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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(21)―すべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。

さて、本来ならば、筆者は「休養」していると言いたいところだが、 山のような仕事に追われ、突貫作業中だ。どれもこれも投げ出すわけにいかない重要な仕事だ。主がどのようにこれを達成させて下さるのか、信仰によって期待するのみ・・・。
 
さて、村上密に告げる。唐沢治とは早急に手を切り、杉本徳久が賠償金を支払えるよう、無利子・無期限でお金を貸してあげなさい。
 
京都教会は重大な危機を迎えている。長澤牧師もいなくなり、次には必ず、村上密も失うことになる。この教会は、やがて壊滅的な打撃を受ける。唐沢になど関わっていれば、存続さえできなくなるだろう。悪いことは言わない、今のうちに筆者の忠告を聞き入れなさい。

杉本徳久という人物は、今やフィクションのように消えかかっている。彼はすでに商工会議所も脱退しており、東京銀杏会の正会員でもないことが分かった。未だブログには偽情報が掲載されたままだが、どこからどこまでがフィクションで、何が実体なのかも分からない。 


 
このまま行くと、杉本という存在そのものが、当ブログに飲み込まれて伝説として消えるだろう。警察も、杉本には支払い能力がないとみている。筆者の目から見れば、杉本は村上のためにすべてをやった。
 
だから、村上が彼に賠償金を貸与してやり、杉本が府中支局でこれを供託しなさい。

村上が手を貸してやれば、筆者に対しても、少しくらいは良い仕事を果たしたことになろう。手続き方法を確認しておいた。ただし、本人でも確認されたい。

筆者の考えをメルヘン小説のごとく善意に期待していると嘲笑うのは勝手だが、今、ほんのわずかでも良いことをすれば、神はあなた方が苦難を受ける日に、もしかすると、それを覚えておいて下さることがあるかも知れない。

取り調べに当たっても、社会的責任は負うつもりがあるという恰好くらいはつけることができるだろう。
    
* * *

さて、筆者は、少し前に村上密の推薦図書を通して、村上の神観がどのようなものであるかを分析しようと、フィリップ・ヤンシーの二冊の著書を取り寄せた。
 
 

だが、グノーシス主義の文献を分析する時とは違い、これらの書物は、あまりにも不健全なほどに痛み苦しみにこだわっているため、読んでいるだけでめまいがし、読了できそうにもなかった。
 
ただ一つ極めて印象に残った話がある。それは、この書物の中で、ハンセン病患者のことが取り上げられていたことだ。ハンセン病者の体に変形が起きるのは、断じて潰瘍などのせいではなく、痛みの感覚がなくなることが原因だと記されていた。

つまり、ハンセン病患者は、痛みの感覚がなくなるがゆえに、自分の体を自分で防御することができなくなり、体に対する過酷な扱いをした結果、体の正常なかたちをどんどん失って行くというのである。
 
この書物は、そうした話から始まり、痛みの感覚が、人の自己防御のためにはどんなに有益なものであって、必要不可欠かという結論に読者を導きたいようであった。そして、次から次へと不幸な事故で重度の障害を負った人々や、激痛に苦しんでいる人の例を引き合いに出して来るのである。

だが、筆者は、人間の苦痛をあまりにもクローズアップしすぎているこの書物の内容に、同意することはできそうにもない。危険を告げ知らせるための信号として、痛みの感覚は必要かつ有益である。だが、絶え間のない苦痛と不自由に苦しめられる状態は、痛みのないハンセン病患者の生活の危険とは種類は違えど、それもやはり、「人のかたち」を脅かし、歪め、失わせる脅威であることは間違いない・・・。

そういう意味で、苦痛という人間の感覚を通して、神を探り究めようとするこの書物には、筆者は著しい違和感を覚える。痛み苦しみに勇敢に立ち向かっている人がいるという例話にはなっても、この書物を通して、神を知ることは難しいものと思う。しかも、同書にはほんのわずかしか、聖書の御言葉が登場もしない。

だが、筆者は、なぜ村上が、そこまで苦痛にこだわるのか、その理由を知りたいと考えて、この本を手に取った。なぜ彼らが被害者に心惹かれ、なぜ可哀想な人々を次から次へと引っ張って来ては、相談に乗り、絶え間なく彼らのためにという口実で、紛争を起こして来たのか、その理由を知りたいと思った。

なぜそんなにも苦痛が彼を引きつけるのか? その苦痛の根源にあるものは何か・・・。

とはいえ、そうした分析を行おうとしていた矢先、村上が唐沢治の陳述書を投稿した。これはまさに村上密という人物の終焉となるにふさわしい記事である。だから、村上の思想分析の仕事はおあずけだ。控訴審で名誉毀損等々の権利侵害を訴えるための理由書の作成をせねばならない。
 
ちなみに、レビ人の剣を取って、これを兄弟と呼ばれた人々に向けなければならないのは、筆者自身にとっても、つらい仕事である。

しかし、最後までその仕事は貫徹せねばならない。だから、筆者の休養はまだまだ先のことである。だが、一つだけ言えることがある。この責任の重い仕事を果たすまで、筆者はその責任から決して逃げはしないと。

筆者の休養のことなどに配慮してくれるなら、お返しに告げよう。あなたたちこそ、人間の死んだわざをやめて休みなさい。地上の働きを失っても、魂を失わないでいられるなら、その方が良い。神は何人の死も喜ばれない。だから、すべてのとがを離れ、心を翻して生きなさい。

もしかしたら、まだ悔い改めの余地が残っているかも知れない。筆者はそのために最後の呼びかけを行う。悪しき死んだわざを離れて、新しい心と新しい霊を受け、翻って生きなさいと。
 
「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」(1コリント3:14-15)

「それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。
あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。
わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。 」(エゼキエル18:30-32)

* * *

さて、人はあまりにも長く苦しみ過ぎると、痛みに慣らされ、もはや苦痛を感じても、苦痛と思わないほど、痛みのセンサーが鈍磨してしまうということは、健康な人にも起きうる現象だ。

ハンセン病者は、痛みが分からなくなると、自分の体を過酷に扱い、どんどんすり減らして行ってしまう。

だが、キリストの体なるエクレシアの場合、どうなるだろうか?

体のある部分が病むと、他の部分が共に呻き、苦しむことで、互いに助け合い、命を分け合って、かばい合い、一つの体を支え、守るのである。どの部分もすり減らされて、体から切り離されたりすることがないよう、体のかたちを守るのである。

筆者は昨年の年明けごろから、当ブログを巡って起きた紛争と真正面から向き合い、解決を得るために、あらゆる犠牲を払って戦い抜くことを決意した。

しかし、訴訟を起こすに先立ち、多分、その意味を理解してくれる人は誰もいないだろうと、筆者は思った。多くの反対を受け、憎まれ、孤立することをも覚悟せねばならないだろうと。

だが、たとえ全世界がこの戦いの意味を全く理解しなかったとしても、筆者は信じている結果が出るまで、一人で戦い抜こうと覚悟を決めた。生きているうちに、理解を得られずとも構わない。ただお一人、真実なる神の目に義と認められればそれで良いではないか。

「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、
 裁きを受けるとき、勝利を得られる」
と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

そこで、筆者は、ただ神の正しい裁きを得るためにに、自分を投げ捨てよう、と覚悟を決めた。何もしなくとも、圧迫から逃れられるわけではないのだ。それならば、とことん向き合い、決着が着くまで、真実が何かを争おう。そうして、自分を振り返らずに進んで来た。

だが、訴えを提起すると、不思議な現象が起きた。筆者の心の内面にあったものが、徐々に外に持ち出され、他の人々に分かち合われるようになり、筆者にとてもよく似た、まるで筆者の分身のような人たちが、筆者に代わって、筆者の内面を表現するようになったのである。

筆者は彼らを見ているうちに、自分がどれほど巨大な苦しみを内に抱え、押し殺して生きて来たのかが分かった。だが、不思議なことに、それを筆者に代わって他者が表現してくれた時、もはやそれは苦しみではなくなり、慰めとなり、筆者は深い感謝と尊敬の念をその人たちに感じずにいられなかったのである。

そうして、筆者の心の最も深いところにあるものを分かち合ってくれた人々は、筆者にとって、まるで自分自身も同然となった。どうしてそのような人々を、憎んだり、非難したり、敵に回すことができようか。「我が身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 」(エペソ5:29)という御言葉が思い出される。

そうだ、彼らはもはや筆者自身なのだ。

いつの間にやら、そういう筆者自身のような人たちが、二人、三人と増えて行き、数えきれないほどまでに拡大した。
 
一体、どういうわけで、そういうことが起きたのか知らないが、全世界の人々の理解を置き去りにしてでも良いから、ただ一人、真実なる神の裁きを求めようと思った筆者には、いつの間にか、全世界の人々が、まるで自分自身のような存在として、取り戻されつつある・・・。

そして、この人々を自分自身のように思えばこそ、彼らをいつまでも苦しみの只中に留め置きたくはないのである。ただ筆者の内面を分かち合ってもらったというだけで、満足して終わりたくはない。皆で協力して敵の圧迫に立ち向かい、すべての分裂・敵対・争いを毅然と退け、互いを守り合い、いたわり合う関係を取り戻し、自由に至り着かねばならない。

聖書には、キリストのからだなる教会について、次のくだりがある。

「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。

そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。

それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(一コリント12:12-27)
 
ここで言及されている「苦しみ」とは、決して体の一部としての自分が、ただ自分だけを守るための自己防御のセンサーではない。

それはむしろ、互いに労り合い、共感し合い、助け合うためにこそ生まれる感覚である。

キリストの御身体には、ハンセン病者が痛みの感覚を失って、自分自身の体を過酷に扱い、体をすり減らして失って行くようなことは、起きない。なぜなら、体に危機が迫っているときに、一つの部位が痛みを感じなくなっても、他の部位がそれを感じ、体全体が、最も弱い部分が感じている痛みを、全体で共有するからである。

だが、痛みを共有するとは、決して、体全体が絶えず激痛にさいなまれ、活動もできなくなるということを意味しない。その苦しみは、全体で共有されることにより、慰めに変わる。

弱い部分が苦しめば、強い部分が、それをいたわり、弱い部分に集中してエネルギーを注ぎ込む。すると、弱さは強さで覆われ、痛みの原因が取り除かれて、苦痛が解消して行くのである。

筆者の訴えが世間に持ち出されたとき、筆者は自分より少しばかり強い人たちに、重荷を分かち合ってもらった。それによって、筆者の荷が軽くなったので、心に余裕が生まれ、その代わりに、筆者も他の人々をかばうことができるようになった。

強い者が弱い者をかばうように、時には、弱い者が強い者をかばうこともできる。

信仰を持たない人々の間でさえ、こうして重荷を担い合うことができるのであるから、キリストの御身体は、確実にそのような連帯を行うに足るのであって、それこそが、エクレシアの機能なのである。

こうしたことが分かった時、筆者はなぜキリストが十字架につけられた時、父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈られたのか、なぜステパノが群衆からの石打ちに遭って殉教する直前にも、ひざまずいて、主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)と叫んだのか、幾分か、理解できた気がした。

筆者は、自分自身のような誰かを、もはや一人として、敵に渡したくないのだ。人々が心傷ついて、失意に落ち込み、自分はプライドを傷つけられたという屈辱の思いから抜け出せなくなり、生涯、争いと、憎しみと、敵意の中に身を投じるところをもう見たくない。

聖書の神は、誰一人、滅びに至らせることなく、すべての人を救いに導き、そして、すべての人に、ご自分の友として御心を分かち合って欲しいと願っておられる。だから、我々はそのためにこそ、罪人らの反抗を耐え忍ばなければならない。

クリスチャンが擦り切れるほど暗唱しているあの聖句がそのことをよく物語っている。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。

<略>悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3:16-21)

自分自身のような誰か。自分の半身のような誰か。その誰かを、憎しみと敵意と怒りに引き渡し、生涯、争いの中に生きる地獄の業火に渡し、ついにはレビ人の剣で自らその者を敵として刺し通さねばならないような事態にはなりたくない。

だが、多分、筆者がそう思っている以上に、神はその人を惜しんでおられるはずである。

創世記にはこうある、「主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」 」(創世記2:18)。そうして、神は人(男)のために、助け手として女を創造された。

だが、これはいわば、神の独り言であって、本当は、ここで言及されているのは、人間の男女のペアのことよりも、霊的な文脈における、神(キリスト)と人類(エクレシア)との関係なのだ。

つまり、神はご自分の助け手となるべく、人を創造されたのである。神は強い方であって、人間の助けなど必要としておられず、ただお一人で、栄光に満ちた存在として、何の不足もなかったはずであるにも関わらず、「独りでいるのは良くない」として、人を創造されたのである。

そうして神は、人をご自分よりも少し弱い存在として、助け手として創造された。詩編にはこうある、

「人の子は何ものなのでしょう。
 あなたが顧みてくださるとは。
 神に僅かに劣るものとして人を造り
 なお、栄光と威光を冠としていただかせ
 御手によって造られたものをすべて治めるように
 その足もとに置かれました。
 羊も牛も、野の獣も
 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。」(詩編8:5-9)

ダビデは驚きに満ちて言う、神よ、あなたはどうして人を創造されたのですか、と。強い者は、弱い者の助けなど必要としないはずで、強さこそ、栄光と威光の源であるはずで、弱さの中には、栄光も威光もなく、見劣りのする要素しかないはずではないか。

それなのに、なぜ神は人に栄光と威光を冠として抱かせ、御手によって造られた万物を統べ治めるという栄光ある仕事を任せられたのか。なぜ弱い人をかえりみ、懇ろに世話をし、ご自分の助け手として立たせられたのか・・・。

この詩編の箇所は、以上に挙げたキリストの体なる教会を指した聖書箇所とも響き合う。
神に僅かに劣るものとして人を造り なお、栄光と威光を冠としていただかせ・・・
神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて・・・
体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです
それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。


お気づきだろうか、キリストの体としての教会の一体性について言及されている聖書箇所の中には、神と人との関係も表現されているのである。強い者が弱い者をいたわり、見栄えのする部分が見劣りのする部分を引き立たせ、他よりも弱く、不必要に見える部分がかえって必要となり、各部分が互いに配慮し合って、喜びと悲しみを共有し、一体性としての体のかたちを保っている・・・。

これはまさにキリストとエクレシアの配偶の関係を表現したものなのである。

我が身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 」(エペソ5:29)との御言葉にも、キリストと教会の愛の関係が表されている。

つまり、神は誰からも支えられたり、助けられたりする必要のない強い方であるはずなのに、見劣りのする、見栄えのしない、必要とも思われないような弱い人間を召し出され、人の弱さをご自分の強さで覆い、人の見劣りのする部分をご自分の栄光と威光で覆われ、人がご自分と同じ思いを分かち合って、すべてのものを治めることができるよう、使命を与えられたのである。

神の強さとは、そのようにへりくだった強さであるからこそ、そして、キリストが十字架の死に至るまでも砕かれ、へりくだって、身をもって弱さを知って下さったからこそ、神の強さは、人の弱さを覆い、その命は、多くの弱い者たちを生かし、力づけ、立ち上がらせることができるのである。

それは自己充足のための強さではなく、他者をいたわり、かばうための強さである。

「そこで、あなたがたにいくらかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ重いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:1-11)

キリストが神でありながら、御自分の栄光あるかたちを捨てて、むなしい人間と同じ姿になられたこともまた、「見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」という個所と響き合っている。

神は栄光ある方なのに、その栄光を、ご自分のために保存するのではなく、かえって、ご自分よりも弱く、卑しい者に、その栄光を分かち与えるために、命を投げ出されたのである。

わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。

「見劣りのする部分」、「ほかよりも恰好が悪いと思われる部分」、「見苦しい部分」とは、人間のことである。そのようなものが、賞賛に値するだろうか? 誰が恰好が悪く、見苦しく、見劣りのするものに注意を払うのか?

ところが、神は人を弱さと惨めさと孤独の中に打ち捨てては置かれず、弱い人間を「いっそう引き立たせ」、「恰好よくし」、「見栄えよく」するために、ご自分の聖なる性質を、信じる者一人一人に十字架で分かち与えられたのである。

そのようにされた目的は何か。

それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

神と人との敵対関係が終わり、神と人とが互いに助け合い、いたわり合う関係が回復されて、健やかな時も、病める時も、共に喜び、共に苦しみ、互いを尊ぶという、配偶の関係が回復されるためである。

神は人の創造の初めから、人をご自分の友として、すべての御思いを人に分かち合ってもらいたいと願われ、そのために人を造られたのである。

そんなことが本当にあるのかと問われるだろう。神と人とでは、あまりにも何もかも違いすぎるではないか。どうしてそこに理解が成り立ちうるのか。まして、友だとか、パートナーシップなどが成立しうるのかと。

もう一度、創世記に戻ろう。神は人を創造されるとき、ご自分のかたちに似せて創造されたとある。

「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 」(創世記1:26-27)

ご自分のかたちに似せて、とはどういうことだろうか。

まさか人(アダム)を塵から造られ、息を吹きかけられたということだけを意味するわけではあるまい。(塵は死を象徴するものであり、アダムが最初に神から吹き込まれた霊は、永遠の命ではなかったのである。)

創世記第2章27節には「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 」とある。

実は、ここには書かれていない、隠れた飛躍した文脈がある。それは、神がご自分にかたどって人を創造されたプロセスは、神が男と女とを創造されたプロセスに類似しているという点である。

前にも引用したが、もう一度、男から女が造られたプロセスを振り返ろう。

「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、 人は言った。
「ついに、これこそ
 わたしの骨の骨
 わたしの肉の肉。
 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
 まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 」(創世記2:21-24)

これはキリストと教会の関係を暗示している。このことは霊的文脈において解釈する必要がる。

キリストは十字架につけられ、死んで葬られ、3日目によみがえられた。十字架につけられたとき、彼はわき腹を刺され、そこから血と水が流れ出した。

そうして、キリストの死と復活にあずかり、彼のわき腹から、そのよみがえりの命と、血潮と、水(バプテスマ)を経由して生まれて来たのが、聖なるエバ、すなわち、キリストの花嫁なる教会なのである。

つまり、最初のアダムは、予表であり、次に来るアダムが正真正銘の人であり、最初のアダムとエバの創造は予表であり、キリストとエクレシアの誕生こそ、真の意味での男女の誕生なのである。

だからこそ、キリストは聖書において、第二のアダム(最後のアダム)と呼ばれている。

「「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。
最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。

わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」(1コリント15:45-49)

つまり、創世記において、神がご自分のかたちに似せて人を造られた、と言われるプロセスの中には、キリストの十字架を通してエクレシアが生まれたプロセスが、ある種の飛躍的な暗示によって、重ね合わされている。

そして、アダムとエバの創造よりも、後に来るもの(キリストとエクレシアの誕生)という隠れたプロットの方が、実は本物なのである。

神がアダム(男)に「命の息」を吹き入れられたことにより、アダムが「生きる者」となったように、アダム(男)から造られたエバ(女)も、神が人に命を与えられた関係と類似して、アダムに吹き込まれた命を受け継ぐ者となった。

「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。 」(創世記3:20

しかし、エバが命名されたこのくだりは、アダムとエバの二人が神に背いて堕落した出来事の直後に記されている。従って、このことを見ても、この命は非常に不完全なものだったことが分かる。
 
まず、アダムが神からもらった命は、神の非受造の命ではなく、永遠性のない、天然の動物的命に過ぎない、不完全な命(魂の命)であった。
 
次に、エバは、アダムが堕落して、人類が死を免れられなくなった後で、堕落したアダムの命を受け継いで、「すべての命あるものの母」となったわけであるから、エバの持っていた命は、アダムが堕落以前に神から与えられた命よりも、もっと不完全で、劣った命であったと言うことができよう。

(おそらく、アダムとエバが創造された当初、彼らには罪がなく、死も予定されていなかったので、二人には、自分たちが死ぬ代わりに、子孫を残すことによって、命を次世代につなげるという使命もなかったものと見られる。そうした役割が付与されたのは、明らかに二人が堕落して死を免れられなくなってからのことではないかと考えられる。)

だが、第二のアダムであるキリストの命は、十字架で死を打ち破り、よみがえられた神の霊なる命であるので、これはもはやいかなる堕落に脅かされることもない、永遠性を持つものである。その聖なるよみがえりの命を、キリストは十字架においてエクレシア(教会)に付与されたのである。

そして、私たち信じる者は、地上の生まれとしては、堕落した人間の一人として、朽ちゆく「アダムの似姿」として生まれたが、信仰によって、やがて栄光あるキリストの似姿になることが約束されている。

「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。

こうして、「見劣りのする部分」、「ほかよりも恰好が悪いと思われる部分」、「見苦しい部分」が、「いっそう引き立たせ」、「恰好よくし」、「見栄えよく」されて、神の聖なる性質にあずかり、キリストと共に万物をその足の下に治め、「栄光と威光を冠としていただかせ 御手によって造られたものをすべて治めるように その足もとに置かれました。」という御言葉が実現する時が来る。

もはや私たちの「母」は、朽ちゆくアダムの命を継承するエバではない。

「このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。」(ガラテヤ4:25-26)

