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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

悪魔と暗闇の勢力に対する容赦のない裁き―神は罪人らが悔い改めて癒されることのないよう、彼らの心を頑なにされる―

「この獣にはまた、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。そこで、獣は口を開いて神を冒涜し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒涜した。」(黙示13:5)

「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」(黙示21:6-8)
 
オリーブ園にちょっと不思議な記事が掲載されている。

これまでずっとオースチン-スパークスの連載が続いていたのだが、途中に以下のエバン・ロバーツの記事が掲載されているのだ。

戦いに関する光

悪魔の白旗に注意しなさい!それは戦いを停止させるための休戦の旗なのです。悪魔は出来ることなら何らかの方法で入り込み、まさにカナン人がヨシュアにしたように、教会を自分に妥協させようとします。危険なのは戦いが終わる前に妥協して、戦いをやめることです。暗闇の力に対していかなる妥協、あわれみ、同情もあってはなりません。

 悪霊どもは知性と交信することができますが、接触するのは霊です。霊に接触し、知性と交信するのです。これがあなたが大いに警戒しなければならない理由であり、あなたが大いに戦わなければならない理由です。悪霊どもは足がかりがあろうとなかろうと、実際に霊に接触します。あなたがあなたの霊の中にあればあるほど、ますますあなたは悪霊どもと接触するようになります。あなたの霊を守りなさい。あなたが自分の霊を正しい状態に保つなら、あなたの霊はまさに船の緩衝材のように働きます。船が港の岸壁に衝突しても――緩衝材がその衝撃を散らしてくれるのです。

 悪霊どもの大目的は悪です。悪霊どもがある人の外側にいる時、悪霊どもが行いたいことをその人が理解し、願い、遂行するという保証は彼らにはありません。しかし、もし悪霊どもがその人の中に入り込むことができるなら、悪霊どもはその人に自分たちの行いたいことを行わせることができます。悪霊どもの大きな願いは、その人に自分たちの意志を遂行するよう強いることです。悪霊どもが人に取り憑く時、その主な現れは強制です。あるいは、悪霊どもが取り憑く主な目的はこれなのかもしれません。取り憑くことにより、悪霊どもは安堵するのです。

エバン・ロバーツ


 この記事は前後の記事がないため、言わんとしていることの具体的な意味がそれほどまでに明瞭ではないが、筆者はこの記事の内容に心を留める。

 以上の記事が具体的に何かを指して言われたのかどうかは分からないが、筆者は、カルト被害者救済活動の偽りと対峙する時、「暗闇の力に対していかなる妥協、あわれみ、同情もあってはなりません。」という忠告は、まさに当てはまるものだと思う。

 このところ、カルト被害者救済活動の支持者には、警察から、刑法に違反し、人権を侵害する記事を取り下げるよう、連日、警告が行われていた。ところが、当初は記事を取り下げることに同意していたその人物は、その後心を翻し、記事を掲載し続ける意向を示している。

 ついに、警察の忠告にまで逆らう意向を示したのだ。だが、そうしたことも、いわば、織り込み済みの事実であったと言える。なぜなら、この人々は今までずっと「市民社会の掟」を振りかざしては、クリスチャンが非常識な存在であるかのように断罪して来たとはいえ、本当は、彼らの正体こそ、最も非常識かつ反社会的な勢力だからだ。

 神の教会に敵対して立ち向かいながら、この世の社会にだけは色の良い顔をすることは不可能なのである。

 もうしばらくすれば、彼らは警察に対しても正体を現し、彼らがこれまで何か貴いものであるかのように振りかざして来た「市民社会」そのものを冒涜し、踏みつけにするだろう。そして、自らの強情さによって、可能な限りの手下を滅びの運命に道連れにしようとするだろう。

 しかし、彼らの計画は中途で打ち砕かれる。

 まだ終わりの時は来ていない。バベルの塔の建設が完成に至ることはなく、必ず、それは離散で終わると相場は決まっている。

 従って、今回、彼らが警察の忠告まで振り切って行動したことは、神のご計画の範疇なのである。つまり、神ご自身が、彼らの心を頑なにされたことをよく示している。

「この民のところへ行って言え。
 あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。
 この民の心は鈍くなり、 
 耳は遠くなり、
 目は閉じてしまった。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
 耳で聞くことなく、
 心で理解せず、立ち帰らない。
 わたしは彼らをいやさない。」(使徒28:26-28)

 これまで幾度も述べて来たように、神は、ご自分で癒そうと考える者の心を柔軟にし、癒すつもりのない人間の心を頑なにされる。

 心を頑なにされた人間には、悔い改めて神に立ち返って罪赦される可能性が失われる。人間的な観点から見ても、情状酌量の余地がなくなり、その後は徹底的な滅びへと向かって行くだけになる。
  
 筆者は、こうした事態を見ながら、やはり悪魔と暗闇の勢力は、自分の手下となった人物に対する使い捨ての法則を貫き、その人物から情状酌量を受ける余地を完全に奪い去り、徹底的な破滅へ追い込むものだという確信を強めている。

 こうして、また一つまた一つと彼らの新たな罪状書きが増えて行く。だが、それでも筆者は知っているのだ、彼らが何を考え、どう行動し、何を宣言しようと、結論は最初から決まっていると。

 結論が決まっているからこそ、彼らは当初から、筆者やクリスチャンに対してこれほど激しい憎しみを燃やし、自分の運命に抵抗して来たのである。

 それは、筆者自身の中にある神の御霊が、彼らの目から見てそれほどまでに重大な脅威だったためである。
 
 ところで、筆者は以前にある人が刑事告訴され、逮捕されたいきさつを間近で見ていたことがあるため、そういう事件の進展の仕方と、訴えられた人がどうなるのかも知っている。

 その当時の筆者は、まだとても未熟な信者で、人間的な対立を可能な限り避けて、すべてを当事者同士の話し合いで解決できるものと信じていた。だから、最後の最後まで、事件などにはせず、何とか話し合って和解できないかと、関係者に呼びかけていたのである。

 すると、告訴人に当たる人物が、筆者に向かって言った、「ヴィオロンさん、あなたがそこまで言うのなら、あなた自身が私たちの話し合いに立ち会ってもらえませんか?」

 それは何度目かの和解の呼びかけがすべて拒否された後の出来事であった。

 今から考えれば、筆者にはその提案を受ける筋合いはなかったのだが、筆者はその当時、あまりにも未熟であったがゆえに、どこかに和解の道が残っているに違いないと信じ、彼らを思いとどまらせるべきと考えていた。そして、自分としてできることをすべてしようと思い、説得する材料となりそうな土産物まで持って、車に乗り込んだのである。

 ところが、我々の出発直後に、警察からストップがかかった。「行ってはいけません。ここから先は我々に任せて下さい。」

 まさにそれは天の守りもしくは介入だったものと思う。その当時、いかに筆者が未熟で愚かな信者であったにせよ、神は筆者を守って下さり、筆者が超えてはならない一線を踏み越えて、足を踏み入れるべきでない領域に介入することがないよう、すべてを采配して下さり、筆者を力づくでその事件から遠ざけたのであった。

 結局、筆者はその当事者に会うこともなく、説得に赴くこともなく、その人物が誰なのかさえも知らないまま、時が過ぎ、その人物が間もなく逮捕されたことを聞かされた。その逮捕が当人にとってどれほど測り知れない衝撃であったかも知らされた。

 いわば、事件になったその時から、筆者が何を言ってみたところで、そういう顛末を辿ることは最初から決まっていたのだと言える。話せばきっと思いは通じるだろうといった浅はかで子供じみた感情的な次元の対立ではなかったのである。

 この出来事を通して、筆者は初めて、人が力づくで拘束されることや、それによって生活を奪われ、社会的名誉も失い、自分の書いたもののすべてが強制的に削除され、以後、どこにも何一つ意見発表できなくなり、完全な沈黙に追いやられ、人としての活動を失うということの意味を、傍観者の立場を通してだが、はっきりと目撃したのであった。

 現在の日本社会では、男性にとっては特に、容疑を受けて身柄を拘束されること自体が、社会生活のほぼ完全な破滅を意味すると言っても差し支えない。人々は自分が告訴されたと分かっただけでも、職場を辞めたりする。その後の顛末がどうあれ、関係者に迷惑をかけないためである。冤罪事件で逮捕された人も、後になって、それがどんなに自分の生活に重大な悪影響を及ぼす出来事であったかを繰り返し語る。

 筆者は、以上の事件には、話し合いで物事を解決する道がなくなって以後、全くと言って良いほど関与もしておらず、もっと言えば、最初から何の関係もなかったのだが、関わらなくなって以後も、以上の事件で逮捕された人が、立ち直ったという話を二度と聞かない。本人のみならず、関係者からも、その人が一体、どうなったのか、全く話を聞かない。生きていたとしても、死んでいるも同然のごとく、噂が全く絶えてしまったのである。

 だが、そうなったのは、以上の事件だけがきっかけではなかったものと思われる。その人は、有罪になることを免れる目的もあってか、心神喪失を主張していたらしいが、その過程で、多分、自ら主張した病が現実になってしまったのだろうと思われる。

 これまでに何度も警告して来たことであるが、クリスチャンは、絶対に自分から病にかかっているなどと宣言してはいけない。病は火遊びの相手としてはあまりにも危険すぎ、断固、拒否しなければ、些細な入り口から侵入して、全身を燃え上がらせて灰にしてしまう。

 だが、その人には初めから、病に徹底的に立ち向かう姿勢が見られなかった。それだけではなく、呪いに対しても、毅然と立ち向かう姿勢がなかった。その結果、自ら信じたことがその身に成就してしまったのである。

 信仰に立って最後まで抵抗すべきであった。自らを被害者の立場に置くのでなく、神がすべての呪いを身代わりに背負って下さったことを信じて、抵抗すれば、すべての縄目は絶ち切れていたであろうし、むろん、早期に和解もできていたに違いない。
 
 この出来事は、筆者にとって、非常に暗示的であり、教訓的であった。それまでの筆者は、この事件に限らず、強制力を用いて人間の意志が打ち砕かれる瞬間を、一度も見たことがなかったためである。

 また、病が徐々に人を滅ぼして行くように、ある時点まで、普通に行動していた人間が、ある時点を境に、強制的に社会から隔離され、生活を送れなくなるまでに追い込まれるという現象も、見たことはなかった。しかも、信仰者の世界では、なおさらそんな事件は目にしたこともなかった。

 だが、そうした事件を目撃しつつ、筆者が思わされたのは、罪人に対する神の裁きの容赦のなさであった。この世には永遠に至るまでの刑罰はないが、それでも地上の刑罰にも、永遠の予表としての意味はある。

 神は罪人、悪魔、暗闇の勢力に対して、最終的には、容赦のない裁きを宣告されて、彼らを強制的に隔離・排除・処分される。

 神はしばらくの間、人に猶予を与えておられ、選択の自由も、行動の自由も与えておられるが、人がその自由を悪用し、いつまでも福音に背を向け、聖徒らの説得に全く耳を貸さず、神を冒涜し、神の教会やクリスチャンを冒涜し続ければ、その人の末路は悪魔と同じようになるであろう。

 筆者は、カルト被害者救済活動の支持者らが、筆者を呪い、いわれなく罰し、社会から隔離しようと企んでいたその悪意をよくよく知っている。彼らは罪もない筆者を、いわれのないことで呪い、罰したかったのであるが、その計画は成らなかった。

 筆者は神の義に立っているためである。

 筆者はずいぶんたくさんのいわれのない悪意や、彼らの発する呪いの言葉に直面したが、それでも、筆者のために呪いとなって木にかかって下さった方を知っているため、そういう呪いの言葉が、筆者に対して効力を持たないことをよく知っている。
 
 そして、実際には、クリスチャンではなく、カルト被害者救済活動の支持者らこそ、罰せられるにふさわしい人たちなのだということも知っている。筆者がそのことにはっきりと気づいた以上、彼らは、この先、その運命を免れることはできない。

 そのことは、筆者が何年も前から当ブログで予告して来た通りである。筆者は何年も何年も前から、彼らは刑罰を受けなければならない、ということを主張して来た。一緒になって罪を犯して来た者たちも同様である。その当時は、そうした日が来るとは、多くの人たちは思っていなかったかも知れないが、実際に、その言葉は現実に成就するであろう。
 
 彼らの自らの罪を認めようとしない強情さ、頑なさが、人間の理性や常識や思いをはるかに超えていることを見るにつけても、筆者は日一日と確信するようになっている、この人たちは間もなく拘束されて、強制的に排除されることを免れられないだろうと。

 以上で挙げた事件の際にも、警察の制止が入ったことにより、その人物が完全に筆者の手の届かないところに隔離され、その後、永遠に関わることがなくなった時と同じように、今、この時点を境として、カルト被害者救済活動の支持者らは、筆者から霊的に隔離され、筆者は彼らの運命を何とか取り戻そうと、これ以上、説得したり、呼びかけたり、関与することのできない立場に置かれたのである。

 それは、彼らが暗闇の勢力に連行され、外の暗闇に投げ込まれることが確定したためである。

 彼らの心をそこまで頑なにされたのは神である。それは、彼らの末路が悲惨なものとなることが、いかなる情状酌量の余地もなく、公然と世に表されるためである。

 神は彼らの心を徹底的に頑なにされることにより、神と教会とクリスチャンに立ち向かう人々の末路が、たとえようもなく悲惨なものであり、そこには情け容赦の余地が一切なく、後戻りの可能性もないことを、公然と世に示されようとしているのであり、また、神の容赦のない裁きが、現実に存在することを、信仰を持たない人々も含め、この世のすべての人々の見ている前で、証明されようとしているものと筆者は思う。

 悪魔と暗闇の勢力に立ち向かう戦いの中では、いかなる妥協、憐れみ、同情も持ってはならない。そのような激しい決戦が行われるために、筆者の助言も忠告も和解の呼びかけも、何一つ彼らには届かず、彼らの目は曇らされ、その耳は聞こえなくなり、背は曲がり、心は頑なにされたのである。それは彼らが誰からもいかなる憐れみも受けず、一切の免罪の可能性を奪われるためである。

 以前にも、筆者は当ブログにおいて、彼らを「サタンに引き渡す」と宣言した。それは「あなたのしようと思うことを今すぐしなさい」という言葉と同じ意味である。その後、間もなく、その宣言は現実になり、彼らは一線を超えて自分自身の人生を破滅させる行為を行った。だから、今回の宣言も、間もなく実現するだろう。

 筆者はここでいかなる情け容赦もなく、カルト被害者救済活動の支持者らを、暗闇の勢力に引き渡して連行させ、二度と聖徒らの世界に手を触れることのできないところに隔離すると宣言しておく。

 筆者が「暗闇の勢力に引き渡す」と言っているのは、この世の強制力は、本質的には、堕落した力であり、神に由来するものではないことを知っているからだ。以前に、現代の世の中で、誰かがステパノを石打にして殺せば、石打にした人々は殺人罪に問われるだろうと書いた。このように、この世のことは、この世が裁くのである。はっきり言えば、この世の裁きには、神の裁きのような容赦がないので、この世の裁きに服するよりは、神の裁きに服した方が、圧倒的に生きやすい。
 
 手続きは放っておいても粛々と進んで行く。病が徐々に進行して、人の肢体から自由を奪うように、砂時計の砂が徐々に落ちるように、時を追うごとに、彼らの自由は失われる。病が進行すれば、病人はいずれ口もきけなくなるように、彼らの発言には何の効力もなくなり、お伺いを立てる者もいなくなる。

 彼らのためには、この先、真っ暗な闇が用意されているだけだ。それは彼らが聖徒らのいかなる猶予にも和解の呼びかけにも全く応答しなかったためである。


<追記>
 2018年2月に、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師率いるカルト被害者救済活動の中心メンバーの一人であった「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が、当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された。村上と杉本の活動に深い関連性があることについては以下の記事等を参照。

