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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

「人はその父と母を離れて」ー「生み生まれる」天然の関係に、十字架の霊的死が適用されなければ、人は神の宮として生きることはできない

・「生み生まれる」天然の関係に対して十字架の霊的死を経なければ、人は神の宮とはなれない

前回では、三島由紀夫の『金閣寺』には隠れた霊的プロットがあることを見て来た。すなわち、金閣寺とは、深い文脈では、神の宮として作られた人間自身のことを指しており、人間が本来あるべき状態を取り戻したときの理想的な姿を象徴的に表していることを見て来た。

この物語の主人公は、吃音という(より深い文脈では人類の罪を象徴する)問題を抱えているため、恥や不完全さとコンプレックスの意識に絶えず苛まれており、自分が理想状態から遠くかけ離れており、それに「値しない」という意識を持っている。

そこで、主人公は自分を惨めで恥ずべき存在と考えているが、金閣寺に憧れるとき、彼は無意識のうちに、自分が本来的に、神の宮として創造されたことに思いを馳せ、その機能を完全に取り戻したいと思い焦がれているのである。

従って、主人公が金閣寺との一体化を目指すことは、決して自分の外にある、自分とは全く別の何かを得ることによって、高みに至り着きたいと考えているわけではなく、むしろ、彼は人類の願望を代弁して、「この堕落した状態から抜け出て、神の宮としての機能を取り戻し、あるべき完全さや尊厳に立ち戻るためには、どうすれば良いか」と考え続け、自分自身の理想を追い求めているのである。

つまり、この主人公にとって、金閣寺とは、被造物が罪を取り除かれて、あるべき姿を取り戻したときの美や完成の象徴であり、彼は自分自身がそのようになりたいからこそ、金閣寺に尽きせぬ憧憬と思慕を抱くのである。

それにも関わらず、主人公が金閣寺に到達できないことを知って、自らの理想である金閣寺を否定し、破壊することは、人類が目指していた本来的な目的を諦め、これを否定すると同時に、それに到達するために創造された自分身を破壊することを意味する。

それゆえ、「金閣殺し」は「自分殺し」に結びつくのである。

主人公が追い求めていたものは「永遠の女性美」でありながら、それは彼と全く関係のないものではなく、神の宮として創造された自分自身のことだからである。

だが、なぜこの主人公にとって、金閣寺はそれほどまでに手の届かない、到達不可能な目的だったのか。なぜ彼はこの神聖な神の宮を目指しても、それに拒まれているという意識しか持てなかったのか。

それは、この主人公には、罪を贖う「十字架」が欠けていたからである。

聖書によれば、人が神の宮となることができるのは、キリストの御霊が、信仰によって、信者の内に住み、信者がその霊に従い、この霊を尊び、崇めて生きる時だけである。

そうなるためには、人はアダムの命に対する死をくぐらなければならない。

生まれながらの被造物には、どんなことをしても、神の霊と交わる道はなく、それゆえ、神の宮としての機能を発揮することもできない。

その事実を知らず、受け入れられない人々は、生まれたままの命のままで、何とかして最高の美に到達しようともがき、それに値する存在となるために、自分の堕落した命を改造しようと必死に努力し、苦しむ。

そして、目に見える人間の誰かの中に、自分の模範となるべき像を探し求め、その人物を「神」として崇め、忠誠を誓うことで、自分自身も神に連なろうと試みたりするが、その試みが成功することは決してない。

彼らがどんなに被造物を神として拝み、これに近づこうとしても、結果として判明するのは、「自分は神から疎外されている」という事実だけであり、彼らは自分が神として拝んでいるものとさえ、決して一体化することができない。

さて、聖書の創世記が述べている「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。 」(創世記2:24)という御言葉には、霊的な文脈があり、それはキリストと花嫁たるエクレシアの合一を指している。
 
その霊的合一は人自身の中で起こるのであり、そのようにして人が神の霊を入れる神の宮となり、人の内側で神の霊と人の霊が一つとなった状態こそ、人間のあるべき完全な姿であるのだと言える。

人自身が神の幕屋となり、そこに神の霊が入り、神の霊の光によってその宮全体が照らされ、神ご自身だけでなく、宮も神聖とされるのである。

『金閣寺』の主人公は、そのようなことがありうるとは知らないまま、無意識に「永遠の女性美」を追い求める。彼はその理想の中に、神の霊を祀る宮としての機能を取り戻した時の人類の姿を見ようとしているのだとは自分では知らない。

そして、もちろん、彼の目指している「永遠の女性美」も、本当は金閣寺の中にはなく、キリストの花嫁たるエクレシア(教会)の中にしか存在していないことを知らない。

この主人公がそこに至り着くただ一つの方法は、人類を罪から贖うキリストの十字架を経て、自分自身に対して霊的に死ぬことだけである。

その唯一の解決を退けた結果が、霊的死ではなく、物理的な死を通して、この理想と一体化するという悲劇の結末を生むのである。

仏教の世界観においても、グノーシス主義と同様、世界の根源は、虚無の深淵のごとき存在としての「無」であるとされる。従って、仏教哲学の概念に照らし合わせても、主人公が至高の存在として追い求め、憧れている金閣寺には、真のリアリティはないということが分かる。

金閣寺は、結局、エクレシアの模造品としてのバビロンを意味するのであって、被造物が決して十字架の死を通ることなしに、美の極致、完成に至れるという偽りの思想なのであり、それは偽りの幻想でしかなく、その本質は「無」なのである。

しかしながら、人がキリストの十字架を通して贖われ、神の神殿となり、神が人の内側に住まれ、人と共にある状態は、決して人にとって達成不可能なおとぎ話のような理想ではない。

それは人類にとっての悲願であるだけでなく、神にとっての悲願でもあることが、聖書の記述から分かる。

「見よ。神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示21:3-4)

このように、神の霊が人の内側に入り、人が宮としての機能を取り戻すとき、初めて人は永遠の存在となり、自己の完全性を得ることができる。もちろん、最終的な贖いの完成のためには、復活の時を待たねばならず、地上ではその予表を見ているとはいえ、それでも、相当な程度、その完全性にあずかることはできるのである。

だが、聖書が、そのようにして、人が神の霊を受けるための条件として、要求していることは、「人はその父と母を離れて」という事実である。

これは何を指しているのか。より深い意味では、人が罪を悔い改めてバプテスマを受け、キリストと共なる十字架を通して、この世に対して死に、自分自身に対して死に、生まれながらのアダムの命とそれに関わるすべてのものに対して死んで、神に対して生きる者となることを意味する。

そのことが、創世記においても、すでに予表されていたのだと言える。つまり、人が生まれながらの「父と母」との関係を離れ、「生み生まれるという自然の関係」に対して死なない限り、神との出会いも結合もあり得ないことを、創世記の御言葉は予表しているのである。

教会を表す原語エクレシアとは、「この世から召し出される」という意味で、この世から召し出されておらず、天然の関係に死を経ていない者は、神の民とはならず、神の宮ともならない。

詩編の次の言葉も、同じことを意味する。

「娘よ、聞け。
耳を傾けて聞き、そしてよく見よ。
あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。
王はあなたの美しさを慕う。
王はあなたの主。彼の前にひれ伏すがよい。
ティルスの娘よ。民の豪族は贈り物を携え
あなたが顔を向けるのを待っている。」(詩編45:11-12)

これもまた人が生まれながらの出自から召し出されて神の民とされ、キリストの花嫁たるエクレシアに加えられる十字架の死と復活のプロセスを表しているのである。

ヨハネの福音書には、主イエスとファリサイ派のニコデモの次のようなやり取りがある。

「イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。
ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょう。」

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。」(ヨハネ3:3-7)

主イエスの言われた「新たに生まれる」ことは、人がバプテスマを受け、信仰によって、生まれながらの命に死に、キリストの命によって新たに活かされることを意味する。それがなければ、人は神の国に入ることはできない。生まれながらの命に生きる姿のままでは、誰一人、神の霊をいただいて宮となることは不可能なのである。

次の言葉も同じように、生まれながらの関係に対する霊的死の必要性を述べている。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:34-39)

聖書は、父と母を敬えと教えており、両親を憎むべきとは教えていない。しかしながら、イエスは、人が神を愛する以上に、自分の生まれながらの出自や家庭を大事にして生きることは無理であると教える。

神に従う過程で、信者らは必ず、父や母への天然の愛情、娘や息子への天然の愛情という、「生み生まれる自然の関係」に基づく魂の情愛を死に渡さなければならない時が来ることを示されたのである。

従って、聖書の教えは、国家神道が教えるような「生み生まれるといふ自然の関係を本とし」て、人が神の国に到達できるというものではない。それは絶対的に不可能である。

それで人はその父と母を離れて」とあるのは、真に人がキリストに結ばれるためには、必ずキリストと共なる十字架を通して、自分自身の生まれながらの命や、天然の自己、この世、肉にあるすべての関係に対して死を通らねばならないことを示しているのである。

そういう意味で、「父と母を離れ」るという言葉の意味は非常に深いと言える。それは人が生まれたままの姿では、決して神の国に入ることができないことを示している。

しかし、すでに述べて来たように、今日、実にキリスト教界においては、この原則が破られて、さかさまの教えが説かれているのが現状である。

たとえば、多くの他の教会では、一人の信者の一家全員が救われて教会に所属し、「クリスチャンホーム」が形成されることこそが、信者の目指すべき到達目標であるかのように教えられる。

この世の習慣を通して「父の日」や「母の日」といったイベントが祝われるだけでなく、さらには、信者の家族であれば、救われていなくとも、教会の一員であるかのように教会で葬儀が行われたりするのが現状である。

肉による親子関係が、十字架の死を経ることもなしに、公然と神の家族であるかのように教会に持ち込まれているのである。

しかし、我々は、聖書を通して、神の家族と、肉による家族との間には、何の関係もないという事実を見る。

主イエスは、公生涯を始められてから、肉による親子関係を全く神の家族の中に持ち込むことは全くなさらず、生みの親子であるからと言って、ご自分の肉親を、信仰によって結ばれた神の家族以上に重んじることは全くなさらなかった。それは次の御言葉から明らかである。

「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカ11:27-28)

「イエスが群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人がわたしの兄弟、姉妹、また母である。」」(マタイ12:46-50)

また、イエスは十字架にかかられた時、自分を生んだ母を目の前に見て、次のように言われた。

「イエスは母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(ヨハネ19:26-27)

このように、イエスはご自分の肉親を、信仰を持つ他の人々の前で、特別扱いすることはなさらなかったが、ついに十字架の下で、肉による親子の絆は本当に断ち切られ、それに代わって、信仰による神の家族が成立したのである。

使徒行伝では、イエスの母マリアとイエスの兄弟たちが、何一つ特別な待遇を受けることなく、他の信徒の兄弟姉妹と同じように、共に集まり、祈っている姿が描かれている(使徒1:14)

このように、主イエスは徹底して肉にある絆を退けられ、信仰によって結ばれた神の家族としての絆を重んじられた。にも関わらず、今日のほとんどの教会ではそれが完全にさかさまになってしまっているのである。

今日の教会では、ペンテコステ・カリスマ運動のように、あからさまに「キリスト教には父性的要素ばかりが強すぎて、母性的要素が足りない」と、ケチをつけることはないかも知れないが、それでも、「キリスト教はこれまで社会的強者ばかりを伝道対象とし、社会的弱者を容赦なく見捨てる冷たい宗教であった。キリスト教はこのような残酷な欠点を克服しなければならない」と言って、信仰によらない弱者救済活動に非常に熱心となる風潮は至る所に見られる。

ホームレス伝道やその他の慈善事業といった、本来、この世のNPOや市民団体が行うべき社会事業にまで、教会が積極的に乗り出し、弱者救済活動を売り物にして注目を集め、あるいは、カウンセリングなどと称して、精神的な弱さを抱える人々を積極的に招き寄せては、支援を表明する。

しかし、こうした弱者救済活動は、人の弱さを美化し、甘やかすことはしても、弱者を決して弱さから解放することはない。それどころか、人の弱みをきっかけとして、弱者をさらなる搾取と支配の中に巻き込んで行くだけである。

人の弱さ、愚かさ、恐れ、恥の意識、罪意識は、本来的には、罪から来るものであり、主と共なる十字架の死に渡されるべきものである。

教会が、そうした人の弱さを、あたかも大いに同情を受けるべき、哀れまれるべきものであって、まるで貴い神聖な要素であるかのように扱うことは根本的に間違っている。

だが、そのようにして、アダムの命に属するものは何であれ、すべて十字架で霊的に死に渡されねばならないという聖書の真理を無視して、教会が各種の弱者救済活動に熱心になり、弱者を美化した結果、今日の多くの教会には、元ヤクザ、元ホームレス、元カルト信者、障害者、病者などの社会的弱者が溢れ、特別な事情を抱える、精神的な弱さを持つ人たちが溢れ、これらの人々が、まるで自己の弱さを聖なる要素であるかのように考えて誇るという転倒した現象が起きているのである。

教会が「病院」や「駆け込み寺」のようになってしまった挙句、病院ならば、きちんと治療を施して退院させてくれるからまだ良く、「駆け込み寺」は一時的な退避の場でしかないが、いつまでも「愛」や「憐れみ」を口実に、人の弱さを甘やかし、助長するばかりで、何の治療も施さず(もちろん、病院でないのだから、教会が人の弱さの治療などできるはずもない。カウンセリングにしても同じことである)、人の弱さに終わりなき同情の涙を注ぎ、これを壊れやすい宝石のように扱うばかりで、かえってより一層、人がその弱さを手放して力強く立ち上がることが永久にできなくなるように仕向けているのである。

このようにして、今日のほとんどの教会は、旧創造に属するものを死に渡すどころか、これらを惜しみ、いたわり、哀れみ、尊びながら、本来ならば十字架で死に渡されるべき数々の肉にある関係、罪から来る弱さ、この世とのつながりを、あたかも信仰生活の欠かせない一部であるかのように説き、公然と受け入れている。

そういうことの結果、今日、教会と名のつくほとんどすべての教会において、信仰生活は、父なる神を中心とするものでなく、被造物を中心とする、被造物を喜ばせるための教えに代わってしまった。

福音とは、人間の指導者が、信徒の弱みにつけこみながら、信徒を搾取して生計を成り立たせるための手段でしかなくなり、人間の宗教指導者に栄光を帰する手段となり、信仰は、被造物を喜ばせるこの世的な祝福や恵みを引き出す手段とみなされ、信仰生活の目的は、自分たちだけが、どれだけ多くの恵みを獲得して、他の信徒の及ばない特権階級としてハッピーな生活を送れるかにあるとさえ考えられるようになったのである。

聖書の御言葉が骨抜きにされ、キリスト教が、父なる神ではなく、被造物を喜ばせる教えへと変えられているのである。

これはもうキリスト教ではない。それは明らかに被造物崇拝という、キリスト教とは異なるグノーシス主義的な偶像崇拝の教えである。

そこで、人がこのような偽りの只中に身を置き、目に見える人間を拝み、自分の欲望を満たすために、神を求め、信仰を手段として利用しているうちは、その信者の内に本当に神が住んで下さり、ご自分を現して下さることは決してない。

彼らが哀れみ、救済しようとしている対象は、神が十字架において、廃棄することを決定された古き人間であり、彼らが拝んでいるものは、キリストの十字架の死を経ていない、旧創造としての目に見える人間なのである。

このような教えは、根本から十字架に逆らう偽りであるから、これと分離・訣別しないことには、結局、そういう教えを信じている人々は、最終的には、金閣寺の主人公と同じような結末を辿るしかなくなる。

神殿とは、神を祀るための場所であり、俗世とは完全に区別された聖なる領域であって、ただ神のためだけにもうけられた特別な場所である。

ところが、クリスチャンを名乗っている信者らが、誰を神としているのかも分からない生活を送り、己が欲望を満たすためだけに信仰生活を送り、目に見える宗教指導者を誉め讃えていれば、一体、そんな人々を、誰が神殿と認められようか。

「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとべリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。

神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。

「そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主は仰せられる。」(Ⅱコリント6:14-18)

「あの者ども」は、被造物を神として拝んでいるすべての人々のことを指す。それはキリスト教の神を知らないがゆえに、この世の様々な誤った思想のとりことなって生きている世人のことではなく、まさにキリスト教を知っていながら、神の御言葉を曲げて、それを被造物中心、人間中心の教えへと歪め、虚偽の福音を宣べ伝えている偽善者たちのことを指すのである。

残念ながら、今日、数々のキリスト教会で教えられているのは、このように転倒した教えであり、クリスチャンを名乗っている人々の大半は、そうした偽りの教えを信じる人々である。

これを行き過ぎた悲観であるとは思わないでもらいたい。なぜなら、聖書ははっきりと以下のように予告しているからだ。

だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」(Ⅱテモテ4:3-4)

「だれも健全な教えを聞こうとしない」時代がすでに来ているのである。

もはや9割以上の”クリスチャン”を名乗る人々が、グノーシス主義に汚染された被造物中心の教えを拝し、神を信じると言いながら、自分自身の欲望を拝んでいると言って過言ではない。

そのような人々は、自分に都合の良い話を述べてくれる教師たちをてんでんばらばらに担ぎ上げては、その指導者を偶像として足元に群がっているが、聖書は、クリスチャンがキリストに従う上で、いかなる目に見える「教師たち」からも教えを受ける必要はないと述べている。

「以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(Ⅰヨハネ2:26-27)

御言葉がこのように、御霊に聞くよう教えているのに、目に見える人間から教えを受けることが必要不可欠であるかのように説く教えは、まさに聖書をさかさまにした偽りであり、その根本には、被造物を神として崇めるグノーシス主義があればこそ、そういう結果が出るのである。

今日、キリスト教界を名乗っているところでは、例外なく、御言葉を取り継ぐ教師を名乗る「牧師」が存在するのも、同じ理由からである。

牧師制度とはグノーシス主義的なヒエラルキーを教会に持ち込んだものであり、宗教指導者を神として目に見える人間い栄光を帰し、信徒への搾取を肯定する霊的階級制度なのである。

そのような制度を敷く教会では、信徒は目に見える人間である牧師を介することなく、信仰生活を送ることはできず、このようなシステムの中にいる限り、信徒がキリストの御霊から直接真理を教わって生きることは無理である。

だからこそ、そのような忌むべき場所からは、エクソダスせねばならないのである。

こうした教会にいる信者たちは、どんなに熱心に教えを乞うているつもりであっても、被造物を神として拝むことによっては、決して誰も神の国に入ることはできない。そこで、彼らは、自分たちは神を信じていると言いながら、ますます神から遠く「疎外」され、不自然で異様な生き方に転落していく。

そして、自分たちの罪を覆い隠すために、神に忠実に生きている兄弟姉妹や、本物のエクレシアである神の教会を攻撃したり、最後まで、自分が誤っているという事実から逃避し続けるために、自決のような形で自ら世を去るか、もしくは集団自殺を遂げるか、あるいは病や、精神的弱さや、罪や、それまでさんざん彼らが「哀れまれるべき弱さ」であるとして振りかざし、美化し、誇り、甘やかして来た自分のわがままのツケを支払わされて、罪に問われたり、刑罰を科されたり、病に飲み込まれたりしながら、自滅の道を辿るしかないのである。

キリスト教とは、十字架の死をキリストだけに押しつけて、人間だけはこれを元手に恵みに満ちたハッピーな生活を送れば良いというお手軽な教えではない。むろん、それは人間が苦行にいそしむことで「自らの十字架を負う」という教えでもないが、主と共なる十字架における霊的な死を受け入れた人々だけが、神の定めた滅びの刑罰を免れることができるわけであるから、アダムの命を愛し、天然の自己を愛し、己が欲望を神とする人々が、キリストだけにすべての苦しみと恥を押しつけたつもりいなって、自分は十字架における霊的死を免れられたかのように錯覚できるのは、ほんの一瞬でしかない。十字架を逃れたと思っていると、彼らにはその代わりに、現実の滅びが襲いかかるだけなのである。

もう一度書いておこう。イエスは言われた。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

また、パウロも言った。

「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。

何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです、彼らの行き着くところは滅びです。彼らは 腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に造り変えてくださるのです。」(フィリピ3:17-21)

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神に疎外された者たちによる神への復讐としての「エクレシア殺し」

・「イゼベルの霊」(被造物崇拝)による歪んだ支配がグノーシス主義者の心にもたらす尽きせぬ怨念と復讐心

さて、ようやく本題に戻ろう。当ブログでは、東洋的な「母なるもの」を神とする母性崇拝の思想は、グノーシス主義的被造物崇拝に起源があることを論証して来た。 

グノーシス主義とは、唯物論の教えでもある。なぜなら、この教えは聖書とは反対に、見えるものが、見えないものではなく、見えるものから出来たとしているためである。

聖書の秩序は、次のように言う、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブル11:3)

グノーシス主義は聖書の唱えるこの秩序をさかさまにする。グノーシス主義は、まず第一に、世界の創造を、「神の言葉」によるものではなく、神が自分自身の像を水面に映し出すようにして、自らの「似像」を造ることによって始まったとしている時点で、「目に見えるものが見えるものからできた」かのように聖書の秩序を壊している。

グノーシス主義とは、父なる神がすべてを創造し、支配する方であるという原則を逆転させて、被造物に過ぎない者が、父なる神の神聖を盗み取ることで、被造物自身が神となって、父なる神を被造物の欲望に従わせようとすることを正当化する教えだということを見て来た。

そこで、我々は、鈴木大拙がしきりに説いていたように、「母を守る」ことを至高の価値とする東洋思想の考えの根本にあるのも、グノーシス主義であり、そこで言われている「母」とは、被造物全体を指しており、要するに、人類を指しているのだと理解することができる。

結局、東洋思想における「母を守る」という思想は、グノーシス主義の言う「ソフィアの過失を修正する」ことと同義なのである。つまり、それは神ご自身から、神のご性質を不当に盗もうとした悪魔と、その悪魔につき従って堕落した人類の欲望を正当化することに、人類は全生涯を捧げて生きよ、という悪しき思想なのである。