前にも説明した通り、ハガルとは、アダムの堕落した命を受け継ぐエバと同じであって、堕落した人全体の総称である。シナイ山とは、律法を指す。

エバの命は、律法によって死に定められ、罪と死の奴隷として生きることしかできない、朽ちゆく堕落した卑しい命であったが、キリストのわき腹から生まれたエクレシア(天のエルサレム)は、キリストの死と復活にあずかり、罪と死の法則から自由にされた、聖なる永遠の命によって生かされている。

私たちはキリストを経由して、この新しい母(教会―エクレシア)に属する、キリストに属する新しい人類とされたのである。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやその類のものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」(エフェソ5:25-27)

こうして、キリストの体なる教会は、すべての堕落から清められ、もはやその痕跡さえも残らない、完全に聖なるものとして贖われる日が来るのである。

パウロはエペソ書でそのまま続ける。

「そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ人は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、我が身を養い、いたわるのです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:28-32)

だが、おかしなことである。ここで語られているのは、夫婦がどのように互いを愛し、いたわり、尊重すべきかという話なのか、それとも、キリストがどのように教会を愛されたかという話なのか、それとも、キリストの体なる教会に属する一人一人の信者(兄弟姉妹)たちがどのように互いをいたわり、愛を示すべかということなのか、この文脈からは分からない。

いや、分からないのではなく、この文脈にはそのすべてが込められている。

つまり、キリストの体なる教会は、キリストが教会を愛して命を捧げられたように、体の一部である互いの信者を愛し、尊重しなければならないということが示されているのである。その愛は、当然ながら、地上の夫婦にも適用されなければならないが、ここで言われているのは、それ以上の事柄であり、夫が妻を自分自身のように愛するように、キリストの体なる教会は、それぞれ体の一部である一人一人の信者が、互いにねぎらい、いたわり、尊重する関係になければならない、ということが言われているのである。

それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この御言葉に込められているのも、私たちが、堕落したアダムとエバを父母とする地上の朽ちゆく出自を離れ、キリストのわき腹から生まれた聖なる教会として、天に属する者として、「見劣りのする部分」、「ほかよりも恰好が悪いと思われる部分」、「見苦しい部分」が、「いっそう引き立たせ」られ、「恰好よくし」、「見栄えよく」されて、「天に属するその人の似姿にもなる」、すなわち、いつか贖いが完成して、キリストの栄光ある似姿にまで変えられるプロセスのことを指しているのである。

堕落のために、人に当初、予定されていた栄光ある神のかたちは失われた。痛みの感覚がなくなり、自分で自分の体をとことん傷つけても気づかないハンセン病者と同様に、罪のゆえに、自己を防御することさえできなくなって、互いに憎み合い、争い、互いを傷つけ始めた人類からは、正常な「かたち」がどんどん失われて行った。生まれながらの人類の姿には何ら、人が神の栄光あるかたちに創造されたという痕跡はない。

しかし、そのように滅びに向かっている人類を救うべく、神が人の卑しい「かたち」を取られて、地上に来られた。神が神の栄光ある「かたち」を捨てて、むなしく、卑しい人の姿を取って地上に来られたのである。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

そうして、キリストが全人類の代表として、人のすべての痛み苦しみを担って、十字架の死に赴かれ、よみがえられたからこそ、彼を信じる人は、みな彼と同じ死を経て、よみがえりの命にあずかり、創造された当初の目的を取り戻し、いや、当初の予定を超えて、「栄光ある神のかたち」、すなわち、キリストの似姿とされるのである。
 
キリストは十字架において、人々に憎まれ、弟子たちに裏切られ、父なる神に見捨てられ、ただ一人でその死を負われたが、それでも、不思議なことに、最後までただ一人で十字架を負われたわけではなく、ほんのわずかではあるが、そこに人の関与もあるのだ。
 
「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。」(ルカ23:26)

ここに神の「助け手」としての人類が、ほんの一瞬だけだが、イエスを見捨て、裏切る側の登場人物としてでなく、姿を見せている。十字架の贖いは、もちろん、神の側からの一方的な恵みであって、人類の自己努力による達成ではない。それは神の側から一方的に提供された贖いであって、そこに、一切、人類の手柄の入り込む余地はない。

それでも、その十字架の御業の達成の中にさえ、神はこうして不思議な形で、取るに足りない人類を参与させていたのである。

ここにも、神がご自分の喜びと悲しみ、嘆きや苦しみのすべてを、人類に友として分かち合ってもらいたいという願いが、反映しているのではないだろうか?

むろん、今日も、神は信じる者に、少しばかり、ご自分の苦しみを分かち合ってもらいたいと願っておられる。

「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」(フィリピ1:29-30)

そう、イエスが十字架にかかられてから、少しばかり時間は経過したが、私たちは後に続く者として、彼が経験されたのと同じ戦いを戦っているのである。

もちろん、勝利はすでにカルバリで取られた。とはいえ、私たちは今日も、サタンのわざを打ち壊して後退させ、より多くの人々の魂を獲得して救いへ導くために、イエスにならって、日々、十字架の死に服し、キリストのために苦しむことが、恵みとして与えられている。

神はそうしてご自分のために、信じる人々が、喜びだけでなく、悲しみも、痛みも、苦しみも、すべての御思いを友として分かち合うことを望んでおられ、人々が御名のために耐えた労苦のことを決して忘れられることはない。

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正し者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。

はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ10:40-42)

このように、神の強さとは、その強さを自己のためだけに使い、自分の強さに固執して、これを手放すことを嫌がり、その強さによって弱い者を圧倒し、弱い者を高みから見下ろして、勝ち誇るような強さではない。

むしろ、キリストはご自分が強いからこそ、徹底してへりくだり、弱い者を生かすために、死に至るまでの従順によって、父なる神への愛を人々に示されたのである。それだからこそ、夫は妻に対し、信者は信者に対し、自分が強いからと言って、その強さによって、弱い者を脅かすことなく、かえってキリストがそうされたのと同じ愛で、いたわり合い、慰め合い、補い合い、いたんだ部分をかばい、弱さを強さで覆い、互いを尊重し、仕え合い、互いを自分自身のように愛するようにと教えられたのである。

ステパノが殉教に際しても、喜びに満ちていたのは、そのようにして、自分を無にしてへりくだることこそ、他の人々を救うための鍵であることを知っていたからである。

彼は知っていたのである、自己を捨てること、それだけがキリストと同労する道であること。もしもキリストへの愛のゆえに、人々に誤解され、離反されて苦しむならば、そこには必ず深い慰めが伴うこと、必ず、それには報いがあって、損失は損失に終わらないこと、彼自身は、葬られても、他の人々がそれによって必ず命を得ることを――。

誰よりも主イエスこそ、その秘訣を知っておられた。

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしのいる者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:24-26)

イエスは、神の栄光を捨てて人の姿となられ、ただ一人十字架に向かわれる時にも、ご自分の耐えておられることが、単なる損失に終わらず、その霊的死の中に、復活の命が働いて、多くの人たちに命が分け与えられる結果となることを予め知っておられた。それはイザヤ書に次のように預言されている通りである。

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。

見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。

彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。

彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。

苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を刈る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。

捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。

彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。

それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、
死んで罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。」 (イザヤ53:11-12)
 
 * * *

<続く>

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村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(20)―悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。

・自分に不都合な信者の言動はすべて「被害妄想」として片付ける牧師たち

➀ 村上密の一家によるアッセンブリー京都教会の私物化と教会のカルト化

  
アッセンブリー京都教会(京都七條基督教会)は、事実上、村上ファミリーによって私物化され、カルト化してまっている様子が見受けられる。

一つ前の記事で筆者は、当ブログを巡る事件の一審を担当してくれた裁判官が、4月1日付で福岡へ異動になったのと同時期に、村上密のいる京都七條基督教会で短期間で主任牧師から退けられた長澤聖志牧師が、博多へ異動になったことを追記した。

この人事については、長澤牧師自身が長年執筆していた「元気です! ながさわです!!」の中で発表している。博多へ転任後は、ブログも移転した様子である。



さて、村上密が主任牧師を引退したのは2015年3月末頃のことである。村上は当時のブログ記事「残りの人生」の中で、「40代の牧師が主管者になれば、教会は20年以上は安定した教会運営ができると判断した。」と明言し、40代の長澤氏に主任牧師の地位を譲り、20年以上の長期的な視野に立った安定した教会運営を目指すとしていた。



このように、京都教会では、20年も先を見据えて主任牧師の交替が行われたはずが、なぜ、それからわずかたった数年で、長澤牧師が主任の地位から外され、村上の妻である恵子が主任牧師に就任する運びとなったのか、さらに、それで終わらず、なぜこの4月に、長年、村上の下で働いて来た長澤牧師が博多へ異動になったのか、村上のブログでは一切、その説明がないことは極めて奇妙に感じられる。

だが、村上の息子である渡伝道師が同教会で奉職していることを考えれば、これは要するに、ファミリー経営の企業のごとく、村上が同教会でゆくゆくは息子を主任牧師に据えて、教会を世襲制にしたいという私物化の願望が強く働いていると見られておかしくない。いずれにしても、それ以外に何らの理由も示されていないのだから、不信感を誘う人事であることは言うまでもない。
 
京都教会で起きた、村上の後継者を巡る不審な人事の動きについて、当ブログでは、繰り返し言及して来たが、それに対しては、村上本人から、筆者に対して、実に些細な問題を取り上げては揚げ足取りをするような非難の記事が発表されただけでなく、掲示板にも、村上の支持者と見られる人物が、次のような投稿をして、筆者をいわれなく非難している。

こうした投稿を見ても、事実上、この教会はカルト化の道をひた走っていると見るのが自然ではないだろうか。



ちなみに、「法人に対する殺人行為」などといった言葉は、聞いたこともない用語であるが、このような根拠も不明な用語を用いて、村上の教会を擁護するために、筆者に対する非難が行われていることに、筆者は、この教会の深いカルト化の現実を思わないわけにいかない。
 
これは「国体の変革」を試みる行為を、死罪に相当するとみなした戦前・戦中の国体思想とほとんど変わらないものと見える。要するに、牧師夫妻(一家)を神格化し、法人(教会)というものを、牧師夫妻という「現人神」を祀るための「神聖な入れ物」とみなし、京都教会をメシアを受け入れる神聖不可侵な入れ物とみなせばこそ、生まれて来る発想なのだと言えよう。

こうした記述を通して、京都教会は、牧師一家を現人神のごとく信奉し、教会全体が牧師のファミリーによって私物化されることを当然視するという重度のカルト化状態に陥っている様子が見受けられる。
 
だが、長澤牧師の転任に伴い、早速、こうした問題は、掲示板でも指摘されるようになり、当ブログで過去に指摘した、鳴尾教会において、村上の義理の父である津村昭二郎牧師と、村上密が協力して起こした、津村氏の後継牧師夫妻の事実上の追放という忌まわしい事件との類似性も指摘されている。


 
鳴尾教会で村上密と義理の父である津村昭二郎牧師がどのような形で、密室の話し合いだけで、鳴尾の後継牧師と目されていた夫妻に異動を迫ったかという事実の経緯については、「正義の仮面を被り、教会とクリスチャンを迫害する村上密牧師の危険な活動➀」にまとめているため参照されたい。





 なお、掲示板でも指摘されている通り、村上は2017年4月1日付のブログ記事「京阪中央教会 異常な役員構成」 では、「民主的な教会運営を心がけしている教会は、は(ママ)三親等以内が3分の1を超えないようにしている。」と指摘している。

しかし、村上の教会では、津村昭二郎、村上密、村上恵子、村上渡と(津村かほる氏を除いたとしても)村上ファミリーだけですでに4名もの教職者がいることになり、その他、同教会に常時、奉職している牧師たちが全員で何名いるのか、ホームページには公表もされていないため、不明である。

そんな中で起きた長澤牧師夫妻の転任である。これでは、京都七條基督教会は到底、「民主的な教会運営」をしているとは言えないのは当然である。

  
 
* * *

② 一体、あなたは誰を「被害妄想」としたいんですか、村上密さん?

ちなみに、掲示板でこうした指摘がなされるようになると、当ブログには、村上支持者が不都合な記事のランキングを押し下げることを目的としての行為と見られるが、不明なアクセスが集中しただけでなく、村上自身のブログに、早速、5月6日に「被害妄想」という記事が投稿された。

ちなみに、この記事には、日時、人物、状況の特定はない。従って、この記事が何を目的として投稿されたのかは、読者に明らかではない。
 
だが、この記事に「最近、被害妄想について聞かれることが多くなった。」などと書かれていることは、あまりにも唐突でしらじらしく不自然な出だしである上、「被害妄想」や「妄想性障害」などの言葉は、村上のブログの過去記事を検索しても、過去に一度も使われたことがない事実を見ても、これが「村上用語」ではないことがすぐに分かる。

そこで、筆者は、心理学を専門に学んだわけでもない村上が、いきなりこんな心理学者めいた用語を振り回し始めたのには、必ず、他者からの影響があるはずだと推察した。そこで、この問題を解明するために、村上は唐沢治とは異なり、精神医学や心理学を学んだ学者でもないのに、なぜ一牧師としてこんな記事を投稿するのだろうという疑問を、故意に当ブログのひとこと欄に残しておいた。

そうしたところ、以下にも記す通り、その後まもなく、村上のブログには唐沢の陳述書に関する一連の記事が投稿され、村上が唐沢と水面下でやり取りしていた事実が判明したのである(唐沢からの許可がないのに、村上が唐沢の陳述書の公表に及ぶことはあり得ないと考えられるため、両者の間にやり取りがあったと理解される)。

そこで、筆者は、以上の「被害妄想」の記事は、村上が唐沢の影響を受けた上で、筆者への当てつけの意味を込めて投稿したものなのだろうと推察する。

なぜなら、筆者は一つ前の記事で、次のように書いたからである、「以前に筆者が控訴したことを、筆者に先んじて発表したのは村上自身である。にも関わらず、筆者の側から控訴がなされたことを書かずに、事件が終わったかのような印象を振りまいている様子を見れば、 村上の意識は大丈夫だろうか、という疑問が生まれて来るのは当然だ。

筆者はそこで、己の罪から目を背けたい人々は、往々にして自分の目から真実をごまかすために、事実認識そのものを歪め、現実ではないことを、現実であるかのように、あからさまに信じ込むことがあり、村上も、自己の罪から目を背けてごまかしに満ちた弁明を重ねているうちに、いずれそうなる可能性がある、ということを書いた。

なぜなら、杉本徳久にも、同様のことが起きたからである。筆者は2009年から、杉本の行為をクリスチャンにあるまじきものと主張し、2010年頃からは権利侵害であると主張して来たが、己が不法行為を認めたくなかった杉本は、常に筆者を「精神異常」と決めつけることで、筆者による罪の指摘から逃れようとして来た。
 
杉本がこれをあくまで言い逃れのための嘘と分かった上で主張していたのであれば、まだしも事態は軽く済んだかも知れないが、一審で杉本が提出した準備書面のすべてを読む限り、杉本は本気でそのように思い込んでいたと確信できる。
 
筆者はこれまで幾度も、「主を畏れることは知恵の始め。」(箴言1:7)という御言葉を引用しつつ、聖書のまことの神への信仰を保つことこそ、人の精神の健康の秘訣であると述べて来た。

人が己の罪を認めたくないがゆえに、嘘に嘘を重ねて自己弁明していると、そのうちいずれ、事実認識そのものが根本から歪んで、正常な判断を保てなくなって行くのである。

村上のブログ記事には、村上が自分にとって不都合な現実を見ないで済ますための多くのトリックや、ごまかしが見られるこを、筆者は、再三再四、過去の記事で指摘して来た。そのようなごまかしを重ねていれば、やがて精神にも異常をきたす可能性があるというのは当然である。

従って、村上が発表した以上の記事は、このような指摘がなされたという文脈の中で、投稿されたものであることを考えると、村上がここでまたもや白黒反転論法に陥り、「精神に異常をきたしているのは、おまえだ、ヴィオロン」との皮肉を込めてこの記事を投稿したと考えたとしても、さほど不自然ではないと言えよう。

しかし、心理学用語を使って信者に病名を診断するような行為は、村上の過去の行動には見られないものであることから、筆者は、村上以外の人間が、村上にそのような話を示唆することがない限り、以上のような記事の投稿はあり得ないと推測した。

とは言うものの、村上は病名診断のような行為を過去に行ったことはないかも知れないが、同様の考え方は、以前から保持して来たものと見られる。

なぜなら、上記した通り、村上一家による鳴尾教会の人事の私物化問題を指摘した記事でも紹介した通り、かつて津村氏の下で働いていた伝道師夫妻は、猛暑の中、クーラーが壊れた狭い部屋で過ごし、体調を崩したため、妻が流産するという出来事が起きたことを手紙で訴えている。ところが、津村氏が過酷な環境で二人を働かせていたという伝道師夫妻の悲痛な訴えに対し、村上の義理の父である津村氏は、

㉚ なぜ、クーラーが故障していることを牧師に言わなかったのか。これは被害者意識の強い文章ではないか。

と指摘していた。これに対し、筆者は、

「被害者意識の強い文章だ」という津村氏の弁明には呆れて笑ってしまう。しかも、これはプロテスタントのキリスト教界の牧師たちの不祥事を告発し、教会のカルト化を憂い、被害者となった信徒らを「救済する」という名目で、「カルト被害者救済活動」を繰り広げている村上密氏の義理の父の言葉なのである。

 これが、カルト被害者を救済すると言っている人たちにふさわしい言葉なのであろうか。他の牧師たちの悪事だけは厳しく告発しておきながら、いざ自分たちの冷淡さが咎められる段階になると、たちまちそれを他人の被害妄想だと言い訳して、無責任に逃げを決め込むつもりだろうか。そんな彼らがどうやって被害者を理解し、助け、「カルト被害者救済活動」など行えるのだろう。他人の被害者意識を否定するならば、信徒の被害者意識を利用して自らの儲けの手段とするなどナンセンスである。そんな活動はさっさとやめればいいことである。


と書いた。つまり、この頃から、村上ファミリーが、自分たちにとって不都合な事実は、「被害者意識が強い(被害妄想と言っているのとほぼ同じ)」などのレッテル貼りをしては耳を塞いで退けて来たことを指摘したのである。

掲示板では折しも、この記事が再び注目を集めていたところであるし、一つ前の記事で、筆者は、村上はよほど自分の活動の支持者たちが、掲示板で筆者一人に対して行った集団的なリンチ(権利侵害)に罪悪感を持っているのではないか、それだからこそ、サイバーカルト監視機構は実在しない、などと繰り返し否定せざるを得ないのではないかと書いた。
 
掲示板で起きた事件は、通常であれば、人を自殺に至らせていてもおかしくない出来事であるが、筆者は一審の間に、筆者のことを気遣い、紛争を解決に導いてくれる人たちに出会い、彼らを決して悲しませたくないし、負い目を負わせたくもなかったので、そうした圧迫には断固、立ち向かって、心の平安を保つ秘訣を学んだと書いた。

しかし、村上は掲示板で起きていることなど、筆者の「被害妄想」に過ぎない、と言わんとした可能性は考えられるし、そもそも筆者が村上を訴えた行為自体が「被害妄想」に過ぎないと言いたいのだろうとも推察されるし、また、筆者がキリストにあって、心の平安と喜びを保つ秘訣を知った、と書いていることが何より許せず、杉本同様に、「おまえは人格障害だ、心の平安などあるはずがない」というレッテルを貼ろうとしている可能性も、なきにしもあらずだ、と考えられる。

しかし、名指しであからさまにそのように書くと、名誉毀損に問われる可能性があるため、暗示にとどめたのではないかと。

その推測は、この記事の投稿後、村上が以下にも示す通り、ただちに「唐沢治の陳述書1~4」というブログ記事を投稿し、そこで筆者を断罪したことから、当たらずとも遠からずと言えるのではないかと見られる。つまり、「被害妄想」という記事は、筆者を断罪するための皮切りとして投稿されたと考えるのが妥当なのである。

だが、すでに述べた通り、心理学は唐沢の専門分野であることから、筆者は、村上が以上の記事を発表した背景には、最初から、唐沢の影響があるものと疑っていた。そこで、唐沢の陳述書が村上のブログから公開された事実は、まさにそれを裏づけるものであったと言えよう。
 
* * *

③ 自分に刃向う信者をみな「精神異常」と決めつける唐沢治
 
ちなみに、唐沢はこの春、杉本徳久が筆者に敗訴したことにより、過去に唐沢を偽預言者呼ばわりした記事を削除せねばならなくなったことをきっかけに、「杉本徳久氏の『現代の風景-随想 吉祥寺の森から』における事件の報告」と題していたブログ記事を、「ニュッサ&ヴィオロンに関わる事件について(2版)」と題名を書き換え、その記事の内容からも、杉本に向けた非難の言葉を削除し、改めて、唐沢治のミニストリーを批判して、唐沢の集会から離れ去った筆者とニュッサ氏、れん氏の三名をまとめて断罪するという内容に書き換えを行った。