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実


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聖なる都、新しいエルサレムとしての教会より、小羊の血潮と証の言葉により、悪魔の言いがかりを退ける

「義人の道は、あけぼのの光のようだ。 いよいよ輝きを増して真昼となる。」(箴言4:18)

何年も前から、当ブログがカルト被害者救済活動の支持者たちから被害を受けて来たことは、すでに幾度も書いて来たことであるが、この件で、警察が具体的に動き出したので報告しておきたい。

以後、加害者らに対しては、彼らが再三、強調して来た「市民社会の掟」に基づき、責任追及がなされることになる。反省のための猶予も、和解のためのチャンスも、十分に与えたが、それを再三に渡り、拒否したのは向こう側であり、これから起きることは、彼らが自分自身で招いた結果である。約9年間もの間、深刻な被害をこうむって来た筆者に、憐れみを求めるのは無駄なことである。

こうして、キリスト者は一歩、一歩、地歩を固め、陣地を取り返して行く。これは霊的支配権の激しい争奪戦であり、退くことのできない戦いである。

悪魔の策略は、キリスト者に「この世のすべてが当てにならず、誰一人頼りにならず、神もなければ、正義も真実もなく、絶望するしかない」という錯覚を吹き込み、他者の犯した罪をいわれなく背負わせた上、望みを放棄させて死へ追い込むことにある。

だが、実際に行動してみれば分かるが、世の中には神も正義も真実も存在するのだ。特に、キリスト者にあっては、確実に存在するのだ。欺かれてはいけない。いかにこの世が堕落した悪魔の支配下にあるとはいえ、キリストの復活の命は、この世の秩序を超越してすべてを支配する。愛する御子の王国へ移し出された我々には、悪魔の支配下に置かれなければならない筋合いはない。なぜなら、キリストは十字架において、悪魔をすでに打ち破られたからだ。

そういう意味で、我々に関する取り扱いはこの世の一般人と同じではない。この世の一般人であれば、正義も真実もないと考えざるを得ないような状況でも、我々のためには、神ご自身が生きて働いて下さる。従って、孤立無援の状況に置かれているのは、キリスト者ではなく、暗闇の勢力なのである。

筆者はここで、教会から被害を受けたとする元信徒らを募っては、彼らの怨念を煽り立て、牧師でもなく教職者でもない一般の元信徒を矢面に立たせる形で、教会に対立させ、筆者のような、地上の教団教派とは一切無関係のクリスチャンに対してまで、いわれのない迫害に及ばせたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏の責任は限りなく重いということを、改めて強調せざるを得ない。

村上密氏の思想と活動の影響がなければ、カルト被害者救済活動の支持者らがこのような行為にまで至ることは決してなかっただろうと言える。

津村昭二郎氏と言い、村上密氏と言い、(筆者は牧師制度そのものに反対だが、その誤った牧師制度の中でもことさらに)牧師の道に外れた人々ばかりが登場して来る異常なアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を、筆者が子供時代に去ったのは、今から考えても、まことに正しい決断であったと思わざるを得ない。

筆者は信仰こそ捨てず、むろん、これからも捨てるつもりは一切ないが、聖書の真理とは別に、地上の組織がどんなに誤りに満ちたものであるかは、この教団で初めて思い知ったと言えよう。

村上密氏の活動の本質は、幾度も述べて来たように、神の教会の破壊にこそある。別な言い方で言えば、キリストの花嫁たる神の教会を断罪し、冒涜し、蹂躙し、呪うことにある。同氏の思想に突き動かされた人々が、教会に対する怨念を募らせ、一線を超えて、筆者のように教会の不祥事とは何の関係もない無名のクリスチャンに対してまでいわれなき迫害に及び、結果として自ら人生を滅ぼしたのである。

筆者は彼らの活動の偽りに立ち向かいながら改めて思う、彼らが筆者に浴びせて来た言葉は、誹謗中傷というより、まさに「呪い」であると。彼らは筆者を呪い、死へ追いやることを願って、数々の汚し言を浴びせて来たのである。しかし、その圧迫は、御子の血潮によって断ち切られ、呪いはこれを口にした本人に跳ね返る。

彼らにはダビデの祈りである詩編109編をお返ししよう。1編まるごとお返ししておくので、きちんと聖書を開いて、何が書いてあるのか、全文目を通し、声に出して朗読されたい。忍耐強いダビデも、どんなに愛や憐れみを持って接しても、憎しみと偽りを持ってしか答えようとしない霊的な敵に対しては、ついに次のようにまで厳しい宣告を告げざるを得なかったのだ。

「わたしの賛美する神よ。
 どうか、黙していないでください。
 神に逆らう者の口が
 欺いて語る口が、わたしにむかって 開き
 偽りを言う舌がわたしに語りかけます。

 憎しみの言葉はわたしを取り囲み
 理由もなく戦いを挑んで来ます。
 愛しても敵意を返し
 わたしが祈りをささげても
 その善意に対して悪意を返します。
 愛しても、憎みます。

 彼に対して逆らう者を置き
 彼の右には敵対者を立たせてください。
 裁かれて、神に逆らう者とされますように。
 祈っても、罪に定められますように。

  彼の生涯は短くされ
  地位は他人に取り上げられ
  子らはみなしごとなり
  妻はやもめとなるがよい。
  子らは放浪して物乞いをするがよい。
  廃墟となったその家を離れ
  助けを求め歩くがよい。
  彼のものは一切、債権者に奪われ
  働きの実りは他国人に略奪されるように。
  慈しみを示し続ける者もいなくなり
  みなしごとなった彼の子らを
  憐れむ者もいなくなるように。
  子孫は絶たれ
  次の代には彼らの名も消されるように。
  主が彼の父祖の悪をお忘れにならぬように。
  母の罪も消されることのないように。
  その悪と罪は常に主の御前にとどめられ
  その名は地上から断たれるように。

 彼は慈しみの業を行うことに心を留めず、

 貧しく乏しい人々
 心の挫けた人々を死に追いやった。

 彼は呪うことを好んだのだから
 呪いは彼自身に返るように。
 祝福することを望まなかったのだから
 祝福は彼を遠ざかるように。
 呪いを衣として身にまとうがよい。

 呪いが水のように彼のはらわたに
 油のように彼の骨に染み通るように。
 呪いが彼のまとう衣となり
 常に締める帯となるように。

 わたしに敵意を抱く者に対して
 わたしの魂をさいなもうと迫る者に対して
 主はこのように報いられる。

 主よ、私の神よ
 御名のために、わたしに計らい
 恵み深く、慈しみによって
   わたしを助けてください。

 私は貧しく乏しいのです。
 胸の奥で心は貫かれています。
 移ろい行く影のようにわたしは去ります。
 いなごのように払い落されます。
 断食してひざは弱くなり
 からだは脂肪を失い、衰えて行きます。

 わたしは人間の恥。
 彼らはわたしを見て頭を振ります。
 わたしの神、主よ、わたしを助けてください。
 慈しみによってお救いください。
 それが御手によることを、御計らいであることを
 主よ、わたしを助けてください。
 慈しみによってお救いください。
 
 それが御手によることを、御計らいであることを
 主よ、人々は知るでしょう。
 彼らは呪いますが
 あなたは祝福してくださいます。

 彼らは反逆し、恥に落とされますが
 あなたの僕は喜び祝います。
 わたしに敵意を抱く者は辱めを衣とし
 恥を上着としてまとうでしょう。

 わたしはこの口をもって
  主に尽きぬ感謝をささげ
 多くの人の中で主を賛美します。
 主は乏しい人の右に立ち
 死に定める裁きから救って下さいます。
(詩編109)


カルト被害者救済活動の支持者らは、未だに心ない牧師や教会が、被害者の信徒を死に追いやったかのように主張して、牧師に謝罪や反省を求めている。しかし、筆者はここではっきりと言っておきたい、カルト被害者救済活動に携わる者こそ、その元信徒から信仰を根こそぎ奪い去り、死に追いやった最大原因であると。

カルト被害者救済活動の支持者らは、決して自称被害者の立ち直りに貢献しない。彼らの仕事は、被害者を永久に被害者のままにして置くことである。そして、あわよくば、その者が受けた被害を苦にして自ら死を選ぶよう仕向けることである。

彼らが決して自分のもとへやって来たどんな信徒の解放も願っていないことは、一度でも彼らのもとを訪れた筆者を逃がすまいとして、彼らが行って来た数々の行為を見れば明白であろう。

弁護士が、紛争が長引けば長引くほど儲けになるのと同じように、この人々は、カルト被害者の被害がいつまでも永遠に長引き、被害者の立ち直りが永遠に不可能となり、教会を断罪する材料がより一層増え、それが自らの手柄となることを願っているのであり、そのために、相談にやって来た人々の打ち明けた些細な被害を、針小棒大につつき回し、どんどん膨らませて、死に至るほどまでに苦しみを増し加え、負担を重くして行くのだ。

元信徒が自殺でもすれば、彼らにとってはまことに好都合で、また一つ、牧師や教会を責め立てる材料が増える。そんな状況で、どうして彼らが被害者の元信徒の心の回復になど真に注意を払おうか。

従って、筆者ははっきりと言っておく、被害者信徒を殺したのは牧師でも教会でもない。その者の死の責任は、カルト被害者救済活動の支持者にこそあり、また、そうした人々の言い分にまんまと欺かれて、聖書の神への信仰を捨てた者自身にあると。

村上氏は、自殺者を擁護して、自殺者は天国に行けないとか、自殺を罪とするキリスト教の考え方は誤っていると記事で語る。

「法律では自殺を罪としていない。聖書の中でも自殺を罪としていない。自殺を罪とするのは、習慣的な考え方である。この習慣が自殺をした人の遺族を苦しめる原因になっている。作られた罪意識が、人を苦しめるなら、私たちはそれを変えていかなければならない。鬱の回復期の自殺を罪と見做すのは酷である。自死を選択するほどに追い詰められた状況、原因にも目を向けるべきだ。よって、私は自殺を罪とするキリスト教的な教えを聖書の教えと違うものと見做している。」

要するに、村上氏が言いたいのは、追い詰められて死を選んだ自殺者を責めるのは酷であり、また、自殺者の遺族がいつまでも罪悪感に苦しめられるのも可哀想だから、キリスト教の伝統に従って、自殺を罪とする考えは、残酷で間違った考え方だと思うということなのである。どこからどう見ても聖書に基づかない全くとんでもない話である。

これは要するに、罪意識が人を苦しめるから、罪意識自体があるべきでないと言っているのと同じで、もっと言えば、罪という概念そのものが、人を残酷に苦しめるものだから、なくしましょうと言っているのと同じで、滅茶苦茶な理屈だ。

別なたとえで言えば、痛みの感覚が人を苦しめるから、人から神経そのものを取り去って、痛みを全く感じないようにしましょうと言っているのも同然で、痛みの感覚がなくなれば、人はますます鈍感になり、身の危険を察知することもできなくなり、重症の被害を受けても、全く分からず、死に至るだけだ。

罪意識は、痛みとよく似て、人が逸脱していることに気づくための重要なサインである。それがあればこそ、人は罪を犯さないように自制することができるし、過去を振り返って反省もできる。にも関わらず、罪意識が人を苦しめるからと言って、これを否定すれば、人はどんなに恐ろしい罪を犯しても、鈍感で、無感覚になり、ますます人間性を失って、獣のようになり果てて行くだけである。

もし自殺について、非難すべき対象があるとすれば、自殺を罪と見なすキリスト教を非難するのではなく、人を死においやる悪魔をこそ非難すべきであるのに、村上氏は転倒した理屈で、悪魔を非難せず、かえってクリスチャンを非難するのである。

村上氏がこのようにして、常にキリスト教を罪に定め、キリスト教が、この世の不信者に持たせる罪意識を、あるまじきことのように訴え、不信者を擁護しながら、かえって、信仰を持つキリスト者に、巧みに罪悪感を持たせようとしているトリックに注意する必要がある。

村上氏の理屈は、常にこのように、聖書とはさかさまである。要するに、その主張は、神がキリストの十字架を通して罪赦されたクリスチャンに再び罪悪感を持たせ、罪に定めようとする一方で、信仰を持たず、神の目に罪赦されているはずのない世人の罪悪感をやわらげ、世人の罪を免罪しようとするものだ。

こんな支離滅裂な主張に長い時間をかけて反駁する必要はない。聖書は言う、

肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。」(ローマ8:6-7)

「肉の思い」である「死」を擁護する村上氏が、「神に敵対しており、神の律法に従っていない」ことは明白である。村上氏は「私は自殺を罪とするキリスト教的な教えを聖書の教えと違うものと見做している。」と言いながら、聖書が自殺を奨励したり容認したりしているとする具体的な根拠を何一つ挙げない。それも当然だ。そんな聖句があるはずもないのだから。

従って、このような考えの人物のもとに身を寄せた被害者たちが、村上氏の考えに触発されて、次々と信仰を捨てて、自殺を選んで行くとしてもそれは当然である。

このような反聖書的な思想に触れれば、人は自殺を罪とも思わなくなって、死に抵抗感がなくなり、周りの人々をどんなに苦しめることになるのかにも思いが至らず、ただ自分が楽になりたいという思いだけで、率先して死を選ぶようになるだろう。あらゆる苦難に信仰を持って勇敢に立ち向かい、キリストの勝利を生きて味わおうとする望みを捨てて、すすんで死に至るのはまさに当然である。

だから、クリスチャンは、こうした信仰のかけらもない人々による断罪を決して真に受けて懺悔させられてはいけない。被害者の元信徒が自殺を選んだとしても、それは自己責任である。また、自殺を選ぶように唆した人々に罪がある。責められるべきは悪魔と暗闇の勢力とカルト被害者救済活動の支持者であって、クリスチャンではない。

カルト被害者救済活動の支持者らが、このように、元信徒に生きる力を失わせるような反聖書的思想を自ら吹き込んでおきながら、その罪をクリスチャンに転嫁して、「キリスト教が自殺者を罪として責めるのは残酷だし、遺族が可哀想」などと、同情を装いながらうそぶていること自体、笑止千万としか言いようがない。

神を知らない世人が自ら死を選ぶなら、まだ情状酌量の余地も残るかも知れないが、キリスト教徒となって信仰を持ち、聖書の御言葉を知って、神に従うことを選んだにも関わらず、自ら死を選んだとなれば、世人よりももっと重い責任に問われるのは避けられないだろう。

どんなに追い詰められた状況であっても、ごくわずかな信仰でも残っていれば、神はその信者を救うことがおできになる。多くの霊的先人は、信仰を守り通すためにも、究極的に追い詰められた状況を何度もくぐった。あらゆる状況で、神の助けを信じるか、信じないかは、あくまで本人の決断なのである。

にも関わらず、追い詰められた人々に、信仰によって立ち上がるよう促すどころか、最後のなけなしの信仰までも失わせるような偽りを吹き込み、容赦なく心傷つけ、「貧しく乏しい人々心の挫けた人々を死に追いやった」罪は、クリスチャンではなく、カルト被害者救済活動の支持者たちにこそある。

そこで、筆者はあらゆるクリスチャンに、村上氏の主張のトリックを見抜き、罪悪感を持たされないように注意するよう呼びかけたいと同時に、村上氏のブログで深刻な人権侵害を受けた大勢のクリスチャンらに向かって言いたい。同氏と直接の話し合いで物事を解決しようとするのをやめて、第三者を介入させて、早期に具体的に手を打つようにと。わざわざ弁護士などつける必要はない。市民としてのアクションで十分である。