キリスト教を知らず、東洋思想の中だけで育てられた人間は、無意識のうちに「母を守る」ことを至高の概念のように考えて生きているため、このような考えが罪であることを知らない。

だが、クリスチャンとなっても、未だそうした思想から抜け出せない大勢の人々が存在する。彼らは無意識のうちに、人類を至高者のように考える被造物中心の思想に従っているため、クリスチャンを名乗っていても、実際には、神を人間の欲望を叶える道具とし、人間の栄誉を保ち、人間が恥をかかなくて済むことだけを第一として行動する。

そして、聖書の御言葉に基づき、人間の悪なる本質を明らかにするような言説を見つけると、憤激して立ち向かって来ることもある。

このような人々は、父なる神の目に、唯一正しいと認められる存在が、キリストだけであるという事実を認めようとせず、キリストだけに従うと言いながらも、同時に、キリストに匹敵する「誰か」を担ぎ上げ、その人間を宗教指導者とし、神のように栄光を帰しながら、その人物を拝み、誉めたたえる。

最後には、その人物を栄光化するだけでなく、その人物に従っている自分自身をも、神だと宣言して誉め讃えるまでに至るのである。

そういうことは、教祖を再臨のキリストと同一視する異端の宗教団体だけで起きることだと考えるのは浅はかである。目に見える人間を神の代理人のようにみなし、信徒にまさる階級であるとして、ほとんど絶対化している牧師制度は、教祖を再臨のキリストとして拝む宗教と実質的に何も変わらない。

だからこそ、異端の宗教団体で起きているのとほぼ変わらない腐敗した現象が、キリスト教界でも起き続けているのである。それはプロテスタントに限った話ではなく、カトリックも同様である。

そういう問題はすべて、彼らが根本的に人間の本性を偽り、人類について美化されたフィクションを作り出してこれを教会に持ち込み、その幻想のフィクションの象徴として、現人神のような宗教リーダーを作り出し、その人物を拝み、褒めたたえることにより、人類の欲望を賛美しているために起きているのである。

私たちは、先の記事で、大田俊寛氏がグノーシス主義における「父なる神」の概念はフィクションであるが、「父とはフィクションを創設することによって、人間社会を統御する者である」と述べ、「フィクションとしての父」が、家制度の基礎となり、共同体社会の基礎となり、都市国家の基礎となって行ったと説明していることを見て来た。

聖書を参照する限り、私たちは、人類には神と悪魔という二種類の「父」が存在することを見て取れる。イエスは偽善的なユダヤ人たちに向かい、彼らは悪魔を父として生まれた種族であるとはっきり指摘された。

「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。<略>神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」(ヨハネ18:43-47)

だが、ここで、悪魔を父として生まれたと指摘されたユダヤ人たちは、地上的な自分の生まれに大いなる誇りを持つ人々であった。彼らはアブラハムを父祖に持つ選ばれた民であり、それぞれ立派な出自を持っており、自分の家系図について大いに誇るところがあっただろう。他方、それに比べ、異邦人たちは、選民でないため、初めから救いに縁のない人々として蔑まれていた。

ところが、イエスは、生まれながらの出自がどれほど由緒あるものであれ、さらに行いの上でも、律法を落ち度なく守っていたとしても、信仰がないユダヤ人たちは、悪魔を父とする民であり、悪魔の欲望を満たすためにしか生きていないと宣告し、ユダヤ人たちが最もよりどころにしている地上の由緒ある生まれを根こそぎ否定されたのである。

こうした記述からも、我々は、グノーシス主義が言う「フィクションとしての父」とは、本質的に悪魔を指しているとみなせる。イエスが述べた通り、悪魔は「偽り者」であって、「彼の内には真理がな」く、「悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている」ためである。まさに「フィクションとしての父」という呼び名がふさわしい。

しかし、聖書の父なる神は、「わたしはある」と言われる方であり、フィクションとしての父ではない。すでに述べたように、聖書の父なる神は、ご自分の子供たちが誰であるかをちゃんと見分け、ご自分の子として受け入れた者に、父として「宣誓」をされる。イエスがバプテスマを受けられた時に、神はイエスがご自分の心にかなう子供であることをはっきりと他の者にも分かるように示されたのである。

しかし、グノーシス主義の「父」はもともとフィクションであって、お飾り的な存在でしかないため、決して我が子が誰であるのかを、人前ではっきりと宣言することなく、それを良いことに、「子」の側でも、好き勝手に「父」の権威を濫用して、詐称に詐称を繰り返す。

「万世一系」などとされる天皇家に関する神話も同様で、神武天皇などと言う存在は、学術的にも実在性が認められていないようだが、こうした神話を継承しようとする勢力から見れば、重要なのは、実在性が認められるかどうかという議論や、生物学的な血統が証明されうるかといった問題ではない。

ただ「神聖なる始祖」の威光を代々継承するために「家」制度が続いて来たのだという「神話」が維持されることにより、その「家」のルーツが正当化され、権威づけられ、栄光を失わなければそれで良いのである。

当ブログでは、かつて「国体の本義」を通して、国家神道においては、「生み生まれるという親子の立体関係」がほとんど絶対視されており、その「生み生まれる親子関係」に基づいて、臣民と天皇との関係が定義されていたことを述べた。

このような親子関係は、地上における「生み生まれる親子関係」を指しているとは言っても、文字通りの生物学的な絆を指すのではない。そこには大いなるフィクションが混じり込んでいるのであって、そこで重要なのは、生物学的な血統が証明されるかどうかではなく、たとえその「親子関係」が虚構のものであろうと、「神聖な始祖」から「神聖な火花」を受け継ぐ「家制度」が存続して来たという「フィクション」が維持されることが肝心なのである。

さらにそのような神話に基づく家制度が、「一大家族國家」として、国家レベルにまで高められたのが戦前の国家神道である。

こうして、国家レベルで「万世一系の天皇家」というフィクションが作り出され、それと並行して、国民レベルでは「ご先祖様」を「神聖な始祖」として崇拝する「家制度」が存続した。

しかしながら、こうした神話が社会に何をもたらしたかは明らかである。グノーシス主義が「父とは、フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者」と主張するのとは裏腹に、そのような壮大なフィクションによって、人間社会が統御されたり、秩序が保たれることはない。逆に、国家レベルにまで膨らんだ虚構の神話は、大勢の人々を破滅に巻き込みながら、最後には風船のように弾け飛んで消えてなくなったのである。

こうしたグノーシス主義的な神話は、国家神道や、先祖崇拝に基づく家制度のみならず、王権神授説や、国民全員の負託によって国家権力が出来たという現代社会の国家観などにも、共通して流れていることであろう。

要するに、この世には、時代を超えて常に人間存在に意義を与え、社会のヒエラルキーを成り立たせるための何らかの「神話」が存在しており、要するに、現実がどうあれ、この世全体が、悪しき者の支配下にあって、偽りの父である悪魔が作り出す「壮大なフィクション」によって、様々な権威づけがなされ、それによってあたかも社会が「統御されている」かのように、見せかけの秩序と幻想が保たれているという事実は、時代を超えて変わらないのである。

「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」(Ⅰヨハネ5:19)

だが、そのようにしてフィクションに過ぎない神話の守り手となった人々には、虚偽を真実であるかのように告白し、先祖の罪をかばい立てするために辻褄合わせの嘘をつき続けて生きるという大いなる苦悩が降りかかる。

そのような「フィクション」に閉じ込められた人々は、一方では、家族の絆や、天皇と臣民の関係や、国家的なレベルで作り出された神話や、宗教指導者との関係や、独裁者から信任を得ていることなどを誇りとし、その関係を神聖なもののように誉め讃えながらも、もう一方では、「父なる神」を骨抜きにして自分を支配する「母」なる被造物に対する尽きせぬ憎悪と復讐心を無意識のうちに心に募らせて行くことになる。

もちろん、彼らには、自分が本当は「母」を憎んでいるのだという意識はない。自分が身を委ねているヒエラルキーや、それを成り立たせている価値観が幻想だという認識もなく、それに反逆する意図もない。だが、これまで書いて来たように、人類のアイデンティティは「喪失した父」を真に回復することによってしか見いだせないため、「父」を名目だけの存在として、その存在を骨抜きにし、「フィクション」にしてしまう「母」の存在は、決して「子」にとってためにならず、「母」の呪縛(被造物崇拝の呪縛)はかえって「子」を破滅に追い込むだけなのである。

すでに述べて来たように、目に見えるものを神とする「イゼベルの霊」(被造物崇拝)は、「子」を永遠に自立させず、自分の罪をかばうための道具として支配する。そこで、人類の罪をかばい立てするという無理な仕事を負わされて、その神話のために犠牲になって生きるしかなくなった人々には、自分は神に拒まれ続けて、「父」を喪失したまま生きねばならないという鬱屈した怨念がたまりにたまって行くのである。

何しろ、彼らが敬愛する「母」は、どんなに思いを寄せて仕えても、彼を「嬰児」のように扱い、道具として支配し、利用するだけで、決して自由を与えず、一人の人間としてのプライドをも認めない。

そうであるがゆえに、人類はそういう「母」を敬愛しているつもりでありながらも、その支配を受ければ受けるほど、「母への歪んだ愛」が、やがて本人の中で、憎しみと怨念と復讐心に変わっていくのである。
 
彼らは「母」と運命共同体として結ばれているため、その関係から抜け出ることができず、「母」に直接反逆することができない。そのため、彼らの憎しみと怒りは、本来、向かうべき「母」へは向かわず、「母よりも弱い女性」に向けられるという屈折した形を取ることになる。

一言で言えば、彼らの怨念は、自分自身を疎外し、「母」を脅かす「父」の存在へと向かい、ここに、グノーシス主義者による「神殺し」というプロットが生じるのであるが、目に見えない「父なる神」を殺すことは、人間には不可能なため、グノーシス主義者に残された手段は、「父なる神」の似姿が投影されている神の教会を破壊し、神の神殿である自分自身を破壊することだけとなる。

「イゼベルの霊」による支配に耐え切れなくなった人々の怨念は、まずは神に愛される神の子供たちへ向かう。すなわち、キリストの花嫁である「エクレシア」へと向かい、教会の破壊という形になって現れ、最後に、神の神殿として創造された自分自身へ向かい、「自分殺し」となって終わるのである。

ここで、当ブログでは、なぜ村上密や唐沢治や杉本徳久のようなカルト被害者救済活動の支持者が、キリスト教そのものを告発することをライフワークにして来たのかを思い出したい。しかも、彼らがとりわけ女性指導者や女性信者などを標的に攻撃をしかけて来たことを思い出されたい。

「イゼベルの霊」による支配は、東洋的な「情」による支配であるが、これはマザー・コンプレックスとも密接な関係があることは幾度か記した。なぜなら、「父」(男性)という存在が、知性に基づいてすべての物事に善悪の区別をつけ、秩序や規則によって支配する象徴であるとすれば、「母」(女性)は、すべてを善悪の区別なく慈愛によって包容する情意的な存在だからである。

一人のグノーシス主義者が誕生する背景には、このような「母性的な情愛による支配」が、「父性的な知性や規則による支配」に比べ、圧倒的に優位にある環境で育ったという事情があることは珍しくない。もう一度、鈴木大拙の言葉を通して、どれほど「母性的な要素」が東洋民族の心理の根本となっているかを振り返ろう。
 
 

「万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。

 欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。キリスト教はマリアを聖母に仕立てあげたが、まだ絶対性を与えるに躊躇している。彼らの神は父であって母ではない。父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。

 ここに母というのは、わたしの考えでは、普通にいままでの注釈家が説明するような道といったり、また「ゴッドヘッド」といったりするものではないのである。もっともっと具体的な行動的な人間的なものと見たいのだ。しかし今は詳説するいとまをもたぬ。」
(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、pp.13-14、太字、下線は筆者による)


このような「女性的な情愛による支配」は、母だけでなく、祖母からの支配という形で現れることもある。たとえば、杉本がブログで祖母から溺愛にも近い愛情を注がれて育った事実を記したり、長い間、親しい人々の間で「ちゃん付け」で呼ばれるなどして、ある種の子どもを喜んでいた事実を自ら記していることは興味深い。

杉本はこうしたことが、自分の心を圧迫し、束縛する枷となったという事実を認めていないのであろう。しかし、実際には、その記事が書き記された時、杉本は自ら三十代であったことを告白しているわけだから、その年齢になっても、まだ「ちゃん付け」で呼んでくれる人が少なくなったと寂しがったり、祖母に溺愛されて育った親族関係を強調するなどの行為は、大人の社会人である男性としては、相当に年齢不相応な子供っぽさを感じさせる行動である。だが、ペンテコステ・カリスマ運動の信者の告白には、これよりももっと年配の信者であっても、年齢相応の落ち着きが全く感じられない例が少なくないことはすでに述べて来た通りである。
 
このように、子供時代から「父性的な要素」よりも「母性的な要素」を重んじる環境の中で、無意識のうちに、「女性的なるものの」に心を絡めとられ、その代弁者として行動することを求められながら生きて人々の心の中には、本来であれば、父親をモデルとして作られるはずの、健全な自己像、揺るぎない自信、確固たるアイデンティティが喪失しており、「自分が何なのか分からない」という、不確かでコンプレックスに満ちた自己が形成されることが多い。

しかしながら、本来であれば、聖書に「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。 」(創世記2:24)とあるように、人間はまず、生み生まれるという、肉による家族関係を離れて、初めて一人前となるのであるから、父からも母からも離れねばならない。

この地上の人間社会においては、肉による自分の両親に心から満足している人はほとんどいないであろう。ある人々は、両親が優れた知性や美貌の持ち主でなく、億万長者でなかったがゆえに、自分が子供として受けられる恵みが不足していたと考えるであろう。いずれにしても、肉による親子関係は、いつも子供にとって不公平であり、それゆえ、大変に不完全なものでしかない。

聖書は、そのような肉による地上の親子関係に対して、信仰者は十字架を通して死ぬ必要性を説いている。そして、そのことは一般的に考えても、常識にかなっていると言えるだろう。人が一人前になるためには、父からも離れねばならないが、まず最初に離れねばならない存在が「母」である。まずは、母のへその緒から分離され、次に乳離れし、精神的にも、「母」を離れて新たな家庭へと旅立って行かねばならない。

ところが、この分離が上手くいかず、いつまでも「母」なる被造物とへその緒で結ばれ、「母」の子宮に閉じ込められるがごとく、嬰児扱いが続き、「生み生まれる関係」から脱することができなくなると、人は精神的に大人になることができなくなり、著しい幼児化が起きるなど、精神が歪められてしまう。

それは個人の家庭のレベルだけでなく、国家レベルでも起きうる。たとえば、臣民は天皇の「赤子」であると教えられたり、牧師夫妻を「霊の父・母」として、信徒はその「子」であるなどと教えを受けた人々は、目に見える被造物を「母」として、これとへその緒でつながれたまま、いつまでも分離することができなくなり、健全なアイデンティティを失ってしまうのである。

こういった形で、「母なるもの」に心を絡め取り、被造物崇拝から離れられなくなってしまった人々は、自分を優しく包み込み、すべてを許容してくれる慈愛に満ちた「母」こそが、自分の心を不当に抑圧し、正常な「父なる神」のモデルを失わせて、自分から健全な模範を奪い去ったなどとは疑うこともできないため、彼らの心の内に無意識に蓄積された憎しみや怨念は、「弱い女性たち」に向けられることになる。

その結果として、この種の自立できず、自信を喪失して、コンプレックスを抱える人々の多くは、常に弱みを持った女性を探し出しては、その女性たちを助けてやる風を装いながら、彼女の心を支配して、彼女たちから誉めそやされることで、自分の傷ついた自尊心を埋め合わせようとしたり、もしくは、自分たちから見て「格下」の存在のように見える女性たちを虐め抜いて抑圧することで、自分のコンプレックスや自信喪失を覆い隠そうとする。

このような形で、彼らは自分の心を抑圧し、支配して来た「母なるもの」に対する復讐を果たそうとしているのである。

だが、そこに、我々は「自分よりも弱い女性を抑圧し、罵倒・嘲笑することでしか、男性としてのプライドを保てない」という惨めな人格を見るだけでなく、より深い文脈において、そこには、以下に記すように、被造物の理想であるキリストの花嫁たる「エクレシア」を冒涜し、蹂躙することでしか、神の御前での自分の罪深さ、愚かさ、弱さ、醜さから目を背けることのできない人間の心理を見るのである。
 
 
・神に疎外された者たちによる神への復讐としての「エクレシア殺し」
 
グノーシス主義の「母性崇拝」は、被造物自身を高める教えであるから、それを受け入れた人間に、当初は、陶酔感や、解放感にも似た心地よい満足をもたらすかも知れない。東洋的な「母なるもの」は、人にとって、初めの頃は、自分を優しく包み込み、生かし、守り、養ってくれる生命の源のように見え、かつ、慈愛に満ちた理想像であり、憧憬の的と映る。

彼らは、その「母なるもの」の延長上に、自分が慕う女性美があり、自分の自立もあるのだと考えようとする。「母なるもの」を慕い、追い求めることが、そのまま、未来に理想的な「妻」を得ようとする願望へとつながり、自分が完全な存在になることへとつながるのだと考えようとする。だが、時が経つうちに、そのようなことは不可能であると分かって来る。

「母なるもの」に心を捧げるグノーシス主義者にとって、「母なるもの」の支配は、次第に重荷になって来る。彼は自分では「母」を敬愛し、そこに「最高の女性美」を見ているつもりでおり、憧憬の念を抱いているのであって、憎んでいるのではないと思うかも知れない。

ところが、どんなにその「母なるもの」を守って、離れずに生きても、実際には、いつまでも嬰児として扱われているという屈辱感が募るばかりで、「母なるもの」を追えば追うほど、ますます悔しさと惨めさを味わうことになる。

グノーシス主義における「母」は、一見、慈愛に満ちた存在であるかのように見えても、人の心を拘束し、支配するだけで、決して自分自身を彼に与えようとはせず、人を一人前の存在とも認めないため、グノーシス主義者の心の内側では、「母なるものへの憧憬」が、次第に「憎しみ」や「怨念」へと変化して行くことになる。

その変化の過程を、以前も引用した映画" Mishima A Life In Four Chapters The Criterion Collection] [1985] Paul Schrader "の中から、三島由紀夫の小説の『金閣寺』の主人公の言葉を引用して見てみよう。

 

「永遠(とわ)の美しさっちゅうもんは、怖いもんやで。どんどんどんどん大きなって、何もかも押しつぶしてしまうんや。」 「美しさはぼくの怨敵(おんてき)なんや。金閣寺が滅びん限り、とてもやないが、耐えられへん」


ここで主人公の言う「永遠の美」とは、鈴木大拙の言う東洋思想の「母なるもの」や、ゲーテの言う「永遠の女性」、老子の言う「玄牝」などと本質的に同じであるとみなせる。『金閣寺』の主人公は、金閣寺を「永遠の女性美」として崇め、金閣寺を守り、これを離れず、絶えず追い求めることで、自らの憧憬の対象との一体化を目指そうとしている点で、まさに「神秘なる母性」を至高の存在と崇める東洋思想の担い手であり、根本的にはグノーシス主義者であると言える。

ところが、三島の『金閣寺』の主人公は、吃音という障害ゆえに、自己に深刻なコンプレックスを抱えている。そのコンプレックスゆえに、主人公は、金閣寺という心の理想にはおろか、地上のどんな女性にも近付けない。

(*ここで言う吃音という問題は、より深く象徴的な意味では、人類の罪を示している。人類が罪ゆえに感じる恥の意識や、コンプレックス全般が、吃音の中に象徴されているのである。)

こうしてコンプレックスゆえに、どんな女性からも一人前とみなされることがなく、一人の男性として完全な自信を持てない主人公の苦悩は、金閣寺と関係において、究極的な形にまでクローズアップされ、凝縮される。金閣寺は彼にとって、最高の美の化身であり、女性美の究極的完成であり、彼はこれと一体化し、我が物とすることさえできれば、すべてのコンプレックスから逃れて、完全な存在になれるはずである。

いわば、金閣寺は、この主人公にとって、待ち望んだ花嫁のような存在であり、彼を一人前にしてくれる「妻」のような存在なのである。金閣寺が得られさえすれば、彼は不足だらけの卑俗で惨めな自己から脱して、真のあるべき男性となり、欠けたところのない、非の打ちどころのない一人前の完全な人間となれるだろうという予感を持っている。

戦中には、金閣寺が戦火にさらされ、破壊されたり、消失するかも知れない危険に直面していると考えることによって、この主人公は、自分が憧れている金閣寺も、自分と同じように、弱い存在として、共に受難を受けているのだと考えて心を慰め、金閣と一体になれずとも、騎士のように金閣を守ることによって、自分は金閣から必要とされているのだという誇りを持つことができた。

ところが、金閣の美は、戦火によっても少しも動かされることなく、この「永遠の美」は、地上の何物によっても影響を受けず、不動の美をたたえているだけで、戦争も含め、地上の一切の醜く、歪んで、不自然で、不完全なものを寄せつけない。

主人公が金閣寺を守ってやることによって、金閣寺に少しでも近づけるかのような幻想は、むなしく砕け散った。金閣寺はそれ自体が完全であり、独立しており、永遠に誰の助けも必要としておらず、まして、コンプレックスだらけで醜い主人公の存在など全く寄せつけず、初めから必要としていなかった。

そのことが分かり、主人公は打ちのめされる。金閣寺は常に完璧で、弱さのかけらも見せず、とりつく島がない。どんなに憧れ、熱心に追い求め、守ってやろとしても、主人公の手を冷たく振り払うだけで、彼にとっての「永遠の美」は、どこまで行っても、不完全な人間とは交わることがない。それはまさに人間を寄せつけない「サンクチュアリ」である。

金閣寺は、主人公の心を一方的に捕えることはしても、彼の側からの接近を許さず、金閣寺から彼に突きつけられる回答は、いつも「(あなたはあまりにも惨めで低い存在でありすぎるがゆえに、永遠の美には)値しない」という結論だけであった。

