忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

霊と真理によって神に捧げられる礼拝と、霊における天的なエクレシアの交わり

「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(Ⅰコリント2:2:)

今、日本という国が急速に荒廃している。政治の荒廃は言及するまでもなく、ごく普通の人々の日常生活に至るまで、真実、誠実さが姿を消し、嘘、不法、搾取、虐げが横行し、人々は互いに裏切り合い、貶め合い、蔑み合っている。

終末に向けて、悪の霊が大々的に説き離れたこと、日本に生きる人々(もっともこれは日本だけの話ではなく、世界的な現象であろう)の心の荒廃が進んでいることを思わずにいられない。

だが、筆者は、滝が滝壺に向かって流れ下るように、破滅へ向かう激しい濁流のような流れから、完全に距離を起いて、これと関わりのない天的な人生を生きたいと心から思う。どうやら、そのためには、地上の経済を離れ、地上的交流を離れ、天的な角度から、天的な経済と天的な交流によって、人生を建て上げることが必要なのではあるまいか、という実感がしてならない。

すでに書いたことであるが、以上のような人心荒廃現象は、終わりの時代の様相であり、世人だけでなく、信者と呼ばれる人々の間にも起きて来ている。聖書には、終わりの時代に苦難が来ること、他でもなく信者と呼ばれている人々の中から、以下のような人々が出現することが警告されている。

「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」(Ⅱテモテ3:1-5)

この最後のフレーズ、「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」が、以上のような人々が、神を恐れず、神を知らず、信仰を持たない世人の中から現れるのは言うまでもなく、さらに他でもなく信者と呼ばれる人々の中から出現することをはっきりと示している。

以上のような恥知らずな生き方をする人々が、どうして「敬虔」に見えるものか、という疑問を呈する人もあるかも知れないが、それは主イエスが地上に来られた時、市井の人々からは信仰篤い立派な宗教家のようにみなされていた律法学者やパリサイ人たちが、誰よりも悪質に神の御言葉に逆らい、主イエスを憎み、殺意によって陥れ、主を十字架につけたことを考えれば、不思議ではない。上記の御言葉は、その当時と同じように、終わりの時代には、他ならぬキリスト教の中で、他ならぬ敬虔な信者のように振る舞っている人々が、神の福音に最も激しく敵する者になる、という警告と受け止められるのである。

ところで、かつてそのような危機感を抱いていたがゆえに、組織としてのキリスト教のあり方を批判し、キリスト教界を出て、直接、神に結びつく信仰生活を心から追い求めていた信者たちが数多く存在していた。

しかしながら、筆者が出会った、そのようにキリスト教界を出て直接、キリストだけにつながる信仰を追い求めていた信者たちは、そのほとんどが途中から、人間のリーダー、人間の組織へと逆戻りして行ったのであった。

筆者が彼らに出会った当初、彼らの口から一様に聞かされたのは、人間の作る地上的な組織や、人間のリーダーから離れなければ、神への本当の信仰を保つことはできず、地上的な組織は、やがて反キリストの体系へと集約されて行くだけだから、そこから離れなければならない、という確信であった。

にも関わらず、こうした人々は、信者のコミュニティから離れて、自分一人、孤立する危険に直面すると、孤立を恐れるあまり、結局、地上的なサークルへの帰属を求めて散って行ったのである。

こうした現象を見るとき、筆者は「どうして当初の信仰の証を失ったのか」と疑問に思わずにいられない。「あなたたちがあの頃、あんなにも熱心に語っていたことは一体、何だったのですか」と。

これまで、多くの霊的先人たちが、組織としてのキリスト教を離れ、地上の組織や団体に属さずに、直接、神に結びつく信仰生活を模索してきた。

ハドソン・テイラーや、ジョージ・ミュラーや、その他の信仰の偉人と呼ばれる昔の人々の伝記を読んでさえ、その当時から、こうした人々の多くが、従来のキリスト教組織の枠組みから幾度となく離脱を余儀なくされた過程が分かるのである。それは必ずしも組織と対立したり、激しい争いの末に訣別するというようなものではなく、あるいはルターの宗教改革のように大々的に新しい教派を打ち立てるといったものでもなかったが、霊的先人たちは、静かに、穏やかに、組織を離れて行ったのである。

以前、筆者が教会に所属していた頃、「教会での礼拝に出席しなくなり、信徒の交わりを離れれば、信者は信仰を維持できなくなり、やがては救いを失う。」と言った思い込みが盛んに流布されていた。教会を離れ、信徒の交わりを離れることが、すなわち、悪魔の餌食となって、やがて救いを失うことと同一視されていたのである。

だが、人間の作った集団に帰属すること、神に帰属することは全く別の事柄である。だから、教会を離れれば救いを失う、などという考えは完全な誤謬であり、それはただ地上の組織から信者が決して離脱しないように使われる脅し文句に過ぎない。

ところが、そのことをよく理解して、そのような心理的な恐怖によって、地上の団体に信者を束縛しようとする従来の教会組織のあり方に疑問を覚え、そこを去ったはずの信者たちも、結局、そのほとんどが、また別に自分たち独自のサークルを打ち立て、今度は「兄弟姉妹の交わりを離れれば信者は信仰を維持できない」などと言い始めたのである。

そして、彼らは、教会の信者たちがしばしばそうしていたのと全く同様に、自分たちのように定期的な「信徒の交わり」を持たず、個別に神を見上げて生きている信者を上から見下して、「あの人たちは交わりが絶えて霊的に荒廃し悲惨な状態にあるから、祈ってあげなくてはならない」などと悪しざまに言い、しきりに可哀想がったりするのである。

それはかつて教会に所属していた信者たちが、自分たちの教会の礼拝に来なくなった信者たちを指して、「あの人たちは世に心を奪われて信仰が薄くなって危機的状況に陥っている。だが、神はそんな彼らをも愛しておられるから、彼らのためにも、祈ってやらねばならない」などと可哀想がっていたのと同じ有様である。

そのようなこともあって、最近、筆者は、一体、彼らの使う「兄弟姉妹の交わり」という言葉は何なのかと、深刻な懐疑を覚えるようになった。

筆者から見ると、すべては彼らの言い分とは真逆なのである。真に可哀想で、真に祈られるべきは、まるで取税人を見下して自己義認したパリサイ人同様に、自分たちは信徒の交わりを持っているから大丈夫と考えて、そこに属さない信者の「霊的荒廃」を想像し、それを心密かに蔑み、嘲笑しながら、自分自身と引き比べて自己安堵に浸っている信者の方なのである。

そのような姿を見て、筆者が思い出すのは、自分には地上で居場所があると誇ったバビロンのつぶやきだけである。

「彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座についている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。」(黙示18:7)

バビロンが誇っていたのは、天的な居場所ではなかった。彼女は、地上において、自分が受け入れられ、人から承認を受け、立派な信仰者だと認められる居場所がある、ということを誇っていたのである。バビロンとはまことの神への信仰と異教との混合であり、その本質は、うわべは「敬虔」そうに見えるが、「その実を否定する」信者の集合体に他ならない。

そして、終わりの時代、地上の組織としての教会や、地上の信徒の集まりこそ、神の天的なエクレシアに悪質に敵対するものとして、バビロンの混合体に堕して行くのだ、という確信をこれまで筆者は幾度となく述べて来た。また、オースチン-スパークスなどの論説に見られるのも、これと全く同じ主張なのである。