信徒には信徒のレベルで向き合えば十分だが、牧師には牧師のレベルで向き合う必要がある。おそらく、村上氏の牧師としての逸脱行為を主張するに最もふさわしいのは、同氏から最も深刻な被害を受けた同僚の牧師たちであり、また、鳴尾教会に他ならないのではないかと筆者は考えている。

さて、繰り返すが、村上密氏の活動は初めから反聖書的な特徴を持つものであった。もともと「教会のカルト化を防ぐ」とする村上氏の活動は、同僚の牧師や、信徒らの恥や欠点を容赦なく暴き出しては、世間の前で断罪することでしか評価を得られないという欠陥を持っていた。しかも、この活動は、最初から、クリスチャンではない、信仰を持たない世間に、クリスチャンの非を見せつけて、この世の観点から、クリスチャンの行動の是非を裁き、それによって、信仰を持たない世間から評価を得ようとするものであった。

そのようにして、兄弟姉妹の恥を容赦なく不信者の前で暴露し、不信者の観点に立って信者を罪に定めようとする活動が、どうして、聖書に合致するものとなり得よう。また、どうして聖書の説く信仰による兄弟姉妹への愛や憐れみに基づく活動となり、同僚や信徒のプライバシーを尊重せねばならない牧師の職業倫理と両立し得ようか。

だから、村上氏がライフワークとしている、カルト化問題をきっかけとした諸教会への介入は、初めから、牧師としての職務を逸脱しており、反聖書的で、悪魔的な活動に終わることが明白な活動であったと言える。牧師がなさなければならないのは、福音伝道であって、被害者を募っては、自分が所属もしていない教会を訴えることではない。

そんな活動は、牧師の職務の範疇には全く含まれていない。この世の人々でも、牧師が牧師を訴え、信者が信者を訴えるような活動には疑問を感じ、共感も理解も示さないだろう。そのような活動は、ただ同士討ちを奨励するものでしかない。

カルト被害者救済活動の支持者らは、もともとクリスチャンではなかったと筆者は考えている。周知の通り、筆者は何度も「兄弟」として彼らに和解を呼びかけたが、彼らは最後までその提案をことごとく踏みにじり、嘲るだけであった。そうした彼らの行動からも、彼らには信仰によって結ばれた(はずの)兄弟姉妹に対する、いかなる愛情も、思いやりもないことがよく分かる。従って、彼らは信仰を持っておらず、我々の同胞でもないのである。そうであれば、当然、我々も彼らを同胞として扱う必要がなく、教会の方法で向き合う必要もなく、この世の方法で向き合えば十分であり、同胞としての情けは無用である。

繰り返すが、牧師であるにも関わらず、諸教会に敵対し、同僚を訴え、信徒を訴え、信者のプライバシーを暴き、中傷するような活動は、牧師の活動とは呼べないだけでなく、神と教会に敵対する極めて恐ろしい行為であると筆者は思う。彼らが相手にしているのは、この世の罪人ではなく、神が贖われたクリスチャンなのだ。従って、その活動には、神ご自身を敵に回すも同然の言い知れない恐ろしさがあり、どんなに厳しい裁きが待ち受けているであろうか。

カトリックのような統一的なヒエラルキーのないプロテスタントの教会には、それぞれの教会の自治があり、規則がある。それは尊重されなければならない各教会の「聖域」である。牧師や信徒は、諸教会にそれぞれ定められた規則を尊重すべきであって、自分が所属してもいない教会に、各教会の規則を踏み越えてまで、介入することは許されない。そのことは、宗教法人が不当に優遇されているという話とはまるでわけが違う。巧妙に話をすり替えられてはならない。

自分がその教会で被害を受けたならばともかく、当事者でもない人間が、自分が所属していない教会の内情に干渉して行くことは、法的にいかなる根拠も持たない。

このことは、信者の内心にも当てはまる。憲法は信教の自由を保障しており、これを侵害する行為は悪であり、違法行為である。

従って、筆者と面識もないカルト被害者救済活動の支持者が、筆者の内心を取り締まろうとして言いがかりをつけて来ることにも何の根拠もなく、また、筆者のようにアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を去って久しい信者に、村上氏が何年間にも渡り、個人情報を暴くような形で中傷を言いふらしていることにも、何一つ正当な根拠がない。

自ら宗教トラブル相談センターを開設しておきながら、そこへ相談にやって来た信徒が、自分にとって目障りな存在になったからと言って、信徒のプライバシーに触れるような虚偽の情報を公然と流布し、信徒の信用を貶めるなどは、誰が聞いても呆れ返るような話でしかない。そういう事例がすでに生まれていると分かっているのに、誰がこの先、そんな恐ろしいセンターに、自分の個人情報を携えて相談に訪れる気になるであろうか。

このように、彼らのしていることは、聖書の倫理とは全くさかさまであり、聖書のみならず、この世の常識にも、法律にも、全くそぐわない行為である。彼らにはクリスチャンを断罪する資格など初めから全くなく、むしろ、クリスチャンの方にこそ、彼らを断罪する資格がある。このことをクリスチャンは自覚せねばならない。

教会がこうした人々に恥を暴かれ、圧迫されている立場から抜け出て、教会こそが、カルト被害者救済活動を断罪し、これを退けなければならないのである。

さて、不当な言いがかりを受けた際、キリスト者が何も主張しないでいるのは、悪魔に罪を着せられることに自ら同意するに等しい。私たちは、人間的には色々な弱さを抱えているとしても、神と人との前で、キリストの流された血潮を根拠に、自らの潔白を公然と主張せねばならない立場にある。

なぜなら、私たちは、自分の義に立っているのではなく、神の義に立っているからだ。キリストが十字架で流された血潮が、この世においても、来るべき世においても、私たちに何の非もないことを主張する根拠である。

血潮が、私たちを、神の目に、何一つ欠点のない、しみもしわもない、キリストの完全な花嫁として立たせる根拠となのる。この点で、私たちは神から受けた義認を軽んじてはいけないし、悪魔の訴えに一歩たりとも譲歩してはいけない。

悪魔の前で、圧迫に負けて、犯してもいない一つの罪を認めることは、百も千もの犯していない罪を認めることと同じである。たった一つの罪でも認めれば、身の潔白はもう成り立たない。そこで、信者であった人間が、村上氏のような、カルト被害者救済活動の支持者の側から、クリスチャンに対して発せられる断罪と非難の言葉に負けて、一度でも屈服させられて、懺悔すれば、それを皮切りに、その人間は、その後、百も千も万も、犯していない罪をあげつらった供述調書にサインを迫られるだけである。そして、サインを拒む根拠は彼らにはもうない。

クリスチャンは一度でも血潮を退ければ、もう二度と自分自身を擁護する根拠をどこからも得られない。そんなことになれば、世人以上に厳しい裁きに晒されるだけである。地上の組織としての教会に対するあれやこれやの不満を表明することと、真理そのものを退けることを、絶対に混同してはならない所以である。

しかし、何という馬鹿げた事態であろうか。キリスト教会で「被害」を受けたと主張している人たちが、正式に「加害者」になってしまったのだから。

いつまでも人を赦さない心、特に、神の教会を憎み、信徒と和解しない心が、どんなに危険で恐ろしい運命へと人を導くかをよく物語る出来事だろう。

結局、神が義とされたクリススチャンを罪に定めようとする活動に手を染めるなら、その者は誰であれ、自分自身が罪に定められて終わるだけである。とげのついた棒を蹴っていれば自分が痛いだけである。

筆者は、地上の教団教派としての教会には属しておらず、地上の教会を擁護するつもりはないが、それでも、キリストの花嫁たる天的なエクレシアが存在することを確信している。

どの教団教派に属していようと、どんな誤謬の最中にあろうと、それに関係なく、一人一人の兄弟姉妹の信仰を通して、目には見えない霊的共同体としてのエクレシアが存在し、機能しているのである。

カルト被害者救済活動の支持者らの罪深さは、彼らはただ自分自身の心の痛みと向き合い、自分が所属した教会とのトラブルに目を向け、これを解決することだけに専念すれば良かったにも関わらず、自分の心の傷や問題と向き合おうとせず、これを他者の問題に置き換え、他者を助けるという口実で、一つや二つの教会ではなく、教会全体を否定して敵に回し、全教会とクリスチャンの恥を暴くような活動に熱中することで、キリストの花嫁たる天的なエクレシアそのものを冒涜したことにある。

その罪は、地上の滅びゆくものを毀損する罪とは比べものにならないほど重い。その罰は、この地上だけでなく、永遠に至るまで続いて行くだろう。

さて、次回からは、こうした事件に関連して、「エクレシアを冒涜する罪」について考えてみたい。その過程で、三島由紀夫なども引き合いに出すことになろうが、このテーマは、これまで、何度も書きかけ、書きたいと思いながら、なかなか完成できずに来たため、いよいよ着手しなければならないと思っている。

労働によって自由を目指す偽りの生き方を退け、真理によって自由とされて、御言葉に養われて生きる

「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたは書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」(Ⅰテサロニケ5:1-3)

わたしの民よ、彼女から離れ去れ。
 その罪に加わったり、
 その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。
 彼女の罪は積み重なって天にまで届き、
 神はその不義を覚えておられるからである。」(黙示18:4-5)
 

最近、あらゆる情報を見るにつけても、エクソダスの時が近づいていると思わずにいられない。筆者の人生は、アブラハムの生涯のように、エクソダスの連続である。

できるだけ早い段階で首都圏を離れるべきだという思いが、最近、どうにもこみ上げて来てならないのだ。バビロンの倒壊がいよいよ始まっていることを、あらゆる兆候から見て取れる。

首都圏に住むことに対する疑問を筆者が初めて抱いたのは、「シン・ゴジラ」という映画を観た時であった。この映画は創作と呼ぶにはあまりにも駄作すぎて、ここで取り上げて論じる価値もないが、筆者は、この映画は創作というより、創作に託した政治的プロパガンダ映画であって、何者かが東京に来たらんとしている戦争の惨禍について告げるために作成した予告映画であるように感じた。

むろん、そのような解釈には何の証拠もないため、同意できない人も多かろうが、筆者は、その映画を観た時、被災地の苦しみや、貧しい人々の苦しみを見殺しにして、富を貯め込み、身勝手な繁栄を享受して来たこの国の主都に、裁きの時が迫っていることを思わされたのであった。その裁きは、ソドムとゴモラのような形ではないにせよ、何者かが東京を戦禍に晒し、火の海にしようとする悪しき計画によって成就されるかも知れないことを思わされたのであった。

ところで、日本政府の悲願は、核武装にある。改憲の先に見えているのは、戦争である。しかも、ただの戦争ではない。核戦争である。

そして、そのようなことが現実に起きた日には、我が国首相は、ゴジラ映画のような「英雄」とはならず、ただ己が野望のために核のボタンを押して、大勢の国民を破滅に晒す独裁者にしかならないであろう。

そういう日が、刻一刻と近づいていることを筆者は感じているのである。東京オリンピックもそうだが、こうした計画はすべて「大日本帝国の復興」という呪われたイデオロギーの延長線上に進められている。そして、筆者はそのような恐るべき計画と、それがもたらす破滅に巻き込まれるつもりは毛頭ないので、首都圏からお暇したいと考えている。

戦争の話はさて置くとしても、それ以外の面でも、この国の未来に暗雲が垂れ込め、滅びが近づいていることは、あらゆる兆候からよく感じられる。

たとえば、裁量労働制について、今国会で行われている議論は、この国にいよいよ国民に底なしの労働の義務を課し、国民が働いても働いても、決して個人に利益が還元されず、すべての利益が国や巨大企業に吸い上げられて行くだけの呪われた社会主義システムが完成されつつあることを物語っている。

アベノミクスの本質は、全体主義なのであるが、アベノミクスの本番の地獄は、いよいよこれからなのである。経済再生などという謳い文句は、詐欺の入り口でしかなく、国民は、夢のような偽りの繁栄の約束と引き換えに、騙されてアウシュヴィッツ行きの列車に乗せられ、今や強制労働収容所の入り口に掲げられた悪名高い看板「働けば自由になる(Arbeit macht Frei)」の下をくぐり抜けようとしているところだ。

こうして、全国民に未来のない労働が強制される時代が到来し、そのしばらく先に、共謀罪による大粛清やら戦争による殺戮やらが待ち受けているのである。

だが、キリストの十字架の贖いによって義とされ、罪の奴隷状態から自由とされたキリスト者が、こんな呪われた運命に巻き込まれる筋合いはないのであるから、我々は自由を勝ち取って生きねばならない。

ちなみに、上記の「労働は人を自由にする」とのスローガンは、「真理はあなたを自由にする」という聖書の御言葉の悪質なパロディであり、悪質な虚偽である。労働を通じて人間が自由を勝ち取ることなど決してできない。

だが、そのような偽りのスローガンは、全体主義体制に共通するものである。ソビエトの強制労働収容所の入り口にも、アウシュヴィッツとほぼ同じような意味のスローガンが掲げられていた。あたかも労働こそ、人民の栄誉と繁栄と自由への道であるかのように…。

当ブログではこれまで再三述べて来たことであるが、このような労働賛美の思想は、歪んで異常な考え方であって、そこで言う「労働」とは、呪われた概念であって、ただの労働を指すのではない。要するに、それは人類が自己の罪を自分で贖い、自力で神に至り着こうとする、神に逆らう計画としての、終わりなき不毛な贖罪行為を指しているのだ。

クリスチャンならば誰しも知っているように、人間の罪は、人が自分で贖うことはできない。どんなに真面目に働いてみたところで、人はわずかでも自分の罪の負債を減らせはしない。

罪の奴隷状態を抜け出て、自由になるためには、真理によるしかない。真理とは、人となって地上に来られ、十字架にかかられた神の独り子なるイエス・キリストであり、御言葉なるキリストのうちにとどまることこそ、自由への道である。

わたしの言葉にとどまるならば、あなたがたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31-32)

そこで、この真理を知っている筆者は、"Arbeit macht Frei"との偽りの標語が記された列車に、大勢の人たちと一緒に乗り込むことを拒否して、我先にと順番待ちをする群衆を置き去りに、一人、駅から立ち去る。

カルト被害者救済活動の支持者らは、筆者が輝かしい労働への道に進まず、強制収容所行きの乗車への乗車を拒否して、一人どこへともなく去ろうとしていることを知って、筆者が変人で、あたかもまともな仕事に就けない浮浪者であるがごとくにあざ笑っている。

だが、彼らは自分の身にこれから降りかかろうとしている悲惨な末路を全く知らないのだ。歴史を振り返るが良い。人々は「まともな仕事に就ける」とか、「十分な賃金と、豊かな生活ができる」などの謳い文句を信じて、アウシュヴィッツ行きの列車に乗り込まされた。幸福で豊かな生活が待っていると、これから乳と蜜の流れる土地へ行くのだと、騙されて死への旅路へ出かけて行ったのだ…。

カルト被害者救済活動の支持者らは知らない。政府の唱える「一億総活躍」の偽りのスローガンを信じれば、強制労働収容所へ連れて行かれるだけだと。そこで待ち受けているのは、未来ある労働どころか、飢えと、死だけである。

だから、彼らが自分は金持ちだと言って、貧しい人々をあざ笑っていられるのは、ほんの束の間でしかない。

聖書にはこうある、富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。

ご覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがた支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。」(ヤコブ5:1-6)


カルト被害者救済活動の支持者らの中には、人助けを職業として選んでいる者も多い。だが、その職業が見栄のためだけであって、自分は人助けをしているのだと人前に誇りながら、不幸な他人よりも一段上のところに立って、上から目線で他者の苦しみを見下ろし、苦しむ人を踏みつけにし、嘲笑するためだけのものならば、その職業は彼らから取り去られ、他の人々に与えられるだろう。

