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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

賢い花嫁と愚かな花嫁の区別―キリストの十字架に敵対する者の最期は滅びである

オリーブ園に連載されている記事は、あまりにもタイムリーかつ霊的に深い示唆に富んだ内容なので、そのまま以下に転載しておきたい。

ここには、エクレシアがバビロン化することの危険性が如実に表されているが、それは筆者がこれまで見聞きして来た教会に関わるすべての腐敗現象に当てはまる。

今日も、エクレシアは、教理面での腐敗、そして、生活面における腐敗という両面から、敵の攻撃にさらされている。どれほど多くの交わりがそうして敵の罠によって堕落させられたことであろうか。

私たちが聖書の御言葉に照らし合わせて、何かの事項について、神と人の前で曖昧な態度を取る時、敵につけこませる隙を与えてしまい、そうして入り込んだ腐敗が、やがてその人自身だけでなく、他の兄弟姉妹にまで及び、集会全体を堕落・変質させてしまう。

異端の教えと分かっているものを拒否することもなく集会に持ち込めば、その集会が神の御心にかなうエクレシアであり続けることができるはずがない。汚れたものと分離もせずに、聖さを保つことはできない相談である。
 
だが、差し迫った堕落の危険がないときでも、信者がただぼんやりと曖昧な思考の中で漫然と日々を過ごすことにより、神の御前での心の透明性、真実性が曇らされ、失われることがある。
 
信者が何一つそのような落ち度を犯していない時でさえ、敵は「あなたは間違っている」という思念を信者に植えつけようとする。

クリスチャンは、自分が誤っているせいで起きた霊的な停滞であれ、何も誤っていないのに、敵の思念を取り込んで自信喪失状態に陥ったせいで起きた霊的な停滞であれ、何らかの霊的停滞が起きる時には、ただちに力を失ってしまう。

その結果、教会の証しが曇らされ、力を失い、最後には取り去られ、その防衛力の低下に乗じて、霊的な敵が教会に攻め込み、教会が占拠されてしまうことさえ起きるのである。
 
エクレシアを腐敗させないための最大の秘訣は、一人一人の信者が、神に対する心の純粋さ、貞潔さを完全に保つことである。

筆者はブログを書いていなかった時期も長いが、記事を書くことにより、常に自分自身の信仰の姿勢を正すよう迫られている。

自分の立場がはっきりしていないのに、人前で何かを表明することはできない。だが、多くの場合、書いているうちに、次第に自分の心の奥底まで照らされて、初めはぼんやりとしか理解していなかった事柄が明瞭になり、神と人との前で、信仰の姿勢を正させられる。

記事に向かうときに、自分の関心を地上のものから意識的に引き離し、「上にあるもの」に向けることが可能となるのである。

その作業をしないと、いつの間にか自分の思考が曖昧になり、気づくと神に関する事柄にすっかり鈍感となり、地的な関心だけで心が占領されたりする。にも関わらず、その状態が危険であることさえ分からなくなってしまうのである。

今、筆者は、キリストの花嫁たるエクレシアが、その高貴さを失わないためには、一人一人のクリスチャンが、神の御前で純粋であること、嘘偽りなく、神との間で争いがないこと、真に神に心を注ぎだし、心の一途さ、透明さ、必死なまでの真剣さを取り戻すことがどれほど不可欠であるかを思う。

時に、どんなことがきっかけであれ、エクレシアが神に対する切迫した真実性を取り戻し、教会の証しが回復されることを願って、神は教会に対する敵の激しい攻撃をあえて許されることがあるのかも知れないと思う。

「土台のある都」 第八章 都の明かり―命と証しの透明性 (3)
精金を曇らせること

 すでに見たように、これは第一に教理によってなされてきました。誤った教理に関する何らかの示唆を持ち込むことができるとき、誤謬を僅かでも潜り込ませられるとき、敵はそれを邪悪なパン種のように働かせます。そして遂には、その類のものが発達して、聖霊を退ける契機となり、それが存在する所では主は進み続けられなくなります。そして、妥協、麻痺、弱さの状況が確立されます。純金、精金が曇らされてしまいます。

 教理の路線に沿ってこれがなされてきただけでなく、生活の路線に沿ってもなされてきました。同じ方法、同じ目的が敵の活動を支配しています。教理に関して絶対的に正統的なものの上にとても強く立っていたとしても、あなた自身の生活、あなた自身の霊的生活、あなた自身の道徳的生活においてはとても疑わしい状況にあるおそれがあります。神の御言葉の文字にはとても忠実でも、それでもあなた自身の生活と証しにおいては妥協しているおそれがあります。仕事の取引や、他の諸々の関係や、神の御前におけるあなた自身の生活において、そうであるかもしれません。

透明でないもの、純粋でないもの、清くないもの、まっすぐでないもの、疑わしいもの、おそらくは秘密の習慣があるかもしれません。ああ、もしかすると多くの事柄の中の一つによって、生活の中からあの堅固さ、あの明確さ、あの積極性、あの透明性が取り去られ、時には無意識のうちに当事者の中に、何かに直面しているという恐れ、見つかったものを白状しなければならないという恐れが生じます。

停滞させるものが生活の背後にあります。そのせいで証しから真の活力が、生活の中から真の衝撃力が、交わりの中から真の実り豊かさと価値が奪われています。往々にして形はありませんが、何かがそこにあります。その上に手を乗せることはできませんが、正しくないもの、透明ではないものが、その生活の中にあることがわかります。

そして次に隠し事、ごまかし、分離が生じます。あるいは、他の多くの種類の悪の兆候が生じるかもしれません。それはすべて、神の御前で絶対的に透明ではない何かがあるせいです。敵が一つの要素を植え付けました。その要素が純粋な光を損なって、その生活に影、もやを生じさせたのです。敵の狙いは神にある命の完全な水晶のような透明性を損なって、それにより命全体を麻痺させることです。外形は依然として同じであり、信仰告白はそれまでと全く同じかもしれませんが、停滞してしまうのです。


 これを述べたのは非難するためではありません。御自身の民、エルサレムに対する神の御旨を損なうために敵がそれに沿って好んで働く諸々の路線の一つを指摘するためです。神の御旨とはすなわち、エルサレムが最終的に天から出て、神の栄光を持ち、その明かりが高価な宝石のように、碧玉のようになることです。そして、それに関するすべてのものが、ガラスのように透明で、水晶のように透明な純金となることです。ああ、このような言葉や句には、何という霊的価値と重みがあることか!

 これはみな議論の余地のない明確なことです。私たちは次のことを理解しなければなりません。すなわち、敵は絶えず、私たちを知らないうちに「自分は雲の下にある」と感じる地点にもたらそうとしているのです。時として敵は誤った立場を設けて、「自分は誤っている」と私たちに感じさせます。私たちは誤っていないかもしれませんが、敵は「自分は誤っている」と私たちに感じさせて、私たちが自信、確信、堅固さ、立場、地位を失うあの領域にもたらそうとします。その領域で私たちは潜り込んだ何らかの要素によって弱められてしまいます。敵は公然と神の民を雲の下に、疑いの下にもたらして、彼ら自身の心を疑いや疑問の下にもたらします。それは、透明性、確実性、力を損なうためであり、そして、彼らが万人に対して、彼ら自身に対してさえ、大きな問題となるようにするためです。

さて、これから先の記事では、しばらく、ペンコステ・カリスマ運動の起源がグノーシス主義にあることについて、この運動が根本的に誤っていることについて、今まで以上に詳しく記して行きたいと考えている。
 
その過程で、霊的な敵は、これまで通り、筆者の信仰の証しを地上から取り去ろうとして働くであろう。筆者が以上の論稿をこれから執筆すると予告してから、まだ何一つ記事をアップしていないのに、もうさわやか読者が当ブログに押し寄せてきている有様である。

読者にはっきりと断っておきたい。これまで当ブログが受けて来た攻撃は、すべては霊的な敵に由来するものであり、筆者の信仰の証しを損なうことを目的としてなされたものであると。

だが、彼らは、自らの悪事の厳しい責任を取らされて終わるだけである。

この度、当ブログに多年に渡り、嫌がらせを続けて来た杉本徳久なる人物が執筆しているブログ「神々の風景 -religious scene」は削除されたが、「随想 吉祥寺の森から」も遠からず、削除されることになる。

削除されるまでの間に、杉本ブログのコメント投稿者が、杉本をさらなる破滅に追い込もうと、杉本を争いに焚きつけるだろう。要するに、罪に定められ、滅びることはもう分かっているにも関わらず、最後の期間を使って、杉本ブログを当ブログにぶつけ、どちらが生き残るか競争させ、筆者に可能な限りの害を与えようという見世物を提供しているのである。

だが、はっきりと言っておく。必ず、嘘は真実の前に敗れると。

杉本ブログは、もう何年も前から、完全に信頼性を失った嘘の温床と化しており、自作自演の場となり果てている。

筆者自身は、ブログを書く中で、コメント投稿を重んじることの危険に気づき、無責任なコメントが管理者の意志に反して、どれほどブログの趣旨を歪め、真摯な考察を妨げるか分かったので、ある時点から、コメントを受けつけなくなった。無責任なコメントを掲載し続けていると、そのとばっちりはすべて管理者に降りかかることになるだけである。

杉本ブログは、コメント投稿者の手前、終わるに終われなくなっているのであり、さらに、コメント投稿者のせいで、このブログは杉本自身の意図をさえ離れて、より一層ひどく罪を増し加えながら、破滅へと転げ落ちているのである。
 
杉本ブログに筆者が書きこんだコメントは、2009年に投稿したただ一件だけであり、その他のいかなるコメントにも、筆者は全く関与していない。杉本ブログのみならず、2ちゃんねるなどの掲示板にも、筆者は人生で一度たりとも投稿したことはなく、するつもりもない。(そのようなものを見つければ、それはなりすましと断定してもらって構わない。)

杉本は、筆者が2009年に杉本のブログに書き込んだ、その一件のコメントを、筆者が削除して欲しいと要請したことをきっかけに、当ブログに対する執拗な嫌がらせ行為に及んで来たのであるが、おそらく、そういうことが起きたのは、杉本がその当時から、筆者のために、ゆくゆくは自分のブログ全体を削除させられる羽目になることを、内心で知っていたためではないかと思われる。

筆者はその当時、そんな結末に至るとは予想だにしていなかったが、杉本に常に虚偽ばかりを教え導いて来た悪霊は、最初からそうなると知っていて、その事態を恐れるがゆえに、杉本を利用して筆者を徹底して攻撃させたのであろう。

杉本ブログで行われていることは、今や何から何まで「自作自演劇」の「やらせ」であるが、杉本が初めに当ブログをバッシングする目的で、2009年に投稿した記事も、やはり「やらせ」であったものと筆者は確信する。そのバッシング記事には、1千件のコメントがついて、杉本ブログが炎上に至ったが、それも99%工作員による作戦だったのであろう。

杉本ブログの悲惨な状態は昔も今も全く変わらない。杉本ブログに投稿している人間はほぼ雇われた工作員であり、その他にほんの少しの「悪のり」の投稿があるだけである。

筆者が当ブログに、杉本が刑事告訴されたことを記す記事を投稿してから、さわやか読者が当ブログを絶えず監視しているが、その顔触れを見ると、嫌になるほど以前と変わらず、結局、こうした異常な読者らも、みな雇われ工作員である様子がよく分かる。

杉本は自分の犯している罪を直視する勇気がなく、それを常に他のクリスチャンになすりつけようとしているだけである。

だが、こうして、杉本徳久の内心が次々と明らかにされることは、非常に神の御心にかなった、喜ばしい事態であると、筆者は考えている。筆者は、まずは杉本の心の底の底までが明らかにされねばならず、彼の運命の救いようがないことが、公然と世に明らかにされなければならないと考えている。

そのために、筆者は彼を試しているのであり、悔い改めるならば、今のうちだと呼びかけているのである。そして、彼がその一つ一つの呼びかけを、ことごとく踏みにじり、嘲り、退けるだけに終わることを、分かった上で、一つ一つ、あえて証明させているのである。それによって、彼の頭上には、燃え盛る炭火がまた新たに一つ一つと加わって行くことになる。

かなり面倒な過程ではあるが、このような行程を一つ一つ経ない限り、戦いは決して最後のステージまで進むことはない。

なぜなら、筆者自身は、この事件の結末がどうなるか予め知っているが、多くの人々はそれを前もって予知できず、説明されたとしても、理解できないからだ。従って、人々の心の準備が、筆者と同じくらいに整えられるためには、まずは踏まれるべき行程がすべて踏まれ、結論の動かしようのないことが、万人の前で明らかにされる必要があるのだ。
 
良識ある人々の中には、最初から誰かに対して手荒な措置に出たいと願うような人間は、一人もいない。他に道がないのかと、誰もがまずは情けをかけようとするだろう。筆者自身とてそういう人間である。だが、事件がエスカレートすればするほど、結局、憐れみをかける余地がないことに、最後には誰もが同意せざるを得なくなる。物事はそのようなレベルまで進んでから、初めて厳しい対処がなされるのである。

そのために必要な行程に、筆者は協力を惜しまないつもりであり、自分の名誉や安寧を惜しむがゆえに、霊的な戦いを中途で終わらせるつもりは全くない。

そこで、この事件がこの先、どう進んで行くか、杉本がどのように反応するのか(村上もだが)、読者はよくよく観察されたい。果たして、見栄だけがすべてとなり、大本営発表のような嘘ばかりを垂れ流し、「嘲りの霊」に支配されているこの人々に、クリスチャンとの和解に応じたり、悔い改めて神に立ち返る可能性がわずかでも残されているのかどうか、徹底的に観察されたい。