「私たちのいのちなるキリストが現される時・・・」
(コロサイ人への手紙3章4節)


聖霊の主要な目的の一つは、信者を復活・昇天した主であるキリストと一体化し、彼の復活のいのちを信者の経験の中で実際のものとすることです。

時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。

こうしたことには三つの要素があるでしょう。第一は、反キリストの原則の明確なる発展であり、それはキリストに取って代わるか、取って代わろうとするでしょう。

第二は、人造のキリスト教内のキリストご自身の代替物であり、自らの勢いで生成発展する偽りのいのちです。

第三は、真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求です。

第一の場合、人間の力が崇拝され、ヒューマニズムが大いに氾濫し、人の驚異と栄光がたたえられるでしょう。第三の場合は、いのちであるキリストがすべてでしょう。

教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。新約聖書がまごうことなく明らかにし、強調しているように、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となること
です。

オースチンスパークス著、「私たちのいのちなるキリスト」から。


バビロンが誇ったのは、神からの承認ではなく、人からの承認であった。新約聖書を振り返っても、主イエスはいつも、自分たちは立派な信仰者で、敬虔で、落ち度なく礼拝を守っており、神から覚えめでたい本当の信者だと自負していた宗教家のもとへは足を向けられず、かえって、ザアカイや、サマリヤの女のように、人々から承認されず、コミュニティからも半ば見捨てられかかったような人々に積極的に声をかけられた。それは人には蔑まれ、見捨てられて深い孤独の中にあったこうした人々の心の中に、ただ神だけを呼び求める信仰が生まれていたからに違いないと筆者は思う。

主イエスが地上で御言葉を語られたのは、常に当時の社会で「敬虔な信者」の外見からはほど遠く見える人々ばかりであった。イエスの弟子たちも、主イエスに召されるまで、当時の社会ではそれほど尊敬されない職業についていたし、主イエスが誕生された時に、天使たちが荒野で姿を見せた羊飼いたちも、社会では蔑まれ忘れ去られているような人々であった。

それを考えても、やはり、教会や信者の集まりの中に身を置いて、「自分たちは信徒の交わりに出ているから霊的状態は万全」などと考えている人たちは、主が再臨される時には、きっと素通りされるのに違いない、と筆者は思わずにいられないのである。

それどころか、終わりの時代、バビロンが高らかに誇った地上の「居場所」は、まさに「兄弟姉妹の交わり」という名目でこそ、美化され、栄光化され、高みに押し上げられて行くのではないだろうか。

筆者が今思い出すことの中に、かつて筆者が心から「兄弟姉妹」と呼べた数少ない信者の一人であったある姉妹(彼女はすでに亡くなった)が、生前、「兄弟姉妹」という言葉に反発していたということがある。

筆者自身は、まだその頃、「兄弟姉妹の交わり」というものに相当な美的イメージを持って、交わりに憧れ、これを追い求め、建て上げることに関心があったので、彼女の台詞にそれほどの共感は持てなかった。

だが、彼女は自分もクリスチャンであるにも関わらず、この言葉だけはどうにも抵抗があると言うのであった。彼女は言うのである、「どうしてクリスチャンの集まりでは、まるで専門用語みたいに『兄弟姉妹』という言葉を使って互いを呼び合うの?」

彼女いわく、「兄弟姉妹」という呼びかけは、クリスチャン(しかもどこかの組織に属している信者)の間
だけでしか通用しない専門用語であり、しかも、自分は正統な信仰生活を送っていると自負したいクリスチャンが互いを承認しあって慰め合うために自己満足のために発する言葉だというのである。

まだはっきりとした信仰を持たない者が教会に足を踏み入れ、そこで信者同士が「兄弟姉妹」と呼び合っている言葉を聞くと、「自分は兄弟姉妹の一員ではないから、この人たちの仲間ではないのだ」と思い知らされ、自分はこの信者たちから排除されている、という印象だけしか受けられずにそこを立ち去ることになる、そんな高慢な兄弟姉妹の交わりはあるべきでない、というのだ。

今日、クリスチャンの書いた色々な読み物に目を通すとき、筆者は、彼女のいわんとしていたことの意味がよく分かるように思う。

排除されているのは不信者だけではない。教会と呼ばれない集まりであっても、多くの場合、そこにいる信者たちは、「兄弟姉妹の交わり」に定期的に出ているかどうかを、まるで信者の霊的状態をおしはかるためのバロメーターであるように思い込み、他の信者の「霊性」を品定めし、裁くために使っている。

彼らから見ると、定期的に「兄弟姉妹の交わり」を持たない信者たちの「霊性」は荒廃しているに違いなく、そのようにして信者の群れからはぐれた信者は、やがては救いを失う、という結論が決めつけられている。だが、よくよく彼らの言うことを吟味してみると、結局、そこでは、「イエス・キリストに直結しているか」よりも、「兄弟姉妹の交わりに直結しているか」ということの方が、はるかに重視されている。あたかも、「イエス・キリストに直結していなくとも、(しばしば牧師やリーダーに直結し)、兄弟姉妹の交わりに直結してさえいれば、何とかなる」とでも言いたげに・・・。

しかしながら、筆者が覚えている限りでは、彼らがそれほど重視する「兄弟姉妹の交わり」という言葉自体、文字通りには、聖書には登場しないのだ。

聖書には、「交わり」という言葉はいく度も登場する。だが、その多くは主として、「神との交わり」、「御霊の交わり」、「イエス・キリストとの交わり」といった文脈で、信徒同士のヨコの関係というよりも、神とのタテの関係を強調するものとなっている。

信徒同士のヨコの関係を示すものとしては「信徒の交わり」という言葉が使われるが(頻度としては神の霊との交わりという文脈よりは少ない)、それとて、神の霊によって生かされる信徒たちの神の霊の中における交わりであることを大前提としている。

そこで、聖書の御言葉が「交わり」と言うときには、それは第一に、神の霊との交わりを指しており、信徒の交わりに言及される場合も同様に、神の霊の中における信徒の霊による交わり、という意味で用いられる。つまり、正しい交わりというものが、神の霊を抜きにしては決して成り立たず、神の霊を抜きにした信徒だけのヨコの関係は「交わり」には含まれないことが分かる。

検索サイトを用いて、口語訳と新共同訳の新約聖書で、「交わり」という言葉がどのように使われているかをざっと検索してみると、結果は次のようになる。そこからも、聖書の言う「交わり」とは第一に「神の霊との交わり」であることがよく理解できる。(ちなみに、交わりという言葉を、神と信者とのタテの関係でとらえる文脈を赤、信徒同士のヨコの交わりを青とした。)
 
使徒行伝/ 02章 42節
そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。

使徒行伝/ 05章 13節
ほかの者たちは、だれひとり、その交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた。

ローマの信徒への手紙/ 12章 16節
互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。

コリント人への第一の手紙/ 01章 09節
神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。

コリント人への第一の手紙/ 15章 33節
まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。

コリント人への第二の手紙/ 06章 14節
不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。

コリント人への第二の手紙/ 13章 13節
主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。

ガラテヤ人への手紙/ 02章 09節
かつ、わたしに賜わった恵みを知って、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた。そこで、わたしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのである。