たとえば、社会福祉士は国家資格であるから、法律で欠格条項が定められている。社会福祉士の信用を傷つけ、刑法に触れるようなことをすれば、当然、国家資格を剥奪される恐れが出て来る。

カルト被害者を「冒涜」することは何の罪にも当たらないが、貧しく寄る辺のない国民を誹謗中傷すれば、この世の刑法に触れることになるのだ。

だから、そういうことを考えれば、大淫婦バビロンが「わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。」(黙示18:7)とつぶやいたのと同じように、自分だけは立派な職業に就いて、豊かな生活を送っているから、あの浮浪者や、この貧乏人とはわけが違うなどと、ゆめ神と人との前で豪語したりするものではない。

バビロンは心の中でそうつぶやいただけで、そのつぶやきを神に見透かされ、罪として裁かれたのだから、そんな呪われた文句を神の教会の前で公然と吐き捨ててクリスチャンを侮辱した人々には、どういう恐ろしい運命が待ち受けていることだろうか。

バビロンは宣告されたのだ。

彼女がしたとおりに、
 彼女に仕返しせよ、
 彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。
 彼女が注いだ杯に、その倍も注いでやれ。
 彼女がおごり高ぶって、
 ぜいたくに暮らしていたのと、
 同じだけの苦しみと悲しみを、
 彼女に与えよ

 「それゆえ、日のうちに、さまざまな災いが、
 死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。
 また、彼女は火で焼かれる
 彼女を裁く神は、
 力ある主だからである。」(黙示18:6-8)

また、箴言(13:21-23)にはこうある、

「わざわいは罪人を追いかけ、幸いは正しい者に報いる。 善良な人は子孫にゆずりの地を残す。 罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる。 貧しい者の開拓地に、多くの食糧がある。 公義がないところで、財産は滅ぼし尽くされる。」


このように、義のないところでは、富は長続きしない。罪人がどんなに豊かに財産を蓄えたとしても、それはすべて罪人の手から取り上げられて、義人の手に委ねられる。義人は貧しく見えても、その開拓地には多くの食糧を持っており、子孫のために財産を残す。

繰り返すが、罪人の富は義人のために蓄えられるのだ。カルト被害者救済活動の支持者らは、愚かな行為に及んだクリスチャンを非難して言う、民事で巨額の賠償金を支払って和解しても、刑事ではずっと捜査が続くのだと。だが、その言葉は、クリスチャンを非難し、教会をあざ笑っている彼らにそのままお返ししよう。

目に見える地上の神社に油をまく行為は、世間から見れば迷惑千万であり、かつ文化財を毀損する罪かも知れないが、滅びゆくものは、放っておいてもいつかは消滅するのだ。だが、キリストの花嫁たる目に見えない教会は新創造であり、永遠性を持つ。そこで、神の聖霊が宿っている教会を冒涜する罪は、未来永劫、赦されることはない。旧創造を毀損する罪と、新創造を冒涜する罪と、果たしてどちらが神の目から見て重い罪なのか、それはこれから公然と人前に証明されよう。

さて、筆者の目から見れば、今やこの国全体に、巨大な不幸が降りかかろうとしているのは明白であるにも関わらず、未だに勤労の精神を説いたり、自分だけはまっとうな職業に就いているから、貧しさや孤独とは無縁で、不幸にはならないなどと豪語している連中は、まさに愚の骨頂である。

この先、この国には「まともな仕事」と呼べる職業がほとんど存在しないような恐ろしい時代が来ようとしているのだ。信仰によって生きるキリスト者以外は、生き延びることさえ困難な時代が到来しているのである。

バビロン体系の中で生きるには知恵が要る。秘訣はただ一つ、世間が奨励するような「まっとうな生き方」を目指すのではなく、神の目から見て、真に「まともな職業」に就くことである。人の目にではなく、神の目に評価される生き方をすることである。そうせねば、結局は、誰一人、生きられない時代が到来しているのである。

そこで、筆者は、"Arbeit macht Frei" との偽りのスローガンの掲げられている広き門に背を向け、「真理はあなたを自由にする」という聖書の御言葉の掲げられた狭き門を入って行く。

キリスト者である筆者は、「不信者とのつり合わないくびき」を負うことを拒否し、自力で罪を贖うために、罪人と共に底なしの罪の連帯責任を負わされることを避け、神に逆らうバベルの塔建設の計画に加担せず、労働によって自由を目指すのではなく、真理によって自由を獲得し、二度と人の奴隷とされることなく、また、自分の貴重な労働の成果を、悪者にかすめ取られたり、怠け者の利益に還元されたり、強欲な雇用主を富ませるために利用されることなく、自分の労働の成果が、天に蓄えられ、真に自分自身に還元されるような生き方を目指す。

これは、信者に無限の献金や奉仕を要求する強欲なカルト宗教からのエクソダスにとてもよく似ていて、気づくのが早ければ早いほど、被害が少ないと言える。

さて、呪われたバビロン経済を脱し、真に正しい神の国の霊的秩序に生きるためには、キリスト者は御言葉の奉仕人でなければならない。詩人が詩人であることをやめて、労働者になっても何の役にも立たないのと同じように、キリスト者は、神の国のために働く奉仕人であり、「天職」に生きるべき人々である。

天に収穫をもたらすことこそ、我々の職業であり、我々の仕事は「人間を漁る漁師」であって、その職は地上のすべての職を超える。キリスト者は地の塩としての役目を果たさなければ、外の暗闇に投げ捨てられ、踏みつけられるだけである。

地上の経済は、キリストの復活の命の統治に服さねばならない。神の霊的な秩序はこの世の秩序よりも優先する。その順序は決して入れ替わることはない。従って、神の国の霊的秩序に生きる人々のために、地上の経済は仕える立場に置かれるのである。

牧師でさえ言う、御言葉の働きのために報酬をもらうのは当然であると。そして彼らは地上の職業から遠ざかっているではないか。

だとすれば、まして真にキリストに従う奉仕者たちのためには、神が必ず天に報酬を備えておいて下さる。蒔くことも、刈ることもしない空の鳥や野の花のために、神がすべての必要を備えて彼らを養って下さっているのだから、キリスト者が、自分で自分を養うために、奴隷的強制労働などに従事せねばならない筋合いはないのである。

そういうわけで、未だ勤労の精神を説いたり、人の目に認められようと、お国のために役立つ人間になろうと努力しているカルト被害者救済活動の支持者らは、大変な思い違いをしているのである。

彼らが仕えている地上の国は、彼らを滅ぼすだけで、決して幸福にしない。また、彼らが誇っている地上の「まっとうな職業」も、糞土にも値しないものであって、人を滅びにしか導かないものであることは、やがて多くの人の目に明白になるだろう。

欺かれてはならない。狭き門から入る人は幸いである。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができおうか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:25-34)

キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている

暗闇の勢力に立ち向かう事件は相当に進展している。聖書の裁判官とやもめのたとえのごとく、世にはしつこく訴え続けることで、初めて真実が取り上げられる事柄も多数、存在するのだと、筆者は、これまでの様々な戦いを通じて痛感して来た。

できるなら、聖書に登場するやもめのように、神をも畏れぬ裁判官を延々と説得したいとは思わない。それはあまりにも骨の折れる仕事だからだ。だが、高慢な役人、冷血な裁判官、あくどい弁護士、冷酷な上司、事なかれ主義の従業員・・・、ここに列挙できないほど、実にほとほと嫌になるような性格の人々を相手にしながら、筆者はこれまで幾度も自らの主張を訴えて、戦って来た。

その過程で、重要なことが見えて来た。相手がどんな性格の人間であれ、とことん真実を訴えて成果を引き出す秘訣が分かり始めたのである。

ところで、主イエスが語られた不正な裁判官とやもめのたとえを思い出す際、常に筆者の脳裏に思い起こされるのが、あるウクライナのおばあちゃんである。

筆者がウクライナの首都を旅行していた時のこと、我々の一行はまだ明るいうちに街の目抜き通りで警官に呼び止められた。パスポートを出せと言われ、出すと居住登録の書類に不備があるとけちをつけて来る。これは元共産主義国ではよくある言いがかりで、暗黙の賄賂の請求である。我々が抗議しても全く言うことを聞いてくれない。

ところが、その時、我々の一行と共にいた小柄で物静かなおばあちゃんが、突如、体全体から振り絞るような声をあげて、ものすごい剣幕で警官に食ってかかったのだった。

「あんたたち、恥を知らないの? 神をも畏れず、白昼堂々、こんな街中で、市民に何という言いがかりをつけるのよ! この人たちは私の大切な客人なのよ! まだ学生なのよ! 私たちの国の文化を学ぶためにやって来た大切な客人なのよ! 私たちはちゃんと役所に行って手続きもしたのよ! 書類に不備なんてないわ! 私の客人に、あんたたちに指一本、触れさせやしないわよ! 全く恐ろしい、世も末だわ! あんたたちみたいなならず者が、自分の小遣い稼ぎのために、白昼堂々、こんなコソ泥みたいな真似して、貧しい市民や学生に言いがかりをつけて最後のなけなしのお金まで奪い取ろうっていうの? 神はすべてをご存じだわよ! あんたらに良心の呵責はないの! こんな卑怯な真似していないで、さっさと自分のやるべき仕事を果たしなさいよ!」

・・・これは筆者の想像で、実際にはウクライナ語のため、おばあちゃんが叫んでいる内容は、ほとんど分からなかった。だが、それでも心は伝わる。ちょうど大斎期のシーズンで、おばあちゃんは水と黒パンしか口にしておらず、精進の最中だった。色々と宗教的な言い分がちりばめられていたことは分かった。

警官らは、おばあちゃんの圧倒的な剣幕にたじたじとなり、青ざめながら、後ずさりして、「いいか、今度、同じようなことがあったらな・・・」という捨て台詞を残して、我々から手を引いて、立ち去って行った。

おばあちゃんの圧倒的な勝利だった。

だが、何事も執拗に訴えさえすれば、成就するということはない。嘘も百回言えば真実になるということは決してなく、そういう考えは誤りである。真実でなければ、訴えても、嘘の岩盤を貫き通す強度がない。だが、もし訴えの内容が真実であるならば、あきらめず何度もとことん訴えれば、いずれ固い岩盤をも通過する。 

さて、今は事件の関係で詳しく記すことはしないものの、筆者はある記事を思い出している。

それは、筆者に長年敵対しているカルト被害者救済活動の支持者の一人が書いた「干潟は水が腐っているわけではない」という記事である。

残念なことに、この記事の著者は、その後、記事の中で自ら言わんとしていたことのはかり知れない重要性に気づくことなく、思索を途中でやめて、むしろその内容を否定して、180度、違う道を歩み始めてしまった。

しかし、筆者は今ここで、この記事の重要性に改めて言及しておきたいのである。

記事の著者は言う、干潟は、泥沼のように見えるため、外観が悪く、世間には全く有用性がないかのように誤解されがちだが、事実は全く逆で、干潟では、神秘的、奇跡的なほどまでに、環境浄化の作用が働いており、自然界の恵みある有用な働きがなされているのだという。

九州地方には世界的にも珍しい大きな干潟がたくさんある。その歴史的な発生の過程については今は省略するが、当時、この自然界の恵み豊かな由緒ある干潟を根こそぎ破壊しようとしていたのが、農水省が強行している大規模公共事業であり、その公共事業には、巨大利権を巡って、官僚、政治家、様々な業者などが群がっているという。

と、記事の著者はここでいきなり話題を変えて、プロテスタントのアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏の記事に言及し、村上氏の主張を批判する。

村上氏は、自らの記事の中で、公共事業によって、水が腐った地帯に過ぎない干潟が開拓されて、人工的に河川が造られ、水はけが改良され、穀倉地帯ができたことを素晴らしい成果であると述べて、干潟の悪水を抜くことを、人間の心の中にある悪水を抜くことになぞらえて評価する。

しかし、こうした村上氏の主張を引き合いに出しながら、記事の著者は、これを完全に的外れで不適切なたとえとして、痛烈に批判しているのである。

つまり、この記事の著者に言わせれば、干潟は水の腐った地帯などではなく、むしろ、生態系にとっては極めて有用な作用をもたらすものであり、このように長い時をかけて作られた歴史ある自然界の恵みをただ単に「無用なもの」と決めつけて破壊することで、根こそぎの環境破壊にいそしんでいる政府の公共事業の方が、実際ははるかに有害なのである。

記事の著者は、こうして「干潟=悪(旧体制)」、「政府の公共事業=善(新体制)」と決めつける村上氏のあまりにも短絡的で浅はかな理屈を完全に論破し、覆してしまう。そして、一見、人の目には無益かつ無用に見える見栄えの悪い干潟の中に、整然として人目を引き、有用そうに見える公共事業には全く太刀打ちできないほどに神秘的・驚異的な効用があることを訴えるのである。

その記事の著者が「権力」におもねることなく、また、見かけ倒しの成果に欺かれることなく、一見、力のない、不器用で、見栄えも悪い、見捨てられつつある、もの言わぬ「干潟」の側に立ってこれを擁護しているわけだから、胸のすくような主張である。

ところが、残念なことに、この記事の著者は、村上氏が、干潟の開拓の必要性を述べることで、それを人の心の問題(クリスチャンの心の問題)になぞらえていることを理解しつつも、自らの論理を最後まで推し進めて、干潟の有用性についての議論を、村上氏の主張に具体的に適用して、村上氏の主張の根本的な誤りや危険性に言及することとしなかった。

それどころか、この記事の著者は、この記事に対して早速、村上氏から抗議を受けたことを機に、あっさりとその抗議を受け入れ、自分には村上氏に対する敵意があったと反省の言葉を残して、この記事で始めていたはずの極めて重要な考察を自ら放棄・封印してしまい、むしろ、その後は、まるで村上氏の代弁者か、同氏の活動の宣伝広報係のようになって、それまでとは正反対とも言える道を歩んでしまったのである。

暗闇の勢力は、こうして人の心に芽生えた重要な気づきを常に邪魔するものである。その後は、ご存知の通りであり、この人物は、カルト被害者救済活動の支持者の一人として筆者にも深刻に対立・敵対するに至っている。筆者から見れば、村上氏にいいように利用された上、すべての責任を一身に負わされて、切りすてられようとしているのである。

だが、この人物の見解がどうあれ、筆者はその記事で始められた考察のしっぽを取り上げて、それを当ブログでさらに推し進め、その当時、口にされることのなかった結論を明らかにしたいと考えている。

一つ前の記事でも述べたことであるが、干潟についての以上の議論は、聖書における苦しみの効用というテーマとぴったり重なるのである。

村上氏は公共事業による干潟の開拓を肯定的に評価しながら、それを人の心になぞらえて言う。

「人の心も同じだと思います。悩み苦しみが心の中に流れ込み、行き先を失って、潟になっています。悩み苦しみが心の中に溜まったままだと、悪水ぬきが必要です。話を親身になって聞いてくれる人は溝や堀のような存在です。悪水のはけ口になってくれるからです。良くない聞き手は、悪水を逆流させます。悪水をぬけば、悩み苦しみも心の肥やしになり、その人の心を沃野にします。」

だが、本当にそうだろうか? 村上氏のこの記述はあまりにも浅薄に過ぎないだろうか。

何よりも、村上氏の言うように、人間の「悩み苦しみ」は、本当に人の心の中に溜まった無用な「悪水」でしかないのだろうか? しかも、「話を親身になって聞いてくれる」良き聞き手が現れることによってしか、その「悪水」のはけ口はないというのか?