唐沢を非難した杉本の記事が削除されたのは、筆者が杉本に勝訴したがゆえであり、筆者の手柄と言っても良いにも関わらず、唐沢が筆者には一言の感謝もなく、かえって筆者を、唐沢が告訴したKFCの元信徒と同列に並べて断罪し、杉本を無罪放免したことは、唐沢のものの見方の根本的な異常をよく示す事実であると言えよう。

ちなみに、筆者はこの記事が公表されるまで、ニュッサ氏の存在(面識はない)を伝聞によって知っていただけで、れん(ミルトス)なる女性の存在も、その女性の投稿記事のことも知らなかった。

唐沢が「ニュッサ事件」と呼んでいるKFCの元信徒の事件については、以前に書いた通りである。2010年当初、筆者は、唐沢が「密室で呪いの予言を行った」などとKFC元信徒が杉本ブログへ投稿した内容を、真実であると認める気にはなれず、唐沢を擁護していたが、その後、筆者自身が、2012年に唐沢からKFCを追放されるに当たり、鵜川夫妻と三人で「呪いの予言」と呼んで差し支えのない罵倒の言葉を浴びせられたことから、ニュッサ発言は真実だったのではないか(つまり、唐沢は虚偽告訴をした可能性がある)という強い疑いを持つようになった。

ちょうどそのような記事を筆者が投稿した頃、唐沢が前掲記事を更新し、そこで「なお、HN"ミルトス"はヴィオロンに合わせるように現在に至り(2019年)、私が「呪いの預言」をしたとか、4-5時間も正座させたなどとも主張している。 」などと記したのである。

つまり、唐沢がそう書かなければ、筆者も気づかなかったものを、唐沢は、筆者の他にも、ニュッサ発言は事実であり、「呪いの予言」はあったと認める人物が現れたことを、自らのブログで宣伝してしまったのである。
 
唐沢はここで、「ミルトスも<略>精神障害を隠れ蓑に偽りを語るべきではないであろう。 」などとして、あたかも「れん」と名乗る女性が、精神障害者であるかのように決めつけている。

筆者はこの女性のことを唐沢の記事で知り、さらに、掲示板でも彼女のブログが紹介されたので、その所在を知ったが、筆者は掲示板における誹謗中傷に他人を巻き込みたくないので、今に至るまで、彼女の詳細は知らない。

ただ一つ、直接確かめたことがあるとすれば、それは唐沢が彼女とニュッサ氏の結婚の司式をしておらず、英国キャンプに同行した他の信者のカップルの司式を行ったという事実だけである。それはかつて、KFCの元信徒が筆者に向かって、唐沢がニュッサ夫婦の司式を行ったかのような証言をしていたので、筆者はそれが事実でないことを確かめたものであった。おそらく、その信徒が筆者にこのエピソードを話してくれた際、昔のことなので、別のカップルの結婚の話を混同していたものと見られる。

さて、筆者がれん氏のブログを見る限り、彼女が心の病を患っていたのは、もうずっと昔のことであり、現在は健康そのものとなり、さらに、彼女は「破戒」したと書いている通り、宗教界を去ったようであるから、現在はキリスト教信仰を持っているかどうかも分からず、その点で、筆者とはかなり異なる歩みをしている様子が分かる。

にも関わらず、唐沢は、「HN"ミルトス"はヴィオロンに合わせるように現在に至り(2019年)、私が「呪いの預言」をしたとか、4-5時間も正座させたなどとも主張している。」などと記し、まるで彼女が筆者と歩調を合わせた人生を歩んでいるかのように書いている。
 
まるで第二のヴィオロンが出現したとでも言いたげなニュアンスを感じる記述だが、これを読むと、唐沢は、この記事の発表当時、筆者が存在も知らなかったれん氏を、まるで筆者のドッペルゲンガーか何かのようにとらえているのでは?という気さえしてならない。

というよりも、唐沢はここで、かつて精神障害を患っていたというれん氏の経歴を、筆者と意図的に混同し、さらに、そこに精神不安定になり(唐沢の用語だと「自己崩壊」した)ニュッサ氏もごちゃまぜにして、要するに、唐沢治に刃向う信徒など、みな精神障害者に決まっている、妄想性障害だ、被害妄想だ、と言いたげな決めつけを、一緒くたに行うために、あえてこのように三人を並べて印象操作に及んでいるのではないかと思われてならない。

だが、れん氏が現在、精神障害に陥っておらず、健康である以上、唐沢のそうしたトリックは成立しないし、むしろ、彼女が「呪いの予言」があったと証言している限り、唐沢の側のアリバイが崩れたと言うのが事実であろう。

ちなみに、筆者は生まれてこの方、精神科にかかったことは一度もなく、現在も、いかなる精神疾患にも陥っておらず、心理学者のカウンセリングも受けたことはない。そこで、杉本がそうしたように、医者でもなく、カルテもないのに、他者をいわれなく精神異常者と断定するような話を押し広げていれば、いずれ、そのようなことをした人間が真っ先に責任を問われるだけのことである。

証拠もないのに、そうして人を罵倒したいと願う人々がいるなら、あえてその愚行を止めるつもりは筆者にはないが、そのような都市伝説や怪談のような類の話が、訴訟で大真面目に取り上げられることはないであろうということは断言できる。むろん、ネットの読者も今日、そこまで侮られる存在ではなかろう。

* * *
 
④ 唐沢治の防衛の盾として都合よく利用され、使い捨てられる道を歩もうとする村上密

さて、こうした中で、村上が発表した一連の「唐沢治氏の陳述書1~4」の記事は、村上が一方的に唐沢の肩を持って筆者を断罪する内容となっている。

しかし、おそらく、村上がこの記事を発表した本当の動機は、ただ筆者を断罪するのみならず、長澤牧師の異動や、村上ファミリー(特に村上の息子に注目が集まる)による京都教会の私物化といった問題から、掲示板の話題を含め、読者の目を逸らすことが主たる目的であるものと見られる。

しかし、初めに断っておくと、村上はこの記事の公開によって、非常に危険な賭けに出たことになる。

まず、唐沢治という人物を、実際に知っている経験に立って、筆者が言えることは、唐沢は自分が窮地に陥ったときに、常に自分を支持する信徒などの他者を巧妙に盾のように用いて、自分だけが都合よく危機を乗り越えて来た男だということである。

唐沢はKFCの元信徒を刑事告訴した際にも、筆者に警察での証言を頼んだり、和解の呼びかけを推敲するよう依頼するなどして、筆者の手を借りて元信徒を追い込むことで、この事件を自分に有利に解決しようとした。つまり、自分が矢面に立たなくて済むように、巧妙に他人を盾にしながら立ち回って来たのである。

そうした唐沢の利己的な行動は、その後、唐沢が杉本に筆者の個人情報を渡した時にも同じように見られた。唐沢は自ら矢面に立って筆者と対立せずとも、杉本が自分に代わってその役目を都合よく果たしてくれることを見込んだ上で、あえて杉本に情報提供したのである。その結果として、杉本がその責任を負わされて敗訴に追い込まれている。

また、それ以前に坂井の裁判の時にも、唐沢はこれと同様の行動をしている。唐沢は坂井を陰ながら支援するという立場を装って、坂井の裁判を通じて、筆者の個人情報を杉本に提供させた。しかし、その裁判に坂井自身は敗れている。唐沢の「支援」は何の効き目も無かったのである。
 
このように見ると、唐沢の言い分を真に受けて、唐沢を擁護したり、協力する目的で動いて来た人間は、誰もが敗北に追い込まれるか、もしくは、欺かれて、罠に陥れられるような結果になっている様子が分かる。

そうした唐沢の行動が、今になって変化することは考えられない。筆者は最近、唐沢に対する訴訟を間もなく提起することで、唐沢の前掲記事を削除させるつもりだという意図を明らかにしたことから、そろそろ訴訟の時期が近くなって来たと考えた唐沢は、この度、この事件に一人で立ち向かうことを避けるために、今度は村上密を利用しようと考えた可能性があることを断っておく。
 
筆者から見れば、唐沢は村上よりも知的に上手であるため、そういうことは十分に起こりうる事態である。

しかし、そのような提案にまんまと乗せられたのであれば、村上は、したたかな報いを受けるだけである。ちなみに、唐沢は周知の通り、ニッポンキリスト教界に尽きせぬ憎悪を抱き、とりわけあらゆる牧師に対する憎しみを燃やし、罵倒を続けていることで有名である。

唐沢のニッポンキリスト教界の牧師に対する口汚い非難と嘲笑は、筆者と出会う前から始まっていたので、もうかれこれ15~20年くらいは続いているのではないかと見られる。その上、、今度は、村上密をもターゲットにすることにしたのかと呆れるのみである。

だが、村上も杉本を盾のように利用した趣が強いことから、そうなったとしても、自業自得と言う他ない。次の御言葉を引用するのみである。

悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたがたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(二テモテ3:13-17)

唐沢はすでに東洋思想、ニューエイジ、オカルト思想とキリスト教を合体するなどして、正統な聖書の教えから完全に逸れてしまっている。その上、ニッポンキリスト教界に対する尽きせぬ憎悪を燃やし、牧師たちに対する罵りの言葉を日々、語り続けている。このような人物と提携して、誰がどうして無傷で済まされようか。

筆者はニュッサ氏の事件の際にも十分に学んだが、キリスト教徒には、まことの弁護者であられる神が着いておられるわけだから、他人の弁護という仕事は、決してやってはいけない仕事である。他人を弁護しようとすると、どうしても、人は加減が分からず、一線を超えてしまい、行き過ぎた発言を行って、過ちを犯す傾向がある。しかも、自分が庇いだてしている人間が、本当に正しい、弁護に値する人物かどうかは、神でなければ分からない。そこで、もしも弁護しようとしている人間が、悪人であった場合、その人間を弁護する者は、同じ罪に自分もあずかることになるだけなのである。

筆者がかつて唐沢のために証言した際には、筆者は故意に偽証したわけでなく、また、ニュッサ氏が書き込んだ先が、杉本ブログだったために、筆者自身も被害を受けた身であり、そういうこともあって、神は筆者を助けて下さり、さらに信徒も不起訴となった。

だが、唐沢があの時、有利な立場を保てたのは、明らかに筆者の助力があったことによる。それが今はなく、また、他の証言者も現れたわけだから、唐沢は、前よりもっと苦しい立場に立たされながら、筆者に敵対しているわけであり、唐沢には勝ち目がない。むろん、その弁護を引き受けた者も、都合よく防衛の盾とされるだけで、率先して負けて行くことになるのは避けられない。

少なくとも、自分が陥れられていることさえ分かっていない人間には、まず勝ち目はないと言えよう。筆者から見れば、唐沢の弁護は、到底、村上にできる仕事ではない。

* * *

⑤ 唐沢治の言い分を真に受けた村上密によるデマ拡散と権利侵害とそれに伴う厳しい報い
 
さて、筆者が2012年にどういう経緯でKFCを追放されたか、そこで鵜川夫妻が何を行ったのか、唐沢の陳述書にいかなる虚偽が書かれているかは、「村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(7)―唐沢治と杉本徳久のメール文通―彼らのために真理の道はそしられるのです。」に詳しく記したので、こちらを参照されたい。
 
村上は以上の記事を一切読むことなく、唐沢の主張した虚偽を鵜呑みにして、筆者を中傷する記事を発表した。そのようなことをすれば、一方的に唐沢の言い分を鵜呑みにして虚偽を言い広めた村上が、唐沢の分まで、その責任を控訴審で問われることになるだけである。何と愚かかつ軽率な行動であろうか。

さて、筆者は唐沢に対して将来的に記事の削除を求める訴訟を提起する意図であることを、当ブログで隠していないので、村上の書いた「唐沢治氏の陳述書 1 」には、新事実はないと言えよう。また、筆者が「神の啓示を受けた」として横浜へ転居した事実もなく、これは唐沢の作り話であることも、上記の記事に書いた。横浜案内その他についても、上記記事に通りである。

唐沢治氏の陳述書 2 」も、村上の人格権侵害の記事等と合わせれば、プライバシー権の侵害他の人権侵害が成立する可能性がある。ちなみに、「ルークさん」という言葉を、村上がわざわざ引用しているところに、筆者は村上の唐沢に対する深い嫉妬を感じざるを得ない(この頃、唐沢は杉本に対しても、村上に対しても、敵対的な立場にあったため、筆者と唐沢との親交は、村上から見て非常に忌むべき不快なものと映ったであろうことを疑わない)。

村上は愚かにも、ここで、唐沢の言い分を鵜呑みにして、筆者が坂井と「協力体制」にあったかのように思い込んでいる。しかし、筆者は当時から現在に至るまで、坂井といかなる協力もあった試しはなく、坂井とは面識も、連絡のやり取りもないまま、2012年にKFCから追放されたため、坂井との「協力」など構築される間もなく、唐沢との関わり自体が終わったのである。

従って、村上が事実でないことを根拠に、「これでヴィオロンを援護するために坂井氏が私にしつこく絡んできたことがわかった。」とか、「なぜ債権者が根拠もなく債務者Aと債務者Bの私と結びつけるのか、それはヴィオロンたちが組んだ「協力体勢(ママ)」の投影だったと思われる。」と断定していることは、筆者に対する人格権侵害と合わせれば、名誉毀損が成立する恐れが非常に高い。

ところで、 杉本徳久が2018年3月28日に送りつけて来た迷惑メールの中にも、以下の内容が書かれていたことが思い出される、「ヴィオロンさんが書かれるとそれは多くの方が読まれるわけですが、唐沢治や坂井能大らの目にも触れるわけです。ヴィオロンさんは坂井とは面識はないだろうと思いますが、あなたが別に調停を申し立てた村上密さんにも散々、嫌がらせ中傷をしてきた人物が坂井です。聞いてみたことはありませんが、村上さんもおそらく非常に迷惑を被っただろうと思われます。」

この時点で、杉本は筆者が坂井を焚き付けたなどとは主張していなかったが、その後、杉本は自分が坂井に対して起こした裁判さえも、あたかも筆者が陰で糸を引いて坂井を焚き付けたせいであるかのように主張を翻し、坂井と筆者との間に「協力関係」が存在していたかのように事実に反する決めつけを行った。
 
現在、村上は、かつての杉本と同様の見解に立って、以上の記事で、唐沢の言葉を利用しつつ、2012年から今日に至るまで、存在したこともない「協力体制」を理由に、あたかも筆者が坂井を焚き付けて、村上に対する挑発行為に及ばせたかのように断言しているのである。杉本との驚くほどの思考の類似性が見られるだけでなく、むろん、正当な根拠のないこの記述が、名誉毀損に相当する可能性があることは、繰り返す必要がない。
 
さらに、村上がここで「「協力体勢(ママ)」の投影」などとして、坂井と筆者との間の存在しない「協力体制」を根拠に、これを筆者が、債務者A、Bに「投影」して、A,B,Cの間に「協力体制」があると思い込んだかのように主張していることも、極めて不可解な独自の論理の飛躍と言う他ない。一体、これらの両者(両グループ?)の間に、何の関係があるからそのような結論に至り着くのか、さっぱり理解できない話である。(しかも、筆者は一切、A,B,Cの三者が共謀関係にあるという主張を行った事実はない。)
 
いずれにせよ、杉本と同じように、他人から吹き込まれた悪口を、見境なく信じ込んでは触れ回る愚かな人間には、相応の報いが待ち受けているだけである。
 
村上は「このヴィオロンの謝罪を信じていた唐沢氏はやがて攻撃を向ける立場になった。」などとするが、不可解な主張である。自分たちは信者の謝罪を本気にしていた分だけ馬鹿だった、信頼を裏切られ、欺かれたのだ、と言いたげな自己憐憫の思いが透けて見える。
 
だが、前掲唐沢の記事の内容を読んでも分かる通り、唐沢は、信者をあからさまに断罪したり、信者に理解できない不可解な行動を繰り返すことによって、信者を戸惑わせ、信者が罪悪感を抱いて、唐沢に対して謝罪せざるを得ないような状況を作り出すのが巧みな人間である。
 
一度でも信者から謝罪があれば、それをいついつまでも引っ張り、「あの時、あなたは謝ったんだから、このことについても、あのことについても、どうせあなたが悪いんでしょ」と、一つの謝罪を拡大解釈しながら、諸々の行動を責めるための根拠としていく。和解するためでなく、言質を取るために謝罪へ追い込むのである。そのことは、唐沢が、れん氏やニュッサ氏の謝罪のメールを「必要があれば公開する」などと告げて、脅しめいたやり方で、自己正当化の証拠として提示しようとしている態度にも、はっきり表れている。

(しかし、暴力を用いて自白させても、それが有力な証拠とならないように、心理的圧迫を与えて、何を謝っているのかすら限定されていない漠然とした謝罪を取りつけても、それが相手に非があることの有力な証拠とならないのは言うまでもない。)
 
唐沢にとって信徒からの「謝罪」は、鬼の首を取ったぞ、という証拠なのである。こういう人間には、間違っても謝罪すべきではない。しかも、村上が言及しているメールは、筆者自身が一度も公開していないもののため、当然のことながら、人格権侵害の記事と合わせれば、プライバシー権の侵害に当たるだろう。

唐沢治氏の陳述書 3 」も同様に、「土下座」などそもそもクリスチャンの習慣にはないことから、唐沢が作り話をしていることは、信者にはすぐに分かることはすでに述べた。村上はあえてそのように明々白々な事実をも否定したいようである。

KFCは開かれた集会場であり、その場には、鵜川夫妻と筆者以外の他の兄弟姉妹もいたのであって、鵜川夫妻はメッセンジャーであり、筆者はメッセンジャーでなかったわけであるから、何の権威も肩書もない平信徒の立場にあった筆者が、いかなる権限に基づき、鵜川氏に土下座を命じたり、強要することなどできようか? また、何を根拠に、鵜川夫妻がその「命令」に従う義務があるのか?

村上は牧師としてこの疑問に訴訟でどう答えるのだろうか。筆者から見れば、笑い話であるが、見ものである。

しかも、村上自身が引用している唐沢の言葉に、「ヴィオロンを追放するように迫るU夫妻に対して、債務者Cは聖書的根拠がないと言っている。」とある通り、当時、唐沢にも、筆者をKFCから追放するような理由は何一つ見当たらず、鵜川夫妻が、筆者に対して行き過ぎた主張を行っていたことは明白だったのである。

にも関わらず、村上は、唐沢の記述を鵜呑みにして「土下座」の話題を引っ張り、「もし土下座が強要であればこれは強要罪(刑法223条)となる。」と根拠もなく疑いを書き立て、「もし、土下座が強要されたものであれば、ヴィオロンを追放する法的な根拠にはなる。」などとして、唐沢が筆者をKFCから追放した行為に、後付けで正当性を持たせることが可能であるかのような飛躍した論理を展開する。

このように、事実かどうかも分からない話を、想像だけで果てしなく膨らませて、自分が所属してもいないよその教会で、信者を追放する牧師を擁護するとは、村上の悪意に満ちた性格、特に、他の教会における分裂騒ぎや、裏切りや、離反の話が好きでたまらないという、異常とも言って良い嗜好をよく物語る記述ではないだろうか。

常日頃から、とことん他人の悪口が好きで、誰かを悪者にできそうな話には、正義漢ぶって、見境なく飛びつき、これを言い広めることで、達成感を得るような性格でないと、こうはならないであろうと筆者は思う。
 
つまり、これは「お互い信徒に見捨てられた哀れな牧師同士」、互いに涙を注ぎ合って、信徒の悪口を言い合って、被害者意識に溺れましょうね、ということに他ならない。
 
しかし、唐沢も「U夫妻が土下座する事件が起きました。」と書いて、(土下座の事実そのものが存在しないことは言うまでもなく)、これをあくまで鵜川夫妻の自主的土下座としていることからも分かる通り、ここには「強要罪」などという言葉を思わせる事実は、一つも口にされていない。

そのようなことが読み込める文脈ではないことは明らかであるにも関わらず、この場面に、村上が行き過ぎた想像をめぐらせて、唐沢を擁護すべく、また、鵜川夫妻を何とかして「被害者」に仕立て上げるべく、これを筆者の強要であったかのように捏造・誇張する発言をしているわけだから、その記述はただでさえ虚偽である唐沢の記述を前提に、これを想像によって膨らませて筆者の名誉を傷つける発言として、権利侵害に問われる恐れは十分にある。
 
村上が悪意により、筆者を貶める目的でこれを書いていることを、筆者は疑わないが、たとえそうでない場合にも、正体もよく分からない、信頼できない他者をかばおうとすると、行き過ぎが必ず生じて、悪人を弁護した者が、悪人よりもさらに重い罪に問われる可能性が高いのである。

そこで、クリスチャンは他者の弁護を浅はかに引き受けることは絶対にせず、そのような仕事をキリストに任せるべきだと筆者は言うのである。村上のしていることは、その点で、愚かさの極みと言えるであろう。
 
さらに村上は、「U夫妻に対して「教会の乗っ取るための工作員」と言い張る。この陳述書には債務者Cの債権者に対する性格描写が書かれてある。」などとしているが、陳述書は、そもそも性格描写を記すための書面ではない。しかも、鵜川夫妻がクーデターを起こしたことは、唐沢自身が記事にしたためているので、村上は、唐沢の自己矛盾に満ちた記述によって板挟みとなり、罠に陥れられることとなる。