フィリピの信徒への手紙/ 02章 01節
そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、

ピレモンへの手紙/ 00章 06節
どうか、あなたの信仰の交わりが強められて、わたしたちの間でキリストのためになされているすべての良いことが、知られて来るようになってほしい。

ヨハネの第一の手紙/ 01章 03節
すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。

ヨハネの第一の手紙/ 01章 06節
神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。

ヨハネの第一の手紙/ 01章 07節
しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。


 さて、以上で最後に引用したヨハネ第一の手紙の御言葉、および、以下の聖句、
 
ヘブライ人への手紙/ 10章 25節
ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。

が、「定期的な信徒の交わりから脱落すれば、信者は信仰を失う」、とか、「集会への出席をやめれば、信者は信仰から脱落する」といった半ば脅しめいた固定概念の根拠として引き合いに出されることが多い箇所である。

しかしながら、そんな風に人の心に恐怖を抱かせる台詞を鵜呑みにするよりも前に、まず、聖書の言う「信徒の交わり」とは、何よりも、神の霊における(聖徒らの)霊における交わりであることが大前提であって、単なる地上の人間たちの集まりではない、ということをよく考慮する必要がある。

さて、キリストの霊における交わりとは一体、何なのかを理解する上で、たとえば、パウロは次のような興味深い言葉も記している。
 
コロサイ人への手紙/ 02章 05節
たとい、わたしは肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたと一緒にいて、あなたがたの秩序正しい様子とキリストに対するあなたがたの強固な信仰とを見て、喜んでいる。

つまり、この言葉からも分かるように、神の霊の中における信徒の交わりは、地上の肉体の制約や時空間の制限を超えるのである。

そして、エクレシア(本当の意味での教会)とは、そのような意味において、まさに神の霊によって生かされる信徒らの、時代をも空間をも超越する霊的共同体に他ならない。

エクレシアにおける信徒の正しい交わりとは、たとえば、ある日のある固定された時間にある固定された場所へ行かなければ、決してあずかることのできないような地上的な制限の下にある集会を指すのではなく、何よりも、神の霊の只中における時空間の制約を受けない天的な集まりを意味するのである。

そのようなことをただの一度も思いめぐらしたことはない信者は多いことであろう。天的な集まりと言われても、それが何を意味するのか、全く理解できないし、地上における定期的な集会こそ、正しい信徒の交わりのあり方だと信じている人々はまことに多いであろう。しかしながら、たとえ地上で定期的な信者の集会が開かれていたとしても、それが神の霊の中にない、ということは実際にあり得るのである。

さらに、オースチン-スパークスの警告からも分かるように、いかに外側からは敬虔なクリスチャンの集まりのように見えたとしても、「教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょうそして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。

つまり、最初はキリストの御霊によって生まれた信徒たちによって始められた集まりであっても、もしその集まりが、「教え、伝統、制度、運動、人など」、地上の何物かに帰属するならば、その集まりは、地上のものに束縛されて霊的に制約を受け、最後には、ついに神の自由な霊による天的な集会としての要素をすべて失ってしまうことになるのである。そうなると、その集会に残された道は、反キリストの体系に統合されて、キリスト教と異教の混合体としてのバビロンに吸収されて行くことだけである。

それが、終末に、信者がキリストの御霊にとどまらず、「事物、人、運動、制度、組織など」に帰属されて行った時に起きる必然的結果なのであり、そうしたことの結果として、キリスト教と思われている地上的な団体や組織が大々的にバビロン化して行くのである。

だから、我々は、「兄弟姉妹の交わり」と呼ばれている集会があるからと言って、それがすべて神の霊による集まりであると安易に鵜呑みにすべきではない。むしろ、それは本当に「キリストの御霊」による交わりなのか、それとも、人間の作り出した神の霊によらない地上的な集まりに過ぎないのか、そこをきちんと識別しなければならない。

筆者は、信徒が集まることの意味そのものを否定しているわけではなく、神の霊によって生かされた信徒らが集まり、交わることには確かに大きな意味があると考えている。だが、それは必ずしも地上的な制約の下にある集まりばかりを意味せず、場合によっては、時空間を超える霊的交わりが存在しうる。

また、この地上には、偽物の聖霊、偽物の信徒、偽物の信徒の交わりというものが確かに存在しており、偽物は常に本物以上に、自分たちを本物であるかのように誇ろうとすることに注意が必要である。偽物の信徒の交わりも、自分たちこそ本物だと主張して、そこへ盛んに人々を惹きつけ、束縛して行こうとする。

地上に制限だらけの独自のサークルのような「兄弟姉妹の交わり」を作って、そこにいない人々をあたかもみな憂慮すべき霊的状態にあって神から切り離されているかのように決めつけ、自分たちの交わりを高らかに誇り、それを神の選民とそうでない人々を区別する境界線のようにみなしている人々の主張には要注意である。まずもってそのようなものは真の聖徒の交わりではあり得ない。

 
主イエスは次のように言われた。
「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 <…>
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
 
神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

(ヨハネによる福音書/ 04章 21-24節)

このように、まことの礼拝とは、「霊と真理」によって捧げられるものであり、「この山」、「エルサレム」などといった特定の時空間に制限されるようなものではない。

エクレシアは天的なもので、時代と空間の制限を超える。神の霊によって生かされている信者はみなエクレシアの構成員として天的な礼拝の中に入ることが許されている。だが、一体、時代と空間の制約を超え、信者自身の地上の存在としての制限をも超える本当のエクレシアの霊的交わりとは何なのか、その実際を信者は知る必要がある。
 
神の霊によって生かされる信者らは、ただ霊と真理によって神に礼拝を捧げるのみならず、聖徒らの互いの交わりにおいても、肉的な方法で(人間的な思いで)信徒を知ろうとはしない。パウロが、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(Ⅱコリント5:16)と述べたように、信者は霊においてキリストを知り、霊において神と交わるだけでなく、信者同士との交わりにおいても、霊において交わるのである。このようなキリストにある新創造の領域における交わりこそ、まさに信徒の交わりとして必要なものである。

「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(Ⅰコリント2:2:)

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

PR

キリストと共に天の御座から御名の権威を持って地に向かって命ずる

 以前に書いていた「キリストと共に天に昇り、御座から統治する」という記事を補足しておきたい。

 十字架においてイエスと共に死ぬこと、イエスの復活の命によって新しく生きること、それはもちろん、クリスチャンが日々、経験しなければならないことであるが、大まかなプロセスとしてみるならば、確かに、ある日、御霊の光によって、それらを経験的にはっきりと実際として理解させられる、ということは起きるのである。

 筆者自身、この経験を通して、ちょっとやそっとでない変化がもたらされた。いや、十字架の経験は、筆者を永久的に、完全に、内側から変えてしまった。たとえば、それまで、筆者は信仰を持っていたが、世人とほとんど変わらない人間で、自分の弱さと状況次第では、どんな罪でも犯しうる人間だと感じてきたが、その主と共なる十字架の経験以後、あからさまに罪を犯すことはもうできなくなった。

 聖書に書いてある「新しい霊と心を与える」ということがどういうことなのか、実感を伴って理解したのである。筆者の魂はあらゆる痛みや傷から全く解放されて、生まれたばかりのように生き生きと健康になり、肉的な悪習慣は跡形もなく消え去り、罪なる思いを否んで退けることができるようになった。