主人公は、自分が理想として拝んでいるものから絶えず「値しない」という宣告だけを突きつけられるという繰り返しに絶望する。金閣寺と一体化することによってしか、完全な存在になれないにも関わらず、金閣寺が自分を拒んでいることにより、その目的は永遠に達成不可能となっているのだ。

そうなっても彼は金閣という偶像を心の中から捨てることができず、そのせいで、ただでさえ、人前でもコンプレックスを覚えずにいられない上に、金閣寺のように完璧な美と絶えず比較されて、絶えず途方もない屈辱と惨めさを味わわねばならない。

ついに主人公は、自分にそれほどまでの耐え難い惨めさしか味わわせることのない金閣寺を憎しみの対象とみなし、「殺そう」と考える。自分の心を一方的に支配し、翻弄するだけで、決して、その存在を自分には与えず、常に自分とは比較にもならない崇高な存在として、高みにいて勝ち誇り、自分に疎外される惨めさと屈辱だけを味わわせる金閣寺を焼き払うことによって、彼は自分を拒み、惨めにさせるだけの「永遠の女性美」に対して復讐を成し遂げ、これを否定し、美醜の概念そのものを葬り去ることによって、それを乗り越えることができると考えようとするのである。

主人公は、寺という有限なる物質を焼き払うことによって、目に見えない「永遠の女性美」という、それまで自ら信奉して来た理想自体に復讐を果たそうとしたのであった。

彼は、言わば、「神殺し」のような作業に着手したわけであるが、正確に言えば、彼が破壊したのは神ではなく、神を入れるための「器」であり、「神の宮」である。

「宮」を冒涜し、破壊することによって、彼は、自分自身がそれまで「神」として拝んできた理想を否定し、それを否定的に乗り越えることで、自分自身が「神聖」となり、誰にも支配されることのない絶対的な主人になろうとしたのである。



三島由紀夫は、小説『金閣寺』の原文において、主人公による金閣寺へのこの放火という犯罪行為を、決して悪なる所業として断罪してはいない。小説は、主人公に厳しい報いの足音が近づいていることを知らせながらも、主人公の心に生じた何かしらの清々しい解放感を描くところで終わっている。

このことは、三島自身が、グノーシス主義者であって、この放火をどちらかと言えば、「解放」という側面からとらえていたことを意味する。そのような立場は、三島自身の最期にもよく表れている。

しかしながら、上記の映画は、ある意味では、小説よりも進んで、三島の描こうとした内面的な葛藤を、決して主人公の立場に一方的に肩入れすることなく、より客観的にとらえている。

この映画を観れば、それが決して主人公の放火をすがすがしい「解放」として描いたり、その行為に賛同することはしておらず、かええって三島自身の生きていた世界観の歪みをもそれなりに理解した上で、三島の人生に重ねて、この主人公の心に起きた悲劇と絶望を描き出そうとつとめていることが分かる。

この主人公は、金閣寺を葬り去ることによって、自分を苦しめている「被造物の理想像」から解放されようと考えたのだと言える。だが、逆説的に、彼が自分を疎外しているとして憎み、否定しようとした「金閣寺」は、彼自身の存在でもあった。

それは「神の宮」であるがゆえに、主人公が自分を殺すことと同義だったのである。むろん、物語は、主人公が金閣寺を焼き払ったところで終わっているため、その後、主人公が逮捕されて刑罰を受けねばならないとか、それによって主人公の人生は破滅し、金閣に身を捧げることだけが唯一の人生目標だった彼は、残る人生において、抜け殻同然となるといった事実は描写しない。

しかしながら、我々は、小説の枠組みを超えて、ここに不思議なパラドックスが存在しているのを見ることができる。つまり、金閣寺を焼き払うことにより、自ら神を「簒奪」し、「神」になろうと、「神の宮」の強奪と破壊行為に及び、「神殺し」を試みた人間は、結局、自分で自分の首を絞め、滅ぼすことになったというパラドックスである。

筆者は、三島由紀夫は無意識かも知れないが、この物語を書いた時点で、自分の最期を予告していたも同然だと考える。

聖書によれば、人はみな神の宮とされるために創造されたとあり、神の神殿を壊す者は、自分を破壊しているのと同じで、やがて自滅へ至るのである。

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなた方に宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」(Ⅰコリント3:15-16)

むろん、聖書がここで「神殿」という言葉で指しているのは、直接的には、キリストへの信仰を有し、神の霊を内側に持っているクリスチャンを指すのであって、信仰のない人々を「神の神殿」であると呼んでいるわけではない。また、仏教の寺を、キリスト教における神の宮と同一視することもできない。

とはいえ、深い霊的な意味においては、人はみな神の宮となるべく創造されたのであって、どれほど堕落して、神から遠く離れて生きており、聖書の御言葉を信じてもいないにせよ、それでも、人に備わっている宮としての機能がすべて否定されるわけではないのである。

むろん、「神不在」の宮は、宮として機能しておらず、荒れ果てて死んだ器も同然であるが、それでも、あらゆる「宮」には、神の霊を入れる器という意味が込められているのであって、そこで、人が神の宮を破壊するという行為に及ぶことは、同時に、神の霊を入れるための器であり、神の宮となるべく創造された自分自身を破壊するという行為を象徴的に意味するのである。

だからこそ、『金閣寺』の主人公は、金閣寺を焼失させることによって、自分を苦しめていたコンプレックスの呪縛から解放されることはなく、かえって金閣寺と共に自分の人生を失うことになるのである。

彼は金閣寺の理想だけを否定して、その理想から神聖な要素を奪い、自分はこの「神」を否定的に乗り越えて生き残ったつもりだったかも知れないが、実際には、彼の人生は、金閣寺の焼失と共に終わったのである。

これと同様に、天皇を神として「生み生まれる関係」の中に、人間社会の理想を追求しようした三島も、彼自身の「金閣寺」に拒まれた結果、その理想を入れる宮であった自分自身を破壊するという行為に出ざるを得なくなる。天皇も、自衛隊も、三島の語る「理想」には耳を貸さず、彼は自分自身の理想から置いてきぼりにされたのであるが、その時、彼が選んだのは、自分は、自分の信じる理想に「値しない」という事実を直視することではなく、自分自身の存在を抹殺することで、その理想がもともと自分には達成不可能であって、自分はそこから疎外されているという現実から目を背けることであった。

三島が否定しようとした現実とは、彼がどんなに肉体を鍛え、研鑽を積み、崇高な理想を語っても、罪にまみれた人間の一人にすぎない彼には、決して自力では完全に至り着くことができず、どんな理想をも打ち立てることができないという事実である。むろん、三島だけでなく、三島が期待をかけたすべての人間がそれと同様なのである。彼らが望んでいる理想に「値しない」というのがあらゆる人間の出発点である。

しかし、『金閣寺』には、「永遠の女性美」との対比の中で自分が味わう惨めさやコンプレックスを受け入れることを拒み、かえって「永遠の女性美」を滅ぼすことで、自分の罪や弱さから逃れ、自分を義として、罪から解放されようとした主人公の姿が描かれている。

その主人公の姿は、かなりの程度、三島自身に重なる。彼は弱さ、罪、歪んだもの、醜いもの、不完全なものが本質的に悪であることを知り、その克服につとめながら、それを自力で自分から切り離すことができないと分かった時、自ら目指して来た「完全なもの」を否定することで、自己存在の不完全さを否定し去ろうとしたのである。

グノーシス主義がそれを信じた人間にもたらす結論とは、常にこのようなものである。

聖書が教える事実とは、人には生まれながらの自己のまま、キリストの十字架の死を介さずに、神に受け入れられることは決してないというものである。

人には創造された時点で、宮となるべき機能はあるかも知れないが、神がそこへ入って来られない限り、その宮は、単なる死んだ器でしかない。

人の生まれながらの自己がもたらす自覚は、自分は神から遠く離れ、神に拒絶されているという罪の意識だけであって、肉体を改造しようと、精神を改しようと、どんな方法を使っても、人がその罪威意識を自力で払拭して神に至り着くことはできない。

キリストと共なる十字架の霊的死を通って、初めて、人は「新しく造られた者」として神に受け入れられる神の子供とされる。

だが、それが達成されるためには、人がまず己が罪を認めて神の御前に悔い改めねばならない。自己の不完全さ、醜さ、愚かさ、弱さ、欠点、恥といったものを、自分に思い知らせる存在をことごとく退けることで、自分の不完全さから目を背けようとするのではなく、まずはそういうものが究極的には、すべて自己の罪に由来する当然の結果であるとして理解せねばならないい。

もちろん、吃音者を馬鹿にしたり、障害者を嘲ったりする人々の心が陰険であり、力の強弱によって人間の価値がおしはかられるこの世の社会の価値基準そのものが歪んでいるのであるが、だが、だからと言って、自分が暴力を行使して破壊活動に及ぶことによって「強者」の側に立てば、自己の不完全さから逃れられるかと言えば、そうではない。彼はその行為の報いとしてさらに大きな暴力に飲み込まれるだけであり、それでは終わりなき力の争いしか生まれるものはないのである。

人間の不完全さは、すべて究極的には人間自身の罪から来るものであって、神の御前に悔い改めて贖われることなくして、どんなにそれを不当な差別だと叫んでも、人ガ自分でそこから逃れることはできない。

「自分は差別された被害者だ!」などと叫んだり、自分の弱さをダシにして同情を乞うことで、自己正当化をはかることも、自己欺瞞でしかない。

ところが、自分の弱さが罪から来るものであることを認めず、自分に恥の意識をもたらすという理由で、完全なものを否定し、蹂躙、冒涜することによって、自分自身の罪から目を背け、あたかも自分が聖なる正しい存在になったかのように思い込もうとしているのが、カルト被害者救済活動の支持者のような人々なのである。

以上の映画では、三島とおぼしき人物が、幼少期から祖母の精神的な支配を強く受けて成長したために、祖母によって自分が体の弱い人間であると思い込まされ、それゆえ、人前で自信が持てなくなり、大人になっても、絶えず自分の弱さについて恥とコンプレックスを持たずにいられなくなった様子が描かれている。

そこで成長してからの彼は、体を鍛えるなど、様々な方法を通して、自己のコンプレックスから逃れる道を模索し続けたのだが、自分を一人の人間として認めず、永遠に道具として支配する「母なるもの」の支配こそが、そうしたコンプレックスをもたらした元凶であると思い至らなかったために、自分のコンプレックスの真の原因を見いだすこともなく、見当外れな方法でその克服を試みては挫折し続けるのである。

そうこうしているうちに、当初は、「祖母」や「母」という存在に限定されていたはずの、彼の心を支配する「母なる存在」は、やがて彼の中で無限大とも言える巨大なスケールにまで拡大して行き、「神話」となり、「天皇崇拝」といった国家レベルの思想にまでなって行き、耐えられないほどの重圧として、彼自身を押しつぶし、粉々に打ち砕くのである。

「永遠の女性美」なるものが、無限に拡大して、人間の心を打ち砕き、押しつぶしたのである。なぜそのようなことが起きたのかと言えば、彼が誉め讃えていた「永遠の女性美」はリアリティではなく、真のリアリティは、目に見える被造物の側にはなく、目に見えない父なる神の側にあったためである。それにも関わらず、影に過ぎない被造物を「本体」としたことによって、そのフィクションの鏡を見つめるうちに、フィクションが現実とされ、それに合致しない(値しない)彼の自己は奪い去られて消失したのである。

結局、東洋思想は、聖書が言うように、神と人との間に、罪による超え難い断絶があることを認めず、神と人とは本来的に一つであるとして、「神と人との融和」を唱える。そして、「すべてを慈愛によって包含する母」の存在を高く掲げる。

ところが、おかしなことに、そのような思想を実践に移そうとすると、その「慈愛に満ちた母」であるはずのものが、逆説的に、人類をことごく残酷に疎外し、自分の子供たちを「慈愛によって包み込む」はずが、ことごとく「値しない」という宣告を突きつけるのである。

「金閣寺」から疎外されたのは、主人公だけではない。天皇崇拝の思想を信じる三島も含め、は、どれほど多くの人々をこうした被造物崇拝の思想のために弾圧され、疎外されて、殺されたか数知れない。天皇崇拝は、すべての「臣民」を自分から疎外したとも言える。

このように、キリスト教の神が人間を疎外しているのではなく、神と人との断絶を認めず、地上の「生み生まれる関係」こそ、人間生活の根本であるかのように教えるグノーシス主義こそ、絶えず人間を残酷に疎外し続けているのであり、こうした思想を信じると、人は結果的に「父を喪失」するだけでなく、「母」をも喪失して終わることになる。「父なし子」であるだけでなく、「みなし子」にまでなってしまうのである。

彼らは自分たちのルーツを正当化し、自己を取り戻そうとして、かえってすべてのルーツを失い、自己をも失ってしまうという結果に至るのである。

繰り返すが、被造物は、本来は、キリストの花嫁たる教会となるために創造されたため、被造物それ自体では完全となることはできず、被造物は本体の影に過ぎず、そこにリアリティはないのである。

にも関わらず、被造物がリアリティであるかのように誉め讃え、人が己を神として、自力で理想状態へ至り着こうとすると、自己の尊厳、自己肯定感、健全な自己愛が持てなくなるだけでなく、最後には彼らの自己も消えてなくなる。

『金閣寺』の主人公が、寺を焼き払った行為の中には、自分の理想の否定だけでなく、神の宮を破壊する行為を通して、自分自身を否定し、さらに、そこには象徴的な意味で、贖われた被造物の総体である「エクレシア」殺しという悪魔の欲望も込められていると言える。

なぜなら、真の意味での「女性美」は、キリストの花嫁たるエクレシアにしか見いだせないからである。(東洋思想における被造物崇拝は、エクレシアの歪んだ摸造としてのバビロン崇拝と同一である。)

カルト被害者救済活動の支持者は、神の宮である教会を冒涜、破壊し、蹂躙すれば、キリストの花嫁から、神聖な花嫁たる性質を強奪して、我が物とでき、かつ、自分自身の罪や弱さからも目を背けられると考えようとした。

ところが、その試みは成らず、結果として、彼らの恥だけが残り、アベルの流された血が天に向かって叫ぶように、彼らが犯した行為自体が、彼らが最も人前で隠したかった自己の罪、恥、弱さの証拠となる。

彼らがどんなに自分を苦しめる「永遠の女性美」を否定しようとして神の教会に害を加えたとしても、それによって、彼らの罪がいささかも取り去られることはなく、ますます罪が増し加わるだけである。

アベルを殺し、エクレシアを破壊して、自分の罪の証人を目の前から消し去っても、それでも、自分の罪から逃れられないことが分かると、彼らはその事実から目を背けるために、次なる行動に出るしかなくなる。すなわち、神の神殿として作られた自分自身の破壊である。

エクレシアの破壊という行為に手を染めた人間には、例外なく、自分が目指していた究極の目的から疎外されて、自分を滅ぼすという結果が降りかかる。今、現実の物語のプロットは、この最後のステージにさしかかろうとしている最中である。

牧師や教職者を特権階級とする制度は教会を絶対的に腐敗させる~バアルにひざをかがめない七千人の登場を待つ~

さて、いよいよグノーシス主義に関する最後のテーマに近づいて来たが、そのテーマに入る前に、もう一度、牧師制度が根本から誤っていることについて書いておきたい。

牧師制度の根本的な誤りについて書くと読者が激減する。今は当ブログを訪れる読者の数多くが検索結果の操作のための工作員という有様なので、さわやか読者が減っているならば、良いことである。

不思議なことに、アクセス履歴がどうあれ、ここで論じた話題は電撃のごとく伝わって行く。まるで閉塞した全体主義社会のようなキリスト教界において、はっきりものを言う人は極めて少ないため、影響力は少なからずあると見られる。

さて、ネットにブログを開設したり、コメントの投稿を行っている人々は読者のうちのほんの一部で、残りの8~9割はネット上ではほとんど発言しない人々である。だが、筆者が読者とみなしているのは、もの言わぬ人たちである。

日本のクリスチャン人口は1%を横這いしていると言われるが、それは統計が取られた時点で、どこかの教会に所属している人たちを指し、実際にはその何倍、何十倍もの、教会に属さない”隠れキリシタン”のような人たちが存在すると思われる。1%は入れ替わりの結果だからだ。

選挙では、無党派層が動けば、政権交代など簡単だと言われているのと同じように、以上のように教会から打ち捨てられて、統計にも挙がらず、ひっそりと個人的に信仰を守る”ドロップアウト組”のクリスチャンが動くことがあれば、キリスト教界をめぐる状況はあっさりと変わるだろうと思う。

牧師制度の前に跪拝しない、「バアルにひざをかがめない七千人」が必ず残されていることを筆者は信じる。
 
さて、「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久なる人物の誤りは、プロテスタントの諸教会の誤りを現象面だけで取り沙汰し、教義面で深く考察することをほとんどしなかったがために、ペンテコステ・カリスマ運動の根本的な誤りに気づくことなく、これと訣別もしなかったことである。さらに、それに加えて、数々の牧師を批判しながらも、牧師制度そのものが根本的に誤っていることに気づかず、牧師制度こそ、諸教会に様々なスキャンダルが引き起こされる最たる原因であるということを見失ったまま、教会バッシングに走った点にある。
 
だが、以前にも書いたように、杉本は当初はプロテスタントのあらゆる牧師に対して否定的な態度を取っており、村上密についても「全く信用していない」と断言し、活動を支援しない立場を取っていた。筆者から見れば、そのままの立場を貫けば良かったのである。

ところが、杉本は村上密から、早速、自分が村上について書いた否定的な見解にクレームをつけられた際、おそらく、水面下で、「あなたは思い込みだけで私を非難している。私(村上)は命がけでカルトと戦い、被害者を救済しようとしているのに、あなたは私の働きを否定して、被害者を見殺しにするつもりか」と責められたのだろう(そう考えるのは、村上が当ブログにクレームをつけた際に、まさにそういう理屈を用いているからである)。それを機に、杉本はあっさりと立場を翻し、前言を撤回して、ほとんど謝罪文のような文章をブログに記して、村上陣営に下って行った。

だが、杉本は過去にアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教会を見放して、そこを去った経緯があったわけだから、その時に得た自分の個人的な直観を尊重すべきであった。おそらく、それまでの杉本の心の中には、何らかの体験を基に、聖霊派の教団は一切信用できず、そこにいる牧師も信用できないという直観があったのではないかと思われる。

それにも関わらず、杉本は「自分が他人にどう見られているか」という体裁にこだわるあまり、自分が体験を通して得た貴重な教訓を尊重せず、自分がかねてよりプロテスタントの教会(特に聖霊派)に対して持っていた不信感を捨て、世間からの評価を失うことを恐れて、村上のクレームに屈してしまったのである。

杉本は、村上の人物が信用できずとも、とにかくカルト被害者だけは支援しなければならないという義務感に駆られて、村上に降伏宣言をし、それを機に、自分の見解をどんどん失って行ったものと考えられる。
 
そのようなことになったのは、杉本がもともとブログにおいて、自分自身の心の問題と真正面から向き合っていなかったためでもある。杉本は、自分が一体、なぜカルト問題に関心を寄せており、カルト被害者に同情しているのか、自分自身が聖霊派の教会で受けた負の体験や心の傷と、真正面から向き合いながら、その問題を解くことを避け、自分自身の問題はすうかり脇に置いて、他のカルト被害者のことだけを論じており、そのようにして自分自身の問題を軽んじるうちに、以上のように、自分が個人的な人生で体得して来た教訓や直観すらも軽んじるようになったのである。

杉本は、神の御前で、自分が教会に対して持っている恨みや憎しみはどこから来るのか、その負の感情を正直に告白して、自分自身の心の癒しを求め、さらに、神の望まれる真実な教会の姿を求めることで、真理に立ち返る作業をしなかったのである。そうして自分自身が不在のまま、他者の問題にばかり没入して行った結果、村上密のような人間が現れた際、「カルト被害者を見捨てるのか」という問いをきっかけに、自分をあっさりまるごと村上に奪われてしまったのである。
  
ご存知の通り、それ以降の杉本の歩みは、すっかり村上密にマインドコントロールされたものとなり、聖書の御言葉の真実性を追求することや、神が満足される教会の姿を追求することなど二の次となり、ただカルト被害者の面目が傷つけられないことだけを優先するものとなった。

その後の杉本ブログは、牧師制度を批判することもなく、村上の親族である津村牧師の不祥事などは一切、取り上げることもせず、ただ村上サイドに取ってのみ都合の良い、偏った情報を延々と流し続けて、村上の活動を礼賛し、村上の政敵を貶めるための情報を発表してバッシングを加えるだけの、公平性のかけらもないメディアになり下がってしまった。自分自身の主体的考察も失い、事実上、村上密の活動のための宣伝広報係になってしまったのである。

その挙句、今となっては、杉本は村上が吹き込んだ嘘の情報を次々と公に発表し続けて来たことの責任を、一身に押しつけられ、罪にまで問われている。

だが、前々から当ブログで書いている通り、こうして自ら他人の奴隷となって、自分の考察や見解を放棄した杉本の責任は重く、また、彼がいかにクリスチャンを名乗っていても、信仰を持つ神の民でないことも確かであり、杉本ブログが嘘の温床になったことは確かであるとはいえ、だからと言って、杉本の言うことが、何から何まで100%嘘というわけではない。

敵の欺きの方法は常に真実の中に嘘を混ぜ込むというものであるから、我々は、何が真実であり、何が虚偽であるのかを鋭く切り分け、決して枝葉末節に注意を逸らされることなく、真に重要なテーマを見分けねばならない。
 
ここで最も重要なことは、教会関係者へのバッシングや、スキャンダルの細部に関する論争に明け暮れることによって、本質的な敵を見誤らないことである。

すなわち、プロテスタントの牧師制度が根本的に誤っていること、牧師制度は人間の欲望が生み出した反聖書的な制度であり、教会に生じたすべての忌むべきスキャンダルの発生源はこの悪しき制度と密接につながっているという事実を見逃さないことである。