さらに、村上は「債権者が横浜に転居してきた平成21年夏頃から、債務者Cとは3年数ケ月の信仰的に共に歩んだことがわかる陳述である。「同志」の関係は、第三者的には結構続いたと思える。」などと、悔し紛れのような記述を行っている。

だが、筆者から見れば、筆者は子供の頃からアッセンブリー教団にいたのであり、それに比べ、KFCで過ごした時間など、何と短かったのだろうかと思うが、村上にはそうは見えないらしい。もっと早く決裂に至らせたかったのに、3年も続いたのか、という悔しさをにじませる記述である。やはり唐沢に対する嫉妬のような思いが感じられる。

唐沢治氏の陳述書 4 」も同様で、唐沢は自分で鵜川夫妻による「クーデター」が起きたことを認めているのであるから、唐沢の主張それ自体が、自己矛盾によって成立しないものである。また、筆者は横浜に来たときに孤独感を唐沢に訴えたことなど全くないと主張しているにも関わらず、唐沢の言い分を一方的に信じ込んで嘘を記述しているわけであるから、村上はその責任も問われるだろう。

「かつては裁判を否定していたヴィオロンはこここそ自分の戦いの場であるかのごとく、準備書面の準備に多くの時間をかけている。債権者はいつ休息しているのだろうか。」
  
筆者が訴訟を起こすかどうかについて、村上はそもそも何かを言える立場にない。訴訟を起こすことは市民の権利であるが、これを否定するつもりだろうか。
  
しかも、これが昨年の一審が開かれていた間に発せられた言葉ならまだ分かるが、なぜ今、こんな言葉が出て来るのか、理解に苦しむ。何しろ、筆者は今、控訴中であって、村上に対する準備書面を書いていない。唐沢に対する訴えも、訴訟に転じるという名目で取り下げされたと、村上自身が認めているわけだから、この申立についても、準備書面の作成などなかったことになる。

それなのに、筆者が「準備書面の準備に多くの時間をかけている」かどうか、なぜ村上に分かるのか? 実におかしな話である。そもそも他人のパソコンを覗いたりでもしない限り、いかなる文書の作成に誰がいかなる時間を費やしているかなど、分かるはずもないことではないだろうか。

さらに、筆者は信仰があればこそ、他人の何倍もの仕事ができるようになると、前々から主張している。筆者の休息のことを心配するなら、そもそも村上がブログ執筆をやめることが一番の休息となる。

以上、残る部分は訴訟にて主張すれば良いが、まさしく墓穴としか言いようのない村上の記事である。どうしても、村上は軽微な罪では飽き足らず、より重い罪で自分を裁いてもらいたいらしい。
 
もしもこれらの記事が、唐沢のブログから発表されたものであれば、唐沢はあからさまな人格権侵害を犯しているわけではないので、人権侵害が成立するための要件は、少しこみいったものとなっていたであろう。しかし、村上はすでにあからさまな人格権侵害に及んでいるため、これを権利侵害として訴える前提は揃っている。

自分が控訴されている立場でありながら、このような記事を発表するとは、筆者から見れば、果てしない愚行であり、またしても唐沢に嵌められる人間が出現したというだけの笑止千万な話でしかない。今まで唐沢に関わって、さんざん負の影響を受けて来た者が、複数名乗り出ており、幸せになった信徒が見当たらないことを知りながら、なぜわざわざそんな愚行に走るのであろうか。

やはり、村上が杉本の発言を自分に都合よく利用した行為が、村上自身に報いとして跳ね返っているのであろうと言わざるを得ない。
 
もしも村上が、唐沢と組んで筆者を追い詰めれば、筆者に心理的打撃を与えられるだろうと考えているのだとすれば、それは愚かな間違いである。そもそも悪人と詐欺師がタグを組んでも、より悪に落ちて行く時間が縮まるだけで、何の勝算の見込みもない。

筆者がまことの神により頼んでおり、これらの牧師たちが、聖書の御言葉への忠実な信仰を捨てている以上、彼らがどれだけの嘘を懸命にばらまいたとしても、厳しい報いが待ち受けているだけで、一切勝ち目がない。もはやそのような嘘に騙される人数も、非常に限られている。
 
それにしても、悪人と詐欺師が互いに信頼も協力もできず、自己憐憫や打算に働きかけて、互いに騙し合い、責任をなすり付け合って、互いを破滅させる形でしか、共に悪事を遂げられないというのは、実に興味深いことである。これが悪人流の「協力体制」ということなのかも知れない。
 
* * *
  
いずれにしても、村上が以上のようにいきなり、唐沢の陳述書の話を持ち出したのは、長澤牧師の追放に近い転任や、村上一家による京都教会の私物化という問題を、これ以上、読者に追及されないためのスピンである可能性が高いということを何度でも断っておきたい。 

筆者が一連の記事を発表したことにより、唐沢の陳述書の問題などはほぼ終わっている。今、注目されるのは、カルト化して、現人神と化した牧師たちを祀り上げる母体となった京都教会とKFC が、これからどういう末路を辿るのかである。

これらの教会にはしたたかな報いがあるだろう。バビロンの倒壊には巻き込まれないようにせよと聖書にはあるから、左遷であろうと、追放であろうと、転任であろうと、このような忌むべき場所から遠ざけられた者は幸いであろう。

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(19)―わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

さて、神はこの世の時空間の制約や、私たちの思いの限界の只中から、人知を超えた、偉大な解放のわざをなして下さると筆者は信じて疑わない。

筆者はジョージ・ミュラーの「椅子」の話がとても好きである。孫引きになってしまうが、「祈りの小部屋 -バウンズ著、「祈祷の目的」から-」(「同労者」第23号(2001年8月)から引用したい。
 

  D・W・ホイットル少佐はブリストンのジョージ・ミュラーについて祈りの不思議に関する序文で次のようにいっている。

 「私はケベック(カナダ)からリバプール(イギリス)に航行とする朝、急行列車中でミュラー氏に会った。小船が旅客を載せて本船に行く三十分前に、彼は係の者に、ニューヨークから甲板用の椅子がとどいているかどうかをたずねた。だがまだ来ていないばかりか、とても汽船の間に合わないだろうと答えられた。

私はミュラー氏に向かって、自分は今、一つの椅子をすぐそば の店で買ったところである、時間までにはまだ数分あるから一つ買ったらよかろうとすすめた。すると彼は『いや、兄弟よ、天の父はニューヨークから椅子を送って下さる。それは家内の使いなれたものです。私は一人の兄弟に手紙を出して、先週のうちにここに到着するよう依頼してやったのです。彼は私が期待したように早くやってくれなかったけれども、神様はあの椅子を送って下さるに相違ありません。家内は船に弱いのでどうしてもその椅子がほしいのです。それで私は昨日から天の父にそれを送って下さるように願っておりました。ですから父はそれを送って下さることと信じます。』と答えた。

この愛すべき神の人は数ドル出せばミュラー夫人に危険な旅行をさせずにすむものを、あまり極端に信仰の原則を応用しすぎると私はおそれた。ュラー氏が小荷物室を去ってから十分もそこに居たが丁度私が急いではとばに行く時に、一台の馬車が道を走って行った。その荷物の上に、ニューヨークからとどいたミュラー夫人の甲板椅子があった。それは直ちに世話人の手に渡された。(これは主が私に与えたもうた教訓であった)ミュラー氏はにこにこした子供のような態度で深くそれを喜び、うやうやしく帽子をとって手をその上におき、椅子を送りたもうたことを天の父に感謝した。」・・後略(バウンズ、「祈祷の目的」、東宣社、1957、p.31)


 
現在、筆者が直面している多くの困難を見て、人々はこのような試練に女性が一人で耐え抜くことは無理であろうと考えるかも知れない。ましてや、そこで勝利を勝ち取るなど、あり得ないと・・・。

だが、筆者は少しも恐れておらず、落胆もしていない。現在、筆者が抱えているすべての困難に、神は必ず、御名にふさわしい形で、解決を与えて下さるものと信じている。だから、筆者は、車を運転する時のように、障害物を見ないで、進路だけを見つめて進んで行く。

 神を待ち望むことには希望がある。主は信じる者の呼び声に必ず応えて下さり、私たちが待ち望んでいる答えを必ず与えて下さると分かっているからだ。この方は、私たちの栄光をお受けになるにふさわしい方。私たちの信頼を決して裏切ることなく、すべての問題に対する勝利に満ちた解答となって下さる方である。
 
* * *
 
さて、村上密は5月2日の記事で、まるで筆者が提起した民事訴訟がすでに終わったがごとく、筆者が完全敗訴したと叫んでいる。

サイバーカルト監視機構は虚構  
 
 ヴィオロンは私に対する民事訴訟に完全敗訴してから、攻撃をインターネット上に移している。記事の一つ一つは、頭の上に燃える炭火を積み上げているようだ。相変わらず、事実と想像を交えて記事を書き続けている。これは事実、これは私の想像であると区別をしてくれれば、読者は混同しなくて済むはずであるが、混同することを目的としている可能性があるので、そのような丁寧さはない。サイバーカルト監視機構を想像ではなく事実と思っている限り、常識のある読者は混同することはないと思われる。 」

まるで掲示板の投稿のような短い文章に驚かされる。相変わらず、具体的根拠の裏づけがなく、筆者がサイバーカルト監視機構の実在性を訴えているかのように決めつけて非難しているだけである(筆者はそのような機関が実在しているとは一度も述べていない。)

筆者は前回の記事で、村上とその周囲にいる「側近」のような信者たちが、まるで念仏のように、「監視はなかった」、「マインドコントロールはなかった」、「人権侵害はなかった」と自分に言い聞かせることで、自分たちがカルトから強制脱会を遂げた際に負った深い心の傷を覆い隠し、また、他者に対して行っている行為の残酷さからも目を背けようとしていると書いたが、この記事もまさにそうした「念仏」の類にしか見えない。

やはり、村上の支持者たちが、一人の女性信徒を寄ってたかって、数千件のコメントと共に掲示板で口汚い言葉で罵り続けたことが、よほど深い罪悪感となっているのではないかと見られる。だからこそ、自分は掲示板の騒ぎとは無関係だと強調するために、こうした記述を繰り返し行わないわけにいかないのではないだろうか。

村上の記事では、いつも白黒反転論法が使われている。筆者は少し前の記事で、村上がカルトに入信した青年をアメリカまで捜索に行ったと書いている記事を指して、この記事には、事件の発生年月日が記されていないため、これを読んだ読者が、最近起きた出来事だと誤認する可能性があり、そして、村上はその危険があることを十分に知った上で、あえて読者の誤認を誘う曖昧な書き方をしている可能性があると指摘した。

その非難を、村上は根拠も示さずに、筆者に置き換え、あたかも筆者が読者の誤認を誘う内容の記事を書いているかのように非難しているのだ。

杉本もそうであったが、村上も、誰かから批判を受けると、その批判を常に裏返しにして自分を批判した者に投げ返すことで、事実から目を逸らそうとすることをやめられないらしい。「悪いのは私ではない。私を非難しているあいつこそ、悪事を犯しているのだ」というわけで、延々と他人を非難するばかりで、いつまで経っても自分の過ちを認識することもない。

だが、そのようにして、人が己が罪悪感から目を背けるために様々な形で現実認識を歪め、自己正当化をはかっていると、それがついにはやがて深刻な認知の歪みへ結びつき、最終的には正常な意識を失わせる危険がある。

これまで幾度となく繰り返し強調して来た通り、「主を畏れることは知恵の始め。」(箴言1:7)であり神を畏れないことは精神崩壊の始まりである。「無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」’結果として、自分の罪を認めないためのごまかしを重ね、ついには事実を事実と認識する力さえも失って行くことになる。

さらに、村上は、筆者が村上を批判する記事を書くことで、あたかも燃える炭火を頭上に積み上げているかのように書くが、自分に刃向う信者に対して、このような台詞を使うのは、まさにカルト牧師のすることではないだろうか?
 
村上は、自分は善人であり、筆者は悪人であって、筆者は村上を批判することで、罪に罪を重ねているだけだと言いたいのである。だが、「燃える炭火」という言葉が使われている該当の聖書箇所は以下の通りである。

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:19-21)

これは悪人が悪事を重ねることで、自分に降りかかる報いを増し加えているという意味ではない。そもそも燃える炭火を頭上に積むとは、悔い改めの儀式を指しているらしいから、この文章は、誰かに悪さをされても、悪に悪で報いないで、かえって善で報いることによって、敵の良心の呵責を引き出しなさい、といった意味に受けとるのが通常であろう。

従って、村上の言葉は、聖書の御言葉の理解を根本的にはき違えたものと言えるが、その点をさて措いても、村上が自分を善人であるとみなし、筆者が悪人であるとみなす根拠はどこにあるのか?

筆者は前の記事で、預言者ダニエルが獅子の穴に投げ込まれて無事であったことについて書いた。そして、その後、かえってダニエルを讒言した者が、この穴に投げ込まれて滅びる結果になったというくだりに触れたが、その時にも、裁きをなして下さる方は神であるということを強調している。

ダニエルの敵は、ダニエルに刃向ったから滅びたのではなく、まことの神により頼まなかったから滅びたのである。私たちは、小羊の血潮に隠れるからこそ、贖いにあずかることができるのであって、私たちが神の裁きに耐えうる根拠は、私たちの自己の正当性にはなく、カルバリの十字架にある。

だが、村上の記事には、何故、村上は正しく、村上を批判する記事を筆者が書くことが、「頭の上に燃える炭火を積み上げている」ことになるのか、根拠が何も記されていない。

いや、村上が筆者を断罪する唯一の根拠とは、筆者がありもしないサイバーカルト監視機構の話を記事にして、村上を批判したから、という以外にはない。
 
要するに、村上の記述は、彼が自分を現人神のように考えており、自分に逆らう人々は皆罪人、とみなしている様子を読者に感じさせるだけである。これぞカルト的思考と言わずして何と言うのだろうか?

しかも、事件は控訴中である。それにも関わらず、村上の記事では、そのことが書かれていないことも、極めておかしな現象である。村上は、まるで民事訴訟が一審で終わって、村上の完全勝訴が確定判決となり、その後、筆者が仕方がなく「攻撃をインターネット上に移している」かのような印象を読者に持たせる書き方をしている。

むろん、こうした文章が、あえて読者の誤読を誘うための誘導(虚偽のプロパガンダ)であることは言うまでもない。だが、それ以前に、筆者は、村上の事実認識が、根本的に狂い始めているのではないかという気がしてならない。

なぜなら、杉本にも同様のことが起きたからである。杉本ブログに集まる人々は、様々な中傷や罵倒の言葉を用いて筆者を口汚く非難しているうちに、自分たちが用いている非難の言葉が、大袈裟な作り話であることを忘れ、次第に自分たちの発言を事実であるかのように思い込むようになっていったのである。自分で自分の嘘にとらわれ、現実認識そのものが狂って行ったのである。

以前に筆者が控訴したことを、筆者に先んじて発表したのは村上自身である。にも関わらず、筆者の側から控訴がなされたことを書かずに、事件が終わったかのような印象を振りまいている様子を見れば、 村上の意識は大丈夫だろうか、という疑問が生まれて来るのは当然だ。きっと彼は、よほど控訴審のことを考えたくないのだろう。村上はすでに筆者に対する権利侵害の事実を積み重ねているため、二審は一審のようにならないことを、内心では十分に理解しているのではないかと見られる。

* * *

さて、それに続く村上の最新記事も、相当な危うさを感じさせるものである。

教会の暴走  
 
 教会のカルト化は教会の規模に関係がない。カルト化していくときは、教会が閉鎖的になる。牧師は、教会を閉鎖的にしていくことによって自分の権威を確立しようとする。牧師は牧師におもねる人を役員にする。そして権威主義を共有する関係となる。側近はけっして牧師を公の場では非難しない。個人的にはなおさらである。持ち上げることで、牧師から引き上げられる。牧師を持ち上げれば、実は自分の教会内における地位や名誉が上がっていくと思っている。持ち上げる人が権威主義の体質を持っているのである。同じ体質の人が集まりだすと、教会はカルト化へ勢いがつく。それは暴走の始まりである。 」

この記事には、具体的な日時、場所、教会名の特定がない。まるで一般論か、他人事のような書き方である。だが、筆者はこれまで、村上の教会こそ、まさに暴走を遂げている教会であることを再三再四、指摘して来た。

村上はまず、後継牧師になるはずであった長澤牧師を不明な理由で主任牧師の地位から退け、自分の妻を主任牧師に据えた。村上はその当時、自分は60歳ではなかったとか(60歳を迎える直前であった)、牧師を引退したわけではないなどと、些細な訂正事項をあげつらっては、筆者の論に噛みついている。

だが、問題はそういう些細な事柄にはなく、村上が正式な手続きを経て選出された後継者を、正式な手続きによらずに退けたことにこそある。長澤氏には「あなたには(主任牧師としての)神様の召しはありません」という内容の牧師たちの連名による通達が届けられたそうで、その後、村上は自分の身内を主任牧師に据えることで、半永久的に教会内で自分たちファミリーの権威を保とうとしたのである。

普通の教会では、こんな不明な人事の私物化が見逃されることはない。これは教会の分裂騒ぎに発展してもおかしくない出来事である。にも関わらず、京都七條基督教会では、この人事に対して、大々的な抵抗も起こらなかったばかりか、その話が外へ漏れ聞こえることさえなかった事実を考えると、村上がいかに常日頃から、教会内で、自分が統一教会から強制脱会させた信者たちを役員に据えるなどして、自分の意見に反対する者がいなくなるようなイエスマンばかりの体制を築き上げて来たかがよく分かる。

おそらくは、反対者・批判者が現れると、今、村上が筆者に対してそうしているように、早速、「名誉毀損だ!」などという言葉で、誰も公然と批判の声を上げられないように圧力をかけて来たのであろう。

このように、七條基督教会では、村上の権威主義を信者たちが共有する体制が出来上がっていればこそ、村上の行った行為の理不尽さを明るみに出す声が上がらず、村上に対する否定的な評価も、外へ持ち出されないのである。

筆者は、村上の身内の間で、不幸な事件が相次いでいることも書いた。通常の教会ならば、牧師家庭で子供たちに不幸な事件が起きたりすれば、そもそも自分の家庭も治められない人間が、牧師としてふさわしいのか、などという非難が、信徒から湧き起こって来るのが当然である。

ところが、村上ファミリーに関しては、そうした噂すらも、これまで外に出て来ることがなかった。それも異常な現象であり、さらにこの問題を指摘した筆者が、早速、掲示板で袋叩きに遭わされたことも、異常現象に輪をかけている。
 
こうした現象を見れば、読者は、村上の支持者たちがどれほど必死になって、村上に関する否定的な噂や、批判や、反対を抑え込んで来たかが分かると共に、京都七條基督教会の信徒たちが、事実上の恐怖政治下で、言論・思想統制を受けているにも等しい状態にあり、村上に不利な事実について、頑なに沈黙を守らざるを得ない深刻な理由が存在することを、如実に理解できよう。
  
遠方から筆者がそのことを指摘しただけで、掲示板での騒ぎ(人権侵害)が起きて来るわけだから、暴走している教会とは、まさしく村上自身が所属している教会の他ならない、という結論が生じるのは当然である。

村上のブログは、彼の運動の傘下に立てこもっている人々に向けて書かれたプロパガンダであって、要するに、「ヴィオロンみたいに好き勝手な発言を重ねていると、おまえたちもいずれこうなるぞ」という見せしめのために、筆者に対する記事が発表されているだけである。そうした事実を読者は見抜かなければならない。

* * *

最後の記事も同じだ。

連休はカルト研修の時期 2  
  
  「連休はカルトの研修の期間」の記事をブログに掲載した。その後はどうなるかと質問があった。夏にさらに研修がある。大学出の学びが再開すると、今度は勧誘する側になる。研修のテキストがあり、段階的に学習して、その後は実践となる。その実践が会員を増やすことである。5月の連休も帰らない。夏休みも帰らない。どんな理由があろうが、家に帰らないことを自立していると思い込んではならない。カルトに勧誘された子供は親に嘘をつくように指導される。親よりもカルトの指導者の言うことを聞くようにコントロールされている。友達と旅に出るとか言っても安心できない。 」

こういう短い記事は、具体的な根拠も示されておらず、日時も団体も特定されておらず、些細な出来事を普遍的な一般論のように見せかけるのに役立つ。統一教会などの一部の団体にしか通用しない話が、すべてのカルト団体に当てはまる話であるかのように拡大されていること、個々具体的な事例の違いを無視して、一つの事例があらゆる家族に当てはまる危険であるかのように話が拡大されていることにも、読者は注意しなければならない。

村上は、子が親に嘘をついてカルトに入信する行動だけを疑問視している。相変わらず、子どもの言い分を疑えと言いたげな記事である。だが、幾度も述べて来た通り、子がカルトに走るのには、必ず、それなりの理由がある。ほとんどの場合は、子どもの頃から育って来た家庭環境が重大な精神的重荷となって、そこからの逃避の手段として、子供はカルトに走ることになる。