いや、聖書は決してそのようなことは言っていない。

聖書には、神のために苦しんだ無数の霊的先人たちの生き様が記されている。だが、彼らは、周りに一人の理解者も、同情者もなく、ただ神だけが自分の苦悩を理解して、これを受け止めて下さるという境地を一人で切り抜けねばならなかった。

たとえば、正しい礼拝をしたのに、嫉妬のゆえに兄カインに殺された弟アベル、兄弟たちに妬まれ、エジプトに売られ、ポテパルの家でも苦難を受け、長く投獄されたヨセフ、一人で箱舟を建設し続けたノア、イサクを得るまで長い間、サラと共に忍耐せねばならなかったアブラハム、パロの家を捨てて民を率いてエジプトを脱出したモーセ、義人にも関わらず苦しめられたヨブ、ペニンナに苦しめられ、祭司エリにまで酒に酔っていると思われてたしなめられた不妊の女ハンナ、自分の息子にも裏切られ、数多くの苦難を耐えたダビデ・・・

主イエスご自身も、十字架に向かわれる時には、群衆に裏切られ、弟子たちにまで見捨てられ、神の御前にただお一人で苦難を背負われた。

それから、パウロの投獄、ステパノの殉教、その他、その他…、今ここで列挙することが不可能なほど、信仰者たちはみな神のために苦しんだのである。

一体、誰が彼らの苦悩の「良き聞き手」になって「悪水のはけ口」の役割を果たしてくれたというのであろうか?

そのようなことがおできになる方は、神以外には誰もいない。

聖書は、信者の悩み苦しみについて、決して村上氏のような主張をしておらず、むしろ、逆のことを言っている。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」(ローマ5:1-5)

「つまり、あなたがたには、
キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(フィリピ1:29)

「今やわたしは、
あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(コロサイ1:24)

以上の御言葉は、まさしく「苦しみの効能」と言って良いものではないだろうか。

そして、聖書がこのようにキリストのために苦しむことを奨励しているにも関わらず、村上氏が、人間(信者)の悩み苦しみ(≒干潟の水)を、何かあるまじきもの、無用なもの、人の心に溜まった「悪水」のようなものとしてしかとらえず、それを「良き聞き手」(≒公共事業)が話を聞いてやり、心の外に吐き出させることで、「悪水を抜く」ことができるかのように考えている誤りこそ、同氏の誤ったカルト被害者救済活動のベースをなす考え方ではないかと筆者は思う。

このことは、カルト被害者の悩み苦しみをどのように扱うかという村上氏の手法の基礎をもなしている考え方である。

しかし、件の人物も、上記の記事の中で言う、干潟に溜まった水は、決して抜かなければならないような腐った「悪水」ではなく、見かけは泥水のように見えても、干潟の水の中では活発な光合成が行われ、浄化作用が起きているのだと。

同様に、筆者に言わせれば、人間の心の悩み苦しみも、心に溜まった悪水などでは決してなく、その凝縮された苦しみの中でこそ、活発な霊的浄化作用が起きているのである。

むろん、苦しみそのものが人間の魂を浄化できるわけではない。キリスト者の霊と魂を清めることができるのは聖霊だけである。しかしながら、それでも、苦しみがなければ、人間は誰しもすべての逆境を自力で切り抜けることができるかのような高慢な錯覚に陥り、真剣に神を尋ね求めることもなく、祈ることも、信じることもないであろう。

従って、自己過信に陥ることなく、神に従い、自分自身の力によって立つのではなく、真実、信仰によって、神の憐れみと助けによって生きることを学ぶためには、信者はどうしても苦難の中を通ることを避けては通れないのである。

目に見えるカウンセラーや、牧師や、教師たちに、安易に悩みを打ち明けたり、話を聞いてもらい、自分を理解し、慰めてもらおうと願わず、ただ神にのみ、自分の心のすべてを打ち明け、どんなに理不尽な出来事を通過しても、すべてを神の正しい裁きに委ねる時に、信者の苦悩が、神の直接のねぎらい、慰めによって報いられるのである。

誰にも打ち明けることのできない苦しみの中で、信者の魂が練られ、練達が生まれ、希望が生まれるのである。

筆者は一つ前の記事の中で、疑わしい教えを唱えるキリスト教系の団体を通過して来たことを決して後悔するつもりはないと書いた。

異端の教えというものは、空中をうごめく病原菌のようなもので、生きている限り、根絶することはできないが、免疫抵抗力を持つ健康な人にとっては、害にはならない。健康な人も、このような病原菌と共に生きることによってしか、免疫抵抗力をつけることができない。

信者は誰しも了解しているはずだが、我々はこの地上で堕落した肉体を持っている限り、完全に聖なる人となることはできない。クリスチャンの完全な聖化は、復活の時を待たねばならない。従って、完全なキリストの花嫁たるエクレシアは霊的には存在するものの、この恵みの時代(教会時代)に、目に見える形としては、決して存在することはできない。

そこで、我々がどんなに100%純粋で正しい教えを唱える教会や兄弟姉妹を熱心に探し求めたとしても、そのような存在を地上で見いだすことは、100%無理であると断言できる。我々はこの地上にいる限り、誤りやすく、未熟で、不確かな考えの兄弟姉妹や、教会にしか出会うことはできないのである。エクレシアはこの迷いやすく愚かで未熟な地上的な人々を通して、彼らの心の中にある純粋で熱心で揺るぎない信仰を通じて霊的に体現される。

我々クリスチャンは生きている限り、誤謬や、逸脱や、失敗から解放されることがない。そこに我々の悩み苦しみもある。むろん、このことは決して失敗や誤謬の言い訳とされるべきではない。だが、義のために苦しむこともあれば、自分自身の限界から来る失敗や弱さのゆえに、神に従いたいという願いとの間で葛藤し苦しむこともある。神の完全、神の聖を追い求め、どこまでも真実で正しい生き方を追い求め続けるべきではあっても、同時に、地上の不完全な存在であるがゆえに、神の願っておられる完全に至り着けない苦悩も存在する。

異端の教えに深刻な被害を受けるまで接触する必要はなく、そのようなことを勧めるつもりも筆者にはない。以下で記す通り、筆者がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離れたように、誤った教えを唱えていると分かった団体からは、離れ去ることを勧める。が、だからと言って、我々が疑わしい教えを100%避けて、完全に正しい教えだけを受けて生きることも、地上にある限り、不可能な相談なのだ。

このことは、カルト被害者にも当てはまる。カルト被害者と呼ばれている人たちは、神を求める過程で、知らずに誤った教えに触れて、深刻な被害を受けた人々である。その人々の苦しみを自業自得と考え、自分ならばそのような愚かな失敗はしないと考えて笑う人々もあろう。

しかしながら、筆者は思うのだが、事の大小の違いはあれど、我々はみなカルト被害者と同じような失敗を通してしか、何が正しい教えであり、何が誤った教えであるのかを学ぶことはできず、正しい教えを識別する機会もなければ、判断力を養うきっかけも得られないのである。

だから、筆者は、そのように多くの痛みを経験しながら歩んで来た人々が、自らその痛み苦しみを恥じるがごとくに「被害者」と名乗る必要はなく、また、そうした苦悩を教会のせいであるかのように考えて、神に従おうと願った自分の信仰までも恥じる必要はない。むしろ、彼らが負った悩み苦しみは、信仰に立ち続けさえするならば、非常に有益な教訓として生かされうるものであり、何ら恥ずべきものでもなければ、あるまじきものでもない。

カルト被害者のみならず、信者の負った悩み苦しみにはどれも深い意義が存在する。問題は、カルト被害者救済活動に携わる人々が、被害者を募り、彼らが教会で受けた悩み苦しみを「あるまじきこと」のようにとらえさせることにより、神を求めて教会を訪れたことを後悔させ、信仰まで捨てさせようとしている点である。

誤解のないように断っておけば、筆者は決して我々が率先して苦しむべきだと言っているのではない。深刻な被害を負う前にきちんと対処すべき事柄は多くあり、打つべき手さえ打たずにただ悪魔のなすがままに翻弄されて苦しめられるべきと言いたいわけではない。

だが、人には自分でコントロール不可能な状況下で苦しみが与えられることもある。

たとえば、筆者は子供時代に、自分では決断することのできない状況で、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に関わることになり、その後、この教団の理念が誤っていると見抜いてこれを離れる際にも、多大なる苦しみを経験した。

だが、今、筆者は、自分の人生を自力で操縦できなかったような子供時代に、この教団に関わったことまでも、まるで自己責任であるかのように考えたりはしない。

神はその当時から、筆者には分からない方法と、深いご計画を持って、筆者をご自分の民として召し、選んで下さっていたのである。そのことは、筆者だけでなく、筆者が子供時代に所属していた教会までもが、後々、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離れた事実を見ても、よく分かるように思う。

筆者が子供時代に洗礼を受けると決断した時、家庭内では大きな波乱があり、筆者は大きな苦難に遭遇した。その時、筆者の苦しみを理解する者は、家庭の中にさえ一人もいなかった。それにも関わらず、筆者の神に従いたいという決意は変わらず、それは決して牧師や家族から教えられた結果でもなければ、誰から強制されたものでもなかった。

このように、どの教団教派、どのような組織に属しているかといった問題を完全に超えて、筆者は自分の意志で、目に見える万物を造られた唯一の創造主である聖書の神に従って生きることを決意したのである。

今でも、その決意のことを考えると、感動とも何とも表現しがたい思いがこみ上げて来る。

その当時から、筆者の内心には、自分の人生がどのような終わり方をするのか、筆者の人生は神のために捧げられるのだというおぼろげながらの予感があった。子供時代から、筆者は幾度かそのことを口にしたものである。

筆者には、神のために負わねばならない多くの苦難があることが分かっており、実際にそれを負って来た。世人と変わらない生活を送っていた時代もあったが、それでも、筆者の人生はかならず、神の御前の単独者へと引き戻された。

神は筆者が子供時代から御名のために負って来た代償をことごとくご存じであると今も確信している。筆者自身にはコントロールできない、手の届かないところで起きたすべての事件についても、神がご存じであると思う。そうした事情のゆえに、筆者の受けた苦悩について、筆者を直接、慰め、ねぎらうことができる存在はただ神のみである。

神ご自身しか、そうした出来事が何のためにあったのか、何のために必要なことだったのか、判断できるお方はいないのである。

にも関わらず、村上氏は言う、

「悩み苦しみが心の中に溜まったままだと、悪水ぬきが必要です。話を親身になって聞いてくれる人は溝や堀のような存在です。悪水のはけ口になってくれるからです。良くない聞き手は、悪水を逆流させます。悪水をぬけば、悩み苦しみも心の肥やしになり、その人の心を沃野にします。」


この言葉は、村上氏が自分は「良い聞き手」だと自負しているがゆえに述べている言葉であろう。ある意味で、大した自信だと言える。

だが、その言葉とは裏腹に、村上氏は職務上、知り得た牧師や信徒の個人情報を、あまりにも軽率に取り扱っており、あまりにも口の軽すぎる、信頼できない牧師・相談相手として、カルト被害者の間でさえ有名である。

村上氏はかつて自身のもとに相談にやって来たカルト被害者らの個人情報を加害者サイドの牧師に転送してしまい、それが発覚して、被害者から絶縁を言い渡されたこともあると、筆者は関係者から聞かされている。

また、村上氏は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を離脱した鳴尾教会の山田晃美牧師が、「統一教会に入信していた経歴がある」かのように自身のブログで吹聴しているが、鳴尾教会の公式ブログを読めば、山田牧師に統一教会への入信歴がないことは一目瞭然である。

にも関わらず。なぜ村上氏がそのような虚偽の情報を流布しているのかと言えば、鳴尾教会のブログによると、山田牧師が神学生時代に、(うっかり)身の上話として村上氏に統一教会の話をしたことがきっかけであるという。その際、村上氏の方から、山田氏の話を聞いて、「統一教会に入信していたことにはならないですね」と返答したにも関わらず、村上氏はその時に知り得た同僚の牧師の個人情報を歪曲する形で、デマの流布に及んでいるのである。

それは筆者に関しても同様である。本来、牧師は、自分の教会を訪れた信徒の個人情報を決して口外してはならないはずである。そのようなことは、カトリックの司祭が告解で聞いた信徒の情報を外へ漏らすのと同じくらい重大な職務上の倫理に抵触する行為である。

たとえ信徒が牧師と対立して教会を去ったとしても、牧師は信徒の幸福のために祈るべきであって、自分に歯向かった信徒に報復を果たすために、信徒の中傷を言いふらすような行為は断じて許されるものではない。

にも関わらず、村上氏は、自身の教会に一度でも訪れたことのある筆者に関しても、作り話を公然と流布しており、さらに、上記の記事の著者である件の人物にも、筆者に関する歪曲された情報を提供して、筆者を中傷させることに一役買っていると見られる。

なぜなら、件の人物が公然と流布している作り話の中には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中でただ一人、村上氏以外にはそんな思い込みに満ちた誤った情報を作り上げることが誰もできないと分かっている不確かな情報が、数多く含まれているためである(この点については、いつかそれらの誤謬をまとめて記事にする時が来るのを待たれたい。)

もちろん、筆者に対して悪意を抱いていることが明白な人物に対して、故意に筆者の個人情報を提供したりするような人間が、通常のクリスチャンの中にいるはずがないことは明白である。

さらに言えば、聖書において、キリストが長血の女を癒されたり、足の不自由な人を立ち上がらせたり、悪霊につかれた人を解放されたりしたことが明白であるのに、病に陥ってもいない人間に向かって、おまえは人格障害だと宣言し、人格障害は生涯、治らない不治の病だなどと豪語するような人間が、クリスチャンでないことも明白である。そういう人間は、自分にとっては病こそが動かせない永遠のリアリティで、神の癒しなどは信じられず、信仰はかけらも自分にはありませんと白状しているだけなのである。
 
クリスチャンという存在は、たとえ自分がどんな病にり患することがあったとしても、神の癒しを信じることのできる人々であるが、それ以前に、病にかからないように守って下さる力が神にあることも当然ながら信じている。
 
話を戻せば、村上氏が、筆者に関する事柄のみならず、他の人々との関係においても、職務上知り得た同僚の牧師や信徒らの個人情報を、あまりにも軽率に公共の場所で言いふらしては、自分に好意的でない関係者の信用を貶めるために歪曲して用いている様子を見れば、果たして、このような人物が、「話を親身になって聞いてくれる良い聞き手」と言えようかという疑問が生まれるのは当然である。

むしろ、親身になって話を聞いてくれそうだという外見に欺かれないことの方が重要である。こうした怪しげな牧師や教師やカウンセラーに、「親身になって話を聞いてもらった」結果として、受けた苦悩に対する恨みばかりをより一層、深め、自分はダメな人間だからこんな誤りに陥ったのだなどとくよくよと考えて自分を恥じ、世人と同じようにそつなく生きることだけを目標として自己改善にいそしみ、神を求めて歩んで来た自らの人生の行程を恥じて、やがて信仰までも捨て去るようになるのでは、元も子もない。

このようにして、筆者は、人間の悩み苦しみは、村上氏の言うように、外へ吐き出すことによって浄化される「悪水」では決してないと考える。

人間の悩み苦しみは、そもそも「悪水」になどたとえられるべきものではない。悩み苦しみが心の中に凝縮される中でも、我々が、神を仰ぎ、御言葉の光に照らされて、霊的「光合成」を行うならば、その悩み苦しみの最中から、見事な霊と魂の浄化作用が働き、恵み豊かな神の御業を常に見ることができる。

そして、我々の魂の真の理解者、真の慰め主、ワンダフル・カウンセラーは、キリストのみである。にも関わらず、村上氏の言うように、キリスト以外の目に見える人間の中に、「話を親身になって聞いてくれそうな聞き手」を絶えず探しまわり、そうしてキリストを押しのけながら、あちらの教師からこちらの教師へと、まるで浮草のように移動し、一見、外側だけはきらびやかで有用そうな人間に安易に心を打ち明けようとして欺かれ続けることの方が、はるかに有害で危険である。