筆者自身は、神は彼らの罪を決してお赦しにならないだろうと考えている。彼らはあまりにも罪を犯しすぎたので、後戻りの余地がなく、行きつくところまで行き着いて破滅して終わることしかできないだろうと考える。
 
だが、それが筆者の考えに過ぎないのか、それとも、神の御心がそこにあり、それが動かせない現実なのかは、これからはっきり証明されねばならない。

そのために、この事件については、必ず、神の御心がどこにあるのか、人間的な感情を超えたレベルではっきりと証明されるだろうと筆者は確信している。
 
おそらく、神の裁きは確かに存在するのだということが、公然と動かせない形で世に示されて終わることになるだろうと予測する。

ペンテコステ運動の支持者の中には、「神は愛だから、人を裁いたり、罰したりはなさらない。」とか、「罪を犯しても罰はない」といった寝言のような嘘の教説を未だに信じている人々がいるようだが、それは人を破滅へ導く異端であるから、そのように、自分を救ってくれる贖い主を否定する虚偽を信じてしまった信者の人生は、必ず悲惨な破滅で終わる。

そのための見せしめ事例となるであろうと筆者は予想するのである。

前々からずっと筆者はそう警告し続けているのだが、ペンテコステ運動の信者らはそれを信じようとしない。そして、筆者の警告はおろか、神の福音さえもあざけりながら、それでも、自分たちは正しい道に立っており、キリストの花嫁なのだと豪語している。

そこで、筆者は、花嫁と言っても、すべての花嫁が神の御心にかなうわけではないとあえて言うのである。

美しいウェディングドレスを着て、鏡の前でうっとりと自分の姿に見惚れ、自分はあれやこれやの他人に比べ、格段に美しく優れて賢いと自画自賛するのが、花嫁にふさわしい態度ではないだろう。なぜこの人々は、花婿がまだ到着してもいないうちから、そんなにまで慢心して、自分自身を主役に据えることができるのであろうかと首をかしげるのみである。
 
この先、誰がキリストの花嫁にふさわしいかは、神ご自身が証明される。福音に従わず、十字架を退け、血潮を嘲り、御言葉をないがしろにしながら、自分たちをキリストの花嫁に見せかける「嘲る者たち」に対しては、容赦のない厳しい結末が待ち構えているだけである。

キリストの十字架に敵対する者の最期は滅びであり、主と共なる十字架の死を経ない者は、己を罪から救うこともできず、旧創造として、ただ神の御怒りと、裁きと、滅びに定められているだけなのである。どんなに被害者意識を盾にとって、感情論を振りかざし、自分を弁護しようとしても、小羊の贖いの血潮を退けた者は、決して罪の判決から逃れることはできず、裁きに定められて終わる。

そのことが、クリスチャンのみならず、この世の人々でさえ、否定できない形で、はっきりと証明されるであろうと筆者は考えており、それだからこそ、この出来事の進展を、よくよくご覧になりたいと言うのだ。このようにまで、確信犯的に悪魔に魂を売ってしまった人々に、もはや後戻りの道はなく、彼らは最後まで、神と聖徒らの憐れみや情けを嘲り、侮りながら、残酷なまでに厳しい教訓的な結末へと自ら転げ落ちて行くだけであることを、よくよく目を開いて見ていただきたいと思わずにいられない。

そして、私たちはそのような事例に倣うことなく、あくまで賢い花嫁として、キリストが来られる時に神に喜ばれるべく、この地上にいる間に、より徹底して神の御前で自分の心を調べてもらい、不純物をろ過されることに同意するのである。
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賢い花嫁と愚かな花嫁の区別―キリストを追求するのか、自分自身を追求するのかが生死を分ける

 今日、キリスト教徒の集まりが、概して、日曜礼拝を一つの頂点として、主義となり、形式となり、規則となり、組織論となり、人間を束縛する枷となって、まことの命の現われを阻んでいる。キリストのまことのいのちを形式によって把握することはできず、それにも関わらず、そのような方法が主流となっているところに、大きな逸脱がある。
 
 だが、そのように抜け殻に過ぎない形式が主流となった背景には、神を信じる人々が、キリストご自身のみを純粋に追及することをやめて、自分自身を高く掲げるようになり、真に代価を払ってキリストに従っていないのに、自分たちの集まりが、あたかもキリストの花嫁であるかのように見せかけるようになったことが挙げられる。

  ある人々は、そのようにキリスト教界がバビロン化したことを糾弾し、「何がエクレシアではないか」を暴くことに熱中している。だが、キリストのまことの命とは、決して、”アンチ・テーゼ”にはとどまり得ない”何か”であるため、どれほど偽物を定義し、暴露しても、それによって本物を生み出すことはできない。

   では、一体、エクレシアとは何なのか、と問うても、それを誰もが分かるように説明することは不可能だ。その本質をまずは自分自身が個人的に体得しなければ、それが何であるか、決して誰にも分からず、形容もできないのが、エクレシアなのである。
 
 多くのクリスチャンが、教会とは、毎日曜日に、同じ地域、同じ時代を生きている者同士が、互いに顔を合わせられる場所に集まって神を礼拝するもの、もしくは、霊的に同じ理解に達している者同士が集まり合うもの、と思っているが、それは途方もない勘違いである。

  また、ある人々は「自分たちこそエクレシアとは何かを知っている」と豪語するかも知れないが、本当にその人がエクレシアの一員であるかどうかを知っておられるのは神ご自身のみである。

  キリストによって新しく生まれ、この新しい命によって生かされる個人個人、またその個人個人の交わりが、集合体としてのエクレシアを形成している。だが、エクレシアは時代を超え、物理空間を超える霊的構成体であるため、必ずしも、この世の同じ時空間を共に生きて、同じ理解を共有している者同士が、互いに顔を合わせ、接触できる形で集まり合うという性質のものではない。
   
 幽閉されていたガイオン夫人や、投獄されていたパウロや、迫害や監禁の中にあった聖徒らは、他の兄弟姉妹と物理的に接触が不可能となっても、依然として、エクレシアの構成員のままであった。しかも、黙示録などを参照するならば、エクレシアは、キリストのまことの命によって新しく生まれ、御言葉に忠実であった聖徒らの時代を超えた総体を指していることが分かる。

 このように、エクレシアはとらえがたく、キリストの命を実際に生きることなくしては決して理解することもできない性質のものであるが、それでも、求めなさい、そうすれば与えられます、と聖書にある通り、私たちが心の底から真剣に求めるならば、必ず、神は誠実にそれに答えて下さり、エクレシアとは何かということをも、啓示して下さるだろう。

  だが、忘れてはならないのは、キリストと共に生きることなくして、キリストの命を味わい知ることは誰にもできない相談だということである。
 
 そこで、キリストを二の次にして、エクレシアを第一に追い求めることには、重大な罠がある。私自身、バビロン化したキリスト教界を脱して、真実なエクレシアを追い求める過程で、常に警戒しなければならなかったことがある。それは、あまりにも多くのクリスチャンが、キリストの御名による兄弟姉妹の集まりを追い求めると言いながら、そのうちに、いつの間にか、追求の対象が、自分たち人間の集まりへとすり替わり、キリストではなく、自分たちの集まりを賛美することが最終目的となって行ったことである。

 主ご自身を切に追い求めると言っていたクリスチャンが、いつの間にか、キリストを退け、「自分たちの集まり」を美化し、肯定し、賞賛し始める。そして最後にはついに、それだけが絶対的に正しいかのように言い始め、そこへ信徒らを拘束し、その団体を離れた信徒を悪魔化したり、断罪するのである。このような堕落は、組織化された礼拝だけでなく、組織化されないクリスチャンの集まりにも同様に起きうる。
 
 私たちが第一に求めるべきものは、あくまで神の国とその義、であって、人間の集まりではない。人間の温もりの中で得られる安心感や、自分たちの集まりを賛美、権威化し、自画自賛の根拠を得るために、エクレシアを利用することは誰もできない相談である。

 そこで、たとえある日、一人のクリスチャンが主に出会って、自分がエクレシアの一員であることを知ったとしても、そのクリスチャンが、ただ主ご自身だけを切に求め、主お一人だけに心を向けることをやめて、自分自身の姿を見つめてそれを賛美し始めた瞬間に、彼がエクレシアだと思っていたものは、ただちに腐敗し、バビロン化し始める。

 私はそのことを深く警戒しており、そのような混合物を求めているのではない、ということを何度でも断っておきたい。

 だが、私が2009年に横浜に来て後、(むろん、それ以前に属していたキリスト教界においては言うまでもないことであるが)、遭遇したすべての出来事は、「エクレシアのバビロン化」と呼んで差し支えない現象ばかりであった。これは今日のキリスト者が遭遇している、想像を超えるほどに大きな危険であり、誘惑であると言える。
  
 一旦、集まりがそのような腐敗や混合を受け入れてしまったならば、その交わりが回復される見込みはほぼゼロであり、やがてそれは偽物のエクレシアとして神の敵と化すだけである。

 そこで、我々は、ある集まりがバビロン化している事実を見わけた瞬間に、抜け殻となった組織や団体を離れ(エクソダスして)、キリストのみを追い求め、主のみに従うために、霊的にまだ見ぬ地へ向かって歩いて行くことが必要となる。

 バビロン化しつつある組織にとどまって、それを是正することはむなしい相談である。そうした試みには全く見込みがない。

 こうして、当初は純粋に神を見上げていたと思えた交わりであっても、時と共に、腐敗堕落して行くなら、そこをエクソダスせねばならず、その過程で、かつては純粋に主に従うことを追求し、人間的な面ではすっかり意気投合していたような兄弟姉妹とも、決定的に道が分かれてしまうことは何度でも起きる。

 多くの人は、そういった離反、エクソダスが行われた過程を見て、「あの人は他の人とうまくやれなかったので、あれやこれやの団体を出たのだろう」と憶測したり、「リーダーにつまづいたのだろう」などとささやいては、その団体は悪くないが出た人に非があるのだと言っては、人間の集まりや群れの中に、あたかも真実があるかのように考え、自分を慰めようとする。
  
 そうした集まりが、交わってはならないものと混合したがゆえに、主のみに従うために、人々が出て行ったのだと理解する者は非常に少ないだろう。

 だが、事実は、多くの場合、そのような単純なものではない。そして、いかなる憶測が生まれようとも、信徒がキリストのみを主人として崇め、従うためには、それが不可能になるほど、被造物に過ぎない人間を高く掲げるようになったバビロンとの混合物としての集会からは、出る以外に手段は残されていないのである。
 
 このように、エクレシアを追求することは、キリストのみを追求し、キリストのみに従うことなくしてはできないため、それは決して人間との交わりを第一として生きることとは相容れず、その点で、人間の交わりを美化することとも異なり、その点で厳しく、険しい道である。

 だが、それも当然であろう。聖書の中で、主イエスは、賢い花嫁と愚かな花嫁のたとえを語られているが、そのたとえにより、花嫁と呼ばれるものが、すべて主の目にかなう存在ではないことがはっきりと示されている。

 花嫁たるものが、花婿だけを一心に見つめることをやめて、花婿が来ないうちに、自分の生活の安寧を打ち立てて満足し、自分の美や賢さを見て酔いしれ、自分の地位は安泰だと思い込み、そこに安住して自分の利益を追求し、自分の栄光を求め始めるならば、その花嫁の心には、もはや花婿は慕うべき存在と映らず、かえって己が権威と栄光を打ち立てるための名目だけの存在となろう。そのような花嫁は、花婿が来たときに、もはや花嫁とは認められない、と言われて退けられるだけである。

 そうなる危険は、形骸化したキリスト教界のみならず、エクレシアを追求するすべての兄弟姉妹に存在する。他者の堕落や腐敗を非難することはいとも容易であり、キリストの名を冠しながらも、キリストの香りを一切失った組織を数限りなく列挙することは容易であるが、神はあくまで一人一人の心に問いかけられ、一人一人の行いに応じて報いられる。

 そこで我々は改めて、キリスト者が追い求めるべきは、花嫁たる自分の栄光ではなく、花婿たるキリストの栄光であるということを、心に焼きつけておかねばならない。人に悪しざまに言われたくないという恐怖感から、あるいは、人とのつながりを失いたくないという恐怖感から、バビロン化した集会にとどまっていても、良いことは何もない。いずれはその崩壊に巻き込まれるだけである。そのような交わりを改善することは、諦めるべきである。

 むしろ、聖書では、愚かな花嫁たちに油を分けてやったがために、彼女たちの怠慢に巻き込まれ、永遠に至る栄誉を失ってはいけないことが警告されている。自分が受けるべき栄冠を失わないように注意を払わなければならないのである。
 
 神の御前での自分の心の透明性、苦難や恥をも厭わず、キリストに従う御言葉への忠実さ、自分の栄光でなく、キリストの栄光だけを求める貞潔さ、といったものが、今日のクリスチャンにはどれほど欠けているであろうか。
   
以下は、オースチンスパークスの「土台のある都」 第八章 都の明かり―命と証しの透明性 (1)から。

聖書朗読:黙二一・一〇~一一、一八、二一、二二・一、ガラ四・二五~二六。

 「透明な」というこの言葉は、これらの節の中に一度ならず現れます。また、例えば「純粋な金」「透明なガラスのような」のように、その同義語も出てきます。これらの言葉は光の観念を示唆します。これらの言葉は、天から出て神から下って来る天のエルサレムに関して述べられている光と関係しています。その明かりは高価な宝石のようであり、碧玉のようです。