 自分が、今や御霊の制限の中を生きており、かつてのような罪と死の法則性には二度と戻ることができなくなったのを理解したのである。

 だから、御言葉が光となって人の内側を照らす時、光は人の中で死ぬべきもの(=旧創造に属する部分)を永久に殺してしまうということが分かる。この変化は、ある人が一旦、やめると宣言した悪習慣に、時が経てばまた逆戻するような、優柔不断で曖昧な変化ではなく、上から来る光は、照らすと同時に、殺す力を持っている。御言葉は、肉なるものを切り分けると同時に、永久にそれに死を宣告する効力を持っているのである。
 
 暗闇にいた人が、光の下で、徐々に目が慣れて来るように、筆者はそれ以来、何が肉であり、何が魂であり、何が霊であるのか、おぼろげながら、見分けられるようになった。たとえば、魂から出た愛情や、善意は、たとえどんなに美しく見えようとも、全て腐敗しており、希望がないこと、御霊によって生まれたものだけが、真のリアリティであることが理解できるようになった。

 周囲で起こっていることを見ても、何が魂の活動であり、何が霊の活動であるか、その微妙な境目を、少しずつ、識別できるようになった。

 それに加えて、少しずつ、御霊による支配が始まった。内なるキリストが、直接、筆者を通して、状況に働かれたという他には、全く説明のつかないような出来事が、さまざまな場面で起きた。キリスト者の内に住まう聖霊が、確かに生きて力強く働かれることが分かって来たのである。

 だが、決してそこで信者の歩みが完全になったわけではない。信者の中で生まれた「新しい人」は、まだ力なく、十分に成長していない、子供のようなものである。信者はもはや暗闇の中を歩んではいないとはいえ、依然として、この世や、暗闇の権威に打ち勝つ力をまだ知らず、暗闇からの圧迫が、予期せぬ事件や、突然の不調、不安を煽るような状況などとなって、波のように寄せてくるとき、それに対して信者は、初めのうちは、よくても受け身、悪い場合には、ただ翻弄されて後退を繰り返すだけで、これらの出来事に圧倒的に勝利する秘訣をまだ知らないが、それを掴む必要があるのだ。

 信者の生まれたばかりの新しい人の霊的無力さは、彼が天の高度に霊をはばたかせ、キリストと共に昇天し、主と共に御座から、キリストの御名の権威を持って主と共に治めることを実際に経験し始めれば、変わるであろう。むろん、信者は、資格の上では、すでにキリストと共に死と復活を経て、御座についているのであるが、それがどういうことなのか、実際に経験しなければならないのだ。そして、その経験の過程で、信者の新しい人は、霊的に強められ、信仰が成長し、勝利をおさめながら、キリストの似姿へ成長して行くのである。

 そこで、「キリストと共に天の御座から統治する」ということの意味を、知りたいと筆者は考え、神に願った。そのように霊的に天に昇り、御座から統治するという経験は、信者が暗闇に勝利する生活を送るにあたって、なくてはならない死活的重要性を帯びていると感じたためである。
 
 もし、十字架の死、復活と、それに続く昇天の経験がなければ、クリスチャンが、キリストの王国の勝利と支配の前味を生きて経験することはできないだろう。たとえば、地上の経済がますます悪化し、人心が荒れ、嘘と騙しと搾取が横行する今の世の中にあって、信者の職業の問題、経済の問題などには、信者ただ一人分の命を何とかしてつなぎとめるなどという意味ばかりでなく、それを通して、信者がキリストのまことの命による支配をこの地にもたらし、暗闇の勢力による支配を敗北させ、後退させるという意味を帯びているのである。

 ある信者が、「悪人の富は、善人(信仰者)のためにこそ、蓄えられる」と語ったが、まさにその通りなのである。キリスト者には、御名の権威によって、地の富が蓄えられている倉庫を開錠し、不正な罪人たちの富を天の倉庫に移行するということが可能なのであり、その方法を信者は実際に知らなくてはならない。

 この富の移行は、地上の悪人たちがいつもそうしているように、嘘や不正や脅しや略奪や搾取によるのではなく、ちょうど新約聖書で、ザアカイが主イエスの前に自ら悔い改めて、自分の蓄えた不正な富を虐げられた人々に還元すると述べたときのように、悪人が信仰による義人の前に、自ら己が不正な富を明け渡すという自然な成り行きによる。そのようにして地が天に仕えることが、本来の秩序なのである。そして、信者は、天の正しい霊的統治を地上で持ち運ぶ器なのである。
 
-----------------------
 
 もう一度言うが、キリスト者は、主イエスと共に霊的に統治する方法を知らなければならない。そして、それは天の御座の高度から行われるべきことである。

  ただし、ここで少しばかり注意が必要なのは、これはスピリチュアリズムで流行した「アセンション」などとは全く異なる事柄で、アセンションなどは、キリストと共に信者が御座から統治することの偽物に過ぎないという点である。

 悪魔と暗闇の勢力は、人があたかもキリストの十字架を介することなく、神の恵みによらず、自力で自分本来の力に覚醒することによって、何かしら天的存在となり、神のようになれるかのような教えを常に捏造して来た。つまり、今もって彼らは、キリストと共なる死・復活・昇天の体験の偽物を盛んに流布しているのだが、このように偽物が現れて来るのは、本物がそれほどまでに貴重だからに他ならない。

 だから、キリスト者は、虚偽の教えが蔓延していることに幻滅して、本物を探し求めることまでやめるべきではなく、偽物が隠そうとしている本物が必ずあるはずだということに注目して、真に高価な「真珠」である霊的真理を探し続け、御言葉が生きて実際となる経験を求めるべきである。

 キリストの御座からの統治とは、山上の垂訓が実現した世界であり、それは信者の肉的高揚のために行われる自己顕示などとは全く異なる事柄である。信者は、自分に何らかの感覚的な高揚感をもたらす超自然的な体験の有無に左右されることなく、あくまで聖書の御言葉に立脚して、静かで落ち着いた信仰のもとに、これらの事柄(復活、昇天、御座)が、御霊によって信者の内側で実際となることを確信し、それを追い求めるのである。

 たとえ感覚的に何も体験したように感じられずとも、御言葉への確信の中にとどまることが肝心である。

 さらに、筆者がこのような追求の間に学ばされた重要なことがある。それは、キリスト者は、天の御座に就いて主と共に統治する者であるから、地上の経済の悪なる支配に巻き込まれて、その奴隷となってはいけない、ということである。

 筆者はこれまで、さまざまな方法で生計を神に満たしていただいたが、その満たしの方法は一定ではなく、時には、ジョージ・ミュラーのように信仰を試されることがなかったわけではない。

 なぜなら、信者は天に終身雇用されているのだが、地上においての雇用は変化する可能性があるからだ。地上には何一つ永続的な事柄は存在しない。そこで、この世で、どのような形で生計を満たすかという問題については、主はその時、その時で、いつも筆者に違った答えを下さった。