(*筆者はここで、牧師だけが特別に悪い人種だとか、牧師制度を撤廃すれば、教会は天国になるなどと言っているのではない。ただ、牧師制度はグノーシス主義的被造物崇拝の教えであり、要するに、信徒らが自分の欲望を宗教指導者に投影した結果として生まれるものであるから、牧師は信徒らの欲望の化身であり、そのようなものを尊んでいる限り、教会の腐敗は終わらないと述べているのである。

牧師制度という悪しき制度については、牧師と信徒の双方に責任があり、牧師が罪深いだけでなく、牧師を担ぎ上げた信徒の罪も同様に重いの言うまでもない。人間の悪しき欲望がこうした現人神崇拝を作り出しているのであるから、牧師だけを非難して終われるような問題ではないのである。)
 
杉本ブログが出現した時点で、牧師制度はその悪しき本質を露わにし、すでに終焉を迎えつつあったと言えよう。その上、その後、当ブログが出現し、「カルト化教会の牧師をやっつける正義の味方」として活動していた村上密や、キリスト教界を公然と批判していたDr.Lukeの主張の欺瞞性を明らかにしたことにより、「牧師が牧師をやっつけることで、キリスト教界を浄化する」という活動も、プロレスごっこと呼んで差し支えない茶番劇であり、完全な欺瞞であることが明らかとなり、こうして、一部の牧師だけを悪者として排除することによって、牧師制度そのものは温存できるとする見解が誤っていることが明るみに出されたのである。

結局、自らが牧師でありながら、他の牧師の悪事だけを非難している人々は、自分自身が非難している対象と、同じ穴の貉であるか、より一層の深い闇でしかない。もちろん、それは村上密やDr.Lukeについて当てはまるだけでなく、「キリスト教界から出なさい、牧師制度は間違っています」と教えながら、どの牧師よりもさらに強力な「牧師」のような統率者となって集会全体をコントロールしているゴットホルト・ベックという人物にも当てはまる。

ところで、もしも機会があるならば、吉祥寺キリスト集会を見学してみるのは興味深いことである。なぜなら、聖霊派のどの教団も及ばないほどの広がりがこの集会にはあるためだ。しかも、それが組織化されずに全国各地に地方集会として拡散し、機能している様子を見るのは驚くべきことである。

御代田のセンターに行き、どれほどの数の信徒が費用の負担も惜しまず、嬉々として全国から自然に集まって来るか、すべての催しがどれほど自主的な協力のもとに構成され、平和裡に遂行されるか、一度でも見物すれば、驚きにとらわれるであろう。これは聖霊派の牧師などが見れば、さぞかし悔しがるに違いない光景である。そこには一見すると、強制された、人工的な要素がなく、これほどの規模で集会を動かしていたリーダーを、筆者は他に見たことがない。動かされる献金額も全く考えられないほどの規模に達しているはずである。

しかも、この集会では、信徒らの学歴と社会層が高いために、聖霊派の教団で起こるような低レベルの混乱は起きない。もともと平和的な性格で、争いを嫌う団体のため、筆者がここでこの集会に対する批判的な意見を書き記したからと言って、早速、目くじらを立てて、筆者を引きずりおろしてやろうなどと敵愾心を燃やし、検索結果の操作にいそしんだり、2ちゃんねるに投稿を繰り返すような信者は一人もいない。前にも書いた通り、戦後の開拓期を思わせる、純朴な羊のような信徒の群れである。

それは体験としては非常に興味深いものであった。(むろん、当時の話であるが。)だが、だからと言って、そのように一人の強力なリーダーの意志のもとに推進される集会が、正しいものであるとは、筆者は一切考えていない。そして、やはりいかに自主的に運営されているように見えたとしても、その集会には、目に見えないヒエラルキーがれっきとして存在し、年功序列などの、聖書に照らし合わせて、決して正しいと認めることのできない序列があった。

彼らが「権威と服従」として受け入れているそのヒエラルキーが、決して聖書に基づく正しい考えであるとはみなせないことは、すでにこれまでの記事で解説して来た通りである。我々はただ羊のように従順であるだけではいけない。宗教指導者に盲信的に従ってさえいれば安全だということは決してなく、何が正しく何が間違った教えであるかを自分自身で吟味することを、信徒は決してやめてはいけない。

しかし、筆者はその団体で、あたかも兄弟たちと対立して、挫折して去ったかのように虚偽の情報を言いふらされることを嫌ったため、集会を離れる前、最後にわざわざベック氏のもとへ行き、「ベック兄は、毎週、日曜日に必ず礼拝に来なければ、クリスチャン生活を維持できないなどとは決しておっしゃいませんよね?」と質問して、肯定的な返事を得て、いわば指導者本人から、言質を取るようにして、集会を離れ去ることの許可を得たのであった。

ベック氏は、筆者の質問に対し、毎日曜、集会に参加することは決して義務として信徒に強制されるべきことではなく、集会に来なかったからと言って、信仰がなくなることは決してないので安心して良いと返答した(それが証拠に、吉祥寺集会のホームページには「出入り自由」と書いてある)。

ちなみに、筆者はこの集会において一度もベック氏と対立したことはない。ベック氏の本質については、以下に記すように、この集会を離れた後で、大勢の人々から話を聞いたが、筆者自身が相手の正体を暴露するような行動に出てたり、挑戦的な行動を取ったことは一度もない。ベック氏は筆者に対して常に温和であった。確かに「理想的な父」のように振る舞っていた。

だが、だからこそ、その優しい外見が真実であったとは、筆者は少しも考えていないのである。別にわざわざ正体を暴露しようなどと考えて挑戦的に振る舞わなくとも、こうして信徒らの心を支配する数々の美談や「神話」が作り出されている様子を見ただけで、それが嘘であることは十分に分かる。
  
そうした「神話」が本当であったらどれほど良いだろうかという思いが、筆者に全く起きなかったわけではない。特に、その集会において、両親ほどの年齢の兄弟姉妹に厚遇され、彼らが両脇から筆者を挟んで席に着き、筆者を家族の一員のようにもてなし、様々な場所へ案内し、一緒に寝泊りし、祈り、讃美歌を歌ったりしていた瞬間には、もしも筆者がクリスチャンホームに生まれてさえいたならば、こういう体験がきっと幼い頃から日常的にあったに違いないと、感慨深い思いがした。

筆者の家庭は、すでに書いたように、筆者が生まれた時から、父はクリスチャンでなく、教会とも信仰とも無縁であり、それゆえ、筆者の一家は一度たりとも家族が揃って教会に通ったことはなく、両親の間でも、常に宗教観が異なるために思想的対立があり、それゆえ、子供時代から、筆者は、相当な寂しさや孤独を味わって来たものである。
 
神を信じたことと引き換えに、いわば、筆者は両親からの愛を失ってしまったと言っても過言ではない状態に置かれ、信仰をめぐって家庭内で絶えざる対立が引き起こされていたために、苦しい思いをしたものである。(だからこそ、杉本が、筆者の両親が共に教会へ通ったかのように書いている偽りは、特に許し難いと言えるのである。)

だが、どんなにベック集会の兄弟姉妹が、両親を思わせるような人々であって、筆者が子供時代に家庭内で味わった孤独感を埋め合わせるかのように行動したとしても、彼らは決して筆者の実際の両親でないだけに、そのような「理想的クリスチャンホームの像」とでも呼ぶべき関係は、やはり「フィクション」でしかないことが痛感された。そのような「美しい幻」を維持するためには厳しいコストが必要となり、それを現実であるかのように信じれば、苦い結末が待っている。

何よりも、筆者は神を信じることにより、キリストの十字架を通して、肉による絆から解放されたのである。十字架を通して、生まれながらの肉によるすべての関係に対して死に、生まれ落ちた家庭に対しても死んだのであるから、筆者のなすべきことは、自分が召されて出て来た家庭を振り返ることでもなければ、それと類似した「疑似家族」を打ち立てることによって、幼い頃に得られなかった満足を追い求めることでもない。

そして、実際に、肉による家族関係が、そのまま神の家族関係になることは決してない。にも関わらず、その集会が、肉による家族関係を集会に取り込むことで、それがあたかも神の家族となりうるかのように強調していることには、大きな問題があった。

そこで、以下に書くような事件をきっかけに、「麗しい幻想」が壊されたことは、筆者にとって、まことに良いことだったのである。

現在、筆者があたかもゴットホルト・ベック氏の集会で、他の兄弟姉妹と対立したがゆえに、そこを去ったかのように虚偽を言いふらしている情報源は、唐沢治ではあっても、ベック集会の兄弟姉妹ではない。(杉本は唐沢の言い分を真に受けて受け売りしているだけである。)

唐沢治はこの集会について何も知らない。よって初めからこのことについて証言などできる立場になく、ただ身勝手な推測に基づく虚偽を言いふらしているだけである。

さて、筆者がその集会を離れる最大のきっかけとなったのは、筆者がMr.Sugarをその集会に案内したことであった。Mr.Sugarとは、ローカルチャーチ時代からの唐沢治の長年の知己であり、兄貴分と言って良い存在である。

そのMr.Sugarが、ウォッチマン・ニーに造詣の深い上記の集会において、ウォッチマン・ニーの権威であるように振る舞い、ニーに傾倒している他の信者たちの間で信用を得た上、筆者の悪口を広め始め、兄弟姉妹との仲を引き裂いたことが、筆者が集会を離れる直接的な原因となったのであった。

おそらくMr.Sugarは、そのようなつもりは一切なかったと弁明するであろうが、実際には、筆者が知っている限り、Mr.Sugarには、どんな集会に行っても、自分がそこで中心人物として指導的立場に立って、他の兄弟姉妹たちに説教を始めてしまうという欠点があった。

長年、ローカルチャーチで長老的な存在をつとめたことの結果、そうした態度が身に着いたのであろう。Mr.Sugarはどのような集会においても、他の兄弟姉妹と対等な立場に立つことはなく、教職者然と人を教えるリーダーになってしまうのである。これはDr.Lukeと極めてよく似た欠点であると言えよう。

さらに、Mr.Sugarには、温厚で優しいカウンセラーのような役割を演じつつ(むろん、それが演技であるという認識は本人にはない)、様々な信徒の相談に乗って、心の弱みを探り出した挙句、それを簡単に言いふらしてしまうという欠点があった。

Mr.Sugarはおそらく自分は他の信者らの弱点をよく知っており、それを克服するために手助けをしているという文脈で、信徒らの弱点に言及していたのであろうが、いずれにしても、あまりにも簡単に信者らの失敗談や欠点を、他の人々に向かって赤裸々に語ってしまうのである(病的な噂好きと口の軽さという点では、村上密ともよく似ているだろう)。
 
筆者がMr.Sugarを以上の集会に案内したにも関わらず、筆者に関する否定的な見解をMr.Sugarが他の兄弟姉妹に広めていることを、筆者は兄弟姉妹から聞かされ、しかも、兄弟姉妹がSugar氏に心酔するあまり、その言い分を信じ始めていることが分かった際、筆者はそれを機に、その集会をすっかり離れ去る決意を固めた。だが、集会を離れることで誰かから断罪されたりいわれのない誤解を受けることがないよう、ベック氏のもとへ行き、指導者自身から許可と言える言葉をもらった。

筆者はそうしてその集会を去った後、何が起きるのか観察して見ることにした。もしもMr.Sugarが正しいのであれば、彼は集会に残り、他の兄弟姉妹とうまくやって行けるであろう。だが、いつも自分がリーダーにならずにいられないMr.Sugarが、果たして、ベック氏を頂点とする集会に定着できるとはとても思えなかった。そこで、Mr.Sugarは必ず、どこかの時点で、ベック氏を崇拝することの誤りを兄弟たちに向かって説き、兄弟たちをこの集会から引きはがして、自分の影響力の下に置こうとして、それを機に、他の兄弟姉妹から関わりを絶たれるだろうと筆者は考えた。そして事実、そうなったのである。

だが、筆者とMr.Sugarとの縁はそれで終わりにはならなかった。次にしばらく年月が経ってから、コンタクトを取った際、Mr.Sugarは反ベック集会(ベック氏を批判して分裂した群れ)の只中にいた。そして、Mr.Sugarは「ベック集会がどんな風に誤っているか、この人々から詳しく聞いたので、あなたにも確かめてもらいたい」と筆者に向かって述べたので、筆者は今度はMr.Sugarの案内で、反ベック集会を訪れ、ゴットホルト・ベック氏について何が言われているのかを直接、彼らの口から聞いた。

Mr.Sugarは、ベック集会以上の正しい集会を見つけ、筆者をそこに導いたと考えていたのかも知れないが、筆者は、その集会に連続して通おうという気にはならなかった。なぜなら、その集会は、吉祥寺キリスト集会の影のようなものでしかなかったからである。

さらに、Mr.Sugarがその集会でメッセンジャーとなって人前で説教していることを知って、筆者は心の底から呆れた。なぜなら、Mr.Sugarこそ、筆者の前で、メッセンジャー(御言葉を取り継ぐ教師)となって、キリストになり代わって他の兄弟姉妹の心を支配し、人前に栄光を受けることの忌まわしさを、嫌というほど語った本人だったからである。

そこで、筆者はMr.Sugarに向かって、彼のしていることは自己矛盾であると述べ、Mr.Sugarがメッセージを語っている集会に行くつもりもない旨を告げた。だが、筆者はこの集会の人々がベック氏について述べたことは、本当であると考えている。そもそもベック氏について作り上げられている美談は、もはや「神話」と呼んで良い類のものであり、額面通りに信ずべき内容ではなかった。

Mr.Sugarは相変わらず、自分がこの集会に残ってメッセージを語り続ければ、人々の目を開かせることができると考え、そうすることに関心があったようだが、筆者は決して、そのようなことが人助けであるとは考えていない。
 
筆者から見れば、Mr.Sugarのしていることは、ペンテコステ・カリスマ運動の信者と同じなのである。すでに出来上がった土台を有する他の集会に入り込み、もしくはその群れから脱落しかかっている信徒を探し出し、彼らを「さらなる真理に目を開かせる」という口実でスカウトしては、自分自身の支配下・影響下に置こうとしていく。

Mr.Sugarは離散している信徒らの群れに特別な関心があり、彼らが個人的に開いている家庭集会を見つけては、交わりの中で信任を得て、定期的に集会を持つようになる。それだけならば、それは離散している群れなので、信者の強奪にも当たらず、非難されるべきことはないだろう。しかし、一度でも、そうした集会の中で、Mr.Sugarに対して何かしらの批判的な言葉を発すれば、その結果、一斉に集会全体が拒否反応を示すことになるので、それが完全にMr.Sugarの意志でコントロールされていることが分かる。

筆者が言えることは、「あなたが知っているよりも、さらに深い真理を私は知っており、私はそれをあなたに教えることで、あなたを色々な問題から助けてあげたい」と述べて、親切心を装いながら近づいて来て、信徒らの心をキリストから奪い去り、自分自身に向けさせる人々は要注意だということである。

そうしたやり方は、まさに悪魔が人間を「啓蒙」しようとして近づいて来たやり方にそっくりであり、そのささやきに耳を貸せば、真理を追求しているつもりでも、途中から人間に関心を逸らされ、依存して行くことは避けられない。
 
筆者はMr.Sugarから学んだことが数多くあったことは否定しない。KFCを出たときにも、あるいは2009年に横浜に来た時点でも、Dr.Lukeの危険性を、筆者に誰よりも説いて聞かせたのは、Mr.Sugarであった。
 
Mr.Sugarは2009年に筆者が横浜へ来た当初から「KFCはバビロンである」と断言しており、この集会のいかに危険であるかを切々と説き、Dr.Lukeの二重性を帯びた人柄について深く憂慮していた。だが、筆者から見たMr.Sugarの心理的弱点は、人と直接ぶつかることを恐れる余り、決して自分の本心を直接相手に告げて、耳の痛い忠告をしないことであった。喧嘩や対立を恐れるあまり、本人に向かって直接言うべきことを、第三者に語るので、それはただの悪口になってしまうのである。

当時、Mr.SugarもDr.Lukeと同じように「リーダーのいない兄弟姉妹の群れ」を追求していたが、それにも関わらず、自分自身がリーダーになってしまうところに、二人のどうしようもない自己矛盾があったと言える。

Mr.Sugarは牧師を名乗ったことは一度もないが、結局、自分が教師となって他の信徒らの心を自分自身に向けさせ、説教者となって信徒らの心を支配してしまう時点で、牧師も同然の存在であった。また、他の群れから信者をスカウトすることによって、自分の群れを形成しようとするところにも、非常に大きな問題点があったと言えよう。

筆者は、ローカルチャーチを出たこの二人の人物から、聖霊派では決して知ることのできなかった真理についての証言を聞かされ、そこに神の采配があったことを疑わないが、ローカルチャーチを経由しているがゆえに、この二人のふるまいには、決して油断できない二重性があったことも確かであるものと思う。

我々は、ある日、誰かから、これまでに聞いたことのないような、御言葉に関する優れた解釈を聞かされたり、ある交わりの中で、大きな真理が開かれるのを見ることがあるかも知れない。だが、そのような奇跡的な出来事が起きたからと言って、決してその集会を賛美したり、特定の人間を師のように仰いだりすべきではない。

仮にどんなに優れた兄弟姉妹と出会ったと感じることがあったとしても、真理については、ただキリストご自身から学ぶという立場を貫き通すべきであり、人間から教えを受けたかのような態度を取るべきではない。聖書の御言葉について重要な真理を学ぶきっかけを得たというだけの理由で、目に見える人間につき従って行って、彼らの人間的な弱さに巻き込まれたりすべきでもない。

そこで、真理に関する知識を、あたかも自分たちが独占的に握っているかのように振る舞うことで、福音を手段として人の心を支配し、人前に栄光を受けようとしている人たちには、よくよく注意しなければならない。
  
さて、話を戻せば、今や牧師制度が信頼失墜し、新たな時代の到来が待ち望まれているのは明白である。にも関わらず、未だそうした事実を見ずして、牧師を批判する信徒が現れると、その信者だけにすべての問題があってそうなったかのように決めつけ、信徒に対するネガティブ・キャンペーンにいそしんでいる人々がいる。

彼らは牧師制度を維持したいがために、プロパガンダをしているのである。そういうことをしている面々は、決まって宗教指導者であるか、もしくは特定の牧師の手先のように行動している信者だけである。

先の記事で挙げた杉本のメールでは、ベルシープ伝道所の牧師を名乗っている坂井能大とKFCのDr.Lukeについての記述があった。むろん、先に指摘した通り、他人へ宛てたメールの中で、第三者に対する証拠のない悪口を書き記すことは(悪口だけでなく虚偽の情報であっても)、罪に問われてもかしくない違法行為であるから、杉本はそのような行為をやめるべきである。

だが、そこで杉本が言わんとしていることの中には、見逃せない事実もある。なぜなら、そこで示唆されているのは、「坂井は唐沢から事実を知らされておらず、唐沢に騙されて焚き付けられただけだ」とする筆者の見解は甘く、坂井と唐沢は初めから確信犯的なグルであって、坂井は唐沢の正体を十分に知りながら、唐沢の罪にはそしらぬ顔をして、筆者の名を無断で使用することにより、大いに空騒ぎを起こして、筆者に害を及ぼしているだけで、そこにはいかなる善意もありはしないということだからである。

杉本のこうした指摘に対して、坂井が今後、どう反応するかは、一つの試金石になると言えよう。何しろ、唐沢と坂井は筆者のメールを無断で裁判に提出したくらいなので、他人のメールを裁判の証拠にすることにはためらいがないはずだ。当ブログで公開している杉本のメールなどは証拠として使用しても、違法行為にも該当せず、罪にも問われはしない。

そこで、この先、坂井が個人的に杉本の主張に論拠を示して抗議し、杉本を訴えるようなことがあれば、杉本の言うことは嘘だったと公然と立証される。だが、それがなければ、結局、杉本の言い分が結果として残るのである。

しかしながら、我々は、坂井が杉本を訴えるかどうかをわざわざ時間をかけて観察せずとも、坂井の本当の敵が、初めから杉本ではなく、そこには、唐沢の場合と全く同様の、信徒を貶めようとする意図しかなかったであろうことを十分に察知できる。

坂井が杉本に対立しているかのように振る舞って来たのは、唐沢と同様に、全くうわべだけのポーズなのであり、その挑発行為の真の目的は、杉本を焚き付けて、自分たちに不都合な信徒を攻撃させて、信徒を争いの中に引きずり込み、破滅させることにあったのだと十分に推測できるのである。

坂井は、杉本を憤激させて筆者を攻撃させるためにこそ、筆者の名を全面に押し出して、杉本を挑発した可能性が限りなく高い。そもそも、坂井が筆者とは一面識もないのに、筆者がブログを閉じていた間にも、筆者のブログの記述を大いに利用して、杉本に対する挑戦的な騒ぎを拡大していたこと自体が、「簒奪の模倣」に該当する。

つまり、ここにも、ペンテコステ・カリスマ運動に影響を受けた人々が常に、自分以外の信者の意志や許可をよそにして、本人に無断で本人の名を騙ってなりすましたり、まるで自分こそ、その人間の代弁者であるかのように勝手に名乗り出て、ターゲットとする人物の存在をことごとく「流出」させて、信者の弱点を言いふらして印象操作を行ったり、人間関係を分裂させて壊したりして、神に属する民を傷つけ、冒涜し、害を加えることをやめられないという悪しき性癖を見ることが出来るのである。

何のために彼らはそんなことをするのだろうか? それは第一に信徒を辱める目的と、第二に、牧師階級を守る目的のためである。坂井や唐沢は、ただ気に入らない信徒をおもちゃにして害を加えて楽しんでいるだけでなく、牧師制度の罪を告発し、この制度の撤廃を訴え、自分たちが特権階級として属しているヒエラルキーを否定するような信徒に集団で制裁を加え、破滅させて口を封じようとしているだけである。

現在、まさにそうした筋書きが進行中で、坂井は自らの主張の正当性を、裁判でも立証できずに杉本に敗れ、その馬鹿馬鹿しい挑発行為のとばっちりが、無関係な筆者に不当に呼んでいる。