繰り返すが、信者の悩み苦しみは、腐った水などでは断じてない。悩み苦しみの中でも、キリストにすべてを打ち明け、御言葉の光に照らされて生きることさえできれば、心はいくらでも肥沃になり得る。悩み苦しみを持って生きることを不格好だと考え、見栄えが悪いがゆえに、そのような生き方は有害で無意味だと決めつける短絡的な考え方をこそ、見当外れな思い込みとして警戒しなければならない。

カルト被害者と称する人々の悩み苦しみについても同様である。一刻も早く悩み苦しみの外に出ることだけを目指している人は多いが、解決は、悩み苦しみそのものをあるまじきことと考えて退けるところにはない。

我々は自ら苦しみを望んだり、その中にとどまり続けようと願う必要はないが、自分にどうすることもできない理由で起きた苦しみまでも、自分の責任で起きたことのように考えて、何とかして自力でそれを解決しようと各種の試行錯誤を重ねたり、それを恥じたりする必要はない。

神に従う過程で、一人一人のキリスト者が歩んで来た道については、神がすべてをご存じである。そして、神は我々が地上で受けた損失を、補って余りあるほどの慰めを与えて下さることのできる方である。

「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩編110:71)とある通りである。(共同訳では「卑しめられた」となっている。)

筆者は、干潟の驚くべき効用と同じように、苦しみのもたらす効用を言葉を尽くして説明することはできない。だが、筆者が苦しみを無用なものと決して思わないのは、そこに十字架の死と復活の原則さえ働くならば、苦しんだことをはるかに上回る慰めと喜びが用意されていることを知っているからだ。

神はキリストを信じて喜ぶことだけでなく、キリストのゆえに苦しむことも、私たちに恵みとして許して下さったのであり、一人一人のクリスチャンの苦難の中の従順を重んじて下さる。そうした従順を通して、キリストの苦しみの欠けたところが補われ、全教会のために豊な浄化作用が働くのである。

よって、筆者はキリストのゆえに苦しむことを恥じるどころか、それを喜びたいと思っている。むろん、世の中にははっきりさせなければならないことがたくさんあり、誤りは誤りとして明白にされるべきである。だが、本当の誤りは、疑わしい教えを吟味しながら、神に従おうとして来たクリスチャンの側にあるのではなく、そうしたクリスチャンの歩みを恥ずべきものであるかのように断罪し、信仰のゆえ、御名のゆえの信徒の苦難を無益で無様で不格好なものとして嘲笑しながら退けようとするカルト被害者救済活動の側にある。
 
筆者は、主の御名のために歩んできた道と、御名のために負った苦難に、何一つ恥じるべきところはないと確信している。そのために天には豊かな慰めと褒賞が待ち受けていることをも疑わない。

裁きの時には一つの罪でも有罪となるが、恵みが働く時には、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される

オースチン-スパークスの論説を読むと、キリスト者の中には、神から特別に厳しい訓練を課される者たちがいることが記されている。

そういう者たちは、端から見れば、信じがたいほど絶え間なく困難に見舞われているように見えるだろう。しかも、苦難の規模が通常人をはるかに上回っているため、なぜそこまで苦しまねばならないのか、周りの人々には理解できない。中には自業自得と誤解して責める者もあるかも知れない。

だが、そうした患難には神の深遠なご計画がある。

困難が次々と起きるからと言って、それだけを見て決して落胆する必要はないと言えるのは、これまで幾度となく繰り返して来たように、神がクリスチャンに地上で苦しみを許される時には、必ず、それと同時に天に慰めも用意されているからだ。

つい数日前、筆者はブログを更新していない間に、一つの思いがけない喪失を経験したが、ほぼ同時に、神は大きな慰めを用意して下さっていた。筆者が探してみると、ただちに失ったものを上回るほどの稀有な新しい宝を得ることができたのである。良い人と出会うことができ、受けた損失を補うほどの価値のあるものを得ることができた。

そこで、求めなさい、そうすれば与えられます、叩きなさい、そうすれば開かれます、あるいは、罪が増し加わるところには恵みも増し加わる、と聖書に書いてある通り、どのような出来事が起きても、キリスト者は、落胆することなく、死から命へ、苦しみから慰めへ、天に備えられている恵みだけをまっすぐに見上げ、それを実際にすべく具体的な行動を起こすなら、そうして信仰によって踏み出すと同時に、苦しみの時は束の間に過ぎ去り、豊かな恵みと慰めが待ち受けていることをすぐに確認できるだろう。

繰り返すが、キリスト者には、苦しみもあるが、同時に、その苦しみを補って余りあるほどの豊かな慰めが必ず天に備えられている。だから、クリスチャンの中のある人々が絶えずひっきりなしに困難な状況に見舞われているように見えたとしても、その人には、受けた苦難と比べものにならないような慰めが天に同時に用意されていることをも思った方が良い。そういう人生を送ることは、非常に希少な幸福であると言えるかも知れない。
 
イエスは言われたのである。

「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(マルコ10:29-30)
 
クリスチャンが地上で福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てて、主に従わざるを得ない瞬間に、失ったものの百倍を受ける時が来るというこの御言葉を思い返しても、信じがたい気持ちになるだけであろう。そういうことが起きる度に、心は悲しみにふさがれ、孤独に苛まれるかも知れない。

実際に、神の御手の中で訓練を受けているクリスチャンが、苦しみの渦中にある時、慰めの方向へ目を向けることは難しい。見えるものに従って歩んでいるわけではない、とどんなに口では言っても、目の前に嵐のような目まぐるしい状況が展開するときに、その出来事に注目しないことは難しい。

さらに、以前にも書いたように、クリスチャンが霊的に巨大なエクソダスを遂げる直前には、特に大きな激動が起きるものだ。キリストと共なる十字架の死を経て、命へと移される直前には、極めてドラマチックな展開があることが稀ではない。だが、その中をくぐりぬける当人にとっては、それは少しも「ドラマチック」などと言って笑っていられる状況ではなく、全世界が自分に敵対しているかのような、まさに生きるか死ぬかのような体験に感じられることだろう。

そのような状況の中でも、失望や落胆に沈むことなく、どんなことが起きても、あるいはそれが自分の過失や、不注意や、愚かさによって起きた取り返しのつかない損失のように見える時でさえ、決して自分自身の不完全さに拘泥することなく、神の憐れみや恵み深さにのみ目を留め、どんな瞬間にも、神を信頼し、天に備えられた希望だけを見つめ続ける姿勢が必要である。そのような姿勢が保たれていて初めて、苦しみと同時に天に用意されている慰めに到達することができる。

だが、クリスチャンの信仰の歩みの中で最も難しいのが、以上の姿勢を保つことではないかと筆者は思う。つまり、どんなことが起きても、決して失望落胆することなく、絶えず自分の不完全さから目を離し、キリストの完全さだけを見つめ続け、自分自身ではなく、キリストに依拠して、神の完全が自分自身に適用されることを求め続ける姿勢である。

さて、聖書には裁判官とやもめの有名なたとえ話がある。

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。

ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとはしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』

それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:1-8)

このたとえ話は、クリスチャンが神に正しい裁きを求める権利を有していることをよく示している。

もちろん、地上ではすべての市民に裁判を受ける権利がある。世にはスラップ訴訟なども存在し、司法が悪用される危険もないとは言えないが、裁判それ自体が悪ではないことは、誰しも認めることであろう。

上記の聖書箇所における地上における裁判官の描写は、クリスチャンが神に正しい裁きを求めて祈ることのたとえとして描かれている。

だが、その御言葉は、幾分かは地上の裁判にも当てはまるであろう。筆者はこれまで、地上の裁判に対する考え方を少しずつ変えて来た。教会に関わる事柄は依然としてこの世の裁判にかけるべきでないと考えているが、この世に関する事柄は別である。

筆者は、暗闇の勢力がいかに人の正当な訴えを邪魔し、正しい主張を封じ込めようとするかを、幾度にも渡り、見せられて来た。人が自分に保障された正当な権利を取り戻そうとして主張する前に、主張すること自体を諦めさせようとするのが彼らの手口である、と言って良い。

たとえば、ブラック企業が従業員の正当な訴えを封じ込めようとする手口を考えてみると良いのだ。世に言うブラック企業には、往々にして、専属の悪徳社労士や悪徳弁護士が雇われている。彼らは企業が従業員に対して定められた賃金を支払わなかったり、不当解雇を行ったりして、様々な不正かつ不当な措置に出る時、常に企業の味方となって、従業員を黙らせる役割を担っている。この人々は、いわば、口封じのために雇用されている「専門家」だと言っても過言ではない。

このような「専門家」がブラック企業についている場合には、彼らは、企業によって不当な措置を受けた従業員が、決して裁判に訴えて自らの権利を取り戻したりしないよう、事前に様々な文書を送りつけては、訴えを封じ込めようとする。訴えるよりも前から、訴えてもどうせ結果は変わらないので諦めた方が良いと、あの手この手で主張を放棄させようとするのである。

むろん、そのようなことは、社労士や弁護士でなくともできるのだが、強欲な依頼主の要望に従って、そのようなむなしい目的のために自分の専門知識を活用している人々が存在する。本来、そのような人たちは、専門家と呼ぶにも値しないが、彼らはうわべだけは、自分たちが本来の道理を曲げていることを悟られないよう、まことしやかな文書を書き記すものだ。
 
従業員はそれを見たとき、考えなければならない。本当に、自分が何をしても結果は変わらないのか、それとも、それはそう思わせるためのうわべだけの工作に過ぎないのか。自分に何の責任もないにも関わらず、不当な措置を黙って受け入れ、その結果を自分で身に背負うべきか、それとも、そのような事態は、自分のせいで起きたことではないと、公然と主張して、不当な結果は、不当な措置を行った張本人にお返しして、彼らに背負っていただくのか。

主張するか、しないかによって、人生の結末そのものが変わって来ると言って良い。その争いは、法廷などに持ち出されるよりもはるか前に、従業員の心の中で始まっている。その従業員が、専門家を名乗る連中からやって来る様々な脅しのテクニックにまんまと乗せられて、失望落胆して、自分の権利をみすみす諦め、主張せずに終わるのか、それとも、最後まで不当な決定に抵抗して、正々堂々と自分の主張を打ち出して、権利を取り戻すのか。すべては従業員の心次第である。

多くの人々は、主張することの重要性を考えてみない。専属の弁護士がいるかどうかや、書類が自分で上手に書けるかどうかや、要するに、人数やテクニックの問題ばかりに目を留めて、初めから自分には分が悪すぎると諦めている人が多いものと思う。

だが、本当の戦いは、そのような表面的な事柄にはなく、最も弱い、不利な立場に立たされた本人の心の中から始まる。明らかに不当と分かっている主張に遭遇した時、人がどのような態度を取るか、最後まで勇気を持って抵抗するのか、それとも、脅されれば簡単に諦めるのかどうかにすべてがかかっている。

ある人々は、これまでクリスチャンを提訴して法廷に引き出すことに何のためらいもなかったにも関わらず、筆者にはあたかも彼らと同じように市民としての権利を行使することが全く許されないかのように主張している。

その人々は、筆者がまだ何一つ手続きもしていないうちから、まるで今しも自分が筆者に提訴されるのではないかとでも言うような勢いで、筆者を含む数々のクリスチャンが、彼らに対してスラップ訴訟に及ぼうとしているかのように非難して来た。

だが、彼らの主張を見ても分かることは、彼らは、よほどクリスチャンから訴えを起こされることを常日頃から恐れているに違いないということだけである。

彼らは、何とかして自分が訴えられることを阻止し、自分の主張の不当さが、公然と世人の前に知れ渡るのを避けるために、筆者一人だけでなく、彼らを訴える可能性のありそうなすべてのクリスチャンをさんざんに罵倒したり、脅しつけたりせずにいられないのであろう。

そのような彼らの行動は、自分が罪を犯していることを、内心ではよく知っているがゆえの本能的な自己防衛の心理に基づくものだと言える。

なぜなら、身の潔白を信じている人々は、誰かから不当な訴えを出される可能性があると分かっても、決して慌てないからである。不当な訴えには、ただ毅然と立ち向かえば良いだけであり、訴えられる前から自分を懸命に弁護したり、自分を訴える可能性のある人間を片端から攻撃・非難したりする必要もしない。そのような行動を取る人間は、訴えられれば必ず負けると分かっていて、恐れの心(本質的には罪の意識)に支配されているのである。

筆者は、自分の運命を振り返って、よくよく数奇な歩みだと思わずにいられない。

筆者は、初めの内こそ、教会のカルト化はあってはならないという立場に立ち、カルト化の疑いをかけられた牧師や教会を非難しても構わないという考えを持っていた。にも関わらず、筆者の運命は、その後、それとは全く逆の方向へ転換し、カルト化の疑いをかけられた教会よりも、むしろ、カルトを撲滅すると自ら主張している人間の方がはるかに重大な危険であることが分かった。そこで、前者ではなく、後者にこそ、筆者は立ち向かってもの申さなければならないことが判明したのである。

筆者はキリスト教界の堕落を否定するつもりはない。筆者自身が、当ブログにおいて、プロテスタントの諸団体の中に怪しげな理念のものが数多くあることについて書いて来た。

今ここでは詳しく繰り返さないが、そうした例の中には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(および聖霊派の主張)の誤りや、ゴットホルト・ベック氏の集会の理念の問題性や、Kingdom Fellowship Churchの問題もあった。

筆者はこうした集会の理念について、具体的な問題点を挙げ、それを聖書の御言葉と対比しながら、何が問題であるかについて説明して来た。
 
筆者自身は、教会に牧師制度を導入することに反対である。牧師制度というものは、本来、対等であるべき信徒間に差別をもうけ、信徒の献金で養われる特権階級を作り出すものでしかない。

多くの霊的先人が、この制度が間違いであることを指摘し、ゴットホルト・ベック氏の集会や、KFCなども、表向きは、公然と牧師制度を否定している。こうした集会は、牧師制度を取っていることを理由の一つとしてキリスト教界と訣別している。

ところが、上記の団体は、一方では、牧師制度を否定しながら、他方では、牧師制度とほとんど変わらない固定的な指導者制度を置いている。そこで、これらの集会の現実は、表向きに掲げている理念とは正反対であり、大きな自己矛盾をはらんでいることを指摘し、筆者はこれらの集会の理念と行動の首尾一貫性のなさを非難して来た。

だが、筆者が当ブログにおいて、以上のような見地から、これらの集会の理念と活動を疑問視する発言を行ったからと言って、こうした団体から、筆者に抗議が送られて来たことは、これまで一度もない。対立関係が起きたこともない。筆者の記したブログ記事内容について、彼らの側から教義論争が起こされたり、反対意見が寄せられて来たことも一度もなかった。

そして、このことは、これらの団体が筆者の主張を初めから誤謬とみなして相手にしていないためではなく、もともとこうした団体は、筆者が彼らに関わるよりはるかに以前から、数多くの批判にさらされて来た過去があるためであると見られる。
 
以下にも記すように、こうした団体は、過去に巨大な分裂、大規模な離反などの騒動を繰り返し経験して来ている。そこで、彼らは批判や離反には相当に慣れているだけでなく、批判者や離脱者を執念深く追いかけては取り戻そうとして脅しつけたり、論争をしかけるようなことをしないのである。

たとえば、ベック氏の集会は、もともと争いを嫌う平和的な性格の団体であり、さらに教養人が数多く集まっているせいもあって、集会の雰囲気そのものが温和で上品で寛容である。兄弟姉妹の間で意見が割れたからと言って、口汚い論争が発生することはほぼなく、兄弟姉妹は、離脱者に対しても寛容で、筆者が彼らと異なる考えを持って集会を離れた後でも、いつでも交わりはウェルカムという態度を崩さない。