 だから、筆者はかなり長い間、世人と同じように、この世の職業に就き、まじめに働いて生きようと考えて来たのだが、いつも、その結果として、思い知らされることは、地上の労働なるものは、地上の呪われて堕落した経済の一環として、非常に悪しき呪われた要素をはらんでおり、その支配に身を委ねれば委ねるほど、誰しも、豊かになるどころか、貧しくなっていくだけだということである。

 そのような呪われた悪循環に身を委ねることが、神に喜ばれる信者の生き方ではなく、信者が養われる方法は、常にこの世が規定しているような自己の労働によるのではない別な天的な方法によるのだということを学ばされるのであった。

 だから、どんなに筆者が世人と同じような生活を送ろうと試みても、いつもいつも不思議な展開により、どういうわけか、神は常に労働によらない別の蓄えを用意して下さり、自己の努力によらず、神の恵みによって生きるようにと、筆者に促されたである。むろん、それは不正に蓄えられた富などではなく、むしろ、不正な罪人が裁きを受けて、正しい人のために、蓄えて来た富を明け渡さなければならなくなる、といった結末によって生じるものなのであった。
 
 だから、たとえこの世の経済がまるで呪われた悪循環のようなものとなっており、どんなに多くの世人がそれによって追い詰められ、暗闇の勢力がそれを使って信者の生活をも妨害しようと試みたとしても、結局、最後には、彼らの方が降参して、己が富を信者に明け渡さなくてはならなくなる、ということの連続なのである。そして、そのように不正な罪人が恥をこうむり、悔い改めた時に生まれる富の移行が、信者がこの世的な労働によって得るものよりもはるかに大きいのである。
 
 だから、筆者が言えることは、もし信者がキリストのみに忠実であろうと堅く決意し、主以外の何者にも頼らずに御言葉を守って生きるなら、我々の生存に必要な条件はすべての面において、神が保障して下さると信じて構わないということである。神が信者の義となって下さり、信者のために戦って下さり、信者のために報復し、この世の不正な罪人を屈服させて、彼らに恥をこうむらせ、彼らが義人から収奪して蓄積して来た富を、信者に明け渡させるのである。

 たとえ筆者自身がそういうことを望んでいなくとも、それでも、キリスト者は、地上の経済よりも上位にいて、地に対するキリストの命の霊的統治を及ぼす権威を持つ者なのだということを、どういうわけか、筆者は常に確信せざるを得ない出来事の連続の中に置かれて来たのである。

 キリスト者を騙し、虐げ、踏みにじり、搾取しようとするような者は、必ず恥と損失を受けることになる。そのようにして、地の富が天の宝物庫に移行することは、神の御心にかなっているのである。
 
 だから、筆者は誰かの施しや憐れみにすがって困窮状態を解決してもらわねばならないようなマイナスに陥ったことはこれまで一度もないし、かえって、筆者の「貧しさ」をあざ笑ったり、追い詰めたり、あるいは筆者を騙して損失をこうむらせようとした人々が、常に最後には恥をこうむり、償いをせねばならない事態となって来たのであった。

 たとえ望まなくとも自然にそのようになったのである。今、地上の経済は年々悪化の一途を辿っており、あらゆる組織・企業・団体が悪鬼化し、嘘と騙しと搾取が横行しているにも関わらず、御名の権威を持って、信者が彼らの前に立つとき、地上の悪なる主人たちは、結局、恥をこうむり、己が宝物庫を、キリスト者のために明け渡さなければならなくなるのである。

 だから、キリスト者の使命は、地上の悪なる主人の手下や奴隷となって、その思い通りに動かされ、無益な苦しみを味わうことではない、とはっきり言える。むしろ、聖書に書いてある通り、悪なる人々が、義人を陥れようと、どんな不正な計画を企み、罠を張ったとしても、信者は神にのみ絶対的な確信を置いて、心安らかに歩いて行けば良い。神が、彼らを自分でしかけた罠に突き落とされるからである。その結果、彼らの富が義人の手に移行するということが自然に起きるのである。
 
 だから、信者は神にのみ絶対的な確信を置いて、神に対してのみ忠実であればよく、聖書に書いてある通り、明日のために思い煩うということは、する必要のないことである。むろん、最低限度の管理は必要だが、自分で自分を支えようと絶えず心を悩ませ、限界まで力を振り絞って悲痛な努力をして(もしくは不正な方法論を巡らして)まで己の力で己を養おうと努力する必要はないのである。

 信者はただ率直に、何が自分に必要なのかを天におられる父に向かって祈り、申し上げ、主を信頼して生きれば良い。

 さらに、こうした祈りの際に、非常に有効なのは、信者がただ地上から天に向かって祈りを通して願いを神に懇願するだけでなく、もっと力と権威を持って、天の御座からキリストと共に、御名の権威によって地上に向かって命じるということなのである。

 これをするために、信者には「キリストと共に昇天し、御座につく」という経験が必要になるのだと筆者は考えている。天の御座からの権威をもった祈りは、地上から捧げる懇願の祈りよりももっとはるかに強力な効果を持っているからだ。
 
 信者の地上での行く先、なすべき事は、常に、天に備えられているが、ただ備えられているだけでなく、それは祈りによって、常に信者の心の願いに沿って与えられるものなのである。

  だから、信者はこの世のものさしに従って自分の人生をおしはかり、願いを限定すべきではない。たとえば、地上の経済が悪化しているから、選択肢もないだろうと考えて、信者があえて劣悪な条件に自ら志願したり、二度と関わるまいと決意した領域に戻ろうとしても、その道は常に絶たれる。

 主が信者のために用意して下さるのは、良心に恥じず、自分で自分を苦しめたり、貶めたりする必要がなく、不正に加担せず、なおかつ、信者自身の心の願いに合致し、さらに歴史の立会人になるような生き方である。

  信者にとって生活の糧は、自分で探し回って自己の努力によって得るものではなく、はたまた巧みな自己アピールによって獲得すべきものでもなく、主と信者が共同で作り出して行くものなのである。御霊の知恵が、どのように生きるべきかを信者に常に教えるのである。

  神には無限の多様な知恵があり、無からでも有を呼び起こすことのできる方が我々の主である。その主と共に生きている限り、信者は、神と共に信仰によって、自分の願う事柄を創造しているのであり、神には足りないとか、万策尽きたということが絶対になく、信じる者のために、神は常に豊富に選択肢を用意して下さることができる。

 だから、キリスト者の生活とは、この世の状況がどんなに悪くなって行ったとしても、それに左右されるものでは決してないのである。

  しかしながら、そこに信仰の戦いがある。信者の願いが成就するよりも前に、必ず、暗闇の勢力からの妨害があり、彼らは主が信者のために創造して下さった富が、何としても信者の手に渡らないように、必ず、何らかの方法で妨害して来る。

 その時に、信者は、敗北感や、恐れや、弱さを覚えたり、自分が神に願った恵みを受けるに値しないという怖れの中に沈まないことである。この否定的感覚に対して、徹底的に立ち向かい、これを拒否し、神の勝利に立ち続けて、天の高度を維持しながら、すべての圧迫に立ち向かうことが有効である。

 信者は決して起きる出来事にただ翻弄され、振り回されるだけの立場でいてはいけない。神が約束して下さった栄光に信者を至らせまいとする全ての悪魔の策略を見抜き、これを打破して突き進んでいく積極性が必要なのである。