筆者は2ちゃんねるにコメント投稿したこともなく、坂井を焚き付けた過去もなく、坂井とメールの一通すらも交わしたことなく、裁判が行われた事実も知らなかったのであるから、坂井の言動が筆者の差し金によるはずもなく、かえってどれほど筆者の方が、坂井と唐沢の無責任な挑発行為によって迷惑を及ぼされているかはかりしれない。

だが、そうしたことも、彼らには織り込み済みであり、彼らはもともと杉本の思い込みの強さを知っていたために、杉本なら簡単に騙せると考えて、筆者の名を存分に利用して杉本を挑発し続け、自分たちの背後にあたかも筆者が存在しており、すべてが筆者の策略であるかのように思わせようとしたのである。

それに成功しさえすれば、結果として、彼ら自身は悪しき挑発行為の責任を追及されることなく、すべての責任を筆者にかぶせることができ、杉本をして筆者を攻撃させることにより、筆者を苦しめ、葬り去ることができると計算したのであろう。もちろん、それは最終的に、牧師制度を守り、この制度を非難する者の存在をネットから消し去るために行われているのである。

こうして、唐沢と坂井がこれまで一体、何のためにタグを組んで、さんざん杉本を挑発し、むなしい騒ぎを起こし続けて来たのか、その理由は読者に十分に明らかになったと言えよう。

そこで言っておきたい。もしもこの先、唐沢や坂井のような人間が現れて、勝手に「ヴィオロンさんがいじめられている」とか「ヴィオロンさんから応援したいと言われた」などと述べて、筆者の名を使って、杉本や村上のような誰かを非難し、ネット上で「戦争」を始めたとしても、それは筆者とは何の関係もない事柄である。

村上や杉本を含め、筆者が誰かに対立して、論争をしかけたいと考える場合は、可能な限り、オープンな場で、きちんと証拠の残る、合法的なやり方を用いるつもりであり、当ブログとは異なる掲示板などの場所を利用して、責任の所在が分からない発言を行うことはない。

さらに、前々から述べている通り、筆者は誰とも協力しておらず、牧師との協力関係などは、金輪際、お断りである。そこで、杉本の嘘の主張に反駁するためであろうと、他のどんな問題解決のためであろうと、誰にも協力を仰いだりせず、代弁者を立てて行動することもない。

むろん、これまで何度も書いて来たように、唐沢が杉本に民事提訴を予告したことも、唐沢の単独行動であって、そこに筆者の依頼はない。よく考えれば誰にでもすぐに分かるはずだが、仮に筆者が依頼してみたところで、唐沢が筆者に代わって、筆者の受けた「被害」を理由に、杉本を訴えることなど、もとより不可能なのである。グレゴリウスを名誉毀損で訴えた唐沢がそのことを知らなかったはずはなく、大人なら誰でも分かるはずの常識的かつ初歩的な事実である。

そこで、唐沢が、筆者があたかも唐沢に向かって杉本に対して裁判を起こすよう焚き付けたとか、それにも関わらず、筆者の実名が表に出ていないために提訴ができなかったとか、幼稚園児の綴るおとぎ話のような、筋の通らない空想話を用いて、自分にはまるで杉本と対立する意志など毛頭なく、筆者から要求されたので仕方がなくそのような行動を取らざるを得なかったかのように、後になってすべてをごまかそうとしていることは、まさに笑止千万な作り話であり、とてもではないが、立派な学歴もあり、高い職業的地位に就いていた、大の大人の発言とは思えない。そして、そんな馬鹿げた幼稚な筋書きに騙され、振り回される方もどうかしており、両者ともにとてつもなく暗愚であるとしか言いようがない。

ただし、筆者は、唐沢は当時、杉本から実名で名誉毀損を受けていたのであるから、それに抗議するために、自分自身の名において、杉本を提訴することは、十分に可能であり、許される行為だったと考えている。また、民事提訴を取りやめたのであれば、その旨をきちんと周囲に分かるよう、説明すべきであった。にも関わらず、唐沢が筆者から説明を求められたにも関わらず、それをしなかったことは、結局、唐沢という人物の闇を証明するだけである。結局、唐沢は杉本の中傷が真実であると認めているに等しく、いたずらに騒ぎを拡大して筆者に害を及ぼすためだけに事件に関わったと自ら白状しているも同然なのである。

坂井の裁判に関しても、前から書いている通り、もしも筆者が本当にその裁判が起きたことを知っており、これを応援するつもりがあったなら、当然ながら、過去のメールを裁判資料として提出したりせず、その時点で、陳述書を書いて、自らの口で証言していたはずである。なぜなら、それが当事者以外の人々が裁判で証言するための常識的なやり方だからである。

従って、唐沢が、筆者から陳述書を取ろうともせずに、筆者が坂井の裁判を「応援したい」と述べたとか、そのために自分のメールを資料として提出することに「同意した」とか、嘘八百を述べていること自体、常識をわきまえている人間から見れば、理屈に遭わず、筋書きが破綻していることが明白なのである。

結局、こうした事実から見えて来るのは、唐沢や坂井が、常に筆者本人の意志を無視して、許可もなく、筆者の名を騙って、杉本を挑発し、ひたすら騒ぎだけが大きくなるように行動し、そうした自分たちの無責任で幼稚な行動が、あたかも筆者の差し金によるものであるかのように見せかけることで、自分たちはちゃっかりと責任を逃れた上、筆者に不当な形で害を及ぼそうと企んで来たという事実だけである。

そうした彼らの恥知らずな行動を通して、我々は、彼らの本当の目的が、杉本と対立することになど初めからなく、ただ杉本を挑発して、自分たちの気に入らない信徒に害を及ぼすことにあったと知ることができる。繰り返すが、彼らは二人とも牧師であって、筆者よりも年上であり、大の男たちが、これほど幼稚で非常識な行動を取ることは、通常では考えられない。しかし、牧師だからこそ、彼らはこういう行動に及んでいるのであり、牧師階級を批判する人間を葬り去るためならば、どんな卑劣な手段をも厭わないのである。

こうして、我々は、村上密の投げつける非難に屈し、これを受け入れた人々が、結果的には、ことごとく、村上密が描いた通りの人物像になって行った様子を見ることができる。杉本は村上に「思い込みが強い」と非難され、村上のクレームを受け入れたことで、まさにその通りになり、唐沢もまた、「非常識な主張になれあいで悪のりのコメントをしているだけの無責任なコメント投稿者」、「藪の中から石を投げて喜ぶだけの非常識で幼稚な生き方」などと非難され、その村上の非難を反駁もせずに受け入れたことで、まさにその通りの人物像になって行ったのである。

だが、筆者は上記の二人のように、村上密による根拠もない呪詛のような言葉を受け入れることは、断固拒否させていただく。
 
これまでもそうだが、この先も、誰かが筆者の名を勝手に使って、筆者の味方を装い、あるいは筆者の代弁者を装い、筆者の許可もなく、掲示板やブログなどに書き込みをしたり、裁判資料などと称して筆者のメールを流出させたとしても、そのようなことは、その人物が勝手にやっていることであるから、筆者は、その行為に一切責任を負うつもりはないし、筆者が責任を負わされねばならない理由もない。そのような騒ぎを引き起こした責任は、すべてその当人に帰する。場合によっては、関係者全員から訴えられることをも覚悟してもらわねばならない。

読者は、目を開いてよくご覧になりたい。これが、牧師というものの本質なのである。つまり、一旦、牧師となった人間は、二度と信徒の利益のために動くことはなく、彼らが信徒のために動いているように見える時にも、それはすべて自分自身の利益のための行動なのである。

牧師たちには、それぞれの主張の違いがあって、相互に対立しているように見えることもあるかも知れないが、牧師階級を守るという一点においては、彼らは完全に結託して、自分たちに刃向う信徒を敵として行動する。

だが、それにしても笑止なのは、その牧師が、信徒に過ぎない杉本に裁判で敗れたことである。筆者はかねてより、杉本に敗れるなど恥でしかなく、愚の骨頂だと主張している。杉本の主張のレベルがいかなるものであるかは、読者にも2枚の答弁書から明らかになっている通りだが、このような程度の主張も覆せない人間のレベルは、もっとお粗末で、お里が知れようというものだ。およそ論理などと呼べるものは、そこには毛筋ほどもなかったに違いない。神が味方しておられるなら、なぜそんな結末になる理由があろうか。

さらに笑止なのは、敗訴に終わったこの裁判を、かつては立派な大学講師であり、博士号まで取得した人間が支援していたという事実だ。

唐沢はかつて2009-2010年には大学講師という、社会的にもそれなりに尊重される地位にありながら、自分が杉本に実名で名誉毀損をされた際、杉本を訴えることもせず、かえって元KFCの信者を告訴し、杉本ブログの権利侵害の記事を削除させるために必要な具体的な措置を何一つ講じなかった。

そして、今になっても、「杉本と遺恨を残すことは本意ではない」などと述べて、自分は杉本によっていかなる人権侵害も受けていないという立場を貫いている。そうした行動に、唐沢という人物の本心が如実に表れていると言えよう。

唐沢はおそらく当時から、杉本が村上密を支援することを通して、牧師制度の前に跪いており、牧師階級全体を敵に回すつもりがない意図をはっきり見ていればこそ、杉本を敵とみなさず、裁判を起こして徹底的に攻撃し、打ち負かすことを控えたのだと考えられる。

むしろ、牧師の手先となった杉本をうまく利用すれば、かえって自分の地位の安泰をはかることができると考え、不都合な信徒を「消す」ために、杉本の手を存分に借りられると踏んで、わざわざ杉本を「延命」させた上で、気に食わない信徒の名をさんざん騙りながら、杉本への挑発行為に心血を注いで来たのである。

その唐沢とタグを組んでいる坂井が、自分だけ唐沢と違った考え方を持っていることなどはまずありえない。そこで、彼らの真の目的は、杉本を倒すことになど初めからなく、むろん、クリスチャンとして、自分の信仰告白の確かさを、神と人との前で証明することにもなく、ただ杉本を存分に利用して、牧師階級の利益の確保のために、牧師の利益に逆らう信徒を破滅に追い込み、抹殺することだけであったと見るのが適当である。

村上密、坂井能大、唐沢治、鵜川貴範・直子夫妻、等々、筆者を糾弾している人物は、みな牧師やメッセンジャーであるか、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団や村上密を擁護する人々だけである。
 
もちろん、何度も述べて来たように、村上密が「カルト化した」教会の牧師らに対する裁判を助長し、戦いをしかけているように見えるのも、単なるうわべだけのポーズでしかなく、それも牧師階級そのものを存続させるための目くらましのプロレスごっこなのである。

村上が真に攻撃をしかけている相手は、牧師ではなく、牧師の前に跪こうとしない信徒である。(だからこそ、被害者の個人情報を加害者の牧師に転送したり、信徒の相談内容を公開することによって信徒に恥をもたらしている。)

しかし、恐ろしいことに、そのようにして霊的な敵に妥協し続けると、人間は当初、持っていたはずの優れた知性もどんどん失って行き、最終的には敵(悪魔)と一体化してしまう。悪魔は、悪知恵だけはふんだんに持っているように見えても、本性はたとえようもなく愚かであるため、自分の手下となった人間をも、どんどん自分と同じように愚かにしてしまう。

村上、唐沢、坂井、杉本の全員を例に取って、彼らの文章力、思考力が、2009年から現在に至るまで、どれほど著しく衰退したかを目を開いてご覧になりたい。

グノーシス主義の恐ろしさは、「情」という名の思考停止にある。この思想は、その虜となった人間に、すべてのことを「快・不快」という赤ん坊レベルの感情に基づいて決断させ、自分の感情が誘われる、自分にとって心地よく、好ましく感じられるものだけが「善」であると思い込ませるため、そのように盲目とされた人間の中では、感情による決めつけや思い込みだけが肥大化して行き、論理的な思考力が徹底的に破壊されるのである。その結果として、思考力、判断力の著しい衰退が起こり、人格の著しい幼児化という精神的退行現象が起きるのである。
 
グノーシス主義の教えは、このように、まさに人間の正常な脳を破壊する麻薬のごときものなのである。この教えが人々にもたらす致命的な害に不平等はなく、この教えを有害なものと見抜いて退けない限り、博士号があっても、何の助けにもならない。どんなに優れた知性を持つ人間であっても、自らの思考力を全く使わなければ、衰えるだけであるが、思考停止の教えは、思考力そのものを奪い去る。

さらに、信仰の世界で起きる現象は、世間で起きることよりも一層、厳しい結末をもたらす。かつては何百ページもの学術論文を書くことができ、圧倒的な読書量を誇り、記憶した情報を自在に引き出して語る知性を持っていたような人間であっても、一旦、グノーシス主義の怠慢な思考停止にとりつかれれば、幼稚園児並みに思考力が低下し、最後には2ちゃんねるの投稿以下の文章しか書けなくなり、デタラメな答弁書しか書けない人間に敗訴して終わるのである。もちろん、思考力・文章力のみならず、判断力も低下するので、誰一人として騙されるはずがない低レベルの詐欺師の言い分にまんまとひっかかって集会を乗っ取られたり、異端の書への識別力がなくなるのは当然である。
 
さて、話を戻そう。このように、牧師とは、信徒を物質的にも精神的にも金銭的にも搾取の対象としか見ておらず、自分が救済者や助言者をきどって人前に栄光を受けるためならば、信徒の弱みをとことんまで利用し尽くすのであり、そのチャンスを逃すまいと、手ぐすね引いて信者の弱みを握る機会を常日頃から伺い、さらに、自分たちに刃向う不都合な信徒の口を封じ、抹殺するためならば、どんな卑劣な手段でも厭わない連中である。

むろん、牧師は信徒の立てた功績はすべて我がものとして横領するが、同時に、信徒の弱みも利用する。少しでも信徒が心の弱みを打ち明ければ、助けてやるふりを装って、病原菌のように一斉に傷口にたかり、信徒の内側に侵入して食い尽くす。そして、まるごと食い尽くした後で、その悪事がバレないように、信徒に罪を着せて悪魔呼ばわりした上、教会の外にポイ捨てするのである。
 
彼ら牧師たちは、自分たちだけは選民であり、信徒は被差別階級だと考えているため、信徒をとことん利用した上、自分の身代わりに罪を着せて使い捨てることに何のためらいも恥の意識もない。言うなれば、彼らの目に映る信徒とは、どんなに騙して巻き上げても、決して罪にならない「ゴイム」でしかないのだ。

つまり、牧師階級全体が、信徒の弱みを握って恥をかかせることで、自分の優位性を誇示し、信徒を搾取してその上に君臨することで己を養う特権階級でしかなく、ひとかけらの誠実さや真実性や正義も期待できる相手ではないのである。
 
この事実は、司祭であろうと牧師であろうと、教職者制度の中に位置する人間には、宗派を超えて当てはまる。「いや、そんなのは極論ですよ、ヴィオロンさん。あなたはたまたま遭遇した人々が悪すぎただけです。まさかすべての牧師や司祭が、そんなに悪い人々のはずがないでしょう。どこかに良い牧師もきっといるはずです。私はあきらめません」などと、(杉本の言い分のように)安易な考えを抱いて、教会から教会へと渡り歩こうとは決して思わないことだ。この業界では、そのような信徒は「ジプシー・クリスチャン」と陰口を叩かれ、さらに、教会に属さず、信仰を守っている信徒も、「お一人様クリスチャン」などと呼ばれて揶揄されるだけだからだ。

これが、牧師から見る信徒の日常風景なのであり、彼らから見る信徒とは、まさに狼やハイエナから見る羊でしかない。彼らの目には、牧師制度の前に忠実に跪くクリスチャンだけが正しく、それ以外の信徒は、みな「挫折者」や「落伍者」としか見えていないのである。

こうしたことを聞くと、プロテスタントに絶望してカトリックに去れば、そういう残酷な階級闘争とは無縁に生きられると考える人々が現れるが、その考えも、幻想でしかない。かつて筆者の前にやって来て、プロテスタントの牧師たちの幼稚さには辟易したので、カトリックに去ると宣言した信徒がいたが、それも霊的後退でしかない。不祥事はカトリックの方がより深く大規模であり、カトリックにおけるヒエラルキーの束縛はプロテスタントの比ではない。

何より、それは歴史を逆行する行為でしかないため、信徒に霊的前進をもたらさない。プロテスタントは、カトリックの陥った腐敗と訣別し、これを改革することによって生まれた運動であるから、その改革の良い部分を全て捨て去り、カトリックに戻ったからと言って、それでいかなる前進が得られるわけでもない。

むしろ、我々がせねばならないことは、プロテスタントがカトリックから分離して守ろうとした正しい内容を継承し、さらに、プロテスタントの中からも不要なものを投げ捨てて分離した上、さらに先へ進むことである。

万民祭司の原則に基づく、宗教指導者のいない対等な信徒の交わりが必要とされているのである。宗派を問わず、教職者という特権階級制度を一旦、認めてしまえば、その時点で、その教会は必ず腐敗で終わることを運命づけられている。

こう書いても、日曜になれば、多くの信徒らが牧師の説教を聞きに教会へ向かうのであろう。だが、安易に「牧師」と名乗っている連中に関わると、どういう悲惨な結果が起きるかは、以上の警告から読者には明らかである。

はっきり言っておくが、牧師制度は忌むべき人間崇拝、偶像崇拝であるから、これときっぱり手を切らなければ、その信徒は神ご自身を知ることは決してできない。人生を食い尽くされ、悪魔の餌食となるだけである。だが、たとえそうなったとしても、その罪は、信徒自身にある。なぜなら、この世を愛すること(被造物の栄光を愛すること、人間社会で受けられる栄誉を愛すること)と、神を愛することはどこまで行っても決して両立することはないからだ。

目に見えないキリストを退けて、目に見える牧師を信用してつき従い、害を受けた結果、自分はカルト被害者であるから同情に値するなどと、どんなに人前で主張しても、その主張はかえりみられない。自分から判断を誤って人間崇拝の罠に落ち、神を裏切ったことを認めない信徒の言い分は、神の御前ではむなしいだけである。

だが、そうはいえども、牧師という連中が、どれほどまでに狡猾で陰険で卑劣であって、信者を陥れる計画を、四六時中、信者の頭越しに考え続けているかは、以上で述べた通りなので、注意されたい。特に、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のような、ペンテコステ・カリスマ運動を支持する盗人の団体とその指導者には決して何があっても近寄らないことである。

信者は、目に見えない神ご自身を最優先するのか、それとも、目に見える被造物を最優先するのか、生涯、常に神の御前で問われて続ける。狭き門から入る者は幸いである。
 
「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
 さばかれるときには勝利を得るため。」
と書いてあるからです。」(ローマ2:4)

村上密と「随想 吉祥寺の森から」の杉本徳久に見るグノーシス主義者の空虚な自己の本質

さて、民事調停ではいかなる妥協も歩み寄りも示さず、当ブログの主張を「棄却する」などと豪語していた杉本徳久が、調停の期日後に、当ブログに新たなメールを送りつけて来たので、ここに掲載しておく。

 杉本徳久が3月28日に送りつけて来た新たな迷惑メール

杉本は、わざわざ公の開かれた場所で、自分の主張を具体的に提示して、和解を探るために交渉するチャンスが与えられているにも関わらず、そこでは自分の非を一切認めず、一歩たりとも譲歩せず、自分の主張内容を客観的に論証することも、具体内容さえ明らかにすることもなく、誰にも理解できない要求をただ一方的に突きつけただけで、合意にも至っていない。

にも関わらず、早速、そこで提示した自分の一方的な要求を、あたかも当ブログが履行する義務でも負ったかのように、人目につかない場所で、他人の人生に不当に干渉し続けようとする杉本の行為には、呆れ果てるほかない。

正当な手段では決して問題解決をはかることができず、真実に向き合う勇気もなく、正々堂々と他人に向き合えない臆病で卑怯な性格を見ることができる。

杉本は自分が今まで他人にして来たように、自分自身が標的とされて記事を書かれたことが、よほど身に堪えたのだと見られるが、以上のメールの中で、何とかして筆者の非難の矛先を、自分から他人へと逸らそうとしている。

だが、証拠もないのに、他人の悪口を第三者へ宛てたメールの中に書き連ねていれば、さらなる名誉棄損や侮辱罪で訴えられる可能性が高まるだけだ。
 
村上密はおそらく今までと同様、自分は決して矢面に立つことなく、杉本と筆者をぶつけ、戦わせることにより、自分は手を下すことなく、当ブログを駆逐し、自分はネット上のキリスト教界批判の分野において、ナンバーワンの座を得ようと考えているものと思われる。

それと同様のことを、おそらく唐沢治も考えていたであろうことはすでに述べた。唐沢から見れば、杉本も筆者も、KFCを批判しているため、どちらが勝利をおさめようと、一定の利益が得られることになる。

これが牧師というものの実態である。信徒同士を争わせ、戦わせ、自分はそれを高みの見物しながら、自分自身の地位の安泰をはかる。唐沢であろうと、村上であろうと、坂井であろうと、結局、彼らは牧師階級を守るという、全く同じ利益のもとに結託して、ほとんど同じ働きをなしているのだ。つまり、彼らは、キリスト教界内のカースト制度を温存する目的で、信徒を踏み台にし、互いに戦わせながら、それによって自分の利益を得ているのである。
 
だが、すでに見て来た通り、唐沢は、本気で杉本や村上と対立する気は全くないため、Dr.Lukeは彼らの競争相手ではない。残るは筆者一人である。

そこで、杉本は村上の代弁者として、村上の意向を忠実に「忖度」して、自分自身を捨て駒・当て馬とすることによって、必死に当ブログの更新を中断させ、相打ちに持ち込もうと試みているのだと考えられる。

そのことは、以上の杉本のメールの内容からも理解できるし、さらに、村上密が他ならぬ3月23日に自らのブログに以下のごとく大量の投稿をしているという異常現象を通しても伺える。村上は、民事調停への出席を蹴ったこの日に、なんと29本もの記事をブログに投稿しているのである。