そこで、子どもがカルトに入信することだけを危ぶみ、子どもの行動だけを疑問視しているのでは、何らの問題解決にもならないのだ。大人たちが、そうなった深い動機を探り、親自身が、子どもを追い詰めていることを認識し、家庭にとどまらず、大人たちの作って来た社会の歪みを深く認識することなくして、根本的な問題解決に至ることはできない。

だが、村上の論では、村上を含め、自分たち大人自身が、子どもたちの前に犯して来た罪を自己反省するという視点は、徹底的に欠けている。自分たちは常に正しく、不可解な行動を取る子供たちが誤っているという以外の切り口はない。

そのことは、引いては、村上が常に強い大人たちの味方となってしか、物事を認識できず、弱い者の心の本当の叫びに耳を傾けることなく、自分自身の罪を認識できないまま、弱い者たちだけを断罪して来たという盲点を如実に示している。

それだからこそ、村上の「救出活動」には救いがないのである。聖神中央教会の被害者など、村上が手を差し伸べようとした多くの被害者たちが、この問題を見抜いて離反して行った。それは、村上の活動が、弱い者たちに心から寄り添うのではなく、彼らの弱さにつけこんで、彼らの尊厳を踏みにじり、強い者である村上が、彼らの上に立って君臨し、自己の正当性を誇り、自己の力と勝利を見せびらかすための活動になっているためである。

村上は今、筆者を「完全敗訴」したと決めつけ、筆者を嘲っているが、それと同じように、カルト被害者に対しても勝ち誇って来た。そうこうしているうちに、高慢さのうちに、己の罪が全く見えなくなって、キリストの贖いの血潮の外に出たがゆえに、村上は防御の盾を失って、終わりの時が近づいているのである。
  
* * *

さて、筆者は一審のすべての行程を通して、自分は勝訴したと誇っている村上よりも、はるかに貴重な学びと教訓、深い満足を得たと思っている。

村上は一審で不法行為を認定されなかっただけのことであって、心の中では、平安と喜びを失っている。そして、そうなった時点で、すでに勝負に負けているに等しいと筆者は思う。これから先、その事実は、より鮮明に、よりはっきりと具体的な形を取って、外に現れて来るだろう。

さて、調べてみると、一審を担当してくれた裁判官は、西日本に異動しており(*)、さらに、この裁判官が、筆者とほぼ同じ世代に属していることも分かった。ああ、それであのような不思議な親近感を覚えたのだなと、初めて納得がいった。

追記:4月1日付でこの裁判官は福岡へ異動、村上密が主任牧師を降格させた長澤牧師も同日付で博多に異動していることが発覚した。

地裁の裁判官が、サラリーマンのような多忙状況に置かれているというのは、本当のことだ。それは筆者の事件の判決言い渡し日に、同じ裁判官が、4つほどの事件の判決言い渡しを同時に抱えていた様子からも十分に伺えた。

こうした多忙状況が、非人間的なものであって、いかに一つ一つの事件の精度を落として行くものであるかは言うまでもない。

筆者は、裁判官が書いた移送申立の却下通知を読んで、この人が並々ならぬ知性と深い理解力の持ち主であることを感じ、ぜひとも判決を書いてもらいたいものだと願った。しかし、その裁判官でさえ、事件の終わりが近づくに連れて、時間的制約に追われ、書面を十分に読む時間的余裕さえなくなって行ったのである。

50頁以上に及ぶ判決文を読めば、これがどれほどの厳しい時間的制約の中で書かれたものであるかはすぐに分かる。

だから、一審判決で及ばない部分があっても、筆者はそれを誰の非として責めるつもりにもならない。それはこれから控訴審で解決して行く課題であり、関係者一同は、筆者のリクエストに応えて、なすべきことをしっかりやってくれた。そのことに筆者は深い満足を覚えている。
 
筆者は一審判決と戦うのではなく、これを土台として、さらに完全なものとするため、先へ進んで行くのである。

さて、今回の一審で、筆者が得た教訓とは、信仰によって、自分自身の制約と、他者の制約という、大きな制約の只中にあっても、その限界に押し潰されることなく、望む成果を勝ち取る秘訣を理解したことであった。

筆者は、紛争を開始したばかりの頃は、自分の心のままに振る舞うことしか知らず、被告から送りつけられる書面を、常に限りない厭わしさを持って受け止めていた。ただでさえ不愉快な、まるで怪文書のような中傷の文書が、ほとんどと言って良いほど、締め切りを超えて送りつけられることに、限りない不快感を覚えずにいられなかったのである。

だが、ある時、筆者は自分が感じている動揺や厭わしさが、関係者一同に、我が事のように伝わり、非常なマイナスの影響を及ぼしていることを知った。そして、初めて当事者感情を克服することの重要性を理解したのである。

それはある時、筆者が民事部に書面を出しに行ったときのことであった。筆者が自分の書面を提出すると同時に、被告の書面が届いていることを書記官から告げられ、これをついでに受け取らないかと尋ねられた。

だが、筆者はその時、またしても被告が締め切りを破ったことに、憤りを覚え、被告の切手代を浮かせるために、筆者はここへ来たのではないと言って、被告の書面を受領することを拒んだ。そして、書面を郵送してもらいたいと願い出ると同時に、被告に締め切りを守るよう、今一度、注意してもらいたいと書記官に伝えた。

実は、こうした会話は、その時が初めてではなく、筆者はそれ以前にも、同じことを書記官に伝えていた。そして、書記官はこの点について十分に理解し、被告に注意を促してくれていた。そこで、筆者は彼を責めたいがゆえに、こうした話を持ち出したわけではなかった。

だが、書記官がどんなに注意を促してくれても、被告の行動は変わらず、被告の書面が届けられる度に、筆者の心に沸き起こる厭わしさも、隠すことはできなかった。

思いがけないことに、ちょうどそのやり取りが行われていた最中、裁判官が偶然、そばを通りかかった。そういう出来事が起きたのは、後にも先にも一回きりのことであった。彼は顔色一つ変えず、全く見ず知らずの人物を見るように、筆者のそばを通り過ぎて行った。

裁判官が何も言わずに通り過ぎたので、筆者は書記官との会話を続けたが、しかし、裁判官の後ろ姿を見たとき、筆者は、彼がそ知らぬふりをしているのはうわべだけのことであって、実際には、筆者が心に感じている動揺は、すべて我が事のように伝わっていることが、はっきりと理解できた。

そして実際に、筆者の心の動揺は、裁判官の心中にも、非常にネガティブな効果をもたらした。その次に開かれた口頭弁論では、我々は最初から心がバラバラで、裁判官は筆者と視線を合わせずに語り、その上、一つ前の記事にも記したように、被告らの反訴の予告があったせいで、議論は大荒れとなった。

しかし、そこで筆者は、議論を制止した裁判官が、まるで筆者の身代わりのように、被告らの反訴の予告に圧迫され、これに非常な嫌悪を示しながら、受け答えしている姿を見、まるで鏡に映した自分を見せられるように、その苦しみに深い同情と共感を抱くと同時に、初めてこのままではいけないという危機感をはっきりと感じたのである。
 
気を確かに持たなければならない。すべては筆者自身の心の平穏にかかっている。これ以上、我々が、被告らの非常識な振る舞いの一つ一つに影響を受け、逐一、それに振り回されて、足並みを乱されているようではいけない。

筆者が、被告の様々な心理作戦に巻き込まれてこの先も動揺していれば、その動揺や苦しみは、周囲のすべての人々に伝わる。そして、多分、信仰者でない以上、誰一人、そのプレッシャーに耐えうる人はいないだろうから、彼らはやがて事件を持て余すようになり、筆者を救い得ない無力感にさいなまれ、それに耐えられなくなって、そのうちいずれ敵に降伏して行くだけである。

そうして私たちに分裂を来たらせ、足並みを乱し、互いに憎み合わせ、争わせ、敵対させて、決して信頼も協力も打ち立てられないようにすることが、敵の狙いなのである。そうして疑心暗鬼をもたらすためにこそ、被告は常識外れな行動を繰り返し、心の揺さぶりをかけているのである。

そこで、以上のような事態の発生を防ぐためには、まずは筆者が自分をしっかりと持って、全力で自分の心を敵の攻撃から守り、周囲の人々の心をも、守ることができなければならないと分かった。それができて初めて、円滑な協力関係が打ち立てられ、人々と心を合わせて一つの目的へ向かって行くことが可能になる。

筆者はそれまで、筆者が心の中でどれほど苦しもうと、それは他者にはまるで関係のないことだと考えていた。また、自分の苦しみは、取るに足りない問題であって、筆者の心の状態が、他者にそれほどまでに深刻重大な影響を及ぼすことはないと考えていた。だが、この時から、そうでないことがはっきり分かり始めたのである。

もしも筆者が、一審の期日が開かれていた間に、この問題の重要性を理解できなかったならば、その後、掲示板で行われた嵐のような集団的な誹謗中傷の前に、筆者は全く立ちおおせる力を持たなかっただろうと思う。

だが、筆者は先に教訓を得ていたからこそ、掲示板の投稿に振り回されることなく、自分の心をしっかりと防御し、また、誰一人その問題に巻き込まずに済んだのである。

もしも筆者が自分の心を守る術を知らず、中傷の書き込みを真に受け、これを苦にして、自殺でも遂げようものなら、筆者の周りにいる人たちは、間違いなく全員が、生涯に渡って、癒えない心の傷を負うことになる。

筆者は、そんな結論に至ることは、真っ平御免だと固く心に決意していた。もうこれ以上、一人も敵に渡したくない。しかも、こんな下らない事件のために、これ以上の苦しみが、誰に必要だというのだ。重荷は、筆者一人分だけで十分である。いや、筆者一人分であっても、もうこれ以上のお荷物は御免だ。筆者をも、他の誰をも、二度と絶対に彼らに渡しはしない・・・。

自分のためだけならば、立ち上がれたかどうか分からないが、筆者以外の人間までが、人質に取られるように、敵の攻撃にさらされているのを見たとき、筆者は自分の内心で起きていることを客観視するチャンスを与えられ、そのおかげで、自分の心の中で起きていた当事者感情を克服して、事件全体を俯瞰し、自分のみならず、関係者一同の心の状態に注意を向けて、人々を守るために策を講じることができるようになったのである。
 
これ以上、彼らの策略によって動かされていては駄目だ、こんな心理的な圧迫は、即座に振り払い、二度と許すわけにはいかないという心境に、ようやく達したのである。

私たちは協力関係にあるのだから、それを決して奪われてはいけない。互いにいがみ合ったり、争ったりしている場合ではない。苦しむべき人間は、別にいるはずだ。

圧迫は、しかるべき人間にお返しせねばならない。心の動揺や、悲しみや、圧迫や、やるせなさや、分裂や、敵対や、憎み合い、裏切り合いは、すべて敵にお返しし、私たちは、敵の策略を、敵自身の頭上に注ぎ返し、自分の心の平穏を失わせるすべての策略に毅然と立ち向かって、疑心暗鬼に陥ることなく、自分たちの間に生まれた協力と信頼を最後まで守り抜かねばならないと分かったのである。
 
 * * *

さて、もう一つのエピソードをここに付け足しておきたい。

それは2008年頃、筆者がまだ横浜に来る前、遠方の地で唐沢と電話で会話していた時のことであった。

その頃、筆者は唐沢も兄弟の一人であることを疑わず、エクレシアの兄弟姉妹との交わりを探し求めながら、今後のことを考えていたが、ある時の会話の中で、唐沢がとても奇妙な発言をしたのを覚えている。彼はこう言った。

「私はどんなクリスチャンを見ても、ほとんど恐れることはありませんが、一つだけ怖いと思うものがあります。完全な平安の中にいて、揺るがされることのない人を見ると、私は怖いと思いますね・・・」

それを聞いたとき、筆者は、とても奇妙な発言だと思った。完全な平安の中にいる信者を、羨ましいと思うとか、見倣わなければならないと思う、と言うなら分かるが、「怖いと思う」とはどういうことなのだろうか。

その理由はずっと後になってから分かった。唐沢は、自分のマインドコントロールの効かない相手を恐れていたのである。

神への完全な愛と、全き平安に座す信者は、何者のどんな策略によっても、決して揺るがされることがない。誰かがその信者を安っぽい誘惑や、各種の欲望、あるいは恐怖心で釣ろうとしても、彼はその策略に負けることはない。神の全き充足の中を生きているので、一切のマインドコントロールが通用しないのである。

偽預言者たちは、そういう信者を恐れる。彼らの策略がすべて見抜かれて、打ち壊されるからだ。私たちは、そういう風に、決して動かされることなく、確固たる信仰に立って、自分自身の心を守れる信者にならなければならない。神にあって、自分の心をも、周囲の人々の心をも、敵の攻撃から守り抜ける人にならねばならないし、そのための具体的な防御の方法を知らねばならない。

何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。 」(箴言4:23)

* * *
 
さて、筆者は今、一審によって得られた小さな種を地に蒔いて、発芽を待っているところだ。

夫人のお気に入りの椅子が、出発に遅れずに届けられることを心に信じて待ち続けたミュラーのように、今、神のさらに完全な解決が、必ず遅れることなく確かに届けられることを心に信じてそれを受ける準備をしている。

「それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。
 たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。

 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。
 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」(ハバクク2:3-4)
 
私たちが待っているのは、主ご自身であり、私たちが着くべきは、主と共なる天の御座。そこはすべてのものを足の下に従える、御名の圧倒的な権威が支配しているところである。

私たちはキリストの御名で呼ばれる民として、神ご自身のこの世に対する圧倒的な超越性・優位性を実際に生きて証明することができ、それをするためにこそ、この地に置かれている。

この先も、試練はあるだろう。だが、そのすべてに勝利する秘訣が、すでに十字架上で与えられている。そうである以上、私たち自身だけでなく、私たちに属するすべての人々を守り抜くための知恵と力をも、神はきっと教えて下さるはずである。

勇気を奮い起こしなさい。あなたの心の平安を、誰にも奪われないように守りなさい。神への完全な愛と、全き平安に座し、何によっても、心を揺るがされることがないように、あなた自身の心と、あなたの愛するすべての人たちの心をしっかり守りなさい。

生ける命の水の川々は、あなた自身の心の中から流れ出す。あなたはこれを絶やさないよう、自分の心を見張って、これを守らなければならない。
 
「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
 遅れられることはない。
 わたしの正しい者は信仰によって生きる。
 もしひるむようなことがあれば、
 その者はわたしの心に適わない。

 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、
 信仰によって命を確保する者です。」(ヘブライ10:37-39)

* * *

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。

このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右に尾諏訪地になったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。

 主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。
 なぜなら、主は愛する者を鍛え、
 子として受け入れる者を皆、
 鞭打たれるからである。

あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。<略>

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」(ヘブライ12:1-13)
 
<続く>

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(18)―愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。

 「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。

わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(一ヨハネ4:16-21)

さて、このとこと筆者は複数の仕事を果たさねばならず、かけもちで忙しい。掲示板では、反カルト陣営の抑えがたい凶暴性、悪質性が表面化している様子で、魔女狩り裁判をしたくてたまらない人々が次の獲物を求めて集まっているようだ。


 
やれやれ、牧師が信徒を訴えたくてたまらない時代。何という恐るべき曲がった世の中になったことだろうか。

このようなことが起きることを予見して、当ブログでは再三、牧師制度の悪なることを主張し、牧師制度から離れるよう読者に警告して来た。牧師制度は撤廃するしかない、そういう明白な結論が出るところまで来たと筆者は考えている。

ちなみに、信徒を刑事告訴した牧師などは、筆者が知っている限り、日本にたった二人しかいない。いみじくも二人とも筆者の知り合いで、これには運命の数奇な縁を感じる。
 
一人目は、KFCの元信徒を訴えた唐沢治だが、この件は、後になって、筆者自身が唐沢の告訴の正当性に疑問を抱くようになり、筆者の他にも、「呪いの予言はあった」と証言する人物が現れるなど、虚偽告訴だった可能性が指摘されている。

二人目は、村上密で、何とこちらは筆者を告訴したという記事を発表、すでに記事が削除されている以上、この情報の真偽の程は定かでないが、事実であれば、こちらは虚偽告訴罪を主張する構えでいることも、すでに記事に記した通りである。

いずれにしても、牧師が信徒を訴えるという行為が、どれほどキリスト教の精神に反するものであるかは、今更、説明するまでもない。村上は、筆者が理由なく村上を悪魔扱いしているかのように非難していたが、黙示録には、こうあるではないか。我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)。悪魔の主要な特徴は、救われた兄弟姉妹を告発することにある。だとすれば、筆者に反訴を予告したり、告訴を予告する行為は、これに該当しないと言えるだろうか。
  
なぜ牧師が信徒を告訴するなどという恐るべき出来事が起きるのか。それは、牧師という職業そのものが、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」(一テモテ2:5)の御言葉に反し、神と人との間に、目に見える「代理権威」としての人間を置こうとする制度だからである。

人間に過ぎない者が、神と人との仲保者であるキリストになり代わろうとするなど、筆者に言わせれば、まことの神への反逆、とてつもない高慢である。にも関わらず、そのような恐るべき地位の略奪(=キリストの地位の略奪)をしようとするからこそ、これらの牧師たちには、あたかも自分こそ神であるかのような錯覚が生じ、「自分に盾突く者はどんな手段を使ってでも社会的に抹殺したい」といった残酷な欲望が生じるのである。
 
私たちはこのような現象を見て、神と自分たちの間に、宗教指導者という「代理権威」を置くことがいかに忌むべき行為であるかを理解し、牧師制度に服することを拒否して、見えないキリストだけにより頼んで信仰生活を送るべきである。

牧師たちの暴走は、カルト・反カルトどちらの陣営をも問わず、自己を現人神とする牧師制度ある限り、今後も発生し続けるのである。

さて、村上密の率いる反カルト運動に深い影響を受けた信者らが、村上がブログで新たな団体や信者を「カルト認定」する度に、村上に倣って、村上が標的とした人物や団体に集団で人権侵害の記述を繰り返して来たことは、周知の事実である。

反カルト陣営は10年以上にも渡り、他宗教の信者のみならず、キリスト教徒の中から「獲物」を見つけては、バッシングに及ぶことによすがを見いだしており、村上はこれらの人々に、獲物をくれてやるがごとくに話題を提供する役目を担って来た。

そして、今や彼らは筆者をも獅子の穴に投げ込んだつもりでいるらしい。

だが、筆者には訴えられる理由もなければ、キリスト教徒としてのいかなる信仰的逸脱もないため、筆者はこうした話を全く意に介しておらず、かえって牧師たちこそ、訴えられて倒れると心に確信している。このような時には、ダニエル書6章の記述を思い出すだけで良い。
 

「ダリヨスは全国を治めるために、その国に百二十人の総督を立てることをよしとし、また彼らの上に三人の総監を立てた。ダニエルはそのひとりであった。そこで総監および総督らは、国事についてダニエルを訴えるべき口実を得ようとしたが、訴えるべきなんの口実も、なんのとがをも見いだすことができなかった。
 「われわれはダニエルの神の律法に関して、彼を訴える口実を得るのでなければ、ついに彼を訴えることはできまい」と。

こうして総監と総督らは、王のもとに集まってきて、王に言った、
 「すなわち今から三十日の間は、ただあなたにのみ願い事をさせ、もしあなたをおいて、神または人にこれをなす者があれば、すべてその者を、ししの穴に投げ入れるというのです。それで王よ、その禁令を定め、その文書に署名して、メデアとペルシャの変ることのない法律のごとく、これを変えることのできないようにしてください」
そこでダリヨス王は、その禁令の文書に署名した。

ダニエルは、その文書の署名されたことを知って家に帰り、二階のへやの、エルサレムに向かって窓の開かれた所で、以前からおこなっていたように、一日に三度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、かつ感謝した。

そこでその人々は集まってきて、彼らは王の前にきて、王の禁令について奏上して言った、
 「王よ、あなたは禁令に署名して、今から三十日の間は、ただあなたにのみ願い事をさせ、もしあなたをおいて、神または人に、これをなす者があれば、すべてその者を、ししの穴に投げ入れると、定められたではありませんか」
 王は答えて言った、
 「その事は確かであって、メデアとペルシャの法律のごとく、変えることのできないものだ」

そこで王は命令を下したので、ダニエルは引き出されて、ししの穴に投げ入れられた。王はダニエルに言った、
 「どうか、あなたの常に仕える神が、あなたを救われるように」
そして一つの石を持ってきて、穴の口をふさいだので、王は自分の印と、大臣らの印をもって、これに封印した。これはダニエルの処置を変えることのないようにするためであった。こうして王はその宮殿に帰ったが、その夜は食をとらず、また、そばめたちを召し寄せず、全く眠ることもしなかった。


こうして王は朝まだき起きて、ししの穴へ急いで行ったが、ダニエルのいる穴に近づいたとき、悲しげな声をあげて呼ばわり、ダニエルに言った、
 「生ける神のしもべダニエルよ、あなたが常に仕えている神はあなたを救って、ししの害を免れさせることができたか」
ダニエルは王に言った、
 「王よ、どうか、とこしえに生きながらえられますように。わたしの神はその使をおくって、ししの口を閉ざされたので、ししはわたしを害しませんでした。これはわたしに罪のないことが、神の前に認められたからです。王よ、わたしはあなたの前にも、何も悪い事をしなかったのです」

