまかせるが、牧師夫人が幸せであるかどうかは、人の目にごまかすことができない。
 
村上自身は、筆者の前で、一度も怒鳴り散らしたり、不機嫌なところを見せたり、取り乱した態度を取ることはなかった。むしろ、常に温和で人好きのする態度を見せていたので、筆者は初めの頃、村上の人柄に全く不信感を持たなかった。だが、おかしなことに、まだ若く、幸せいっぱいの家族であるはずの村上ファミリーの様子が筆者にはどうにも変に感じられたのであった。子供たちは比較的、のびのびしているように見えた(弱さを見せることを禁じられていたので、そのように振る舞うようしつけられていたのかも知れない)。だが、夫人は、村上と接触する時でさえ、感情を押し殺したような表情で、伸び伸びした態度も、心の余裕もないことが分かった。
 
これは非常に奇妙なことであった。特に、被害者のケアに当たるという仕事を常日頃から夫婦でやっているのであれば、夫人の側には、夫の手が回らない部分まで、慈愛に満ちた思いやりある行き届いた態度が求められるのが通常であるが、そういうものからはほど遠い夫人の行動を見たあたりから、この家族は何かどこかが変なのではないかという気が筆者にははっきりとし始めたのである。

だが、以上の村上の記事などを読めば、なぜそのようなことになっていたのか、その理由もある程度は理解できよう。村上は、決して信徒らの目には触れない場所で、子供への折檻を行っていたと自ら告白しているのである。しかも、その折檻は、子供が何かあるまじきいたずらに手を染め、あるいは万引きしたり、非行に走ったりと、誰が考えても社会的に容認できない行動に走ったために加えられた体罰ではなく、ただ「子どもが泣いたり、めそめそしていると、なんば泣くか。男が泣くもんじゃない、と聞かなくなった父の言葉を今度は自分の子どもに言い、げん骨を食らわしている」と村上が書いている通り、ただ子供が気落ちして、心弱くなっているところを目撃しただけで、それを「罪」のようにみなして殴っていた、というのであるから驚きである。

その記事からも分かるのは、おそらく、村上は、かっとなれば、突然火がついたように自制心を失い、普段とはまるで違った形相になって、子供を思い切り打ち据えずにいられなかったのだろうということだ。決して人前で弱さを見せるなと、自分が幼少期から父に厳しく叩き込まれたために、子供たちが弱さを見せただけでも、許せない思いになり、見境なく手を出さずにいられなかったのである。
 
しかし、妻を含め、周りで見ていた者たちは、村上の血相を変えた尋常ならぬ様子に怯え、その体罰に命の危険をさえ感じていたのであろう。その記述は、幾度、やめて下さいと、妻も懇願したか分からない様子を伺わせる。だが、村上を止めることは誰にもできない相談であった。

こうしたことは、まさにこれまで書いて来た「般若の面」を思わせる出来事である。明らかに、村上には、表向きの、弱者に対して優しく親切そうな表情とは別の、牧師として第三者に接触している時には、決して見せることのない、もう一つの顔があった。彼は二つの面を使い分けており、隠れたもう一つの面が隠されていたのである。

その「鬼の面」は、カルト被害者に対して親切で、思いやり深く、彼らの心の傷や弱さに寄り添い、それに我が事のように共感を寄せる牧師という表向きの顔とは全く逆の、決して人が自分の弱さを打ち明けることも、そのために涙を流すことも許さず、力の勝負で「負けて帰って来る」こと自体を恥とみなし、負けて帰って来た者にはさらなる罰を加えてこれを恥として責め立てるような、残酷な般若の面だったのである。

その鬼の面は、村上自身にもコントロールできない「父親の血筋」であり、一旦感情に火がつくと、自分の生んだ子供たちという最も身近な愛する者たちにさえ、容赦なく手をあげ、向けられるような憎しみだったのである。

だが、村上は、自分の中にそのような「父親の血」が流れていることを、以上の記事でも、反省すべきあるまじき出来事としてはとらえていない。むしろ、子供が中学生になる前に手をあげることをやめたのだから、それでいいではないか、と言いたげだ。自分は親から教えられた通りのことを忠実にやっているだけで、それで自分も無事に生きて来たのだから、それはしつけであり、処世術であって、何が悪いと言いたげである。

自分の仕打ちが、子供たちの心の中で深い傷となり、それを見ている者にもはかりしれないショックとトラウマを与え、自分が育てた子供たちが、いずれ親になって、自分と同じことを繰り返すかも知れないということには、全く思いが至っていないのである。

さらに、もっと注目すべきは、村上が統一教会から脱会したいきさつである。

筆者はまだ幼い頃に、筆者が所属していた教会に、村上がやって来て、セミナーやら講演やらを開いていたことがあるのを覚えている。そのような集会の一つで、村上は直接、自分の口で、どうやって統一教会を脱会したのかといういきさつを語っていた。

一方では、村上は、統一教会の用事であったのか、それとも他の仕事であったのかは分からないが、トラックか何かを運転中に、「密、密、なぜ私を迫害するのか」というキリストの声を聞いて、滂沱の涙を流して自分の誤った信仰を悔い改めた、などと話していた。

あたかも、パウロのダマスコ途上の回心のような、劇的で自主的な回心があったような話しぶりであったが、この種の話はかなり眉唾物だと思わざるを得ない。

ところが、そのように話した舌の根も乾かないうちに、村上は、統一教会を脱会するに当たり、もう一つの決定的事件が起きたことを自ら告白していたのである。彼は会衆からの質問に答えて、「統一教会を脱会する際、父から半殺しの目に遭わされ、力づくで連れ戻された」と自分で語っていたのであった。

「半殺しの目に遭わされた――」、この非常に穏やかならぬ、牧師にふさわしくない言葉に、筆者は驚き、それが記憶にとどめられた。 今、村上のブログを開いてみると、やはりその言葉は、筆者の思い過ごしでもなく、誇張でもなく、まさしく事実であったことが分かる。村上は脱会のいきさつについて、次のように語っている。

統一教会の研修に参加するため家を出た。その後、家は大騒動。父と兄と叔父が、私が匿われている場所を捜し当てた。父が2階にいる私を見つけ出し、私が死んでも帰らないというので、父が殺して連れて帰ると言って、殴る、蹴る、引き回す。2階から髪の毛をつかんで引きずりおろし、車で連れ帰された。

11月に熊本で兄と母と一緒に食事をしているとき、先の話をしていると、兄が、そるわ~、おとっつあんじゃなか、おったい。用心棒がおっと思ったけん、木刀ば持って殴り込んだたい。わっが、死っでん帰らんていうけん、うちくらわし、けたぐっ、ぞびきまわし、連れち帰ったたい。兄から記憶違いを起こしていることに気づかされた。私の瞼に浮かぶ、手をあげる父は実は兄だったとは。驚きである。そして、兄が、おまえがにぐっといかんけん、3日間、ロープでしばって、座敷にとじこめとったたい。おまえは3日間、めしもくわんでおったたい。この辺の記憶はない。母がそぎゃんだったたい、と言ったので確かだろう。私は兄に、その節は大変お世話になりました、とその場でお礼を言った。その場で私たちは大笑いをした。

兄が、おまえはこまかっとき、おやじに梁からロープで吊るされ、竹ん棒でたたかれたこつば~あったたい。母が、あんたはなきもせんで、歯ばかみしめっ、引きつけばおこして気おとしゃせか~、しんぱいしたとたい。
これも記憶にない。記憶は作り変えられ、消されるものだと分かっているが、自分のことでわかって驚いている。

一部を熊本弁で書いた。迫力ある場面、追憶する話し方、このような話し方はどれもなじみの言葉である。「その場で私たちは大笑いした。」つらい事、悲しい事、大変なことも笑いでくるむ話し方は我が家の話し方である。
記憶は作られ 削られる 2017年 12月 12日)


ここでは、笑いごとではない話が、笑いごとのように済まされている。しかも、この記述は、本当のところは、どうだったのか分からないと思わせる。父と兄と叔父の三人が、村上を連れ戻すために、統一教会のアジトに殴り込んだのだ。そこで行われた乱闘において、誰が村上に手心を加えたのかは、今となっては誰にも分からない。それは兄だったのかも知れないし、父だったのかも知れないし、叔父だったのかも知れない。いずれにせよ、みなの連携プレーがあったのだ。みなが一体となって暴力を振るっていたことはほぼ間違いない。兄が後になって父をかばっているだけの可能性も高く、記憶違いをしているのが誰なのかすらももう分からない。

さらに、この話の中には、村上が小さい時から、父が彼をロープで縛って、梁から吊るし、竹刀のような棒で打ち据えていたなどのことも書かれている。しかも、子供は泣くことも許されなかった。幼い頃から、このようなすさまじい有様だったのだから、この父ならば、何でもやりかねないと思うのは当然である。

いずれにせよ、親族たちの暴力的な連携プレーで、村上青年がカルトから連れ戻されたのは確かであり、そこで誰がどれくらい村上に直接、手を下したのかなどは重要な問題ではない。とにかく村上青年は、父、兄、叔父の三人によって、殴る、蹴る、引き回す、髪の毛をつかんで階段を引きずりおろす、殺してでも連れ戻してやる、などの暴行と暴言を受け、無理やり拉致されて、車に詰め込まれ、その後、家では、逃げないようにロープで縛られた上、座敷に閉じ込められて、三日間、飲まず食わずだった、ということが分かるだけである。

全く恐ろしいほどの暴力沙汰の脱会劇である。しかも、これを身内がみなで一致協力してやったというのだから、恐ろしく、通常であれば、これほどのことをされてしまうと、身内に対する不信感から、完全に周囲に対して心を閉ざしてしまったとしても不思議ではない。村上の場合、そうならなかったのは、おそらく、普段からそのような暴力沙汰が、珍しいことでなかったためであると思われる。
 
こうして、「死んでも帰らない」と豪語していた村上青年の脱走劇は、あえなく暴力によって打ち砕かれて終わった。そもそもなぜ村上が統一教会に心惹かれ始めたのか、その動機はそれほど定かではなく、世界を滅びから救うとか、日本が罪の懺悔を果たすとか、統一教会が表向きに掲げているスローガンはいくらもあって、そのどれに心惹かれたのかも定かではない。

だが、村上自身の記述を読むにつけても、想像されることはただ一つ、そういった統一教会の唱えている表向きのスローガンへの傾倒とはまた別に、村上には、自分の家庭から何とかして逃げたい、もしくは、家庭で味わい続けて来た苦痛の意味を知りたい、という動機があって、その逃避の場を統一教会にしか求められないと考えて、カルトに走ったというのが真の動機ではないかということだ。

「死んでも帰らない」という穏やかならぬ村上青年の言葉が、家や、親に対する悲壮なまでの抵抗の決意を表しているように思われてならない。それがただ統一教会の洗脳だけの結果であったとは思えず、もっと深い動機から出たものであったと考えざるを得ないのである。とにかく、それが本人にとっても命がけの家庭からの逃走劇だったことを思わせる。

だが、不幸なことに、その命がけの試みさえも、中途で打ち砕かれて、再び、彼は以前と同じ牢獄に引き戻されてしまった。ロープで縛られ、身体の自由も奪われ、憔悴の果てに、飲まず食わずで時を過ごし、それによって、「どんな卑劣な手を使ってでも、最終的には、力の強い者が勝つのだ」という、村上家の暗黙の掟が、またもや彼に体で叩き込まれたのである。

肉の父親による暴力的な支配と、家に恥をもたらさないように行動をすることだけを第一とする価値観は、文鮮明の教えよりももっと強かった。肉の父に対する反抗は、どんなことをしても許されず、カルトに走り、父に逆らい、家の恥となる行動をしたことに対する罰は耐え難く重かった。

村上はこうして統一教会に逃げることで、何とか得ようとしていた家庭からの脱出口も失ってしまう。そして、そのまま、一体、自分がどんな問題に悩み、何からの解決を求めてカルトに走ったのか、という根本問題をさえ、自分で封印してしまった。もはや父親に対する抵抗はどんなものであれ、許されないものとなり、父が間違っているかもしれないなど、考えることもできないタブーとなった。
 
村上は実際には、幾度も、幾度も、弱い立場にある子供としての自分からのSOSを無言のうちに発していたのであろう。カルトに走ることも、親に対するSOSだったのだ。ところが、親からも親族からも、その言い分に耳を傾けてもらうことができず、ただ一方的に自分の心の弱さだけが「悪」であると決めつけられ、暴力的に発言の機会を奪われ、口を塞がれ、意志を打ち砕かれて従わされた。彼は、ウィンストン・スミスのように、絶対的な権力によって無理やり自分の意志を打ち砕かれたことにより、暴力事件によって深い心の傷を負ったと考えられる。

そのために、村上は、自分の子供たちが心の弱さを見せることさえ許せなくなり、キリスト教の牧師になった後も、カルト被害者救済活動という名目で、自分以外のカルト信者に対して、自分が受けたのと同様の暴力行為を行うことで、暴力の連鎖を生み始めたのである。つまり、他のカルトへ走った信者らに対しても、拉致監禁という方法で、自分がされたのと同じような暴力に走り、他の信者らの信仰を容赦なく打ち砕いて来たのである。それは信仰がなせるわざではなく、人の心の傷が生み出す連鎖であり、救済ではなく、トラウマの連鎖であった。

いかにカルトから脱会させることを目的に掲げていても、暴力を振りかざす親の理屈が間違っていることを心から理解せず、親から訣別を果たすことができないままであった村上は、傷ついた自分の心と向き合う機会が失われたまま、その傷を、今度は他人に植えつけ始めたのである。

村上の信仰は、いわば、強者の論理によって獲得されたものであると言えるだろう。彼は暴力的に自立の試みを妨げられたため、父を批判することが未だに出来ず、「それで人はその父と母を離れて・・・ 」(創世記2:24)というステップが未だに完了していないのである。しかも、ただ両親から離れられないでいるだけでなく、受け継いではならない「父親の血(肉による力の論理、暴力の連鎖)」に疑問も持たずにこれをそのまま継承してしまっているのである。

それゆえ、牧師であるにも関わらず、このような物騒な暴力事件の話を自慢げにブログに書いているわけだが、しかし、その心の中には、「とにかく勝ったのだから、あれで良かった」という思いと、「なぜ自分があんなことをされなければならなかったのか」という思いが無意識に交差しているように見える。

村上は気づいていないであろうが、彼が救おうとしているのは、カルト被害者ではなく、本当は、痛めつけられた自分自身なのである。弱く、言葉を発することもできず、立ち向かう力もなかったがゆえに、無視され、侮られ、踏みつけにされ、否定され、傷つけられ、それでも立ち上がるよう強制されて来た自分を救いたいという動機が、被害者への共感を生んでいるのである。

だが、彼は、それを父親が自分に教えたのと同じ理屈で成し遂げようとしていることろに誤りがある。すなわち、弱い被害者たちに「裁判」という力を付与し、自分の力で戦わせることによって、彼らに自衛の方法を教え、この世の力を帯びさせて勝利をおさめさせようとしているところに誤りがある。

村上は自浄作用の働かない教会では、被害者の訴えは浮かばれず、そんな教会は教会とは呼べず、「だまされ続けることを聖書の教えと思い込む愚か者の集まり」だと決めつける。

互いが和解できなければ、それは裁判に持っていくべきではなく、教会の中で正しく裁かれるべきである。それをしないで、世の裁判に訴えることは敗北であると言うのである。<略>パウロは教会の中に「兄弟の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。」(1コリント6:5)と語りかけている。赦しなさいは仲裁ではない。正しく判断をしないならば加害者への加担である。教会の中で正義と公平を持って裁く人がいないなら、教会は教会性を失ってしまうことになる。すなわち、もはや教会は教会ではなくなっているわけである。どんなに礼拝会や祈り会に出席者が多くても、賢い者のいない教会、正しい判断をすることにできない教会となる。不正が正されず、不正のはびこる教会、だまされ続けることを聖書の教えと思い込む愚か者の集まりとなる。
誤用される聖句 2018年 04月 19日) 


しかし、このようなものは本当の解決とは言えない。人間の世界で起きる真に残酷な「被害」は、決して人が口に出せるようなものではなく、裁判にも持ち出せるようなものでもない。世の中には、赤ん坊や、子供を含め、自分が受けた不当な仕打ちを、決して論理的に説明することもできず、それを代わりに訴えてくれる味方もいない人々が数多くいる。

村上は言う、教会が教会性を失わないためには(何を持って「教会性」と考えているのかは不明だが)、裁判によって、被害者を救済せねばならないと。外から力を行使して、教会を正さねばならないと。

しかし、そういう理屈だと、人が言葉にもできず、裁判にもできず、誰にも打ち明けられない問題は、どこへ消えて行くのであろうか? 誰に助けを求めることもできない環境に置かれ、訴えを出すこともできない人々の「被害」はどこへ行くのであろうか? 自ら立ち上がり、理屈を駆使して相手を言い負かし、裁判という力を行使して、それによって勝利をおさめて、初めて教会が「教会性」を取り戻すというなら、被害者が名乗り出ず、訴えもしないがゆえに、誰も気づかない不正はどこへ消えるのであろうか? それらは神の御前に悪事でさえなかったことになるのだろうか?
 