つい先日も、知り合いの兄弟が召されたから祈って欲しいという連絡が、その集会の一人の姉妹から来た。そのリクエストの是非はともかく、こうしたことからも、時が経っても、依然として、彼らが筆者を兄弟姉妹の一人に数えている様子が分かる。

残念ながら、筆者はそうした接触を機に、集会に戻ろうとは思わないが、そのような連絡が未だにやって来ること自体が、この集会にいる兄弟姉妹の誰一人として、筆者に憤りを持っておらず、筆者を憎んでもおらず、筆者の考えをあるまじきものとみなして、筆者が考えを改めない限り、二度と受け入れるつもりはない、などという狭量な考えを持っていないことをよく示している。

そして、彼らがそのような考えに立っている理由は、この集会の成りたちを考えてもすぐに分かる。

ベック氏の集会は、もともとキリスト教界に失望幻滅してそこを去って来たクリスチャンが大半を占める。ベック氏のメッセージの中心的テーマの一つにも、キリスト教界には決して行ってはいけないということがある。そして、こうしたメッセージ内容は、ベック氏が独自に編み出したものではなく、古くはハドソン・テイラーや、オースチン-スパークス、ウォッチマン・ニーなどを含め、地上の組織や団体としての教会の欺瞞性を悟り、組織としての教会から離脱し、エクレシアが地上の団体ではなく天的な共同体であるという事実を知って、本来のエクレシアのあり方を追い求めた霊的先人たちから部分的に受け継がれたものである。

こうして、この集会には、キリスト教界を離脱した人々が数多く集まっているため、この集会の信徒たちの多くが、かつて何かの苦い対立や、深刻な失望を味わって、教会組織を出た経験を持つ。それゆえ、彼らは、信徒が牧師や指導者の意向に逆らって、時には悪魔扱いさえされながら、組織と対立し、組織を離脱することの難しさや、苦しみをよく理解している。

こうした背景があるので、この集会の信徒らは、一人の信徒が彼らの集会にやって来るまでの間に、どれだけ数多くの団体で苦い経験を味わったか、どれだけの団体を遍歴したかなどの事実を追及し、あげつらっては、これを非難や嘲笑の材料としたり、あるいは、彼らの集会を離れた信徒をいつまでも悪しざまに言うことをしない。

彼らにとってはキリスト教界は出るべきところであって、教会組織を離れる行為を悪とみなすような考え方は彼らにはない。

むろん、そうは言っても、それでも、彼らが自ら立てた指導者にだけは従うべきと考えていることは自己矛盾なのであるが、だからと言って、この集会が、筆者が集会を去ったことを、指導者に対する下剋上のようにみなして非難して来ることもない。まして、筆者を追いかけて来てまで、戻るよう説得した者もいない。
 
筆者がその集会を立ち去る前に、筆者を引き留めようとして色々とお説教めいた忠告をして来た兄弟姉妹からは、そのすぐ後に、お詫びと理解して差し支えない内容の手紙が届いた。そこには、彼らとは根本的に考えの異なる筆者を異端者扱いして退けるどころか、依然として、筆者を兄弟姉妹の一人とみなしていることが分かる内容が書かれていた。

このように、この集会の信徒らは、基本的には非常に情の篤い、世話好きで、もてなし上手で、人間的にも好感の持てる純朴な人々である。彼らの信仰のあり方は、日本の戦後間もない開拓時代を思わせるような、極めて単純で素朴なものである。筆者は彼らがクリスチャンでないなどと決して言うつもりはなく、筆者と同じ信仰が彼らの中には全く見られないとも考えていない。

だが、そのように、彼らが極めて好感の持てる人々で、筆者と幾分かは信仰も共有している兄弟姉妹であるという事実と、その集会の理念が持つ問題性は、別個の問題なのである。

筆者はすでに述べた通り、エクレシアにはいかなる固定的な指導者をも置く必要がないと確信している。そこで、この集会が自ら牧師制度を否定しているのであれば、牧師制度に類するいかなる制度をも置くべきでなく、にも関わらず、一人の指導者を祀り上げているのは自己矛盾でしかない。

筆者は、牧師という名であろうと、その他の名称であろうと、人間に過ぎない者を師として仰ぎ、その指導者が教会を管理するようになれば、組織が腐敗することは避けられないと考えている。ただ腐敗するだけでなく、その指導者は、キリストに代わって信者の心と生活を支配するようになるため、反キリストに等しい存在となる。そこで、牧師制度という名称であろうとそうでなかろうと、階級制度としての教職制度自体が教会にはあってはならない、というのが筆者の見解である。

また、以上の集会が家族ぐるみで信徒を取り込もうとすることに対しても、筆者は非常に懐疑的である。なぜなら、聖書は地上における肉の家族の絆がそのまま霊的な神の家族を形成するとは全く述べていないからである。むしろ、地上における肉の家族は、往々にして福音には敵対する誘惑となる。

このように、筆者がとらえている聖書のエクレシアの理念と、以上の集会の理念とは、多くの点で著しい相違がある。このような理念の相違こそが、筆者がこの集会を去った理由であり、人間的な対立は起きていない。起きたとしても、すでに解消されており、そのようなことが本質的原因ではないのである。

にも関わらず、筆者がその団体を去ったことを人間関係の問題に置き換え、すべての問題を、常に聖書との対比において検証しようとせず、ただ人間関係の相克といった低い次元のドラマに置き換えようとする人々は、そのようにして、筆者が組織を離脱した根本的な原因をすり替えることで、牧師制度そのものが根本的に誤っているという、筆者が提起している重大な議論の本質をごまかしているのである。

さらに言えば、その人々は信者を再び人間の支配(組織のヒエラルキー)に従わせ、人間(指導者)の奴隷としたいだけなのである。
 
そういう人々の理屈は、たとえるならば、ブラック企業を辞めようとしている社員に向かって、「社長の言うことには従うべきだ。権威には従いなさい」と説教するようなものである。社員が過重労働のために死の寸前まで追い込まれても、それでも社長という権威に逆らうことや、組織を離脱することは悪だと教え、人間関係を損なうべきではない(和を乱すべきではない)などという口実で、社員が命を守るために逃げ出すことさえ禁止して、自由を奪おうとするのである。

そのようなやり方で、信者一人一人が、何が聖書の理念に照らし合わせて正しいことであるのか、自分自身で判断して行動する自由を妨げ、人間(指導者)の思惑や支配に盲信的に従わせようとすることこそ、まさにカルトの手口と言って差し支えない。

カルト化した組織では、すべての物事の是非が、聖書の御言葉に照らし合わせて検証・吟味されず、ただ指導者の思惑や、組織のヒエラルキーに従って解釈される。人間の立てた権威や秩序に逆らわずに黙って従うことが、聖書の御言葉に従うことよりも優先される。聖書の理念が、人間の作り上げた指導者制度を支えるための添え物として利用されているのである。

こうして、何が正しく、何が間違っているかという価値判断を、信者自身が行うことを阻止し、人間に過ぎない指導者が代わって行い、その指導者の意向に信者を盲信的に従わせるのがカルトである。

笑止千万なのは、カルトに立ち向かうと豪語しているカルト被害者救済活動の支持者が述べている言葉が、まさにカルトのマインドコントロールの手口そっくりになりつつある点である。

彼らは、筆者が様々な団体を離脱したことを悪であるかのように非難する。しかし、もしそれらの団体が聖書の御言葉に従っていないならば、筆者がそれらの団体を離脱したことは何ら悪でないどころか、離脱しなければ正しい信仰生活を送れないのだから、離脱して正解なのである。

にも関わらず、カルト被害者救済活動の支持者らは、決して聖書の理念に照らし合わせて物事を考えようとはせず、ただ筆者が人間の立てた権威や秩序に従わず、組織のヒエラルキーに従わず、団体内で波風立てる行動に及んで(団体の理念に異議を唱えて)そこを離脱したことを理由に、筆者があたかもそれらの団体であるまじき対立関係を引き起こした(「和を乱した」)かのように筆者を非難している。

そのような彼らの主張には、どこにもクリスチャンらしい判断基準はない。聖書は、「和をもって貴しとなす」という価値観とは正反対の理念に貫かれている。

聖書は、人間の作った地上的な組織の秩序の中で、「波風立てずに行動する」ことを正しい信仰生活のあり方として教えていない。むしろ、多くの点で、聖書の御言葉は、この世の人間関係に「波風立てる」ものばかりであり、地上のすべての権威や支配を超える霊的な秩序を唱えているのである。

従って、彼らが、筆者が地上的な団体を離脱したことを下剋上のようにみなして非難しているのは、彼らが内心では、筆者を人間の立てた権威や制度に盲信的に従わせ、人間の奴隷にしようと目論んでいたことを表しているに過ぎない。

しかも、彼らは、筆者とは異なり、以上の団体に通ったことが一度もなく、それらの団体の実情を少しも知らず、筆者の行動を見て知っているわけでもなく、兄弟姉妹の心中も知らないにも関わらず、ただ筆者がいくつかの団体を去って来たというだけで、その離脱が「悪」であるかのように非難しているのである。

彼らは結局、筆者が人間に過ぎない指導者たちの意向に盲信的に従わず、自分自身で物事の是非を判断して行動したことが気に食わないために、筆者を非難しているだけなのである。結局、彼らの言い分は、筆者は牧師制度の前にひざまずくべきであり、指導者の意向に従うべきであった、ということに尽きる。

これは、組織内で波風立てずに行動することを至上の価値のように唱えるこの世的な価値観そのものであり、もっと言えば、指導者に対する絶対服従を要求するカルト的思考である。

こうして、カルト被害者救済活動の支持者らは、筆者に指導者への絶対服従を要求しているのであり、彼らの思考こそ、笑止千万なことに、どんなカルトよりも、より一層ひどいカルト的思考に陥っているのである。
  
さらに、追記しておけば、ベック氏の集会では、対立など全く珍しいことではなく、筆者が立ち寄る以前から、ベック氏の後継問題を機に巨大な分裂騒動が起きていた。筆者がこの集会を訪れた頃は、かつて一つだった集会が真っ二つに分裂し、互いに論争を続けながら、別々の場所で集会を開いていた。

だが、この集会はもともとかなり平和的な性格の団体であるため、集会が分裂したからと言って、両者の間で、あからさまな中傷合戦や、政治的駆け引き、教会財産の争奪戦のような、あまりにも次元の低い争いが起きることはなかった(と見られる)。分裂した二つの集会は、できるだけ衝突や対立を避けながら、独自に平穏な集まりを続けており、さらに、筆者が驚いたことには、深刻な対立があったにも関わらず、両方の集会を行き来しながら楽しんでいる信徒もいるという始末だった。

このように、元来がジメジメした対立や論争を嫌う、根の明るい性格の団体であるから、筆者がそこを去った後でも、「深刻な対立」やら「相克」は起きようがなかった。

KFCも然りである。KFCもそのほとんどはキリスト教界を去ったクリスチャンから成るため、ここにも、指導者に絶対服従を説いたり、組織や教団を離脱することを「悪」とみなす考え方はほぼ見られない。ウォッチマン・ニーなどを一時しきりに教本のごとくメッセージの土台としていた様子を見ても、地上の組織や団体に信者を縛りつけて従わせようとする考え方には根本的に否定的であると言える。

この団体も会員制度がなく、さらに、時期によってメッセージ内容があまりに大きく変化していることもあり、信徒の入れ替わりが非常に激しい。一時はメッセージに共感していた信徒も、ある時期を過ぎると、着いて行けなくなり、去って行くという具合で、大きな離散があり、古参のメッセンジャーもほぼいなくなって現在に至っている。

こうして、もともと信徒を管理し、団体に縛りつけようとする制度自体がない上に、様々な離反や騒動を経験し、信徒の入れ替わりが激しい以上、その団体に失望幻滅して去る信徒が出たからと言って、それは全く珍しいことではなく、去った信徒がいつまでも悪しざまに言われることもない。

中にいるうちは色々言われるかも知れないが(しかも、外野のようなメンバーを中心に)、むしろ、出てしまえばすっきりしたもので、去った信徒を追いかけてまで嫌がらせを加えるような陰湿さは全くないし、そんなことに携わっていられるほど余裕があって執念深い人間もいないと言える。

特に、KFCには、昔から相当に数多くの批判者がいた。もともとキリスト教界への辛辣な批判を定番としており、キリスト教界側の人々には恨みも買っていたであろうし、彼らに言わせれば、「どこの教会からも落ちこぼれた信徒しか集まっていない」と言われるほどに「異端児的」な団体であるため、筆者が当ブログでKFCの理念に対して相当に深く切り込んだ批判を述べたからと言って、そのようなことはKFCにとって何ら目新しいことでなく、誰一人としてその内容に反駁して来た信者もいない。この団体に残っている人々と筆者との間で対立や論争が起きたことは一度もない(その理由には、この団体の信者の平均年齢が、筆者とは全く異なるため、そもそも共通の理解さえ成り立たないということもあったかも知れない)。
 
今になって考えてみると、KFCという団体は、筆者の子供時代にTVで放映されていた「ジミー・スワガート・アワー」にも似たような、聖書の教義の中核に迫る議論からはおおよそ外れた、興業的な意味合いの強い集会であったように思われる。もっと卑近なたとえでは、七色に光るイミテーションのガラス玉か、3分で完成するエスニックの即席麺のようなもので、たくさんの香味は効いているが、本質となるべき中核を欠いているのである。ウォッチマン・ニーやその他の先人の教えを数多く引き合いに出していたとはいえ、それもうわべだけの装飾でしかなく、すべては単なるパフォーマンスとして見るべきもので、真面目に論じるだけ時間の無駄であったかも知れない。

また、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団について言えば、この教団は「しるし・不思議・奇跡」を求め、常軌を逸するほど聖霊を強調する過激な集会のあり方のせいで、長らくプロテスタントの中でも、異端視され、排除されて来た過去があることは周知の事実である。この教団がプロテスタントの一部であるかのように公然と認められるようになったのは、比較的最近のことであり、それもキリスト教人口が一向に増加しない中、大衆受けする集会のあり方が功を奏して、この教団の人口の成長率がプロテスタントの他の教団と比べても著しかったためでしかない。

教義面では、依然として、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、聖書研究に重きを置く福音派などの伝統的な教団教派からは、あまりにも思慮分別の足りない「体育会系」に偏りすぎた教団とみなされ、半ば軽蔑気味に退けられる傾向が強い。

そのことは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を出てから、他の福音派の教団に行って、実際に、評判に耳を傾けてみればすぐに分かることである。だが、そうした評判を待つまでもなく、事実、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、聖書に基づく深い理念の考察を怠り、現象・活動にばかり熱中して来た歴史があるため、もともとしっかりした教義というものが存在しないも同然である。

そこで、伝統的な福音派から見れば、このように聖書研究が考えられないほどにお粗末で幼稚なレベルにとどまっているにも関わらず、異言を語ることや、しるしにばかり重点を置いて、それがないことで、他のクリスチャンを見下し、自分たちが優位に立っているかのように思い込んでいる態度が気に食わないと、半ば軽蔑ぎみに批判されるのも仕方がない。そして、その批判は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団もそれなりに理解しており、昨今は、以前はトレードマークのようであった過激な礼拝のあり方を自粛する教会も増えている。

このように、この教団は、長きに渡り、プロテスタントの中でも異端視されて来た歴史があるので(教義の面から見ても、異端視されて当然の理由(重大な欠陥)があったと筆者は考えるが、今はその問題には触れない)、批判には慣れており、教団を去ったクリスチャンが批判を口にしたからと言って、いちいち目くじら立てることもなく、まして去った信徒を追いかけてまで口封じしようと嫌がらせに及んで来ることもない。