そこで王は大いに喜び、ダニエルを穴の中から出せと命じたので、ダニエルは穴の中から出されたが、その身になんの害をも受けていなかった。これは彼が自分の神を頼みとしていたからである。
 王はまた命令を下して、ダニエルをあしざまに訴えた人々を引いてこさせ、彼らをその妻子と共に、ししの穴に投げ入れさせた。彼らが穴の底に達しないうちに、ししは彼らにとびかかって、その骨までもかみ砕いた。」

 
 
ダニエルは、人間である王に祈願を捧げるよう求められたが、神への礼拝を続けて、その命に従わなかった。それゆえ、罪を着せられてライオンの穴に投げ込まれた。

しかし、神はダニエルを守られ、彼は無傷で出て来た。それを見て、王はダニエルの神が本物であることを知り、かえってダニエルを訴えようとした人々を獅子の穴に投げ込む。

村上密のブログは、筆者から見て、キリスト教徒を吊し上げ、教会を断罪するための暗闇の勢力の要塞と化している。杉本徳久のブログも同様で、彼らのブログの真の狙いは、キリスト教徒を迫害することにこそあると筆者は見ている。

そして、当ブログ執筆者が杉本を敗訴に追い込む前後から、反カルト陣営がキリスト教徒をバッシングする場は掲示板に移った。
   
これら反カルト陣営の人々は、獲物を求める殺気立った獣のように振る舞っているが、彼らがどうしても否定したい事実が一つある。それは、彼らが信奉する牧師たちが、すでに刑事告訴されていることだ。ダニエル書にある通り、無実のキリスト教徒は、讒言されても、罰せられず、害も受けないが、無実のキリスト教徒を訴えた者たちには、防御の方法がない。

キリストの贖いの血潮により頼まない者たちが、キリスト教徒を訴えた場合、彼らには小羊の血潮という防御の盾がない分、ダニエルを悪しざまに訴えた人々と同様の末路が待ち受けている。

* * *
 
さて、村上が筆者を刑事告訴したという記事を投稿した際、筆者がただちに村上を虚偽告訴罪に問うという反論記事を発表したので、村上はこれにひるんで、わずか数時間も経たないうちに、記事の削除に及んだことはすでに述べた。

その際、注目すべき出来事が起きた。村上は筆者に対する記事を削除したのみならず、ただちにそれを自分が五次元スクールによって名誉毀損で告訴されたという別の内容の記事に差し替え、筆者に向けた非難の矛先を、自分自身に向け変えたのである。

その行動に、筆者は村上の恐怖心を見た気がした。

おそらく、村上は筆者に恐怖を抱かせる目的で、筆者を告訴したとする記事を投稿したと見られるが、筆者がこれに全く動じず、かえって村上の告訴を罪として非難したので、恐れは村上自身に跳ね返ったのである。

筆者は何年来、反カルト陣営からのいわれのない讒言に立ち向かって、霊的戦いを続けて来たし、ここ数カ月間は特に「一日中死にさらされ」ていると言って過言でない状況であったので、こうした出来事にどう対処すべきかは、すでに十分に学んで来ていた。

私たちの罪の債務証書は、すでに十字架の上で破り捨てられ、無効とされている。そうである以上、私たちを罪に問おうとするいかなる試みも、最終的には効力を失うと決まっている。私たちには、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)に対抗するために、最強の武器が与えられている。それは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝(黙示12:11)ことである。

だから、このような状況下での防御の方法は、より入念に過越しのキリストの贖いの血潮の下に隠れつつ、死に至るまで忠実な信仰を持ち続け、証の言葉を公然と掲げることである。

それに引き換え、村上は筆者から虚偽告訴罪に問うと言われ、筆者からの報復と、世間の評判を失うことを恐れて、記事を削除したのである。
 
このような戦いでは、恐れた方が負けである。人には自ら恐れることが、実際となるからである。私たちが恐れないでいられるのは、神を愛しているからであり、また、神が私たちのために独り子を十字架につけて下さった深い愛を知り、生きている限り、その愛に応え、御言葉に従いたいという願いを持っているからである。

聖書に次のように書かれている通りである。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(一ヨハネ4:18)

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利をおさめています。」(ローマ8:31-37)

 
村上が筆者に向けるつもりだった不吉な予告を、自分自身へ向け変えたことは、非常に予表的な出来事であったと筆者は感じている。

五次元スクールによる村上への告訴は、以下に示す記事でも指摘されている通り、極めて些末な問題であったため、村上は不起訴になって事件はすでに終わっているが、これから村上に起きる出来事は、もはやそのようなスケールでは終わらない可能性があるからだ。

村上は筆者を有罪に追い込みたかったのであろうが、その決意を確固たるものとして貫き通すことができず、かえって神と人との前で、公然と「兄弟たちを告発する者」(=悪魔)と呼ばれる恐れに耐え得ず、記事における非難の矛先を筆者から自分自身へと向け変えた。

この事実は極めて大きい、と筆者は思っている。

はっきり言えば、主と共なる十字架において、自分の罪が確かに赦されたという揺るぎない確信を持たない者が、このような記述を行ったことを、神も見逃されないであろうし、悪魔と暗闇の勢力も当然、見逃さないだろう。(人には自分で心に信じて予告した事柄が実際となって降りかかるのである。)

1.差し替え後の記事
村上が筆者に対する記事を削除後、自分が五次元スクールから刑事告訴されたことに言及し、告訴状作成から刑の執行までの流れを記した記事
刑事告訴




2.差し替え前の記事
村上が削除した筆者に対する記事の後半
(同じ文面を村上が後になって、自分自身に向けて書き換えた様子が分かる)

 


* * *

さて、村上が五次元スクールからどのような理由で告訴されたのかについては、以下の記事に詳しい。
 

オタクで結構コケコッコー

(該当部分のみ抜粋)

村上さんを名誉毀損で刑事告訴するきっかけとなったのは、
村上さんがブログ上に五次元スクールで販売してるカレンダーの値段を
本当の価格1080円ではなく、12000円と書かれてた事でした。
値段を間違えてただけじゃんとかほんとやめてくださいね...(−_−;)
明らかに許される範囲の間違い方ではないです。
(お金をぼったくってるみたいな事も他の記事に書かれてましたし)
値段を正して欲しいと村上さんにお願いしても聞いてもらえず。
それなら他の手を探して、間違いを正してもらうという当たり前のことをしたまでです。

以前、五次元スクール生数名がブログに書かれてる内容を訂正してもらうために、
直接に村上さんと話しに行ってくれたことがありました。
その時、私が作成したとなぜか思われてる「村上密 悪事を暴く!!」のサイトも違うと
言ってくれたみたいなんですが、村上さんは...
「やってないなら有希が訴えれば良いんですよ」とおっしゃったそうです。\(-_-;) オイオイ

残念ながら今回は不起訴となってしまいましたが、
訴えたからこそ村上さんは五次元スクールに関する記事を非公開にするしかなくなった。
とりあえず、今は嘘の情報を広めるのをやめてもらえてて、おたっきーは嬉しいです。

村上さんご自身のブログに書かれてあった
“このようなことは人の名誉にかかわることなので
慎重に事実を確認してから書くものである。”

ほんとそれな。
“慎重に事実を確認してから書くものである。” とご自身がおっしゃった言葉通り、
事実を確認してから書いていただきたいものです。
沖縄県のみなさま、沖縄県知事選での自民公明党の敗北おめでとうございま~す。その他キリスト教界で有名になっていたアガック竹内一雄事件(準強姦、借金で虚偽提訴された人物)の真実とこの民事裁判でアッセンブリーズオブゴット教団の村上 密牧師が使った汚い手段

(該当部分のみ抜粋)

今から3年半ほど前に、アガック竹内一雄事件というものがキリスト教界で有名になっていた(刑事事件ではない)。
このアガック竹内一雄という人物は、キリスト教界の中では異端とされているペンテコステ(聖霊派)のカリスマ派の牧師(キリスト教系新興宗教)。
この竹内一雄が運営するキリスト教会に一人の女性(子持ち)が集うようになった(最初はカウンセリング 家庭の悩み事の相談だったようだが)。
後にこの女性信者と竹内一雄は恋愛関係に、そしてその女性は竹内一雄の婚約者となるも最終的には女性関係でもめ(浮気だったようだが)、竹内一雄はこの元婚約者だった女性信者から民事で訴えられた、ざっとこんな内容だ。
しかし、その訴状自体が笑ってしまうものだった。

その女性信者は竹内一雄と婚約までしていながら、竹内一雄を準強姦で提訴(裁判官らが事実認定するワケがない)。

おまけに、原告女性が竹内一雄に貢いだお金(全額だったかは不明だが)は、貸したお金だった、として返還要求。
しかし、私の調べでは(友人、知人に聞き込んだ)原告女性は「道で大金を拾ったから(竹内一雄の)通帳に振り込んでおくね」と竹内一雄にお金を渡した内容のメールを送信していた。
案の定、そのメール内容が竹内一雄から裁判所に証拠として提出されたのだ、勝てるワケがない。
ということで一審は原告の敗訴、まあ当然でしょう。

まあ、こんな話はたまに起きるであろう怨恨話だと思うが(私の周囲には嘘までついて提訴するような人間はいないが)。

この馬鹿らしい怨恨訴訟でなにが一番解せないか、というと

この原告女性を支援していたアッセンブリーズオブゴット(略してAG)教団の有名らしい(私は知らなかったが)村上 密氏という牧師がやったことがクズすぎて解せないのだ。
村上 密氏はろくに事実関係を調べもせず、この元婚約者である女性信者の言っていることを鵜呑みにし裁判支援(北海道のテレビにまで出て嘘をばら蒔いたのだ)。
その他、この元婚約者である女性信者の訴えが事実かどうかも確認しないまま、竹内一雄を準強姦の犯罪者扱いをした上、借金を踏み倒した悪人としてブログで記事にしネットで拡散(自分だけではなく大勢の信者を使ってブログの記事させてニセ情報を拡散させていた)。

そして、しまいにAERAという雑誌にまでこの嘘記事を書かせている。
そして、裁判が終わった後もこの牧師(村上 密氏)の悪事は現在も続いている。
民事裁判にて、元婚約者である女性信者の訴え(準強姦及び貸金)が事実ではなかったことがはっきりしたにも関わらず、過去に流した嘘記事を訂正も削除もせず(勿論謝罪もしていないだろう)ずっと流し続けているのだ。
誤解があると困るので書いておくが、私は竹内一雄を擁護しているわけではない。
むしろ、絶対に近づいてはならない人物として色んな人に警告していた側なのだ。

しかし、虚偽の訴えで人を裁いているような人間には我慢がならない、非常に不快なのだ。
 

* * *
 
ここで指摘されているような無責任なデマの拡散は、村上だけでなく、類は友を呼ぶ式に、村上を取り巻いている反カルト陣営のおよそすべての人々に共通する行動である。

彼らのやり方はこうである。裏が取れようと、取れまいと、証拠があろうと、なかろうと、とにかく自分たちがターゲットとみなした人間について、さんざん悪評をまき散らす。そして、訴えられる段になって、ようやくデマの拡散をやめ、削除を命じられれば、記事を部分的に削除したり、書き換えたりという行為には及ぶものの、根本的な反省はなく、さらに、敗訴しても賠償金さえ速やかに支払わないのだから、もはやヤクザのレベルだと言って差し支えない。

明らかに、この人々は信仰者の名に値しないだけでなく、すでに人の道からも外れかかっていると言えよう。

筆者はこれまでの経験に立って言うが、当事者でない人間が、誰かを擁護するために騒ぎを煽る場合には、必ず、ある種の行き過ぎに陥り、当事者よりももっと厳しい処罰を受けてしまうという法則性のようなものがある。

これは杉本ブログに愚痴を書き込んで告訴されたKFCの元信徒にも当てはまるし、掲示板にたむろしている村上の信奉者たちや、坂井能大の裁判にも当てはまる。当事者でもない人間が、確たる証拠を握っていないのに、誰か他人の言い分を鵜呑みにして、その言い分を補強しようと、(たとえば、ある人物が犯罪を犯しているなどと)、他人の名誉を傷つける投稿を続けていると、そういう人間が、真っ先に訴えられるリスクを負うのである。

つまり、指導者の罪を、信者がかばおうとした場合、かばおうとした信者の方に、先により重い責任が降りかかる可能性が高いということである。

そこで、村上密の不確かな記述を鵜呑みにして、中傷を言い広めている人たちは、村上本人よりも、先に責任を負わされる可能性があることをよくよく考えてみるべきであろう。村上自身が、証拠がないまま記事を書いているのであれば、それを鵜呑みにした信者らが訴えられた際、彼は何らの手助けもしてくれるまい。

そして、筆者はこのようなことこそ、偽預言者たちが最も望んでいることではないかと考えている。つまり、偽りの宗教指導者は、自分自身が神の御言葉に逆らい、破滅へ向かって突き進んでいるだけでなく、その破滅に、可能な限りの大勢の無関係な信者たちを巻き添えにするためにこそ、取り巻きを通じてデマを拡散させるなどの行為に及び、多くの信者たちに罪を負わせるのである。


* * *
 
さて、村上は以上に挙げた五次元スクールから告訴されたという記事に、自分が告訴されたことについては反省もなく、得意気に次のように書いている。

「私が持っていた訴えた側の資料が大量に警察の手に渡った。まさか、そんなことが起きるなんて考えなかったのだろう。墓穴を掘ると言う言葉があるが、まだ墓穴には入っていない。しかし、日本での活動がしにくくなったのではないか。」

これは村上が五次元スクールを何とかして「墓穴」に陥れ、日本から追い出したいと願っている意図がよく感じられる記述である。だが、筆者が知っている限り、警察は被告訴人の側から、事件とは直接的な関係のない「大量の資料」が提出されたからと言って、それを精査して、何らかの結論を下すようなことはしない。それは別個の問題として扱われる。まして、それが宗教的な対立や紛争となれば、なおさら、警察はその資料について踏み込んだ捜査をしないであろう。

従って、五次元スクールを壊滅に追い込みたいなら、村上自身がその資料を用いて刑事告訴に踏み切るしかない。だが、彼は被害者でないので、告訴はできないであろうし、被害者がいたとしても、そこまでの措置に踏み切る証拠と決意があるかは定かではない。

従って、村上のこの記述は、明らかに、自分が疑いをかけられて追及される側に回ったという失態を棚に上げて、かえって自分が五次元スクールを追い詰めた事実があるかのように、虚勢を張るものである。そういうことも分からないまま、村上の信奉者たちが彼の記事を鵜呑みにして騒いでいることは、まことに愚かとしか言いようがない。

また、村上は筆者に対する記事でもこう書いていた、

「彼女は、裁判の中で私が反訴を口にすると、「反訴の脅しをかけた」と4月13日の記事に書いている。裁判を仕掛けた人が言う言葉ではない。」
 
これも藪蛇や墓穴と言わずして何と言うのだろうか。村上はこの記事で、自分が「反訴を口に」したとはっきり認めている。
 
ちなみに、裁判において、無実を主張することと、反訴を口にすることは、全く別の事柄である。

筆者が杉本と村上の両名を被告として訴えたのは、杉本が20本以上の筆者に対する名誉毀損の記事をブログに投稿し、その際、誰が杉本に筆者の個人情報を渡したのか分からず、村上以外に思い当たる人物もいなかったためである。

しかし、一審において、村上はそうした事実があったとは認めず、証拠も出て来なかったので、村上には杉本との共同不法行為は認定されていない。

だが、村上はいかに自分が訴えられたことを不快に思っていたとしても、本来ならば、牧師として、杉本の行為をいさめるべき立場にあったことは確かであろう。それが、杉本と一緒になって、筆者を罵ったメールを書証として提出したり、杉本と一緒になって、筆者が彼らの提案する和解条件を飲まなければ、反訴すると言い立てたことは、牧師としての村上の資質を根本的に疑わせる行動である。

ちなみに、この事件では、一審を担当した裁判官も書記官も、被告らが一緒になって原告に反訴を言い立てた場面に遭遇している。

筆者が覚えている限り、その日の口頭弁論では、当事者間で、非常に険悪な議論が展開された。おそらく話題は、杉本が提出して来た筆者と杉本との間で2009年に交わされたメール、および、杉本と唐沢とが交わしたメールのことに触れていたものと思う。

筆者は杉本に向かって、2009年に杉本が筆者に返信した残りのメールも、書証として出してもらえないかと頼み、筆者はそこに非常に興味深いことが書いてあったように記憶しており、そこでは、創世記において、神が人間をご自分のかたちに造られたという御言葉が引用されていたような気がすると述べた。

杉本はこれに対して、筆者をせせら笑うような口調で、「これ以上はもう出せませんよ。あなたは一体、何を言っているんですか。大体、そんな聖句がメールに書いてあるわけもないでしょう?」と突っぱねた。

さらに、筆者は杉本に向かって、唐沢とのメール文通についても、何を目的としてこれを書証として提出したのか問うた。だが、杉本はこれにも筆者を嘲笑うような口調で答えた。

「さあ、知りませんよ。それは唐沢さんにお聞きになったら?」

筆者は杉本の筆者を嘲るがごとき口調に憤りを感じつつ言った、 「そうは言っても、あなたが自分でこれを出して来られたんでしょう?」

また、杉本は別な場面では、急に猫なで声とも感じられる口調で筆者に言った。「ヴィオロンさん、もしもあなたが記事を削除なさるなら、私たちも削除していいと思っているんですよ。もしその言葉が信じられないなら、私たちの方から先に削除してもいい。それで終わりにしましょう。賠償はなしです。」

筆者は首を横に振って、そんな提案には決して応じられない、ときっぱり拒否した。

すると杉本らは筆者が彼らの和解案を飲まないので、怒りを露わにして言った。「だったら、もう反訴しかない。あなたが私たちの和解を蹴るのなら、私たちは反訴しますよ!」

筆者は答えた、「まだ口頭弁論も続いている最中に、何を馬鹿なことを言っているんです。あなた方は、反訴なんか考えるよりも前に、今、目の前で行われている弁論で、ちゃんと十分な議論を尽くして勝つことをまず最初に考えたらどうです? いいですか、刑事事件にもなっていることですし、いたずらに審理を長引かせれば、不利になるのはあなた方なんですよ、そのことをお考えになったら・・・」

裁判官は、議論が険悪な雰囲気になりつつあり、当事者が皆本気で憤っており、杉本が「刑事事件になどなっていない」と書面で頑なに主張していたことも知っていたため、「もういい!」と語気を荒げてこの議論を打ち切った。

あまりにも険悪な雰囲気であった。裁判官も含め、全員がそれに影響されていた。

すると、被告らは、今度は裁判官に向かって、しなだれかかるような口調で語りかけた、「お分かりでしょう、原告が和解に応じないのだから、私たちにはもう反訴しかないですよ・・・」

裁判官は、被告らを何とかして思いとどまらせるべく、苦々しい表情で答えた。「それはやめてもらいたいですね、どうしてもというなら、この事件が終わった後に、提訴にしてもらいたい」

筆者はそれを聞いて、心の中で苦笑しながら首を横に振った、(いやいや、裁判官、それは違います。反訴も駄目だけど、提訴だって駄目だから。)

裁判官は異動を見越して年内終結を目指すつもりで、当事者にはそれを含んでおいて欲しいと予め述べており、反訴されれば、異動前の終結が間に合わなくなることが明白であったので、これを全く歓迎していなかった。しかも、事件がさらに紛糾した状態で、これを別人に引き継いで異動することなど、絶対にしたくないと考えていたものと見られる。

そこで、被告らは、せっかくの提案をないがしろにされてプレッシャーをかけられた裁判官が、非常に気分を害していることを十分に知りつつ、それを楽しむような口調で続けた。「でもねえ、私たちはヴィオロンさんの住所も電話番号も知らないんですよ・・・。これじゃあ、提訴もできないじゃないですか・・・。私たちに反訴以外にどうしろって言うんですか・・・。」

裁判官は実に忌々しそうな表情で押し黙った。まるで審理の年内終結という課題と一緒に、筆者を人質に取られて、全く身動き取れなくさせられたような恰好であった。

筆者は、このやり取りを非常に注意深く観察していた。口頭弁論が終わった時、裁判官は、被告らの言葉を真に受けたのか、これで、この事件をきちんと片付けられる希望はなくなった、こうなったのも、原告らがまずい議論を続けたせいだ、とでも言わんばかに、大きなため息をついた。

その時、筆者は被告らが述べていることは、心理的な脅しに過ぎず、彼らはいたずらに騒ぎを煽っているだけであって、これも被告らがキリストの贖いを無効にしたくて繰り広げている悪のカーニバル(悪ふざけ)のようなものに過ぎず、要するに、筆者と裁判官の心に揺さぶりをかけ、互いにいがみ合わせて、疑心暗鬼に陥らせ、協力体制を壊すことを目的にしていると分かっていたので、裁判官に向かって、まずは落ち着いてもらうよう懇願し、それから、たとえこの先、何があっても、筆者はすべての圧迫に最後まで立ち向かう覚悟が出来ているので、決して筆者の身の上を心配しないでもらいたい、仮に反訴を受けることになり、あるいは一審で終わらなかったとしても、それも覚悟の上であるから、議論を制止しないで、筆者に言いたいことを最後まで言わせてほしいと懇願した。