ちなみに、さわやか読者らは、大抵、当ブログの更新が途絶えて何時間も経ってから騒ぎ出すのが常であるが、筆者が本日、村上のブログを訪問して、当ブログの欄外のコメント欄で、この異常な投稿数について書き記した途端、早速、ほとんど時間を置かずに、フェイスブックから、以下の読者が当ブログに押し寄せて来た。

p399088-ipngn5401souka.saitama.ocn.ne.jp
(↑古参のさわやか読者、どれだけの工作がこの特定のIPアドレスから行われているかを間もなく発表予定。いつかは必ず人物が特定される。)
pl960.ag1111.nttpc.ne.jp
69.171.240.21
66.220.151.210
31.13.114.55
66.220.151.182
pl6728.ag5354.nttpc.ne.jp
p3b935fcf.hyognt01.ap.so-net.ne.jp
fs76eee8bc.tkyc210.ap.nuro.jp

(追記:3.31)
pl14651.ag1212.nttpc.ne.jp
p399088-ipngn5401souka.saitama.ocn.ne.jp
(↑この日も朝一で来ている。ほとんど主犯格と言えよう。) 

(4.1)
softbank219209223053.bbtec.net 
   
調停が行われた当日にも、フェイスブックを利用して当ブログを訪れたのは以下の面々である。

55.10.134.27.ap.yournet.ne.jp
185.89.219.166
pw126199005109.18.panda-world.ne.jp
16.199.183.58.megaegg.ne.jp
p701203-ipngn1802sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp
ool-2f16ab0a.static.optonline.net
softbank126209003004.bbtec.net
sp49-98-53-109.mse.spmode.ne.jp
 
しかし、フェイスブックは最も個人が特定されやすい危険な媒体である。匿名の2ちゃんねるが不評であり信頼低下が著しいため、彼らは別な媒体に移動しつつあるのかも知れないが、そういうことを繰り返しているうちに、彼らはやがて自ら身元を明かす時が来る。杉本がメールで画像を添付して来たように、それを見ている人々が身元を特定して通報することが十分にあり得るからだ。

当ブログのさわやか読者はほとんどが毎回、そのようにして徐々に自分自身の存在を明かすというパターンを辿っている。悪霊に導かれる人々には、自己顕示欲という捨てがたい欲望があるため、危険を承知で自分たちの存在を誇示しないわけに行かないのである。

いずれにしても、今回の記事のテーマはさわやか読者ではない。杉本もさわやか読者も自分たちに注目を集めることによって、記事の本題を逸らそうとする人々である。そこで、今回は、杉本がどれほど当ブログで批判されても、それだけではほとんど反応しない人々が、村上に関わる話題が持ち上がると、これほど素早く反応を起こすことに注目されたい。
 
以上とはまた別に、連日、Yahoo!、Google、Bing などの検索サイトで工作を繰り返し、当ブログの順位を下落させ、検索結果から駆逐するために活動している部隊がある(重複している部分もある)。だが、村上に関する話題が出ない限り、決して起きることのない騒ぎがある。
 
さわやか読者らは、検索結果を操作し、話題をかく乱し、印象操作を行うことによって、「本命」の村上密をかばおうとしているのである。だが、彼らのすべてが村上密をかばうという目的だけのために活動しているとは言わない。杉本徳久を含め、彼らは牧師階級そのものを温存するために、牧師階級の手先となって活動している勢力であると言った方が良い。

さて、村上密が自分に関する評判にどれほど敏感に目を光らせているかについては、かつて何年も前に、杉本徳久が、自らのブログに、村上密という牧師を「全く信用していない」と記し、村上の記事内容を批判した際、その直後に、村上からクレームをつけられ、反省文のような記事を書かされている様子からもよく分かる。

その当時、水面下でどんな圧力があったのか知らないが、その出来事や、当ブログ執筆者が村上から受けた人格攻撃を通しても分かることは、村上密という人物は、少しでも自分に対して批判的な言動があれば、決してそれを放置せず、ただちにクレームをつけ、さらにそれで効果がなければ報復措置に出る人間だということである。

村上密に関する記述を巡っては、当ブログに関しても、連日、工作員部隊が、隅から隅まで発言に目を光らせており、少しでも批判的な言動がなされれば、すぐに飛んで来る。そして、批判を行った者を揶揄したり、嘲笑したりするコメントを別の場所に投稿することによって、批判者を追い込み、批判的な言説が広まらないように印象操作を続けているのである。

こうした工作員部隊の活動は、アベンジャーズとも呼ばれている自民党ネットサポーターズクラブの動きを彷彿とさせる。アベ様を身を呈して守ろうとしている人たちと、密様を守ろうとしている部隊の動きは、筆者から見れば、瓜二つに見える。「誤報」などという言葉を使って、論敵を貶めようとする言葉の遣い方もよく似ているが、やはり統一教会がらみだからであろうか、こうして批判者を封じ込めようとする手口までそっくりなのだ。

自民党ネトサポに関しては、彼らのネット上の書き込みが金で行われていた事実が判明している。そこで、牧師という階級制度を温存するために、捨て身の作戦に出ているこれらの者たちの書き込みも、印象操作のためのシナリオに基づき、世論の誘導のために行われているのであって、決して自発的なものではない可能性を我々は十分に疑ってみなければならない。
 
以前から何度も書いて来たように、我々は、統一教会がキリスト教界にスパイを送ることなど決してないなどと安心している場合ではない。キリスト教の中に、キリスト教とは無縁かつ異質な勢力を送り込み、彼らの圧力によって神に忠実に従うクリスチャンを駆逐して行くということは、異端の勢力が必ず取る方法である。ペンテコステ・カリスマ運動もそのようにして既存の教会を破壊して来た歴史がある。

村上密が全くクリスチャンの利益のために行動していないことは、村上の言動から一目瞭然であり、村上が仕えているのは、聖書とは「別の福音」であることは何度も述べて来たが、それならば、村上は一体、どこの宗教、誰の利益に仕えているということになるのであろうか。

しかし、それにしても、村上密が3月23日に開かれた調停の場に出て来ることもなく、自らのブログに引きこもろうとするかのように、記事を大量に投稿した行為は、どこから見ても異常でしかない。引きこもりの患者ならば、他にすることもないので、一日に10本以上の記事を投稿するようなこともあるかも知れないが、29本の投稿は行き過ぎである。何のためになされた行為なのか、必然性もなく、牧師にも関わらず、ここまでブログに入れ込んでいる姿はもはや異常と言われても仕方がない。

このことは、当ブログが、村上のブログを引きこもり老人のモノローグ的回顧録も同然であると評したことの腹いせに、筆者が期日に出かけ、ブログを更新できなかった日に、大量投稿を繰り返すことにより、遅れを挽回しようとしたと考えられないわけでもないが、あまりにも異常な行動なので、そういう動機では単純に片づけられないものがある。

しかも、その後の記事において、村上はまたもや信徒の恥を晒すような相談内容を漏洩している。以前と何も変わってはいない。人間関係などを仔細に描写するだけで、相談者が明らかになってしまう危険もかえりみず、いつまで経っても、信徒の個人情報を守ろうとする姿勢がないことに呆れるしかない。 

さて、一日に29本の記事の投稿という異常行動は、調停の期日当日の村上の不安心理をよく示していると考えられる。やはり、この日、村上は杉本一人をスケープゴートとするかのように矢面に立たせ、自分は公の場に姿さえ現さなかったことに、内心ではよほどの罪悪感や、忸怩たる思いがあり、居ても経ってもいられない心境だったのだろうと感じさせる。

以下を見れば、これがただ不安心理の表れとしか見えないのは当然である。光のもとへ出る勇気がないために、藪の中に隠れて石を投げることしかできない幼稚な生き方しかできない人間が、一体、誰であったのかは、読者の前に明々白々である。
  

3月23日の村上密の記事投稿数(全29本)

権威について [ 2018-03 -23 23:37] 
権威2018-03 -23 23:28 ] 
宗教的権威に対して [ 2018-03 -23 23:20 ]
政治的権威に対して [ 2018-03 -23 23:14 ]
司法的権威に対して [ 2018-03 -23 23:07 ]
司法的権威を持つ者への注意事項
 [ 2018-03 -23 23:03 ]
政治的権威を持つ者への注意事項 [ 2018-03 -23 22:58 ]
権威について 21
 [ 2018-03 -23 22:50 ]
権威について 20
2018-03 -23 22:25 ]
権威について 192018-03 -23 22:23 ]
権威について 182018-03 -23 22:20 ]
権威について 17
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権威について 162018-03 -23 22:15 ]
権威について 152018-03 -23 22:12 ]
権威について 142018-03 -23 22:00 ]
権威について 13
2018-03 -23 21:56 ]
権威について 122018-03 -23 21:54 ]
権威について 112018-03 -23 21:51 ]
権威について 102018-03 -23 21:47 ]
権威について 92018-03 -23 21:45 ]
権威について 82018-03 -23 21:42 ]
権威について 72018-03 -23 21:40 ]
権威について 62018-03 -23 21:33 ]
権威について 52018-03 -23 21:32 ]
権威について 42018-03 -23 21:29 ]
権威について 32018-03 -23 21:26 ]
権威について 22018-03 -23 21:19 ]
赦し2018-03 -23 20:39 ]
権威について 12018-03 -23 10:10 ] 
  


 
 だが、断っておくが、人間は、それほどまでに単純な生き物ではない。うわべでは自らの非を認めなくとも、良心においては、自分がどんなに卑劣な行為に及んでいるかはちゃんと分かっている。そこで、この先、杉本をスケープゴートにすればするほど、村上は罪悪感の重さに耐え切れなくなるだろうと筆者は予想している。

しかも、上記メールに見るように、杉本がこの期に及んでもまだいじらしく村上をかばっているだけに、村上が自分一人、ブログに引きこもって、モノローグ的回想を延々と綴っている行為は、誰から見ても納得できるものではない。神と人の前で、こうして信者を利用して破滅させた村上の罪ははかりしれないほど重いものとなろう。

だが、だからと言って、筆者は決してそのことで杉本を犠牲者として擁護するつもりはない。我々は、以上に挙げた杉本のメールの文面を通して、杉本という人物がどれほど深くグノーシス主義に汚染されてしまっているか、また、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者でもないにも関わらず、村上密にどれほど深く心酔し、まるで運命共同体のように、この牧師の意向を「忖度」し、身を呈してこの牧師をかばおうとするほどまでに、深くマインドコントロールされてしまっているかをはっきりと見ることができる。

そのようにまで自分を見失って他人の欲望の奴隷となって行動したことの罪は、全て本人に跳ね返る。聖書は、キリストにあって自由とされた信者は、二度と人間の奴隷となってはいけないと教えている。しかも、あれほどカルトの危険性を訴えていた本人がこうなったことには、誰も同情しないだろう。

杉本と村上の例を通して、我々は、互いに面識があるかないかとか、同じ教団に所属しているとかいないとか言ったことに関わらず、離れたところにいても、これほどまでに深い精神的絆(癒着)が生まれることがあり得ると分かる。村上密による遠隔操作、重症のマインドコントロールを思わせる行動である。
 
杉本が当ブログに対していわれのないバッシングをしかけ続けた行為も、やはり杉本が村上の意向を忖度して、村上密の利益のためになされたのだろうと筆者は改めて思う。杉本はこれまで常に村上密の「影」として、村上の心を「忖度」しているつもりになって、村上の利益をおもんばかって行動して来た。そして、村上密にはそういう杉本の行動を止めようとした形跡が全くない。
 
杉本は、村上密のために、村上をキリスト教批判の分野においてナンバーワンとして担ぐためならば、自分自身は捨て駒となって、罪を問われても構わないという姿勢で、当ブログに体当たりしているのであるから、もはやこういう人間関係は、カルトの教組と信者との結びつきにも近く、教祖を守るためならば、どんな罪に問われても構わず、死んでも良いとする信者の姿を彷彿とさせる。

かつて杉本は、筆者を妄想教組に従うカルト信者のように形容していたが、蓋を開けてみれば、それは他ならぬ杉本自身だったことがこうして明らかになっているのである。

 だが、彼らがどれだけそのように所属教団や所属教会をも無視した異常な連帯を用いて、当ブログを圧迫したとしても、この先、誰の主張が駆逐されるのかは明らかである。

以前にも書いた通り、クリスチャンは、試金石である。本物のクリスチャンであれば、誰かがその人間にぶつかればぶつかるほど、かえってぶつかった人間の本質が見えて来る。

石とダイヤモンドでは勝負にならず、高速でダイヤモンドにぶつけられた石は、粉々に砕け散るしかないように、霊的法則性についても同様のことが言える。人間の主張対主張の争いにおいては、もしもどちらかが聖書の真理に堅く立っている場合には、虚偽の主張は根こそぎ粉砕されるしかない。

キリストご自身が生ける「石」となって、偽善者たちの上に落ちかかり、その教えを粉砕してしまったように、今日も、クリスチャンたちは、神の神殿を構成する「生ける石」として、嘘を粉々に打ち砕いてしまう役割を担っている。

それは、私たちが願おうと願うまいと、避けられない結果として起きて来る。このリトマス試験紙としての役割は、「地の塩」としての役割であり、自分の意志で取り除くことができるものではなく、その役目を果たせなくなれば、外に捨てられて踏みつけられるだけで、クリスチャンとしての意味もない。

そして、杉本も村上も、自分たちの主張に正当な論拠がなく、公の場所に提示すれば、それが否定され、粉砕される運命にあることを知っていればこそ、可能な限り、公の場で、当ブログの主張と直接、対峙することを避け、暗闇から非合法な方法で言いがかりをつけることで、意見表明を断念させようとしているのである。

以上のような事情があるため、当ブログでは、あえてこの先も、杉本から送りつけられる全ての迷惑メールや、さわやか読者らの動向を、逐一、仔細な注釈や分析を加えた上で、すべて公開して行くつもりである。
 
さて、筆者は、この先、杉本に一つだけ期待していることがある。それは杉本がこれから訴訟等を通して、公の場で、どれほど多くの情報を証拠として提示して来るかということである。

ソ連が崩壊する前には、ペレストロイカとグラースノスチがあり、その過程で、あまりにも多くの体制の腐敗・不正に関する闇の事件の情報が明るみに出て来たことが、この体制の決定的な信頼の失墜と崩壊を導いた。

このように、悪しき体制の崩壊には、まず信頼の失墜が先立つ。杉本はこれまでクリスチャンに関する情報を暗闇で密かに収集しては、クリスチャンを脅しつける材料として利用して来たが、当ブログではこの度、その「鏡」をくるりと反転して、逆に杉本からの情報収集を始めた。

まずは杉本が調停で証拠として出して来た唐沢治のメールを公開したが、それによって、当ブログがDr.LukeとKFCに関して述べて来た主張にも、かなりの裏づけが取れたと言える。

しかしながら、こんな程度では済まない大量の情報が、杉本徳久という「要塞」の中に、まだ数多く眠っているものと見られる。そして、当ブログでは、その情報に多大なる関心を寄せている。それだからこそ、前々から、杉本は、一人の人間でありながら、同時に、反聖書的な思想の体現者であり、霊的要塞なのだと述べて来たのである。

訴訟になれば、彼らは今まで以上に多くの証拠を出して具体的に反駁せねばならないが、その過程で、どれだけの情報が明らかになるのかが、最も注目するところである。

杉本徳久という人物は、うわべだけは敬虔そうな態度を装う”自称”クリスチャンたちが、密かなところで隠れて行って来た悪事、嘘、密告、裏切り、中傷、讒言、監視、陰謀、分裂工作などに関する様々な情報を嫌というほど握っている証人であると見られ、そうした情報を出させることにより、事の真相を明らかにすることには、とてつもなく大きな意義があると考えられる。

しかも、通常であれば、犯罪事件で訴えられたことが分かっている被疑者は、自分に捜査が及ぶ前に、証拠隠滅を図るであろうが、杉本という人物にだけはその原則が当てはまらない。未だに刑事事件となった事実さえ認めようとしない杉本は、まるで現実感覚がないがゆえに、逆に自分が難を逃れるために、この先、開き直って自分の握っている情報をとことんまで吐き出して来る可能性がある。

杉本が、ブログに記したコメントの一つさえ、削除を要求しても、応じない人間であったことを考えれば、杉本が自称クリスチャンたちに関して握っている不利な情報を隠滅するとは考えにくい。クリスチャンを貶めることが最初から彼らの目的であったにも関わらず、その材料を自ら手放すとは思えないからである。

そして、当ブログでは、杉本の存在を通して、うわべだけ敬虔を装う”信者”が、暗闇の中で、どれほど陰湿かつ卑劣な陰謀に加担し、神の子供たちを貶める行為に手を染めて来たかという情報が明らかになることは、大いに結構であり、望ましい展開だと考えている。
 
現在になっても、当ブログがまだ、人に優しく、耳に心地よい信仰告白を行う場だと考えている読者がいるとすれば、その人には、大変、残念なことであるが、当ブログにはそのような目的は初めからないので、人間の弱さを根こそぎ明るみに出すような話題を不快に感じられるならば、読まないことをお勧めするしかない。

なぜなら、聖書は言う、

人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父がお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10:26-31)

「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」(ルカ8:16-18)

ある人は言うかも知れない、「ヴィオロンさん、あなたは杉本が、カルト監視機構の設立を訴えていた村上密の活動に共感して、教会の不祥事をブログで発表し続けたことを、キリスト教の信用を失墜させる行為であると非難しています。それならば、あなた自身が、クリスチャンの堕落を明らかにすることは、同じようにキリスト教の信用を失墜させる結果になるだけだと思いませんか?」

筆者はそれに答えて、決してそうは思わないと言おう。なぜなら、たとえば「私たちはエロヒム(神々)だ!」と臆面もなく集会で宣言しているDr.Lukeこと唐沢治が、真にクリスチャンであって、聖書の御言葉に基づくキリスト教を布教しているなどと、どうしてあなたは思うことができようか。

だとすれば、KFCのメッセージが反聖書的であることを具体的な根拠と共に明らかにしたからと言って、それがキリスト教の信用を低下させる行為であるとは言えないであろう。むしろ、逆である。

ペンテコステ・カリスマ運動についても同様のことが言える。キリスト教の中にこっそりと滅びに至る異端を混ぜ込む「疑似キリスト教」の骨子を明らかにし、なぜペンテコステ・カリスマ運動がこれほどまでの混乱をキリスト教界に引き起こして来たのか、それをこの教えの本質を明らかにすることによって理論的に証明し、このような偽りを聖書の御言葉から公然と分離し、取り除いて行くことこそ、キリスト教の信頼の回復のために欠かせない過程ではないだろうか。
 
さらに、牧師制度の根本的な誤りを明らかにすることの重要性がある。村上密のような牧師が、いかにカルト化教会の牧師が自らの権威を絶対化していると批判したとしても、その村上自身が牧師である以上、そのような主張は大いなる自己矛盾でしかない。

唐沢治であろうと、村上密であろうと、彼らの論理破綻はまさに同じ点にある。他の牧師を批判する前に、自分自身が牧師の職を辞さなければならない。なぜなら、牧師が自らの権威を絶対化することが誤りなのではなく、牧師制度そのものが、必ず、権力の絶対化を引き起こす誤った制度なのであり、それを認めず、一部の牧師だけを批判する彼らの主張は、甚だしく合理性を欠いており、さらに自分自身を絶対化している彼らの行動とも相矛盾盾するものでしかないからだ。

このことは、かつてあれほど牧師制度を批判し、キリスト教界を批判していたDr.Lukeが、結局、自分のミニストリーに反対した信者について、虚偽の情報を言い広めて印象操作を行うまでに身を落とした様子からもよく分かる。まさにカルト化である。自分の活動の批判者を誰彼弾圧せずにいられない村上は言わずもがなである。
 
しかし、そうしたカルト化現象も、もしも村上や唐沢が、人々の目にヒーローのように映るフィクションの自分自身の姿を作り出し、それを見つめさせることによってしか、自己肯定、自己安堵を得られず、自己認識ができないという精神的弱さを克服することさえできていれば、起きなかったであろう。
 
だが、彼らには後戻りの道はなく、おそらくこの先も、最後まで虚構の自己像を演じ続けることで、真の自分自身から逃避するしか道はあるまい。
 
我々は、臆病さや卑怯さのために、彼らと同様に、ありもしない幻想の自己に逃げ込むことはせず、恐れることなく、真実な自分の姿を見つめたい。そして、真実な自分の姿とは、聖書に書いてある通り、アダムに属する人間はすべて堕落しており、弁明の余地なく、すべて十字架で廃棄されなければならないという事実である。

キリスト教の信用を失墜させないとは、決して人間に媚び、人間の機嫌を損なわず、人間の威光を傷つけないために、人間に関して楽観的で、美化された虚偽の幻想を流布することを意味しない。

キリスト教が唯一正しい方であるとしているのは、聖書の父なる神、独り子なるキリストだけであって、人間については徹底的に悲観的で絶望的な結論しか提示していない。

キリスト教は人間を賛美したり、神を信じているクリスチャンを美化し、誉め讃えるための教えではない。
 
聖書が教える人間の本質とは以下の通りである。

心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。
「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。 」(エレミヤ17:9-10)

聖書はすべての人間が、義人ではなく、堕落・腐敗しており、信用ならないことを教えている。だからこそ、被造物はすべて死を通らねばならないのであって、キリストの十字架以外にはいかなる救いも存在しない。

にも関わらず、あまりに大勢のクリスチャンが、キリスト教を自分のうわべを飾り、人前で自分を義と見せかけるための手段として用いている。彼らはうわべだけは敬虔そうに振る舞い、数々の儀式には精通しており、熱心かも知れないが、神を知らず、神に近づくことも考えておらず、聖書の御言葉への従順さも、神の御前での心の清さも求めない。何よりも、彼らは偽善的で、誠実さ、真実、御言葉への従順が欠けているのである。