 このような戦いを経由することなく、願っていた栄光(キリストの似姿)に信者が到達することはまずないと言えよう。悪魔はあらゆることについて信者に敗北をささやき、あらゆる方法で信者を意気消沈させようと試みるだろうが、敗北は悪魔に突き返してやり、絶対に認めないことである。また、敗北的な台詞を人々から投げかけられる時、これをきっぱりと否定することが重要である。

 悪魔に立ち向かいなさい、そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう、と書かれている通り、キリスト者を迫害して来るような連中の悪事は、声を大にして世に告げ知らせれば良い。これについて、黙っている必要はない。この世の罪人がどれほど連帯して信仰によって生きる義人を迫害し、陥れようとしたとしても、キリスト者の内におられる方は、この世全体を合わせたよりもはるかに強いのであり、すでに世に勝った方なのである。

 だから、この世の情勢がどんなに厳しくなっても、信者の生存のために必要なすべては主が天に備えておいて下さり、しかも、それは必要最低限をはるかに上回るものなのであって、それを信仰の戦いを勝ち抜いて獲得することができる、ということを信じずべきである。

 信仰によって、天から地に御心を引き下ろし、地上の富を天に移行することが信者の重要な責務の一つなのだと認識すべきである。

 地は、天に住む者のためにその宝を蓄えており、これを明け渡さなければならない立場にある。キリスト者が地上の人々に仕え、その悪なる支配に翻弄されるのではなく、地上の人々がキリスト者に仕え、天の支配を知らなければならないのであって、これが本当の秩序のありようなのである。信者が地の奴隷になるべきではなく、信者はかえって地の悪なる主人の支配に恥をこうむらせ、これを後退させ、御心にかなう天的秩序を地にもたらすために地上に存在しているのである。

 人の力は、どんなに優れた能力がある人の場合も、年々衰えるだけであるが、主を待ち望む者は新たに力を得る。キリストの死と共に働く偉大な復活の力は、人間的な望みが尽きれば尽きるほど、ますますはっきり現れて来る。

 神を信じてより頼む者が失望に終わることはない、と聖書に書かれている通り、この世の法則と、信仰の法則は逆なのである。この世的な観点から絶望が増し加わる時にこそ、信者の信仰が試されており、信者に約束された天の栄誉も大きい。

 だから、今の時代のような時にこそ、信者は勇気をもって暗闇の勢力の妨害に敢然と立ち向かい、約束された勝利を勝ち取る積極性が必要とされる。たとえ確かな証拠が目に見えるところに何もなくとも、見えない神の偉大なみわざを信じる信仰を生きて働かせるべきである。

 敗北から立ち上がり、勝利の叫びをあげ、凱旋の歌を歌いなさい。もうこれ以上、弱々しい懇願の祈りを捧げていないで、まだ見ていなくとも、天の御座に主と共に座していることを信じ、地に向かって権威を持って命じなさい。

 アダムのために地は実りをもたらさないが、地はキリスト者のためには実りをもたらさなければならない。なぜなら、キリストは、アダムが失敗した統治を実現するために地上に来られ、今やその任務を、信じる者に委ねておられるからである。

 悪人の富は信仰による義人のためにこそ、蓄えられている。地はすべての富をキリストご自身に明け渡すためにこそ、蓄えているのである。彼らが己の欲のために富を蓄えていると思っているのは、勘違いに過ぎない。彼らが義人を虐げて不正な富を増し加えていると思っているのは勘違いに過ぎない。不正な罪人自身も含め、この地上にあるすべては結局、キリストに服従させられることになるのである。

 キリスト者は神の代理人として、霊的に地を治め、地の富の蓄えられている倉庫を開錠する権威を行使できる者である。特に不自然な努力を重ねなくとも、神にのみより頼み、御言葉のうちにとどまりさえすれば、最後には不思議とそういう結果になって、地上の不正な罪人らがキリスト者のために道を譲り、キリスト者のために奉仕し、不正を悔い改めて、その富を明け渡さなくてはならいような成り行きにすべてが進行する。そうなったときに、筆者がここに書いてあることが何だったのかも、分かるであろう。

 だが、これはキリスト者がこの世で権威者となることを意味しない。主イエスや弟子たちが地上にある間、あくまでこの世の経済的支配圏の外に立っていたように、キリスト者は、この世の支配に組み込まれない自由な人間として、それでも、この世の支配を超越した高み(天)から、この世の支配圏に対して権威を持って命じることのできる立場にある。

 このようなことを、筆者は人間的な思いで、あるいは高慢や支配欲もしくは復讐心などから言うのではなく、実際に、キリスト者には、貴い主の御名のゆえに、地を治める権威があって、その権威の前に、地の人々が従わなくてはならない、という秩序が存在することを知ってもらいたいがゆえに、述べているのである。筆者はおびただしい回数、それを見て来たのでそれが事実であることを知っている。

神を説き伏せることのできる祈りの五大条件(ジョージ・ミュラーの祈りから)

私たちは人生において、少なくとも幾度かは、絶対にこの願いを神に聞き届けてもらわなければ困る、という切迫した祈りを捧げる必要に迫られます。それは自分自身が危機から救い出されるためであるかも知れないし、あるいは、愛する者の健康や幸せのためであるかも知れません。いずれにせよ、その時、私たちが捧げ る祈りが、神に聞き届けられるかどうか、その是非は、私たちにとって生死を分けるほどの重大問題となります。

もちろん、私たちの願いの全てが必ずしも御心にかなったものであるわけではありません。しかし、神に聞き届けられる祈りというものが存在することは確かなのです。私たちが切迫した必要に迫られている時、また心のうちに強い願いを持つ時、信仰によって、確実に神に聞き届けられる祈りを捧げるためには、一体、 どうすればよいのでしょうか。私たちの生活態度は、心の状態は、その時、どうあるべきなのでしょうか。

偉大な信仰の人ジョージ・ミュラーから、祈りの秘訣を学ぶことができます。次のことをよく心に留めておきましょう。

「神を説き伏せるほどの祈りをする際の五大条件を、彼はいつも心に言い聞かせていた。

1 どんな祝福を求める際にも、主イエス・キリストの功績と仲保に全面的に依存すること(参照 ヨハネ一四・一三、一四、一五・一六等)。

2 すべての知っている罪から離れること。私たちの心によこしまなものが残っているなら、主は私たちに耳を傾けて下さらない。もし聞かれるとすれば、私たちの罪を容認することになってしまうからである(詩篇六六・一八)。

3 誓いによって堅くされた神の約束のみことばを信ずること。約束なさった神を信じないということは、とりもなおさず神を偽り者とし、偽証人としてしまうからである(ヘブル一一・六、六・一三―二〇)。

4 神のみこころと一致した祈りであること。私たちの動機は敬けんなものでなければならない。私たち自身の欲望を遂げる目的で、神にいかなる賜物を求めてもいけない(第一ヨハネ五・一三、一四、ヤコブ四・三)。

5 執拗に願いをささげること。農夫が収穫を求めて長い間忍耐強く待つように、私たちも、ただ神のために働くだけでなく、神の働きを待っていなければならない(ヤコブ五・七、ルカ一八・一~八)。