村上が述べていることは、どこまでも終わりなき「力の論理」であって、そこには、被害者といえども、ただ力を行使することに成功した者の訴えだけが、最終的に認められるという理屈しか存在せず、すべてのことを公平に裁かれる神が不在なのである。
 
このような考え方は、被害者の中にも、格差を生み出す。裁判で勝ったのか、どれくらいの賠償金を取り返せたのか、相手をどれくらい重い罪に問うことができたのか。どれくらい短い間で訴えを終わらせたか。効果的な裁判を行えたか。弁護士はいたのか。云々。

だが、私たちの聖書の神は、そういうお方ではない。我々の聖書の神は、乳飲み子、みどりご、やもめ、寄る辺ない者全ての庇護者であり、自分で声を上げることができないすべての弱い人々の味方であって、一人一人の思いを知っておられ、自ら立ち上がることのできない人々のために正義を行って下さるのである。

村上の論理の矛盾と破綻は、この世の力を行使しなければ、決して教会に是正はあり得ないと考えている点にある。それでは、教会の主人は人間ということになってしまい、教会は神の支配が及んでいる領域ではないと言っているも同然である。つまり、そこでは、正しい裁きを行う者は、常に人間でなくてはならず、神が裁きを行われるということを信じてもおらず、それに任せるつもりもいないのである。

だが、人間の行う裁きは、そもそも偏っていて、不公平であり、必ずしも正しいものとは限らない。現に、世間では、冤罪事件で有罪とされた人もおり、裁判という枠におさまらない悪しき事件は日々、膨大に起きている。裁判の判決さえ、しばしば公正でなく、まして、裁判に訴えることもできない人々の訴えはどうなるのか。

教会の問題を裁判所に持ち出し、そこで勝利を収められさえすれば、勝ったことになるという村上の理屈は、結局、自分の父がしたのと同じ方法で、弱者に自衛を求めているだけなのであり、弱い者に力の論理を身に着けさせ、それによって武装した者が勝つのだという教えなのである。

村上は、弱者が自分に従順で、自分の「教え」を忠実に学んでいるうちは、助けようとするであろうが、それは離脱を許さない残酷な支配であり、その優しさは本当のものではない。彼は決して自分が許した範囲外に、弱い者たちが出て行くことを許さない。

村上は、彼の活動に反対する一人や二人の人間だけに対して残酷なまでの非難を繰り広げているだけではない。村上の教団の配下から出て行こうとした牧師や信徒たちにも、同じように残忍な非難の刀を振りかざして、彼らを打ちのめそうと、彼らに落伍者の烙印を押し、離脱した教会を再び傘下に連れ戻すべく、裁判にまで及んで敗北している。

こうしたすべての行為は、村上が統一教会に走ることで、家から脱走することを決して許さず、彼の行為を「家の恥」とみなして断罪し、彼を辱めて滅多打ちにして、力づくで座敷牢に閉じ込めてまで、その意志を暴力的に打ち砕き、家庭に連れ戻した父親の行為の二の舞でしかない。

村上が被害者たちに言い募っているのは結局、こういうことである、「おまえら子供たちは家を守るために勇敢に戦いに出ていけ。そして勝って戻って来い。自分を傷つけた者を打ちのめし、そいつに勝利を果たして、我が家に栄光を携えて戻って来い。正義がこの世に存在することを思い知らせてやれ。おまえの存在はこの家のためにあるのだ。おまえは家に栄光をもたらす道具であって、そこから出て行くことは決して許さない。」
 
分かるだろうか、こうした発想の根底にあるのは、「母を守る」という東洋思想の危機感と同じなのである。「家が脅かされているから、家族の成員が皆立ち上がって家を守らなければならない。そのために、一人一人が力を身に着けて、自衛しなければならない」ということである。『国体の本義』が、家の名誉のために、ためらいなく皆が死ぬことを奨励しているように、もし家の名誉を守る戦いの最中で命を落とすのであれば、それは名誉の戦死として扱われるのである。

村上が、自死に対して寛容なのも、おそらくそのためであろう。被害者が脅かされながらも、決して家や両親に逆らって自分を守ろうとすることなく、むしろ、家の犠牲となって、その名誉のために命を落としたのなら、それは名誉の戦死であって責められるべきことではないというわけである。自死した本人を免罪しようとしているというより、家と親たちを守ろうとしているのである。
 
このような世界観に立って、彼は教会というものも「脅かされる家」と見ている。だが、そこで抜け落ちているのは、教会の支配者は人間ではなく神であって、神の正しい裁きが存在し、それに委ねる必要があるという点と、教会を脅かしているのは、あれやこれやの人間ではなく、最終的にはサタンであるから、人間相手の戦いで、教会を脅威から守ることは決してできないという点である。

人間相手の戦いには「目には目を」の法則が働いて、「殺す者は殺される」という結果に至るだけである。

村上のブログからは、当ブログの他にも、村上の行き過ぎた活動を批判し、村上を名誉毀損で訴えようと具体的に動いている勢力があるらしいことが分かる。以下で言う「スピリチュアル系カルト」とはその他の記事を合わせて読めば分かるように、当ブログとは一切無関係である。

最近、スピリチュアル系カルトからのインターネット上での嫌がらせが増えている。それは指導者がヒステリーを起こしているからである。名誉棄損されていると信者に警察に相談に行かせたりしている。事実、警察から注意とも警告とも思われる電話があったが、別に私の意見を述べているだけで、名誉棄損になるような記事ではない。一種の脅しである。自分たちのネット上の攻撃は悪質であることを棚に上げてである。国外からだとどうすることもできないが、国内であれば対処できる。エスカレートしてきているので、こちらも対処しなければならないレベルになってきた。放っておいて罪がまし加わるのを待つのがいいのか。軽いうちに止めさせる方がいいのか。後者の方が相手思いかもしれない。   (スピリチュアル系カルト 2018年 04月 16日)

この記事によると、すでに警察からも警告が入っているらしく、そうなると、事件はかなり深いものと予想される。実際に名誉毀損による告訴が成立している可能性も十分に考えられる。
 
今や村上についてはかなり各方面から物騒な話題が持ち上がり、だんだん抜き差しならない事態になって行っていることが分かる。むろん、カルトと名指しされる団体に自ら首を突っ込み続けると、いずれ手に負えない反撃が来ることはもともと予想されていたことである。村上から被害者を通じて思わぬ干渉を受けた団体は、当然ながら、反撃に出て来るであろう。相手はもともと正常な団体ではないのだから、そのような争いに自ら首を突っ込み続ければ、いずれは命の危険にも遭遇する。そのような戦いが、牧師の正常な活動ではないことは言うまでもない。

しかも、村上は、自分だけは決して誤りを犯すことはないという前提に立って物事を考えているようであるが、彼が他人に振りかざした厳しい基準が、彼自身に適用されるのだ。和解できない場合には、いずれ村上自身が裁判に引き出され、決着を求められることになる。その時、他人に憐れみを示さなかった彼に対する裁きは容赦のないものとなろう。「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(ヤコブ2:13)

さらに、村上が次のように書いていることも実に要注意である。

聖書には、殺してはならないとの神の命令があり、時には、殺せとの神の命令がある。殺してはならないが浸透し過ぎて、殺せがないかのように思っている人がいる。聖書には、赦しなさいとの神の命令があり、時には、裁きなさいとの命令もある。赦しなさいが浸透し過ぎて、裁きをしてはならないかのように思っている人がいる。

偏った聖書理解によって、被害者が被る言葉には滑稽なのがある。謝罪もしない加害者に対して、聖書には赦しなさいと教えているから赦しなさい。それでも赦せないでいると、赦しなさいと聖書に書いてあるのに赦さないあなたは神に逆らている。それは罪だと裁かれる。赦しなさいと言っている人が自分の言うことに従わない人を裁くわけである。(偏った理解   2018年 04月 08日)

   
これは非常に恐ろしい記述である。誰一人、村上に殺人について尋ねたわけではないのに、彼は自らこのように「聖書は殺人をも禁じているわけではない」という誰も聞いたことのない自らの奇抜な「信仰告白」を繰り返す。ここで村上が、「殺せ」という命令と「裁きなさい」という命令を一つに結びつけて話していることは注意である。このことは、村上自身の中で、この世の強制力である裁判を用いて教会の問題を解決しようとすることと、殺人とが、同じ力の論理に属するものとして同一線上にあることをよく物語っている。

だが、彼が聖書が殺人を正当化していると述べる根拠として、引き合いに出しているのは旧約聖書の記述である(「クリスチャンの裁判」 参照)。聖書において、神が主の民に神に背いた人々や異教徒を「殺せ」と命じたのは、旧約聖書の時代の話であり、新約になってからは、そのような命令は一切、主の民に下されておらず、むしろ、キリストは弱さのゆえに十字架につけられ、主の民が殺される側に回り、殉教している。村上がなぜ問われてもいないのに、聖書を悪用しつつ、「聖書は必ずしも殺人を禁じているわけではない」と、殺人を正当化しようとしているのか、いぶかしく思われる。

そこには「自死を正当化する」という目的と、もう一つ、「殺して連れ帰る」という父の言葉が暗黙のうちに反映していると思われる。村上は、沖縄の被害者のグループ「カイロスの会」で、自死は罪ではないと語り、大変な物議をかもした。このように、彼は自死を罪とみなすどころか、むしろ、奨励するかのような言葉を発しているが、そこには、子供が自死するまでその思いに気づけず、子供を犠牲としてしまった残された遺族らが、これ以上、罪悪感を感じたくないという自己正当化の思いが代弁されていることに加え、子供が家の恥になる行為に手を染めるくらいならば、親は子供を殺すことも厭わないという父の発言を正当化する思いが暗黙のうちに含まれているものと見られる。

暴力的な手段を講じて強制的に相手の意志を打ち砕いてでも、自分の信念の正しさを相手に押しつけることは、それ自体、精神的殺人であると言えよう。このように、聖書を悪用しながら、「正義のためなら殺人も厭わない」という誤った思いを正当化しようとする村上の姿勢は、暴力による強制的な脱会工作だけでなく、アッセンブリー教団に背いた教会や信徒にとことん誹謗中傷を浴びせ、破滅に追い込むまで手を緩めないという行動にも表れている。

村上は、他の人々を差し置いてでも、傷ついた自分自身の心に目を向け、自分自身が幼い頃から父によって受け続けて来た暴力、虐待を悪しきものとして憎み、これを退け、下からの出自である「父親の血」を断ち切り、「父のげん骨で作られた」性格と訣別し、真に親離れを成し遂げなければ、父親が自分に向けて来た殺意を、自分の心の中に育み続けることになるであろう。そうなれば、たとえ憎き敵に復讐を果たしても、彼自身がいずれ死の中に飲み込まれて終わるだけである。それはカインの道であっても、アベルの道ではない。憎悪は新たな憎悪を生むだけで、鉄拳では平和は作れない。それは血塗られた悪魔の道であって、断じてキリスト者の道ではないのである。

「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。」(ローマ8:6-7)
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肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険③~

さて、今回から、しばらく以下の映画『龍の正体』などを通して、武士道が「魂の力」を開発して人が神のようになろうとする東洋的神秘主義に由来するものであり、今日、それがキリスト教の中に入り込んでいることの危険性について考察したい。

ペンテコステ運動の指導者などが行使している超自然的な力も、東洋的神秘主義に由来するものと理解できるため、この動画は、この運動の危険性を考える上でも、非常に参考になるものである。

今日、もしも信者が「肉のものと霊のもの」を見分けることができなければ、信者は「魂の力」を開発して超常的なパワーだけを得ることで、あたかも神の聖霊を受けたかのように錯覚したり、キリストの十字架の霊的死を経ないのに、それによって自分が偉大な霊的存在になったかのように錯覚する危険性がある。

また、信者がこうした力に手を伸ばしてしまう背景には、「魂の力」を引き出し、自己を強めることによって、心の内側にある自信喪失や被害者意識や自己憐憫などと言った心の傷を隠したいという動機が隠れていることが多い。

家庭で受けた心の傷や、人生で味わった数々の自信喪失などのトラウマから抜け出したいと願うがゆえに、信者は手っ取り早く自らの心の傷を覆い隠して、自分自身の弱さから目を背け、自分を強めるために、こうした超常的なパワーを手に入れたいと願うことが多いのである。

『龍の正体』では、武術がキリスト教の信仰と両立できるかのように誤解したまま、少年時代から武術の訓練にのめり込んで行ったウィルソンというクリスチャンの男性が登場する。彼の告白を通して、私たちは、武術の起源とその本当の目的がどこにあるのかを理解することができる。

詳細は動画を見てもらえば分かるが、この映画が言わんとしているのは、武士道は決してキリスト教の信仰と両立するものではなく、その起源は悪魔的なものだということである。 また、この映画は、ここ数十年間の間にキリスト教界に積極的に入り込んだ東洋神秘主義の武術に対して警告を呼びかけている。

一見、武術は無害な自己啓発やスポーツや芸術の一部のようにみなされ、巷に広まっているが、その奥に潜むものは何なのか。その起源は、東洋神秘主義思想にあり、決して、キリスト教と両立するものではなく、その道を行けば、悪魔の虜とされてしまうだけである。以下では、要所をピックアップしながら、ペンテコステ運動やカルト被害者救済活動の危険性と会わせて解説して行きたい。
  
  


  
 
  



「今日、武術はスポーツや健康維持または芸術として見なされている。

しかし、武術とは昔からそうだっただろうか?
超人的な技術で観衆を驚かせる彼らは一体何者なのか?
彼らはどうやってこの能力を得たのか?

なぜこの10数年の間に東洋神秘主義思想がキリスト教会の
中に広がっているのか?

それはただ競技の技術に焦点を当てているのだろうか?
それとも千年の平和をもたらす道徳的指導者に準備させる
ためのものなのか?