後から考えてみると、この時、裁判官は、三つも四つもの事件を同時に抱え、それらすべてを異動前に片づけねばならず、筆者の書面を十分に読む時間もなくなり(裁判官からは、提出する書面を減らして欲しいとの要請もあった)、残された時間を考えると、これ以上、事件が紛糾しては、もはや事態の収集がつかなくなるため、それだけは何としても避けたいという重大なプレッシャーに直面していたものと思われる。
 
そこで、裁判官は、何とかしてこの事件のために善処したいと考えながらも、その考えが逆に心理的なプレッシャーとなっており、そういう中で、被告らが筆者に反訴すると述べたことは、裁判官の心の平穏をも失わせるような、さらに重大な心理的打撃となったのである。

こうした状況で、筆者は何としても、ここで自分が動揺してはならず、自分の命を惜しんではいけないということを理解した。もしも筆者が自分の命を惜しみ、反訴されることを恐れ、取り乱して裁判官に助けを求め、裁判官がこれを察知して、筆者に代わって、被告らに受け答えすることで、何とかして筆者をかばい、反訴を押しとどめようとするならば、裁判官は筆者を人質に取られているも同然の立場であるから、何もできず、かえって被告らの思う壺となるだけであることが、筆者には予め分かっていた。そして、最後には、助けてやれなかったという慙愧の念と、誰のせいでこうなったのかという責任の押し付け合いが残るのみであろう。
  
筆者は、そのような事態を回避して、この戦いを貫徹して勝利に導くために必要なのは、死に至るまでも従順な信仰であって、筆者が自分の命、自分の権利を惜しむことではないと知っていた。そもそもこの戦いは、信仰の戦いであって、筆者と同じ決意と覚悟ができていない、当事者でない人間には、どうすることもできない種類のものである。

すでに述べた通り、反訴はそれ自体が被告の権利なので、これを否定したり、押しとどめることは誰にもできず、反訴をとどめるには、人知によらない、それを超えた信仰が必要となる。
 
従って、被告らによる反訴の予告を、空中で粉砕し、押しとどめることのできる人間は、筆者しかいないことは明白なのである。そして、筆者は御言葉に基づき、反訴が実現しないことを前もって知っていたが、この世の人々である裁判官や書記官には、そのことが前もって分かるはずもない。
 
だから、筆者は、裁判官に向かって述べたのであった、一審判決で事件を終結したいという強い願いは筆者にもあるし、また、そのためにできるすべてのことはやりたいと思っているが、たとえ事件が長引き、次の裁判官にこれを委ねることになったり、もしくは、一審で事件が解決しなかった場合にも、筆者はすべてのことに覚悟ができており、今後、どのような展開になろうとも、決して誰にも責任を押しつけるつもりはないと、だから、最後まで主張をさせて欲しいと。

だが、筆者はそれと同時に、裁判官の言うことも心に留めて、その忠告を重んじた。そこで、それ以後、口頭弁論で被告と議論することは一切、避けることに決め、すべての主張を書面で戦わせる方法に切り替えたのである。

そして、最後の口頭弁論前には、裁判官も、筆者がこれを最後の弁論にしたいと願っていることを十分に確認した上で、今後、被告らから反訴があった場合には、職権で拒否するとはっきり告げてくれた。

筆者は、たとえそれが人間的な思いから出た行動であったとしても、裁判官が、被告らの主張を前に、筆者をかばおうとしてくれたこと、被告らの反訴の予告の前にも、可能な限りの手立てを講じて、これを阻止しようとしてくれたことを、重く受け止めている。

いかに筆者が、信仰によって主導権を握り、自らこの事件を引っ張って行かなくてはならない立場にあるとはいえ、民事であれ、刑事であれ、やはり、筆者には協力してくれる人たちが必要なのであって、その人たちの善意があったからこそ、それなりの結果が得られていることへの感謝を忘れることはない。

このようにして、関係者と息の合った協力を打ち立てることに、どれほど大きな価値があるかを知ったからこそ、筆者はどんな脅しに直面しても、それを恐れたり、動揺することなく、最後まで神を信頼して立ちおおせねばならないと理解しているのである。
 
* * *

さて、話を戻せば、被告らは実際に反訴しなかったからこそ、これが「脅し文句」に終わったと筆者は述べている。さらに、筆者が訴えを提起した側に立っていることは、被告らが反訴を言い立てたことを、筆者が精神的な脅しをかけられたことだと理解してはならない理由とはならない。

そもそも牧師としての村上が、元信徒・相談者を非難する記事をブログに投稿し、さらに、その信者の個人情報を杉本に渡したのではないかという嫌疑までかけられ、法廷に呼び出されたこと自体が、村上の大きな失態だと言えようが、そんな事態になってもまだ、村上が杉本をいさめて紛争の早期解決に努力するどころか、杉本と一緒になって筆者を馬鹿にするメールを書証として提出、さらに自分の無実を主張するだけでは飽き足らず、杉本と一緒になって筆者に反訴するなどと言い立て、自分たちの和解案を無理やり筆者に飲ませようとした行為自体が、キリスト教の牧師として、どれほどあるまじき非常識な振る舞いであるかは、ここで改めて説明するまでもないだろう。

その上、筆者が反訴の脅しをかけられたと述べたことを「名誉毀損」だと主張して、刑事告訴に及び、勝訴を宣言しただけにとどまらず、信者の息の根を止めるがごとく、社会的抹殺を望むがごとき行為に及ぶなど、およそ常軌を逸した行動だと言う他ない。
  
そのことが分からないのは、村上だけであろう。これまで、戦いに生きて来た村上は、平和を作る道を知らず、また、その道を誰からも教わらなかったのかも知れないが、村上のこうした行動はいずれも、村上がキリスト教信者に対して、まさに「兄弟たちを告発する者」(=悪魔)のように振る舞っているという以外に、意味するものはない。

村上はこのような行動を取ることによって、キリスト教徒も含め、どんな宗教団体の信者であれ、村上の言いなりにならない者には、同じ措置を講ずる用意があることを示して威嚇しているのである。
 
村上は、かつて他の牧師らと共に、統一教会の信者などを拉致・監禁して、密室に閉じ込め、「誤った考え」を捨てさせるために、信者の尊厳を踏みにじって、強制脱会活動を行っていたが、今もその頃と同じように、自分が「誤った考え」を持っているとみなした信者たちを弾圧するためならば、あらゆる方法を用いて、懲罰を加える用意があることを示している。

そこにある恐ろしいまでの攻撃性、真の動機に、彼は気づいていない。村上は書いていた、

「書けば書くほど怒りが込み上げて来るのか、留まるところを知らない書き方である。書けば書くほど自分に不利なことを書き立てていると気付かないでいる。ブログの中で怒って人を罵倒し、事実でないことをみだりに他人に言いふらし、信用を棄損するような記事を書いている。その内容は放置できないレベルに足している(筆者注:達しているの間違い)。」

村上のこの言葉は、誰よりも村上自身にこそ当てはまるだろう。事実でないことをみだりに他人に言いふらし、信用を毀損し、その内容が放置できないレベルに達しているのは、村上自身である。そのことは、以上に挙げた記事で示した通り、五次元スクールの側からも、その他の人からも指摘されているではないか。

むろん、きちんとした法的根拠を示さないまま、自らの主観だけに基づき、「その内容は放置できないレベルに達している」などと断言する村上の語調が、杉本徳久の言葉とそっくりである様子にも驚かされる。

村上は、自分がのべつまくなしに様々な宗教団体に戦いを挑んでいる真の目的がどこにあるのか、立ち止まって、考えてみるべき頃合いではないだろうか。前の記事にも書いた通り、筆者の目から見れば、それは村上自身が幼少期からずっと受け続けて来たトラウマに起因する行動であって、聖書への信仰によるものではない。
 
村上は若い頃に家庭で起きていた暴力から逃げる術もないまま、家庭という名の「牢獄」に閉じ込められて成長し、さらに統一教会への逃避行を企てた際にも、これを力づくで押しとどめられ、悲劇的な形で強制的に信仰生活に終止符を打たれて、再び家庭という牢獄へ連れ戻された。
 
おそらく村上は、神が自分を虐待という苦しみから助け出して下さることを求めて、統一教会に入信したのではないかと筆者は推察するが、その逃避行が、親族らの暴力によって打ち砕かれて、再び牢獄のような家庭に連れ戻され、そこに閉じ込められたことによって、村上の「神」観は、村上を救い得ない絶望的なものとなってしまったのである。そのことから彼はあまりにも深い心の傷を受けたのではないかと見られる。

そうであるがゆえに、村上の中では、自分に虐待を加えた肉の父が、そのまま神のイメージとなり、神は人に自由を与える方ではなく、束縛と、隷従と、抑圧を加える存在と見えるようになり、それゆえ、彼はそのような残酷な神観に基づき、自由な信仰生活を送る他の信者たちにも、「解放」という名目で、抑圧を加えねば気が済まなくなったのである。

筆者は五次元スクールや統一教会を擁護するつもりはなく、その理念を受け入れるわけでもないが、たとえ信念を共有できずとも、彼らを人として尊重することはできるはずであり、理念が異なるからと言って、彼らに人権侵害を加える行為が許されるはずはないことは言うまでもないと考えている。もしもそのようなことを正当化する理念があるとすれば、そのような理念こそ、誤っている。
 
筆者の神観は、村上の神観とは真逆である。村上から見れば、筆者は「交流の少ない所」「インターネットを頼り」として「甘っちょろい空想」を述べ、「藪の中から石を投げ」「怒りにまかせてものを書いている」だけの無責任な人間と映っているのかも知れないが、その筆者が、神は全能であり、筆者をあらゆる窮地から力強く救い出して下さることを信じ、どんな境遇に置かれても、平安と、喜びと、救いの確信と、神への愛と従順を失わずにいられる秘訣を学んでいるのである。

村上は、筆者が書いているごくわずかな批判の記事にも耐えられなかったが、筆者は匿名の投稿者によって数千件以上の誹謗中傷がなされても、まだ神への信頼と希望と愛情を失わずに立っている。筆者は自分を全く恥じようとも思わないし、自分の信仰をも、自分が信じている神をも恥じてはいない。
 
筆者は村上に聞きたい、あなたはこのようなことに耐えられるかと。あなたはかつて自分が生命の危険を賭してカルトと闘っているかのように主張し、他方、筆者の論は、安全なところから、悪ふざけで石を投げて楽しむだけの無責任なものであると決めつけていたが、実際のところはどうなのか。

筆者は自分の命を最後まで神のために注ぎだしたいと願っており、神に従い抜く上で、中傷されること、軽んじられること、誤解されること、離反されること、孤独や、苦しみの中を通過させられることを、甘んじて受け入れる覚悟があり、実際に日々十字架を負っている。だが、あなたはそれに耐えることができるか、また、それにどれくらい耐えた経験があるのか。

しかし、そのようなことは、筆者にとって、どうでも良い問題である。筆者は人間の思惑を意に介していないので、村上や杉本や唐沢のような人間からどう見られようとも、それが重要な問題なのではない。私たちがただ一人、その眼差しを得たいと願い、その信頼と賞賛を勝ち得たいと切に願い続ける存在は、人間とは別にある。

その方への愛と希望と信頼があればこそ、また、その方がすべての人々の願いと呼び求めに実際に応えて下さるという確信があればこそ、私たちはあらゆる試練に耐えて信仰を保ち続けて前進することが可能なのである。
 
この世に対して、人間に対して、自己に対して、徹底的に絶望し、これらの腐敗・堕落したものに対して、十字架の霊的死を経由することなくして、神に真に希望を見いだすことは、誰にとっても、無理な相談なのではないかと筆者は考えている。この世に対して死んだことがなく、自己に対しても、人間に対しても、絶望することもなく、依然として、この朽ちる、移ろいゆくものに希望をつなぎ、すがりつき、そこによすがを見いだしている人々に、見えない神を本気で愛し、信頼し、従い抜くなどのことができるとは思えない。

聖書は言う、

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)

「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、
 裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(17)―恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。

13.聖書の神に逆らい、御言葉に逆らうカルト被害者救済活動からのエクソダス(Ⅱ)

人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」(ヨハネ16:2-4)

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」(ヨハネ16:13-14)

さて、警察との会話で非常に印象的なことがあった。筆者がこの事件の全容について話し、筆者はもはや犯人が許されることを望んでおらず、厳しい処罰を望んでいる、と述べた時のことであった。

筆者は、それは筆者だけのためではないのであって、神の福音を退け、教会を冒涜し、聖徒らを迫害し、神の教会に手をかけたその罪に対しては、厳しい報いがなければならない、という考えを述べた。

その時、驚くべき相槌が返って来た。

「あなたは彼らは神の赦しを超えてしまった、と思われるわけですね・・・」

筆者は驚いて問い返した。

「まさしくそうです。でも、まだ私が何も言っていないのに、よくお分かりになりましたね?」

筆者は非常に驚いたので、あなたも信仰者なんですか、と問うたが、返事はそうではない、というものであった。だが、筆者は信仰を持たない人間が、この話を聞いて、以上のような発言をしたことに、心から驚き、その言葉を心に留めた。

彼らが神の赦しを超えた、という言葉は、2009年に杉本が初めて筆者と当ブログを1千件のコメントと共にバッシングした時から、幾人もの信者が表明して来たことである。そのバッシング記事には、不法行為と呼べる構成要件はまだ整っていなかったにも関わらず、霊的文脈においては、おそらくこれが他のどんな不法行為に比べても、最も著しい(神とエクレシアと聖徒に対する)冒涜行為であったろうことを筆者も疑わない。

その時から、杉本の命運は決まっていた。筆者はそう考えている。

すでに幾度も書いた通り、筆者は2010年に杉本徳久に向かって、ラスコーリニコフにならって、己が罪を認めるようにとの勧告を書いたが、その時から、この事件の結末を、すでに心の内側で予感していたと言えよう。

霊的な直観は、現実に先立つ。真理の御霊は、やがて来るべき事柄を知らせると聖書にある通り、私たちにはこの先、起きることについても、分かっていることが多くある。だから、筆者は自分の出した訴えがどうなるのか、どんなに事件の進展が遅いように思われる時でも、結果を予め知っているのである。

そして、そのことを、実に不思議なことに、筆者のみならず、筆者の話を聞いていた警察官も、理解して、これを筆者に先んじて口にしたのである。

もう一つ、警察官が予見的なことを語ったことがある。

それは昨年、筆者が杉本に対する第一の告訴状を出して間もなく、若い担当刑事が杉本に電話で連絡を取った時のことであった。

担当刑事は、杉本に対して電話で「ブログを削除して下さい」と要求したのである。

繰り返すが、「ブログ記事を削除」ではなく「ブログを削除」するよう求めたのである。

これは非常に奇妙なことであった。本来、表現の自由が尊重されて、権利侵害が行われている該当記事だけの削除が求められるのが通常である。ところが、警察はそのようには言わなかった。「神々の風景」についても、プロバイダの措置として全体が非開示にされた。いずれは全体が削除されるであろう。これと同じことを、もう一つのブログに対しても警察は求めたのである。

これらのことは、非常に印象的かつ予表的であった。

さて、筆者は今でも一審判決の言い渡しの時のことを度々思い出す。

その日は、待ち望んだ解放の判決のはずであった。何日も前から、ようやくこれで事件が終わるのだと考え、筆者は喜んでいた。

それにも関わらず、前日から、どういうわけか緊張が解けなかった。その日、法廷には、見知らぬ傍聴人が一人来ており、掲示板の関係者かも知れないと思われたことも要因の一つだったろう。

裁判官は法廷に姿を現し、法壇に着座すると、掲示板で起きている騒ぎのことを、知ってか知らずか、「困った事態が起きてしまいましたね」といった具合に、筆者に笑いかけた。そして、筆者のことをおもんばかってであろう、傍聴人に対し、携帯電話のスイッチを切り、録音や撮影を行わないよう注意した。

時刻が来るまで重い沈黙の時が流れた。筆者は何かしらただならぬ緊張感に包まれていた。判決に異議申立てはしないと予め決めており、これで争いは終結する、書類作成の仕事からも解放される、そう思って喜んでいたはずが、前日から引いた風邪のせいで、頭ははっきりせず、いよいよ裁判官が判決を読み上げ始めた途端、筆者は裁判官と目を合わせることもできなくなった。

主文の冒頭部分を聞いただけで、筆者には、これが事件の完成ではあり得ないことを理解したのである。

裁判官は、筆者が心ここにあらずの状態になったことを察知したのか、最後に少し苛立たし気な表情で、「あなた、本当に聞いているんですか?」とでも言うかのような調子で、筆者に判決への同意を求めた。

だが、同意を求められるなど予想もしていなかった筆者は、自分が質問を受けていると理解して返答するまでに少し時間がかかった。

このように、一審判決の言い渡しは、どこかしらちぐはぐな雰囲気で終わった。口頭弁論の終結時の時に生まれた一体感とは全く異なる緊張がそこにあり、裁判官はいささか憮然としたような、よそよそしい表情で退廷して行き、見知らぬ傍聴人も、杉本が負けると考えていなかったのか、すさまじいショックを受けたようにダッと走り去って行った。

筆者は判決言い渡し後、前よりもさらなる緊張状態に陥った。おそらく、裁判官も書記官も、それは筆者が判決に不服があって、異議申し立てをしようとしているためではないかと考えたのではないかと思う。
 
なぜそのようなことになったのか、筆者は今ならばよく分かる。筆者はこの判決を歓迎するつもりで、無条件に受け入れると決意していたが、心の深い所では、もしも筆者が、これを最終的な宣告として受け入れれば、次の瞬間、筆者に待っているものは死だけであると、確実に予見していたのである。

筆者は判決言い渡しの後、しばらくの間、そのことに全く気づかないふりをしていた。裁判官と書記官にお礼状を書き、早々と後処理に取りかかった。人間的に見れば、まずまずの結果である。争いから早期に解放されたことを喜ぶべきであろう・・・。

しかし、それはあくまで人間的な観点から見た場合の話でしかなかった。筆者の内なる直観は、事態はまるで逆であることを、はっきりと理解していた。この中途半端な終わりに身を委ねることに、筆者の内なる人は激しい拒否反応を示した。風邪は日に日に悪くなって行くばかりであった。
 
村上は初めから、筆者に勝訴すれば、筆者にとどめを刺すつもりであったのだと思われる。それが証拠に、一審判決が確定もしていないうちから、村上は筆者に対する勝利宣言をブログに発表し、さらに筆者に対する人格権侵害の記事を発表した。

これはおそらく村上の当初からの予定だったのではないかと推察される。村上はおそらく筆者が「完敗」を認め、今後、全く抵抗しない立場に身を置くのが当然と考え、公然かつ堂々と権利侵害を始めたのであろうと。

「往生際の悪い」筆者に、とどめを刺すために、民事で「完全勝訴」を宣言した上、さらに息の根を止めるべく、刑事告訴に及ぶことは、予定の行動だったのではないかと。
 
村上が掲示板における筆者に対する嵐のような24時間体制の誹謗中傷を、どこ吹く風とばかりに黙認していたのも、その書き込みが、筆者の心を揺さぶって、何らかの失言につながるのを狙っての措置であったと見ることもできよう。

そして、杉本が賠償金を未だ支払わないことも、同じ文脈から出た行動である。彼らは諦めていない――筆者を「カルト信者」として社会的に抹殺に追い込み、公然と証の言葉を述べる完全に口を封じることを――。
 
強制脱会活動が、幾人もの他宗教の信者を社会的に殺して来たのと同様、この人々は、彼らの「説得」に応じない筆者を「人格障害」に追い込み、社会的に抹殺しようとの考えを、依然、捨ててはいない、だからこそ、控訴という正当な方法によって、この判決を覆そうと努力するのではなく、判決の実行を先延ばしし、賠償金を支払わないことで、筆者がさらに追い込まれるよう、策を講じているのではないかと見られるのだ。

筆者はこのことについても、警察に伝えた。掲示板の投稿のほぼすべてが村上の支持者と見られる人物たちで固められていること、こうした権利侵害も、信者たちの単独犯であるとは思えず、杉本の行為も、単独であるとは到底、考えられないこと。
 
不思議なことに、こうした話を、警察は決して空想としては聞かなかった。そうなったのも、理由がある。何しろ、昨年の時点では、村上は告訴対象にも含まれていなかったが、事件は進展しており、村上による権利侵害の証拠が手に入った今では、筆者の言うことをあながち作り話として退けるわけにもいかない状況が整いつつあるからだ。少しずつ事件は核心に近づいて来ている。

話を戻せば、村上は完全勝訴の上にも、さらに念には念を入れて、筆者を「抹殺」するために、刑事告訴に及ぼうとしたのであり――それは初めから既定路線だったと見られる。

そこで、もしもあの時、筆者が一審での部分的勝訴に甘んじて、戦いをやめていれば――このような恐るべき霊的攻撃に対して、筆者には抗う術が残らなかったであろう。そうなれば、向こうの思う壺の状況が作り上げられたはずだ。