 以上のような原則をしっかり心に留めておくことは、いくら強調しても強調しすぎることはない。ここにあげた第一の条件は、大祭司であられるかたと一つに なるということで、これはすべての祈りの基盤である。第二は、罪を捨てるという祈りの条件の一つを示している。第三は、私たちが信仰によって、神のいます ことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを信じて、神に栄光を帰する必要性を強調している。第四は、神と同じ心を持つということであり、そうするこ とによって初めて、自分のために、また神の栄光を現わすために、何を求めればよいかを知るのである。最後の項は、祈りによって神にしがみつくことであり、 神が御手を伸べて祝福を与えて下さるまですがりつかなければならないことを教えている。

 このような条件が満たされないのに、神が祈りを聞き入れられるようなことがあるとすれば、それはご自身の栄光に傷をつけることである。またそれは、求め た人に対しても有害になる。もし人が自分の名により、あるいは自己義認、利己追求、または不従順な心で神に祈ることを奨励するようなことになれば、それは 罪の中に住むことを奨励し、そのうえに賞金を与えるようなものである。また、信じようともしない人の求めに応ずることは、その人があくまでも神の真実性を 疑い、約束を守られる忠実さを信用せず、結局神の約束のみことばと、それを保証される誓いとを侮辱することになるのに、それに対して目をつぶっておられる ようなものである。

実に、本質的にここにあげられたもの以外に、神を説き伏せる祈りの条件は一つとして存在しない。これは独断的な意志によってかってに決められたものではなく、神のご性質上、また人の益のためにも、どうしても必要なものなのだ。」
(A.T.ピアソン著、『信仰に生き抜いた人 ジョージ・ミュラー その生涯と事業』、いのちのことば社、pp.158-159)

ミュラーの挙げた五大条件に、一つだけ、追加しておきたい。

6.神にしか決して叶えることのできない、神の偉大さにふさわしい、真にダイナミックな願いを捧げること。信者の祈りが聞き届けられることによって、神の偉大さ、神の栄光、神の愛の深さが全地にあまねく証明され、地獄の監獄が揺るがされ、悪魔が敗北して色を失うような、スケールの大きな祈りのリクエストを出すことは、神が信者の祈りと信仰に心動かされ、祈りを聞き届けることによって満足されるための秘訣である。

隠れたところに住まわれる神

神は何と矛盾に満ちた存在でしょう!

神は栄光をお受けになるのを好まれる方です。
神が何かをなさる時、全世界に向かって、
誇らしげに、堂々とご自身をあらわされます。
神が行った奇跡は、どれもこれも、
歴史的に語り継がれる、偉大な事件ばかりでした。

クリスチャンの口が、ことごとく主を賛美することを、
神は喜ばれます。
被造物に至るまで、生きとし生けるもの全ては、
神を誉めたたえているのです。

けれども、不思議なことは、それでもやっぱり、
神は「隠れたところに」お住まいになることです。
世間が大々的に注目するところに、
神はご自身をあらわされません。
人々が騒いで落ち着かないところに、神は現れてくださいません。

だから、神を求める人は、戸を閉じて、静かなところに行き、
誰も見ていないところで祈らなければなりません。
人に見捨てられ、失敗に途方に暮れ、
孤独や困難に涙し、自分の無力に絶望しながら、
「それでも、私は主を信じます」と告白する時、
そのような瞬間、
自分の祈りが確かに聞かれているという感覚を
人はあまり持つことはないでしょう。

あたかも、神にさえ、見捨てられているかのような沈黙があるでしょう。
しかし、そんな時こそ、神はじっとあなたに目を留めて、
その祈りを聞いておられると思うのです。

不思議なことに、私の心は信じることができます、
主はそのような試練の時の私の祈りを、
とても貴重なものとして受け取られ、
喜んでくださると信じることができるのです。

だから、私はハレルヤと言うことができるのです。

神は何と不思議なお方でしょう。
御声を出せば、全世界がうちふるえるほど力強いのに、
たった一輪の花をさえ、無駄に吹き飛ばすことがなく、
私のように傷つきやすく、臆病で、弱い生命を、
細やかな感性を持って世話して下さるのです。

このお方に、幼子が大人の手にすがるように、
私はすがりながら、生きていきたいのです。
私は信じたいのです、このお方の
私への変わらない愛の深さと、偽りのない誠実さを。

主の御名を誉めたたえます。
主の真実を誉めたたえます。

順境にあろうと、逆境にあろうと、
神様がこの先、どんな道を私の人生に敷いて下さっているのか、
ただ楽しみです。

それは、主よ、私があなたを信じているからです。
御心が地に成りますように。

遅くなっても待っておれ、それは必ずやって来る(2)

ある姉妹が、自分の理想の家を手に入れるために、何年間も祈り続けたことを語ってくれた。この婦人とは、KFCで出会い、KFCに疑問を持って離れた後、交わるようになり、今すでに彼女はもうこの世の人ではないのだが、KFCで出会った人の中では、例外的に、主にある真実な交わりの何たるかを筆者に教えてくれ、そして心から筆者を愛してくれた本当の姉妹であった。

その彼女が、筆者を自宅に招き(それは素晴らしい家であった)、若い頃から、このような家が与えられるようにと、家の図面を書いて、主に願い続けて来たのだと話してくれた。むろん、色んな紆余曲折があり、どこに土地を買うのかなどで、誤った選択をしそうになったことも何度もあると言っていた。

姉妹が亡くなった後、ご主人にも会ったのだが、実際に、彼女はその家が与えられる前から、「まるでその家がすでにあるように話していた」とのことであった。

面白い姉妹であった。その姉妹のご主人は病気がちな人で、何度も、死ぬような大病に見舞われ、彼女はひやひやさせられるのだが、その都度、彼女の熱心な祈りと、不思議な方法で、夫の病気は回復するのだった。夫があまりに大病を繰り返し、いつもそのために姉妹が祈っていたので、まさか妻である姉妹の方が先に召されるとは、誰も考えていなかったに違いない。

基本的に、やむを得ない手術を除いて、薬は使わず、長く入院しての闘病生活も送らずに、自然な生活の中で夫の病気を治すというのが彼女の方針だったので、彼女は一生懸命、夫のための健康食に力を入れていた。一度は、結石が出来たとき、手術せずにこれを治すために、夫婦でジェットコースターに乗ったら、それで治ってしまった、などという話をしていたこともある。

「神様の知恵よ。こんな不思議な楽しい方法で神様は主人に『手術』をなさったのよ」などと、彼女が喜んで証していたのを覚えている。

この姉妹の話していた内容は、信仰を持っている信者にも、にわかには信じがたいと思うような内容が実に多かったが、筆者にはよく分かる。

話は変わるようだが、最近、筆者がペットを何気なく獣医に連れて行った時に、誤診に遭うという出来事が起きた。些細な怪我の治療のために、獣医へ連れて行くと、それをきっかけに、別件で手術が必要だと医者に言われたのである。

「ヴィオロンさん、これは問題ですね。これは先天性の病気ですよ。こんな問題を知らずに押しつけられたとは、あなたは可哀想です。」

と、そこまで医者は言ったのであるが、その言葉が、全くの誤診だったのである。この誤診がもととなって、大変なすったもんだが起き、あわやペットそのものも手放すかというほどの事態へと発展したのであるが、筆者はそのハプニングの途中で、それが悪霊からの攻撃であると気づき、嘘の不安を振り払って、事なきを得た。