 主の天的な民の光について述べるにあたって、私たちは再びとても厳粛で、深刻な、大切な特徴に触れることにします。その特徴には、それに関する途方もない歴史があります。主の民の歴史、そして霊の命の歴史はすべて、光と暗闇、真理と虚偽、純粋さと姦淫・混合、透明性と曖昧さ、開放性と秘匿性の歴史です。この長い歴史を表現するのに他の多くの言葉を用いることができます。この歴史がこれほど長く、これほど多彩なのは、すべて敵の執拗な絶え間ない試みのせいです。敵は、神からのものを疑わしいもの、不確かなものにしようとしてきましたし、絶対的真理、絶対的純粋さ、絶対的透明性というその途方もない力をそれから奪い去ろうとしてきました。

 キリスト来臨の遥か昔に、サタンはこれらのバビロン的要素をこの地上に広めていました。これらのバビロン的要素は、教会が霊的衰退・弱さの状態に陥る時をひたすら待っていました。それはこの霊的団体に襲いかかり、その命を吸い取って損なう寄生虫となる機会をつかむためです。ですから、新約聖書の外に移る前にすでに、霊的に衰退した状況の所では、バビロン的特徴、祭司制度、聖職者階級制度、形式主義、儀式主義、他の多くの事柄――それらはバビロンに由来するものであり、オカルト、秘教、美学の中に見られます――といった状態であることがわかります。これらの観念は今や、ローマの体系全体の総計であり本質です。これらのものはみなバビロンから来たものであり、教会が衰退するのをこの世で待っていました。そして、この衰退が起きるやいなや、教会を掌握して侵害したのです。それらはみな、黙示録の最初の諸章の中に見出されます。また、他の箇所にも、奥義的バビロンのこの宗教性の数々の要素が見い出されます。それらの目的は、直接的・即座にキリスト教を撲滅することや、教会の存在を消し去ることではなく、教会の立場を神の御前で曖昧なものにするよう様々なものを混合させることでした。それは、神が教会をもはや御自分の純粋な花嫁と認められなくなるためでした。


(2009年の記事「エクレシア この不思議なもの」を加筆修正)
  

「随想 吉祥寺の森から」の杉本徳久を待ち受ける厳しい裁き―悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。

しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3:16-21)

以上の御言葉ほど、カルト被害者救済活動の支持者らの悪しき心の本性にぴったりと当てはまるものはきっと他にないだろう。

カルト被害者救済活動を率いるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、同牧師を支持する杉本徳久のような人々は、これまでプロテスタントの諸教会や牧師やクリスチャンにさんざん言いがかりをつけては、信者らを裁判に引きずり出しては打撃を加えて来た。

しかし、彼らはいざ自分たちが訴えられると、その訴えから全速力で逃走し、自らの社会的信用を完全に失墜させるという醜い逃亡劇を繰り広げている。

以下は、当ブログ執筆者が、村上密および杉本徳久の2名に対し、当ブログが彼らから受けた長年に渡る執拗な嫌がらせ工作に対する民事上の責任を追及するために起こした民事調停の期日呼び出し状であり、裁判所からの正式な召喚状である。

  しかし、すでに述べたように、カルト被害者救済活動の支持者らは、自分たちが行っている悪事が明るみに出されるのを恐れて、光のもとへ出て来て、人前できちんと自分を弁護しようともせず、ただ闇から闇へと逃げ回っている。
   
彼らはこうして闇から闇へと逃走し続けることによって、聖徒らとの和解のチャンスを踏みにじり、自分たちの身にさらなる神の御怒りを招き、厳しい裁きに自分自身をさらしているのである。

筆者は、以上の連中は、出廷の義務がないことを逆手に取り、期日に裁判所にやって来て、きちんとした弁明を行う可能性は極めて低いだろうと予想している。

先の記事でも述べた通り、村上密は、事件を京都に移送しろと身勝手な要求を出し、京都でなければ行くつもりがないと出廷を拒んでいるだけでなく、筆者が送った100頁ほどの申立書に対しても、たった一枚の反駁の答弁書すらも送って来ていない。

筆者の申立書には、当ブログが受けた嫌がらせの経緯が仔細に書かれているため、追って内容を公開する予定であるが、村上はそれに対して、「自分こそ実名で色々書かれて迷惑だ。ここには書ききれない」などと子供じみた返答しかしておらず、こうして具体的な反論がないということは、事実上、筆者の言い分を認めているに等しい。

およそこれまで「被害者の味方」をきどって様々な裁判を戦い通して来た人間の言い分とは思えず、完全に人をなめきった対応であると言えよう。

村上はこうして、自分がこれまで頼みとして来た裁判所からの呼び出しも蹴とばしながら、今やネットの陰に隠れて、コメント投稿欄さえない完全に一方通行のブログで、依然、自分があたかもキリスト教界を取り締まる資格と権限を持つ人間であるかのような(誇大)妄想に基づく恥ずかしい自画自賛の記事を書き連ねている。

村上のそのブログ記事も、昨今は劣化が激しく、まるで引きこもり老人のモノローグ的回顧録や、惰性で書かれた小学生の夏休みの感想文のようになりつつある。

このように、村上密は、反響も得られない自作自演ブログを書き連ねることの方が、裁判所へ出廷して、公の場所できちんと客観的な証拠を提示しながら自分の主張を述べることよりも、はるかに優先されるべき重要課題であるかのように考えているらしいのであるが、こうして自分にとって不都合な事実からはひたすら逃げ続けながら、都合の良い夢想のような見解を並べ、ただ他者を非難するだけのブログに引きこもっている様子を見ると、このようにまで現実感覚を失ったことは、精神の異常さえ疑われてもおかしくないほどの恐るべき思考の退行現象だと言わざるを得ない。

もはやこうなってはカルトを取り締まるどころの話ではないだろう。

村上は、神学校時代に宗教法人法を学び、「その甲斐あって、教会運営の問題を扱う時、教団を越えて取り組むことができるようになった。」などとブログでうそぶいているが、村上がもし宗教法人法の基本的精神をほんのわずかでも理解していれば、諸教会の規則を踏み越えて教会に外から介入することが、いかに宗教法人法になじまない行為であり、憲法上保障された信教の自由の侵害に当たるかは、初歩の初歩として理解していておかしくないはずである。

もちろん、宗教法人法は、世俗的な事柄しか規定しておらず、宗教法人法に限らず、信教の自由に鑑みて、宗教団体の教義について外から介入できる法は存在しない。にも関わらず、村上や杉本が自分の属さない宗教団体の教義が「異端である」とケチをつけて、運営に介入しようとしていることは、それ自体が、信教の自由の否定であり、著しい侵害行為である。

杉本徳久も村上密も、その論理の破綻は明白であり、彼らは一見、法を盾に取って、宗教団体の腐敗の是正を呼びかけているように見えるが、その論をじっくり眺めると、彼らは常に感情論を振りかざしては、「法律が定めている規制以上に厳しい制裁を!」と叫んでいるだけの様子がよく分かる。

たとえば、村上は最新の記事の中で、韓国の摂理の教組が出所したことに触れ、足輪をつけただけでは、宗教団体内での被害を食い止めることができず、「これでは防止にならない。」と言う。

だが、それでは一体何をすれば解決になるのかという問いが生じよう。摂理の教祖を死ぬまで監禁するか、いっそ死刑に処せば、当然、被害はもう発生しないことは明白である。だが、そのようなことが正しい解決方法だと言いたいのであろうか。

村上は、この点に全く答えようとしない。杉本および村上は、常に「被害の防止」を口実にして、法の定めを超えて、もっと厳しい措置をと、法に基づかない制裁を声高に叫ぶ。だが、その一方で、彼らは、なぜ宗教法人法も含め、この世の法は、人間の自由を最大限に尊重し、規制を最小限度に抑えているのか、もっと言えば、なぜ聖書の神が、人間の自由意志を尊重し、罪を犯す自由をも人間に与えられたのか、その意味を全く理解しようとしない。
   
村上密が、他人だけを強制的に裁判に引きずり出しておきながら、自分自身は出廷することから逃げ続けている様子を見ても、村上は、他人には法の定めを超える厳しい制裁を科すことに同意しても、自分自身は法に服するつもりが全くなく、裁きからも逃げ回り、要するに、村上自身は自分だけはいかなる法にも服さなくて良いと考えている様子がよく分かるのである。

村上はこの度、これまでネット上でクリスチャンを貶めるために一致協力して来た杉本徳久をも、弁護することもなく責任を押しつけ、切り捨てようと、「トカゲの尻尾切り」に走っている。

さらに、親分が親分なら子分も子分で、杉本も村上同様に、わざわざ自宅付近の武蔵野簡裁で開かれる期日に出廷するかどうか、期限までに回答もせず、むろん一枚の反駁の答弁書も出さず、ただ逃げ回っている。

読者はこの有様をよくよく見てもらいたい。これが、これまでプロテスタントの諸教会のカルト化を取り締まるなどと豪語しては、諸教会に自ら裁判を起こし、名を売って来たカルト被害者救済活動の支持者らたちの責任のなすりつけ合いと醜態なのである。

これまで正義の味方の仮面をかぶって活動して来た彼らの内心が、どれほど卑怯で、臆病で、利己的で、二重性を帯びているかがよく分かる行動であろう。要するに、彼らは、他人にだけは極めて厳しい基準を振りかざし、他者だけを裁きながら、自分自身は一切、法に服する姿勢が欠落しており、自分自身の犯した行為についてふさわしい裁きを受けるつもりもない様子がよく分かるのである。

もしも彼らがこれまで述べて来たように、筆者の主張が不当であると言いたいならば、公の場所へ出て来て、十分な証拠を用意して反駁すれば良いだけの話であるが、彼らには決してそれはできまい。

なぜなら、筆者が述べていることは、何ら不当な主張ではなく、彼らにはそれに反駁できるだけの証拠がないからだ。第三者の前に双方の言い分を持ち出せば、どちらに信憑性があるかは明らかだ。従って、彼らは、己が罪を認めないためには、どこまでも逃げ回るしか残された道がないのである。

また、杉本と村上は、これまで様々なクリスチャンに訴訟を吹っかけては、裁判資料という形で、クリスチャンの個人情報を強制的に収取し、嘲りの対象として来た。そういう醜悪な過去があるのだから、彼らはこの先、自分たちがクリスチャンの呼び出しに応えて裁判所に赴けば、したたかな反撃を受けると分かっているはずだ。

彼らは、自分たちがこれまで信者らに対して犯して来た悪行の罪深さを分かっていればこそ、信者からの反撃怖さに、決してこれから先、公の世界に出て議論はできないだろうと筆者は予想する。

まさに、悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。と聖書が言う通り、闇へ闇へと逃げて行くしかないのである。

こういうわけで、村上や杉本のようなカルト被害者救済活動の支持者らは、今回の民事調停に出廷しようとすまいと、この先、二度と自分から教会や信者らに対して裁判を起こすことができなくなるだろうと思う。

他人だけは率先して裁判に訴えるが、いざ自分自身が訴えられると、逃げ回り、「市民社会の一員」として、全く責任ある行動ができない幼稚な大人たちが起こす裁判など、あまりにみっともなく情けなく恥ずかしいため、今後、誰一人として見向きもせず、取り合いもしないからである。

かつて杉本は筆者に送りつけたおびただしい数の恫喝書簡の中で、「ヴィオロンさん、いつまでも逃げ回っていないできちんと対処して下さい!」とか「市民社会の一員としてふさわしい行動を!」などと叫んでいたが、自分ができもしないことを他人に要求するなど、おこがましさの極み、呆れるばかりである。

さて、当ブログには、杉本と思しきIPアドレスから最後にアクセスがあったのは、お友達の工作員仲間が懸命に検索結果の操作にいそしんでいた以下の深夜の時間帯であり、それ以後、同IPアドレスからは、当ブログへのアクセスは行われていない様子である。

それを見ても、杉本は筆者が武蔵野へ赴くことを極度に恐れており、自分にこの先、降りかかろうとしている災難を直視する勇気もなく、この事件から逃げられるだけ逃げのびようと決めて、すでに武蔵野からも逃走している可能性さえ思わされる(むろん、事実は神のみぞ知るだが)。


 杉本と思われるIPアドレス
 
<追記>本記事の投稿後、本人登場。
この先、どこへも逃げようはありません。



だが、そのようなことも初めから織り込み済みである。刑事事件になっている以上、わざわざ自己弁明の機会も棒に振って逃げ続ければ、この先、ますます不利で厳しい結果がふりかかることになるだけなのだ。

刑事事件に関してネットに出回っている情報は、とにかく早期の対応、早期の弁護が重要だという弁護士の助言ばかりである。これは早い段階で、本人が真摯な反省の態度を示し、社会人として、信用の置ける責任ある行動を取り、事態を収拾するために必要な努力を払い、自分で自分を弁護しようと懸命に努力することが、たとえ罰を逃れられない場合であっても、罪の軽減のために、どれほど重要な決め手であるかをよく物語っている。

それを親切にも与えられた自己弁護の機会を理由もなく蹴って出廷もせず、証拠を出して反駁もせず、自分の行為に一切の責任を取らず、ブログの削除もせずにただ逃げ回っているだけとあれば、当然、極度に心証が悪くなって行くのは避けられない。

おそらく、杉本は良心的でまともな弁護士に助言を求めなかったものと想像される。何度も言うように、きちんとした弁護士がついていれば、自らを弁護する絶好の機会が与えられているのに、裁判所に赴かないようにといった言語道断な助言を行うことは決してなかったであろう。

杉本はこれまで、筆者が「カルト被害者を冒涜した」とか、当ブログの記事が自分への誹謗中傷であるとか、正当な根拠もないのにさまざまな言いがかりをつけては、筆者を脅し、筆者から杉本を訴えるようにと、身勝手な要求を突きつけ、ソーシャルワーカーであるにも関わらず、自身のブログで、社会的弱者の困窮状態を上から目線であざ笑いつつ、筆者に弁護士を通して連絡を寄越せと、再三、一方的に要求して来た。

だが、そうして人を脅し続けた杉本に、果たして、自分が訴えられた時にきちんと弁護士を雇う経済余裕があるのかどうか、それはこれから杉本自身が証明せねばならない。

目下、杉本は、弁護士からの書面はおろか、自分自身の答弁さえ、裁判所が定めた期限までに送って来ないのだから、眩暈がするような自己矛盾である。どこまで自分の述べた言葉に責任を取ろうとしない卑怯者なのかと呆れるのみだ。

他人には最大限の手間と出費を要求しておきながら、自分自身は、自己を守るためだけにも、ほんのわずかな労をさえ厭うのである。こんなオブローモフ主義者のような不精者のために本気で弁護する人間が現れるとはとてもではないが思えない。

ちなみに、無精者オブローモフは、聖女のようなオリガにも、愛想を尽かされ、立ち直りは不可能との烙印を押され、見限られた。杉本もグレゴ氏とよく似たような将来が待ち受けているのではないか。自分が破滅に瀕しているのに、自分の問題を棚に上げ、他人の問題ばかりに首を突っ込み、他者の立ち直り云々を論じようとすること自体、あまりにおこがましく、僭越で、見当違いである。

杉本は今後の自分の人生の更生のためにこそ、すべての労力を注ぎ、自分の人生に降りかかろうとしている災難を思って泣き叫ぶべきであろう。

何度も言うが、これが、今まで「カルトと勇敢に戦う正義の味方」を演じながら、諸教会に裁判を吹っかけ、あたかも被害者を救うために、不当な濡れ衣を耐え忍んでいるかのように演じて、世間の同情票を乞い続けて来た者たちの惨めで哀れな末路なのである。

あまりにもみっともなく、情けなく、目も当てられない醜悪としか言えず、この醜い逃亡劇と罪の擦り付け合いにより、彼らには、戦う前からすでに敗北と裁きが確定していると言えよう。

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」

「信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」

さて、以上の図は「刑事事件弁護士ナビ」から転載したものであるが、杉本はこの先ニュッサのグレゴリウス氏(それにしても異常なペンネームだ)と同様の行程を辿ることになる。以上の図を参照すると、グレゴリウス氏が不起訴になったのは、勾留後のことであり、この段階で、(Dr.Lukeが書いている内容によると)、グレゴ氏の主治医が心神喪失を主張したことが、不起訴へ向けて決定的影響を与えたと思われる。

お騒がせ者のグレゴ氏のブログは、すでに正式に削除されたようだが、そこには当時、同氏の破綻した生活状態や、仕事に就けない無念、同居人から責め立てられるなどして肩身の狭い思いをしながら暮らしていることの愚痴が延々と綴られていた。Webに残っている情報によると、不起訴になった後でも、以下のような愚痴が書き連ねられていたようである。

「 2011/4/21 4:13

 今だから書くが、私は不起訴になった。

 けれど、このことは精神的、社会的、経済的に、徹底して崩壊させた。未だに人のたくさんいるところはこわくて冷や汗が出る。友人はひとりを残してみな逃げ去った。仕事を失い、得る見込みもない。もはや、ホームレスになるかわからぬ明日をも知れぬ我が身である。けれど、これらの惨憺たる状況のなかで、しみじみと・・・(*続きは本文にて) 」


グレゴ氏の文章は常に大袈裟で誇張された表現に満ちていたため、どこまで本当なのかも判別がつかないが、それでも、この記述は、嘘とは言えないであろう。不起訴になっても、これだけの害が降りかかるのだから、起訴されて有罪になった人物は、一体、どれほどの損失をこうむるのであろうか。

それが予想されればこそ、筆者はこれまで再三、カルト被害者救済活動の支持者の陣営に、和解を呼びかけ、自己弁明の機会や、悔い改めのチャンスを提供して来たのである。

だが、筆者が思うに、おそらく、彼らはそうした機会を決して有益に活かすことなく、ことごとく踏みにじり、悪用することしかできまい。筆者は前々から、神は彼らが情状酌量の余地を徹底的に遠ざけ、最も厳しい結末を選ばせるのではないかと考えている。

なぜなら、彼らはもはや引き返せる橋をとうに超えてしまっているからだ。彼らは神の教会と全クリスチャンのみならず、神ご自身を敵に回しながら逃亡しているのである。

しかし、筆者自身は、彼らがどのように行動するかに関係なく、あくまで光のもとに出て行き、神と人との前で公然と恥じることなく自分の主張を提示し続けるつもりである。そうして、筆者が単なるポーズとしてではなく、事実、最後まで彼らに扉を開き、和解の呼びかけを続けたことが公然と証明されよう。

カルト被害者救済活動の支持者らは、せっかく与えられた猶予や、弁明の機会や、人の憐れみや情けをとことん踏みにじり、その当然の報いとして、最も厳しい結果を身に受けることになるのである。

さて、グレゴ氏は、当時、Dr.Lukeから受けた「呪いの予言」が、自分の人生を破滅させたのだと主張していた。カルト被害者救済活動の支持らは、今になってもまだ、グレゴ氏が破滅したのは、Dr.Lukeのせいであると言って、グレゴ氏を被害者にしたいと考えているのかもしれない。

だが、筆者に言わせれば、それはDr.Lukeのせいにして済まされるような問題ではない。グレゴ氏がDr.Lukeに勝てなかったのは、グレゴ氏が悪魔の言いがかりに対して全く無防備で、御言葉によって装して、毅然と立ち向かう姿勢を全く見せなかったことの当然の結末である。

我々はクリスチャンとして、あらゆる方面から、不当な言いがかりや非難に直面する。それは悪魔や、その手下となった詐欺師連中からやって来る時もあれば、仲の良かったクリスチャンの兄弟姉妹から来る時もあろう。しかし、誰からどのような非難を受けようとも、それに対して、我々は最後まで神の義に堅く立って、御言葉によって武装し、血潮と、信仰の守りの盾によって、悪魔の放つ罪定めの火矢に対抗し、防戦し続けなければならない義務を負う。

我々を弁護して下さるのは神であり、聖霊であり、御言葉が我々の武器であり、信仰が守りの盾であるが、我々自身がキリストの贖いによって義とされたという確信に揺るがされることなく立ち続けないことには、神でさえ我々を弁護できないからだ。

そこで、我々は自分がどんなに不完全であるように思える時にも、信仰によって神の完全な武具を着て、暗闇の勢力を相手取った戦いにおいて、完全な勝利をおさめねばならない。

主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯びとして腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:10-18)

筆者は、杉本が当ブログにしきりに言いがかりをつけては刑事告訴すると恫喝していた頃、幾度となく、以下の聖書の御言葉を引用し、彼の悪しき計画は成就しないと予告した。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のように見られている」

と書いてあるとおりです。

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、地のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-39)

キリスト者にはこうして力強く絶大な勝利が約束されている。御言葉に従い、神のうちに隠れることさえできれば、無敵といっても良い権限が与えられているのである。

にも関わらず、クリスチャンを名乗っている者が、自分で自分を被害者だと主張して、不当な言い分を反駁もせずに受け入れ、いわれのない罪定めや呪いの言葉を退けもしないならば、そのような臆病者は、悪魔と暗闇の勢力に思う存分弄ばれて、被害の上にも被害が増し加わり、果てしなく人生の重荷が増し加わって行くだけであろう。

このようにして、信者は常に問われている、自分のせいで生じたのではない、自分では負うこともできない罪の負債を、自分で背負おうとして破滅するのか。それとも、キリストがすでにすべての罪を十字架上で負って下さった以上、もはや自分で重荷を負い続けることは必要なく、罪は自分から取り除かれたものであるとみなし、私たちのために日々重荷を担われる方にその荷をお任せするのか。

カルト被害者救済活動の支持者らの中には、自分の抱える「生きづらさ」を何とか克服しようと、「カウンセリング」を通して自分自身を粘土のようにこね回しながら自己改善に取り組んでいる者たちがいる。

だが、そのようにして彼らが自分の重荷を神に委ねようともせず、そうした重荷をもたらした主たる原因である悪魔を糾弾することもせず、むしろ、悪魔が押しつけて来る「生きづらさ」を、まるで自分自身の責任であるかのように抱え込み、蟻地獄の中でもがくようにもがきながら、絶えず、その重さに下へ下へと引っ張られ、それでも自分は他の誰かに比べて少しはましな状態になり進歩はあったなどと気休めを言っている時点で、彼らはすでに悪魔の術策にすっかりはまってしまっていると言えよう。

そういう問題は、もともとすべて人間の手に負えるものではなく、どんなに努力を重ねてみたところで、人が自分で改善などできる問題ではないため、我々はそうした重荷を一刻も早く自分自身の手から切り離して、我々自身の古き自己と共に、キリストの十字架の死に渡すべきなのである。

にも関わらず、自分を被害者だと主張している人々は、悪魔の押しつけて来る不当な重荷を自分のものであるかのように受け入れ、その責任を引き受けているわけであるから、これでは戦う前から敗北を認めているのと同じである。

本当は、その重荷は、クリスチャンには負う義務もないため、敵に背負っていただくのが正しい処置であると、気づかなければならないのである。暗闇の勢力はやり方が汚いため、次々と不当に押しつけられる「生きづらさ」を、クリスチャンが自分のせいで起きたことのように考えて対処しようとしていれば、雪だるま式に負債が膨らんで、気づけば負いきれないほどの巨額のマイナスが生じるだけである。

そこで、クリスチャンは、誰からどんな「被害」を受けようとも、決してそこで生じた「マイナス」を自分のものとして主張してはならない。ただ聖書の御言葉に基づき、その「損害」を毅然と跳ね返し、それが自分には決して害を及ぼす力を持たない虚偽でしかないことを公然と証明すべきなのである。

クリスチャンにはどんな状況にあっても、主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない。」(詩編23:1)と宣言できる特権を与えられており、また、そう宣言すべきなのである。

わたしを苦しめる者を前にしても
 あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
 わたしの頭に香油を注ぎ
 わたしの杯を溢れさせてくださる。

 命のある限り
 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
 主の家にわたしは帰り
 生涯、そこにとどまるであろう。」(詩編23:5-6)

そこで、筆者は、今回、村上密・杉本徳久の両者による悪事を世に訴えて責任追及しているとはいえ、彼らが出廷もせず、最後までこの呼び出しを嘲り、踏みにじったとしても、だからと言って、筆者の生活はそんなことではいささかも影響されないと断っておく。

筆者の生活の守り主は神であり、その生活は、悪党に依存しなければやっていけないような弱々しいものではない。神はこれまで常に筆者の生活を守って下さったが、この先も、筆者を守り、かつ、栄えさせて下さる。キリストの御言葉に堅く立つ者の足は、よろめくことなく、遠く遠くまで歩いて行くことができる。

最後につけ加えておきたいが、先の記事にも記したように、Dr.Lukeが2010年8月29日にグレゴリウス氏へ送った以下の和解の呼びかけ「雲さんへの伝言 」は、筆者がDr.Lukeの書いた文章を土台にこれを大幅に加筆修正して作成されたものである。

当時、Dr.Lukeはこの呼びかけを見て「よく見れば唐沢文体でないことはすぐに分かる」と言っていたが、これは合作というよりも、むしろ、筆者の文章と言うべきである。(ちなみに、これ以外の用件で、筆者がゴーストライターのような仕事をしたことはない。)

以下の文章を改めて読めば、グレゴリウス氏の非がどこにあるために彼が自己防衛できなかったのかが明白に分かるだろう。Dr.Lukeがどれほど心理操作に長けており、グレゴ氏と最初から和解する気がなく、ただポーズのためだけに和解を呼びかけ、筆者の文章を利用したのだとしても、それでも、この呼びかけの中には、決してDr.Lukeのせいにして済ませられない決定的に重要な要素が含まれている。

それは、この呼びかけの中で、グレゴ氏が、Dr.Lukeとかつて「主の御名によって」また「血潮によって」和解した事実があったのに、それを自ら反故にしたと記述されていることである。この呼びかけで、Dr.Lukeはグレゴ氏にもう一度、「キリストによって結ばれた兄弟同士として」「二心を廃し」、「キリストの血潮に立って」、和解を呼びかけている。

Dr.Lukeがこの呼びかけを筆者に推敲させたのは、おそらく、Dr.Lukeの心の中に当時から欠けていた真実な信仰と誠心誠意を補うためだったと推測されるが、とにもかくにも、Dr.Lukeはこうして筆者を利用することにより、実際に、御言葉によって自分の主張を武装することに成功したのだ。

その時点で、Dr.Lukeはグレゴ氏に比べて圧倒的に有利に立ったと言えるかも知れない。御言葉に対しては、御言葉をもってしか応戦することはできず、相手の主張を粉砕できるだけの、より強度のある論理が必要となる。その場合は、信仰対信仰の対決になる。

我々が注意しておかねばならないのは、人間的な感情の対立や確執のレベルで、信者同士がどれだけ対立しても、それだけならば、痴話喧嘩のような話でしかなく、誰の人生にも重大な影響は及ぼさないが、その紛争に聖書の御言葉が関わって来ると、その対立は人間的な対立を超えて、霊的次元の対立にまで発展する危険をはらむことである。

クリスチャンを相手取った紛争で、どちらか一方が、聖書の御言葉によって固く武装しているような場合には、よくよく注意しなければならない。なぜなら、その人間の呼びかけにどのように反応・応答するかが、対戦相手の人生を決めてしまいかねないからである。

この点こそ、信仰を持たない者が、クリスチャンを相手取って争う際に、最も気を付けねばならない点なのであるが、不信者には決して理解することができないがゆえに、不信者にとって巨大な罠となる点なのである。

不信者は、みすぼらしく弱々しく疑わしそうに見えるクリスチャンを相手に争う際、まさか自分の目の前にいる人間が、単なる人間ではなく、神が弁護しておられる聖徒なのだとは気づかない。そして、人間的な確執や対立の次元で衝突しているつもりでいるうちに、いつの間にか、永遠の領域で決定的に自分の利益を損う重大な過失を犯してしまいかねないのである。

不信者は、信仰がないゆえに、信者を相手取った戦いの恐ろしさが分からず、その背後に神がついておられる信者を侮辱したり、敵に回したりすると、一歩間違えば、この世だけでなく、来るべき世においても、破滅に至ることの恐ろしさが分からない。

だからこそ、筆者は何度も、カルト被害者救済活動の支持者らが、神の教会やクリスチャンを相手取って争い続けることの恐ろしさを述べて来たのである。そういうことをしていると、その者は、いずれ神ご自身を敵に回すことになると。

長いが、当時の和解の呼びかけを引用しておこう。

「雲さん、もう一度、あなたに呼びかけたいと思います。あなたがどこかでこの文章を読んで下さっていることを願いつつ…。

雲さん、もしも、あなたがこの文章を読まれたなら、ぜひ、私とお会いしていただきたいのです。直接、私に連絡しづらいのであれば、山谷少佐を通じて、連絡して下さっても構いません。

なぜ私があなたにお会いしたいのかと言えば、会って、事実関係について、あなたを責めるためではありません。二人で話し合いをして、何とか全ての誤解と行き違いを解き、あなたと合意に達し、以前のような、キリストの御身体に属する兄弟同士としての、親しいお交わりを回復できないかと願っているのです。

雲さん、私も今、あなたと同じように、時の人となって騒がれています。Dr.Lukeは数え切れない中傷を受けて、衆目にさらされており、もはや地に落ちて、泥まみれになっているも同然なのです。ですから、雲さんの置かれている現在のつらい心境が、私に分からないわけではありません。

それでも、私が雲さんにどうしても出て来ていただき、私に会って欲しいと願うのは、何とかして直接、雲さんの真のお気持ちを確かめられないかと思うからです。

事実関係について触れるつもりはないと言いながら、細かいことを振り返るのを許して下さい。私にはどうしても腑に落ちないことがあります。2004年10月、あの掲示板で、二人は和解できていたものと、私は思っておりました。雲さんが追い詰められていたので、見るに見かねて、私が掲示板に登場し、あなたが傷つけられたと感じられたその思いは理解しました。そこで、私はあなたの求めに100%応じて、謝罪いたしましたね。「私の裁きをあなたに委ねます」とも書きました。

あなたは「主の名によって赦します」、と言って下さり、すぐにあなたから長いメールがありました。「こちらの気持ちを書かせていただきますね…」と、心中を率直に吐露して下さり、最後に、「私にとってあの謝罪で十分です」と、結んで下さいました。あなたとの交わりが回復されて、私はとても嬉しく思いました。

さらに、2005年5月、雲さんからメールをいただきましたが、その中では、今度は、雲さんの方から、あの時はご自分が悪かったと、丁重に謝罪して下さり、祈りの要請もして下さいました。私はあなたが赦して下さったことを感謝しています、とお答えしました。すると、神は別の次元に導いてくださった、と喜びの報告を下さいましたね。

そして2006年10月には、私が旧いブログで、上記の件について証した際、あなたの方からコメントを下さり、

「私がその当事者です。あの時は、Lukeさんが和解の手を差し出してくださり本当に感謝しております。また、私もキリストの血のゆえに赦してくださったこともありがとうございました。そのために、私は恨みと苦き思いから解き放たれて神の愛の道を再び歩むことができるようになりました。LukeさんとKFCの愛する兄弟姉妹たちに、さらに豊かな祝福がありますように。」

「また、エタさん、本当にありがとうございます。機会があれば、と思います。いまだ、御心配されている方々がいるとのこと、心動かされます。本当に、多大な御迷惑と心痛をおあたえして申し訳ありませんでした。どうぞ、皆様によろしくお伝えください」

と、書いて下さいました。私はあなたの証を本当に嬉しく受け止め、キリストが十字架で流された御血によって、私たちは敵対を解かれ、すっかり和解できたのだと思っておりました。

ところがこの和解について、あなたは後になって、杉本氏のブログの書き込みの中で、これはただあなたがフリをしただけだったとして、和解は本心ではなかったかのように、反故にされ、その上、Dr.Lukeによって、この話が「美談にされている」と、揶揄されました。まるでこの和解が、私の一方的な作り話であったかのようにです。

けれども、同じ2006年11月に、私の旧いブログ上で、あなたはこのようにも書いておられます。

「Commented by Luke 2006年11月16日(木)07:14山谷スレは凄いことになっていますね。ところがうれしい記事を見つけました。雲さん、まだ来てくださっていますか?おめでとうございます^^あなたの論にアーメンですよ。

Commented by 雲 2006年11月16日(木)08:02ありがとうございます。今年3月に結婚しました。山谷少佐の件は黙ってられなくて発言してしまいました。お恥ずかしい限りです。

Commented by Luke 2006年11月16日(木)12:25これはうれしいご報告です^^ずっと気にしておりましたので、感謝です。彼女も私のことを赦してくださるとうれしいのですが。

God bless!

Commented by 雲 2006年11月16日(木)14:43もう赦していると思います。KFCとLukeさんにますます主の祝福がありますように。」

これにも、私は大いなる喜びを覚え、祝福しました。

それから、最後に私があなたがたと接触したのは、2007年7月のこと、彼女の方からも、自分たちをおゆるしくださいとメールをいただき、私は「もうゆるされています」と祝福をお祈りしました。

ですから、その後、私はてっきり、雲さんは幸福な生活を歩んでおられるものと信じて喜び、安心しきっておりました。ところが、杉本氏のブログにあなたが書かれたコメントを通して、あなた方が予想外の状況にあることを知り、非常に驚きました。また、和解はフリだったので反故にすると、一方的に書いておられたので、これにはとても困惑せずにいられませんでした。

雲さん、あなたは掲示板で、「主の名によってゆるします」と言って下さり、メールで、「公の和解は神の前での和解」と言って下さったのです。さらに、私の旧いブログ上では、「キリストの血によって」とまで書いて下さっています。

この言葉を正直に受け止めるならば、あなたは、主の御名と、キリストの御血によって語られたご自分の言葉を、後になって、あれはただフリをしただけだった、と反故にしたことになります。雲さんはよく言っておられましたね、あなたの最も嫌いなものは、「二心」であると。偽善や、二心を嫌っておられた雲さんなのに、なぜキリストの御血によって語った言葉を、反故にできるのか、私にはあなたの思いがどうしても理解できないのです。

雲さん、この点について、何か行き違いや誤解があったのでしょうか?私が知りたいと思っているのは、本当に、これらすべては、あなたのフリにだったのかどうかということです。あなたとすっかり和解できていたと思っていたのは、私一人の思い込みでしたでしょうか?もしも、あなたがおっしゃるとおり、それがフリだったのだとしたら、それがあなたにとっての真実であるとして、私は受け止めたいと思っています。

ですから、あなたの本心を正直に教えて欲しいと願います。それとも、あなたには、この他に、何か私の知らない、別なわだかまりや、不満があって、それを私に伝えたいと思って、このような方法を取られたのでしょうか?私はあなたの本当の気持ちを聞かせていただきたいと思っています。どうぞ、直接、私に会って、正直な気持ちを語ってくれませんか。

また、雲さん、あなたは公の場において、ウォッチマン・ニーや、私の教えは、カルトであり、ホラー以外の何ものでもないとおっしゃいました。それはきっと、私には分からない、あなたなりのお考えに基づいて、これ以上、この教えにはまる人々が出ないように、つまり、キリストの御体が損傷を受けないようにと、警告を発せられたおつもりだったのだろうと思います。

もしも、あなたのおっしゃるように、ニーや私が、主の御体に対して、損傷を与えるのでしたら、私はいつでも降りるつもりです。正直なところを申し上げれば、兄弟姉妹は、もう自立して歩んでおられますし、私という存在は、必要不可欠な存在ではなくなりつつあると言っても、過言ではありません。今、私はただ主の御体にある一人として、何らかの形で、兄弟姉妹に仕えたいと願っているだけです。

もしも私に改めるべき点があるならば、改めなければならないと考えています。ですから、何を根拠にして、あなたがニーや私の教えをカルトとまで主張しておられるのか、率直なご意見を、忌憚なくお聞かせいただきたいと思うのです。このことについて、どうかあなたの思いを直接、私に語っていただけませんか。

雲さん、あなたはご自分の主張を一方的に展開された後、私との対話の場を設けることなく、篭ってしまわれました。もしも、二人が直接、話し合うことなく、このまま時だけが経っていけば、互いの思いのずれは、どんどん大きくなっていき、和解はますます難しくなっていくような気がいたします。願わくは、今のうちに、あなたと以前のような交わりを取り戻せたらと、私は願っております。もしも何か私の知らない誤解や、わだかまりがあるならば、主が私にそれを知らせて下さいます様に。そして、何とかしてそれを解き、兄弟の絆を取り戻すことを祈ります。

雲さん、もしこの呼びかけに、あなたが心を開いて下さり、私との対話を望んでいただけるなら、まずは雲さんの方から、ぜひ私にご連絡をいただけませんでしょうか? 私は雲さんご自身の口から、直接、この事件について本当のお気持ちを語っていただきたいと願っています。」

筆者は、以上と同様の呼びかけを、当時、杉本徳久に対しても「Sさんへの手紙」としてしたためたが、杉本も、グレゴ氏と同様、決して和解の呼びかけに応じようとはせず、自らを弁護する道を退け、杉本は特に与えられた和解のチャンスさえも嘲りながら、クリスチャンを憎み、侮辱し続ける道を自ら選んだ。

こうした和解の呼びかけには、脅しの文句の一つも含まれておらず、完全に相手の自由意志に委ねようとする謙虚な内容であるため、無視することも、踏みにじることも、簡単にできよう。

しかしながら、その呼びかけの中には、キリスト者であれば、絶対に無視することのできない、いくつもの重要なポイントが含まれている。信仰者であれば、それに応答しないわけにいかないことがすぐに分かるはずだ。

そこには、キリストの流された血潮に対して、主の御名に対して、聖書の御言葉に対して、キリストの御身体に対して、どのように関わり、どのように応答するのか、といった問いかけが含まれている。信者が、こうした問題をはっきりさせないで黙っておくことには、永遠のリスクが伴う。

にも関わらず、ただ呼びかけを行った人間が嫌いだとか、応答する気が起きないといった人間的な動機で、呼びかけを拒否するにとどまらず、そこに含まれているキリストの血潮、主の御名、御身体を嘲り、踏みにじる行動に及んだなら、その人間は、ただあれやこれやのクリスチャンを侮辱しただけには終わらず、永遠の領域において、神に対して赦されない冒涜行為を犯してしまう危険が生じるのである。

人間的な対立であれば、いくらでも撤回や謝罪や和解が可能である。しかし、信者を名乗っていた人間が、自分を罪から贖う小羊の血、すべてにまさる権威である主の御名、キリストの花嫁であり、御身体なる教会を嘲り、踏みにじると、その者は、自分で自分の救いを退けたことになるため、人間的な確執や対立をはるかに超えた霊的次元で、神ご自身を敵に回して破滅するという結果になってしまうのである。

ここにクリスチャンや教会を相手取った戦いのはかりしれない恐ろしさがある。

もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。

モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。

復讐はわたしのすること、
 わたしが報復する
と言い、また、
「主はその民を裁かれる」
と言われた方を、わたしたちは知っています。生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。」(ヘブライ10:26-31)

おそらく、杉本徳久はグレゴリウス氏の場合よりも、さらに悲惨かつ深刻な形で、自分自身の救いを退け、自分のための贖いを否定するのではないかと思われる。

2010年当時から、杉本がDr.Lukeから受けた民事提訴の予告をどれほど内心で恐れていたかは、ブログを通してはっきりと読者に伝わっている。当時、杉本から実名で名誉毀損を受けていたDr.Lukeには、杉本を提訴することが十分に可能であった。Dr.Lukeがそれに踏み切ってさえいれば、争いは早期に終結していた可能性が高い。

だが、Dr.Lukeはグレゴ氏に対する和解の呼びかけも筆者に推敲させたくらいなので、杉本の不当な主張に断固立ち向かって勝利をおさめることが、クリスチャンとして当然の責務であるという考えはなかったのであろう。結果として、偽預言者と呼ばれても、その汚名を晴らそうとしなかった。

そこで、筆者がその跡を継いで、杉本が当時から恐れていた事柄を実行している。いや、Dr.Lukeが当初から筆者の名を引き合いに出して杉本に提訴の予告を行うなど、筋の通らない主張をしていたことを考えても、おそらく、杉本に引導を渡すことは、最初から筆者の仕事だったのではあるまいか。

だが、筆者は、杉本が今回の調停に応じなければ、この先、杉本を「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と言われる方に、直接、引き渡す。杉本は暗闇に引き渡され、その後、筆者が自分で杉本に向き合うことはおそらくもうないであろう。

ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。

筆者はこれまでカルト被害者救済活動の支持者らが、常に人の情けや憐れみを悪用し、どれだけチャンスが与えられても、決して光の方に来ようとせず、罪を悔い改めようともしなかったことを知っている。だから、そうした性質がこの先、変わるという楽観を筆者は持たない。彼らはあまりにも心を頑なにされているため、悔い改めることも、和解することも不可能な地点にいるのではないかと、最悪の予想をしている。だからこそ、この事件の結末は彼らにとって非常に厳しいものとなると考えられるのだ。

杉本はこの事件から逃げたつもりでも、やがて「生ける神の手に落ちる」ことになる。それは恐ろしい事態であり、そんな事態になるくらいならば、まだ筆者と直接、向き合っていた方がはるかにましだったと後になって分かるであろう。

こうして、自分を贖って下さった御子を足蹴にし、自らの罪を清めた血潮を汚れたものとし、聖霊を冒涜する者の末路は、非常に恐ろしいものとなる。

「神は愛だから誰をも裁いたりなさらない」などとうそぶき、カルト被害者救済活動に賛同していた者は、この活動の支持者らが今後どういう末路を辿るのかによくよく注目されたい。

「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)

聖なる都よ、さめよ、力をまとい、美しい衣を着て、ちりを振るい落として立ち上がれ!