彼らはアダムに属する人間の自己が、キリストと共なる十字架で死に渡されねばならないことを認めず、神を信じていると言いながら、自分が受ける恵みのことばかりを強調し、こっそりと、神を自分の魂の情愛や欲望を満たす手段へと変えてしまう。ない。そして、古い命に基づく情愛を賛美し、その情に基づく関係を兄弟姉妹の交わりと呼び、堕落した魂の情愛によって、神の教会を築き上げようとして失敗し、結局、異端に逸れて行くのである。

だが、そうした腐敗は、すべてもとを辿れば、グノーシス主義が生む現人神崇拝としての牧師制度へと行き着く。まずは牧師制度が、キリスト教を人間が栄光を受けるための手段に変え、被造物中心の教えに変えてしまうのである。神を信じることにより、堕落した人間に過ぎない牧師が、あたかも神の代理人のように高められ、しかも、他の信徒にまさって、「神の御言葉を取り継ぐ」資格を得たかのように振る舞い、神と人との唯一の仲保者であるキリストになり代わって信徒の心を支配し、金銭的にも肉体的にも、搾取し、自ら栄光を受けるのである。

このような牧師制度は、教会内に偽りのヒエラルキーを作り出し、教会を人間の欲望を叶える手段とし、奴隷としてしまうだけである。

それはちょうど、地上の会社組織が、人間の欲望に仕える団体であるがゆえに、人々に尊ばれているのと同じである。ある企業の社長が人前に敬われ、栄光を受けるとすれば、それは、その会社が人々の欲望を満たす手段だからである。人々は、ある会社の社長を尊ぶとき、本当は、その会社の社名や、社長の人物を尊んでいるのではなく、その社長の背後に存在しており、自分の欲望を都合よくかなえてくれる手段としての会社を尊んでいるのである。つまるところ、社長を尊んでいるというよりも、自分の欲望を尊んでいるのだと言って良い。

これと全く同じ原則が、牧師という制度や職業にも当てはまる。

主イエスは言われた、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたがたの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる。」(ルカ16:15)

なぜ人に尊ばれるものが、神に忌み嫌われるのか。それは、人が尊ぶものは、自分の欲望を都合よくかなえてくれそうなものばかりだからである。この世において、人が尊ぶものはすべて人々の欲望の化身なのであって、人はそれを尊ぶことによって、結局、自分自身の欲望を重んじているのである。

今日の教会においても、信徒らは、牧師という目に見える「象徴」の中に、自分の一切の願望を投影する。神の御心にかない、人々の救いのために自分の命を惜しまず注ぎだす、御言葉に忠実で従順かつ理想的な神の僕の姿を見ようとする。

しかし、神の御心にかなう従順で忠実な僕は、キリストお一人しかいないのであるから、目に見える人間の中に、神の忠実な僕を見たいとする信徒らの欲望は、裏切られて終わるだけである。

あれやこれやの牧師が特別な例外として誤りに陥るのではない。牧師制度そのものが、神と人との唯一の仲保者であるキリストの地位を奪い、キリストになり代わろうとするフィクションの制度であって、牧師という職は、それ自体が、人々の心の欲望から作り出された偶像、神話なのである。
 
そこで、信徒が、牧師という目に見える存在に、美化された人間の幻想を重ね合わせ、それを自らの欲望の化身として拝むことをやめなければ、信徒らがこの「フィクション」である牧師を手本に、福音を自分の御を飾る手段として利用して、幻想の自分を作り出しては、それに耽溺し、虚構の「聖化」や「栄化」の概念に溺れて行くことも終わらないであろう。

私たちは、そもそも人間という存在を欺瞞に満ちた幻想の美しい花輪で飾り立てることをやめ、聖書の突きつける厳しい現実を決して目を背けることなく直視せねばならない。

そこで、話を戻せば、当ブログでは、杉本を含め、カルト被害者救済活動の陣営がこの先、出して来る情報を通して、いかにも敬虔そうに振る舞う「信者」たちが、隠れたところで行って来た悪事が明らかになることは、全く問題ではないと考えている。むしろ、そうした情報が明るみに出されることにより、うわべの外見だけで人を判断し、無意味に人を美化しようとする偽りの幻想が打ち砕かれて恥をかかされ、退散して行くことは、まことに望ましい結果だと考えている。

私たちは、クリスチャンになったからと言って、人間というものの堕落した本質から決して目を背けるべきではない。誰にも嫌われたくないからという理由で、人の耳に心地よい言葉を語り、人間に過ぎない者を賛美したり、自分自身を美化したりして、神を自分の欲望をかなえ、自分が栄光を受ける道具として利用することは、聖書の福音に対する裏切り行為でしかない。

そんなことをしていれば、結局、神の御前で真理を否定して、救いから除外されるだけだ。

クリスチャンは、神が預言者エゼキエルに語られた内容を知らないわけではないと思う。

「彼はわたしに言われた、「人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう」。
 そして彼がわたしに語られた時、霊がわたしのうちに入り、わたしを立ちあがらせた。そして彼のわたしに語られるのを聞いた。
 彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの民、すなわちわたしにそむいた反逆の民につかわす。彼らもその先祖も、わたしにそむいて今日に及んでいる。
彼らは厚顔で強情な者たちである。わたしはあなたを彼らにつかわす。あなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言いなさい。
彼らは聞いても、拒んでも、(彼らは反逆の家だから)彼らの中に預言者がいたことを知るだろう。
人の子よ、彼らを恐れてはならない。彼らの言葉をも恐れてはならない。たといあざみといばらがあなたと一緒にあっても、またあなたが、さそりの中に住んでも、彼らの言葉を恐れてはならない。彼らの顔をはばかってはならない。彼らは反逆の家である。
彼らが聞いても、拒んでも、あなたはただわたしの言葉を彼らに語らなければならない。彼らは反逆の家だから。
人の子よ、わたしがあなたに語るところを聞きなさい。反逆の家のようにそむいてはならない。あなたの口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」。
この時わたしが見ると、見よ、わたしの方に伸べた手があった。また見よ、手の中に巻物があった。
彼がわたしの前にこれを開くと、その表にも裏にも文字が書いてあった。その書かれていることは悲しみと、嘆きと、災の言葉であった。」(エゼキエル書第2章)
 
旧約聖書において、神が人に語られる時、その内容が、人間の耳にとって心地よいものだったことはほとんどない。特に、自分たちは神に仕えていると自負する民にとって、それは厳しすぎる宣告と思われるほどに、彼らの罪を暴き出すものであり、耳を背けたくなるほど、受け入れがたい内容ばかりだった。その原則は、新約になっても変わらない。主イエスは、地上に来られた当時、律法学者やパリサイ人たちが、自分こそは神の代理人だと考えて、自分を聖なる存在のようにみなして思い上がり、民に誉めそやされ、民に君臨し、民を収奪していることの罪を指摘し、彼らの面目を失わせたのである。

だとすれば、現代だけは例外などということがどうしてあるだろうか。さばきは神の家から始まる、と書いてある通り、今日も、自分たちこそ敬虔な信者であって、御言葉の教師であると自認している人々こそ、最も厳しい裁きを受けねばならないのである。

このようなわけで、筆者は、万民祭司のこの時代、キリスト教界に秩序が回復されることがもしあるとすれば、それは一人一人のクリスチャンが、牧師制度を離れ、直接、キリストに従うようになる時だけであると考えている。

少なくとも、筆者が知っている限り、2008~2009年当時には、牧師制度と訣別し、キリスト教界を出て、信徒たちが真に対等な兄弟姉妹として交わることのできる場を追い求め、直接、御霊から御言葉から教わり、キリストに連なろうとする信仰者たちが存在した。そういう議論がタブー視されることもなく公然と展開されていた。

それから随分、状況は変わったが、その時に明らかにされた結論が、後になって変わることは決してない。当ブログの出発点は、牧師制度を離れなければ、正しいキリスト教の信仰は決して得られないというものであり、筆者が神を知ったのも、一切の地上的な組織や団体を離れ、いかなる宗教指導者からも離れた後のことである。

そこで、我々は一度得られた確信を決して捨てることなく、汚れた一切のものとの分離を保ち続け、前進して行かねばならない。我々の側から、心を清め、神に近づくためには、それが必要であり、神に忌み嫌われるものを一切捨てる覚悟なしには、誰も神に近づくことはできず、神が近づいて下さることも決してない。



★本来の正しい教義

正しい教義 キリストだけが神と人との仲保者

★今日広まっている異端の教義


牧師がイエス・キリストに成り代わっている

「イゼベルの霊」(異教的母性崇拝)に支配される「神の家の乗っ取り運動」としてのペンテコステ・カリスマ運動(4)

・神に疎外された者たちによる復讐の哲学としてのグノーシス主義

さて、本題に入る前に、先の記事にいくつか補足しておこう。

先の記事では、グノーシス主義における「父なる神」の概念は、本質的にフィクションであると述べた。グノーシス主義においては、「真の至高者」と呼ばれる最高位の神から、神的存在が流出し、その神的存在がさらに自分自身の似像を創造することで、様々なアイオーン(神々)が生まれるが、「真の至高者」自身は、神的存在を映し出すための物言わぬ「鏡」であって、誰も見ることのできない虚無の深淵であるとされる。

グノーシス主義の神話的プロットにおいては、「真の至高者」が、意志をもった主体として登場したり、被造物の世界に介入することはなく、「真の至高者」による被造物の創造も、主体的な創造行為というより、ただ自分自身の姿を鏡に似像として映したというだけの、かなり消極的で受動的なものである。

前の記事では、結局、「真の至高者」は、リアリティを持った存在ではなく、ただ被造物の存在に意義を与えるためだけに名目だけ作り出された擬制的概念で、本質的には、被造物の欲望を「鏡」のように映し出す偶像であり、「フィクション」なのだと述べた。

ちなみに、虚無の深淵に、水面に光が反射するようにして「神的存在の流出」が起きるというグノーシス主義の神話のくだりは、創世記の次の記述を彷彿とさせる。

はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。」(創世記1:1-4)

しかし、この創世記の記述を、グノーシス主義の神話的プロットと同様のものとみなすことはできない。なぜなら、この記述においては、神の霊があたかも「やみの深淵」に等しい存在であるとか、神の霊が水のおもてに自分自身を映し出すことによって「光」が生まれたなどとは決して書かれていないからだ。

また、創世記には、神が人を創造された際、主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」(創世記2:7)という記述がある。

神が人間に息を吹き入れることにより、人は生きた者となったという聖書の記述についても、グノーシス主義のプロットの中に類似したくだりが見られる。だが、聖書のこの記述とグノーシス主義の神話のプロットの間にも、あまりにも多大なる差異があるため、これも同じようにみなすことは決してできない。

グノーシス主義においては、人類は、ヒエラルキーを犯して「真の至高者」を知ろうとしたソフィアの過失によって生まれた悪神ヤルダバオートから生み出されたことになっている。繰り返すが、このヤルダバオートとは、グノーシス主義において、旧約聖書の神と同一視されている。

グノーシス主義文献の一つ、『ヨハネのアポクリュフォン』では、母ソフィアに捨てられて下界に転落したヤルダバオートは、自分のいる下界よりも上位にプレーローマ界があることを知らないまま、下界にさまざまな被造物を生み出し、自分だけが世界の創造主であると自己過信して、「私の他に神はいない。私は妬む神である。」と宣言する。

しかし、それを聞いたプレーローマ界の創造者であるバルベーロー(真の至高者から最初に生み出された女性人格であり、プレーローマ界を創造した神的存在)はその宣言をヤルダバオートの傲慢さの表れであるとみなして憤激し、「人間と人間の子が存在する」と言って、自分の姿を下界に映し出す。それを見たヤルダバオートは、初めて見た神の姿を自分のものにしようと、バルベーローを模して人間(アダム)の体を創造したという。

だが、体が造られただけでは、人間は立ち上がることができなかったので、プレーローマ界の神々は、ヤルダバオートに、アダムの口に「息(プネウマ)」を吹き込むようにそそのかした。「そそのかした」というのは、ヤルダバオートがアダムに吹き込んだ息は、母ソフィアに由来する霊であって、ヤルダバオート自身は、その「息」をアダムに吹き込む代わりに、自分自身はそれを失ってしまったからである。

ところで、このような神話のプロットには、それ自体、相当な無理があると言えよう。グノーシス主義の神話では、それぞれの神的存在の間にヒエラルキーがある。そこで、本来、ヤルダバオートによって創造された人類は、ヤルダバオートの似像となるのが当然であって、吹き込まれた息も、ヤルダバオートの霊であるはずであり、ヤルダバオートを飛び越えて、さらに上位の神の似像として造られるなど考えられない。

ところが、グノーシス主義は、バルベーローがヤルダバオートを出し抜いたことにより、人類は、ヤルダバオートの存在を飛び越えて、プレーローマ界の直接の創造者であるバルベーローの似像として創造されたのであって、その息も、ヤルダバオートを飛び越して、母ソフィアに由来するとしている。これはいかにバルベーローの意志のもとで行われたことになっているにせよ、グノーシス主義が、神的存在の間にヒエラルキーを定めておきながら、そのヒエラルキーを自ら壊すようなプロットを作ったことを意味する。

グノーシス主義においては、このように、自ら定めた秩序やヒエラルキーを自分で破壊するようなプロットが次々と展開される。第一に、ソフィアが、自分の分を超えて「至高者」を知ろうとしたことによりヒエラルキーを覆し、第二に、ソフィアの過失によって生まれたヤルダバオートが、自分こそ至高の存在であると宣言して、ヒエラルキーを犯し、さらに、人類がヤルダバオートを飛び超えて、さらに上位の神の似像として創造されることによって、ヒエラルキーが覆され、さらに、以下に示すように、アダムから最初に生まれた子供たちであるカインとアベルが悪しき種族となる一方で、カインとアベルよりも後に生まれたセツの種族が「生命の霊」を継承する善なる種族となって、ヒエラルキーが覆される。

グノーシス主義においては、「私は妬む神である。私の他に神はいない」というヤルダバオートの宣言だけが、あたかも許し難い傲慢のようにみなされているが、実際には、ソフィアもヒエラルキーを犯し、人類もヤルダバオートより優れた存在として創造されることにより、ヒエラルキーを犯しているのだが、それらのことが悪として非難されたり、罰せられることはない。
 
しかし、そういう不公平でナンセンスな解釈をすべて取り払って、ただ単純に物語のプロットだけに注目するならば、グノーシス主義の物語では、ただ延々と「秩序転覆」(大田氏の言葉によれば、「簒奪の模倣」)が繰り返されているだけであることが分かる。

要するに、自分よりも上位にあるはずの存在から、オリジナリティを盗むことによって、自分自身がその者になり代わり、その者の優れた特性を剽窃して、歪んだ模倣を行うという「秩序転覆」が延々と繰り返されているのがグノーシス主義の物語なのである。
 

「グノーシス主義の造物主であるヤルダバオートは、プレーローマ界の似像として可視的世界を創造しながらも、その原型であるプレーローマ界の存在を認知せず、「私の他に神はない」と、自らの至高者と唯一性を宣言する。彼は、神的な秩序のオリジナリティを、本当の至高者から、そしてプレーローマ界から奪い取ってしまうのである。ヤルダバオートによる創造行為は、ソフィアが不意に踏み出してしまった「簒奪の模倣」という行為を、全面的に展開したものと捕えることができるだろう。
(『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』大田俊著、春秋社、2009年、pp.104-105)

 
既述した通り、グノーシス主義においては、ヤルダバオートが創造した人間が、プレーローマ界の創造者であるバルベーローの似像として生み出され、ヤルダバート以上の存在となったことは、全く悪とはみなされない。
 
だが、人類の誕生が、ヤルダバオートが水面に映ったバルベーローの姿を「我が物にしよう(=盗もう)」と欲したことによって起きたことを考えれば、結局は、これも「簒奪の模倣」の結果でしかないのである。さらに、ヤルダバオートがバルベーローの似像を奪い取ろうとして生み出した人類の中にも、二種類の種族が現れ、アダムから先に生まれた「カインとアベル」の種族は、ヤルダバオートが「生命の霊」を真似て造りだした悪しき「模倣の霊」にとりつかれ、互いに憎み合い、殺し合うという「運命の鎖」の中に閉じ込められて生きるしかなくなる一方、アダムからカインとアベルの後に生まれた「セツの種族」が、プレーローマ界に由来する「善なる、憐れみに富む霊」である「生命の霊」を受けて、物質的欲望から解放されて崇高な人生を生きるのだという。
 

創造された人間の肉体には、バルベーローが人間を救済するために派遣した「生命の霊」が、あるいはヤルダバオートがそれに対抗するために、「生命の霊」を真似て造り出した「模倣の霊」が植えつけられる。そして、これらの指導的な霊の種類の違いによって人間たちは、「セツの種族」という祝福されるべき種族と、「カイン・アベルの種族」という呪われるべき種族に分かれ、相互に対立を繰り広げるようになる。」(同上、p.107)


 
ここで、カインとアベルの両方が、堕落した種族の呼び名とされているなどの、あまりにも聖書からかけ離れた荒唐無稽な呼称について非難することは脇において、プロットだけに注目して話を進めることにしよう。こうして、ソフィアから、ヤルダバオートへと受け継がれ、さらに人類にも受け継がれた「簒奪の模倣」という、グノーシス主義に特徴的なヒエラルキーの転覆願望は、人類にも悪しき種族を通じて受け継がれて、呪われた「運命の鎖」として延々と継承されて行く。その「模倣の霊」の悪なる本質は、ヒエラルキーを下へ下がれば下がるほど、争いや殺人といったますます醜い形で現れるようになっていることが分かる。

『ヨハネのアポクリュフォン』は、一方では、悪しき「模倣の霊」とは異なる「生命の霊」なるものがあるとして、その霊によって導かれる善良な「セツの種族」なる人類が存在すると主張し、そこに救済のようなものを見いだそうとするのだが、しかし、そのようなプロットにも、あまりにも無理があると言えよう。なぜなら、セツの種族も含めた人類全体が、ソフィアが至高者の像を盗み取るという「簒奪の模倣」をきっかけに生まれたのであり、ソフィアの過失によって誕生したヤルダバオートが、さらにバルベーローの像を盗むという「簒奪の模倣」を行った結果として誕生していることは明白だからである。そのような呪われた出自を持つ人類全体の中から、どうしてセツの種族だけが、「簒奪の模倣」とは無縁の、プレーローマ界に由来する善なる霊だけを持つ神聖かつ善良な存在であるとみなすことができるのだろうか。
 
我々クリスチャンの目から見れば、グノーシス主義の神話的プロットの中で、唯一、確かなリアリティとして存在しているのは、決して「生命の霊」とか「セツの種族」といった救済めいた概念ではないのである。むしろ、そうしたものは、グノーシス主義の物語のプロットの中で、延々と繰り返されている秩序転覆、ヒエラルキーの破壊、「簒奪の模倣」を正当化するための言い訳として、ソフィアの過ちを「修正」するために作り出された方便でしかないのである。

そのことは、「セツの種族」なる人類が、自分の本当の出自がプレーローマ界にあると気づくことによって、「母ソフィアの過ちを修正する」ことを最大の使命としている点を考えても納得がいく。「セツの種族」が目指しているのは、悪しき模倣の霊と手を切って、それと無縁の人生を送ることではなく、悪しき模倣の霊の生んだ産物の子孫として生まれた自分自身のルーツを、何とかして正当化することで、ソフィアから延々と人類に受け継がれているヒエラルキーの転覆を正当化することなのである。
 
結局、グノーシス主義の物語は、全体が、「簒奪の模倣」を正当化し、それを弁明するために作り出された物語なのだと言える。そこで、グノーシス主義とは何か、ということを一言で言い表すならば、「妬みに基づく剽窃を正当化する教えである」と結論づけることができるものと思う。

グノーシス主義は、旧約聖書の神を指すというヤルダバオートが「私は妬む神である」と宣言していることを、あたかも彼の愚かさや偏狭さや嫉妬深さの証拠であるかのように徹底的に侮蔑・嘲笑・非難するが、ところが、よくよくこの物語を見れば、実際には、妬みに駆られているのは、ヤルダバオートだけでなく、ソフィアの過失にせよ、人類の創造にせよ、グノーシス主義の物語全体が、創造主なる神に対する妬みによる「剽窃」と秩序転覆を延々と繰り返しながら、上位の神からオリジナリティを盗み、奪うことを正当化して出来上がっているとしか言えないのである。

このように、終わりなき秩序転覆が繰り返されていることに見る通り、グノーシス主義の教えは、誰かが自分よりも優れた他者を妬み、その他者からオリジナリティを盗むことで、自分がその者になり代わって、高貴な存在となり、その者の功績を倣して、歪んだ摸造としての「盗作」を生み出すという悪しき行為を言い訳し、助長するために作り出されたものなのである。

それだからこそ、この物語においては、本来であれば、オリジナリティを盗み取られて、最も憤慨して、立ち上がり、無法者の行為を罰せねばならないはずの「真の至高者」が、物言わぬ「鏡」や「虚無の深淵」と同一視されて、被造物の過失の責任を問うこともなく、最初から最後まで沈黙し続けているのである。

このことから、グノーシス主義においては、最高の存在であるはずの「父なる神」は、最初からリアリティを持たない、抜け殻のような存在に過ぎず、単なる名目だけのお飾り的な存在で、もともとオリジナリティが全くないのだと言えよう。

これまでの記事でも、「剽窃」や「贋作」や「盗作」といった概念が成立するのは、確固たるオリジナルが存在する場合だけだと述べて来たが、グノーシス主義における「至高者」は、それ自体が「鏡」であり、誰も見ることのできない深淵であるため、オリジナリティがないだけでなく、逆説的に、この「鏡」を通して、被造物が「至高者」の像を盗み取ることが可能となる。「至高者」であるはずの存在が、「鏡」とされることによって、被写体のように、「見られる対象」となってしまい、そこから「存在の流出」が起きるのである。しかも、その「至高者」は物言わぬ存在で、勝手に自身のオリジナリティを盗まれても、文句も言うことができない。

このような自己矛盾した筋書きは、グノーシス主義が、初めから「至高者の存在を盗み取る」ために生まれた物語であるからこそ、成立するのである。

さて、聖書においても、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18)という記述があるが、この記述の持つ意味は、グノーシス主義の主張とは全く異なる。

確かに、神を見た者はいない、という点では、聖書とグノーシス主義は共通点があるかも知れないが、しかし、聖書においては、神は独り子なるイエス・キリストを通して、ご自分を示されたのであり、クリスチャン一人一人はキリストを通して神を知ることが許されている。

ところが、グノーシス主義においては、神を見ることは誰にもできず、神を知る手段も被造物にはない。あるいは、独り子だけが神を見ることができるとしながらも、他の被造物には、独り子を通して神を知る道が閉ざされている。人類も、神を見ることはできず、神を見るためには、自分自身を見つめるしかない。このように、グノーシス主義の「父なる神」は最初から最後まで、あるかなきか分からない「フィクション」なのである。
 
だからこそ、グノーシス主義の神話のプロットにおいて、このように「神を知る」ことから疎外されている被造物には、神を知るために、結局、神を「盗み見る」しか手立てがないのである。
 
このように、グノーシス主義とは、「父なる神」を知ることから疎外された者たちが、不正な手段で、「父なる神」のオリジナリティを盗もうとすることを正当化するために作り出された教えであると言え、神の救いから除外されてしまった人々が、神から神であることを盗み取ることで自己正当化をはかるために作り出された教えなのである。

そして、そのような悪しき方法で自己正当化をはかったことの責任を問われないために、グノーシス主義は初めから、「父なる神」を物言わぬ鏡にしてしまっているのだとも言える。

とどのつまり、グノーシス主義の言う「父なる神」とは、結局、被造物の欲望を映し出す「鏡」なのであり、被造物の欲望の化身であり、偶像なのである。グノーシス主義者は自己の欲望を「神」とみなし、それを拝むことによって、自分は神と一体化しているかのように考え、実際には、拝んでいる神が、実体のないフィクションでしかなく、自分は神を知ることから疎外されているという事実を覆い隠しているのである。

以上のことを考えれば、真に「妬み」に支配されているのは、決してヤルダバオートだけではなく、グノーシス主義に登場するほぼすべての被造物、グノーシス主義の物語全体が、「父なる神」に対する妬みに基づいて作られたものである事実が見えて来よう。

このように、グノーシス主義の教えは、「神を知る」ことから疎外されている者たちが、自分たちには知ることのできない神を不正な方法で「盗み」、これを「模倣」して、自分自身を「神」とするために、聖書の父なる神に対する「妬み」によって作り出された偽りの教えなのである。


・神に疎外された者たちが、神のものを盗むために延々と繰り返す「簒奪の模倣」としてのペンテコステ・カリスマ運動

さて、以上のように考えると、グノーシス主義は「神に疎外された者たちが神を盗み取り、模倣することで、神に復讐する物語」であると言える。つまり、神を知りたいと願いながらも、神を知る道を閉ざされた者たちが、神から神であることを奪い、神を乗っ取り、自分自身が神になり代わって、復讐を果たすための教えなのだと言えよう。

そのような意味で、グノーシス主義とは、まさに悪魔によって直接息吹かれた思想であると言える。なぜなら、聖書において、悪魔は神によって創造された被造物であるにも関わらず、神に背いて、神のようになろうとしたがゆえに、反逆の罪に定められたからである。

グノーシス主義はソフィアの過失を悪とみなさず、彼女を罰しないことによって、聖書の神に背いて神以上の存在になろうとした悪魔の欲望を肯定しているのである。

以上の事を考えると、なぜペンテコステ・カリスマ運動に影響を受けた信徒らが、様々な教会や集会の中で、異常としか言えない行動に出るのかが理解できるようになる。

それは、ペンテコステ・カリスマ運動が、もともとキリスト教ではなく、グノーシス主義に由来するものであって、その中心にはグノーシス主義と同じ「簒奪の模倣」、すなわち、「乗っ取り」や「模倣」や「剽窃」の霊があるためなのである。
 
ペンテコステ・カリスマ運動の起源がグノーシス主義にあることについてはすでに幾度も論じて来たので、ここでは繰り返さず、今は具体例を見ることにしよう。

以下は、前にも説明した通り、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(神召キリスト教会)の信徒であった鵜川貴範・直子夫妻がDr.Lukeの率いる横浜の集会Kingdom Fellowship Church(KFC)を乗っ取った時に作成したサイトである。

このサイトの更新は、2013年9月で止まっており、さすがに鵜川の肉声を記録した音声メッセージはすでに削除されているようだが、サイト自体は現在も放置されたままである。


https://kingdomfellowship.webnode.jp/
図1 当時、Dr.Lukeを集会から追い出して鵜川夫妻が作成した偽サイト。ウォッチマン・ニーの「荒野に宴をもうけ」が発信されるなど、当時の公式サイトがかなり細部に至るまで模倣されている。だが、Dr.Lukeがこの偽サイトを今日に至るまで放置していることにも、同じほど深い闇がある。

 
鵜川夫妻がこれまでにも様々なコピーサイトを作っては放置して来た事実があることは、記事で説明したが、同夫妻が、他教団の信徒であったにも関わらず、「いずれはエクソダスするつもりである」などとうそぶき、所属を隠してKFCに潜入し、メッセンジャーとなってKFCの集会を乗っ取ったこともすでに述べた。

鵜川夫妻は、それによって「神のものを盗める」と考えたのだと見られる。つまり、同夫妻はDr.Lukeに憧れ、Dr.Lukeのわざを盗み、真似することによって、自分自身が神に近付けると考えたのであろう。

しかしながら、乗っ取られた方も乗っ取られた方であり、同じほど深い虚無の深淵であったと言える。本来ならば、以上のような真似をされれば、オリジナルの所有者が出て来て、偽サイトを駆逐するための措置を取るはずである。それだけでなく、大変な迷惑をこうむったとして、他にも様々な法的措置を取り、無法者への処罰を求めて当然である。しかし、Dr.Lukeはそれを今日まで全く行っていないのである。

つまり、オリジナルの所有者が、オリジナルの所有者たる権利を全く行使しておらず、するつもりもないのである。そもそも「贋作」や「剽窃」を主張できるのは、オリジナルが存在する場合のみであるという理屈に当てはめれば、これは「偽物」であり、「コピー」でありながら、同時に、偽物でもコピーでもないということになろう。

それは、KFCという団体そのものが、実のところ、乗っ取った側と同じ、虚無の深淵からなる実体のないフィクションでしかないからである。

乗っ取られた側も、乗っ取った側と本質的に同じであったからこそ、「オリジナル」の所有者が出て来て権利侵害を訴えることができないのである。

そのことは、Dr.Lukeのミニストリーがフィクションであるだけでなく、Dr.Lukeという人物も、フィクションであることをよく物語っている。これまでの記事で、牧師という存在がみな信徒らの欲望を体現するための偶像であり、フィクションであると述べたが、Dr.Lukeという人物も、それと同じように、信徒らの願望を投影して作りだされた実体のない架空の概念でしかないのである。

Dr.Lukeのミニストリーは、その時、その時で、全く互いに相容れない異なる教えを掲げながら、次々とその看板をすげかえて続いて来た。目玉として打ち出される教えが何であれ、それらはすべてが「借り物」の域を出ないものだったのである。

そのことは、Dr.Lukeが、上記のなりすましサイトにも見られるように、かなり長い間、ウォッチマン・ニーを看板として掲げていたにも関わらず、それも一時的な「借り物」に過ぎず、現在は全く違う教えを看板として中心に据えている様子からも分かる。

KFCのミニストリーは、このように、その時々で、様々な教えをうわべだけの飾りのようにちりばめ、混合しながら出来上がって来たものである。とはいえ、その母体となるものも、明らかに存在しており、それは、鵜川夫妻が属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と同じ、「異言」を伴う「聖霊のバプテスマ」を強調する聖霊派の教えである。

(Dr.LukeがKFCを創設する際にモデルとしたKingdom Feithを率いるColign Urquhartは英国のカリスマ運動に属するリーダーであり、1970年代には"When the Spirit Comes"『聖霊が降臨するとき』などの著書も記しており、そのミニストリーの有様を観察すれば、これが今日の日本のペンテコステ運動などの聖霊派のスタイルとほぼ同じであることが分かる。)
 
すなわち、KFCの土台をなすのは、その他にどれほど様々な教えを掲げていようと、あくまでアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と同じ「異言」を伴う「霊のバプテスマ」を強調する聖霊派の流れなのである。それだからこそ、Dr.Lukeはサンダー・シングなどを読むアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒が現れてこの異端の書を集会の中に持ち込もうとしても、それに反対することもなく、また、鵜川夫妻の本質的危険性を指摘されても気づくことがなかったのである。

それは、これらの聖霊派の信者らを導く「霊」が、Dr.Lukeを導く「霊」と本質的に同質だったためであろう。その他のどんな教本を読んでいるかなどの細かい差異は重要ではなく、彼らにとって重要だったのは、彼らを導く「霊」の共通性・同一性だったのである。

今日、Dr.Lukeが杉本徳久のような人物とも「遺恨を残すことは本意ではない」などと融和を唱え、村上密の活動にも異議を唱えなくなったことも、以上と同じ理由からである。この人々の思想の根底には、共通して聖霊派の教え、聖霊派の「霊」があるためなのである。そして、彼らがこれまで行って来たわざ、また、以下にも記す事柄を考慮すれば、聖霊派が強調する「霊」が、決して聖書における聖霊と同一でなく、キリストの御霊ではないことは明白である。
 
(ちなみに、Dr.Lukeは、筆者がまだカルト被害者救済活動の偽りをはっきりと知らなかった頃、筆者に向かって、杉本徳久を導く霊が、「キリストの御霊ではないと思いますよ」と、忠告して来たことがあった。そこで、筆者は、最初からDr.Lukeを導く霊が、杉本や村上を導く霊(ペンテコステ運動の霊)と完全に同一だったと言うつもりはない。おそらく、それとは異なる信仰のあり方の模索も存在していたのであろう。だが、Dr.Lukeの言動は常に二重性を帯びており、彼のミニストリーには互いに矛盾する様々な基盤が同居していたのであり、時と共に偽善性が深まった結果、最終的には、聖霊派の偽りの霊が、Dr.Lukeとそのミニストリーを占拠したのだと言えよう。)
 
もしも今日、鵜川貴範のメッセージが残っていれば、彼がその中で、単なる真似事や作り事とは思えないほどに「流暢な異言」を語っていた様子が分かるはずである。それほど流暢な「異言」は、実際に、聖霊派を知っている筆者から見ても、極めて特異なものであったと言える。

Dr.Lukeは、鵜川夫妻が登場する以前から、集会の中で異言を語ることに全く反対の態度を取っておらず、「霊の歌」などと称して、集会中に信徒が異言を語り続けることを奨励していたのであるから、聖霊派の唱える「霊のバプテスマ」の信憑性を疑ったり、鵜川の異言の出所に疑いを持つようなことは思ってもみなかったと考えられる。

KFCは、このように聖霊派の教えを土台として、その上に、アンドリュー・マーレー、オースチンスパークス、ジェシー・ペンルイス、ウォッチマン・ニーなどの霊的先人の教えをつけ加え、これらを総合的に混ぜ合わせて集会を作り出していた。

だが、本来、ペンテコステ・カリスマ運動のような聖霊派は、決して以上の霊的先人のメッセージと一致するものではない。両者は一見、キリストの御霊を強調している点で、同じような「霊の流れ」にある「霊的な教え」のように見えるかも知れないが、この二つの潮流の源流は全く異なるものである。

なぜなら、アンドリュー・マーレーにせよ、オースチンスパークスにせよ、ウォッチマン・ニーにせよ、その中心には常にキリストの十字架があるのに対し、ペンテコステ・カリスマ運動の強調する「霊」の教えの中心には、キリストの十字架が欠けているからである。
 
手束正昭氏の著書を通して、当ブログでもすでに見て来たように、聖霊派において常に強調される「聖霊のバプテスマ」とは、キリストを証するものではなく、人間自身をより高次の次元の存在へと引き上げる霊であり、人類の堕落したアダムの命に霊的死をもたらす要素を全く持たない。

そのことは、手束氏の述べている養子論的キリスト論をよく読めば、明らかになる。同氏の言う「聖霊」は、堕落した人間に過ぎないアダムの命によって生きる人類を、アセンションと同じように、何らかの方法で「改良」することにより、より高次の存在へ高めることによって、贖われていない者をあたかも贖われた者のように、さらには「神のように」見せかけ、神ではなく、人間自身に栄光を帰するため偽りの霊なのである。

その「霊」の偽りは、その「霊」が何を証するかという特徴によって顕著に見分けられる。聖霊派の信者が常に「聖霊」として強調する霊は、信者にさかんに自分自身を誇示させることはあっても、キリストご自身に栄光を帰さず、キリストが十字架で死を経られ、復活されたことを証ししない。

ジョン・R・ハイムズ著『異言の正体』には、聖霊派の強調する「異言」を伴う「聖霊のバプテスマ」の非聖書性・危険について詳しく解説されているが、その危険性をいくつか部分的に抜粋しよう。
 

それこそ異言の危険性です。異言を語る人は自分で、あるいは自分の教会だけで異言を語ることに満足しません。他の教会の信者も異言を語るように努力します。(p.4)

異言の魅力はどこにありますか。まず簡単です。異言の信者はこのように言います「異言を語ったら、すばらしい喜びを持つことができます。そして、この祝福を通してあなたのクリスチャン生活が簡単になり、あなたは罪に勝つことができます。
もしそれが本当であるならば、キリスト者は誰でも異言を語りたくなるでしょう。でもこの本で証明するようにそういう約束は聖書のどこにもありません。聖書的ではありません。(p.6)

異言は決してキリスト教のものだけではありません。1世紀にもいろいろな偶像の宗教は異言を語っていました。例えば:デルフィの宮の宗教や当時の「神秘の宗教」やグノーシス教やシリヤの女神ジュノの宗教などです。
現代にもキリスト教以外に異言を語る宗教があります。例えば、イスラム教のダービシュ聖人やヒンズー教のある聖人です。したがって、悪魔が話させる偽物の異言もあると言えます。これから勉強するように、キリスト教にも偽物の異言があります。(p.6)

カリスマの信者の目標は異言を認めない教会が異言を語るようになる、ということです。<略>カリスマ運動は教会を始めることより、他の教会のメンバーを盗むことが多いです。自分の教会を開拓しないで、福音派や根本主義者の教会に異言を伝えることが多い運動です。その態度は今まで続きますから、カリスマ運 動は多くの教会のけんかや分裂をさせてしまったことがあります。その理由だけで霊的にとても危ない運動です。(pp.8-9)

 

この最後の部分、「カリスマ運動は教会を始めることより、他の教会のメンバーを盗むことが多い」という指摘は極めて重要である。もちろん、これはカリスマ派のみならず聖霊派全体に
共通する特徴であるが、彼らには、「自分の教会を開拓しないで、福音派や根本主義者の教会に異言を伝えることが多い」という特徴があるのだという。

つまり、すでに出来上がった土台を有する他の教会に入り込み、そこで異言の重要性を解くことによって、その教会のメンバーを奪い去り、分裂をもたらすという行動が、聖霊派の信徒にはパターン化している様子が分かるのである。

鵜川夫妻がKFCでやろうとしたことも、まさにそれに当てはまる。つまり、この夫妻が行ったことは、まさにペンテコステ・カリスマ運動の信者に典型的な行動だったのである。

彼らは、クリスチャン・トゥデイの記事にも記されているように、早くから、路傍伝道を日常的に行っていたが、そのことからも、彼らが自分の影響力を、所属教会の許可なく、所属教会の枠組みを超えて、可能な限り、外へと押し広げようとしていた様子が見て取れる。

通常、教会が行う路傍伝道は、信徒らがチームを組んで、予め立てた計画に沿って行われるもので、所属教会の許可を得ずに、信徒の独断で行われることはまずない。しかし、彼らの場合は、あたかも自分の中にある抑えがたい情熱を定期的に外へ吐き出さずにいられないとばかりに、時間も場所も計画せずに、自分の心の赴くままに公共の場所へ出かけ、突如として、そこで通行人に向かって語り出すというスタイルであった。
 
その「伝道」が、所属教会の許可のもとに行われていない以上、仮にそうしたメッセージに耳を傾ける者が出て来たとしても、その魂が教会に導かれることはなかっただろうと思われる。

つまり、その「伝道」は、人々の救いのために行われたものでは決してなく、ただ聖霊派の信者が、自分の抑えがたい情熱を外へ吐露し、自分自身の欲望を満たす目的のためだけに行われていたのである。

ジョン・R・ハイムズ氏の記述からも分かるのは、ペンテコステ・カリスマ運動の信徒らには、自分が正しいと信じていることを他者にも押しつけねばならないという身勝手な思い込みのもと、秩序をわきまえず、独断的で専横的な行動を繰り返し、他教会に潜入したり、人々の生活に望まれもしないのに介入・干渉して行って迷惑をかけたり、分裂をもたらすというという特徴が共通して見られるのである。

聖霊派の信者が、「異言を語ったら、すばらしい喜びを持つことができます。そして、この祝福を通してあなたのクリスチャン生活が簡単になり、あなたは罪に勝つことができます。」などと自己宣伝しているように、聖霊派が強調する「異言」や「聖霊のバプテスマ」は、確かにそれを受けた信者に、それに病みつきになるような何らかの恍惚体験を与えたり、その信者が、通常人の域を超えて、周囲の人々に異常な影響力を行使することが可能になるような、何かしらの超自然的パワーを与えているのであろう。

その「霊」を受ければ、「神のように高次元の存在に引き上げられ、質の高い人生を送れる」という謳い文句は、単なる虚偽ではなく、そこには、実際に悪霊に由来する力が働いて、その「霊」を受けた人間が、何らかの異常な超自然的なパワーを得ている可能性は十分に考えられる。

だが、仮にそうしたことがあったとしても、その「霊」の本質が、キリストの御霊では決してない以上、その霊が結ぶ実が良いものとなることも決してない。それは、神から来た霊ではなく、以上で見て来たように、むしろ、神に反逆する悪魔的グノーシス主義に由来する「悪しき模倣の霊」であるからこそ、自分では何も生み出そうとせずに、他者の功績を盗み、他教会を乗っ取って信者を奪い去ったりして、分裂をもたらし、神を崇めると言いながら、自分自身を崇め、自己に陶酔するだけのナルシシズムの霊なのである。
 
その「霊」がクリスチャン生活を単純化し、罪に勝つ力を与えるなどという謳い文句も、偽りであって、錯覚でしかない。 実際には、聖霊派の出所不明の「異言」をもたらす怪しい「霊」を受けた信者は、自分に麻薬のような恍惚体験をもたらしてくれる「異言」にやみつきとなり、自己満足するために、ところかまわず「異言」を語っては、秩序を壊さずにいられなくなったり、その「霊」の悪しき影響によって、善悪の感覚や、良心や、罪悪感が麻痺させられるため、罪を犯しても罪と思わなくなり、それによってあたかもクリスチャン生活が単純化されて、自分が清められて、聖なる者になったかのような錯覚を抱くだけなのである。

それはちょうど重症のけが人や、重篤な患者が、麻酔薬のおかげで自分は健康になったと錯覚するようなもので、そうして痛みを無視して動き回ったことのツケは後になってすべて跳ね返って来るが、ペンテコステ・カリスマ運動の信者の場合、その破天荒な行動によって、本人よりも周囲の者たちが著しい迷惑をこうむるのである。

こうして、聖霊派の信者らが、悪しき「霊」を受けた結果、自分があたかも聖なる存在であって、自分の考えることはすべて正しいかのような思い込みに陥り、他者の人生に不当な干渉を繰り返しては、害を及ぼすという異常行動は、ただ「伝道」という名目だけでなされるのではない。

たとえば、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が、被害者を募っては、他教会に裁判をしかけ、他教会の運営に介入するカルト被害者救済活動をライフワークとしているのも、教会に分裂をもたらし、信徒を奪い去り、「神のものを盗む」ために行われる「簒奪の模倣」なのである。

また、杉本徳久を代表として、ペンテコステ運動をすでに出たにも関わらず、依然、村上のカルト被害者救済活動を支持することで、ペンテコステ運動の影響をひきずり続ける「信者」らが、無関係の赤の他人にまで、不当な干渉を延々と繰り返し、自分の考えを押しつけ、従わせようと試みたり、他人のブログの趣旨を歪めるために、ダミー記事を作ったり、他人の文章や写真を剽窃したりしているのも、まさに「簒奪の模倣」の霊による。

むろん、彼らが信徒らの公開されていない情報を入手しては、それを次々と暴露するような行為に及んでいることも、「自分には知ることの許されていない神の像を盗み見ることで奪い取ろうとする」グノーシス主義の「簒奪の模倣」の欲望に基づいてなされていることなのである。

これらのことは、次回以降でも詳しく論じるが、すべて聖書の「父なる神」の教えに従わず、キリストの十字架によらないのに、神に等しい存在となろうとして、真にキリストに従う信者たちから、神に属する性質を盗み取り、それによって、自分自身が「神になり代わろうとする」グノーシス主義の霊が引き起こしている現象なのである。

このように、ペンテコステ・カリスマ運動の起源は、グノーシス主義にあるため、信者はこの運動と訣別しない限り、以上のように人格を破壊されながら、支離滅裂な行動に出て、神と教会とクリスチャンに反逆する者となって行くことを避けられない。

だが、極言すれば、牧師制度そのものがグノーシス主義的起源を持つものであるから、Dr.Lukeであろうと、村上密であろうと、ゴットホルト・ベックであろうと、鵜川貴範であろうと、ベニー・ヒンであろうと、他のリーダーたちであろうと、誰であれ、自分の気に入った教師たちを立てては、そのメッセンジャーに群がろうとする信徒は、結局のところ、自分自身の欲望と霊的姦淫を重ねているだけなのである。

だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」(Ⅱテモテ4:3-5)

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