そのようなわけで、筆者はいくつかのプロテスタントの団体を束の間、通過した過去があるとはいえ、現在に至るまで、それらの団体と筆者との間で、対立や論争が続いている例は一つもない。
 
現在に至るまで、筆者との間で長年、対立関係を深め、筆者の考えを改めさせない限り決して許さないと尽きせぬ執念を燃やして筆者に論争をしかけている存在があるとすれば、それはただカルト被害者救済活動の支持者だけである。
 
そして、これは極めて重要な事実である。つまり、色々と問題を抱えて欠点が多く異端視されても仕方がない数多くの教会は、筆者を決して中傷したり、論争をしかけて来ないし、打ち負かそうと挑んでくることもない。むしろ、そういうことをして来るのは、正義の旗を掲げて「カルトを取り締まる」と主張している陣営だけなのである。

だから、そのことを見るにつけても、筆者は、牧師制度には反対を唱えないわけには行かず、教義面で多くの問題を抱える教会が数多く存在することも疑わず、地上の組織や団体としてのキリスト教界を擁護するつもりは微塵もないにも関わらず、だからと言って、そのような疑わしい教えを唱える教会がすべて筆者と敵対関係にあるとは思わないし、そこにいるクリスチャンが、ことごとく筆者の兄弟姉妹ではないと言うわけでもない。
 
ここに、クリスチャンに対峙することの非常な難しさがある。クリスチャンは外見的には、全員が、途方もなく多くの欠点を抱えた、とりわけ未熟な人々ばかりである。この世の人々と引き比べても、何一つ長所が見いだせないどころか、むしろ、格段に劣っているとさえ言える場合が少なくない。何しろ、何かのきっかけで自分の限界を思い知らされなければ、教会になど足を運ぶことはなかったであろうし、神を求めることはなかった。そういう意味で、クリスチャンは、世の人々と比べても、圧倒的に弱々しく、生きるのに不利となる様々な厄介事や困難や弱さを抱えた人々ばかりであり、とりわけ見劣りのする不器用な連中から成っていると言っても過言ではないだろう。

その上、聖書の御言葉への理解や、信仰の成長という点でも、全く芳しくない人々が99%以上を占めるのである。こうなっては世人からは、弁護の言葉もほとんど出て来ないであろう。
 
ところが、そのように、外面的には極めて弱々しく、不器用で、ぱっとしない、見栄えの悪い人々、そして内面的にも、極めて未熟で、欠点だらけの、愚かな人々に、この世の不信者以上に、神の愛と憐れみが信仰によって及び、義認が行き届いているのが現実なのである。

クリスチャンとは、自分自身の優れた長所によらず、立派で正しい心がけによらず、ただ信仰によって神に受け入れられた人々である。そうである以上、たとえ彼らが未熟であって、その行動が欠点や誤りに満ちており、さらに理念の面でも愚かさと誤りが明白であって、危ない道を歩んでいるようにしか見えなかったとしても、彼らの心の内に、もし真摯に神を信じ、すがり続ける信仰が少しでも残っているならば、その限りにおいて、ただ彼らが未熟で欠点だらけであるという理由だけで、兄弟姉妹ですらないと全否定することは難しく、また、すべきでもないのである。

筆者は、すでに書いて来たように、兄弟姉妹を名乗っている人々に裏切られた回数は数知れず、二度と関わりたくないと嫌気が差した人々や、その高慢さにうんざりした人々も存在する。そういう思いを味わえば、彼らをクリスチャンだとは一切認めたくない気持ちになることも人間としては往々にしてあると言える。いっそ自分は正しく、彼らはみな異端者だと決めつけてしまえば、気も楽になるであろう。

だが、誰がクリスチャンで、誰がそうでないのか、その線引きは、筆者がすることではなく、その線引きは非常に難しく、判断は極めて慎重でなければならないと思う。たとえあるクリスチャンの欠点や非が明々白々であって、また、そのクリスチャンが筆者を再三に渡って裏切り、打撃を加えて来たような場合であっても、もし筆者が彼らを全否定すれば、それによって神を敵に回してしまう危険性が十分にありうるためである。

それだからこそ、筆者は、特定の人物をその人格の未熟さや行動の欠点を取り上げて非難することをできるだけ避け、むしろ、その人物の主張の内容や、特定の集団に流れる思想・理念の問題を洗い出し、理論面からの批判にとどめるように心がけているのである。そして、ほとんどの場合、理論面から問題を洗い出すと、そこに異端思想の共通構造が隠されていることが分かって来るのである。

つまり、敵はあれやこれやの人間ではなく、神に敵対する思想なのである。そして、悪魔から来る思想の基本構造とでも言うべき、異端の型というものが存在することを、筆者は当ブログで再三に渡り、繰り返して来た。

そのようなわけで、あれやこれやの危うい歩みをしているクリスチャンを敵のようにみなして非難することによっては、何ら異端の問題は解決しないのである。そのような方法は、まるで病原菌を根絶するために、感染した人間を全員殺しましょうと言っているのと同じほどナンセンスである。

つまり、教会の堕落は看過すべきでない問題であるとしても、一部の堕落のために、エクレシア全体を否定することは避けねばならず、そのような極端な議論を容認すると、恐るべき結果が生まれるのである。

見かけ上は肉的であり、堕落そのものにしか見えない教会であっても、そこに信仰によって霊的なエクレシアの成分がわずかでもあるとすれば、すべてを否定するわけには行かないのである。たとえ神社に油をまくようなクリスチャンや教会が出て来たとしても、そのような恐るべき行動に及ぶ人々も、やはり教会の末端に位置する以上、そこには、嘘と真実、信仰と不信仰が混じり合い、本物も少しは紛れ込んでいる可能性があり、それにも関わらず、行動があまりにも未熟かつ異常だからと言って、一概にすべてを異端と決めつけて退けてしまうと、本物のエクレシアの成分さえも否定することになってしまうという難しさが存在するのである。

かつて教会の迫害者であり、クリスチャンを断罪して殺すことに加担していたパウロでさえ、あのような回心を遂げたわけであるから、神に対する熱心さのあまり、逸脱を犯している信者らについては、判断は慎重でなければならない。

神社に油をまくことが、神の国に奉仕することでないことは、聖書的観点から見て明白であり、そのような行為は、この世的な観点から見れば、言語道断でしかないであろうが、それでも、そのような行動を本気で正しいと信じるクリスチャンの中にも、1%でも純粋な信仰があるならば、我々は、その行為の表面的な愚かさと迷惑さ加減だけを取って、彼らをクリスチャン失格であるかのように決めつけることができないのである。もちろん、そうした行動は正されるべきではあるが、それはあくまで同胞としての忠告によって是正を試みるにとどめるべきであろう。

このようなわけで、筆者の目から見れば、最も重大な危険は、未熟さや愚かさや過ちがあまりにも明白すぎるために、誰からも「カルトの疑いがある」と名指しで非難されているクリスチャンにはなく、むしろ、自分だけは正しく、決して誤らないという根拠のない自己過信に陥って、指導者然と、自分以外の数多くのクリスチャンの「非行」をあげつらっては裁き、「カルトを撲滅する」と主張している人々の方にあるのである。

繰り返すが、クリスチャンはどの人間も未熟であり、自分は神に従っていると思いながら、実際には、間違いを繰り返しながら生きている人々でしかない。間違いは、それが大きなものであれ、小さなものであれ、神の目から見て、同じように逸脱であり、不従順であるという点で、すべては五十歩百歩である。神社に油をまくことを非常識だと笑うクリスチャンも、毎日、何かの行動において、神の願っておられる水準に達せず、神の聖霊を悲しませながら生きている。

そういうことが全くないと胸を張って言える信者は、地上に一人も存在しないことであろう。それでも、神の愛や憐れみ、義と聖と贖いは、その愚かなクリスチャンにも、信仰によって十分に及んでいるのである。だとすれば、一体、表面的な行動だけをあげつらって、クリスチャンを断罪できる存在がどこにあるのだろうか?
 
我々が警戒しなければならないのは、愚かな間違いを犯して、クリスチャンの村社会の中でもの笑いのたねにされることではなく、むしろ、「私は完全に正しい」という思い上がりに陥って、自己反省の余地を全く失って、自分が神のようになって、自分以外の信者を裁くようになることである。

異端に関する教義論争はいくらでも行われるべきであるし、構造面から異端を明るみに出す作業には意義がある。だが、ある人間がクリスチャンと呼ぶに相応しいかどうかを判断する基準は、決して特定の人間に委ねられるべきでなく、その判断に当たっては、極めて慎重な吟味がなされなければならない。

クリスチャンであるかどうか、クリスチャンとしての要件を満たしているかどうかは、この世の価値観によっておしはかることはできず、それにも関わらず、この世から見て、常識的に振る舞い、世人に受け入れられる条件を満たしているかどうか、まして社会的に成功しているかどうかとかいった基準で、クリスチャンが判断され、裁かれるべきではない。

むしろ、信者は、クリスチャンであるがゆえに、世人から見てどんなに失格者の烙印を押されようとも、神の尽きない愛と憐れみにあずかって、その弱さを神の強さによって覆われているのであり、この世の価値観に従って判断されることから解放されているのである。

クリスチャンとは、そのようにして、信仰によって神の特別な寵愛(恩寵)を受けている人々であり、そうである以上、クリスチャンの価値は決してこの世的な判断基準でおしはかることはできないのである。

筆者はこのことを開き直りの材料として使っているわけではないが、それほどまでに信じる者への神の恵みが深いのは事実である。

そこで、我々は、あるクリスチャンの人間的な欠点や、未熟さ、あるいは、誤った熱心さが行き着いた愚かで非常識な行動だけをとって、彼らがクリスチャンに相応しいかどうかを外側から判断すべきではない。ただし、誤った理念がこの先も、他のクリスチャンらをそうした行動に駆り立てる危険性が十分にあるため、異端を糾弾したいのであれば、行動面だけにスポットライトを当てることをやめ、他の信者の愚かで非常識な行動をあげつらっては、これを一方的に上から非難・断罪して終わりとするのではなく、何よりも信者をそうした行動に及ばせる原因となった思想・理念が何であるかを地道に検証しながら、その誤謬を証明する作業を行っていかねばならない。

時に、筆者は、異端の教えというものは、空中をうごめく病原菌のようなものかも知れないと思う。病原菌は、体力の弱った人々には重大な感染の脅威となり、存在しないに越したことはないかも知れないが、それがない限り、人の免疫抵抗力も育たない。
 
仮にクリスチャンが、一切の異端とは無縁の、完全に純粋で正しい教えだけを受け取り、その中で成長することができるとしても、もしその人が誤りとは何かを知らなければ、それはあたかも無菌室の中で育つ人生のようになってしまうだろう。

霊的無菌室だけしか知らずに育った人間は、その部屋を一歩でも外に出れば、たちまち生きる力を失って死んでしまうだろう。悪に対する免疫抵抗力がないためである。
 
そこで、信者は地上に生きている限り、数多くの疑わしい教えに出会い、その嘘を自力で見抜き、識別し、退けて行く力を養わなければ、信仰は育たず、従順も育たない。神への従順を証明するためには、不従順を選ぶことが可能な状況が前提としてなければならない。信者が誤った道を選ぼうと思えば選べる状況で、自ら正しい道を見分けて、偽りを退け、神に従うことを自ら選ぶのでなければ、その信者には、判断力も、自己決定権も育つはずがない。

だから、信者が多くの誤った教えを見聞きした上で、その誤りを自ら識別する力を養うことが大切であり、その意味で、誤謬と出会うことは何ら恥でないどころか、それこそ、信者の霊と魂の成長のために、避けて通れない不可欠な過程(訓練)ではないかと筆者は思う。

そういう意味で、筆者はこれまでに通過して来た団体や集会を振り返り、そこを訪れたことを後悔するつもりは微塵もない。そうした団体の理念に疑わしいところがあるというだけの理由で、そこに行ったのは時間の無駄であったとか、そこで出会ったクリスチャンのすべてが兄弟姉妹ではないと否定するつもりもない。

むろん、ある団体で唱えられている理念に、聖書に合致しない点がないかどうか、吟味することは重要であり、もし聖書い合致しないと分かったならば、分かった瞬間から、筆者はそこにとどまるべきではないだろう。だが、だからと言って、その中に残っているすべての人々が、みな異端者であるとか、非クリスチャンであるなどと筆者は考えてもおらず、そこで見聞きした経験のすべてが無駄であるとも思わない。
 
筆者はその団体にいる兄弟姉妹が、筆者と同じようにその団体の理念を疑わないからと言って、彼らに自分の見解を押しつけるつもりはない。筆者が理解している内容を彼らに向かって述べたとしても、それが彼らに理解されるかどうかは分からない。すべては信者自身の中の「時」による。今日気づかなくとも、明日気づく人も出て来るかも知れない。気づかせて下さるのは神である。
 
筆者の義務は、自分で理解した事柄に忠実であることであり、他の人々がどう行動するかまでは、筆者の責任ではない。ただし、筆者は、誤りだと分かっているものに接触を続けるわけにはいかないため、忠告しても聞き入れない人々からは離れるのみである。
 
カルト被害者救済活動の支持者らの盲点は、自分の欠点や未熟さには目を向けようともせず、常に他者の欠点や未熟さばかりをあげつらい、神ご自身を退けて、神になり代わって、自分がクリスチャンの内心や生き様に対する裁き主になり、周囲の人々がまだ理解する時期が来ていないかも知れない事柄についてまで、何の資格もなしに、強制介入・干渉して行き、聖霊になり代わって信者を教え、信者の内心や行動を正し、支配しようとしている点にある。
 
異端は教義面から明らかにしなければ意味がないにも関わらず、彼らは信者の行動の欠点や、外側の出来事ばかりを中心に据えて、この世の観点から信者の行動の是非を論じ、信者を裁こうとする。

だが、そのような観点からは、決してこの先も正しい教義論争は生まれて来ないであろう。それどころか、彼らは何をよりどころにして他者を裁いているのか、その土台をますます見失って行くだけである。聖書は何と言っているか。
 
「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。

この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。


裁きの場合は、一つ一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。

そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(ローマ5:15-21)

クリスチャンを裁くことに躍起になっているカルト被害者救済活動の支持者らは、信者の行動の非をあげつらったところで、自分自身の罪から逃れられるわけではないことを知らないのだろうか。彼らは無罪とされるためには、完全に罪なき人でなくてはならず、自分の内にわずかに一つの罪でも見いだされれば、たちまち有罪を宣告されることを知らないのだろうか。

他方、クリスチャンは、キリストのゆえに、「いかに多くの罪があっても、無罪の判決」を受けた人々である。罪が増し加わるところには恵みはなお一層増し加わるというのは、クリスチャンにこそ誰よりも当てはまる。クリスチャンがいかに欠点が多く、多くの罪を犯して来たとしても、キリストにあって、神はそのクリスチャンのすべての非をすでに血潮で覆って下さっているのである。クリスチャンが世人に比べ、いかに絶大な特権を持つ者であるか、いくら認識してもし足りない。

だから、誰かがこの世的な観点に立って、一人一人のクリスチャンを、見かけの貧相さや、行動の不器用さや、未熟さ、愚かさや、弱さのゆえに、非難したり、断罪するのは、非常に容易であろうが、そんなことはやめておいた方が良い。むしろ、クリスチャンが弱々しそうに見えれば見えるほど、その弱さが神の憐れみに満ちた強さによって特別に覆われていることを考えてみるべきなのである。その事実を見ずしてクリスチャンの表面的な弱さだけを見て、これをあげつらって非難・説教・嘲笑していれば、いずれ神ご自身を敵に回すことになる。聖書には次のように警告されている。

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」(マタイ18:10)

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