シオンよ、さめよ、さめよ、力を着よ。聖なる都エルサレムよ、美しい衣を着よ。
 割礼を受けない者および汚れた者は、もはやあなたのところに、はいることがないからだ。

 
捕われたエルサレムよ、あなたの身からちりを振り落せ、起きよ。捕われたシオンの娘よ、あなたの首のなわを解きすてよ。


 
主はこう言われる、「あなたがたは、ただで売られた。金を出さずにあがなわれる」。

 主なる神はこう言われる、「わが民はさきにエジプトへ下って行って、かしこに寄留した。
 またアッスリヤびとはゆえなく彼らをしえたげた。
 それゆえ、今わたしはここに何をしようか。わが民はゆえなく捕われた」と主は言われる。

 主は言われる、「彼らをつかさどる者はわめき、わが名は常にひねもす侮られる。
 それゆえ、わが民はわが名を知るにいたる。その日には彼らはこの言葉を語る者がわたしであることを知る。わたしはここにおる」。

 よ
きおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ、

 シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と言う者の足は
 山の上にあって、なんと麗しいことだろう。

 
聞けよ、あなたの見張びとは声をあげて、共に喜び歌っている。

 彼らは目と目と相合わせて、主がシオンに帰られるのを見るからだ。

 エルサレムの荒れすたれた所よ、声を放って共に歌え。
 主はその民を慰め、エルサレムをあがなわれたからだ。

 
主はその聖なるかいなを、もろもろの国びとの前にあらわされた。

 地のすべての果は、われわれの神の救を見る。

 
去れよ、去れよ、そこを出て、汚れた物にさわるな。

 その中を出よ、主の器をになう者よ、おのれを清く保て。

 あなたがたは急いで出るに及ばない、また、とんで行くにも及ばない。
 主はあなたがたの前に行き、イスラエルの神はあなたがたのしんがりとなられるからだ。

 見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。
 多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、
 その姿は人の子と異なっていたからである――

 彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。
 それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。
 (イザヤ52章)

 この箇所は、これまでにも当ブログでは霊的なエクソダスの瞬間に幾度となく引用して来たが、今再びこに引用しておきたい。

 以上は「聖なる都エルサレム」への呼びかけであるから、象徴的にはエクレシアへの呼びかけを含んでいると受け取って差し支えないものと思う。

 激しい霊的な戦いがあったが、決着はすでについており、それはまもなく天から地に引き下ろされる。

 無割礼の者、贖われない者、キリストの救いにあずからない者たちが、エクレシアを蹂躙した月日は終わり、彼らは出て行き、キリストが教会のかしらとして栄光のうちに支配される。キリストこそ教会の真の主人であり、その真の主人が、あるべき地位を取り戻されるのである。
 
 「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」(ヤコブ4:7)

 悪魔の不当な言いがかりには徹底的に立ちむかわねばならないが、聖徒らが真に穢れた者と分離するなら、悪魔は聖徒らの反撃にたじたじとなって、自ら逃げ去って行くことになる。

 そうして、教会が回復される。不法者に蹂躙されて荒れ果てていた都も、聖なる都として美しい衣をまとい、新たな力を身にまとって、高貴な姿で立ち上がる。荒れ果てた場所はきれいに修復され、不法と搾取は終わり、嘆き悲しみは去る。
 
 決着とは以下の通りである。

 「見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。 」
   
 もちろん、「わがしもべ」とは、直接的にはキリストを指す。十字架において、人々に蔑まれ、罵られ、拒絶され、顔立ちや姿が損なわれるほどに痛めつけられ、死に渡されたキリストが、しみも傷もない完全な復活の姿で現れ、天にまで挙げられ、神の右の座に就き、栄光をお受けになることを指す。

  だが、そのことは、主イエスを指しているのみならず、主に従う我々全てのキリスト者をも含んでいる。

  我々は、主が苦しまれたと同じように、地上での苦難を通して、天の偉大な栄光にあずかる。キリストの死と同形化することによって、キリストの復活にあずかり、キリストをかしらとする教会として、キリストと共に天に座する。

 天の権威と栄光が、この地上にも反映し、我々はこの地上を歩んでいる間にも、天に備えられている御国の前味わいにあずかり、栄光の前触れを見て、喜び楽しむ。

  他方、神の義に悪質に逆らい、人間の肉なる自己と、人間の義を掲げるカルト被害者救済活動は、間もなく終焉を迎える。

  これはもともとキリスト教とは本来的に何の関係もない運動である。

  教会で受けた「被害」なるものを主張して、教会に争いをしかけることや、受けた「被害」から脱しようと、懸命にカウンセリングや自己改善に取り組むことは、本質的にはキリスト教とは全く無関係である。

 無関係であるばかりか、それはキリスト教に悪質に対抗する思想から生み出されて来た運動である。

 教会で受けた「被害」なるものをどんなに主張し、どんなに自己改善プログラムを続けようと、キリストと共なる十字架の死を経ないなら、彼らは一ミリたりとも自己を改善できないままに終わる。

 死を経ない限り、誰も復活にあずかることはできない。新しく生まれることなくして、神の国に入ることは誰にもできない。そのようにして、神の義にあずからない人間たちが、自己の正義をどんなに振りかざして自己改善に取り組み、他人を裁いても、そこから生まれて来るものは何もない。

 まして、贖われない者たちが、自分たちの肉なる正義を振りかざして、神に贖われた者を罪に定めるなど、秩序の転倒もいいところだ。彼らはアナニヤとサッピラのごとく、エクレシアに手をかける前に、打ち倒されて終わるであろう。 なぜなら、神の教会は、神の御言葉の聖なる支配が及んでいる復活の領域であるから、穢れた者が手を触れることはできない。

  こうして、自己の義を掲げる肉なる運動は敗退して行く。だが、信仰によってキリストの十字架にとどまる義人たちは、神の完全にあずかるだろう。そして、神の義にあずかる人々が、この世の法においても義とされ、自己の義を掲げる人々が、この世の法によって罪に定められるというパラドックスに満ちた結果が出る。

 「聖なる法(御言葉による支配)」は、「この世の法」に抵触しない。キリストの義は、律法の要求をすべて満足させるものであるから、そのキリストの義を受けた者が、この世の法によって罪に定められるようなことは起き得ないのである。

 カルト被害者救済活動は、聖なるものを冒涜する運動であるばかりか、この世の法や常識を含め、あらゆる規則をあざける運動であることが間もなく明らかになろう。これは「嘲りの霊」によって支配される運動であり、神の聖を侮り、嘲っているだけでなく、すべての尊いもの、良識あるもの、この世の常識、この世の法、あらゆる規則を踏みにじって、肉なる人間に過ぎない者が、自分自身をすべてにまさって高く掲げ、己を神とする、聖書の神に敵対するあざけりの霊に支配される運動なのである。
 
 彼らは今まで「この世の法」を「聖なる法(教会規則)」以上のものであるかのようにふりかざして、教会の「聖域」を取り払うとして、クリスチャンを裁き、罪に定めようとして来たが、いざ、彼らは自分たちが「この世の法」によって裁かれ、罪に定められそうになると、「この世の法」をもあざけりながら逃げ出すことしかできない。

 結局、このような人々は、「聖なる法」にも「この世の法」にも服さず、「自分は被害者である」と主張して、あらゆる人々に言いがかりをつけることによって、自分だけはどんな法にも服さないで済む人間である(=自分は神だ)と宣言しているだけなのである。

 だが、ペンテコステ運動や、サンダー・シングのような異端の教えが、どんなに「神は愛だから誰をも裁いたり、罰したりなさらない」などと言って、聖書の二元論を骨抜きにし、人間の罪もなければ、裁きもなく、地獄もないかのように主張しても、それは聖書に逆らう悪質な虚偽であるから、結局、そのような教えを信じる人々(カルト被害者救済活動の支持者らを含む)は、みな自分自身の罪によって裁かれ、罰せられることを避けられない。

「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。 「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。 」(エレミヤ17:9-10)

 とある通り、神は一人一人の行いに対して報いをなされる方である。己が罪を認めず、悔い改めもせず、キリストの贖いも受け入れない者が、自分だけは何をしても許され、決して罰せられることはないと考えることは、思い上がりに過ぎず、そのようなことは決してあり得ない。

 この世における裁きは、来るべき裁きのひな型であるから、今回のことでも、筆者は、神の裁きは確かに存在していることが、神と人との前で公然と証されるであろうと予告する。(人間的な感情がどうあれ、動かせない霊的法則があることを筆者は知っているからだ。)

 カルト被害者救済活動は、教会の霊的堕落や堕落が生みだした猛毒の副産物のようなものであるが、エクレシアがキリストを正しい位置に迎えさえすれば、このような悪しき運動は終結する。

 キリストが栄光をお受けになること、キリストがかしらとして支配されることこそ、教会が本来的な機能を回復する正しい道筋なのである。

 地上の組織である教会が、牧師制度と訣別できるのかどうかを筆者は知らない。だが、少なくとも、筆者自身は、これまでのすべての信仰の歩みを通して、エクレシアには決してキリスト以外の目に見えるリーダーを据えてはならないという厳しい教訓を常に学ばされた。

 筆者は、兄弟姉妹はみな対等であり、キリスト以外に兄弟姉妹の上に立って教える教師は必要なく、ましてそのような制度を固定的なものとして作ってはいけないと確信しており、その確認に、生涯、立ち続けるつもりだ。

 万民祭司のこの時代、信徒には、目に見える人間のリーダーを介することなく、直接、キリストの御名を通して、神に祈る特権が与えられている。神の子供として、直接、神にすべての必要を懇願し、御霊によって直接教えを受けることができると聖書に書いてある。

 その確信を離れないことである。二度と人間の指導者に逆戻りしないことだ。兄弟姉妹の交わりを持つことと、人間の指導者を頂点とする組織を作ることは全く別の話である。
 
 もしも我々信者らが、地上の罪深く滅びゆく人間の指導者に栄光を帰することをやめて、組織や団体に栄光を帰することをやめて、牧師や指導者やその他の権威者を担ぎ上げては彼らを誉めたたえたり、自分自身を高く掲げて誉めたたえたりすることをやめて、ただ見えないキリストだけが栄光をお受けになるよう行動しさえすれば、すべてが急展開して、たちまち秒読みのような速さで、あらゆる問題が取り除かれ、解決されるに違いないと筆者は考える。

 何度も述べて来たように、キリスト教界が腐敗する時、最も被害を受けておられるのは、神であって、人間ではないのだ。神が正しい地位を取り戻され、受けるべき栄光を取り戻され、キリストがすべての御名にまさって崇められるべく、正しい地位に就かれることこそ、教会のあるべき姿の回復なのであり、それは人間のどんな利益にもまさって優先的に回復されなければならない神の利益である。それをさしおいて、人間が人間自身の利益をどれほど声高に主張したところで、それがかえりみられることも、回復されることも決してないであろうと筆者は言っておく。

 つまり、我々がエクレシアの一員としてどのように神の恵みを享受して生きるのかということは、我々がキリストを自分の心の中で、また生活において、どのように扱うかということに直結している。キリストが我々の心の中であるべき地位を占めておられないのに、我々だけが先に栄光を受けて成功し繁栄を享受するということはまずないと見て良い(そのような繁栄があるとすれば偽りであるから長くは続かない)。
 
 さて、筆者も、キリストと共に十字架の苦難と死を経て、復活の命へと結びつき、この世に対して死んで、この世のすべての罪ゆえのもろもろの呪いに満ちた束縛や、奴隷的拘束から解き放たれて、自由の中で、高く天に上げられ、御座から主と共に統治したいと心から願い、またそれが事実であることを信じる。

 そのようにして、今や聖徒ら一人一人がキリストと共に御座から統治する時代がすでに来ている。だが、そのためには、我々には主と共なる十字架の死にとどまり続けるという土台が必要である。死を経なければ、復活も御座の統治もない。それゆえ、日々、御名のゆえの苦難にも甘んじる姿勢は常に必要である。

 だが、死の圧迫を受けても、御名にすがり、救いの確信を守り、神の義を決して離れずに、人間に栄光を帰さず、キリストだけに栄光を帰して、御言葉に従う信徒らには、神がどれほど豊かに報いて下さり、守って下さるか、神ご自身が証明される。だから、これから起きることに注目されたい。

 神はご自分に頼る民を決して捨てることなく、常に我々の砦となって我々の名誉や地位や生活を守って下さり、しかも、最も良きもので満たして下さる。私たちは羊のように緑の牧場に伏し、憩いの水際で安らう。

 だが、末尾に引用する通り、神を退けて人間や自己により頼む者、その心が神を離れている者は呪われる。

 カルト被害者救済活動の支持者らは、何もかもすべてをさかさまに見ている。彼らにはクリスチャンを罰する権限など最初からなく、クリスチャンこそ、彼らの悪行を神に訴え、彼らを罰する権限を持つ。彼らは「孤立は狂気への道」などと言って、自分たちは一人ではないとさかんに吹聴して、人間のつながりばかりを重視しているが、神につながらない彼らの誇る連帯は、バベルの塔と同じように、途中で粉砕されて、散らされて終わる。焼けつくような塩路に住み、「交流の少ない所」で暮らさねばならないのが誰であるかは、以下に挙げるエレミヤ書にも明らかにされている通りだ。

 この先、カルト被害者救済活動の支持者らには、孤立しか待つものはないだろう。

 彼らはこれまでクリスチャンを追い散らし、不名誉を着せて、何とかして聖徒らの連帯を粉砕しようと腐心して来た。だが、それはこれから先は逆転し、彼ら自身の運命となるであろう。

 これまで御名のゆえに、孤独や苦難をよく耐えて来たクリスチャンにとっては、孤立も迫害も恐れるに足りない。しかし、一度もそのような苦しみを通らされたことなく、常に徒党を組んでは、その勢いで、クリスチャンを踏みつけにして威張り散らして来たようなわがままな人間にとっては、たった一度の短い孤立でさえ、さぞかし耐えがたい試練のように受け止められるであろう。

 彼らは人間の絆を失えば、頼るものはなくなり、心打ち砕かれて、すっかり枯れ枝のようになって意気阻喪し、これまで築き上げて来たすべての虚飾の栄光、偽りの連帯、勢い、財産を失うことになる。落胆して枯れ枝のようになれば、せっかく貯め込んで誇りとしていた財産も維持できなくなるであろう。
 
 しかし、生ける水の源である主につながっているクリスチャンは、常に主を頼みとして生き、繁栄する。暑さの中にあっても枯れず、水が絶えた時でも、常に地下深く根を下ろし、尽きることのない水脈から汲み上げることができるため、常に青々とした葉を茂らせ、永遠に至る実を結ぶ。

 人間の心を傷つけず、人間に恥をかかせず、人間の中で孤立しないようにうまく立ち回って生きることは、この世の処世術としては高く評価されるかも知れないが、信仰生活とは何の関係もなく、本質的に重要な事柄では全くない。そればかりか、そうした手練手管は、神の目から見れば、呪われるべき肉なる手腕でしかない。

 聖書の原則は、たとえすべての人間の歓心を失い、すべての人間を偽り者とすることになっても、ただお一人の神だけに従い、神を正しい真実な方であると告白し、神の御言葉を守り、従い抜いて生きるべきことを教える。

 それだけが、まことの命への道であり、結果的に、そのようにして御言葉を守って生きる時こそ、人間の理解や歓心も、最終的にはついて来ることになる。だが、神の歓心を第一とせず、人間の歓心や、人間の評価や寵愛だけを第一に求めて生きることは、風に引き去られるもみ殻同然のはかない価値しか持たないものを追って生きることであるから、結局、そのような人生には何も残らない。

 教会よ、今こそ悪しき者どもの汚い手を振り払って、聖なる高貴な贖われた者として勇敢に毅然と立ち上がりなさい。花婿キリストの尊い御名にふさわしい尊厳と力を今こそ取り戻しなさい。

 私たちの聖所は天にあり、キリストの栄光の御座と共にある。クリスチャンこそ、教会に狼藉を働く悪しき者どもの罪を神に訴え、権威を持って彼らを打ち据え、追い払う権限を持つ者である。

 恐れることはない。私たちが発する言葉の一つ一つ、神への懇願の一つ一つは、すべて聞かれている。神の戦士たちよ、激しい霊的戦いが起きる時も、気を確かに持って、最後まで御言葉に堅く立って、立派に勇敢に戦い抜きなさい。この世にあって神の子供たちに艱難はあれど、キリストはすでに世に対して勝利を取られたのだから。
  
    
    「主はこう言われる、

 「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、
  その心が主を離れている人は、のろわれる。
  彼は荒野に育つ小さい木のように、
  何も良いことの来るのを見ない。
  荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。
 
  おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。
  彼は水のほとりに植えた木のようで、
  その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。
  その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」。
 
  心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。
  だれがこれを、よく知ることができようか。
  「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。
  おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。
 
  しゃこが自分が産んだのではない卵を抱くように、
  不正な財産を得る者がある。
  その人は一生の半ばにそれから離れて、その終りには愚かな者となる。

  初めから高くあげられた栄えあるみ座は、われわれの聖所のある所である。
 
   またイスラエルの望みである主よ、あなたを捨てる者はみな恥をかき、
   あなたを離れる者は土に名をしるされます。
   それは生ける水の源である主を捨てたからです。」(エレミヤ17:5-13)

「律法による義」もなければ「信仰による義」もない村上密の呆れた正体

「愛する者たちよ。 すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。 多くのにせ預言者が世に出てきているからである。 」(Ⅰヨハネ4:1)

以上に挙げた聖書の御言葉にあるように、人は試されなければ、その本質は決して分からない。

そのことは、とりわけ牧師や信徒に当てはまる。そこで、見かけが正義漢で善良そうに見える人間ほど、内実は一体、どうなのか、よくよく試してみることをお勧めする。その人間が表向きに掲げている美しいスローガンを、他人に向かって振りかざすだけでなく、自分自身も本当に守るつもりがあるのか、試してみることをお勧めする。

今回、当ブログでは、これまで自称「被害者」の信徒らを募っては、次々とプロテスタントのキリスト教会に「カルト化の疑い」ありとレッテルを貼り、裁判をふっかけて来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密という人間の薄っぺらい人間性を見せつけられる出来事に遭遇したため、そのことを書いておきたい。

ここしばらく、このような物騒な話題が続いていることに飽き飽きしている読者もいるかも知れないが、もうしばらく辛抱していただきたい。

筆者は、この度、今月(2018年3月)下旬の期日に向けて、村上密および杉本徳久を民事調停に呼び出した。場所は武蔵野簡裁だ。この調停は、杉本が長年に渡り、当ブログに対して執拗な嫌がらせ行為に及んで来たことに対する民事上の責任追及であるが、村上密も杉本の行為を幇助した疑いが極めて濃厚であるため、両名を呼び出したのである。

これは裁判に至る前段階である。民事調停というのはADR(裁判外紛争解決手続き)の一種で、参加は任意で不参加の罰則はない。決定に不服があったからと言って、上告などの制度もなく、即、裁判に至るわけでもない。

民事調停は裁判とは異なるが、その代わり、利点もあり、裁判のような大事に至る前に、また、裁判ほどの長期化を避けて紛争解決しておきたいと願う人々にとっては都合の良い場だ。裁判のようにきっちりと法的概念に照らし合わせてすべてが白黒つけられるわけではなく、弁護士でなくては作成できないほどの緻密な文書も要らず、話し合いの性質が高いため、裁判よりは緩やかな基準で物事の解決がはかられる。

民事調停は、このように話し合いの性質が高いという特性を利用して、夫婦の離婚の話し合いや、子供の親権に関する争いなど、家庭に関わる紛争にも大いに利用されており、大きなもめ事から小さなもめ事まで、市民に開かれた場だと言えよう。

ところで、なぜ筆者が今回、出席さえ義務づけられていない、拘束力のない手段をあえて取ったかというと、筆者は突然、誰かに裁判をふっかけるとか、突然、誰かを予告なく逮捕に至らせるとか、そういうやり方が好きではないからだ。

裁判にすれば、欠席のまま終了するリスクが減ることは分かっている。だが、筆者は、グレゴリウス氏が訴えられた時に、その事件を傍から見ていてつくづく思ったのだが、可能な限り、強制力を行使することを最小限度に控え、まずは本人の意志を活かす余地のある場から始めたいと思うのだ。

たとえば、本来、刑事事件になると、被告訴人には、自分が訴えられた事実が前もって告げられることは決してなく、捜査が進んで行くうちに、本人が特定され、突然、ある日、逮捕に至るというケースが稀ではない。それまでに任意の事情聴取が行われるかどうかも分からず、本人は自分に捜査が及んでいることを全く知らないまま、突然、青天の霹靂のように逮捕されるということも起きうる。

だが、それでは、突如、そのような目に遭わされた人間にとっては、あまりにもはかりしれない衝撃となろう。

むろん、告訴されている事実を相手に告げれば、証拠隠滅や逃亡などの恐れが出て来るので、通常、そんなことは決してしない。ただし、当ブログに対して行われた嫌がらせについては、今更、証拠隠滅もないものと筆者は考えている。従って、今回の措置には筆者の意向や決断が大きく影響している。

筆者は、手荒な措置を恐れるがゆえに、緩やかな手段を取りたいわけではない。ただ我々の信じている神が、突如として人を罰したりは決してなさらず、何度も、何度も、真理の道に立ち返るよう、人々に警告を行い、最後の最後まで、人間の自由意志による判断に物事を委ねておられ、最後の最後の段階になってから、ようやく裁きを行われるというその性質を、筆者は自分自身も持ちたく思っており、見習うべきと考えているのである。

だから、筆者は、どんな紛争についても、いきなり裁判、ではなく、まずは話し合いの場を、というのが、常識人の考える当然のルールであろうと思う。刑事事件として扱うにしても、いきなり逮捕、有罪ありきではない。まずは何度も、何度も、問題行為をやめるよう警告が繰り返され、その一つ一つの忠告が次々と破られて行き、何を言っても、本人に全く反省の態度が見られず、いかなる忠告や叱責も全く効き目がなく、自分が引き起こした事件に対する自覚が完全に皆無で、それをやめる意図もなく、罰せられる以外にその行為が悪であることを自覚してもらう道が他にないと分かってから、初めて、強制力を持った措置が取られるべきであると思う。

むろん、事件化されることは、物事は有罪の方向へ向かっていくということなのであるが、それでも、その中でも、踏むべき手順を一つ一つ踏んで、他に残る手段が何もないことが分かってから、最後に強制力を持った措置が取られるべきだと考える。

そのようにすべてのプロセスを十分に踏み、なおかつ、本人にも弁明の機会を与えたにも関わらず、本人がそれを嘲笑い、踏みつけにしたというのであれば、その後、強制力を行使する最悪の結果になっても、それが不可避であって行き過ぎた報復措置でないことは誰もが認めることになろう。

そこで、筆者の場合は、ただ扉を開いていますよという、うわべだけのパフォーマンスではなく、きちんとした段取りを踏んで、物事の本質、人の心の本質を底の底まで確かめるために、一つ一つ時間をかけて踏まなければならない手順があると考えているのである。

このようにして、筆者の紛争解決のやり方は、まずは緩やかな措置から始まり、それが功を奏さなければ、次第に、取る措置の難度・強度が増していくというものである。律儀すぎるかも知れないが、そのように段取りを踏まずに、いきなり強制的な措置を取ることには、あまり賛成できない(そうすることを恐れるがゆえに言うのではなく、神と人との前に、証明しなければならない段取りがあると考えているのである)。

だが、村上は今回、裁判ではなく、それよりも緩やかな民事調停が取られたという事実を自分に都合よく理解してか、事件を京都に移送することを希望しており、京都でなければ出席しないと言い張り、話し合いに応じる姿勢すら見せていないらしい。

それを聞いても、何という滅茶苦茶な話だろうかと筆者は呆れている。村上は事実上、残る二人に京都まで来いと言っているに等しい。要するに、自分一人さえ交通費と時間が浮けばそれでいいというスタンスらしい。

しかも、村上は、サラリーマンでなく、自営業者でもなく、信徒からの献金を受けて生計を成り立たせている牧師なのだ。交通費を惜しまなければならないほどに赤貧の貧乏人でもなければ、働き蟻のように働いて平日に裁判所へ赴いただけで生計が破綻するようなパートやアルバイトの勤め人でもない。

そこで、読者は注意されたい。こういった些細な返答からも、村上の利己主義は明白に見えて来るであろう。自分一人さえ楽であればそれでよく、他の人々が自分のためにこうむる都合など考えもしないのだ。というより、京都への移送の嘆願は、そもそも調停に参加しないための言い訳でしかないと見るべきだろう。

これでも本当に牧師なのだろうか。これでは通常人よりももっと不誠実ということになりかねない。

しかも、村上は、今回、筆者の出した約50頁近くの申立書(証拠書類を含めるとおよそ100頁にはなる)に対し、一枚の反駁の答弁書も送って来ず、ただ裁判所の照会書のフォーマットに、短く「私こそ実名で色々書かれて迷惑しています。ここには書ききれません。」などと三行程度の呆れるほどに子供じみた回答しかしていないと聞いている。

やる気のなさが最初から見えている、人を馬鹿にした回答である。

このことから、村上が筆者をどれほど見下げているか、どれほど民事調停をなめてかかっているか、どれほど自分の教会の元信徒を軽んじているかがよく分かるが、それでも筆者は、ここではっきりと言っておきたい。

村上は事態の深刻さを何も分かっていないようだが、これは村上が筆者一人だけに対して取っている行動ではなく、神と全教会と全クリスチャンの前で取っている行動なのである。

そこで、もし本当に村上が今回の調停期日に武蔵野へ出て来なければ、村上の活動はこれでもうお終いであると筆者は断言しておく。村上の社会的信用は完全に地に落ちることになる。

村上が筆者を見下げるのは今に始まったことでなく別に結構だが、村上自身がこれまで裁判を振りかざして来たにも関わらず、自分への訴えだけは忌避するような態度を取れば、村上の信用はそれでお終いである。

なぜなら、裁判というものは、自分が相手を訴えることもできる代わりに、自分自身が訴えられた場合にも、きちんと応じてそれなりの責任は取りますよ、という双方通行の姿勢がなければ、決して世間の信用を得られないからだ。

これまで村上は、「自分は命をかけてカルトと戦っている」などと正義漢ぶって豪語しながら、「カルト化している」とみなした教会や牧師たちを相手取って裁判を起こして来た。そして、そうした裁判のことを、村上は誇らしげに自分の手柄のように語って来た。

村上は、自分がそうして次々と教会やクリスチャンを裁判に訴えるのであれば、当然ながら、自分が訴えられた時にも、それを受けて立つ姿勢がなければならない。

他人だけを訴えておきながら、いざ自分自身が訴えられる段になると、忙しいだの、遠いだの、様々な逃げ口上を並べて、ろくに反駁もせず、雲隠れするのであれば、もはやそんな人間のふりかざすご都合主義的な「裁判」など、誰一人見向きもしなくなるだろう。

しかも、村上はこれまで様々な教会に対し、「被害者」を名乗る元信徒を募っては、裁判をけしかけて来たのだから、村上自身の教会の「元信徒」である筆者が訴えを起こす場合にも、当然ながら、それに向き合う道義的な義務が生じるであろう。

どんなに不当な訴えを出されたと感じても、やましいことがなければ、きちんと開かれた場所へ出て来て、十分な証拠を提示して、論拠を示して反駁すればいいだけのことだ。オープンな姿勢を見せること、不当な主張にも忍耐強く、正当な手段で向き合っている姿勢をアピールすることは、市民からの信頼を勝ち得るために必要なアクションだ。

それが、裁判所から呼び出されても、遠いとか、書ききれないとか、子供の寝言のようなことを並べて、真面目に対応もせず、姿さえ見せないというのでは、ネットの影に隠れて自分は言いたい放題、一方通行の場所で、自分に都合の良い嘘ばかりを並べ、いざその言葉の証拠を求められ、責任を追及されると、早速、全速力で遁走し、世間の前で堂々と勝負することもできずに、敵前逃亡して逃げ回るしかないという最低最悪の印象を免れられない。出て来ないのは、やましいことがあるからだろうと憶測されるのは当然である。

しかも、TVにまで出て記者会見までして名前を売っているのに、実名で色々書かれて迷惑だとか、自分を未成年の中学生か何かだとでも思っているのだろうか、と呆れる。政治家や芸能人などの有名人が、どれほどの批判に耐えているか分からないのだろうか。ましてや、村上は自分自身が他の牧師にどれほど容赦のない批判を浴びせて来たかを、都合よく忘れ去ったのであろうか?

あれほど「被害者を助ける勇敢な正義の味方」をきどって、諸教会に裁判をふっかけておきながら、いざ自分が訴えられると、しょせん、この程度なのか。市民や元信徒から責任を追及されても、出るべきところに出る勇気さえ持たない臆病者なのか。肩をすくめざるを得ない。

読者の方々は、村上が元信徒からの民事調停の訴えから逃げているというこの事実を決して見逃さないでもらいたい。

さらに、筆者は先の記事で、村上が杉本を切り捨てにかかっていると書いたが、今回のことで、多分、それも本当のことになりつつあるのだろうという印象を受けている。

今回、杉本は出席について回答していないが、杉本は刑事責任を問われている以上、この先、どちらにせよ、逃げることができなくなる。弁明の機会や交渉の機会が与えられているのに、そこに出て来なければ、どんどん立場が不利になって行くだけなのだ。逃げれば逃げるほど、ますます世間の心証は悪くなる。刑事事件の結末がはっきりしてから裁判をするよりも、今の段階で和解の姿勢を示しておいた方が有利なことも確かである。

村上密がネットではこれまで相方のように協力しながらクリスチャンを貶めて来た杉本を、この度、積極的に弁護してやる気もないらしい態度にも、筆者は心底、呆れている。だが、これは実に村上らしい態度だ。

これまで村上は、周知の通り、杉本ブログをさんざん利用して、村上自身とアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に都合の良い偏った虚偽の情報を発表して来た(今ここで紙面を割いて詳しく論証しないが、鳴尾教会に関する記事などを読めば、杉本ブログの情報源が村上と同一であることは一目瞭然である。こうした事柄については後ほど詳しく証拠を提示して論じる予定であるから、その発表を待たれたい)。が、いざその虚偽情報の責任を問われる段階になると、村上は杉本一人にそれを押しつけて、自分は陰に隠れようというのか。

村上にとって信徒とは、そういう都合の良い、捨て駒のような存在なのか。政治家の秘書のように、牧師をかばうためなら、信徒が罪をかぶるのは当然だと考えているのだろうか。

おそらく、杉本は村上にとって、初めから「捨て駒」であり、「とかげの尻尾」だったのだろうと筆者は思う。筆者が最も許せないのはその点なのである。杉本の行為も、当然ながら、筆者には許し難いが、ある意味では、それよりも許し難いと言えるのが、村上の行為である。

村上が、カルト化教会の牧師が信徒を利己主義の犠牲にする行為を非難しながらも、自分自身は、筆者や同僚の牧師や信徒ら(杉本でさえ、ある意味では村上の犠牲者だと言える)を、自分の利益のために犠牲にしてはばからない態度を取っていることは、言語道断な行為である。これでは一体、村上はどの口で他の牧師たちが信徒を犠牲にしていると非難できるのであろうか?

読者は、この事件を通して、ぜひとも村上密の人柄をよくよく観察して判断してもらいたい。村上はこれまで自分が栄光を受けられる場面であれば、それが東京であれ、どこであれ、率先して駆けつけたものだ。しかし、村上はそのようにして物事の「おいしいところ」をつまむことには積極的でも、今、自分にとって不都合な事柄は、徹底的に避けて通りたいという姿勢を示している。この偏ったご都合主義的な行動を、読者はよくよく見て脳裏に焼き付けてもらいたい。

杉本もそうなのだが、住所氏名電話番号を公開しているからと言って、必ずしも物事に責任を取るつもりがあるという姿勢には直結しない。牧師だから、権威者だから、有名人だから、信用できるというわけでもない。要は、牧師であろうが、信徒であろうが、自分のしたことに最後まで責任を持って向き合えるかどうか、そこにすべてがかかっている。

繰り返すが、今回、期日に出て来なければ、村上密の活動の社会的信用は、地に落ちるだろう。自分が「元信徒」から訴えを受けても、見向きもせず、振り返りもしないような牧師が、他の牧師にだけは、元信徒を「被害者」としてけしかけ、「被害者」の言い分に耳を傾けよ、などと訴えても、説得力はゼロである。まずは自分への訴えをきちんと解決・処理してから、他人への訴えに取り組めと言われて、どの教会でも門前払いになるのが関の山だ。

村上の信奉者は、今、彼の行動をよくよく見て脳裏に焼き付けておくことだ。なぜなら、人は不利な状況に立たされた時、初めてその本質が現れるからだ。順境にあって威勢の良い言葉だけを並べているときに、その人の人間性を判断することは難しい。その人が責められ、不利な立場に立たされた時に、初めてその人の本当の人間性が現れて来る。くれぐれも、聖書の御言葉を都合よくちりばめただけの本質的に無内容の綺麗事に目を奪われることなく、きちんと行動を見てその人の本質を確かめられたい。

さて、こうして、世間に波風立てつつ行動するのはかなり大変な労力の要ることであるし、勇気も、犠牲も要ることである。村上はかつてブログで、「自分は命をかけてカルトと戦っている」のに、筆者は「藪の中から石を投げているだけの非常識で幼稚な生き方」をしているとあざ笑っていた。

だが、今、筆者は読者の前で、はっきりと言わせてもらいたい。事実は全く逆ではないかと。自分に都合が悪くなると、途端に「藪に隠れて石を投げる」だけになるのは、村上自身ではないのかと。

もちろん、頭の中で想像を極度に巡らせて、筆者を含め、数々のクリスチャンを「極端に危険人物化」して、巨大な悪役の像を仕立て上げては、無責任な「創作物語」を綴っているのも、村上と杉本であって、筆者ではない。そして、今回のように信頼の失墜を自ら招くような行為を続けていれば、そのうち、杉本のみならず、村上自身にも、「交流も少ない所」に住まざるを得ないという条件が、おのずと跳ね返ることになろう。

他人だけを裁判に引きずり出してあらゆる苦悩を味わわせておいて、自分は訴えられても逃げ隠れし続けるような牧師の言い分に、誰がこの先、真面目に耳を傾けるであろうか。むろん、信徒から受けた相談内容を軽率に口外しているような牧師のもとに、相談を持ち込もうとする信徒がいなくなることは言うまでもない。

筆者は、当ブログを始めた当初は、命がけでキリスト教界の腐敗と是正を訴えるつもりであったが、その目的はその後、少しずつ変化して行った。とはいえ、今になっても、相変わらず、記事を書くことには、命をかけるような代価が必要だ。いや、記事を書くことではない。キリストに従うことそれ自体が、自分のすべてをかけて行う価値のあることだ。もし命をかけるというなら、文章を書くことではなく、神を愛すること、神に従うことにこそ、かけるべきである。

筆者はクリスチャンであるから、「和を持って貴しとなす」式に、世間に波風立てず、すべての物事を曖昧にして、切り分けを否定しながら、人間の心だけを満足させるような生き方を是としない。たとえ波風が立つことになっても、人の感情を時には害することになっても、あくまで聖書の御言葉に基づき、何が神の御心であって、何がそうでないのか、何が真実であって、何が虚偽であるのか、すべてにはっきりと公然と区別をつけるべきであると考えている。

だから、筆者は自分の主張を取り下げるつもりはない。時間はかかっても、また、代償は必要となっても、真実を訴え続ければ、嘘の牙城はかならず崩れると信じている。多くの先人たちもこういういばらの道を辿ったが、彼らの名誉はきちんと回復されているのだから、何も心配することはない。

最後に、またも村上が愚かしい内容の記事を書いている。

「全き者であれは、行いではない。倫理的完全の要求ではない。義は与えられるものであって、獲得するものではない。「律法を行なうことによっては、だれ一人神の前に義と認められないからです。」(ローマ3:20)パウロは、信仰による義、神の前に正しいとされる道(ローマ3章21~5:21)を教えている。「義の賜物」(ローマ5:21)でわかるとおり、義は神から与えられるものであって、自分で獲得する義(自己義)ではない。神の前には「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:24)行いとは別の道、神の前を歩み(信仰生活を)続けよう。

これはきっと村上が、自分は完全無欠な人間でなくてもいいと自己弁護するため、もしくは開き直るために書いたのか、あるいは、村上の率いるカルト被害者救済活動が、筆者の言うような「自己義に基づくものではない」と弁明するために書かれた記事なのだろう。

だが、もしも村上が、自分で書いているように、神は「倫理的完全を人に要求しておられない」と本気で主張しているならば、それでは、これまで村上自身が、信仰によって義とされたはずの他の牧師やクリスチャンを「倫理の欠如」によって訴え、責め立てて来た根拠はどこにあるというのだろうか?

村上がこれまでこの世の法によってさんざん他教会の内情に干渉し、「聖なる法」よりも「この世の法」を高く掲げてクリスチャンを裁く行為に手を染めて来た根拠はどこにあるのだろうか?

そんな活動に手を染めながら、村上は、いざ自分が責められる段階になると、今更、自分だけは、「義人はいない」と豪語して、「信仰による義」に隠れられると考えているのだろうか? 

いや、もしも村上が本当に「信仰による義」に立っているなら、村上は、逃げも隠れもせず、堂々と裁判所に赴くことができるはずではないか。何しろ、信仰による義は、この世の法を超越するのだ。神によって義とされている信者は、決してこの世のいかなる法によっても罪に定められたりはしない。

にも関わらず、村上が裁判所へ来ることを避けているのは、本当は、自分には「律法による義」も、「信仰による義」も、両方ないことが初めから分かっているためではないのか?

筆者は以前にこう書いた。

神が義とされた教会やクリスチャンに、この世の法の裁きを適用し、クリスチャンを有罪に追い込むことで、正義を実現しようと考えるような人々は、結局、自分自身がよりどころとしているこの世の法によって最も容赦なく罪に定められるだけである。

彼らを裁くのは、御霊ではなく、主イエスでもなく、御言葉ではない。彼らには神の憐れみに満ちた裁きが適用されず、彼らを裁くのは、彼らが信じて頼みとしているこの世の法である。そして、悪魔の悪魔に対する裁きはいかなる容赦もないものであり、彼らが他者に対してふりかざした厳しい基準がそのまま彼らに当てはまることになる。律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」(ルカ16:17)のだ。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:21-26)

村上が本当にクリスチャンであるなら、以上の御言葉を見失うことは決してないはずだ。すなわち、筆者が村上に反感を持ち、村上に対する訴えを両手に抱えているのを見れば、大急ぎで供え物を祭壇の前に置いて、筆者のもとにすっとんで来て、まずは筆者と和解をしてから、「神の前を歩こう」と豪語するだろう。それができないことが、村上が内心ではクリスチャンではなく、信仰による義に立っていないことの何よりの証拠である。

だとすれば、聖なる法だけでなく、この世の法も、こんな人間に味方しはしない。だが、筆者は、この先、村上に対峙する仕事は、おそらく、誰よりも彼に貶められた牧師たちの仕事になるのではないかという気がしている。

繰り返すが、読者らは、今回の出来事を通して、よくよく村上の人間性を見極められたい。(果たして、こんな人物を恐れて口をつぐむ必要がどこにあるのかと。)

神は人前での信仰による告白を重んじて下さる。我々は聖書の御言葉に立ってこれを守って生きていることを、神の前だけでなく、人々の前でも告白し、証明しなければならない立場に置かれている。

クリスチャンから訴えられているにも関わらず、その兄弟姉妹との和解を目指そうともしない村上密に、信仰による義など欠片もないことは誰の目にも明々白々である。

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