この東洋神秘的武術は自己啓発のためのものか?
それとも背後に何者かが潜んでいるのか?」


 
さて、ウィルソン少年が武術に心惹かれるようになったきっかけは、物心つかないうちに、テレビで小柄な東洋人が不可能に近いような技を使う場面を見たことであった。
 



「初めて武術のことを知ったのは4歳か5歳のことだった。
 小柄な東洋人が不可能に近い技を使うのを見て驚いた。
 あの日から私の中に小さな種が植え付けられた。
 その種は静かに育って行った。


「テレビで小柄な老人が超自然的な武術を披露するのを見た。
 卵を地面に置いて、その上に片足で立ち、20秒ほど、そのままだった。
 その時の映像がずっと私の脳裏に焼きついた。

 すごい、奇跡だ、と思った。」

「あの日見たものを忘れることはなかった。
 あんな技を使えるようになりたいと夢見るようになった。
 だがその裏に潜む暗闇に気づかなかった。
 そして、その選択によって自分と周りの人々の人生が
 どんな影響を受けるかにも。

 
だが、少年が、東洋人の使う魔法のような武術に心惹かれたのは、ただ神業のような芸が脳裏に焼き付いたためだけではなかった。彼は家庭の問題に見舞われており、12歳の時に、両親が離婚、父親を失った少年は、自分は愛される価値のない子供として見捨てられ、人生が滅茶苦茶になったかのように感じた。

両親の離婚によって生じた心の傷、被害者意識や自己憐憫から抜け出し、失意や、男性として生きる上で必要不可欠な人生のモデルを失ってしまったという空虚感を埋め合わせようと、少年は、自分の力で強くなりたい、自分で自分を守るために強くならねばならない、と意識するようになる。おそらく、そこには、無意識のうちに、残されてすべての苦労を一人で負わされている母を守りたいという気持ちもあっただろう。

人生の嵐に立ち向かう力もない弱い子供でありながら、世間の様々な脅威から自分で自分を守って生きるしかない立場に立たされたことが、彼の中で、無意識のうちに、自己を強めることによって、何者にも脅かされることのない、神のような力強い者になろうとする東洋神秘主義の武術への共感に結びついて行ったのである。
  

 

 
12歳の時、両親は離婚した。人生が滅茶苦茶になった気がした。
親に対する怒りが込み上げてきて反抗するようになった。
傷つけるつもりではないと分かっていたが、
見捨てられ、拒絶され、守られる価値が無いのだと感じた。
この頃から、人生の目的、生きる意味、男としての価値を探し始めた。
そして母に武術の学校に行きたいと言うようになった。」


  
ウィルソン少年は母と共に、街で開かれていた沖縄流の空手道場を尋ねる。だが、ウィルソンの家庭は敬虔なクリスチャンの信仰を持っていたため、彼の母は、訪れた道場に違和感を持つ。キリスト教信仰によって育てられた少年自身も、武術の訓練の風景に心惹かれながらも、同時に、よく分からない違和感を持った。幸い、授業料は高く、母子家庭には負担が大きすぎたために、その道場に通うことはできなかった。
 

「帰り道は魂が抜かれたようだった感じだったことを覚えている。
夢がやっと叶うと思っていた。
しかし授業料は高く、
母と二人で町の中を歩いていると気まずい雰囲気だった。
お金のことというより、
道場自体の何かに違和感を感じている様子だった。
実は私も同じ気持ちだった。
勿論、この習い事をできたらとすごく興奮はしていたが、
何か異質なものを感じた。

キリスト教の家庭で育ち、
安息日にはいつも教会に通っていた私には、
何かがどこかで噛み合わなかった。

道場で見た力、猛威、武の芸術世界の数々を、
自分の中でどう整理したらよいか分からなくて
良い気持ちにはならなかったので、忘れることにした。

それに母にとってはそんなに簡単に無視できる問題ではないと
なんとなく分かっていたから
家に帰ったその夜、母には何も聞けなかった。
でも私には母の考えていることが分かっていた。」


この告白の中では言及されてはいないが、もしかしたら、ウィルソン少年の両親が離婚した原因には、父の暴力などがあったかも知れない。彼の母親が敬虔なクリスチャンであったことを考えると、母親が自ら離婚を望んだと思えず、それにも関わらず、そのような結末が避けられなかったのは、それほどやむを得ない深刻な事情があったためと思われるためである。もしかすると、母親は、道場で行使される「力」の中に、自分自身が受けた深刻な出来事の片鱗のようなものを見いだしたのかも知れない。
 
だが、少年と武術との接近はそれで終わらなかった。キリスト教の信仰と関係ない道場で武術を学ぶことはできないという彼の悩みを解決するかのように、友達からキリスト教的な武術学校があることを知らされたのである。
 

「ある時、親友の兄に食堂で会った。
彼は高校の3年か4年の先輩で、
私は高校に入ったばかりだった。
彼は近くの武術学校でカンフーを習っていると言った。
習い始めて一年か二年ということだった。
私は彼に質問をした。
「どれくらいのお金がかかるの?」
すると彼は「毎晩一ドルだ」
「本当?」「うん本当だよ。」
「どんな学校なの?」と彼に聞いた。
母の心配する顔がよぎった。
「教えている先生はクリスチャンで毎晩聖句を読んでから
訓練したり格闘に励むんだ」
「キリスト教の学校だし、毎回払うのはたったの一ドル。
契約もいらないよ」
私はそれを聞いてとても喜んだ。眠っていた夢と希望が
一斉に蘇ってきたから。
家に帰って母に話すと彼女も喜んでくれた。
次の週、友達と二人で学校を訪問してみた。」



武術学校に行ってみると、訓練生たちは白帯、緑帯、茶帯、黒帯という四つのステージに分けられており、学校始まって25年の歴史の中で、黒帯を取ったのはたった3人だけだった。

ウィルソン少年は、武術の力を身に着けることで、世界の状況をコントロールする力を身に着けたいと願う。彼は自分の人生が、様々な状況に一方的に振り回されているばかりで、自分で人生をコントロールできておらず、自分が本当に人生の主となって、状況をコントロールする力を手に入れねばならないと願う。その背景には、両親の離婚という、自分にはどうすることもできない出来事によって心傷つけられ、運命に翻弄されるだけの弱い自分から逃れたいという思いがあった。
 

「最初の日は男たちがお互いを蹴ったり、
色んな格闘するのをみて圧倒される気持ちだった。
これこそが真の力だと思った。
いや力というよりコントロールだと。
自分の人生はコントロールできていないように見えた。
状況や成り行きに身を任せるだけで、
何も抵抗できずにいた。
だからコントロールできる力が欲しかった。
問題を一人で対処したり自分にもっと自信をつけて
一旦これと決めたら諦めずに
やり遂げるという人間になりたかった。」



さて、これまで当ブログでは、グノーシス主義はヒエラルキーの教えだということを繰り返し述べて来たが、ウィルソンの通った武術の学校にもヒエラルキーがあった。グノーシス主義は、もともと神聖な叡智(グノーシス)は、限られた人数の選ばれた人々にしか知ることのできないものであるとして、真理の知識を少数の人々に限定する教えである。そこで、この教えは、霊性のヒエラルキーを定め、その階段を徐々に上に上って行くことにより、「より高い霊性が身に着く」かのように宣伝して、もっと優れた者になりたいと願う人間の欲望を刺激して、その教えの中に深く引き込んで行くのである。それゆえ、こうした思想に基づくすべての運動には、階層を上に上らない限り伝授されることのない秘儀のような儀式がある。




カンフーの学校では階層制度があり、
白帯は初心者なので緑帯の言うことを聞き、
緑帯は茶帯に脅えていて
茶帯は黒帯となるべく関わらないように避けていた。
いわゆるつつき順だ(強いものが弱いものをつつく)

私が入った頃に気になったことは
緑帯が一週間に一度、皆が帰った夜の十時ごろに、
特別な訓練を師父(先生)から受けていたことだった。
訓練する時ドアを閉め、誰もそこで何が起こっているか、
見ることも話すことも出来なかった。

裏では何をやっているのだろう?
私も訓練にあずかりたいと思った
それほど緑帯の技は優れていた。
あのドアの奥に入れば、特別な技が
手に入るのかと思うと、
早く緑帯になりたかった。


ウィルソンは緑帯になった時に「特別な授業」を受けることになるが、それに当たり、まず新人が受けるべき最初の秘儀を受ける。それは次のように、新人の腹を他の生徒たちが集まって思い切り素手で叩くというものであった。



「緑帯になった後
特別な授業を受けることにした。
最初に新人が入った時の儀式があり、
床の上で仰向けになり、他の生徒たちが、
新人のシャツを上げ、
授業を受ける一人一人が新人の腹を
思いっきり強く平手で叩いた。
だが儀式で誰もけがはしなかった。
ただ私の腹の痣は4、5日くらい
消えなかったのを覚えている。
強い刺激を受け腹の表面に
血が浮かんでくるからだ。
でも、その儀式を経たあと自分が認められた気がした。
まるで努力の結果の報酬であるかのように。」


当ブログでは、前回まで、三島由紀夫の割腹自殺、イスカリオテのユダの自殺時に腹が裂けたことなどを取り上げ、キリストの十字架に敵対して歩むグノーシス主義者にとって「腹」は特別な意味を持つ部位であることを見て来た。

ここで、再び、「腹」が、儀式の中で重要な部位として登場する。そこで、東洋神秘主義において「腹」とはどのような意味を持っているのかを調べてみると、これは古来からの中国思想において極めて重要な役割を担う体の部位だと見なされて来たことが分かる。中国思想においては、「気」こそ、自然界に存在するすべての物質の最も基本的な構成単位であり、エネルギーの根源であると考えられて来た。あらゆる現象や変化は、「気」が動き流動することによって現れ、「気」が無くなると、その物質や生命体は存在できなくなり、消滅するとされたのである。

そこで、「気」の作用によって、人間が自分の体の状態を強化し、人間存在と生命の意味を極める方法を編み出そうという試みがなされ、そのための修行法の一つである内丹術においては、ヘソの下あたりの「丹田(たんでん)」に「気」を集めて煉ることにより、霊薬の内丹を作り出すことができるとされて来た。

おそらく、腹を叩くという儀式は、「丹田」に「気」を集めることと密接な関連があるのだろう。今日でも、「丹田に気を集める」、「気を練る」、などの方法は、禅、神道、仏教、気功、ヨガなど東洋神秘主義の流れを汲むすべての流派で使われている。

ただし、西洋医学において「気」といったものの存在や、「丹田」という体の部位は確認されていない。これは科学的には何ら証明されていない純粋に東洋的な概念である。「気」や「内丹術」がグノーシス主義的世界観とどのような関わりを持つか、さらに詳しい内容については、追って述べることにしたいが、結論から言えば、西洋思想のものの考え方が、デカルトの有名な「われ思うゆえにわれあり」という言葉にも表れているように、「精神=頭」を中心として、あらゆる物事を知性よってわきまえようとするものであるとすれば、東洋思想は、知性や思考とは関係のなく、より情意的に、また本能的で動物的なエネルギーによって、物事をわきまえようとするものであり、その試みは「頭」ではなく「腹」を中心に始まっていると言えるかも知れない。

そういう意味で、「キリストの十字架に敵対してい歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)という聖書の御言葉の警告は、決して故なきことではなく、実際に、東洋思想世界では、「腹を神」とする教義体系のようなものさえ、長年かけて作り上げられて来たと言えるのである。

さて、ウィルソンは父親との関係が全くなくなっていたわけではないらしく、大学進学の際に父と共に住むことが決まった。その時にはウィルソンが成長していたためか、親子の確執はなくなっていたようだが、それも、ウィルソンがキリスト教の信仰から離れて武術にのめり込んだことと無関係ではなかったかも知れない。ウィルソンが母親の世界観から離れ、父親の世界観により近いものを持ったために、温和な関係が築けるようになった可能性も考えられる。

以下の告白からは、彼が武術にのめり込んで行くのと同時に、キリスト教の信仰から遠ざかって行った様子が分かる。力によって人や物事を制圧し、コントロールすることを学ぶに連れて、彼にとって、信仰は何ら現実的解決を与えない味気ない理想論のようにしか見えなくなって行ったのである。

「高校卒業する頃に
父が大学の学資を出すと言ってきた。
チャタヌーガの町から外れた所だが
遺書に住むなら大学資金を出してやろう」
引越しが決まった。
武術学校を去るのは残念だった。
他にも武術学校があるとは知らなかった。
我が校が一番の武術学校だ。
ここのように教える学校は他にない、と教えられていた。
それが果たして本当かを探る良い機会でもあった。

テネシー州のクリーブランドという町に引っ越してから、
武術学校を電話帳で探すことにした。
電話帳をあけると、町が大きいほど
武術学校や道場が多く、
ある広告では、師匠の名前と黒帯何段とか、
第五、第六の夜明けや
どれだけ経験があるかなど
どういった武術を教えているかが書かれていた。

ほとんどの広告は、自分を守ろう、自信を持とう、
自尊心を高めよう、などと書かれており、目を惹きつける。
何が皆に欠けているかを広告は知っている。

改心した後に気づいたことは、すべての欠けたところは、
イエス・キリストによって本当に満たされるということ。
神に対する絶対的信仰の中でのみ見つかるということだった。

しかし、当時の私はまだそれを悟っていなかった。
神と教会から離れたのは14歳の時だった。<略>

少しずつ、私は敵の計画によって、
一つの宗教から別の宗教へと変わっていった。
教会の中で見つからない答えを武術の中で見出そうとした。

あいにく、私の求める答えはそこにあった。
自信がついて自分の生活をコントロールできていた。
もういじめっ子も怖くなくなり、頑固一徹になっていった。
時々口のほうが先走って
自分が出来る以上のことを言ったりもした。
武術で鍛えた技によりプライドが
自分の中で大きくなっていた。



こうして、武術を身に着けたことにより、ウィルソンはいじめっ子にも勝てるようになり、学校生活でもあたかも自分が悩んでいた数々の問題に勝利をおさめる力を得たように思えた。彼はそうして力によって問題を制圧し、勝利をおさめ、人生のコントロール権を得たかのように錯覚する度に、自分が本当は少しも成長したわけでなく、生まれながらの自己中心なプライドが大きく膨らんでいるだけであることに気づかなった。

<続く>

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険②~

さて、「肉のものを霊のものに見せかける」ことにより、その「霊」の力を得れば「神のようになれる」と偽りを教えるのがグノーシス主義であり、ペンテコステ・カリスマ運動はグノーシス主義と合体して生まれた疑似キリスト教である。

だが、そのようにして生まれる疑似キリスト教はペンテコステ・カリスマ運動だけには限らない。そこで、これから、「聖霊の働き」であるかのように偽りながら、人間の堕落した「魂の力」に由来する超自然的な力を行使する疑似キリスト教に共通する特徴について見て行きたい。

この考察を始めるに当たり、改めて以前にも紹介したジェシー・ペン-ルイス著「魂の力」対「霊の力」"SOUL-FORCE" VERSUS "SPIRIT-FORCE"by Jessie Penn-Lewisを参考として挙げておきたい。

この論説にも詳しく説明されている通り、「魂の力」という言葉は、人間の堕落した肉に働く生まれながらのアダムの命を指している。「魂の命」という呼び名からも分かるように、それはとりわけ人間の堕落した魂の思念と深く関係している。

「魂の力」は、生まれながらのすべての人間に備わっている堕落して滅びゆく有限なる生命のことであり、人間の贖われない「肉」(=魂および肉体)を活かす、キリストによって贖われていない有限な動物的命である。この堕落した命は、罪と死の法則に支配されて神に敵対している人間の堕落した「肉」(魂と肉体)全体を動かす原動力となっている。

インドやアジアの異教の修行僧やシャーマンたちは昔から、人間の生まれらながらの堕落した命に本能的に備わっている力を引き出すことにより、魔術ように見える様々な超自然的な働きを駆使する術を学び、継承して来たが、それはもはやキリスト教とは無関係のインドやアジアの異教に限ったことではないのである。

ペンルイスが以上の論説の第一章で述べていることを以下に抜粋するが、これを読めば、東洋神秘主義に由来する「魂の力」が、どのように人間に危害を及ぼすために行使されるかが分かると同時に、そのようにして異教徒たちが「魂の力」を行使する様子は、今日、まるでキリスト教であるかのように自分を偽っているペンテコステ・カリスマ運動の指導者たちや、また、ペンテコステ運動の只中から出現して来たカルト被害者救済活動の支持者らが、インターネットを通じて、反対者らに対して行っている迫害・妨害・中傷行為に、恐ろしいほどにぴったり当てはまることに、どうして気づかないでいられるだろうか。
 

地獄の軍勢が全世界を欺くために出て行きました(黙示録一二章七~一二節)。その結果、政治の世界で大変動が起きています。私たちはこれらの出来事を考慮する必要があります。なぜなら、それらはキリストの教会に重大な影響を及ぼすからです」

「以前、私は北インドで一人の人に出会いました。その人はシムラの最上層の社交界である、インド政府の夏の議会に出入りする資格を持っていました。ある晩、彼は私に、彼がインドや他のアジアの国々のマハトマ(聖人)たちと接触をもっていることを話してくれました。彼が言うには、政治的な大事件が起きる数週間、数ヶ月前に、彼はそのことを知っている、とのことでした。彼は、『私は情報を得るのに、電報や新聞には頼りません。それらは過去の出来事を記録するだけですが、私たちは出来事が起こる前にすでにそのことを知っているのです』と言いました。どうして、ロンドンにいる人がインドの出来事を知ったり、インドにいる人がロンドンの出来事を知ることができるのでしょう?」。

私はこの現象を、マハトマの秘訣を知る人々が投影した『魂の力』によるものと理解しました。魂の力とは何でしょう?神の霊から教わっている信者は、神の御言葉の光によって、それが地獄の力であることを知っています。この地獄の力は、壊滅的変化を生じさせるために、世界の国々の上に投影されているのです」。

『魂の力』という言葉の魅力や魔力は、東洋でだけ知られています。東洋では、マハトマのような聖人はこの力を行使することができると信じられています。彼らは過去数世紀にわたってインドの霊的指導者でした。そして、昔と同じように今も、超自然的な力を持つと信じられています。彼らは人を強める力を持つだけでなく、人の意志をコントロールする力も持つと言われています」。

「ヒンズー教徒とイスラム教徒は、祈り――瞑想行為――によって結ばれて、共に『魂の力』を生み出す働きに従事しています。彼らは、東洋における西洋諸国の権力や威信を失墜させるために、『魂の力』を西洋諸国の上に投影しているのです。これは歴史上最大の反乱です!……」。

(筆者注:我が国の国家神道が自らを東洋思想に基づくものとみなして、西洋文明や西洋文化に対する優位性を誇り、西洋文明のもたらした個人主義を弊害とみなしてこれを取り除くために西洋文明に対抗することを強力な柱としていたことを思い出したい。こうした思想が持つ西洋文明に対する敵視は『国体の本義』の中に非常に詳しい。)


ペンバーの「地球の幼年期」の中に、これに光を当てる節があります。彼は次のように記しています。「『魂の力』を生み出すためには、肉体を魂の支配下に置かなければならない(筆者注:これは聖書に則って、魂(精神)が肉体を治めるという正常な支配関係を意味するのではなく、人が自らの思念によって、肉体の限界を超えて自分自身の影響力を行使する方法を学ぶという意味であると理解できる。)そうすることによって、自分の魂と霊を投影し、地上に生きていながら、あたかも肉体を持たない霊のように行動することができるようになる

この力を会得した人は『導師』と呼ばれており……意識的に他人の心の中を覗くことができる。彼は自分の『魂の力』によって、外界の諸霊に働きかけることができる。……彼は凶暴な野生の獣をおとなしくさせ、自分の魂を遠方に送ることができる」「彼は遠くにいる友人に、肉の体と同じ様で自分の霊の体を見せることができる」「長期間の訓練によってのみ、これらの能力を会得することができる。訓練の目的は、体を完全に服従させて、一切の喜び、痛み、地的情動に対して無感覚にならせることである」。

インド人の宗教生活は、まぎれもなく、これらの魂の力を発達させています。キリストの福音を知らない数十万の人々が、ある特定の対象に向けて強烈な「祈り」を放つ効果は、いかばかりでしょう。彼らはこの世の神に導かれて、自分の望む対象に魂の力を「投影」しているのです。

魂の力の無意識的な行使は、霊的な信者にいかなる影響を及ぼすのでしょうか?最近受け取った手紙の中にその実例があります。手紙の著者は次のように記しています。「私はたった今、敵の襲撃から逃れてきたところです。出血、心臓病、動悸、疲労。全身ボロボロの状態でした。私が祈っていた時のことです。(魂的な)『祈り』によって私の上に働く魂の力に対抗して祈るよう、突然示されました。キリストの血の力を信じる信仰によって、私はそれを自分から断ち切りました。結果は驚くべきものでした。たちまち呼吸は正常になり、出血は止まり、疲労は取れ、すべての痛みは去り、体にいのちが戻ってきました。それ以来、私は新たにされ、強められています。この解放の経験から、神は私に次のことをはっきりと教えて下さいました。すなわち、私の体がボロボロになったのは、私に反対しているある異端のグループが、私について祈った『祈り』のためだったのです。神は私を用いて、そのグループから二人の人を解放して下さいました。しかし、残りの人々は恐ろしい地獄の中にいます。……」。

このような他の事例を見ると、何らかの方法で自分を悪霊に対して開いて、超自然的経験をしている人々は、祈りを装って魂の力を生み出せるようです。これらの人々は、「他の人々も自分と同じ経験をするべきだ」という偏執狂的な霊を持っているようです。もし、人が自分と同じ経験をしようとしなかったり、他の人々の邪魔をするようなら、彼らは自分たちが「祈り」だと思っているものをその人に向けて、「あの人は神に裁かれるべきです」とか、「あの人は『真理』に服従するよう強制されなければなりません」と祈ります。

しかし、これらの人々は、主を受け入れようとしなかった町に対して、「主よ、私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか?」*と言った弟子たちにとてもよく似ています。主は弟子たちに答えて、「あなたがたは自分がいかなる霊なのか、わかっていません」と言われました。神は決して、自分を受け入れるよう、人に強制なさいません。たとえそれがその人自身の益であったとしてもです。聖霊なる神は、神の救いを受け入れるかどうかを選択する人の責任を認識しておられます。


以上の引用の最後の部分に書かれている記述は、とりわけ、今日のペンテコステ・カリスマ運動という異端運動の邪悪さを考える上で重要である。

ペンテコステ・カリスマ運動の指導者らが、祈りを装って、悪霊に由来する超自然的な魂の力を生み出し、それをクリスチャンに向けて行使し、クリスチャンを床に倒したり、意識を失わせたりできることは、すでに説明した通りである。おそらく、そのような行動は、彼らの持っている力のほんの一端でしかないことであろう。
   
「魂の力」を行使する人々が、「他の人々も自分と同じ経験をするべきだ」という偏執狂的な霊を持っている、というペンルイスの指摘は、まさにペンテコステ運動の支持者らに当てはまる。

この運動の指導者らは、まずは自分たちが持っている超自然的な力を見せつけることにより、他の信者らにも、「その力が欲しい」と思わせ、彼らが「聖霊のバプテスマ」と称しているその偽りの「霊」を、誰もが受けるべきとみなして、これを求めて祈るよう、各地で祈祷会や待望集会を開いている。いわば、これは彼らが自分たちを導いている悪霊を、他の人々にも受けさせるための最初のイニシエーションであると言えよう。

こうして正体不明の「霊」を受け、ペンテコステ運動の仲間入りを果たした人々は、最初は穏やかな顔で、敬虔かつ熱心なクリスチャンの伝道者を装いながら、自分の所属していない既存の教会に入り込み、勝手に自分たちの「教え」を宣べ始める。そして、誰にも理解できない異言や、超自然的なパワーを売り物のように誇示しながら、それに関心を示す人々を募り、そうした人々が得られると、彼らを既存の教会から引き抜いて自分たちのグループを形成し、いわば組織内組織を育てるようにして、既存の教会や教団の枠組みを食い破って成長して行こうとするのである。
 
そのような行為に及べば、様々な反対が起きてくるのは当然だが、ペンテコステ運動の支持者らは、自分たちの考えだけが正しく、他の人々はみな彼らと同じ考えを持つべきであって、それ以外の考え方は一切、認められないという偏執的な考え方を持ち、周囲のすべての人々を、自分たちと同じ考えに染め上げることを自らの使命であるとみなしているため、周囲の反対や批判に全く耳を貸さず、むしろ、他人の自由意志を侵害してでも、自分の考えを押しつけようとする。彼らの考えを理解しようとしない人々、彼らの活動に反対する者たちに対しては、残酷なまでに容赦のない批判を繰り広げ、呪詛と言って差し支えない言葉を述べて、その人たちを冒涜し、呪いを浴びせる。

このような人々は、必ずしも、暴力的な抑圧を伴わないかも知れないが、祈りを装った呪詛によって、自分たちの活動に賛成しない者たちの人生に現実の危害を及ぼそうとしているのである。当ブログに対してペンテコステ運動の支持者(カルト被害者救済活動の支持者と同じ)が行っている名指しの中傷などは、まさに呪詛に他ならず、このような呪詛は、ペンテコステ運動の支持者らが、自分たちの考えに従わない者に対して常日頃から行っている、信仰に見せかけた呪いの祈祷の一端を示していると言えよう。

さらに、こうした人々は自らの信念の「布教」のために暴力を用いることも当然ある。彼らは一方では、穏やかな「福音宣教者」を装うが、他方では、暴力を正当化しながら、自分たちの「信念」を他者に押しつける。ペンテコステ運動の中から生まれて来たカルト被害者救済活動にそれが最もよく表れており、この活動は、「カルト宗教から信者を救う」という名目で、カルトと名指しされている他の宗教から、信者を拉致監禁という強制的な方法で奪い取り、密室に監禁して、信者自身の自由と意志決定権を奪った上で、長時間に渡る説得工作を行い、その人の信仰を暴力的に打ち砕いて、誤りを認めさせ、棄教させて来た過去を持つ。

カルト被害者救済活動は、まさに『1984年』の主人公ウィンストン・スミスの最期を思わせるような暴力的なやり方で、自分たちの信念だけが唯一正しい教えであるとして、それを他の人々に強制的に押しつけて来たのである。

カルト被害者救済活動の支持者は、かつては聖書を使って他者の信仰を暴力的に打ち砕いて来たが、今や、筆者のような人間が、聖書を使って彼らの誤りを指摘し始めると、今度は、筆者から聖書を奪い取るべきだなどと主張している。このような主張を見ても、この異常かつ邪悪な運動が真実なキリスト教であるはずもなく、彼らが聖書を用いて他宗教の信者を説得して来たのは、うわべだけの偽装であり、この運動は本質的に聖書の信仰とは完全に無関係の、キリスト教に偽装した邪悪な異端である事実は明白である。

聖書の神は決してご自分に従わない人々を辱めたり、その意志を暴力的に打ち砕いてまで、ご自分の正しさを主張されることはない。人類の滅びは決定しているとはいえ、それが来るまでの間に、どれほど大勢の人々を信仰によって救えるかというところに神の御心がある。キリスト教は決して強制された暴力的な運動ではないのである。

しかし、ペンテコステ運動は、本来的にキリスト教とは無縁のグノーシス主義・東洋的神秘主義が、キリスト教に偽装して出来あがった異端の運動であるため、人間の自由意志をかえりみようとせず、これを暴力的に侵害してまで、自らの信念を他者に押しつけようとし、全世界を自分と同じ考えに染め上げることを目的に、反対者を抑圧し、呪詛や冒瀆の祈祷によって、邪悪な諸現象を引き起こすのである。

その時、彼らが反対者を呪い、冒涜し、傷つけ、抑圧するために用いるのが、堕落した「魂の力」に由来する邪悪なパワーである。神と人とが本来的に同一であるとする東洋的神秘主義は、、堕落した「魂の力」から超自然的なパワーを引き出すことにより、人間に通常の範囲を超えて行動する力を得させ、それによって、本当は神の霊に導かれておらず、霊的な人間となったわけでもない者に、あたかも高次の霊を受けて、霊的な存在として高められ、神に近づいたかのように錯覚させて、最終的には、「神のように」死を超越して、自分を永遠の存在にできると説く。

このような教えを受けた人は高慢になり、自分は正しいと頑なに思い込むようになり、他者の意志を暴力的に打ち砕いたり、自分に反対する他者の人生を呪い、抑圧することを何とも思わなくなる。

東洋的神秘主義が、そのように超自然的な力を開発することで、最終的に目指しているのは、死によって脅かされている人類が、自力で死を克服し、聖書の神による人類への滅びの判決を乗り越えることである。そのための方法論が、日本においては武士道という最も洗練された形で結実しているのであって、超常現象を誇るペンテコステ運動の宣教師たちが引き出して来たのは、東洋神秘主義に由来するこの邪悪な力なのである。
  
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」と言われているように、それはまさに「死の美学」である。だが、なぜ人類が自己の力で自分を強め、「魂の力」を霊の命であるかのように引き出して、自己を神のように高めようとすることが、死と一つに結びつくのか?

その問いは、東洋的神秘主義が、キリストの十字架の死の悪魔的模倣だという点に注目すれば、解くことができる。

東洋思想の根幹には「母を守る」(=人類を守る)という発想が流れていることは幾度も述べた。ここで東洋思想の主張する「母を守る」とは、人類を守るということと同義であるが、東洋的神秘主義とは、東洋思想の実践面であるから、武術は究極的には「死によって脅かされている人類が、自らの力によって死を飲み込み、死を超越することで、人類(=自分自身)を守ろうとする方法論」であると言えるだろう。

その目的は、神によって罪と死に定められた人類が、神の判決に逆らい、自分を哀れみ、惜しむがゆえに、自力で神に対抗し、自分自身を縛っている死の力を自分で滅ぼそうと、自ら死と一体化して、肉体の限界を乗り越えることで、神の判決を否定するという、悪魔的な力による自己防御の方法論なのである。

これまで見て来たように、東洋思想の基盤には、すべての生命が、脆く儚いものであることを惜しみ、哀れむがゆえに、生命を愛でる美的感覚と、慈悲の念がある。だが、その美学や、慈悲の念は、裏を返せば、すべては「母を守る」という使命に直結しており、要するに、死によって脅かされ、滅びゆく存在である人類が、自分で自分を惜しみ、自分に同情し、自分の滅びを決して認めまいとするがゆえに、自分を愛でるという、自己憐憫と被害者意識につながって行く。

つまり、東洋思想は、人類の「私は死によって不当に脅かされている」という自己憐憫と被害者意識が生んだ思想なのであり、その思想に基づき、人類が被害者意識のゆえに神の判決を否定して、自力で死を滅ぼそうとして生まれた方法論が、武術なのである。

それゆえ、こうした方法論の前半では、人は自分を守るために、肉体を鍛えることによって、自分の弱さを自力で克服することを目指す。だが、後半になると、この方法論は、人が自分の肉体そのものを制圧して、肉体に自然に生まれるあらゆる感覚を自力で滅却して、ついには肉体から解かれることにより、肉体の制約から自分を解放するという「自死のプロセスと選択」を取らざるを得ないのである。

武士道は、インドやアジアで異教の導師たちによって開発され、受け継がれて来た「魂の力」が、最も洗練された方法論として集約されたものであり、その根底には、人類を楽園から追放し、滅びに定めた聖書の神に対する怨念と憎しみが込められ、何とかして人類が自力で神の判決を退けたいとする願望が隠されている。
 
このように、東洋的神秘主義は、人が自力で弱さを克服し、最終的には死を克服することによって、神を否定的に乗り越えるための方法論なのである。だが、死を克服することは、現実にはどんなことをしても、人間には不可能であるため、グノーシス主義のような神秘主義の思想が、死を通して人が自分の肉体の制約から解かれることができるかのように見せかけているのは、もちろん、トリックであり、偽りでしかない。

だが、彼らは、死に至るまでのプロセスの中で、実際に、「魂の力」を引き出すことで、自分が肉体に縛られない霊的存在になったかのように振る舞う術を会得したり、あるいは、肉体を通して、通常の人間には及ばないような超自然的な力を行使する方法を会得するため、そのようなうわべだけに注目すれば、彼らはそうした自己を強める魔術のような力によって、いずれ死をも超越できると錯覚する者もあるかも知れない。
 
クリスチャンは、人類の中で死を克服された方はただ一人であり、しかも、その方が東洋的神秘主義とは真逆の方法で死を克服されたことを知っている。

キリストこそ、十字架の死を通して、すでに「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさ」った(ヘブライ2:15)唯一の方であるから、我々はこれを退けて、自力で死を克服しようともがく必要はない。

しかも、キリストは東洋的神秘主義のような方法で、死を超越されたのではなかった。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ2:6-9)

創世記でサタンは人類に、人が自分の創造されたありようを捨てて、神のもうけた制約を自ら取り払い、自力で神のようになって、神を乗り越えるべきだと嘘を吹き込み、今日も、人が自分で自分を強め、高めることで、神に至り着けると偽りを教える。
 
しかし、キリストは、それとは逆に、むしろ、神のありようを捨てて人となられ、人間としての弱さ、限界のすべてを身に負われ、罪は犯されなかったが、罪ある人類の代表として、人類が身に受けるべき残酷な刑罰としての十字架の死を最後まで耐え忍ばれたのである。
 
彼は自己を強めることで、死を克服したのではなく、「弱さのゆえに十字架につけられ」(Ⅱコリント13:4)のであり、神の超自然的な力を駆使することで、痛みや苦しみを超越することで十字架の死を乗り超えたり、そこから逃れようとすることなく、人としての弱さや痛み苦しみのすべてを余すところなく負われ、ただ信仰だけによって、人類の力ではなく、神の力によって、人類のためによみがえりとなられたのである。

「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。

確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ2:14-18)

「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きているのです。」(Ⅱコリント13:4)

イザヤ書第53章には、キリストが人となられて負われた苦しみがいかなるものであったかが克明に記されている。

彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。」(2-4)

主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。」(6-8)

「 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。」(9-10)

「しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 」(4-5)

彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。

それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。」(10-12)

キリストは、人となられたにも関わらず、人の弱さに同情するがゆえに神の判決を不服とされることなく、神がご覧になられるように、人類の姿を見られ、神が人類に下された死の判決に全く抵抗されず、これを自分自身のものとして受け入れ、身に負われた。

キリストには、人類の滅びゆく美を愛でて、それが滅ぼされることを惜しみ、神の判決に反対するがゆえに、ご自分の美に執着されるということが全くなかった。彼は弱く脆い存在である人間の痛み苦しみを十分に分かっておられ、死に脅かされる人類の悲しみをも十分に知っておられ、死を憎んでおられたため、人間に対する深い同情ゆえに、病を癒すことだけでなく、死者を復活させることもしばしばなさったが、それでも、ご自分は、神の超自然的な力を思い通りに駆使することで、十字架の死に反抗してそこから逃れようとすることはなく、むしろ、すべての理不尽を一身に背負われ、何の罪もなかったにも関わらず、罪ある人間と同様に、神の判決の前に従順に頭を垂れて、十字架の死に従順に従われたのである。それは、ご自分の苦しみによって贖いが全うされることを知っておられたためである。

キリストが死に至るまで、ご自分の魂の命を注ぎだされ、魂の命を十字架の死に渡されたことは、人が自己の魂の命を開発・強化することで、死の克服を目指すという東洋的神秘主義の方法とはまさに正反対である。そして、人が死を克服するためには、ただ一つこの方法しかないのである。弱さのゆえに十字架につけられたキリストだけが、ご自分の死によって、死を滅ぼされたのであり、信者には、そうして十字架で死なれたキリストと霊的に一つになることによってしか、死を超えて、彼のよみがえりにあずかる方法はない。

そうして信者がキリストの死と復活に同形化されるためには、信者自身もまたキリストがなされたように、神の御手の下に自分を低くして、人生で己の美が傷つけられたり、自分が脅かされることがあっても、自力で自分を強めてあらゆる困難を克服して死に立ち向かおうとするもがきをやめて、自分の弱さの中に、信仰によって神の力が働くのを待つしかないのである。

しかし、東洋的神秘主義はこれをさかさまにして、人が決して弱さのゆえに十字架の死を介することなく、人がむしろ自己を強め、罪に対する刑罰としての十字架の死を回避しながら、自ら死を飲み込み、滅ぼせるかのようにみなす。こうして、この思想が、人が自ら死と一体化することにより、死を克服・超越しようとするその方法論は、ある意味で、これはキリストの御業の悪質な模倣であると言えよう。

だが、その方法論は悪魔的なものであり、聖書とは真逆の方法であるゆえに、決して目的に達することがない。これは欺きの教えであり、このような方法を通して、人類が自力で死に立ち向かい、死を克服しようとすることは、キリストの十字架に悪質に敵対し、キリストの十字架とは決して両立することのない悪魔的な試みであるから、結果として、必ず滅びで終わることになる。それだからこそ、武術の根底には、自分を脅かすすべてのもの(=とりわけ、聖書の神に対する)憤り、憎しみ、暴力、怨念、嫉妬、復讐心が満ちているのであり、そこには、自らの力で永遠にたどり着きたいと願いながらも、それを達成できない悪魔の神い対する憤りと怨念が投影されているのである。

人類が死を克服するための方法は、弱さのゆえに十字架につけられたキリストの中にしかなく、それ以外のすべての方法は偽りである。武術(武士道)は人が強さのゆえに十字架の死の判決を回避して、自分の罪を正当化して、自力で神の永遠に至ろうとする東洋的神秘主義の生み出す偽りの十字架としてであるから、それは滅び以外のものを決して人類にもたらさない悪魔的な試みなのである。まずはそのことを理解した上で、次の章に入りたい。

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険➀~

さて、これまでの記事で、グノーシス主義の本質は「肉のものを霊のものに見せかける」という偽装にあり、人類が堕落した天然の「肉の力」によって自力で神に到達しようと試みであると見て来た。

そこで、今回からは、しばらくの間、御霊によって歩む上で、信者が「肉のもの」と「霊のもの」を見分けることがどんなに重要であるかについて考えるため、キリスト教に入り込んだグノーシス主義が、どのような形で「肉のものを霊のものに見せかけようとする」か、その手法について詳しく見て行きたい。

先に説明したように、グノーシス主義思想は、聖書の「二分性」に強い拒否反応を示す。そして、切り離されたものの統合、対極にあるものの融合を訴えるが、そのような考えは、彼らが神と人との区別を認めないことから始まっている。

人類が神によって被造物として創造され、さらに罪の堕落によって神と分離したことを、この思想は認めない。そして、依然として、人類が創造される前の状態、堕落によって神との交わりを失う前の状態に、自力で回帰することを目指し、あたかもそれが可能であるかのように教える。

そのようにして、物質世界の被造物を霊なる神と同一であるとみなしている意味で、グノーシス主義は、神が霊であることを認めず、霊的世界があることをも認めず、仮に「霊」という言葉を使ったとしても、実際には、すべてを目に見える物質世界に置き換え、物質世界の被造物を神とする被造物崇拝の教えであり、それゆえ、あらゆる唯物論の起源であると言える。

唯物論も、汎神論や、東洋思想のように、「目に見える全宇宙と神とは一体である」とみなす思想も、基本的に、すべてグノーシス主義に含まれる。

要するに、グノーシス主義とは、神と人とが本質的に同一であって、人間がキリストの十字架の死を経ることなく、この物質世界にあるもの(人の生まれながらの天然の自己を含む)を通して、神に到達することができるという神秘主義の思想全体を指すのである。そこで、神という概念を用いておらずとも、物質世界にあるものがすべてであるとする唯物論は大きく見ればグノーシス主義の変種の一つである。また、グノーシス主義それ自体の神話のプロットにも見られるように、神は霊であると言って、至高神という存在があると主張していても、それを「虚無の深淵」と同一視し、事実上、神の概念を骨抜きにしているのでは、結局、被造物を神としているのと同じである。そのような意味で、仏教のように、すべては「空=無」であるとみなす思想も、事実上、グノーシス主義と同じ虚無の深淵を神としているのである。

グノーシス主義の特徴は、「あらゆる分離(区別、二分性)」を否定することにあるため、まず、この思想は神と人との分離を否定することから始まり、清いものと汚れたものの区別、霊なるものと肉のものの区別、男と女の区別を否定するなど、文字通りあらゆる区別を否定する。そして、本来的に相容れず、統合することができるはずもないものの統合を唱える。

ペンテコステ・カリスマ運動の指導者である手束正昭氏は、聖書の父性原理の二分性が人を精神病理に陥れる脅威になっていると主張して、キリスト教に「母性原理」を補う必要があると主張したが、そのような主張も、よく見れば、鈴木大拙のような東洋思想家の主張とまさに瓜二つである。

グノーシス主義と東洋思想は本来的に同じものであるが、そこでは、あらゆる対称性を超えた永遠の輪という概念を作り出すことによって、全世界のすべての造られたものが、終局的にはこの「輪」と同一であると結論づける。その「輪」(和)とは、虚無の深淵であり、死である。

だが、表向きは、この「輪」は、ウロボロスの輪に見るように、対極にあるものの統合の象徴ということになっているので、それは単なる虚無や、死だけを表す単純な概念ではないとされ、むしろ、破壊や死でありながら、創造の始まりであるということにされている。要するに、この「輪」の中に、生成と消滅、聖と俗、神と人類、精神と肉体、男と女などのすべてが含まれているというわけである。

しかしながら、このように、あらゆる区別を廃して対極にあるすべての概念を「統合」するというのは、人間が勝手に作り出した錬金術のような無理筋の詐術に過ぎず、事実、そのようなことは不可能事である。それゆえ、グノーシス主義の用いる「輪」は、実際意には、存在しないフィクションの概念であり、そこから始まり、グノーシス主義の「言語」は、すべてがこの「輪」と同様に、二重の概念を帯びたダブルスピークで出来上がっており、それゆえ、偽善的で、自己矛盾しており、不誠実で、虚偽だと言える。

たとえば、すでに見たように、般若心経も「不生不滅」「不垢不浄」(生成も消滅もなく、清さも汚れもない)など、対極にある概念をひとつにまとめ、その後、「無色無受想行識     無限耳鼻舌身意    無色声香味触法      無限界乃至無意識界    無無明     亦無無明尽      乃至無老死      亦無老死尽   無苦集滅道     無知亦無得」などと、延々とダブルスピークを続ける。 要するに、何もかも正反対のものが究極的には「無=空=輪」に集約されるわけであるから、対極にある概念を区別すること自体が必要なく、そのような区別はもとより存在しないも同然であり、意味をなさないというのである。      

ダブルスピークと言えば、思い出されるのは、「戦争は平和である、自由は隷属である、無知は力である」という、ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いたディストピアの世界で人々の洗脳のために使われるスローガンであろう。オーウェルの作品は、ただ単にフィクションの域を超えて、ソビエト体制その他の実際に存在した全体主義体制の特徴を明白に描き出しており、今日も、全体主義を非難する際に手本のように引き合いに出されることが多い。

いわば、このような現実にも存在した全体主義ディストピアを生み出す原型となる思想が、グノーシス主義なのであり、この思想の中には、人を欺くための詐術が満ちていると言えよう。今、改めて『1984年』のあらすじを開いて読んでみると、そこにグノーシス主義が作り出す世界観が広がっており、それが慄然とするほどまでに、現代の我が国の政治状況、および、キリスト教界におけるペンテコステ・カリスマ運動に酷似していることを思わないでいられない。
 

 Wikipediaからのジョージ・オーウェルの『1984年』のあらすじの抜粋

1950年代に発生した核戦争を経て、1984年現在、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国によって分割統治されている。さらに、間にある紛争地域をめぐって絶えず戦争が繰り返されている。作品の舞台となるオセアニアでは、思想・言語・結婚などあらゆる市民生活に統制が加えられ、物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョン、さらには町なかに仕掛けられたマイクによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。

オセアニアに内属しているロンドンに住む主人公ウィンストン・スミスは、真理省の役人として日々歴史記録の改竄作業を行っていた。物心ついたころに見た旧体制やオセアニア成立当時の記憶は、記録が絶えず改竄されるため、存在したかどうかすら定かではない。スミスは、古道具屋で買ったノートに自分の考えを書いて整理するという、禁止された行為に手を染める。ある日の仕事中、抹殺されたはずの3人の人物が載った過去の新聞記事を偶然に見つけたことで、体制への疑いは確信へと変わる。「憎悪週間」の時間に遭遇した同僚の若い女性、ジューリアから手紙による告白を受け、出会いを重ねて愛し合うようになる。また、古い物の残るチャリントンという老人の店を見つけ、隠れ家としてジューリアと共に過ごした。さらに、ウインストンが話をしたがっていた党内局の高級官僚の1人、オブライエンと出会い、現体制に疑問を持っていることを告白した。エマニュエル・ゴールドスタインが書いたとされる禁書をオブライエンより渡されて読み、体制の裏側を知るようになる。

ころが、こうした行為が思わぬ人物の密告から明るみに出て、ジューリアと一緒にウィンストンは思想警察に捕らえられ、愛情省で尋問と拷問を受けることになる。彼は、「愛情省」の101号室で自分の信念を徹底的に打ち砕かれ、党の思想を受け入れ、処刑(銃殺)される日を想いながら“心から”党を愛すようになるのであった。

本編の後に『ニュースピークの諸原理』と題された作者不詳の解説文が附されており、これが標準的英語の過去形で記されていることが、スミスの時代より遠い未来においてこの支配体制が破られることを暗示している。<略>
 




党には中枢の党内局(2009年新訳では党中枢) (inner party) と一般党員の党外局(2009年新訳では党外郭) (outer party) がある。党内局員は黒いオーバーオール(かつての労働者階級の作業着だったとされる)を着用し、貴族制的な支配階級(上層階級)で、世襲でなく能力によって選ばれ、テレスクリーンを消すことができる特権すらある。

党外局員は青いオーバーオールを着る中間層(中層階級)で、党や政府の実務の大半をこなす官僚たちである。党の主要な監視対象は、上層階級に対して立ち上がる可能性のある中層階級である党外局員であり、党内局員も党外局員も反抗の意思を少しでも見せたら密告などに遭い、思想警察(思考警察)に連行され「蒸発」してゆく。「蒸発」した人間は存在の痕跡を全て削除され(例外あり)、その者は初めからこの世に存在していなかった(ニュースピークで言う「非存在」)として扱われる。

党に関わりを持たない人々はプロレ(2009年新訳ではプロール、the proles、プロレタリアの略)と呼ばれ、人口の大半を占める被支配階級(下層階級)の労働者たちであるが、娯楽(酒、ギャンブル、スポーツ、セックス、またその他「プロレフィード(Prolefeed、直訳すると「プロレの餌」)」と呼ばれる、党の制作した人畜無害な小説や映画、音楽、ポルノなど)が提供されている。彼らに対する政治教育は行われておらず、識字率も半分以下である。多くはテレスクリーンさえ持っておらずそれゆえ監視もされていないが、党はプロレ階層を社会を転覆させる能力のある脅威であるとは全く見ておらず、動物を放し飼いにするように接している。彼らは10代から働き、早くに子供を作って60歳までには死んでしまう。重労働が彼らを蝕み、彼らの住む貧民地区にはおびただしい犯罪が横行している。

党外局員およびプロレの生活水準はきわめて低いが、テレスクリーンによる宣伝によれば日用品などの生産は毎年驚くほど伸び続けており、1950年代の革命以前の社会は言語を絶するほどの貧しさだったという。もっとも過去の統計や過去に発表された目標数値は改竄され続けており、今より昔のほうが生活が豊かだったことを証明することは不可能である。

人間の性本能や愛情は抑圧されている。党は神経学的に性本能を抹殺し、性行為から快楽を除去しようと試みており、党や「ビッグ・ブラザー」以外への愛情は必要としない。プロレの性に関しては放置されているが、党員の場合、結婚は党への奉仕のために子供を生むための「儀礼」であり、男女間に肉欲がある場合は結婚を許可されない。若者の間には「青年反セックス連盟」というものがあり、完全な独身主義を提唱し性を汚すキャンペーンを行っている。


     
 
戦前回帰を唱える日本会議勢力によって占められた今日の我が国では、まさに「オセアニア化」が進んでいる。与党が国会の議席の大半を占めたことで、一党独裁化が極端に進み、ビッグ・ブラザーはまだ一応は生きた人間の形を取って国民の前に姿を現してはいるとはいえ、自分が事実上の神であるかのように高慢に振る舞い、ビッグ・ブラザーに逆らった人々は、「蒸発」とまではいかないものの、たとえ高級官僚であっても、捏造されたスキャンダルで職を追われ、社会的に抹殺されつつある。

これらの政権に逆らった人々に対しては、ネットやTVや新聞雑誌という「テレスクリーン」を通して、さまざまなネガティブ・キャンペーンが張られ、国民の憎悪が煽られている。

さらに、賃上げがあったとか、景気は上向いているとかいった虚構の成功談が盛んに宣伝されているが、その恩恵を受けているのは社会のごくわずかな最上層部だけであり、一般大衆労働者の中で、誰一人そのようなことを実感できる者はおらず、この噂話の真偽のほどは全く定かではない。折しも、高級官僚は日々、公文書の改ざんに手を染めていたことが発覚し、それが発覚しても何の悪びれることもなく、まだ自殺するほどの良心が残っていた者がわずかにいたことだけでも奇跡のようである。

国民の大半を占める労働者は精神をむしばむ有害な娯楽をあてがわれ、重労働と貧困によって疲弊させられ、人としての尊厳を奪われたまま、家畜のように搾取され、死へと追いやられている。ピラミッドの最下層に位置する一般大衆労働者への締めつけは年々強化されており、社会保障費は削減され続け、社会的弱者はネットで吊し上られ、今、機能停止している国会では、ちょうど与党だけの独断で「働き方改革」法案が強引に審議入りしたところである。この法案によって、我が国の一般大衆労働者にはより一層、総動員体制が押しつけられ、アウシュヴィッツ行きの列車の発車時間が早まろうとしている。

ビッグ・ブラザーに忠誠を誓う高級官僚や報道関係者の性的不祥事は大目に見られ、セクハラや暴行事件を起こしても処罰もされずに見逃される一方で、庶民のうちである芸能人等は、若さの絶頂を過ぎてもまだ結婚できずに独身のまま過ごすことを余儀なくされた上、彼らの自由恋愛は厳しい統制の対象となる。ちょうど最近でも、独身の芸能人が意中の少女に恋心ゆえにわずかに接近を試みたところ、その肉欲が厳格な処罰に値する悪しき暴力事件であるとして公に懺悔を迫られていることろである。

さらに、漢字も読めない大臣や議員が国政を動かし、ツイッターやフェイスブックや匿名掲示板やブログのコメント欄といった極めて短い文章しか書けないツールが登場したことにより、極端に言語を省略した「ニュースピーク」への国民の言語の切り替えが進行中である。

何よりも、「戦争は平和である、自由は隷属である、無知は力である」のスローガンの通り、国家の安全のためと称して戦争法が推し進められ、自衛隊は海外の戦闘地域へ派遣され、武器が輸出され、共謀罪が制定されて、人々の自由や人権を脅かし、教育現場でも、国家の経済政策に役立つ人間の育成ばかりが重視されて、カネ儲けと直接関わりのない人文科学は隅に追いやられ、知性の破壊が進んでいる。
 
他にも、続ければきりがないほどの類似点が挙げられるであろう。何しろ、日本会議もその源流はグノーシス主義であるから、それが政権を握れば、我が国がディストピアと化すのは当然である。

しかし、当ブログにおいて、主眼となるテーマは、キリスト教界に入り込むグノーシス主義的異端であるから、今はペンテコステ・カリスマ運動に話を移したい。

今日、まるでキリスト教の一派であるかのように、大きな顔をしてこの宗教の中に座を占めているペンテコステ・カリスマ運動は、実は純粋なキリスト教ではなく、東洋思想と合体して出来た異端であることをこれまで見て来た。

グノーシス主義は、「肉的なもの」を「霊的なもの」であるかのように見せかけて、人を騙す詐欺の教えであり、ペンテコステ・カリスマ運動にはこの騙しのテクニックがちりばめられている。片方では、彼らは自分たちが「聖霊のバプテスマ」と呼んでいる偽りの霊を受ければ、信者は神のように高められ、超常的なパワーを発揮し、人間には理解できない言語で話ができるようになるとして、霊的な事柄を追求するクリスチャンの心をひきつけながら欺いている。

他方では、そうした肉的な教えに耳を貸さなかったり、それに関わってひどい目に遭わされて疑問を感じるようになった信者には、私営の秘密警察・思想警察と化した「カルト被害者救済活動」をけしかけて言論統制を行う。この運動は、文字通りすべての教会と信者を監視の対象として7自らの監督下に置こうとしており、その指示に服さない信徒には、盛んにネガティブ・キャンペーンを張って中傷して教会から追い出し、暴力的脅迫により沈黙に追いやっている。

インターネットは、カルト被害者救済活動の支持者らが信者を支配するための双方通行の「テレスクリーン」として用いられている。彼らはこの「鏡」を通して、要注意とみなした信者らを監視し、彼らの思惑に従わない信者らをディスカウント・中傷し、脅し、傷つけて、黙らせようとしている。それによって、彼らの 「ビッグ・ブラザーがあなたを見守っている」(BIG BROTHER IS WATCHING YOU) という標語を実現しようとしているのである。

ここにおける「ビッグ・ブラザー」とは、人格というより、虚無の深淵としての「鏡」そのものであろう。そのような「鏡」の一つがインターネットであり、スマホや携帯電話などのツールであり、それらが人々の思想を監視するための双方通行の「テレスクリーン」の役目を果たしているのであり、神のようになりたいと願う者が、どこにでも偏在して「すべてを見通す目」を持つための手段として用いられているのである。

さて、これまでの記事では、ペンテコステ・カリスマ運動が、キリスト教と東洋思想の合体であることを、主として思想面から分析して来た。ペンテコステ・カリスマ運動が、キリスト教の父性原理に母性原理(ここで言う母とは被造物のこと)をつけ加えよと主張していることなどは、まさにこの運動の東洋思想とのほぼ完全な一致をよく表しているが、これから先、記事では、思想面のみならず、現象面を通しても、この運動の起源が東洋的神秘主義にあることを見て行きたい。
 
実は、ペンテコステ・カリスマ運動は、現象面においても、東洋的神秘主義に起源があることが明白なのである。ペンテコステ運動のミニストリーが、いかに超常現象を強調するものであるかは、今更、説明せずとも、多くの人々の知るところである。この運動は必ずと言って良いほど、彼らが「聖霊」と呼んでいる偽りの霊が引き起こす「しるし・不思議・奇跡」などの超常現象を強調する。
 
彼らの見せる奇跡の多くは偽物であるが、中には、本物の超常現象もある。筆者はかつてアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団にいた時代に、この教団の教会がしきりにペンテコステ運動の名だたる「宣教師」たちのセミナーや大会を推奨していたこともあって、そうした偽りの宣教師たちが海外から来日して開いた大会などを見聞きしたことがある。

ある大会で、次のような光景が繰り広げられた。詳細は覚えていないが、南米の国々などからやって来たと思われる白人の宣教師の一人が、講演中に、会衆に向かってステージに上がるよう指示した。ペンテコステ運動の集会では実によくある光景である。人々は何が起きるかと期待しながら、ぞろぞろステージに上がって行った。筆者と同伴者らもステージに上がった。そこで、偽りの宣教師が、ステージで何かを命じた(その言葉は、外国語だったせいか、それとも、異言だったためなのか、当時の筆者には意味が理解できなかった。)会衆の多くは、宣教師が命じれば、自分たちは床に倒れることになると初めから期待していたものと思われ、実際にそうなったのである。

むろん、スーツを決め込んだ白人の宣教師は、マイクの前に立っているだけで、誰にも指一本触れていない。ただ言葉で何かを命じ、わずかに手振りをしただけである。それだけで、ステージのかなり端の方にいた会衆たちにも、何かの衝撃波が到達したらしく、人々はよろめき、中には倒れる者もあった。

だが、筆者はそういう話を色んな場所で聞いて、眉唾ものだと思い、疑っていた。会衆が倒されることばかりに期待を寄せているから、倒れたいという自分の願望によって自ら倒れているだけなのではないかと疑っていたのだ。そこで、筆者は、半信半疑で、目をかっきと開いたまま、冷静に会衆の様子を見ていたが、宣教師はステージの上を歩き回り、まだ床に倒されていないで立ったままでいる人々に、手をかざすなどしてさらに倒し始めた。その時、宣教師のそば近くにたまたまいた筆者の同行者の一人が、宣教師の手の一振りで、吹き飛ばされるようにして完全に床に引き倒されてしまった。

今や大勢の会衆が当たり前のように床に転がるように倒れていたが、人々は催眠状態か恍惚状態にあるようで、そこには何か異常なことが起きたという危機感が全くなかった。倒された人々がパニックになることもなく、けいれんしていた人を世話する係まで用意されており、そうした出来事はすべてまるでありふれた日常的な風景に過ぎないかのような雰囲気があった。
 
だが、筆者は、自分の周りの人々に起きた異常を忘れなかった。引き倒された筆者の知人は、床に頭を打ち付けることもなく、また、倒れた衝撃で何らの不愉快な感覚を味わった様子もなく、瞬間的に気を失って、何か心地よい恍惚状態の中で、眠るように目をつぶっていた。おそらくその大会で自分が倒された事実さえ今となっては全く覚えていないほどであろうと思う。明らかに、その偽りの宣教師が、身振りと手振りだけで知人を地面に引き倒したことは明らかだったが、その倒れ方は、まるで風にあおられて自然に床に落ちた木の葉や、ティッシュペーパーか何かのように、音もなく滑るように瞬間的に仰向けに引き倒されたのであり、よく電車などで見かけるように、気分が悪くなった人が自主的に床に倒れ込む様子とは全く違っていた。数分程度、倒れたまま、目をつぶり、気を失っていたが、呻いたり、苦しんだりしている様子もなく、完全に無意識の状態に置かれていたのである。その後、意識を取り戻して起き上がっても、困った様子もなく、異変を感じている様子もなく、普通に行動し始めた。

その衝撃波は、筆者には何一つ影響を及ぼさなかったが、筆者はその時、目撃した異常を忘れなかった。その出来事を通して、偽りの宣教師たちが強調している「超常現象」が、必ずしも捏造された奇跡や、サクラの演出などによるヤラセばかりではなく(そういうものも多いかも知れないが)、実際に偽りの宣教師たちの中には、明らかに何かの人間離れした超自然的な力を行使できる者がいることを知ったのである。

今から考えると、その力は、仏教やヒンドゥー教の僧侶やシャーマンたちが、修行を通して得られる、魂の力を開発した超常的な能力だったに違いないものと思われる。当時、来日していたペンテコステ運動の「霊の指導者」たちは、ほとんどが白人であったが、彼らは東洋的神秘主義に由来する力を身に着けていたのである。

東洋思想とは、神と人とが本来的に一つであるという神秘主義思想であるが、ただ単に頭の中だけで考え出され、頭脳を通して理解される思想とは異なり、人間が修行を通して自己を鍛え、実際に神と合一したと言えるような神秘体験をし、何かの超自然的な力を行使できるようになるための「秘儀」を含んでいる。そして、それはインドやその他の地域で絶えず開発・利用されて来た能力であるとはいえ、日本にも伝来し、我が国では武士道という最も完成された形を取って現れたのである。

私たちは、三島由紀夫が武士道を通して自分を鍛えようとしていた事実や、有名な武士道の書『葉隠』の中に、「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」という一節があることなどを知っている。

武士道とは、いわば、「虚無の深淵」を神とし、すべての目に見えるものが本質的にこの「虚無の深淵」と一体であるとみなす東洋的思想の神秘主義の完成として作り出された「死の美学」である。武士道の極意は、いかに人間が常日頃から死と一体化し、死を美学として完成させるために生きるかを示す方法論のようなものである。彼らは、生きているうちから死と一体化することにより、死によって脅かされている儚く脆い生命の「美」を極めようとするのである。

だが、武士道を「美学」とみなすことは、この誤った思想のほんの表面的だけを見る偽りである。武士道とは、ただ単に水面に浮かぶうかたかや、散って行く桜を眺めては、その無常に思いを馳せ、情緒的感慨に浸ってため息をつくという種類のものではなく、残酷な力の行使である。儚く脆い命を愛で、自分も儚い命として自分を守り、自己完成を目指すという美しい響きとは裏腹に、その本質は、憎しみと怨念のパワー、堕落した魂の力に由来する暴力の行使なのである。

そのような東洋的神秘主義に由来する力が、キリスト教界に入り込んでいること、まさにその魂の力こそが、ペンテコステ・カリスマ運動の本質であることを、次回以降の記事で、実際に、様々な動画などを例に取り、詳しく見て行きたい。

御霊に導かれて生きる~イエスを公に証しない霊はすべて神から出ていない反キリストの霊である~

「「人は皆、草のようで、
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、
 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。
 これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」(Ⅰペテロ1:24-25)

草は枯れ、花は散る。

以上の御言葉の前半部分は、まさに東洋的世界観にも通じるこの世の物質世界の無常をよく表している。しかし、聖書の御言葉は無常観を表すものでは全くないから、それに続く御言葉は、前半とは全く異なる永遠の世界があることをはっきりと告げる。

「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」

この最後の部分を認めるか認めないかによって、人の世界観、人の運命は真逆のものとなる。

さて、悪魔の歪んだディスカウントの鏡に映っている人間の像は、いつも嘘だらけで、信じるに値しない。当ブログについてディスカウントを続けている「鏡」があるが、その人々と彼らの言い分をこれから「彼岸」と呼ぶことにしたい。なぜなら、彼らはグノーシス(=般若)にたどり着いた面々だから、その名称がよく似合っているはずだ。

以前にグノーシス主義とは、母体となる宗教や思想の枠組みを持たない悲観的な哲学・世界観であって、どのような宗教、どのような思想の中にでも入り込み、その宗教の神話などを自在に利用して、自身に都合よく変えてしまうのだと書いた。

それゆえ、「彼岸」のグノーシス主義的世界では、筆者についても、これを一人の登場人物として、一聞しただけで、思わず笑いがこみあげて来るような、完全に妄想に満ちた虚偽の荒唐無稽なストーリーが出来上がっている。たとえば、筆者には甥など一人もいないにも関わらず、存在しないはずの甥が、筆者の家族の成員に加えられ、筆者の家庭は、クリスチャンホームでもなかったにも関わらず、筆者の「両親」は共に教会に通う敬虔な(?)クリスチャンに仕立て上げられ、その他にも、あるはずもない数々の虚偽が作り出されて、笑い出したくなるような非現実的なストーリーが出来上がっている。

そこでは、筆者に数々の栄誉ある称号も色々と取り揃えられており、筆者は極めて優秀な「御霊によって歩む」クリスチャンとなっているばかりか、ドストエフスキーやトルストイの研究者とも呼ばれ、当無料ブログのおかげで、評論家という称号まで受けている。一体、ドストエフスキーとトルストイの両方の研究者を名乗ることの困難さを、彼らは知らないのだろうか。こうなっては、まさにもう何でもありの世界だが、さわやか読者が押しかけて日夜検索結果の操作にいそしんでいるこのブログを理由に、ネット評論家を名乗るなどのことも、筆者自身は考えたこともなかった。

偉大な称号と、呆れるような中傷がミックスされて、大いに結構づくめのディストピアが出来上がっているようだが、そのデタラメぶり、根拠のなさがあまりにも可笑しく、断片を見ただけで、思わずふき出してしまう。足りないのは「ユダヤ人の王」の称号くらいか、いや、欠けているのは、聖書と、真実な信仰である。

聖書の神に忠実に従って生きるクリスチャンは、誰しもリトマス試験紙の役割を担っていると当ブログでは以前に書いた。様々な霊たちが、クリスチャンの周りで論争を繰り広げるが、クリスチャンは自覚していようといまいと、これらの霊の正体を人前ではっきり明らかにする役割を担っている。
 
当ブログにぶつかってきた霊たちは、いよいよはっきりとその正体と本音を明るみに出し始めたようだ。驚くべきことに、彼らはあからさまに聖書を否定し始めたのである。聖書に基づく純粋な信仰に生きることを、カルト扱いして、聖書の真実性を否定し、退け始めたのである。

このことは、彼らが今までうわべだけはクリスチャンを装って来たことから考えると、驚くべき事実であり、彼らが重大な分岐点を通過したことをよく物語っていると言えよう。

カルト被害者救済活動には、以前に説明した通り、当初は統一教会やその他のカルトと名指しされている宗教に入信した信者らを、暴力によって強制的に拉致監禁して、密室で聖書を使って延々と説得工作を行い、元カルト信者らの思想の誤りを暴き、彼らの誤った信仰を打ち砕いて、カルトへの信仰を棄教させた上で、キリスト教に入信させて来たという残酷な過去がある。

そんなにまでして、聖書を聖典として振りかざし、カルト信者に強制的な脱会・説得工作を行って来たカルト被害者救済活動の陣営が、ついに自ら振りかざしていた聖書の真実性を否定し始めたのである。

まさに本音が出たなという印象を受ける。筆者は以前から、拉致監禁までして他宗教から信者を奪うようなことは、決してキリスト教の信仰に基づく正しい行動ではないと指摘して来た。なぜなら、聖書の神は決して人に信仰を強制するようなことはなさらないからだ。
 
この人々は、聖書はすべてがすべて真に受けるべきものでなく、ほどほどの理解で良いなどと言っているようだが、もしそんなことを本気で考えているのなら、彼らが元カルト信者を強制的に脱会させた過去はどのように正当化されるのであろうか。そんなにもいい加減で無責任な認識で良いならば、多くのカルト宗教では、改ざんされているとはいえ、聖書も伝道に利用されているわけだから、多少、クリスチャンと認識がずれているくらいのことで、目くじら立てず、黙って放っておけばよかったのだということにしかならないであろう。身勝手極まりない理屈である。

聖書は、彼らにとってうわべを飾り、他宗教に対して優位を誇り、自己正当化をはかるためだけのどうでも良いツールだったことが、この告白によって明らかになった。彼らは本気で聖書の御言葉を信じ、従うつもりなどさらさらなかったのに、カルト信者に対して己の優位を振りかざすためだけに聖書を都合よく利用したのである。脱会工作は、おそらく、牧師たちが、カルトに入信した信者らの親から、泣く泣く頼み込まれ、しかも親たちから報酬としての謝礼金をもらって実行したことに過ぎないのだろう。それが決して信仰に基づく行動ではなかったことがますます裏づけられているのである。
 
「彼岸」では、日曜礼拝その他の各種の儀式の重要性ばかりが語られているようだが、それらの儀式をどんなに形式的に遵守しても、聖書の御言葉の真実性さえ信じようとしない、信仰のない人々の独りよがりな礼拝などは、罪人カインの礼拝として、神に受け入れられることも、喜ばれることも決してあるまい。

さて、これまで当ブログで大きなテーマを勢力的に扱おうとすると、「彼岸」では必ずこの種のネガティブ・キャンペーンが張り巡らされて来た。いつものパターンの繰り返しである。今や言いたいことがあるならば、裁判所や警察を通して、きちんと公に自分の言い分を主張する道が開かれているのに、こうした卑劣な方法しか使えないのは、よほど自分たちの主張を出るべきところに出て主張することに自信がないせいであり、かつ、よほど当ブログにおける主張が、暗闇の勢力にとって身に堪えているせいであろう。

グノーシス主義の理論の共通の骨子が暴露されることは、悪魔と暗闇の勢力にとって何としても耐えがたいことなのであろう。

彼らは筆者を狂人扱いした挙句、このままでは破滅するなどと言っているが、よくよく自分を振り返って観察してみることだ、一体、破滅の淵に立っているのは誰なのか。
  
この人々には、今までにも、決して自分の所属先の宗教団体を名乗らないという明白な特徴があった。勤務先はもちろんだが、どの宗教団体の人間なのかさえ、全くはっきりしない連中ばかりなのである。このような人々の述べる信仰論は、それだけで、最初から耳を傾けるに値しないことが明白である。他人には身元を明かせと要求し、暴力的に個人情報を暴いて、プライバシーを侵害する行為に出ておきながら、自分自身は所属教会さえ明らかにしないとは、まさに笑止千万な行動である。それでどうやって信仰を語る資格があるというのか。

このように、信仰があると自称しているにも関わらず、自分がどの宗教の信者であるかさえ明らかにしないような人々の言い分に、真面目に耳を傾けるのは愚か者のすることである。彼らは、クリスチャンであるのかどうかという最低限度の事実さえはっきりさせずに、他者の信仰告白の内容について云々できる資格などないのは当然である。

だからこそ、もとより信仰のないこの人々は、週刊誌のように他人の人間模様やスキャンダルを暴くことにばかりに熱中し、それ以外にできることがないのである。それは、彼らにはもともと聖書的な知識も信仰もなく、あるのはこの世的な関心だけかだらである。

だが、ついに彼らが最も好んで来た人間模様の中にさえ、フィクションの登場人物が作り出され、話がどんどん現実離れした方向へ向かっている様子を見ると、彼らがすでに重度の妄想に陥っていることがよく分かり、ただただ可笑しくなるだけである。

このような人々にはまさに「彼岸」という言葉がふさわしい。彼らはすでにこの世をすら去って、自ら「他界」し始めているのである。むろん、以下の御言葉の「悟りの道」がグノーシス主義のグノーシスと同じものでないことは、説明せずとも良いと思うが、死者の霊の集会に出席する者は、例外なく黄泉に誘われて行く。以上の人々はまさに「棺桶に片足を突っ込んでいる」のだと言えよう。

「悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。 」(箴言21:16)
 
さて、以上のような人々の愚劣な行為がこの先、しかるべき罰を受け、そのデタラメな記述が必ず削除されることは変わらない事実だが、ただし、この先、彼らの「彼岸」の世界で、ありもしない創作物語が、どこまで大きく膨らんで行くのか、また、そのような話に騙される人々が、どの程度、この国にいるのか、それは面白い観察材料であるものと思う。

ある意味で、この手の話は、日本人の民度の高さを試す良いバロメーターになると言えよう。何の根拠もない中傷を真に受ける程度の判断能力しか持たない人々には、関わってもろくなことは起きない。良識的な人々は決してそのようなものに惑わされず、振り回されることもない。だから、このようなものは、自動的に良いフィルターの役目を果たしてくれる。

すでに多くの人々が気づき始めているように、この国は、だいぶ前からのグノーシス主義国であり、何もかもがさかさまにされているのである。安倍政権のもとで、以前からあった傾向が極度に強められ、今やこの国で良識的に生きる人々は、みな前回の記事で触れたロストロポーヴィチ夫妻のように、ソヴィエト政権から追放されたり、処罰された人々と同じく、あらぬスキャンダルの疑いをかけられ、「狂人」のレッテルを貼られ、社会から排斥されている現状がある。何しろ、グノーシス主義国だから、真実と虚偽が裏返しにされ、良識的な人々が「狂人」とされ、狂人が「健常者」の仮面をかぶって巷を跋扈しているのである。

それにしても、論拠のない稚拙な決めつけの記事もさることながら、他人のブログに便乗して二、三行の無責任なコメントを投稿するだけで、何か言ったような気分になるとは、信じがたいほどの独りよがりだと言う他ない。

筆者は、できる限り、ツイッターやフェイスブックや掲示板や他者のブログ等へのコメントの投稿を控えるよう心がけている。それは、あのように短い文章の中で、十分な論拠を示して物事を主張することは、決してできない相談であり、そういうツールを使い始めると、人はとことん怠惰になって、決めつけや、思い込みだけで、まことしやかにものを言う癖が身についてしまうと考えるからだ。

断片的な文章しか書かないでいると、思考力と文章力も、当然ながら著しく低下する。しかも、そういったコメント内容のほとんどは、他者の書いた論評に対する印象批評でしかないため、自分自身では何も生み出していないのだ。

論文で最も重要になるのは論拠である。なぜあなたはそのように考えるのかという具体的な証明プロセスのない、結論だけが決めつけのように提示されている文章は、決して誰にも相手にされない。緻密な論証過程を飛ばして、結論だけ提示して、何か言ったような気になるという無精な発言の仕方に慣れてしまうと、いざ何かを論証せねばならなくなった時、全くその要求に対応する力が自分の内に見いだせないとであろう。「彼岸」の著者の一人が、博士論文を書き上げることができなかったのは決してゆえなきことではあるまいと思う。

さらに、論証過程を飛ばしてコメントすることに慣れてしまうと、自分が無精な方法でしか発言していないため、他者が作り上げた作品にも、どれほどの苦労が込められているかが全く分からなくなってしまう。何を見ても、上から目線で傲慢な態度で、一方的な印象批評を書き記すだけの空っぽな人間が出来上がる。痴呆化と高慢さへの最短コースである。

そこで、当ブログの内容について反論がある人々は、一人一人自分でブログを開設して、引用箇所をはっきりさせた上で、ルールを守って、自分の文章を論理的に書いて反証してみれば良いのだ。多分、どんなにそれが恐ろしく手間のかかる作業であるかがすぐに分かり、ほとんどの人々が面倒になって途中で放り出すことであろう。むろん、所属先の宗教団体も当然、明かすべきであろう。その上で、しかるべき諸手続きを最後まできちんと遂行して主張を提示できる人々がいたならば、それは傾聴に値する意見であるため、ネット上で議論をする価値もそれなりに出て来よう。

だが、ブログというものは、そもそも他者への反論だけではどうやっても続かない。自分の信念に基づく確固たる意見が出せなければ、文章を書き続けること自体が無意味である。コピペだとか、ネットのニュースの転載だとか、どこかで起きた事件を、ただ右から左に報道しているだけで、自分が一体、それについて何を訴えたいのか、自分自身はその出来事にどう関与しているのか、それさえ明らかにできないブログは、読者の共感も得られず、決して続かない。

人を貶め、中傷するためだけの「鏡」は、完全に独創性を失っているため、そこまで内容が希薄になれば、この先、放っておいても、長くは持ちこたえられないのは明白である。脅せば誰でも人は言いなりになると考えているのだとすれば、それは完全な誤りである。

主張というものは、内容が勝負所なのであって、主張と主張のぶつかり合いで勝利をおさめたければ、相手の主張を超える強度を持った主張を自ら提示せねばならない。相手の主張がダイヤモンドならば、それを超える強度が必要となる。それができなかった場合、弱い方の主張が粉々にされてしまうだけである。
 
時に、粉砕されなくても、淘汰という現象も起きる。筆者が知っているだけで、ここ5年ほどで匿名掲示板とその投稿が相当な分量、淘汰されて消え去った。当ブログに悪質なコメントを残していた掲示板があったので、その投稿の記録を保存してあったが、ここ数年の間に、掲示板ごと消失しているものが、相当数あったのである。2ちゃんねるなどは一時は広がりを見せ、人目には隆盛を極めていると見えた時期があったかも知れないが、今となっては、あまりにも悪評高いせいで、良識的な読者に見捨てられ、消滅の危機に晒されている。日本年金機構への内部告発に利用された際、消えかけた線香花火のような存在意義を見せたくらいであろうか。

匿名掲示板には訴訟沙汰なども多発しているため、人々が安心感を持てなくなり、関心が薄れつつあるだけでなく、ツイッターやフェイスブックなどで身元を明かして、同じくらいに短いコメントを発信するスタイルが今や主流になったため、そのことが匿名掲示板の衰退に拍車をかけている。

やはり、責任の所在を明らかにしない文章は、影響力を持たないのであり、その上、きちんとした論拠を示さず、とりともないおしゃべりを続けるだけとあれば、内容の希薄さゆえに、淘汰されて行くのは当然である。おそらくあと10年から長くとも15年のうちに、匿名掲示板は消え去るか、今とは全く違った形式に移行する必要に迫られるのではないかと予想する。

花が散り、草が枯れるように、聖書の永遠の御言葉に立脚しないむなしい議論は、一時は盛り上がっているように見えたとしても、時と共にすべて初めから無かったも同然に、胡散霧消して行くのである。

さて、聖書にはこんな文句もある。空中に散じて行くだけの無意味なおしゃべりのせいで、永遠に有罪を宣告される者たちが出て来るというのである。

言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタイ12:36)

「彼岸」から他者をディスカウントする発言ばかりに熱中している悪霊に導かれる者たちは、いざ神の御前で申し開きを求められたとき、その言葉のゆえに、どれほど重い罪を負わされるのであろうか。しかも、その幾分かは、この世でもリハーサルがあるのだ。すべての言葉には責任が伴い、必ずそれが追及される日が来るのである。

しかし、きちんとルールや手順を守って価値ある内容の文章を書いていれば、その記事は、三十年、四十年先になっても、いや百年先であっても、必ず、残るだろう。そのことは、ソビエト体制のような厳しい思想的統制下で秘密裏に書かれた文学作品でさえ、あらゆる方法で保存され、何十年もの時を経て、今日まで残されている事実を見ても分かる。それはこの世の文学作品の話であるが、永遠に変わらない神の御言葉に立つ信仰告白が、この世の文学作品よりも早く消え去ることは絶対にない。

悪魔の妄想でしかないフィクションの「鏡」は短期間で消え去るであろうが、真のリアリティである神ご自身という「本体」に属するものは必ず残る。筆者が自信を持って、この先、何が起こるかを見てもらいたいと言うのは、キリストとの霊的な結びつきの中を歩んでいるキリスト者の証が地上から取り去られて、悪魔の「鏡」だけが残るということは絶対にないと分かっているためである。

筆者はまだ信仰の歩みの途上にあるため、パウロと同じように、自分が学ぶべきことを学び終えてすでに完璧なクリスチャンになったなどと自己宣伝するつもりはさらさらないが、それでも、当ブログは、筆者の真実な信仰告白であるから、その内容に対しては、神が責任を負って下さると分かっている。

なぜなら、聖書に書かれていることが真実であることを証明されるのは、神ご自身だからである。だから、たとえ誰かが筆者を狂人扱いしたりしても、それによって、その人が神の御言葉までも消し去り、否定することは絶対にできないのである。

筆者は、この度、「般若=グノーシス」を根こそぎ断罪して、彼岸に投げ捨てた。うわべだけは敬虔な信者を名乗っている多くの人々が、筆者に対して、般若の顔をして、筆者を中傷したり、呪ったり、断罪したりしたが、そのようにして彼らが筆者になすりつけようとしたすべての呪いを、みなキリストの十字架を経て彼岸へと渡し、黄泉の世界に追い返したのである。

興味深いのは、「彼岸」から未だ中傷を続けている人々の言い分が、だんだん筆者個人への非難や中傷の域を超えて、ついに聖書全体への中傷、神ご自身への冒涜にシフトしつつあることだ。

ある意味で、筆者がずっと待っていた回答がやっと提示され始めたのである。いよいよこれからが本番中の本番である。彼らは自分たちはグノーシス主義者ではないと言っているが、彼らの言い分を聞いて、誰が本当にそうだと信じるだろうか? 彼らはこれまで自分たちがあたかもクリスチャンであるかのように振る舞ってきたが、ついにそのかりそめの信仰も自ら捨てつつあるのだ。聖書など初めから全く敬っておらず、御言葉の真実性を信じていなかったことを彼らは自ら告白している。

おそらく、この先、クリスチャンの仮面をかぶり続けて来た彼らの内心が、とことん明るみに出され、その本心に溢れ返っているものは、神への恨み、憎悪、聖書の御言葉への憎しみ、否定であることが、この上なくはっきりする時が来るものと思う。

先に当ブログでは、彼らは必ず警察の忠告を振り切り、この世のすべての秩序を侮るだろうと予告したが、現にそうなっている。このまま見守り続ければ、いずれ彼らは必ず、聖書の神ご自身への憎しみと中傷をまき散らし、憤りを爆発させて、自分たちが神の敵であることをはっきりと万人の前で告白する時が来るであろう。それがまさに彼らの心の本質なのである。

そして、それは必ず多くの人々が目撃する形でなされるであろうから、そうなるまで、しばらくこのまま観察しておきたい。

筆者が殉教などという言葉を口にしたからと言って、まさか自ら死に支度をしているなどと勝手に考えてもらっては困る。今はまだ戦いの初歩の初歩の段階であって、およそ殉教などというレベルの話が具体的に出て来る余地はない。仮にそういう時代が来るとしても、それはまだまだかなり先のことである。

筆者がいかなる人間であろうと、聖書の御言葉で武装し、神の懐に隠れている人間を攻撃することのできる人々はいない。今起きていることは、我々はまずこの地上で、小羊の血潮と証しの言葉によって悪魔に立ち向かうことをきちんと学ばねばならない、ということを示しているだけである。

さらに、「彼岸」にいる人々がブログを失い、人生を失って破滅すれば、自暴自棄な行動に出る可能性があると思い、憂慮する人もあるかも知れないが、しかし、それすらも、全く心配の必要がないと言うのは、彼らの行動はすべて衆人環視の中で行われ、以下の御言葉にもはっきりと示されている通り、彼らが抜いた剣は、彼ら自身の胸を刺し通すだけだからだ。考えても見てもらいたいが、今まで行われた彼らの行動のすべてが、大勢の証人のいるところで行われたのだ。この人々の運命は全世界に対して指示されねばならないので、その終わりも、当然ながら、衆人環視の中となるであろう。

これまでも、彼らはただ脅すだけで、決して何事も筆者に強制することはできなかった。それは、筆者が何を信じるのか、誰からの強制によらずに、自分自身で選択し、告白することを神に求められているためである。神はすべてのことを、信者自身の意志で選ばせたいと考えておられる。強制されて行われた告白は、自由の中で自ら選んだものと言えない。よって本当にその人自身の選択なのかどうかも分からない。神は、筆者が人生における最後の選択の一つに至るまで、すべてを自らの意志で決定することを望んでおられるのである。それが神の御心であるがゆえに、筆者に対して何一つ強制できる人はいないのである。

筆者は「彼岸」のブログに自殺者の遺族のフォーラムの話題が掲載された時点で、それは彼らがすでに死者の集会の中に身を置いていることを明白に示す証拠だと受け止めている。彼らの心は絶えず死とその周辺の黄泉とをさまよっている。今後、どういう形でそれが具体的に彼らの身の上に実現するのか、今はまだ分からないが、すでに述べたように、彼らが神を公然と人前で呪う段階が訪れた後、ヨブの妻がヨブに投げつけた言葉が、おそらく、彼らの身の上に成就するであろうと思う。「神を呪って死になさい!」という彼女の言葉は、神を呪うことと、人が自死することが、分かちがたく一つであることを示している。

これが、神を知る知識を自分で退け、捨てたすべての人に働く霊的法則性なのである。それは決して誰かの意志次第で変えられるような軽い運命ではない。だから、聖書に対してどのような態度を取るか、各人は極めて慎重でなければならない。全世界の人々が見ている前で、聖書の真実性に異議をさしはさむような者は、必ずその次には神を呪ったり、冒涜・否定する段階へと進み、誰もに取って見せしめや教訓となるような最期を遂げることになるであろう。

「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、”霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタイ12:31-32)

人を罵倒する罪は、悔い改めれば赦されるし、償うこともできよう。しかし、聖霊を冒涜する罪は赦されないと、前々から幾度も述べているように、人はクリスチャンや神の教会を罵倒しているうちに、いつしか取り返しのつかないところまで深く罪を犯してしまうことがありうる。さらに、聖書の真実性を否定することは、御霊によって書かれた書物を虚偽であるとみなすことと同義であり、それは、ひいては神ご自身を偽り者とみなすことを意味する。

そして、人が創造主を偽り者(=フィクション)とみなせば、その人の存在そのものがフィクションとして消えるのである。これは霊的法則性である。自分が創造主に対して吐いた言葉が、自分の運命をそのまま決することになるのである。
 
だが、いかに人を侮辱することが永遠の罪にならないと言っても、彼らはこの先、筆者を攻撃すればするほど、自分で自分の心を傷つけ、人としての尊厳を失い、罪悪感と、後ろめたさと、社会からの蔑みの目線と、孤立により、居たたまれなくなって行くだけである。

さらに、筆者はこの十年間というもの、どうやっていわれのない迫害に立ち向かうべきか、一つ一つ必要な手順を学んできたが、彼らは一度たりとも一人で神に向き合ったことがなく、迫害や圧迫に立ち向かう術をも学んでいない。

だから、彼らが孤立状態に置かれれば、その心は、それがごくごくわずかな期間であっても、大変な打撃を受け、正常には保たれるまい。彼らの言い分の内容の希薄さを見ても、彼らの終焉が近いことはすぐに分かるが、彼らに残された月日自体がそう多くはない。人を馬鹿にすることはまだ償いが可能であるとしても、神を侮り、冒涜し、自ら神になり代わろうとすることはそれとは異なるからだ。
  
肉のものは霊のものより早熟である。それは肉の性急で忍耐できない性質に由来する。それゆえ、肉のものは霊のものよりも先に絶頂に達し、先に繁栄を謳歌する。その繁栄は、ぱっと見には長く続くように見えるかも知れないが、実際には、花が散り、草が枯れるように、たちまちにして消えて行くものである。悪人は気づけばもう跡形もなく、いなくなっている。栄枯盛衰、諸行無常、聖書の御言葉を信じない悪人にあるのは、ただ滅びゆく世界の無常観だけである。その定めに抗う術は彼らにはない。だが、御言葉に立つ者は、悪人が消え去った後も、末永く平和と繁栄を享受する。

人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
 「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、
 裁きを受けるとき、勝利を得られる。」と書いてある通りです。」(ローマ3:4)

「悪事を謀る者のことでいら立つな。
 不正を行う者をうらやむな。
 彼らは草のように瞬く間に枯れる。
 青草のようにすぐにしおれる。

 主に信頼し、善を行え。
 この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
 主に自らをゆだねよ。
 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
 あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい、
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。

 沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。
 繁栄の道を行く者や
 悪だくみをする者のことでいら立つな。
 怒りを解き、憤りを捨てよ。
 自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはいならない。
 悪事を謀る者は断たれ
 主に望みをおく人は、地を継ぐ。

 しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。
 彼のいたところを調べてみよ、彼は消え去っている。
 貧しい人は地を継ぎ
 豊かな平和に自らをゆだねるであろう。

 主に従う人に向かって
 主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが
 主は彼を笑われる。
 彼に定めの日が来るのを見ておられるから。
 主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り
 貧しい人、乏しい人を倒そうとし
 まっすぐに歩む人を屠ろうとするが
 その剣はかえって自分の胸を貫き
 弓は折れるであろう。

 主に従う人が持っているものは僅かでも
 主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。
 主はご自分に逆らう者の腕を折り
 従う人を支えてくださる。
 無垢な人の生涯を
 主は知っていてくださる。」(詩編37:1-18)

聖書の御言葉と、フィクションの世界はどこまで行ってもなじまない。筆者はまだ信仰に生きるようになる前、学生時代に長編小説を書こうと試みたことがあるが、完成に至らないまま放棄した。筆者はその当時、架空の世界を舞台として、冒険物語を書こうと思い、構想を練り、登場人物を揃え、プロットがほぼできあがった。だが、いくつかの章ができ、あとは細部を書き上げてつなぎ合わせるだけとなった時点で、別な用事のために、その作品は未完のまま放置された。それから、何年も月日が過ぎて、当ブログを始めた少し後で、改めてその小説を開いてみたところ、聖書とは無関係の架空の世界を舞台にして小説を書き続けることは筆者にはもうできないという結論に至った。

筆者は、キリスト者として生きることが何を意味するのかを理解するようになってから、それ以前とは大いに自分の感覚が変わってしまったと思うことがたくさんある。ここで言う「キリスト者として生きるようになってから」という言葉は、教会に通うようになってからとか、洗礼を受けてからという意味ではない。キリストご自身を実際に生きて知ってから、という意味である。

世にはクリスチャン作家が存在することは知っているが、その人たちの考えがどうあれ、筆者自身は、現実に存在しない架空の舞台で、キリスト教の神について語ることは無理であると考えている。なぜなら、神の御業を生きて知ることは、常にそれに関わる人々に現実的な代価を要求するため、人としての痛み苦しみも実際には味わうことなく、この世の時空間の中にまるで存在しない架空の登場人物に、神の貴い御業を信仰の代価なしに体験させることなど無理だからだ。どうやってそんな設定に説得力を持たせることができようか。
 
もしフィクションの物語で描ける内容があるとすれば、それは神のいない、人間だけの世界で起きる絶望的なストーリー展開だけであろう。その悲しい描写によって、人々の心にこんなにもむなしい世界は嫌だという思いを起こさせ、そのフィクションの世界を抜け出て、真実な神へ向かいたいという願いを呼び起こすことは可能かも知れない。

フィクションの世界では、このように、まことの神ご自身を物語のプロットに介入させることができないため、描けるのはどこまでも人間だけである。だが、キリスト教の神を扱えないからと言って、そこに聖書の神とは異なる別の神を作り出し、フィクションの宗教を作ったりすることは、もっと忌むべき試みであるものと思う。

そのようなわけで、架空の物語には、その物語の世界観の基礎となるべき思想がなく、それゆえ、どんなにプロットに重みを持たせようとしても、中心となる柱が欠けているため、最も主張したい重要な事実に、裏づけがなくなり、主張が消し飛んでしまうと分かり、それ以後、筆者は小説を書くことを放棄した。

この他にも、以前にはそれなりに本を読んでいたが、興味もなくなり、読めなくなってしまったという変化も起きた。感情や感覚をいたずらに刺激する文学的修辞が、物事の本質からいかにかけ離れているかが分かり、受けつけられなくなったのである。

人間の感情や感覚を刺激する描写や表現は、たとえそれが文字で書かれた文章であったとしても、ある種の悪魔的な性質としての肉の働きを含んでおり、それに没入するならば、本人を全く意図していない方向へと導く。文学的修辞は、堕落した魂の世界に属するものであり、それを通して、様々な悪しき思いが人間の心へ入り込むきっかけを作り出す。

聖書には、霊的な文脈はあるが、文学的修辞はない。聖書は人間の使う言語を用いて書かれているとはいえ、文学的修辞のような、魂に働きかける言語によって書かれたものではないのである。

以前に、筆者は、当ブログにも度々引用しているオリーブ園クリスチャン古典ライブラリーに掲載されている記事の中で、クリストフ・ブルームハルトや、セス・リースのような、ペンテコステ系の指導者の記事だけは、どうにもいただけないと疑問符を投げかけたことがあった。その理由は、こうしたペンテコステ・カリスマ運動の指導者らの記事の文章が、霊的文脈でなく、まさに通常の小説などと同じ、文学的手法を用いて書かれているためである。(それゆえ筆者自身はこれらの記事を一部を除いてほとんど読んでいない。)
 
文学的修辞は、人間の感情や感覚を揺さぶる力を持っているが、それはあくまで人間の天然の魂に働きかける力であって、霊的文脈ではない。人間の道徳観も同じである。どんなに正しい主張のように聞こえても、魂から生まれる道徳論は、神の霊的な事実とは一致しない。それゆえ、ペンテコステ・カリスマ運動の指導者の書いた記事は、どんなに霊的内容を装っていても、オースチン-スパークスやペン-ルイスなどの文章とは全く異質な別の動機によって書かれたものであると、筆者は判断せざるを得なかったのである。(このことは、オリーブ園の著者が行っている膨大な手間暇をかけた翻訳作業を筆者が評価しないという意味では全くないため、誤解しないようにしてもらいたい。いかなる人の発表したいかなる内容であれ、読者は自分自身で識別しなければならないことを述べているだけである。)
 
そうした判断に基づき、オースチン-スパークスのような霊的先人たちの主張と、ペンテコステ・カリスマ運動のような「霊的ムーブメント」とが、どのように異なるのかを追っていくと、両者は、全く源流を異にする別の霊的運動だという事実が見えて来る。そして、一体、ペンテコステ・カリスマ運動の起源は何かということを調べて行くと、これは聖書とは全く異なる東洋思想をキリスト教と合体させて出来た異端で、その本質はグノーシス主義だということが分かるのである。

「霊的」と言われているからと言って、すべてが御霊から来たものではなく、グノーシス主義のように、「肉のものを御霊のものに見せかける」トリックが存在するため、この点を見分けることができなければ、熱心なクリスチャンほど欺かれる危険がある。なぜなら、熱心なクリスチャンには、霊的な信者になりたいという真剣な熱意があるので、真理への渇望、探究という点で、怠惰なクリスチャンとは比較にならないからだ。そして、そのような熱心さにつけこんで、「あなたはかれこれの教えを受ければ、もっと霊的になって、神に近付けますよ」という甘い誘い文句で、信者を欺くのがグノーシス主義の特徴であるため、注意しなければならない。その偽りを見分けるためには、霊の偽物が存在することを理解した上で、異端の基礎構造を把握して備えておく必要がある。ちなみに、霊を識別することは、聖書が信者たちにはっきりと信者に呼びかけている事柄である。

「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。」(Ⅰヨハネ4:1-3)

以上の短い御言葉を読んだだけでも、イエス・キリストを証せず、人間を証し、聖書を軽んじるカルト被害者救済活動が、神の霊から来た活動でないことは明白である。だとすれば、その運動はどこから来たのか。悪魔から以外にはあり得ないだろう。ではなぜ彼らは自分たちはグノーシス主義者ではないと言っているのか? ただ嘘をついているだけである。

我々には、ある人の主張の背後に存在する霊の性質を見分けるに当たり、その人の書いた文章以外に手がかりとなるものはない。そこで、ある主張が、本当に神の聖霊から来たものであるかどうかを確かめる有力な手がかりは、聖書の御言葉と対比することである。だが、もっと簡単に見分けるポイントをあげるなら、それは前々から書いているように、「キリストに栄光を帰しているのか、それとも、人間に栄光を帰しているのか」という違いに注目することだ。御霊はイエスを証しし、イエスに栄光を帰する。それをせず、人間を証し、人間に栄光を帰する霊は、キリストの御霊ではない。

イエスは言われた、「もし、わたしが自分自身について証しするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証は真実であることを、わたしは知っている。」(ヨハネ5:31-32)

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ15:26)

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。」(ヨハネ16:13-15)


ペンテコステ・カリスマ運動がいかがわしい偽物の霊的運動だとはっきり言えるのも、この点によるのであり、この運動は必ずと言っていいほど、人間の指導者に栄光を帰する。彼らは人間に過ぎない指導者を、偉大な霊の器として誉めたたえ、いかにその指導者が数々の奇跡的な偉業を成し遂げたかという話に夢中になる。この類の話は、イエスを人間が栄光を受けるための手段に変えてしまっており、その「証」の内容も、ほとんどがサンダー・シングと全く変わらない奇跡物語である。それゆえ、どこからの時点で、死者の霊との語らいというテーマも出て来るであろう。なぜなら、悪魔的な思想は、死、黄泉、墓、死者の霊などに異常なほどの愛着を持っているためである。

繰り返すが、キリストから来た御霊は、キリストを証する。そしてキリストに栄光を帰する。しかし、堕落した被造物としての人間(悪魔)から来る霊は、人間自身を証し、人間に栄光を与えようとする。前者がキリスト教の正しいあり方で、後者は被造物を神とするグノーシス主義の特徴である。そこで、以上の御言葉のリトマス試験紙により、9割程度の主張の出所が明らかになる。それでも分からないものがあれば、さらなる検証が必要である。

さて、自分たちはグノーシス主義者ではないと言って、筆者の論に反対しているカルト被害者救済活動の支持者らが、イエス・キリストを証しせず、聖書の完全な真実性を認めず、クリスチャンや神の教会を迫害し、嘘とデタラメを終わりなく並べ、筆者のようなクリスチャンが聖書を捨てるべきだとまで主張していることは、思わず笑ってしまうほどの自己矛盾であり、荒唐無稽かつ愚劣な主張である。こうも支離滅裂な主張になって来ると、もはや精神の異常さえ疑われるレベルに達していると言われるのも当然であろう。

偽りの霊性がその醜い本性を赤裸々に表すのは、彼らの思想の展開が最後の段階になってからのことである。悪魔が光の天使を装うように、般若(グノーシス)は、最初は涅槃の姿をして近づいて来るのであって、その真の顔が、般若の(鬼の)面であることは、最初から示されるわけではない。現に三島もそうであった。三島が肉体を鍛え、明るい太陽の下で、人々と楽しく交流し、人生を謳歌していたように見えた時、彼は人々から見れば、涅槃に生きているようにしか見えず、まさか彼がまっしぐらに死へ向かっているのだとは、皆に思いもかけなかったであろう。彼には妻もあれば、子供たちもいたのである。その上、才能もあった。死ななければならない理由は、彼の思想に着目する以外には、どこにも見いだせなかった。

今日も、同じように、何の問題もなく人生を謳歌して安楽に生きているように見える人々の心に、御言葉という見えない霊的法則性の物差しを当てはめるなら、まるで数学の方程式を解くように、彼らの向かう先がどこであるか、その目的地をほとんど狂いなく正確に導き出すことができる。

ノアが嘲りの只中で箱舟建設の作業を進めていた時、人々は飲んだり、食べたり、娶ったり、嫁いだりして、己の欲望に邁進していた。人々は、ノアがそうした事柄に関わろうとせず、人々の振る舞いに賛同も賞賛もしないのを見て、最初はいぶかしみ、次に忠告し、彼を何とかして世に引き戻そうと試み、それがかなわないと見るや、何という変人かと呆れ、ノアはきっと偏屈なカルト信者に違いないと決めつけて、嘲りと妨害に転じたことであろう。箱舟建設に妨害は起きなかったと思う方が安易すぎる。

ロトの時代もやはりそれと同じであった。ソドムの住人は己の欲のゆえに途方もなく凶暴化しており、ロトの家に滞在した御使いたちの引き渡しを求めて、ロトの家に群衆となって殺到し、押し入ろうとさえした。だが、神はロトの家族を守ることを決めておられ、実際に彼らを守られたのである。ただロトの妻だけが、ソドムの欲に引かれ、脱出の途上で後ろを振り返って帰らぬ人となった。ソドムの凶暴化した住人たちは、当然ながら、一人残らず滅ぼされた。そこには加害者も被害者もなかった。ロトの家族を除いて、全員が滅ぼされたのである。

今、見えない箱舟建設の作業は着々と進んでいる最中であり、これを嘲っている人々は、ただ自分たちに差し迫っている滅びが見えないだけである。彼らは自分が何からエクソダスせねばならないかも分かっておらず、神と聖霊に執拗に言い逆らって、自分たちが二度と後戻りできないように、信仰の道を自ら閉鎖している。まもなく、彼らは、御使いたちを憎悪して引き渡しを求めたソドムの住人たちのように、自らの憎悪を、被造物ではなく、創造主に直接、向けるようになるだろう。通常の常識のあるクリスチャンが、彼らの境遇に置かれれば、自分たちを待ち受けている滅びの運命が、あまりに恐ろしいことに気づき、とうに嘲りとディスカウントの鏡を捨て去って、真心から悔い改めて神に立ち戻っていたことだろう。神が彼らの心をこれほど頑なにされたのである。恐るべき霊的盲目性と言うほかない。それは彼らが悔い改めて神に立ち返る道が閉ざされるためである。神はご自分が憐れもうとする者を憐れみ、心頑なにしようと思う者を頑なにされるからである。

「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。<略>自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:26-33)

「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」(マタイ24:36-39)

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

メールの提供、写真、個人情報の提供を大いに歓迎します。特に、直近になされているコメントについても、投稿者の個人情報(所属教会、氏名、勤務先情報、連絡先)をご存じの方は、ぜひ詳細にお伝えくださいますよう。情報源を明かすことはありませんのでご安心下さい。県警ではなく、神奈川署ですのでお間違いなく。045-441-0110

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