だが、筆者の内なる人はそのことをよく知っていればこそ、村上による権利侵害の証拠が手に入った瞬間、待ち望んだ判決を振り切って、ただちに控訴に及んだのである。

むろん、一審判決を超えるためには、さらなる証拠の積み上げが必要であり、最終的な判決を手にするまでの間に、事の真相にどこまで迫れるかが、今回の争いの本髄である。
 
いずれにせよ、こうして、紛争が一審で終わらなかったことは、まさに奇跡的な天の助けであると言えた。

一審を担当してくれた裁判官はすでに異動で去ったが、初めて法廷に姿を現した時、「私はこの事件から逃げるつもりはありません」と述べたことが思い出される。そして、筆者が先日、長い時間をかけて、犯人の処罰を願う、と述べたときにも、警察の上部は、これと似たような言葉を繰り返し言った、必ずこの事件をふさわしい方法で解決すると。

民事訴訟が始まったばかりの頃、筆者は裁判官が公平に客観的に事件を裁いてくれるだろうと考え、電話会議でも、裁判官と書記官の二人にがっちりと脇を固められて、守られているような安心感を覚えていた。

その頃、筆者には、自分自身が、力強く立ち上がって、自らこの事件を率いて行くのだという自覚はそれほどなかった。訴えを出した後も、最後まで、主導権を握るのは自分でなければならず、筆者こそ、周囲の全ての人々の心を動かす鍵を握っているのだということが、分かり始めたのは、少し後のことである。

筆者はしばしば、裁判官とさえ、胸襟を開いて――いや、まるで激しく衝突するがごとく、議論を戦わせたことがあった。ここには書かないが、実に様々なドラマがあり、その中で、筆者は、初めは冷静で頼りがいがあるように見えた裁判官さえ、筆者の心の動揺にどれほど大きな影響を受けているかを理解し、この事件を正しく進めるためには、あくまで筆者が自分をしっかりと持って、目的となる地点から目を離さず、全員をまとめてその目的へ向かって牽引していく姿勢が必要なのだと知った。

そうして、関係者のすべてをまとめて、皆が心を一つに合わせて同じ目的へ向かって行くことができるように整えることは、必要不可欠なだけでなく、実際に可能であることを知ったのである。
 
それが分かったおかげで、一審の終わりは、見事に息の合うものとなった。この頃から、筆者は、キリスト者はどんな事件に見舞われようとも、カルバリの十字架の勝利のゆえに、すでにすべてを足の下に従えているのであって、私たちはその事実を実際とするために、この地に置かれており、御名のゆえに、万物を足の下に従えることが、現実にできるのだという秘訣が分かり始めた。

裁判官は、事件から逃げないと約束してくれた分だけ、何としてもこの争いから筆者を救い出して去って行かねばならないと考えたのであろう、考えられる限りの手を尽くしてくれた。だから、一審判決が本当の終わりではなくなったとはいえ、筆者は一審で与えられた命に、より完全性を持たせるために、これに控訴状という服を着せて、世に送り出した。

それから、警察署に出した告訴状についても、筆者は事件を前に進めるために、まるで未熟児に対するように世話をしている。そして、可能な限りの労力を割いて、この事件を理解して進めてもらうための働きかけを続けている。
 
こうして当事者が事件を牽引する作業は、まさに途轍もない作業である。訴状に関しても、告訴状に関しても、同じことが言えるが、訴えを出すというのは、初めの第一歩に過ぎず、そこから何百キロもの道のりを徒歩で歩き通すような行程が必要となる。

怠惰で、人とぶつかることの嫌いな人間には、こうした気の遠くなるような作業を貫き通すことはできまい。

筆者自身、これまでコンクリート製の分厚い壁を5つくらいは粉砕したような気がするが、あらゆる障害を打破することが必要なだけでなく、人の心を動かし、皆を一つの目的へ向かって団結させて、立ち上がらせて行く力が必要となる。その働きかけのために、膨大な労力が必要となる。なぜなら、訴えは書面で出しはするものの、最後には人がこれを処理するからである。
 
それは見えないオーケストラの見えない指揮者になるのにも似ているかも知れない。関係者の全てが、息を合わせて一つの調べを奏で、一つの目的へ向かって行くことができるようになるまで、筆者は調整を繰り返す。

そうして、努力に努力を重ねているうちに、ある瞬間に、望んでいる答え、望んでいる回答がようやく実現する。

それはその時々で、束の間の現れに過ぎないものではあるが、神の御心にかなう御国の秩序が到来し、調和の取れた調べが流れだす時が来る。その瞬間には、まるで生ける水の川々が溢れ、流れ出すように、すべてのものがキリストの愛の中に飲み込まれる。筆者の周囲の人々も、それによって潤され、浸され、すべてが感動的なまでに美しい終わりを迎える。

その日が来ることを待ち望みつつ、筆者は自分の訴えをより洗練させて、より完成へと向かわせている。神の正しい義なる裁き、まことの裁き主であられる主の真実かつ公平な判決が得られるように、目的へ向かって進んでいる。それは救われる者にとっては自由と解放の響きであり、滅びるものには死の宣告である。

その戦いの中で、筆者は孤軍奮闘しているわけではなく、雲のような証人たちに囲まれている。敵陣に包囲されて逃げ場がなくなるように見えるときにも、援軍は常に用意されており、霊の目を開いて、周りを見渡せば、エリシャが見たあの火の馬と火の戦車は、今日も神を信じる者と共にある。主は筆者に言われるだろう、

「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」(列王記下6:16)

* * *
 
さて、村上密がまたもや見当外れなことを書いている。

「人はいつも危険と背中合わせで過ごしていると私は思う。その感覚を失うともっと危険に接近することになる。身近な人の忠告は危険を回避する忠告が含まれている。そのような親身になってくれる人がいない人はその人自身が危険になる。暴走とはそういうことを言うのではないか。」(4月27日の記事「暴走」)

村上の記事にはいつも同じ特徴が見られる。それは孤独を否定し、一人になることを否定し、常に集団の中に隠れようとする特徴だ。杉本の記事にも全く同じ特徴がみられた。

村上は最新記事でも同じことを述べている、「連休はカルト研修の時期 」では、カルトに入らないためには、家族の連絡こそ必要と訴えている。

「5月は研修の期間である。子供の行き先がはっきりわからない場合、カルトの研修を受けてる可能性がある。子供の行動が明確でないことを放っておくと対応が後手になる。親子間の連絡が疎遠にならないように気を付けよう。」

これは子供を一人にさせておくと危ない、何をしているか分からないまま、放っておいたらいけない、というだけにとどまらず、まるで親に子供を監視せよと言っているように聞こえる。常に子供を一人にさせず、集団の群れの中にいさせて、何をしているのかが、周囲に見えるようにしておかねば、カルトのような重大な危険に取り込まれてしまいかねないと、半ば脅しのような言葉で、親が子供を監視する必要性を訴えている。

村上はこうして記事の中で、常に目に見える人間関係の必要性を訴え、悩める人間には話を聞いてくれる誰かが必要だと訴え、互いに互いの行動を把握して、人間の相互扶助ネットワークを作り上げることが、あたかも救済であるかのように強調する。人間関係の只中にいさえすれば、集団の只中にいさえすれば、危険を免れられるかのように説くのだ。

それは逆に言えば、一人になれば死ぬという脅し文句と同じだ。牧師のいる教会では、指導者は神の代理権威であると教えられ、牧師の指導の圏内から信徒が逃げれば、信徒は救いを失うかのように解かれることが少なくない。「あなたは一人では聖書を学べない、助けてくれる人や、教えてくれる人が必要だ。だからこの教会にいなさい、私たちと一緒に学びなさい。一人になったらいけない」というわけである。だが、その本当の目的は、信者を目に見える教会に束縛し、牧師に献金を捧げさせ、いついつまでも牧師の説教がなければ、聖書を理解もできない霊的赤子の状態に押しとどめ、信徒から栄光を搾取することにある。

いわば、天皇の赤子だった時代の臣民と同じである。カルト宗教の「霊の父母」と同じで、村上は今も「生み生まれる親子の立体関係」の必要を説き、そこから離れての個人はあり得ないと説いているだけなのであって、なぜそのようなことをするかと言えば、その集団が、偽りのイデオロギーに従って作り上げられたものであり、集団に帰依し、その関係性の中に束縛されている限り、その誤った理念から、人は抜け出せないからだ。個人を集団に留め置くために、(疑似的なものも含め)親子関係が最大限美化され、利用されるのである。

カルト被害者救済活動は、悪しき反聖書的な理念に基づいて作り上げられた一大要塞であり、そこから人を逃がさないでいるためにこそ、相互監視が必要なのである。その監視社会を美化し、正当化するために用いられるのが、親子関係やら、師弟関係やらといった美名である。

だが、聖書の奥義とは、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2:18)というものであって、まず「父母からの自立」が前提となり、キリストとエクレシアの結婚も成し遂げられる。

聖書における正しい関係は、「生み生まれる親子の立体関係」ではない。信者が神に出会うためには、自分の生まれ落ちた家の民を忘れ、「父の家を忘れる」ことがどうしても必要である。これは人が生まれながらの自己に死んで、この世に対して死に、キリストに対して生きるようになることを意味する。

娘よ、聞け。
耳を傾けて聞き、そしてよく見よ。
あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。
王はあなたの美しさを慕う。
王はあなたの主。彼の前にひれ伏すがよい。
ティルスの娘よ。民の豪族は贈り物を携え
あなたが顔を向けるのを待っている。」(詩編45:11-12)

筆者の目から見た限り、牧師たちは、大勢の信者や家族に囲まれているように見えても、内心は孤独である。特に、高慢ゆえに他人の助言を聞かない牧師の周りでは、真摯に忠告してくれる人もいなくなっていくため、いざという時、必要な助言を誰からも受けることができない。

大勢の人たちに囲まれていても、みなイエスマンばかりなので、牧師が暴走しても、止める者もない。もしも村上に、身近に親身になって危険を忠告してくれる人間が一人でもいたならば、筆者に対する人格権侵害の記事を投稿してこれをすぐに削除したり、筆者を刑事告訴したなどという記事を発表してこれを削除したり、杉本徳久と共に筆者を馬鹿にする文通を書証として裁判に提出したりと言った愚行には決して及ばなかったであろう。
 
筆者に対する弾劾記事をブログに次々投稿し、掲示板での誹謗中傷を黙認・容認したりすることもなく、何よりも、カルト被害者救済活動に手を染めなかっただろう。

こうした行為に村上が及んだのは、村上には、誰も親身になって忠告する人間がおらず、むしろ、悪い助言者ばかりが取り巻いていたことの証拠である。

こうして、村上の記事では、親子の絆、年長者と年少者の絆、社会の助け合い、相互扶助のネットワークの必要性ばかりが語られるが、そこでは、最も重大な争点が抜け落ちている。

それは、私たちにとって、最も身近かつ忠実な助言者は誰なのか、という問題だ。

もちろんのこと、私たちの最も信頼できる助言者は、見えないイエス・キリストである。船頭多くして船山に登る式に、多すぎる助言者は道を誤らせ、年長者の忠告をどんなに聞こうと、イエス・キリストの忠告を退ける人間の人生は呪われる。

そこで、村上の記事は、筆者には常にバビロンの次のつぶやきを想起させる。

「わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。」(黙示18:7)

「やもめなどではない」――というバビロンの言葉は、言い換えれば、「私は一人ではない」という意味である。村上は言う、自分には身近に「親身になってくれる人がいる」から暴走することはないと。「親子関係」も万全だから、危険はない、自分は「大人たちの忠告」を聞いているから大丈夫だ、道を誤ることなどないと。

しかし、 「主はこう言われる、

 「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、
  その心が主を離れている人は、のろわれる。
  彼は荒野に育つ小さい木のように、
  何も良いことの来るのを見ない。
  荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。
 
  おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。
  彼は水のほとりに植えた木のようで、
  その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。
  その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」。
 
  心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。
  だれがこれを、よく知ることができようか。
  「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。
  おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。
 
  しゃこが自分が産んだのではない卵を抱くように、
  不正な財産を得る者がある。
  その人は一生の半ばにそれから離れて、その終りには愚かな者となる。

  初めから高くあげられた栄えあるみ座は、われわれの聖所のある所である。
 
  またイスラエルの望みである主よ、あなたを捨てる者はみな恥をかき、
  あなたを離れる者は土に名をしるされます。
  それは生ける水の源である主を捨てたからです。」(エレミヤ17:5-13)

筆者から見れば、「暴走」とは、目に見える助言者を失った結果として起きることではない。むしろ、「暴走」とは、ただ一人のまことの助言者を当てにせず、目に見える偶像にすがり、頼った結果として起きるものである。

周りのイエスマンたちにおだてられ、自分の欠点が見えなくなった宗教指導者が、分不相応な自画自賛に明け暮れながら、利己的な道を貪欲に突き進み、当然の破滅に落ち込んで滅び去って行くことなどは、まさにその典型である。

筆者は、村上を担ぎ上げた信者たちにも、重い責任があると考えている。村上を間近で知らない人間が、村上に対して疑問を抱かないのは仕方がないが、村上を間近で知っており、疑問を感じながらも、声をあげなかった信者たちの責任は重いと考えている。特に、カルト被害者たちの責任は重い。

統一教会側の「全国 拉致監禁・強制改宗被害者の会」が記している「2 拉致監禁による強制棄教事件の歴史」によると、脱カルト強制脱会運動の歴史には、大きく分けて4つの段階があり、拉致・監禁による強制脱会を最初に始めた者は、村上ではなかったようであるが、村上がこの運動に入った頃に、この運動は最盛期を迎える。拉致・監禁による強制脱会の手法が確立したのはその頃で、別な情報によれば、村上自身も数百件以上の強制脱会を手伝ったと言われている。

その後、強制脱会運動に関わった牧師たちの一部が民事・刑事で訴えられ、敗北に追い込まれたりする中でも、村上には追及の手が及ばなかったのは、ただ村上が非常に巧妙に立ち回り、人権侵害に加担した証拠を残さないようにしていたというだけではなく、村上を取り巻いている無数のカルト被害者らが、村上に対する徹底的な援護射撃・サポートに回ったことが大きく影響していただろう。

京都七條基督教会の役員も、ある時期までは、大半が村上自身が脱会させた元統一教会の信者で固められていたと指摘されている。彼らは村上の意向には決して逆らうことのない忠実な信徒たちであった。そして、今、当ブログに起きていることを見てみれば分かるように、村上が脱会させた信者たちは、村上の忠実な僕のように村上を取り巻いて、村上への批判的な言動を抑制し、これを即座に潰す役割を担ったのである。

このように、自らが脱会させた信者たちを防御の盾のごとく周りにはりめぐらし、彼らからの支持や賞賛を受けて活動したことが、村上の栄光を確固たるものとし、彼の率いる運動の偽りの悪しき本質を覆い隠し、村上の反カルト運動の成功者としてのイメージを作り上げ、この運動を存続させる原動力となったことは見逃せない事実である。

村上の周囲には、今もかつてカルトに入信し、強制脱会させられた際に、自己の意思を打ち砕かれたために、それ以後、村上に対して全く頭が上がらなくなり、異議申し立てができなくなった信者たちが大勢いるものと見られる。(筆者が2008年にこの教会を訪れた時にも、かなりの数、そういう信者たちがいた。)

彼らは、自分たちが村上のおかげで恐ろしいカルトから「救出」されたと額面通りに信じ込んでいるので、一生、村上を救世主のように慕い続け、忠実にその命に従う、マインドコントロールされた信者たちである。

だが、村上の脱会活動は、初めから信者の「救出」のためではなかった、と筆者はみなしている。筆者は以前に書いた記事の中で、村上がどのような形で統一教会から脱会したかという経緯について触れた。

そこでも書いた通り、村上は青年時代に、自ら親族からの拉致・監禁を伴う激しい暴力行為によって、統一教会から無理やり引きずり出され、強制的な脱会を遂げた。家に連れ戻されて後は、手足をロープで縛られ、身動き取れないようにさせられて、座敷牢に閉じ込められていたと自ら書いている。

脱会以後、牧師となってから、村上が繰り広げた脱会活動は、まさに村上自身が、青年時代に自己の意志を打ち砕かれ、身体の自由を奪われ、屈辱のうちに棄教せせられた悲劇的な脱会体験を、他の信者たちの身の上に再現しようとするものであったと言えよう。
 
つまり、村上の率いる反カルト強制脱会運動は、まさに村上自身が青年時代に負った深い心の痛手を、無意識のうちに、他の信者たちとの間で、共有・再現しようとするものだったのである(=反復強迫)。

また、村上は、この他にも、子供時代から親による恒常的に暴力(虐待)を受けて成長してきた様子が分かる記事もいくつも綴っている。

このようなことから、当然のごとく導き出される結論は、村上は統一教会に入信して初めてカルトに出会ったわけではなく、それ以前から、カルト的な歪んだ世界観を心の中に持ち続けて生きて来たことである。

その歪んだ世界観の土台となったのは、彼の家庭である。

筆者は幾度も書いて来た、カルトに接近する人々には、大抵、幼少期から家庭で受けた何かしらの心の傷があると。それが最大の原因となって、彼らはその傷から逃避するために、カルトへ接近するのだと。従って、たとえカルトから信者を引き戻したとしても、この家庭における傷という問題が解決されない限り、彼らがカルトに入った本当の動機は見出されることも、解決されることもない。ゆえに、この問題を放置していれば、その信者は、一つのカルトを脱しても、またそれに類似する何かの団体を見つけ出し、それを逃避の手段とし、そうして同じ種類の現実逃避を、人生で幾度となく繰り返して行くことになるだけであると。

家庭こそ、カルトとの最初の出会いであり、出発点であった――その事実を、村上は依然として見ることができないからこそ、彼はカルトを批判しても、家庭を批判することができないのである。親子関係を密にし、連絡を取り合い、大人たちの言うことを聞いてさえいれば、危険を免れるかのように説き続けているのは、他の信者たちに対してだけでなく、村上が自分自身に言い聞かせているのであって、統一教会のカルト性には気づけても、自分の育った家庭のカルト性には未だに気づかないように、自分で自分をマインドコントロールしているのである。

それだけでなく、村上はこの誤った理念を、幾度となく繰り返される「救出劇」の中で、座敷牢に閉じ込められた他の信者たちにまで、植えつけて来た。身体の自由を奪われ、惨めさと屈辱の中でうなだれる信者に、親たちの行った暴力には目をつぶって、親の言うことに従えと教えるのは、筆者から見れば、文鮮明を「霊の父」とみなし、再臨のキリストとして無条件に従えと教えているのとさほど変わらない。

つまり、村上の反カルト運動は、うわべだけは聖書を利用しているが、断じて、聖書に基づくものではなく、それは断じて、「救出活動」などではなく、村上自身が、強制脱会の対象とされた時に(またはそれ以前から)心に生じた犠牲者としての像(被害者意識、トラウマ)を、他の信者たちにも植えつけるためのはけ口でしかなかったのである。

そうして「救出者」を演じることで、村上は現実を巧みにごまかし、犠牲とされた自分自身の心の痛みから目を背け、自分が心に抱える本当の問題を覆い隠しながら、鬱憤のはけ口を得て来たのである。

そういう文脈で見ると、村上が盛んに「一人」になることに強い抵抗感を示し、人には身近な助言者が必要だ、とか、話を親身になって聞いてくれる人が必要だ、と切々と訴えていることが、誰よりも、村上が未だ自分の生まれ育った家庭によるマインドコントロールの事実と向き合いたくないがために、それを今も「お経」のごとく自分自身に言い聞かせているだけであることが分かる。

親子の関係から出て、一人の個人になった時、あまりにも恐ろしい現実に直面し、世界観が崩壊してしまわないよう、自分は「救出」されたのだ、ありがたい「助言」を受けたのだ、まさか暴力を振るわれたのでも、拉致・監禁されたのでもなく、人権侵害などなかった、と念仏のごとく、繰り返し独り言を唱えているのである。

村上の周りにいる信者たち(カルト被害者)たちも同様で、彼らは「監視はなかった」、「マインドコントロールはなかった」、「人権侵害などなかった」と、同じ念仏を唱え続けているのである。

自らに対して行われた権利侵害を認めないからこそ、彼らは筆者や当ブログに対して行っていることが、恐ろしい権利侵害である事実も認められない。自分を生きた人間として扱うことができず、自分の感情を殺し、自分の心の痛みから目を背け続けている人間が、他者の痛みだけを真剣に取り上げ、これを理解し、他者を解放することなど、できるはずもないことは明白である。

従って、彼らに出来ることは、ただ一つ、自分を犠牲として来たように、他者をも犠牲にすることだけである。それを「救出」や「解放」と呼び変え、神の福音から人々の目を逸らさせて、彼らの手にかかった人々が、キリストが用意して下さった解放に永遠に至りつけないように、御国への門の前に立ち塞がり、自分だけでなく、周りの人々まで滅びに巻き込んでいることが、この運動の最大の罪である。

<続く>

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

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