ペットを筆者に譲った人の確認、セカンド・オピニオン、サード・オピニオンの結果、それが獣医の完全な誤診であり、筆者は全く悩む必要のないことで悩まされていたことが判明したのである。

結果的に、問題はすべて嘘のように消えてしまい、平穏が取り戻された。だが、混乱させられ、対応を考えていた時間は、損失であったと言えるかも知れない。さらに、もしも万一、筆者が一人の獣医の診断に従って手術を決行していれば、ただ単に余計な費用がかかっていただけでなく、臓器の一部を永久に摘出し、ペットの一生に関わる重大な悪影響を招いていたことになる。まさに筆者自身が何を信じるのか、ということが問われていた瞬間であった。

筆者は自分自身のためにはよほどのことがない限り、薬も飲まず、医者になど極力かからないタイプなのだが、ペットのためということになると、専門家の判断を無条件に信じてしまいそうになる心の弱さがあることに気づかされた。

そのような不安を入り口として、暗闇の勢力が信者に罠をしかける。獣医が悪意を込めて故意に誤診したとまでは思わないが、この出来事の背景には、筆者の平穏とペットの健康を破壊しようとの暗闇の勢力からの悪魔的な意図が働いていたことは間違いない。

そういう出来事は、今まで、この他にも数知れず、起きて来た。だから、筆者のみならず、神を信じる信仰者の生活には、誰しも戦いがあり、信者は自分の生活に対して悪魔のしかける絶えざる妨害と攻撃の意図を見抜き、それらを全て主の御名によって撃退しながら、自分自身と自分の管理下にあるすべての者たちの平和と健康と安全を守り抜かなければならない義務があると筆者は確信している。

霊感商法のように、人の不安を煽り、それをきっかけに深刻な災いへと発展させようとすることは、暗闇の勢力の常套手段である。そして、悪魔の最終的な狙いは、死をもたらすことである。医者までも、そのきっかけとして利用される危険があることが分かった。だが、そのような試みの最中で、神は常に信者の心に問われる。あなたは何を信じるのかと。

神は筆者に問われる。あなたが信じているのは、神の守りの完全さか、それとも、悪魔のもたらす不完全さと、その結果としての滅びなのか。すなわち、筆者がこれまでにも信じて来た通り、神は信じる者とその家族に完全な健康と幸福と安全を与えて下さり、全ての局面において、守って下さることを信じ切るのか、それとも、神は理不尽な病気を送ったり、思いもかけない災いを下したりして、信じる者の生活を苦しめ、絶えず悩ます存在だと考えるのか。常に筆者自身が、何を信じるのかを選択して行かなければならないのである。

筆者はこれまで自分の生活の全ての局面において、神の守りがあることを確認し続けて生きて来たが、以上のようなことがあってから、神の守りの完全性を、以前よりもなお一層、確信するようになった。そして、神以外のものに頼り、助言を求めようとする心の弱さを、徹底的に追い払って行ったのである。

たとえば、筆者は以前には、専門家と称する人たちに一定の敬意を持ち、定期的に医者にかかるのも良いことだと考えていたが、そのような考えをも改め、たとえ自分に専門知識があるわけでない分野のことであっても、目に見える人間の言葉よりも、まず第一に、まことの命と健康を保証して下さるただ一人の神に信頼を置く生活に切り替えたのである。
 
もし筆者が神を信じていない人たちに助言を求めるならば、その不信者たちを通して、悪霊が筆者の望んでもいない、御言葉にもそぐわない助言や指導をもたらし、それがきっかけで大変な混乱が生活にもたらされる危険がある。筆者はそのようにして不信仰な人たちに心を煩わされ、翻弄される余地を極力、排除して行ったのである。

だから、そういったことの結果、このブログでそれまで受けつけていたコメントや、設置していたアクセス解析の装置も、すべて取り払ってしまった。良い読者も悪い読者もみなそれによって筆者への応答の余地を失ったわけであるが、それをもったいないとも思わない。

以来、このブログは完全な一方通行になった。すなわち、地から天への一方通行である。このブログはもはや人に捧げられるものではなく、天に向かってのみ捧げられるものになったのである。

他にも、例を挙げれば、スカイプをやめ、以前に登録していた転職サイトのようなものもすべて退会してしまった。登録していると色々な企業からオファーが送られて来て、かつてはそれを見るのも楽しく、筆者を必要としている多くの場所がこの地上にはあるように思われて、悪くない気がしていたものだ。だが、そのようなオファーは、大抵、以上に挙げた獣医の誤診と同じように、全く筆者の望みとは関係ない方向へと筆者を誘導し、無駄な時間を費やさせるだけで、結局、人生で何の助けにもならないのである。

キリスト者は、自分自身の人生の主導権を決して他人には預けず、何もかも、自分の意志によって決断し、決定して行かなければならない。それこそが、統治するということの意味なのである。キリストは、人間的には無力で無知に思われる我々の存在を通して、ご自身の完全な統治を現したいと願っておられるのであり、また、我々の人生をも、我々と共に、統べ治めて下さる。だが、その統治が実現するためには、まず他者からの無用な助言や忠告によって、知らぬ間に自己決定権を奪われるようなきっかけを作らないことである。いたずらに人に頼らず、主導権を明け渡さないことである。そのようなことが起きうる心のきっかけを、とことん排除して行かねばならないのである。

それはちょうど冬が来ると、ロシア人が家のあらゆる隙間を目張りして埋めてしまうのに似ているかも知れない。ロシア人は隙間風を嫌う。冬の冷たい隙間風は人の健康を思いもしない形で損ない、万病のもとになると考えられているため、彼らは本格的な冬が到来する前に、家の窓や扉の隙間を完全に塞いで、外からの風が家の中に全く入りこまないようにしてしまうのである。

それと同じように、筆者は霊的隙間風が筆者の信仰生活に入って来ないように、侵入口を徹底的にふさいだ。その結果、筆者の霊の家には出口がなくなってしまった、ただ一つの方向を除いては。信者は言う、「たとえ信者にとって四方は塞がっていても、天に通じる扉はいつでも開いているのですよ」

そうなのだ。上にあるものを求めなさい、地上のものに心を惹かれてはならない、と、聖書にある通り、我々信仰者の扉は、地上の人々に向かってではなく、ただ天に向かって開いている。我々の心の扉は、天におられるまことの神に向かって開いてさえいればそれで良い。専門家だとか、助言者だとか、教師だとか名乗ってやって来る人々に心を預けても、ほとんどの場合、願っている解決は来ないどころか、とんでもない結末が待ち受けているだけである。

我らのただ一人の助言者、救い主に、常に相談できる特権が与えられていることは大いなる幸いである。この方から、我々は必要な解決のすべてをいただくことができる。たとえ時に、神から来る解決が、遅いように思われ、かなり長い間、待たなければならないことがあったとしても、神はすべてに間に合い、すべてに十分に行き届く方である。

神には遅いということはないし、手遅れということもない。悪魔の囁きに負けて、人間的な不安を煽られて、取り返しのつかない性急な判断をしないことである。ただこの方に信頼し、この方にすべてを打ち明け、力となり、解決となっていただき、健やかに生きるのが、人にとっては最も安全な策である。
  

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー